ミズチの嫁入り

灰崎千尋

上 平助とミツ

 むかし、名もない山の奥深くに、ひっそりと小さな集落があった。


 その集落は、そこに住む者の他には、長らく人目に触れてはいなかった。

 暗く険しい峠に囲まれ、そこを越えたとして広がるのは痩せた土地ばかりであった。そのため、辺りの別の集落からは口減らしのために稚児や姥が捨てられるようになり、余計に人が寄りつかない。

 しかしそのさらに奥、鬱蒼と茂る藪の先に集落は隠されていた。


 集落に一歩足を踏み入れると、その一帯だけが奇妙なほど豊かで、まるで理想郷のように見えた。畑は実り良く、田は黄金こがねに輝き、なにより美しい水に溢れていた。

 澄んだ水は集落から飢えと病を退けた。しかし外へ出ようとする者は尽く阻まれ、諦めの悪い者は殺された。

 代わりに山へ捨てられた子供のうち、五体満足であれば集落の者が拾い育て、集落へ流れる血の一つとした。


 この集落の豊かさは、ひとえに「蛇神へびがみさま」のおかげであった。


 「蛇神さま」は、いつからかこの山に住んでいた大蛇が、人の子を喰ううちにみずちとなったのだという。人の味を気に入った蛟は、あるとき飢えた集落に現れ、「ニエを差し出せばこの地を富ませてやろう」と言い、集落はやむなくそれを受け入れた。

 初めての贄をぺろりと平らげた蛟は、手始めに集落の周りを大水できれいに押し流し、その力を見せつけると共に、集落が失われたように見せかけた。そうして集落の中には豊かな水脈を繋げたのであった。

 集落の者たちは蛟をおそれ「蛇神さま」として奉るようになり、またこの秘密が漏れないように、集落を固く閉ざすことになった。




 それから幾年も流れたある日、集落のある家の屋根に一本の矢が刺さっていた。

 水鳥の矢羽根のついたそれは、蛇神さまの贄を指名するものだった。矢には布切れが括り付けられており、家主の男が震える手でそれをほどくと、獣の血で「花嫁」と書かれている。

 男はがっくりと膝を付き、両手で顔を覆った。泣くことは許されぬような気がしてしまって、声すら出なかった。男の一人娘ミツは、三日後、同じ集落の若者である平助と祝言しゅうげんをあげる予定なのである。

 やがて男は、蛇神さまの知らせをおさに伝えるため立ち上がった。手にした布切れは、前に贄となった隣家の赤子の産着であることに、男はぼんやりと思い当たった。


 その日のうちに、ミツが次の贄であることが集落中に知れ渡った。

 血が濃くなり過ぎないよう、幼いうちから縁組の相手を定めることが多い集落の中で、平助とミツは、久しぶりに恋仲から祝言に至る二人のはずであった。集落全体が盛大に祝ってやろうと浮き足立っていた矢先の知らせに、みな思わず口をつぐんだ。

 この集落に生きる者は誰でも、贄になり得た。

 蛇神さまの空腹は気まぐれで、時期も嗜好も定まらない。春に赤子を差し出させたかと思えば、冬に牛飼いの爺を喰い、五年も贄を取らないときもあれば、生娘の双子をひと月に一人ずつ喰ったこともあった。

 そんな要求にも集落の者たちが従っているのは、これまでの間に何度か大きな飢饉が国を襲ったにも関わらず、集落が飢えることは一度も無かったからだった。

 だから今度も無論、従うしかないのである。



 しかしどうにも収まらないのが、平助であった。


「なぜじゃ!なぜミツなんじゃ!」


 平助は、他の男たち数人がかりで長の家の前に組み敷かれながら、叫んだ。


「やっとミツと一緒になれるのに、なぜこんなむごいことをするんじゃ!」

「ええ加減にせんか、平助。お前の命も蛇神さまにもろうたようなもんじゃろう」


 平助はかつて、山に捨てられていた赤子だった。それを集落の、子ができず離縁された女が拾い育てたのだ。


「そんなら俺が贄になる!蛇神さまにもろうた命を蛇神さまに返すんじゃ、文句なかろう!」

「贄はミツじゃ。それは誰にも変えられん。こらえてくれ、平助」

「ここのみんなのためなんじゃ、たのむ」


 周りが口々に言うことにも首を横に振り、平助は土混じりの唾をぺっと吐き出した。


「蛇神さまは、ここを救うふりして、いたぶっとるに違いない。いつだってそうじゃ。俺たちの一番だいじなもんを差し出させる……」

「やめんか!罰当たりな!」


「そうよ、平助が蛇神さまに祟られたら、あたし嫌だもの」


 いつの間にか、平助のそばにミツがやってきていた。平助を組み伏せていた男たちはハッと息をのみ、一人また一人と、平助から手を離していった。


「まぁまぁ旦那さまったらこんなに顔を汚しちまって」


 ふふ、とおかしそうに笑いながら、ミツは自分の頭に巻いていた手ぬぐいを外すと、それで平助の顔を拭いてやった。


「あたしね、いつかこうなるんじゃないかと思うとったの。お父とお母も元気で、あにさまも家族があって、あたしのうちは幸せなことばっかりだった。そしたら、そろそろうちの番じゃろうなあって」


 ミツは少し日に焼けた手で、呆然と座り込む平助の頬にそっと触れた。


「それにほら、わざわざ蛇神さまが『花嫁』って書いとるんだもの、あたしが嫁ぐのがわかるくらい、ここのみんなをいつも見守ってくれとるってことよ。ありがたいじゃないの」


 いつの間にか平助とミツを囲むように人の輪ができていたが、顔に浮かんでいた心配や好奇は次第に畏怖に変わり、ミツに向かって手を合わせるものも少なくなかった。


「だからね、平助。あたし、平助の花嫁として、贄になるよ」


 平助はミツをぎゅうと抱き締め、一目も憚らずおいおいと泣いた。




 三日後、平助とミツは予定通りに祝言をあげた。

 それは集落をあげて盛大に執り行われ、祭らしいものもない集落が、つかの間ずいぶんと賑やかになった。人々は酒を飲み、歌い踊り、若い二人を寿いだ。ミツの両親は必死に唇を噛み締めていたが、ミツは普通の花嫁のように美しく、ころころとよく笑った。ただ一人、平助だけが能面をかぶったように表情を無くしていた。


 ありふれた夫婦めおとであれば初めてしとねを共にするはずの夜、ミツは「重たい衣裳をを脱いでくる」と言って出て行ったきり、平助のもとへ帰ってはこなかった。別れを言えば何か仕出かしてしまいそうな平助を心配したミツは、白無垢からいっとう気に入っている桜色の着物に着替えると、そっと平助の家を抜け出したのだった。


 確かな足取りで蛇神さまのもとへ歩くミツの少し後を、見張りとして長ときこりの男が追っていく。

 彼らは「贄の道」と呼ばれる曲がりくねった山道を、黙ってただ歩いていた。月も出ない夜、それぞれの持つ松明たいまつだけが頼りだった。長は、自分が長になってからもう何度も贄の見張り役として付き添っているが、その度に心が削れていくようであった。樵は仕事道具のヨキを手に、その出番の無いことを祈っていた。

 山の中は驚くほど静かであった。虫の声よりも自らの心臓の音が五月蝿いほどである。ミツは、気を抜けば恐ろしくて足がすくんでしまいそうだったが、自分の足が水車になったような気持ちで、なるべく無心で歩いていた。そうでもしないと、平助の顔が浮かんでしまう。笑った顔、怒った顔、困った顔、そして今日初めて見た、恐ろしいほど心の見えない顔……嗚呼、やはり駄目だ。平助に言って聞かせたように、予感があったのは本当で、覚悟もしていたつもりだったのに。喰われるときは、痛いのだろうか。蛇神さまは、化け物のような姿なのだろうか。喰われる前にすることがあるのだろうか。贄が戻ってきたことなどないので、何もわからない。

 やがて三人の耳に、水の流れる音が聞こえてきた。それは歩みを進めるごとに大きくなっていき、遂には獣の咆哮のようにごうごうと轟く。思わず三人ともが足を止めてしまったそこはちょうど、蛇神さまのほこらの前であった。


「わしらが行けるのはここまでじゃ。この先は蛇神さまの住まう滝の音を辿っていくといい」

「……はい。お役目、ご苦労さまでした」


 ミツはそう言うと、深々と頭を下げた。


「平助のこと、くれぐれも、よろしく頼みます」

「心得た」


 樵が答えたのを聞いたミツは、ほんの少し頬をゆるめ、もう一度お辞儀をしたあと、独り滝の方へと消えていった。



 祠から先はほとんど道らしいものはなかったが、ほどなくして開けた場所に出た。蛇神さまが住処としているという、滝である。

 松明を掲げてもなお暗く、ただ水の流れ落ちる轟音が響いている。細かな飛沫しぶきがミツの顔を濡らした。まさかここへ飛び込めというのだろうか、などとミツが考えていたところ、



 ぼこ。 ぼこり。


 ぼこ。     ばしゃり。



滝壺から得体のしれないものがぬうっと現れた。


 驚いて取り落とした松明が、水辺を照らした。


 炎が揺れる度にぬらぬらと反射するのは濡れた鱗。


 白くぼうっと浮かび上がるのは鋭く尖った牙。


 そして月が満ちるようにゆっくりと開いたのは金色の双眸そうぼうだった。






 平助は、女の着替えにかかるだろう時間を祈るような気持ちで待ってから、新しく設えたミツの部屋の戸を開けた。

 ミツはいない。

 真新しい箪笥の前に畳まれた白無垢は、ミツの抜け殻のように思えた。普段よりも白粉おしろいの匂いが濃い。ミツはいつも、タンポポのような、お天道様の匂いがしていたのに。

 平助は、細工をしておいた居間の床板を静かに剥がした。

 三日前に暴れたために、今夜は平助の家の周りに見張りが付いている。ミツを追うためには、床下を通り、家の裏手の竹林を抜けて贄の道へ行かなければならない。見張りの連中も酒を飲んでいたし、夜ならば姿を見られずに辿り着けるはずである。


「ミツはすげえなぁ。今日はいっこも泣かなかったぞ」

「二日の間に泣けるだけ泣いたのかもしれんなぁ」

「おいらぁ平助も哀れでなんねぇよ。あんなに好きあってたのによぉ」


 やや呂律の回っていない男たちの声がする。みな平助の良い友だ。自分のせいで、彼らを含めた集落を潰すことになるかもしれないが、ミツは、ミツだけは、誰にも渡すわけにはいかない。


 贄の道には首尾良く行き着いた。月のない夜が平助に味方してくれた。竹林であちこち切り傷だらけだが、ミツを取り戻すためならばどうということはない。

 贄の道へ入るにも見張りがいるかと思ったが、こんな日は寄り付きたくないのか、人の姿はなかった。平助はぐっと腹に力を入れて、静かに駆け出した。


 なるべく音を立てず、しかし懸命に走った結果、かなり先ではあるが、頼りない灯りが三つ揺れるのを見つけた。それをまた追いかけると、今度は三人分の足音が、やがて水の音が聞こえてくる。

 そうしてやっとのことで灯りのそばまで追いついた。ようく目を凝らすと、粗末な祠の前に、見張り役の二人が立っている。


「……もう終わったじゃろうか」

「どうかの。いつも悲鳴の一つも聞こえん。それでも朝まで待つのが慣わしじゃ」


 平助は目の奥がカッと熱くなり、二人の前に躍り出た。どのみち行く手を塞がれているのだ、堂々と出て行ってやる。


「平助、お前……!」

「ミツは」


 うろたえる長に、平助は仁王立ちで問うた。眉を下げ首を横に振る長の隣で、樵は静かに斧を構えた。


「無駄じゃ。ミツはもう覚悟を決めとる。どうか堪忍してくれ」


「俺はもうずっと我慢してきた。山を降りることもせんかった、負わされた田畑を世話した、贄から逃げようとしたもんの脚を折った、育ての母を贄に差し出した。それも全部、ミツと一緒になるためじゃ。集落のためなんぞじゃない。今ミツを奪われるくらいなら、捨て子のまま死なせてくれりゃあよかった!」


「……やめろ平助。わしはお前を殺しとうない」


 それまで黙っていた樵がそう言うのを聞いて、平助は鼻で笑った。


「そう言いながら何人殺した? 何人丸太にした、なぁ? こんな血なまぐさいムラなんぞ、流されちまえばいい!」

 

 それを聞いた樵は、平助に向かって大きく斧を振りかぶった。びゅうっと刃は空を切り、平助の首元をかすめた。咄嗟に一歩下がっていなければ血が噴き出していたことだろう。しかし平助とて、覚悟なしにここまで来たわけではない。懐から鎌を取り出し、樵に向かっておどりかかった。樵はそれをしゃがみこんで避けると、斧で平助のけんを切りつけた。避けきれない。

 ぐうぅ、と平助はうめき声を漏らした。左足はもう使い物にならない。骨までやられただろうか、どくどくと脈打つ度に血が流れ出ていくのがわかる。痛いというよりは燃えるように熱い。それでも平助は鎌をぶん回した。その勢いで樵を押し倒すように倒れ込んだ。樵の手から斧が滑り落ちた。平助は樵の首をかき切ってやろうとしたが、鎌を持つ腕を掴まれたままごろりと身を翻され、樵が平助に覆いかぶさった。


「もう諦めてくれ」


 ぐぐぐ、と鎌の先が平助の目玉に近づいてくる。平助は必死に押し返そうとするが、震える刃先がゆっくりと平助の目玉を刺した。


 ぎゃああああ、と叫んだ声は集落にも届いたろうか。樵は念入りに平助の両のまなこを潰してやった。平助はだらだらと血の流れる眼窩がんかを両手で押さえ、のたうち回った。哀れな平助にいよいよ引導を渡してやろうと、改めて樵が斧を振り上げたそのとき、身の毛がよだつような恐ろしい声が響いた。

 それは絹を裂くような高い悲鳴と、地の底を揺らすような低いうめきとが折り重なって、脳髄を引っ掻きまわすようだった。

 祠の陰に隠れて震えていたおさと、平助のことなどもう眼中にない樵は、真っ青な顔を見合わせると、一目散に集落へと駆け下りていった。


 後に残されたのは、自らの血溜まりの中をころげる平助だけであった。


「ミツ……ミツやぁい……」


 平助はあてもなく両手をのばして這いずった。もはや何もかも届かない。介錯をしてくれる者もない。まっくら。まっくらだ。

 だがそのとき、ふいに懐かしい匂いがした。血の匂いに混じって、平助には間違えようのない、お天道様のようなあたたかな匂い。


「平助……?」


「ミツ、お前、生きとったか……!」


 闇雲に伸ばした手を、少しひんやりした、しかしやわらかい手が包んだ。ミツの手だ。


「へ、蛇神さまはどうしたんじゃ」


 平助が尋ねると、少し間があって、困ったようにミツの声が答えた。


「あたし、贄になるために滝まで行ったんだけど、なんだか祠の方が騒がしくなったと思ったら、ものすごい声がして、何かが滝壺から飛び出していったんよ。あれが蛇神様だったんかなぁ」

「そうか、そうか……俺がしたことは無駄じゃあなかったんじゃな……」


 平助は見えないまなこから、まるで血を洗うように涙を流した。


「ありがとうね、平助。あたしのために頑張ってくれて」


 ミツのやわらかい声が平助の中をいっぱいに満たした。これでもう死んでもいいような気がした。


「ミツ、お前は逃げろ。俺はもうこんなになっちまって、これ以上お前の役には立てんから」


 うーん、とミツは考え込むように唸った。


「蛇神さまは行ってしまったみたいだし、集落に戻らんかったらええんじゃないかな……そうだ、滝壺の奥に洞窟があったんよ、とりあえず隠れよう。ほら、あたしにおぶさって」


 そう言うと、ミツはひょい、と平助の肩を担いでやった。


「でも、もう俺は死んじまうと思うから……」

「大丈夫よ、蛇神さまの住処なんじゃろう。きっと傷の治りも早いはずよ」


 ぐちぐちと平助が言うのも構わず、ミツは平助を滝壺まで連れて行ってしまった。




「ミツ、お前ずいぶんと力持ちだったんじゃなあ」

「毎日畑仕事しとったんだもの。これくらい平気よ」


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