第32話 見上げる空は満天で
雫くんが病院に忍び込んでから一週間近く経った。あれからどうなったのだろうか。あの日彼は何か私に言おうとしていた。しかしタイミング悪く、それは聞くことができなかった。それが少し気がかりだ。あの日の雫くんはいつもと違っていた。普段は自分の意見を発することなく、周りに身を委ねているようだった。勿論、記憶がないせいもあるだろうが、人間の本質は変わらない。元からああいう性格なのだろう。人の顔色をうかがい、何かを諦めてしまったような様子だった。でもあの日だけは自分の思いだけで行動しているようだった。周りの目なんか気にせずに。目の奥が輝いているようだった。だからあの日は思わず助けてしまったのだ。理由なんか聞きもせずに。
だからこそ早くて会って聞きたい。そして言いたい。自分の心のままに生きていいんだと。全て終わったら話に来てくれると言っていた。それなのに未だに会っていない。無事ならいいのだけど。最後に見た雫くんの姿を思い浮かべる。どこか生き急いでいるかのようにも見えた。一瞬だけ悪い予感が頭をよぎった。雫くんに限ってそんなことはないだろう。大丈夫だ。
そんなことを考えていた時、急患が入った。身元不明の遺体が裏の山で四体も見つかったらしい。事故ではないようだ。自殺か他殺のどちらかだろう。遺体もすぐに発見されたらしく、腐敗は進んでいない。今日はオペが続いており、人があまりいないの。私は急いで駆けつける。
次々とストレッチャーで運ばれた遺体を見て驚く。四体続くストレッチャーの三体目。そこにいたのは一緒に笑い合ったあの雫くんだった。そして見覚えのあるあの夫婦は雫くんの両親だ。ということはあの女の子は妹なのか?いや、でも妹がいるなんて話聞いたことがない。雫くんもお母さんからも。
「どういうこと……」動かなきゃいけないのに時間が止まってしまったようだ。視線の先に春田さんがいた。春田さんも驚いたように立ち止まる。私は雫くんに駆け寄った。
「雫くん!雫くん!どうして……」涙が溢れ出す。冷たく冷え切った彼の手を握る。優しく笑ってくれたあの顔を撫でる。そのまま泣き崩れた。
そこからのことはあまり覚えていない。目が覚めたら仮眠室のベッドで寝ていた。使い物にならない私は、今日はもう帰っていいと言われてしまった。ただ私はここから動くことが出来ず、誰かに運ばれて仮眠室で休んでいた。誰もいない部屋で一人ただぼうっとする。何も手につかないし、何もやる気が起きない。立ち上がることすらもできなかった。
あんなにも優しくて明るかった雫くんはどうして死んでしまったのだろうか。その謎は私には解けなかった。もしあの時、雫くんの言葉を最後まで聞いていたら何か変わっただろうか。もっと早く話していたら雫くんは死ななくてよかったのかもしれない。
そこから私は溜まっていた有給を使って仕事を休んだ。家に閉じこもっているとニュースで雫くんのことをやっていた。それでも今はこの現実を受け入れたくない。テレビの電源を落とした。
有給が空けて病院に戻ると、春田さんは辞めていた。やりたいことがあると、雫くんが運ばれたその日の内に辞めてしまったそうだ。あの日、雫くんを見て固まる春田さんの姿を思い浮かべる。
そこから私は仕事に明け暮れた。そうしていないとまともじゃいられない気がしたから。後から聞いた話だが、あの女の子は雫くんの妹だったらしい。雫くんの家は一見幸せそうに見えて色々複雑だったそうだ。実の娘を庭の物置にずっと閉じ込めていた。いわゆるネグレクトだそうだ。お父さんが弁護士でDV被害撲滅など様々な活動をしていたため、マスコミは余計に囃し立てた。彼が入院していたことを知ったマスコミが病院に何度か押し掛けていた。先生達がマスコミを追い払い、私達看護師にもこのことを公言しないようきつく言われた。それでも院内には嫌な噂が流れた。少しだが雫くんと関わってきた私にはその噂は信じられなかった。
段々と仕事に身が入るようになった。看護師の仲間や患者さんが私を励まし、支えてくれた。少しずつ笑顔を取り戻して働けるようになった。心にわだかまりが残るが何とかやっていける。そうやって前を向いた。
しばらくして私宛に一通の手紙が届いた。差出人も書いていない。しかも病院に届いたのだ。きっと退院した患者さんの誰かだろう。封を切ると一枚のポストカードが入っていた。満天の星空の写真だった。裏面をめくるとたった一言"あなたのせいじゃない、上を向いて"そう書いてあった。なぜだろう、その言葉が胸に深く刺さった。ずっとその言葉を求めていたのかもしれない。心が軽くなると同時に涙が溢れた。つっかえが取れて溢れ出した。私はもう大丈夫。ちゃんと笑える。
あれから一年が経った。この日本当は一日休みにしたかったが、そう上手くはいかなかった。
仕事が終わるのが夕方過ぎなので間に合わないだろうと、お昼休憩の内に病院を抜け出して花屋に行った。色んな花があった。季節的なものかお供え用のしっかりした花も豊富だった。それに手を伸ばそうとして辞めた。その横にあるものに強く惹かれてしまった。こんな暗いものよりこっちの方がいいだろう。定員さんに声を掛けて包んでもらった。
夕方に緊急オペが入り、終わるのが予定より遅くなってしまった。お昼のうちにこれを買っといてよかった。買った花束を手に病院を後にする。
今日はいつもよりちゃんとした格好をした。と言っても薄い黄色のワンピースに低めのヒールが付いたサンダル、籠のバックとお揃いのカンカン帽だ。化粧はいつもと変わらず薄いが、リップだけは塗り直した。同じタイミングで上がった仲間にはデートだなんだと囃し立てられるくらいにはオシャレをした。別にここまでする必要はないのだろう。それでもこれが私なりのけじめだ。ここまで来るのは短いようでとても長かった。肩まで伸びた髪が時間の経過を知らせる。
生暖かい風が私を包み込む。虫の鳴き声が余計に暑さを知らせる。森に入ると少しばかり風が心地よかった。月明かりに照らされながら丘の頂上を目指す。前髪が汗で貼りつく。突然視界が開けた。ここが雫くん達が居たと言われている頂上だろう。彼らはどの辺にいたのか。そう迷ったが、それは予想外にもすぐに解決することになった。
何もない開けた場所に一箇所だけ何かが置かれている。驚いて慎重に近づいてみると、そこには一冊の本が置かれていた。手に取ってよく観ると、星空の写真集だった。パラパラとめくると、どのページにも様々な星空が一面に広がっていた。表紙には輝く星が四つ対角上に並び、その真ん中にTIBI DEDICOと書いてあった。どういう意味だろうか。英語ではない気がする。フランス語、ドイツ語、スペイン語……。そこまでの知識は私になかった。
しばらく考えて、カバンからスマホを取り出す。"あなたに捧ぐ"ラテン語でそんな意味だった。中身をよく観察する。
色々な土地で撮られたであろう星達の写真。一番最後のページだけ様子が違う。このページ以外は一面に星空が広がっている。なのにここだけは星に焦点が合っていない。星を見上げる子供に焦点を当てている。兄妹だろうか。二人が山の頂上のような場所で手を繋ぎ、星を見上げている。その二人の先には満天の星空が見える。一瞬だけ雫くんの姿が重なった。
「雫くん、元気?」思わず溢れ落ちた言葉は星空に吸い込まれた。
誰が置いたのか、はたまた忘れていったのか私にはわからない。だけどこれは雫くん宛に置いてあるような気がした。本を元の位置に戻す。その横に持ってきた花束を置いた。黄色とオレンジのひまわりを七本。その横に腰掛ける。あっという間だったけど、雫くんと出会えてよかった。君と過ごした時間を忘れないよ。ひまわりと共に空を仰いだ。夜空に星が輝く。
満天の星空に包まれる。
ーfinー
繋ぐ右手と 小鞠 @bbc1207
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