太陽の夏休み

佐想のどか

太陽の夏休み

  水分を多く含んだ空気は、ねっとりと私の体に纏わりついて離してくれない。

 パラパラと控えめに降る雨に傘を差し、濡れた前髪をひと撫でして整える。

 こいつを濡らした原因は、汗なのか雨水なのか分からない。まぁ、そんなのどっちでもいいや、と考えることすら億劫になるこの暑さ。

 夏休み中、私の肌を焦がしてくれた太陽はどこにも見当たらない。台風やら何やらでしばらく雨が続いているのだ。天気に気分を左右されるほど繊細な人間ではないはずだが、太陽が出ていた方がまだマシかもしれない。

 梅雨を思い出すような湿気の中に、何の意味も含まないため息を混ぜながら進む。

 本当はこのため息に理由を、意味を込めてみたいものだ。

 平山高校一年一組。陸上部所属の野口遥香のぐちはるか。自己紹介で説明できるとしたらこれくらい。つまり、ごく普通の女子高校生。ため息の理由になる悩みなんて特になかった。

 雨が少しずつ強くなってきたのが傘を通じて私に伝わる。先ほど出発した校舎からだいぶ遠ざかり、学生の話し声は聞こえなくなってきた。傘に当たる雨音は大きくなるわけで、まるでただ一人、違う世界を歩いているような気さえした。



 ふと、誰かの歌声が聞こえた。

 灰色を塗りたくった空のせいで、どこもかしこも灰色になった世界。そんな世界に似つかない歌声に、水溜まりを避けるために下になっていた目線を向ける。

 流れる黒髪。スカートから伸びる長い脚。鞄についた、ウサギのストラップ。

上坂かみさか先輩……」

 心の中に留めたはずの呟きは、音を伴って口から滑り出た。その音が先輩に伝わってしまったのだろう。ゆっくりと黒髪を揺らしながら振り返った。

 上坂葵かみさかあおい先輩。同じ陸上部に所属する、一つ学年が上の先輩。

 誰もが目を奪われる美しい容姿。透き通るような声。陸上の大会でも素晴らしい成績を残し続けている。勉強もできるらしく、みんなの憧れの対象だ。

 もちろん私も例外ではない。気付けば目で追ってしまう、なんてよくあることだ。私の目に映る先輩は、誰よりも輝いていている。

 しかし、どうしよう。声をかけたつもりはないが、結果的にそのような状況になってしまった。

 実は私、先輩に声をかけたことがない。会話なんてもっての外だ。いつも友人に囲まれて楽しそうに笑う先輩。そこに近付ける気がしない。

 そもそも私と先輩の接点は、陸上部に所属していることだけ。その陸上部だってなかなかの強豪で人数も多い。しがない部員の私なんて気にも留めないだろう。

 半ば泣きそうな気持ちで傘の柄を握りしめる。

 振り向かせてしまった手前、私が話をしなければならない。もういい、どうにでもなれ――

「野口遥香ちゃん、だよね?」

 とりあえず『お疲れ様です』と言おうと息を吸い込んだが、違う形で吐き出されることになる。

「えっ……」

「あれっ。違った? いや、でもそんなはずないんだけど……」

「あぁ、いや、違うんです。野口遥香で合ってます」

「だよねぇ! よかった!」

 ――私の名前を覚えてくれている。

 それだけで胸が高鳴るのに、眩しい笑顔を向けられたのだから、息が止まってしまいそうだ。いつものあの笑顔が、今は、今だけは、私だけに向いている。

 灰色だった世界は、一瞬で色付く。歌いながら歩いていた先輩から見える世界も、こんな感じだったのだろうか。

「おーい。遥香ちゃん」

「うぇぁっ」

「ふふふ、なにそれ」

 頭の中が文字通りお花畑になっていた私にずい、と近付き笑う先輩。

 意外と背が小さい、とかシャンプーの匂いがすごく良い、なんて思っている余裕はない。

 こんな近い距離に先輩がいる。なんというか、もう、情報量が多すぎて処理できない。

 大きく脈打つ心臓をなんとか落ち着かせようとしていると、先輩は突然背を向け、雨の様子を確認することなく傘を閉じた。

 気が付けば雲は薄くなって晴れ間は見えてきたが、しっかり雨は降っている。

「ちょっ、先輩! 何やってるんですか! まだ雨降ってますよ?」

 先輩の行動はなかなか先が読めない。だからといってこの雨の中、傘を閉じだす人がいるだろうか。

「もうすぐ大会もあるんだから風邪引いたら大変ですよ!」

「大丈夫、大丈夫。だってほら見て。虹がかかってる」

 先輩の指先につられて空を見上げると、確かに虹が見えた。話している間にも雲は消えていったのだろうか、雨と共に日差しが降り注いでいる。

 久々に見る虹にしばらく見入ってしまった。そんな私を置いて先輩は虹の下、水溜まりが反射する大地の上、笑いながら歌いながらステップを踏んでいる。

 虹なんかよりずっと美しい光景に、すぐに目を奪われる。天気雨ってなぜ起こるんだっけ、なんてくだらない思考も溶けていく。

「遥香ちゃんもおいでよ。すっごく楽しいよ」

 とっくにずぶ濡れになった先輩が私に向かって手を伸ばす。

 私は先輩みたいに輝くことができない、つまらない人間だ。変わりたいと思っても行動できたためしなんてないのだから。

 でも何故だろう。この手を取れば、違う世界が見えるような気がする。少しは憧れの先輩に近付けるような気がする。

 一度引っ込めた手を、先輩に向かって伸ばす。先輩が引っ張った勢いで、私の傘と鞄が滑り落ちる。

 手を取られた瞬間、心を曇らせていた雨は、幸せの滴となって全身を満たす。太陽の光も、雨粒も、生い茂る夏草だって。何もかもが煌めいて世界を創り変えていく。

 手に触れる温度が、世界の全てに命を吹き込んだようだった。

 ――どれもこれも、先輩と一緒だからだろうか。

 繋いだ手を離すことなく、先輩の軽やかな動きに身を任せていた。滑らかに動いていたつもりだが、実際はロボットよりも硬い動きだったかもしれない。

 でも、そんなことは気にしない。

 だって、今は二人きりなんだから。

 どれくらいそうしていただろうか。先輩はニコニコしながら、私は見とれながら、二人で踊り続けていた。

「はーるかちゃん」

「わっ、は、はい!」

 突然名前を呼ばれ、先輩の手が離れる。離れたぬくもりに寂しさを感じる暇もないうちに、少し乱暴に肩を抱かれた。

 先輩の左手に私。右手にはいつの間にかスマートフォンが握られ、パシャリ、と小気味良い音が鳴った。

「写真、ですか?」

「うん。見て見て。いい感じに撮れたね」

 画面に表示されたのは、思いっきり笑顔の先輩と、驚きで少し口が開いた私。

「先輩は綺麗に写ってますけど、私かなりアホ面してますね」

「そんなことないよ。可愛いじゃん」

 さすが人付き合いが上手い先輩。お世辞も上手だな――

「遥香ちゃん、人に合わせて無理に表情を作るときがあるから、こっちの方がいいよ。活きがいいと言うか、動きがあると言うか」

 ……違う。最初はお世辞かもしれないけど、普通の人はその後の言葉は続けられないはずだ。

 確かに、人に合わせるために本心とは反対のことを言ったりすることがある。別に複雑な事情はない。単に世渡り上手になりたいだけだ。

 それが毎日行われるわけでもないし、ましてや学年も違うわけで、気付くのは相当難しいだろう。

 先輩は本当によく人を見ている。

「やっぱり、そう見えちゃいますか」

 この人には敵わない。才色兼備の女子高生かと思ったら、突飛な行動の常習犯。広く深く人を見ていて、核心に迫る。

 憧れているなんて、笑われてしまう。それでも、どこか清々しかった。

 もちろん先輩と私は違う人間で、いくら憧れたって真似したって、私は上坂葵になれない。それと同時に、先輩が野口遥香になれるわけでもない。

 それは私に、誰も持っていない何かがあるから。そんな分かりきったことを教えてくれたような気がした。

「写真送るから、連絡先交換しよう」

 熱くなった顔をあげると、トークアプリを開いて準備万端、というような表情の先輩。

 高校に進学してから買ってもらった比較的新しいスマートフォンを取り出し、トークアプリを開く。この動作にもだいぶ慣れたものだ。

 ほどなくして私の端末に先輩の連絡先が追加された。可愛らしいウサギのアイコンは、鞄についているストラップと同じキャラクターだろうか。

 好きな女子の連絡先を手に入れた男子のような考え方に、我ながら若干気持ち悪さを覚えた。

「はい、送ったよ」

 声と同時に写真を受信する。いよいよ口角が上がるのを隠しきれなくなりそうだ。

「ありがとうございます……」

 送られてきた写真を見つめる。

 顔の形がいびつなのは、残念ながら仕方ない。表情はいびつじゃないんだから許そう。

 緩んだ考えと表情筋は、突然の「うわああああ」という先輩の叫び声で元に戻る。あまりにも突然で驚いた。

「やばい、今日バイトが入ってるんだよ。ちょ、ごめん、帰る!」

 先輩のバイト先がどこなのかは知らないが、こんなずぶ濡れで大丈夫なのだろうか。

 言いたいことは山ほどあったが、先輩のスピードには隙がなかった。

「それじゃあ、またね!」

 気前良く片手をあげた姿に別れを告げられる。

 先輩が去って行けば、今日のことは全部幻になってしまいそうだった。

 誰も知ることのない、二人だけの時間。

 少なくとも私は、幻なんかにしたくなかった。

「上坂先輩!」

 精一杯声を張り上げて呼び止める。先輩が振り返る姿を見るのは本日二回目だ。

 いつの間にか雨は止んでいて、代わりに斜陽を浴びていた。

「ありがとうございますっ」

 これ以上先輩を止めるわけにもいかない。私は全ての気持ちを――全て、と言っても自分でも分かり切れないけれど――ありがとうに込めることにした。

 先輩は何も言わず、笑顔で応えてくれた。

 それが何よりも嬉しかった。



「しかしどうやって帰るかなぁ……」

 小さくなっていく先輩の背中を見つめながら一人呟く。

 いや、そんなこと言ったって歩いて帰るしかないのだけれど。この時間なら、母親はもう家に帰っているだろう。

 帰宅後のお説教は少し面倒だが、自分の足取りが軽やかなのを感じる。

 張り付くシャツも前髪も、もう不快だとは思わなかった。

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太陽の夏休み 佐想のどか @saso_nodoka

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