車止めのオッサン

ドント in カクヨム

車止めのオッサン

「ちょっと、おじさん」俺はオッサンに声をかけた。「大丈夫? そんなところにしゃがんで……」

 都心の駅前の、広場から歩道へと出る境目だった。車止めが並んでいる間に、スーツ姿のオッサンがしゃがんでいたのである。

 車止めは石でできている円柱形のもので、真ん中にぽっかり穴が開いて向こうが透かして見えるようになっている。それがずらり等間隔に並んでいた。その並びに不自然にスキマがあって、そこにオッサンはしゃがんでいるのだった。

 オッサンは膝を抱えて、首も身体も丸めて、さも自分は車止めだよ、はい車止めでございます、みたいな様子だった。顔は見えなかったが頭髪が薄く、脇に残った髪が油じみていたのでオッサンだとわかったのである。駅の近くでギラギラ光る巨大液晶に照らされた紺色のスーツがだいぶくたびれて見えた。

 よく考えれば気味の悪い状況だ。普段ならこんな不審者に話しかけたりしない。だが俺は飲んだ帰りで、酔った勢いもあった。オッサンに目もくれない都会の人間の無関心ぶりも気に入らなかった。それにこんな場所で丸まっているからには、おそらくこのオッサン、仕事でつらい目に遭ったのだろう。いやこの不景気だ、仕事を失ったのかもしれない。駅まで着いたはいいが気落ちして歩けなくなっているのではなかろうか。俺も最近、労働がことにしんどくなりつつあった。辞めたいとすら思っていたのだ。つまるところ、シンパシーというやつが沸き上がったのだろう。 

 オッサンは俺が声をかけても動かなかった。びくともしなかった。「あのう……」と再び声をかけても微動だにしない。まるで石のように。駅前に置いてある車止めのように。

 もしかしたらこれは酒を飲み過ぎた俺の幻覚なのかもしれないと思った。あるいは妖怪の類いかもしれぬ。鞄からペットボトルのお茶を出してひと口飲み、顔をごしごしこすってからそこを見た。

 やはりオッサンがそこにしゃがんでいた。

 幻覚などではない。ただ、妖怪の可能性はまだ残る。「妖怪・車止めおじさん」……あるいは「妖怪・駅前しゃがみおじさん」……そんな妖怪はいないと思うのだが…………

 俺が視線をそらさずじっとオッサンの姿を見ていると、そのうちに丸めた首がゆるゆると動き出した。オッサンは首を上げて、俺の顔を見た。

「…………なんだい、あんた、私の姿が見えるのかい?」

 オッサンはそう言った。

 これが背中に羽根のある妖精や宙に浮かぶ天使だったなら東京を舞台にしたファンタジーアドベンチャーがはじまるところだろうが、相手はくたびれたスーツ姿の中年のオッサンである。五十絡みで肌も荒れている。ファンタジーもアドベンチャーもはじまらないだろう。

 とは思ったものの俺は「あの……大丈夫ですか……?」と繰り返した。

 オッサンはそれに答えず、そうか、見えるのか、見えるんだねぇあんた、まだ若いのに……などと、なんだか妙に嬉しそうに言うのだった。

 それから俺に向かって、しゃがんだままこう尋ねた。

「あんた、右の車止めはどう見える?」

「右? 右ですか」

「あんたから見て右だね」

「……普通の、石の車止めですが……穴が開いてて……上に座れそうな……」

「左は?」

「……同じく……」

 オッサンはそうか、とニコニコするのだった。

「あんた、私がなんでこんなところにしゃがんでいるか、知りたいかい」

 単刀直入な質問にたじろいでしばらく迷ったが、「えぇ、知りたいですね」と答えた。

「じゃあこっちの車止めに座んなさい。そんなに長い話にはならないし、私やあんたの姿に目を止める都会の人間なんていやしないからね……」

 オッサンの言葉に頷いて、俺は右側の車止めに座った。オッサンはしゃがんで膝を抱えた姿のままで、語りはじめた。



「もう何年前になるかなぁ。会社でとんでもない失敗をしでかしてね」

 オッサンはひどく遠い目をした。

「それまで進めていたデカい企画や大きな契約が全部パーになるようなとんでもないやらかしだった。今になっても、詳しいことは話したくないくらいの大失敗さ。

 上から下から横から、会社の全方位から突き上げられて一日が終わってね。私は落ち込みに落ち込んでこの駅前に来たんだ。

 駅を出て、広場を歩いた。若い人たちがはつらつと歩いている。私みたいな中年もキビキビ歩いている。みんな元気で幸せそうに見えたよ。

 そんな人々の行き交う中をとぼとぼ歩いていたら、心底自分が情けなくなってきてね。足に力が入らなくなったんだ。もう精神的に限界だったんだろう。

 当時この場所には、こんなにたくさんの車止めはなくてね。私はちょうどここに、しゃがみこんだんだ。

 駅前の喧騒が耳に刺さるので、私は耳をふさいで首を丸めて、ほら、アルマジロっているだろう、あれみたいになった。自分の心身を守りたかったんだろうなぁ。

 もう嫌だ、と思ったね。人生なんてまっぴらだ。この世から消えてしまいたい。だけど死ぬのも嫌だった。

 私は独身で、恋人もいなかった。このまま電車に飛び乗ってどこか遠くへ逃げようかとも思った。だが逃げた先で生きていけるアテもないと気づいた。

 あぁもう、この世から消えないままに消えてしまいたい。そんな矛盾した気持ちにとらわれた。

 そうしてしゃがんでいたら、だよ……

 私の背中の上に、誰かがいきなり座るじゃあないか。

 驚いたが何故か立ち上がらずに目だけを動かした。若い女の子が、私の背中に座っているじゃあないか。前に立っている友達らしき女の子としきりにぺちゃくちゃ喋っている。中年の男に座っている、といった様子はない……

 気づけばしゃがんだまま、足も腕も膝も、身体全体が動かせなくなっていた。動かせるのは目と首だけだ。

 まず病気を疑ったね。心因性の病気だ。しかしそれでは、この女の子の態度の説明がつかない。まるでモノにでも座るように、私の丸めた背中に座っているんだ。

 ふと隣を見た。そこには車止めがあった。君がさっき言った、縫い針の尻みたいに穴が空いてる、君が腰かけてるその車止めだね。

 そこで私は、ああそうか、と気づいたんだよ。

 私は、車止めになったんだとね。

 …………いやいや、君が笑うのも無理はない。バカバカしいと思うのもわかる。

 だが君、考えてもみたまえ。首から下の身体は固まったように動かない。首から上だってろくに動かせない。そんな男の背に、かまうことなく女の子が座っている……

 そういう不思議な現象が起きたとしか考えようがないじゃあないか。

 女の子が立ち上がってどこかに去ると、次は不良みたいな格好をした男がやってきて私に座った。たまに座り直したり、足を私の後頭部に乗っけて靴紐を直したりした。

 これはいよいよ本当に、私は車止めになったんだと確信した」


「おなかは空かなかったんですか」俺は話の腰を折って質問した。「それに、トイレの問題もありますし……」


「それがね、おなかはまるで空かないし、トイレにも行かなくてよくなったんだよ。食欲も便意も、それどころか性欲や睡眠欲や、そういったものもかき消えてしまったんだ」

「足腰は……痛くないんですか? ずっとしゃがんでいて?」 

「私は車止めになった、と言ったろう?」オッサンは微笑した。

「もっとも、酔った学生が私のそばで吐いたり、悪そうな輩が腹立ちまぎれか私を蹴ったりすることもある。そういう時は心にさざなみが立ったりもするよ」

「…………にわかには信じられない話です…………」

 俺は言った。半信半疑だった。常識的に考えれば、この変なオッサンに担がれているというのが自然な結論だ。

 だがこのオッサンの顔には、どこか人間社会を超越した雰囲気が漂っていた。頭が薄く、顔つきも貧しくて、スーツもぐったりしている。容姿としては中年男性でしかない。

 ただ目が、普通のオッサンとは違って見えた。社会に揉まれて濁ってもいず、かと言って狂った人のように透き通りすぎてもいない。聖と俗のちょうど真ん中で、この世の全てを見通しているかのような瞳だった。仙人の目とはこういう感じなのかもしれない、と俺は思った。

「それはそうだろうね」とオッサンは言った。

「私だって今でも、これは夢なんじゃないかと思ってる。でも幸せな夢だ。波乱万丈からは一番遠い、平坦で、静かで、一つの物体として街を眺めているだけの夢だなんてね」

「…………そうかもしれませんね」 

 口からポロリと転がり出た言葉に、当の俺が一番驚いた。まさか。人の生を投げ出して、車止めなんかになることのどこが幸せなんだ。人生には嬉しいことや楽しいことがたくさんあるはずだ、そう、そのはずなのだ…………

 俺が自分にそう言い聞かせている間も、オッサンの言葉は続いていた。

「しかしねあんた、もしかしたら私は、一人じゃないかもしれないとたまに思うんだよ」

 ひとりじゃない?

「それって、どういう意味ですか?」

「そう、つまりそれは、」



「大丈夫ですかー?」



 背後から声をかけられて、俺はビクッと身体を震わせた。

 振り向くと、駅のすぐそばにある交番の警官が二人、立っている。

「どうされましたー? ずっとここに座られてますけどー? 具合でも悪いですかー?」

 礼儀正しさを装いつつも圧迫感をにじませる例の口調で、年嵩の警官が聞いてくる。若い方は後ろで警棒に手を軽くかけている。

 俺の酔いは一気にさめた。

「あ、いいえ。僕、この人と話をしてたんです」

「どの人ですかー?」

「どの人って、この…………」

 俺は隣を見た。

 そこには、石の車止めが設置してあるだけだった。

 オッサンの姿はどこにもなかったし、オッサンがしゃがめるようなスペースもなかった。

「どの人ですかー?」

 警官が繰り返す。俺はあぁ、いや、ちょっと酔っぱらっちゃったみたいで、と立ち上がった。

 向こうはしょっぴいて薬物検査でもしたがっている様子だったが、俺が「職務質問でしょうか?」と先手をとって鞄を開いて見せたり、しっかりした受け答えをしてやったことで納得したらしかった。

 警官が去った後、俺はオッサンがしゃがんでいた場所にある車止めに目をやった。

 本当に、あんたなのかい?

 俺は口に出さずにそう尋ねた。 

 車止めは何も話さなかった。




 それから数ヵ月、俺の仕事は激務に激務の連続となった。仕事そのものだけではない。人間関係、根回し、同僚や後輩、上司に心を削られ続けた。

 年寄りばかりの上層部に「そのソフトは必要なの?」「電卓があるじゃないの」「エクセルなんてのだって怪しいのに、そんな新しいものを導入して得なんかないだろう」「最後は手作業だよ手作業」とIT導入をつっぱねられ続けた。俺は仕事を効率的に、かつ楽にしようと思って言っていたのだが。

 しまいには直属の上司から「君さぁ、ズルしちゃいけないよ」と言われた。

「パソコンとかスマホとかね、新しい技術なんてのは結局ズルなんだよ。手抜きしようとしてるだけ。今も昔も足と手を使うのだけが正道。いつだって心の時代だよ、心の。君にはあれだね、心がないね!」



 …………会社のためを思って様々な提案をし、ゆるやかな改革案を出してきたのに、「心がない」と言われたのだった。

 仕事は夜中までかかり、俺はそれこそ心を抜かれたように会社を出た。 

 電車の中で吊り革を掴みながら、顔の筋肉が死んだように垂れ下がっているのを感じた。

 精神へのダメージが身体の隅々まで満ちて、俺は吊り革を持つ力すらなくしそうだった。



 どうにか駅まで着き、出口から外へ出た。

 夜のネオンが目にまぶしく、喧騒が心の柔らかい部分を削るようだった。

 しばらく歩いていると、めまいがした。

 俺はそばの花壇に手をついて、しゃがみこんだ。 

 苦しく悲しくつらかったが、涙は出なかった。そういうものはとっくに枯れてしまったらしかった。

 俺は隣を見た。少し離れた場所にあの、車止めが並んでいた。オッサンは確か、あれの右から二番目だったはずだ。

 今ならあのオッサンの言うことが、腹の底からわかる気がした。絶望とも哀愁とも違う虚無感が胸に風穴を開けていた。

 俺はオッサンの言葉を思い出していた。

 この世から消えないままに消えてしまいたい──

 俺は鞄を胸に抱えて、その場にしゃがんでみた。街に響くコマーシャルや若者たちの会話も聞きたくなくて、俺は耳をふさいだ。目もぎゅっと閉じた。

 するとようやく、ささくれ立った心が凪いでいくような気がした。



 どれくらいしゃがんでいただろう。「よっ、と」という声と共に、背中に誰かが座った。感触だけがあり、重さはなかった。

 目をやれば、キャリーバッグを引いたおばあさんである。

「ハーァ、都会はすごいねぇ……」と呟いてから、スマホを取り出してどこかに電話をかけはじめた。

 おばあさんすいません、と言おうとしたが声が出なかった。それどころではない。身体が動かない。首がほんの少しと、目が動くだけだった。

 おばあさんは人間に座っているだなんて様子は欠片も見せずに通話している。孫と待ち合わせしているらしい。

 周囲に目をやっても、通りすぎる人波の中に「老婆が青年の背中に座っている」という異常な状況に不審の目を向けたり、眉をしかめたりする者は一人もいなかった。

 あのオッサンの言った通りだった。

 俺も、この街の一部になってしまったに違いなかった。おそらく、新しい車止めに──


 歯を食い縛って力を込めれば、まだ動けるような気がした。しかしその行動は思いとどまった。

 あの会社に、あの職場に戻って、一体どうなるだろう? 何かいいことがあるだろうか?

 心も身体もすり減らし、帰りに酒を飲み、ふらふらとアパートに戻って眠る。朝起きて、重い身体をひきずり、会社へ行く。なんのいいこともない会社へ。心も身体もすり減らし、帰りに酒を飲み……

 その繰り返しだ。

「まーぁ本当によぅ! バーチャンはじめて来たけど、東京ってのはすごいとこだねぇ! 人、人、人でビックリするだよ!」

 俺の目の前で、おばあさんの足がゆらゆら動いている。老いて萎びた足だったが、動きは少女のような初々しさと楽しい気持ちに満ちていた。

「ここにいると怖いからよう! ケイちゃん早く迎えに来て! まぁもう人ばっかりで、バーチャンめまいがしちゃうよ!」

 …………いきなり動いて、この素朴なおばあさんを背中から振り落とすことはできないな。俺はそう思った。



 それから幾時間かが経ち、何人かが俺に腰かけたりよりかかったりした。幼い子供から老人まで、真面目そうな学生からヤクザじみた中年まで、様々な人間が俺の前を通り、俺の身体に触れていった。

 俺の心は、すっかりおだやかになっていた。

 もうずっとこのままでいいと思った。


 

 俺が車止めになって、どれほどの時間が経ったかわからない。最初のうちは日暮れや朝日を数えていたが、それにも興味がなくなっていた。

 日付の感覚はなくなった。人々が街を行き交い、時に俺に身を寄せることにかすかながら確かな幸福を覚えていた。朝と昼と夕方と夜と深夜は太陽と月の光だけではなしに、人々の増減でそれを味わえた。誰も通らない時間帯ですら、その静謐さに俺は安らぎを覚えた。



「一人じゃないかもしれないとたまに思うんだよ」というオッサンの言葉をたまに思い出す。しばらく忘れていたが、ここでこういう状況になって、彼が言いたかったことが想像できた。


 ほら、あそこにちょっとした椅子があるだろう。

 あれも俺と同じような身の上の、元人間かもしれないじゃないか。

 広場の真ん中に立つ銅像、そのそばにちょこんとオマケのように添えられたオブジェも、少し前までは人生に疲れた人だったのかもしれない。

 こっちにあるベンチだって、この街で送る人生に心底疲弊したオバサンが変化したものなのかもしれない。

 あの看板だって、あの木だって、あのゴミ箱だって、俺と似たような心持ちになってあの姿になった者たちなのではないだろうか?

 言葉は交わせずとも、コミュニケーションができずとも、俺たちはみんな、同じ気持ちで同じ場所にいる。



 なぁ、そうだろう? 

 俺はあっちに並んでいる車止めの、右から二番目に目をやった。 

 あぁ、そうだとも。

 よく来たね。

 オッサンが優しく呟く声が聞こえた気がした。

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