第5話 バウ

 雨が激しく降っている。

バツバツバツ、バババババッ。

まだ日没までは間があるはずだが、辺りは夜のように暗い。2-3m先はもう何も見えないほどだ。頭からすっぽりと被った防水の合羽に叩きつけてくる雨音がうるさくて音もほとんど何も聞こえない。植物を編んで作ったシートの表面に獣の脂を塗りつけてある。アルシアでは標準的は雨具で、高価なものでは無い。傷んで水が浸みるようになったら捨てて買い換える類いのものだ。

視覚と聴覚とをほとんど奪われている。

足元もおぼつかない。脚はくるぶしの辺りまで道を覆う水溜まりに沈んでいる。路は既に水没しており、轍に脚を捕らわれないように歩かなくてはならない。しかしそれでも路を外れるよりはましだろうと思う。雨粒で激しく叩かれる水面から、草の先が呼吸をするように伸び出している所は道脇の草むらだ。大きな石があるかもしれず、獣の掘った穴や、木の根などがあるかもしれず、草むらを歩く方が路よりも危険だ。

 影は三つ。アルを先頭に、ドリスが続き、しんがりはジュニアだ。一列になって黙々と進み続ける。

 もちろん皆、びしょ濡れだ。

 その時、天が激しく発光する。雷だ。続けて、大地を揺さぶる大きな震動。思わず三人は足を止め、地面を見つめていた顔を前へ向ける。振動が来た方向だ。暗い闇と、雨。360°三次元に同じ風景だ。しかしそこで再び空が発光する。

 ビカッ!

 正面に巨大なシルエットが浮かび上がる。巨大な長方形の塊。高さは100m近くあるかもしれない。幅はその四倍はある。人工的に作られたかのようなきっちりとした立方体のシルエット。そしてその奥には空を突くような尖塔。その尖塔のてっぺんに稲妻が落雷する。

 ドーーン!

 再び地面が震える。三人は驚きの声を上げるが、その声はそれぞれの誰にも聞こえない。

 再び足元へ視線を移し歩き始める。

 黙々と進む三人の周囲にぽつぽつと家が点在し始める。ここが目指すバウの村の外周部であろう。道は相変わらず雨水に沈み、泥の中を更に歩く。周囲の家はやがて軒を連ねるようになり、足元もいつの間にか石畳に変わる。足元の水がいくらか透明になったかのようだ。しかしながら雨具越しに雨が自分たちを叩くバツバツという音は収まる様子も無い。三人は進む。バウの村の中心部に入る。道を挟む家々のいくつかに、朧気なランタンが提げられている。風で揺れている。しかし雨音がうるさくてやはり何も聞こえない。

 三人は進む。再び稲妻が光り、正面に巨大な壁が立ちはだかる。バウの遺跡と人は呼ぶ。


 ジークムント・フェイルはその景色に近寄ると緊張した表情でその様子を伺った。激しい雨が降り続いている。暗い夜だ、ほとんど何も見えない。実際には目の前には巨大な湖が広がり、その中に佇立する巨大な塔が見えるはずである。

 この景色はもちろん実物ではない。彼の部屋の壁面のディスプレイに映された映像だ。しかしリアルタイムの野外の景色ではある。つまりは、この船は大気圏への突入を計算して設計されているため、外周に『窓』などという非効率的なものは存在しないというだけのことだ。

 空が光る。瞬間的に露出が調整され、景色は黒一色になる。足元の地面の震えが収まった頃に、再び景色が回復する。

「リズズ、聞こえるか?」

 ジークムントが窓を見ながら問いかけた。もちろんインカムなどは介さない。室内のセンサーが音を感知して、向けられた先、今の場合にはリズズの体がセンシングされる場所で再生するだけだ。暫く間が空く。

 ジークムントは空中にキーボードを出現させて、手早く何かを入力する。キーボードなど使うのはどのくらいぶりか? しかし会話をしながらでは致し方ない。

「ああジークムントさん、どうしました?」

 声が返ってくると同時に、彼の隣にリズズのホログラムが投影される。しかしこれは現実の映像ではない。途中で介入しているどこかの回路が、リズズがあらかじめ設定したアバターを映し出しているに過ぎない。もちろんリズズが見ているジークムントの映像も同じだ。

いつの頃からか、コミュニケーションの手法として、ネットワークへ無規制・無制限に、自己の外観や行動を露出する風潮が過熱した。しかしその流れは多くの人がそれに参加し、継続的に情報を拡散することで陳腐化し廃れていった。次第に人は他人の耳目を集めるために、流通のための情報を作製し、表現を誇張し、ねつ造するようになった。技術の進歩により画像の加工がそれだけ容易になったためである。

つまりネットワーク上の個人の情報の多くがねつ造されたものとなり、こういったシステムは自壊した。

二人のアバターも、あくまでも現実の二人を模したものでありリアルの映像を現実に忠実に再現したものでは無い。ジークムントの見るリズズは、小柄で人の良さそうな赤ら顔の太った男だったし、リズズの見るジークムントは背の高い、耳や鼻の極端に尖った中性的な人物だ。

「電源系がおかしいんだ。そちらでもモニター出来るか?」

「ちょっと待ってください…。」

 映像のリズズ・バウは何か手元で操作をしているような動きをして、無言の時間が流れる。

「こちらでは、特に…、ああこれか。…まずいですね、ああ、アラートが出た。どうしたんです?」

「さっきから外を眺めていたんだが、塔に激しい落雷があった。」

「ええ、だってあの塔はそのためのものですから。」

「そうなんだが、他に原因が思いつかない。ドローンを差し向けたが連絡が途切れてしまったので詳細が把握出来ないんだ。落雷の規模が想定を越えていたか…、考えにくいな。若しくはどこかの部品が劣化していたか…。」

「後者はあるかもですね。」

「そうかな、そう言うものなのか? 私は機械設備はずぶの素人だから、君の意見を聞きたくて…。」

 珍しく困ったようなジークムントの声にリズズはチャンスと思い反応した。

「見に行って来ましょうか?」

「君がか? 直接に? あまりに原始的だ。効果があるのか? リスクは無いのか?」

「このまま電源がダウンしたら大問題です。ドローンがダメだった以上、理由は何にしろ、まずは現場を確認しないと対策が打てません。」

 リズズの脳がその時の状況を再現する。つい最近のことだ。自分の不用意な行為が、雇い主であるジークムントの激しい怒りをかってしまったのだ。

 その日、彼はジークムントの作ったプログラムのほんの一部を書き換えた。といっても変数の閾値を少しだけ、現象がランダムに発生するようにいじっただけだった。

 ジークムントの書いた定数を用いた場合、進化の過程で生物に特有の揺らぎが生じなくなり、まるでロボットのように同じ個体が再製されてしまうことになるためだ。彼は、その数字をジークムントが誤って書き込んだものと、何の疑いもなく思い込んだ。そして彼はそのシーケンスを変更したことをジークムントに確認することなく、プログラムを大気中に放出した。そのプログラムはすぐに大気中で拡散し、その全てを回収することは不可能になった。

 その後も彼はそのことをすっかり忘れていたが、ある日、激怒したジークムントに問い詰められた。そしてジークムントがその数字を故意に、最初の数字に決めたと知ったとき、彼は取り返しの付かない一言を雇い主であるジークムントに言ってしまったのだ。

『あんたのやっていることは進化の手助けでもなんでもない、…ただの侵略だ。』

 その時のジークムントの蒼白な顔色と、死者のような、筋肉の固まりきった表情を今でも忘れることは出来ない。そのままジークムントは無言でその場から立ち去ったのだった。

先程の通信はそれ以来のものだ。連絡を取ろうとしてもその機会を与えられなかったリズズは、まずは彼の希望を叶え、その上で先の事を謝るつもりになった。

要は、彼が困った声を出している今、少しは点を稼いでおきたいということだ。

「しかし、結局人が実際に行って、その場で見ない限り問題が解決しないなんて信じ難い。受け入れがたい事だ…。」

 そしてぶつぶつと独り言を言い始める。

 彼がイライラしている証拠だ。ジークムントは天才だが万能ではない。知識のない分野のことでは、リズズの方が知っていることが多い。彼の専門はジークムントと非常に近かったが、彼の手法はジークムントのように、一つのことに対して深く思索して真理を追求するような手法では無い。

 彼らの時代、学問は裾野が著しく広がることによって細分化が進み、細分化することでそれぞれがピンポイントの専門性の中で研究を進めることが多くなった。このことは研究分野を跨ぐような課題に対しての対応力を衰退させたため、多くの集団では、一つの特化した専門性を持つ多くの研究者と、周辺の様々な分野の浅い知識を持つ少数の研究者を育成して研究者ネットワークを構築して、それがあたかも一つの頭脳として機能するように運用した。リズズはこの、分野横断的な知識を持つ研究者として養成されたのである。

彼らは主に軌道上に設置した光パネルで発電したエネルギーを地上に送ることでエネルギーをまかなっている。そのためのエネルギー受信機が正面の巨大な塔の一つ目の役割である。そして同時に巨大な塔は当然ながら落雷を受けやすいため、母船を雷から守るための避雷針の役目も担っている。だから、塔が落雷に晒されるのは想定の範囲内である。

 エネルギー以外の物質、例えば母船や塔をメンテナンスするための部品は母船内で製造される。壊れた部品も一部は再利用されるが、そのプロセスの負荷が大きすぎる場合には母船が自ら地中から必要な素材を収集する。現在母船の1/5程度は地面に埋没しているが、その底部からは木の根をイメージさせるような触手状の金属製の配管が何本も地中に伸びている。配管の先端は極めて細く、地中を掘削しつつ少しずつ成長するように伸び続けており、必要な場合には分岐する。先端部では土砂を採取して、有用な元素を含む鉱物資源を採掘し母船へ送る。母船ではそれを精錬し有用な金属や薬品を精製して、自己の維持に必要な部品に加工する。それがこの船の持つ自己修復のシステムだ。勿論これは修復のための仕組みであり、改善するための仕組みではない。

 ジークムントの眼前の外部の風景が一瞬で数百に分割される。全てが艦の内外に設置されたカメラの映像だ。その中に歩く人の姿。その画像が4×4倍程度に拡大される。

 リズズだ。今度はリアルな映像だ。保安上の理由から、私室の外では先程のアバターの画像は機能しないようになっているのだ。と言ってもこの船にはもう百年程も前から、ジークムントとリズズの二人しかいない。

 リズズはリアルでは中肉中背の普通の体型の青年だ。アバターのように極端に背が低く、太っているわけでは無い。

彼は地下の通路を通って塔へ移動している。彼と一緒にホログラムのディスプレイ画像が移動して行く。彼は私服に厚手のジャンパを着て足早に歩いて行く。外は寒くないので、防寒と言うよりも雨よけの上着のつもりだろう。塔の集中管理室に入るには一カ所だけ外へ出る必要があるのだ。これはジークムントの設計だったが、特に意味があるわけではない。

 この船も、塔も全てジークムントが設計した。もちろんある程度の大きさで機能がユニット化されて販売されている箇所が多かったし、彼自身はコンセプトを言葉として整理するだけで自動設計のAIが実際のプロセスを実行しているのは当然だ。

彼は有能な科学者であり、生物学と電子工学にまつわるある発明で巨万の富を得た実業家でもある。彼はその私財の全てを投げ打って(と言っても、その間にも新たな富が彼に補給され続けていたけれども)、ほんの一部、社会的な付合いのために投資を受け入れて、この船を完成させ、公募で雇い入れたリズズと帰る予定の無い旅に出たのだった。

彼は母星から遙かに離れたこの星で、生命の遺伝、進化、文化発展に関する研究を行なうために旅だったのである。彼の元には、母星から定期的な連絡が続いていたし、彼の研究の成果は自動的に母星に送られ続けていたが、それを直接彼が目にすることは無かった。彼は既にそんなことに興味が無かったからである。

 リズズは、この普通に考えればとんでもなく正気では無い計画に応募し採用された科学者である。彼はジークムントの専門領域をカバーする幅広い知識を持っている。先にも書いたように、この時代には学問が多様化しすぎていて、自分と全く同じ分野を研究している人間は同じ時代には、ほぼ存在しなくなっていた。そもそも最盛期と比べて人口は数分の一に減少しているのだ。

彼もその分野では十分に優秀な科学者であったが、自分の将来に何の希望も感じてはいなかったのがこの計画に応募した理由だ。ジークムントという高名な科学者を尊敬していたと言うこともある。

 十分ほど何の変化も無い真っ直ぐな通路を歩く。湖底に沈んでいる、母船と塔とをつなぐトンネルの内部である。そこをようやく抜けて、リズズは塔に到着した。

 彼はエレベータの前に立ち、ボタンを押した。すぐに扉が開く。しかし彼は入ろうとはしなかった。空間に投影したホログラムと何か会話しているようだ。電源系に不安のある今、これを利用中に電源が落ちる可能性が低くは無いことをKYするように、端末のAIに指摘されたのだろう。案の定、エレベータをあきらめて横に併設された階段へ進む。

 十階ほどの階層を徒歩で登り、階段はそこで途切れた。ここから上は今リズズがいるこの階層とは絶縁されているためだ。ここから上の階層は磁力で浮遊しており、電気も非接触で受け渡しされている。塔の先端に想定外の負荷がかかった場合に母線の回路を保護するための仕組みと聞いている。そんな機能があると言うことは塔上部の電源系が異常な落雷により破壊されると言うことは、『想定外』では無いのではないかと思ったが、考えながら、そんなことはどうでもいいということにも気付いた。とにかく母星を出発する段階ではこの星の気象条件の全てを把握することは当然出来ないのでこのような仕組みになっていると聞いている。

 リズズは廊下を歩いて一枚の扉を開けた。もちろん電動の分厚い扉だ。この塔は母船着陸後に外部に展開した部分なので気密性は無い。だから、ぷしゅ、とかは言わない。ゴロゴロと重たそうな引き戸がゆっくりと開いて行く。戸が開ききるのもまどろっこしく、リズズは前に進みもう一枚の扉をやはりボタン操作で開ける。

 ざああ、と激しく雨が吹き込んでくる。後ろの扉がまだ閉じきっていなかったので室内側の圧が上がらないためだ。こちらも戸の隙間を抜けて屋外へ出て、『閉』ボタンを押して扉を閉じてしまう。リズズ一人が戸外に隔離された。雨よりも音の洪水がリズズを乱暴に包み込む。何も聞こえない。雑音の洪水だ。次いで、ばらばらと体を叩くあまりにも大粒の雨に驚く。フードを被り、紐を引いて顔だけを丸く出す。上着の前面もばっちり閉じた。

 そこは小さな踊り場のような空間で、2m四方程度のスペースの足元は金属製の縞鋼板。既に強固な酸化皮膜で表面が覆われているのか金属光沢のままの表面が、扉の上に取り付けられたライトからの明かりを、溜まった雨水越しに反射している。滑り止めのために付けたれた金属板上の凹凸が光りを周囲に散乱させる。

踊り場の周囲は胸程までの高さの手すりも兼ねた柵で囲まれているが、もちろん雨は降り込み放題である。右手の一辺は階段になっており、塔の周囲に沿って上へ上がれるようになっている。リズズはそちらへ進む。ここは塔の中程の高さの場所であるが、既に100m以上の高さがあるはずである。夜間である事と荒天のため、周囲は闇に包まれているが、見えたら見えたで、高所による恐怖に襲われることは間違いない。遙か下方に湖の水面が見えるはずであり、方向によってはバウの遺跡の上面、今では原住種族の住居のある街並みが見下ろせるはずだ。

 リズズは階段を昇り始める。靴が階段を叩く金属音が出ているはずだが、激しい雨音でそんなものは一切聞こえるわけもない。単調で均一な雨音に塗り込められた、ある意味では無音の世界のように感じる。

 暫く階段を上ると右手、つまり塔の側の壁が消失する。代わりに左側と同じ胸までの高さの手すりが現れる。

 彼の右手側、つまり塔のあった側は広く見渡せる空間になっており、リズズが自分で点灯させた照明のお陰で、下方と上方に丸い塔の断面が見える。例えば地面から生えた木の一部分を二カ所で木の軸と垂直に切断して、出来たバームクーヘンのような部分(次に記述するが実際に径の軸心部分には構造物が残っている)を抜き取った感じだ。上下の間隔は10m程もあるだろうか、そしてその外径は100m以上はあるように見える。

ただ径の中央部には上下をつないでいるように見える軸状の構造物が確認出来る。実はあの部分は塔上部から突き出して、塔下部の凹みに刺さるようにはめ込まれているらしい。ただ、その軸と凹みとの間には強力な磁場による空間があり、その反力で塔上部を浮かせているという話だ。

 更に階段を上がって行くと、階段の材質が変わる。金属製から高分子材料に変わる。この材料は剛性は低いが導電性が無いので、この階段のこの部分にだけ使用されている。そして更に数段上がると、階段自体が物理的に分断されている場所があった。これまで通り同じ高さで階段が続いているが、段を支える構造材も、手すりもプツリと途切れて、10cmほど離れて、そしてまた新しく始まっているのだ。この分断により、塔の上部と下部とは物理的に絶縁されている。

 絶縁部を通り過ぎてから更に暫くリズズが階段を上がると、右側にはまた前のように塔の外壁が現れて、最初に表に出たときのような踊り場に辿り着いた。先に階段は無い。ここが外階段の終着点である。雨はまだ激しく降っている。ただ気にならないほどに彼自身が慣れてしまっただけだ。

 施設から出るときと違って、中に入るにはセキュリティ用の鍵を解除しなくてはならない。そのために扉の横には3×3+1に並べられた四角いボタン、テンキーが設置されている。リズズはキーを覆っている金属製のカバーを上に上げて自分で登録した16桁の数字を入力した。長期間紫外線に晒される可能性のある部分には出来る限り金属が使われている。

彼らがこの宇宙船を建造した時代には、このような前もって自分で決めた数字を打ち込むような認証の仕方は一般的だ。過去においては自分の体の一部分を個体識別の手段として利用した生体認証の仕組みが高い頻度で利用されたが、既にその時代は終わりを告げていた。

指紋や瞳の虹彩などを用いる生体認証は、個人毎に固有のパターンが異なり、加えてその複雑さから過去においては認証キーとして広く活用されたが、それが広く使われれば使われるほどキーの偽造も高度化し、本物のパターンと偽物のそれとが認証用のセンサーでは判別出来なくなる事態が生じるようになった。守る側はより精密に、かつ柔軟にパターンを測定したり、複数の身体的な特徴を組み合わせたりすることで偽造を排除しようとしたが、最終的にはそれを打ち破る方の忍耐がそれに勝ったと言える。

セキュリティに用いられる装置は大型化し、高コスト化した。あるシステムの解錠方法が裏の社会で流通し始めると、ユーザーはそのシステムをより高度な装置に置き換える必要が発生し、そのコストは膨大なものとなった。

また生体認証の最大の問題点は、『キーの変更が不可能』である点にある。それらのパターンは一人一人に生来与えられたものであり、一度偽造方法が確立されてしまうと変更が出来ない。その点で、一定の手続きを踏むことで変更が可能な、任意の数字を入力する古来の方法は本質的に生体認証に勝っていたと言える。

リズズは外部から入ることの出来るどの入口にも同じ数字を登録している。そもそも、今、この世界には人間は彼とジークムントしかいないのだ、このセキュリティシステムは主にこの船が建設中に、外部の人間の侵入を防ぐために取り付けられたものだ。もちろん未来においては、高度な知能に辿り着いたこの星の生命体達がこの施設に入ろうとするかもしれないが、それは彼らの生きている間には起こりはしないだろう。

 リズズが24桁の数字を入力すると、重そうな金属製の扉が軋むような音を立てながら横にスライドすると同時に、内部で明かりが明滅して点灯する。扉を通り抜けて中に滑り込み、もう一枚の扉も同様に通り抜けて内部の空間に入り込む。

 静かになった。今度は本当の、音のない静けさだ。

 そこは明らかに先程までの塔の下部とは設備の造作が異なった。下部が基本的に通常の居住空間の一部であるのに対して、ここはあくまでも施設の機能を担う建造物の一部だ。

 長方形断面の通路の、上下四つの隅には、直径と造作の異なる複数のパイプ類がむき出しに設置されている。おそらく流体の使用量や粘性、温度により、径や材質、被覆の種類が異なったり、一部には電気系のケーブルを束ねて格納しているものもあるはずだ。頭上の照明も、彼が進めば点灯し、過ぎ去れば律儀に消灯してしまう。

 リズズは空間にディスプレイに再び表示させ、それが示すとおりに無味乾燥な、外観の変化の乏しい廊下を進んだ。

 通信状態が悪かった。画面にノイズが乗り、応答がしばしば停滞する。電磁波か、X線?、リズズが限られた知識で想像する。

 全ての始まりは、先に説明したように、ジークムント・フェイルの常軌を逸したとしか思えない研究計画の発表だった。地球上でやりたいことをやり尽くしたジークムントが、死に場所を捜す旅に出るのだと多くの人々が揶揄した。それ以外の人々はジークムントに全く興味が無い人々だった。

リズズ・バウとジークムント・フェイルの二人は巨大な宇宙船に乗り、長い年月をかけて、もちろん彼らの生命活動は出来るだけ不活性化させた状態、つまりは眠ったような状態でこの星に到着した。

軌道上で一年かけて地上を観察し、着陸点を決めてから巨大な船で大気圏に突入し、着陸後に生存に必要な設備類を起動した。その後、地上の生態系の調査に更に二年を費やした。

そして二人は、地上に生存する生物のうち、自分たち人間に比較的近いいくつかの種を選び出し、遺伝的な改造を加えた。そのことによりそれらは環境の変化や病気に強い体質を遺伝的に獲得し、また数十世代後には知能を獲得することが約束された。

二人は、その時を待つため、その後、自ら再び眠りにつき再び長い年月を休んで、今から数年前に起き出してきたところである。

休む前と比較して遺伝子改造を施したこの星のいくつかの種は、環境に対する適応力を備えた体と知能とを飛躍的に進化させていた。

しかし、それはジークムントの想定したほどの能力ではなかった。二人がその原因を調査したところ、より能力の高い個体が誕生しても、旧来の個体がそれらを駆逐している事が分かってきた。言ってみれば、自分より能力の高い子が生まれると、親がその養育を放棄し殺してしまうのだ。

この原因については、ジークムント自体も複数の仮説を持っておりエビデンスを揃えたきっちりとした結論には至っていないが、強制的な遺伝操作により、旧来種との間に遺伝的な非連続性が生まれた事が原因ではないかと想像していた。

そこでジークムントは次善の策として、より緩やかに遺伝子に影響し、その影響を継続出来るシステムの構築を目指した。それが先の、二人の諍いの原因となったプログラムの一件である。

生物たちの進化が、ジークムントの予測を下回っていたとはいえ、それらは既に原始的な文明と呼べるものを獲得していた。彼らは食用の植物を栽培することは出来なかったが採取する事は出来たし、獣を育成し繁殖させることは出来なかったが、狩猟の能力はあった。文字を書くことは出来なかったが、言葉を話すことは可能であった。

二人は自分たちの新しい打ち手が、生物たちにどのような影響を与えるかを観察するため、宇宙船の平坦な上部甲板部分に彼ら集め、孤立させて外部の影響を排除した環境で、実験を進めているのが今の状況だった。

 無味乾燥な通路を進んで、リズズはようやくコントロールに辿り着く。宇宙からの受電施設であるこの塔の中核部分だ。やはりセキュリティの数字を入力して扉を開けて中へ入る。部屋に電気が点る。

 そこは10m四方ほどのシンプルな白い部屋だ。中央に机が一つ。その上に固定式の端末が一台。正面はガラス張りでその横に扉。ガラスの向こうは暗くて確認出来ない。

 リズズの脳の中で、非常のマニュアルが立ち上がる。特に教育を受けたわけでは無い。提げられたネックレスの首に触れる部分が発信器になっている。そこには一人の人間ではとうてい記憶出来ない様々なメンテナンス情報が納められており、その道具はあたかも自分が過去にその非常事態に対応したことがあるかのような偽物の記憶を脊髄に送信する。

 リズズは迷わずに正面脇の扉に近づくと扉を開いた。部屋へ入る。

 パシャリと音がした。足元が水浸しだった。部屋の照明が点かない。更にパシャパシャと二・三歩踏み込む。

 部屋を見回す。マニュアルに従い漏水の可能性のある、流体を搬送しているパイプを検索しているのだ。暗いので腰に下げたハンドライトを手にして視線の先を照らす。

 その部屋には塔の制御系のユニットが何列にも並んでいた。高さが2m程の白い金属製の箱のようなものだ。低いモーター音は冷却用の設備だろう。彼らの時代でも、電気的な処理に伴う発熱は完全には解消出来ていない。

 リズズはユニットの間を歩いて天井付近のパイプを順に観察してゆく。

 ある一カ所で光が反射する。水漏れだ。トツトツトツと、雫が床へ落ちている。ほんの少しずつ漏れているのでセンサーに検知されなかったのだろう。

 彼は水漏れの様子を一通り観察すると、今度はバシャバシャと部屋を入り口に戻り戸口横のロッカーを開いた。やはり例の暗証番号が必要だ。同時にインカムに話しかける。

「ジークムントさん、原因が分かりました。ジークムントさん? あれ?」

 声がつながらない。通信が何かに妨害されているのだろうか? しかしリズズの肌はそう感じてはいない。まるでマイクの前で誰かが息を潜めているように思える。

 リズズは不安を覚えたが、まあ後で報告するしかないと、ロッカー内に置かれた、10cm立法ほどの小型の機械を取り出し、起動する。もちろん使ったことなど無いが、脳は知っているつもりになっている。半自動で設備の補修をしてくれるロボットだった。床に置いて起動すると、ロボットは変形しトカゲのような形状に変化した。

 ジークムント・フェイルはその様子の全てを青ざめた表情で見守っていた。リズズからの声は届いていたが、彼には返答することは出来なかった。

 彼にはリズズを許すことが出来なかった。例のプログラムの話はきっかけでしかない。彼は以前からリズズを憎々しく思っていた。プログラムの件は、彼に恥を与え、その恥を耐えられなく感じたことがトリガーだった。彼はリズズに嫉妬していた。この星の生物ども、まだ幼い知能しか持ち合わせていない奴らに、リズズは好かれ、自分は嫌われていた。自分が好かれようとすればするほど、奴らは自分を嫌い、自然体のままのリズズは何の苦労もなく、奴らに好かれていた。そしてそのことにリズズは気付いてもいなかった。それが憎かった。それだけだった。

しかし、ジークムントはただそれだけ、自分がプロデュースした生命達に心から好かれたいがためだけに、莫大な金をかけてここまで来たのだった。

地球の薄汚れた、金に群がる醜い人間共ではなく、本当にピュアな、純真な心を持ったプリミティブな知能に心から好かれたかっただけなのだ。それに、もうやり直しはきかない。

 ジークムントは小さくつぶやいた。

「セム・ブラフ・ガシス。」

 プログラムした発火の起動指令だ。

 リズズのいるユニットルームに貯まった液体が発火し、リズズは叫び声を上げる間もなく絶命した。

 電源の制御は瞬時に第一サブルームに切り替わり、ジークムントの部屋でも電気が一瞬でも明滅することもなく船の機能は維持された。消化剤の投入により、ユニットルームの火災は57秒後に鎮火し、全てが終了した。


 激しい雨は降り続いたままだ。止む気配は無い。アルが一件の家のドアを叩く。後ろにいるドリスとジュニアにはその音は聞こえない。

 大分長い時間が経って、ようやく扉が細く開かれる。アルが何かを説明するが、相手は迷惑そうにしている。アルが掌を開いて、例の男から預かった指輪のホログラムを見せるが、相手には特にピンときていないようだった。

 暫くして、アルがようやく諦めたように相手に礼を言うと、間髪入れずに扉が強く閉じられた。

 アルがこちらを向いて三人が顔をつきあわせる。こうでもしないとお互いの声が聞こえないのだ。

「宿を探そう。」

 アルが提案する。

「何て言われたの?」

 ドリスがもっともな質問をする。

「知らないと言われた。爺さんの兄弟にそんな名前で、若くして失踪した人がいたかもしれないとさ。俺の話したフルハヤさんの時間の感覚がずれてるんだ。もう凄い昔の話なんだ。仕方ない。」

 アルは寂しげに言うと、二人を先導するように豪雨の道を歩き始めた。

 その後、三人は村にある数件の宿屋を訪ね歩いたが、どこも満員で宿泊を断られた。宿屋の人は皆口を揃えて、バウの祭りの最中だ、どこも泊まれるはずが無い、と言ったが、同時に村はずれにある寺院のことを教えてくれた。食事などの面倒は見てくれないが、屋根だけは貸してくれるという。こんな豪雨で無ければアルたちは野宿は慣れていたが、この天候ではそれも難しいので、三人は迷わずにその寺院へ向かった。

 アルシアにおいて、信仰の対象はこれまでにも語られてきた、ジークムントとリズズの二人以外には存在しない。しかし、地方地方で、祈り方はそれぞれである。これは、この宗教が一ヶ所で発生して大陸に広がったのでは無く、信仰の対象となる実在のジークムントとリズズがいて、その二人を同時多発的に複数の人々がそれぞれの方法で信仰し始めたためと、アルシアでは言われている。勿論未だにその確証は無い。

 ここ、ミサリアの南部平原では、ミグーン周辺のような教会様式の施設では無く、寺院が信仰の中心となるようだ。そういった理由で、アルたちにとってはこういったことは特に驚くことでは無い。

 その寺院は塀で囲まれていた。高さは2m程であろうか。内部には木が茂っている様子で、激しい雨の水煙の中でも、その場所だけがこんもりと盛り上がっているように見える。翌日雨が上がってから考えたことであるが、その場所はバウの村の外れでもモラール湖に面しており、淡水がふんだんに使える環境にあるのだと理解する。

蛇足だが、モラール湖はアルシア大陸の中央に位置する巨大な湖だ。今いる場所の対岸は、アルシア最古の王国で西端に位置するアガの領土になる。アルシアは、モラール湖を中心の穴に見立てたドーナッツのような大陸である。

寺院の門は広く開け放たれていた。雨のおかげで辺りは夜のように暗いが、時間的にはまだ太陽は沈んでいないはずだ。

門から石を敷いた幅5m程の道が真っ直ぐに伸びている。両脇は幹に節のある真っ直ぐな植物が高い密度で密生している。人がようやく通り抜けられる程の木々の混み具合だ。

アルは真っ直ぐに脇目も振らず歩き続ける。雨のために見えないが、通常の造りであれば、この先に本堂があり、寺院に所属する人間がいるはずだ。そこで許可を取らなくては今晩の宿は確保出来ない。

ドリスは早足のアルに何とか追いつこうと彼と同じように一心不乱に歩いているが、その後ろでジュニアが不意に足を止めた。

雨が着込んだ合羽を撃ち、音など何も聞こえない。ジュニアは立ち止まってゆっくりと周囲を見回す。手に握っていた例の革球がいつの間にかどこかへしまわれている。もう一度ぐるりと見回す。

確かに何かがいる。恐らくは野生の獣だ。殺気は感じない。ただ、林の間に身を隠している。ジュニアの脳裏から音が消える。けたたましい雨音は、今の彼には届かない。

雨の中、林を見据える。その一ヶ所が、ぼおっと薄く、白く光って見える。

ジュニアは驚くと同時に、腰の剣に手を添えた。彼に見えるシルエットが明らかに人のものだったからだ。

小柄で痩せた男に見える。足取りもおぼつかない感じでふらふらと林から出てくる。

やはり彼にはそれが獣にしか思えない。人の狡賢さをまるでまとっていないからだ。純粋に生きることに専念しているようにしか思えない。男はジュニアに相対して止まる。3m程の距離だ。背を丸め、酷く姿勢の悪い立ち方だ。

男はずぶ濡れだ。雨具の類いは身につけていない。ぼろぼろの、恐らくは僧衣を、腰の紐で縛ってある。色も判別できないほどに黒く汚れている。

男が笑ったように感じる。実際にはこの距離では表情は判別出来ない。彼は膝を軽く折ると、両方の拳を胸の前まで上げた。

それでもジュニアには彼の殺気が感じられない。戦うつもりがあるようには思えない。困惑したまま、彼にしてはようやく剣を抜いた。雨具を脱ぐ暇は無いようだ。雨具の下には荷物も背負っている。身軽な敵と比べて、明らかに不利な条件だ。

男は武器を持っていない。武闘家の類いであろう。ルウ・シンバルを想起する。そこで再び気配のあまりに違うことに、不安を覚える。この男が自分と戦おうとしているとは思えない。

「何がしたい?」

 純粋な質問がジュニアの口から発せられる。

「殺すことは楽しい。食うことよりも、眠ることよりも。」

 男の骸骨のような顔で、口がかくかくと上下する。しかしそれよりも、ジュニアの目は男の瞳に奪われる。男の瞳は、そう、今のような大雨の後の濁流のような濁りきった茶色をしている。黒目と白目との境はジュニアには判別出来ない。

「僕を?か?」

 ジュニアの言葉に、男が自然に頷く。

「目は見える?」

「人を殺せる程度には。それ以上は必要ない。分かるだろ、お前も人殺し、同類だ。」

 男が跳躍する。ジュニアの身長をはるかに上回る高さだ。上空からジュニアめがけて男が降ってくる。ジュニアは、とっさに前に転がった。回転しながら立ち上がりすかさずに振り向く。

「うお!」

 男は既にジュニアのすぐ目前にいる。素手の間合いだ。ジュニアはまだ剣も構えていない。

 男の拳がジュニアの顔めがけて振り出される。ストレートだ。ジュニアはとっさに振り向いた回転方向の勢いのまま、回し蹴りを放つ。ルウ・シンバルの物まねのようだ。

 膝の辺りが男の脇腹にヒットする。男がはじけ飛ぶ。軽い。ジュニアは足を戻して剣を構える。飛ばされた男は上半身から石畳の上につっこむ。

そしてゆらりと立ち上がる。

「お前、強いな。」

 その瞬間、ジュニアの背筋がぞくりと震える。凄まじい殺気だった。打たれ、倒されて、初めて見せる男の殺気だ。

 男の瞳にくっきりと黒目が戻っている。彼の体に何らかの変化が起きたことは明らかだ。やせ細っていた肩が、胸が、腕が、足が、もこもこと成長して筋肉の塊のような異様な生物になる。いや、辛うじて人ではある。質量保存はどうなっているのか。少なくとも体積の増えた分は密度が下がっているはずだ。そのようにはどう見ても見えない。どちらかと言えば密度も何もかも、高くなっているように見える。そうすると、外部から、恐らくは大気中から物質を体内に取り込んでいるのだろう。空気から?マジで?

 男が跳躍する。先程のような上方への跳躍では無い。水平に近く一直線にジュニアに向かってくる。初動のエネルギがよほど大きくなければ地面に接触するはずだ。ジュニアはギリギリまでその獣を引きつけ、ゼロに限りない近距離でそれをかわす。ジュニアの体が半身になり、斜め後方からザッという、地面を踏みつける音がするが、雨に打たれて水を表面に被った石畳みの上面では、必要な摩擦係数が得られず、敵が微妙にバランスを崩す。

 ジュニアも攻められてばかりでは無い。体を強引に捻り、上段から斬りかかる。敵は少し崩れたバランスのまま、片手を大きく振って生身の腕でジュニアの剣を振り払った。

「グヲーーー!!」

 剣に触れた男が地面を割れさせそうな程の怒号を上げる。そのまま腕を体に抱き込んで痛みに耐える。切ったのでは無い。ジュニアの剣の白魔法を吸収する能力が敵に打撃を与えたのだ。ジュニアは止まらない。剣を払われ大きく体勢を崩したが、ようやく踏みとどまり再び敵に斬りかかる。腕をかばいながら、敵がジュニアの剣をことごとくかわす。この男の速度は、ジュニアを上回っている。ルウ・シンバルよりも早い!

 ジュニアの剣をかいくぐりながら、男は次第にジュニアの動きを見きって行く。しかし、もうジュニアにはどうにも出来ない。確かに攻めているのは彼だが、勝負の鍵を握ったのは獣のような男だ。ジュニアは攻めることを止められない。止めた瞬間に、奴がジュニアを殺す。そして、

 ジュニアは既に分かっている。敵が自分の胸元に蹴りを放った。自分には避けることは出来ない。だが、死ぬ訳にはいかない。ジュニアは可能な限り体を倒して蹴りを避けた。それでも踵が脇腹を掠って行く。あばら骨ごとむしり取られたような痛みと、火であぶられたような熱が脇腹から全身を痙攣させる。ジュニアは、重心を外して蹴られたために、体を回転させながら水の貼った地面に倒れ込んだ。

 雨の音が戻ってくる。耳を塞ぐ程の激しい雨だ。

「楽しくない。」

 確かにそう聞こえた。滝のような雨に打たれながら、男が濁りきった瞳でそう言った。苦痛に表情が歪んでいる。あっという間に殺意は消えている。彼も限界なのだ。ジョン・ドバンニの時同様に、また父の剣に助けられたと思う。

 男は再び猫背になり、ふらふらと歩き始めると、ジュニアの横を底抜けに無防備な気のままに歩き抜けて行く。

 ジュニアはその動きから目が離せずに、横たわった体のまま片手で剣を彼に向ける。常に男と正対しながら、足を踏ん張り体を回して行く。男は再びあの、酷く自然体の獣に戻っている。道ばたを歩く猫と変わらない。

 激しい雨の中に、男の姿が消えて行く。すぐに見えなくなる。ジュニアは緊張を解いて剣を地面に降ろした。倒れたまま、再び革球を空いた手に握る。

 自分の中でまだ整理出来ない。あの男は何だったのか? 確実なのは、自分とは違う生き物だと言うことだ。彼は重たい体で立ち上がる。思ったよりもダメージが少ないのは、男自体にドルメドルの剣が与えたダメージも十分に大きかったからだと推測する。

男の背を追うことを止め、アルたちが歩いて行った寺院の方へ歩き始める。雨は降り続いていたが、もうさすがに天の水も底をつくのか、ようやく雨脚は衰え、徐々に雲が薄くなってくる。晴れるまでにはさして時間はかからないだろう。


 翌朝、ドリスは広い寺院の講堂で、まだ雑魚寝しているアルとジュニアとを置いて外へ出た。辺りは既に明るく、やはり同様に寺院に屋根を借りている人々の一部が既に起きている。

ドリスは服装を確認する。ケンに聞いた話では、バウにはミサリア軍が駐屯しており、治安は比較的良好とのことであったが、一人で女性が歩くのが安全なはずは無い。警察組織が発達していないとはそういうことである。彼女は自分の男装を確認して、男として歩き始めた。人の流れの多い、寺院の裏手に回る。

歩いて行くと裏には井戸があり人々が並んで水を分けてもらっていた。深く掘られているらしく、昨日の豪雨の影響で、酷く濁ったりしてはいない様子だ。

寺院の裏門が目にとまり、ドリスは更にそちらに歩いた。敷地内には高い木が茂っているので、例の遺跡とやらを見ることが出来ない。門から外に出れば見えるはずだと考えたのだ。この辺りは平原地帯で高い木は自然にはほとんど生えていない。門の向こう、ドリスの正面に大きな湖が見える。対岸は見えないので海と見紛う程だ。アルシア大陸の中心に位置するモラール湖だ。

ドリスは門を抜ける。抜けるとすぐに右手の巨大な塔が目に入る。湖に針を刺したような鋭く尖った塔だ。通常見受けられる土とか岩とかとは質感の違う材質で出来ているように見える。ドリスには、勿論それが何だかは分からないし、興味も無い。その更に左手に巨大な体積がドンと存在している。見上げるような壁だ。しかもそこまでの距離は100mもない。首が完全に上を向く。

ドリスは言葉を失った。故郷のオルバット山は美しく、存在感のある山である。しかし、この目の前の岩の塊は、そう言った修飾を一切受け付けない程の、ド・迫力で目の前に、『ある』のだ。

垂直な壁が切り立つ。塔と同じような質感の岩が幾筋かの均等な模様を描いて、そそり立っている。圧巻だ。

ドリスは暫くそのまま立ち尽くしていた。

ドリスがようやくその巨大な岩の塊の迫力から自分を取り戻したのは、人の微かな声が耳に届いたからだ。彼女に何か訴えかけてくるような声が聞こえる。微かな声だ。

「み…、水を…。」

 寺院の門の横、ドリスの左後方で一人の男が塀に背中を預けて座っている。ドリスがようやくそちらを向くと、その男が薄く笑った。ぼろぼろの僧衣をまとったやせぎすの男だ。言うまでも無い、昨夜ジュニアを襲ったあの、獣人化する白魔術師である。

 男は白濁した瞳をドリスに向けた。口元が動きそうになったが、ドリスがそれを制して、すぐにその場を離れる。井戸へ向かい、水を所望する。人々は穏やかで優しく、器に水を満たしてドリスに渡してくれる。

 慌ててドリスが前の場所へ戻ると、男は先程のままの姿勢で瞳を閉じていた。

「水を、…」

 ドリスは男の側に跪くと、彼に、今貰ってきた水を飲ませてやる。同時に彼の様子を観察する。酷く汗をかいている。体のどこかに異常があるのは明らかだ。彼女は生来の治癒能力を使って男の体をセンシングする。

 右腕が酷く熱を発している。ドリスが発熱の一番激しいところに自分の掌をかざす。男は少し驚いた風だったが、ドリスに逆らうことはしなかった。ドリスの目前で男の呼吸が和らいで行く。男は瞳を閉じると、無防備にドリスに身を任せ、そして眠ってしまった。まるで捨て猫のようだと思う。やせぎすで、警戒心が強いが、敵意が無いと知るとどこまでもずうずうしい。

 彼女はそれから30分程かけて彼を治療すると、眠ったままの男をそのままにしてアルたちの元へ戻った。


 バウの遺跡の周囲には間隔を置いて10基程の櫓が組まれている。遺跡の上へ昇るための昇降装置だ。元々この地域には幹の太い植物が生息していないので、素材は遥か北方から運んでくるらしい。北の方の樹木の方が成長の速度が遅いので、内部が密になり、強度が高くなる。

 バウの遺跡は、現在バウに住む人々が、ここに定住する遥か以前から存在した。バウの遺跡は巨大な長方形の立体である遺跡本体と、それに隣接してそびえ立つ塔からなる。しかしどちらも人の技術では加工が出来ない強固な素材で出来ているために人はその上を目指すことが出来なかったのだ。滑らかで垂直な壁面を100mも登り続けることは不可能だ。

この地域に人が入植する前には、遺跡本体の上面には多くのハーピーが住んでいた。ハーピーは羽根を持ち、大空を飛び回る亜人間の一種である。

ハーピーは背中に二枚の大きな翼を持ちそれを羽ばたかせて大空を飛ぶ。手は別にあるので、鳥とは根本的に異なる生物とされる。平均的な成人の身長は2m程もあり、ヒトやエルフよりも高く、ドワーフの女性と変わらない。全身を覆う体毛は厚く特に羽根の部分ではそれが連続的に羽毛に変わる。顔は鳥のように、口が前方に突き出すように尖っており、唇もくちばしを思わせるように硬質な皮膚で出来ている。一部の教会では、彼らはジークムントと、リズズとが荷役を追わせるために故意に作り出した生物と説明する。それほど、亜人間の中では異質な存在だ。

しかしハーピーはエルフやドワーフなどと違い、知能が低く、人と会話をすることは出来ない。槍を持ち、大空を飛んで、主に湖に住む魚を捕獲して食物としている。つまり槍を作る知能程度は持ち合わせていると言うことだ。また、獣の皮を加工して単純な衣服を造り身にまとっている。

バウの人々は、彼らに目を付けた。彼らは罠を用いてハーピーを捕獲し、捕えたハーピーに縄をつけ、遺跡の上にあると推測される彼らの、恐らくは住処に戻らせようとしたのだ。

この計画は、直ちにとは行かなかったが、思惑通りに成功し、遺跡上部と地上とが縄でつながれた。勿論、この試みの多くの場合には、上部での縄の固定が出来ておらず、引いた縄は無念にも地上へ落ちてきた。当然ハーピーは遺跡上面に強固に縄を固定することなどしないからである。それでも人の好奇心は抑えがたく、縄の途中に、引っかかりになる輪や、棒などを取り付けたり、また、登る途中で縄が引っかかりを失って落ちてきても比較的安全なように、地面には池が掘られたり、石が積まれたりしながら、ついに人はその上面に達したのだった。

上面には雑草の一本も生えていない、石造りの街が広がっていた。用水にはふんだんに水が流れ、今にもその辺りの角からフッと人が現れそうだったという。

しかし勿論そこは無人の街だった。その後、遺跡上面から、人はハーピーを駆逐し、自分たちの所有とした。

次にヒトが欲したのは遺跡の上面と地上とをつなぐ輸送手段だった。毎日100mもの綱を、重い荷物を背負って上り下りすることは無理だった。人々はある確信を持ってその装置を探した。この遺跡が機能していた時代でも、地上と遺跡との間で荷物を上げ下ろしするニーズは必ずあったはずと考えたからだ。

その装置は、遺跡の長い一辺のほぼ中央に存在した。2m程度の櫓で押し出すと遺跡から5m程外へ突き出せる構造になっていた。人はその櫓に定滑車を、遺跡のレベルに人力の巻上機を設置してこれを昇降装置として活用した。

遺跡上でのアクティビティが増えると、この一台の昇降機では荷物の移動の需要に応えきれない事態が生じた。そこで人々は遠く北方から木材を取り寄せ、地上から足場を積み重ねて巨大な櫓を組んだのだ。これらが、何度も修繕を重ねながら現在でも使用されているというわけだ。

これらの櫓を建設し、維持して行くには当然ある程度のお金が必要だ。そこで彼らはその荷物の移送を、料金を取って受け付けるようにした。初めは主に研究者達が、この構造物を調査するためにその費用を支払い、その作業が一段落して以降は、遺跡自体を観光化することで、主な負担者は旅行者へと移行した。

初めは滑車を使って人も荷物も、綱で引き上げられていたが、こういったバッチ式の処理では効率が悪く、程なく櫓には階段も併設された。こちらは自分の力で登るために、比較的低価格で通行できる仕組みになっている。現在観光地化したバウの遺跡には年間数千人の人が訪れる。バウはこの昇降装置のおかげで潤っていると言ってもいい。既に巨大な既得権益と化しており、新しい櫓の建設は事実上禁止されている。

朝になり、寺院から朝食が提供された。昨晩村で聞いた話とは違うがある意味サプライズだ。食事はやたらと辛いスープだった。バウの村自慢の名物料理だという。しかしそれは特にジュニアには辛すぎて口に合わず、我慢して飲んで三人は寺院を出発した。

今アルたちはこの櫓の一つの長い階段を黙々と上っている。今はバウの遺跡の発見を記念した祭りの期間中なので、階段も人が行列をしながらゆっくりとしか進まない。これだけの沢山の人間が同時に階段を上って大丈夫なのかと不安になるが、これまで事故が起きたことはないらしい。昨日宿泊した寺院で、宿泊の許可を得る際に、いくつかある櫓の、この一つを使うことを条件として約束させられた。無料の宿泊も、無料のスープも、自分たちの払った通行料からいくらかが寺院に還元されていると言うことだ。

俯きがちに木製の階段を見ながら歩を進めてきたが、三人はようやく最上階へ辿り着いた。

風が強く吹いていた。階段の出口、つまりは遺跡の縁から内側へ暫くは、木製の柵が左右へ進むことを拒んでいる。そのはずである。遺跡の縁には転落を防止するために安全柵などは一切ない。地面が突然100m下へ途切れているだけだ。

ちょっと見た感じでは、そこはどこかから切り出してきたような形の揃った石で出来ているように見えた。

しかしその地面を踏みしめると、感触が非常に硬く感じられる。アルはこれまでに歩いた、どんな岩場もこのように硬く感じたことはなかった。ここはやはり特殊な場所だ。

左右の柵は、遺跡の上に置かれているだけのようだ。杭のように地面に打ち込まれている形跡は無い。元の方に張り出しを作って倒れないように設計されている。揺らしてみると重たいながらも少しグラグラとする。おそらく固定するために杭を打ったり穴を開けたりする加工が、この地面には出来ないのだろう。

足元の石畳の色は濃い灰色で太陽の光を反射するような光沢は無い。それに対して、正面には二階建てくらいの建物が並んでいるが、その色合いは地面より明るく白に近い灰色だ。家々同士を見比べると、どこも同じ色なので建物は同じ素材で出来ているものと推測する。統一感は抜群だ。その建物と建物との間の路地の入り口までで、柵は修了した。後は建物の壁が進路を決めてくれる。人が二人すれ違えるくらいのその暗い路地を抜けると、広々とした遺跡の街路に出た。

町は人で溢れていた。街路の幅は10m程ある。両側は、ほとんどが土産物を売っている店舗だ。一部中を見学できるらしい。街路の中央には1m程の川が流れている。透き通った美しい水が、思いの外、速い速度で流れる。この水はどこから来て、何処へ行くのだろうと不思議に思う。普通水は高いところから流れてきて、低いところへと流れ去るものだ。周囲にこのバウの遺跡よりも高い場所は、尖った塔しか無いが、塔と遺跡はつながってはいない。

アルは石畳を見ていてふと気付いた。一枚一枚の石はそれぞれ違うように見えるが、よく見ると表面の模様が、20パターン程度しか無い。しかも精密に同じものであることに驚く。同じものを色々と向きを変えて置いているように見えるのだ。そのパターンに何か意味があるように思えるのだが、それにしても歩き回る人の数が多く、落ち着いて観察する事が難しい。すぐに振り返って二人に話す。

「あら、本当ね。」

 ドリスはその一言。ジュニアは地面を一瞥しただけで無関心である。相変わらず、両手でニギニギを繰り返している。

 アルが先導して人を掻き分けながら町を進む。行くべき場所は頭の中に書き込まれている。フルハヤ・スタルツからの遺言だ。

 街路には高低差が無かったが、平面的には緩やかに曲り、急激に曲り、時折行き止まりもあるようだった。アルにはそれが故意に作られた人為的な自然さに思える。家々は精密に同じ模様のパターンを持つ石?を積み上げて作られているが、扉などは木製に見える。しかし触れてみるとその質感は冷たく硬く、植物とはまるで異質のものであると分かる。全て人造のものなのだ。窓枠の歪みも、板に空いた節穴も、角の欠けたような岩も、設計段階から意図されたものだ。恐らくは後から現在のバウの人々が持ち込んだらしい宣伝の幟や、物売りに使っている机、食堂の前に並べられた椅子などだけが、ここでは自然なものなのだ。

 アルは細い路地に入り、更に細い路地に入り、人一人が体を横にしないと入れないような建物の隙間に入って進んだ。そして、行き止まった。

「行き止まりじゃない。」

 ドリスが正直に感想を言う。

「これでいいんだ。」

 アルが顔の高さ辺りの壁を掌で触れる。ぴりっとした感触が手に伝わる。何故か脳味噌が一瞬痒くなった錯覚を覚える。

 正面の扉が少しだけ引っ込み、そして下へ下がる。内部への入り口が現れた。生体認証のように思えるが、ボタンのようなものである。そもそもアルの掌紋が登録されているはずがない。しかし触れた生物の知能の程度を概略把握する簡単な機能は持っていた。獣除けだ。

 アルがそこへ入ると天井が発光した。ドリスもジュニアも後についてくる。さすがにジュニアのニギニギも止まっている。

 通路は左右に続いている。高さも幅も3m程度の真っ白い通路だ。この通路を利用していた誰かも、人と同じくらいの体格と想像する。

 通路の左は暗く、右は奥まで明るい。そちらへ進めと言うことだろう。三人は素直に右を選択した。硬質な廊下だが、外の遺跡を形作っているものよりは素材として柔らかいようだ。三人とも革の靴を履いているので足音はしない。

 三人が移動するにつれて、天井の光も移動する。この施設の電源は健在だが、主を失って後、永遠に維持できるわけではない。出来るだけ長い時間機能を維持するためには必要な機能なのだろう。

 少し歩くと、下へ降りる階段がある。三人は下って行く。ワンフロア降りたところで、通路が金網で遮断されている。開閉できるようだが、方法は当然分からない。ここは既に遺跡の地面を基準とすれば、地下のレベルのはずだ。

突然、自然に右手の扉がゆっくりと横にすべり部屋が現れる。三人は顔を見合わせたが、誰もそれを止める者などいない。中に入る。

巨大な空間だ。目の前に扇形に広がる下りの階段があり、従って今の場所は一段高いので、部屋の奥までが見渡せる。書架が放射状に整然と並んでいる。

「何、ここ…。」

 ドリスが立ち止まって書架を見回す。ジュニアは構わずに階段を降りると書架から本を一冊取り出した。

「難しい。」

 ジュニアがそれだけ言って本を元へ戻す。辺りを見回しながら歩く。アルも階段を駈け降りると本を手に取った。開く。

「読める…。」

 アルが呆然と言う。本の文字が読めるのだ。リンダスプールで報告したように彼は文盲である。字を書いたり読んだりする教育は受けたことが無い。

 アルは慌てて別の本を手に取る。そしてその次を手にする。やがて一冊を真剣に読み始める。

 ジュニアが階段を上ってドリスの横に来る。

「夜に寺。」

 既にジュニアは革球をニギニギとしている。この場所には興味が湧かないようだ。

 ドリスに言うだけ言って外へ行こうとしたジュニアにドリスが振り返る。

「待って、落ち合うのはここにしましょ。アルは当分ここから離れそうもないわ。」


 ジュニアは人が溢れる遺跡の街路に戻った。街を歩く人々の風俗はまちまちだ。アルシア大陸の様々な場所から人が集まっていることが想像できる。それだけこの遺跡が有名だと言うことだ。特にこの遺跡はアルシアの神である、ジークムントとリズズとにつながるとされる最も有名な遺跡の一つであり、信心深い人には死ぬまでに一度は訪れたい場所なのであろう。特にこの祭りの時期には、多くの地域から信者を率いて聖職者が集まり、遺跡上のいくつかの場所で集会が行なわれる。そう言った意味で、このイベントはアルシアワイドであり、各地域密着の要素もある。この形式を考案したバウの誰かの企画力の賜だ。そう言ったイベント性がなければ、バウの遺跡自体はタダの無人の遺跡に過ぎない。

 ジュニアは路の脇に並ぶ店を横目に見ながら進んで行く。遺跡の建物をそのまま利用している。構造物は強固で、彼らが使用しても傷むことはないようである。商店に売っているモノはどこも似たり寄ったりで、遺跡を模した四角い箱状の置物や、その横に塔を配置したもの。ジークムントとリズズと思われる二人が遺跡の上からアルシアの大地を見下ろしている絵などがよく見られる。朝食のスープが辛すぎたので彼は空腹だったが、何処の食堂でもあのスープばかりが売られていて、それを見るだけで食欲が減退した。

 その時、ジュニアはどこからかの視線を感じた。憎しみよりも恐怖を伴う視線だ。捕食者に見据えられた小動物が、恐れのために身動きが出来なくなったときが想像される。

 ジュニアはゆっくりとそちらへ視線を向けた。

 女の子だった。まだ、五・六歳だろう。幼い子供だ。黄色いワンピースを着ている。裕福な家庭の子のようだ。親に連れられて、ここまで旅をしてきたのだろう。

 その子が、路で直立したまま、ジュニアの方を睨みつけるように見ている。歩く人々がその子をよけながら歩いて行く。周囲に知っている人はいないようだ。おそらく迷子ではないかと思うし、周りを抜けて行く人々も、声をかけた方がいいのか迷っている人もいる。

 ジュニアと目が合った。彼は精一杯微笑んだつもりだったが、少女は驚いた顔をして、爆発的に鳴き始めた。


『土台、この混雑した祭りを数人の憲兵隊で全て見回ろうというのが無理な話だ。それじゃ、祭りの成功に!』、そう言って隊長のフルシツカヤは、屋台の一つで一杯始めた。つまみは例の辛いスープだ。店は色々あるが、彼はここのが一番だと思っている。彼女は仕方なく上官の正面の席から立ち上がる。顔の前には薄いベールが降ろされている。

一人で通りを歩き始める。これまでの人生で学んだことの一つに、この上司に意見しても言い負かされるだけであると言うことが結構上位にノミネートされている。

去年と同じだ。そして、全て何事も無く、とは行かないが、上司の言ったとおりに何となくそれなりに上手く行くのだろうと思う。でもでも、しかししかし、そのためには自分がここで精一杯のことをしなくてはならないはずである。

彼女は、名前をメリル・クレルニンという。ミサリアの中央北部、ガンドアスターゼンと呼ばれる地域の出身である。

彼女は生まれながらにして顔に大きな痣があった。額から目、頬までの顔の左上半分が、青黒く変色していた。ミサリア大陸において女性の顔の痣は特別な意味を持つ。

原因は、やはりジークムントとリズズだ。真面目で堅物なジークムントの話ではない。リズズ・バウと恋に落ちた女性の顔に痣があったというのだ。リズズは女性の容姿に興味が無かった。彼はその人の心を好きになるのだが、それでも彼女とリズズの恋は結実しない。そのことに嫉妬した別の女性が彼女を欺し、結果的に顔に痣のある女性はリズズ・バウを裏切り傷つける、悲嘆に暮れるリズズを救うために、ジークムントは痣の女性の命を奪って罰する。

神話は常にリズズ・バウの味方だ。痣の女性は神話の中でこれでもかと言わんばかりに徹底して悪女として書かれる。その時から、女性の顔の痣は、アルシアでは歓迎されなくなった。それだけのために彼女は一生、顔を隠して過ごすことを強いられたのだ。

ベール越しの薄明るい街路をパトロールする。空は快晴だ。バウにはミサリア軍の駐屯地があるが、ここを守る憲兵組織には数名しか配属されていない。バウに軍を駐留させているのは、ミサリア王、アドボルド・ミデデルザの長期の戦略に基づくものであるが現状では駐留しているという事実を既成化する意外には意味はない。従って規模は小さなものだ。それは現在はまだ、ミサリアは北方に未統一の地域を抱えており、ロスガルト軍と事を構える余裕の無い事を意味している。

路地を曲がったところで、ちょっとした騒ぎに出くわした。要は小さな女の子が泣いているだけなのだが、それをあやそうとしている青年がからっきしなのだ。

「泣かない。…泣かないよ。」

 背中しか見えないその青年は、困り果てているが、粘り強く子供を説得しようとしている。が、とにかく理屈っぽい。いやいや、説得しても駄目なのになあ、と思う。

「だから泣いても何も解決しない・よ。えっと、よく考えてみよう、君が鳴き声を上げて、その声が君の知り合いに聞こえる確率ってどのくらいあるかな?」

 滑りっぱなしだ。だけど彼の声には迷いが無い。それが無駄とはまるで分かっていないのだ。何という天然か。

「どうしました?」

 出来るだけ穏やかに話しかける。その青年が振り返る。

「泣かれて…。」

 簡潔な答えが返ってくる。

 驚きだ。驚きだ。驚きだった。その青年は何一つ表情を変えなかった。あくまでも冷静にそう一言言ったのだ。ベールで隠していても自分の顔に痣があるのは一目瞭然だ。自分としてもその程度の目隠しにしておかないと何かの理由で戦闘になったときに外部の詳細を見ることが出来ず危険なのだ。どちらかというとこのベールは、『痣があるくせに顔を隠さずに歩いている異常な女』と言う反発を回避するためのものだ。従って自分の顔を一目見た人は、老若男女にかかわらず、程度の差はあっても表情に何か兆しが見えるものだ。それが自分のこれまでの20年弱の経験だ。

 リズズ・バウ。その名前が脳裏に浮かんだ。容姿に囚われず、その人の心を大好きになってくれた人。

 そして連続して体の芯を貫くような、電気のような感覚が走り抜ける。

 この人は自分と同じ種類の人間だと確信する。

 彼女はガンドアスターゼンの民である。ガンドアスターゼンは国家であり、それでも一般的な認識の国家ではなく、組織であり、人の集団である。

ミサリアの王、強王と呼ばれるアドボルド・ミデデルザはガンドアスターゼンの領土を蹂躙し支配したが、ガンドアスターゼンはそういった概念の国家では無い。

ミサリアはガンドアスターゼンを支配したと思っているが、ガンドアスターゼンの民で、ミサリアに征服されたと考えている人はどこにもいない。

 ガンドアスターゼンは諜報国家である。情報を収集し、周囲の勢力とバランスを取りながら民族を存続させてきた弱い集団である。彼らは諜報員と暗殺者を育成し、他国に深く浸透し、広く情報を集め、強いものの要求に応じて暗殺者を派遣しそのバランスの中で辛うじて生き抜いてきた集団である。

 そこに生まれた子供達は、適性に応じ武術や剣術、忍びの術を教え込まれ、また女子はそれに加えて房中術を教え込まれ、広くアルシア全土に情報収集のためのアンテナとして拡散している。

 メリル・クレルニンはそのコースから落後した人間だった。顔の痣のためである。彼女は、生まれつきのその忌々しい痣のためにガンドアスターゼンの女子が当然受けるはずの講義を受けること無く歳を重ねた。彼女にとっては屈辱の日々だった。その代わり、剣術では誰にも負けたくないと努力した。戦闘の専門要員として本国の親衛隊組織内で兵士として活躍する道が少ないながらも残されていたからだ。そして、彼女はそれを実際に手に入れる直前のレベルまで辿り着いていた。

 しかし年を取るにつれ、男子の成長は著しく、また、彼女には女性としての体型の変化も加わり、今まで相手にもならなかった男子に勝つことが出来なくなった。当然国家は彼女からその可能性も奪い、その事実は彼女を絶望に追い込んだ。

組織内に居場所を見いだせなくなった彼女はミサリア軍に志願し、ミサリア統一戦争でいくつかの武勲をたてた。戦いが激しく、戦力も互角であった頃はメリルの戦闘能力をミサリア軍は確かに必要としていたのだ。それだけメリルの戦闘能力は通常の兵士を遥かに凌駕していた。

しかし、非占領地域が少なくなるに従って戦闘は小規模になり、戦力差は一方的になってきた。そうなるともうメリルは厄介者でしか無かった。顔に痣のある女性の助力を得て勝った軍隊、その助力が無ければ勝てない軍隊では、国民はついてこないのは明らかだった。ジークムントとリズズの神話において、顔に痣のある女性はどこまでも邪悪な存在と思われているためだ。

そして彼女は、このバウの駐屯地に憲兵として派遣された。明らかに厄介払いであった。これもまた彼女にとって屈辱以外の何ものでも無かった。

 彼女は今でも危険な獣である。しかし、成果を期待されなくなった彼女は、生き方に飢えており、いや既に絶望していた。

「何か?」

 メリルの固まった表情にジュニアが質問する。彼女は思考を現実に引き戻して笑顔を作る。

「迷子ですか?」

「あ、はい。そうだと…。」

 メリルがそつなく返答すると、ジュニアも彼女への違和感を振り払ったようだった。

「どうしたの?」

 メリルはジュニアを脇に押しやるように女の子に近づくと彼女を自然に抱き上げた。その子をあやしながら、なだめて泣き止ませる。迷子の扱いは、この時期の主な仕事の一つである。

 メリルは暫くその子と会話をして情報を聞き出すと、ようやくジュニアに向き合った。ベール越しにその男性を見つめる。

 並の剣士では無いと判断する。ただ、メリルのように剣呑な雰囲気が外部へ発散することを遮断する技能は持ち合わせていないようだ。まあ、諜報員で無ければ当然かとも思う。メリルは悪戯に一瞬だけ彼に自分の気を送った。

 青年は瞬間的に一歩飛び退き、自分の剣に手をかけた。面白い。

 二人の間をつなぐ、濃密な空気の核が出来て、周囲の人々を排斥する。人々の溢れる雑踏の中で二人だけが隔離されて今ここに存在するかのような錯覚に陥る。見つめ合えば合う程、お互いの間に存在する何らかの物質が帯電したようにピリピリと体全体の皮膚を刺激する。その感覚は、体の表面を包み込むように走り回り、そして肌の微小部分に対して垂直方向内側への距離に比例して内部に浸透して行く。不快な感じでは無い、不本意だが快感に近い。限りなく近い。相手も自分と同じ種類の人間だ。

 メリルが微笑む。

「この子の面倒を見てくれてどうもありがとう。後はこちらでやります。」

 よく見るとロスガルトの軍服を着ている。しかも赤の騎士の制服だ。自分はミサリアの憲兵の制服を着ているが、格は向こうが遥かに上だ。

「ロスガルトの軍属の方ですか?」

 青年が黙って頷く。

「バウには何の用で?」

「特には…。」

 言葉が少なく会話が続かない。現在ミサリアとロスガルトとは友好関係にあるので、勿論ロスガルト軍人が一人、ミサリア国内を旅しようが何しようが勝手である。

「お一人ですか?」

 再び頷く。

「ああ、連れに男が二人。だが彼らは軍人では無い。」

 質問の意味を察したのか、そう付け加える。メリルはふと考える。どうすればいい。

 二人は互いの瞳を逸らさずに見つめ合う。おそらく考えていることは同じはずなのに、それを口に出すことが怖く感じる。男性から言って欲しい。

 しかし彼女の意に反して、沈黙がまだ続く。

「立ち会ってもらえるか?」

「日没後ならお相手できます。」

 唐突な彼の一言に、彼女は間髪を入れずに返答した。矢をつがえた弓から手が離れ、その瞬間に矢が飛び出すことと同じ道理だ。

 ジュニアはあっけなく彼女から目をそらすと、彼女の横をすり抜けて歩き去ろうとする。

「ミサリア軍の駐屯地があります。」

 メリルは大きな声でジュニアに声をかける。彼は何の反応もしない。しかし伝わったことは分かる。何故分かったかは、その理由はよく分からない。


 ジュニアがその部屋を出てものの10分で、ドリスは『飽きた』。とにかくアルは本を読んでいるだけなのだ。ドリスは読み書きが出来たが、その本に書かれている文字はドリスの知っている文字達では無かった。この地方の言葉と理解するが、それを何故アルが読めるかは、考えもしない。

「アル、あたし何か食べるものを買ってくる。」

「ああ。」

 ドリスの言葉に、アルが聞いているんだか、いないんだか分かんない調子で返事をする。『分かんない』と書いてあるが、この場合『まるで聞いてなさそうな』と言う意味だ。

 ともかくドリスはその部屋から逃げ出した。『よっしゃ。』 階段を上がりながらドリスが拳を作る。

 広い部屋が再びひっそりとする。アルは熱心に眺めていた本から視線をずらすと、ドリスが今出ていったばかりの扉を見つめた。

 そして本を閉じる。『ぱたん。』

 放射状の階段に腰を下ろす。

 アルは自分の掌を見つめる。手には小さな上腕が融合したまま埋め込まれている。アルがちぎり取った悪魔ファウナの腕だ。

 アルはそこで躊躇する。相手は悪魔だ。信頼できる相手ではない。あのサイクロプスの掌の中でさえ呼び出すことに躊躇したのに、今は奴らの意見を聞いてみたいと思う。

 アルが更にそれを見つめると掌が、ぼおっと光り始める。一筆書きでペンで描くように複雑な幾何学模様が浮かび上がってくる。円を基本としたその文様は、対照的なようであり調和しているようであり、安定しているようでいて、実は見る人を不安と不快にさせる歪な文様だ。悪魔フローラの魔法陣である。

 魔法陣が完成するとその上に光のチューブが垂直に伸びる。そのチューブの中に、朧気な人のかたちが現れる。10cm程の小さな人型だ。それはやがて実体化し、美しい女性に変貌する。長い黒髪と小顔、丸くて大きな瞳の下には印象的なほくろがある。豊満な肉体を協調するような露出の多いタイトな黒い服から、白い肌の四肢が艶めかしく付根から人目に晒されている。

 彼女はアルを真っ直ぐに見つめると、ニコリと微笑んだ。優しい悪魔の微笑みだ。

「何か用かしら?」

 落ち着いた大人の声色だ。

「お前は、ここを知っているか?」

 アルが緊張しながら固い声で話しかける。フローラのリラックスした感じとは対照的だ。フローラはその声に周囲を見回す。

「知らないわ。何処なの?ここは。」

「バウの遺跡の内部だ。」

「へえ…。中に入れるんだ。」

 彼女は再び周囲を見回す。

「ここが何なのか、噂も聞いたことはないのか?」

「お役に立てなくてごめんなさいね。」

 半ば気もそぞろにフローラが答える。この場所には興味を持ったようだ。

「ジョン・ドバンニは知っているか?」

 その名前に、フローラがあからさまに嫌そうな顔をする。

「なんであんたがあの外道を知ってんのよ。」

 先程までとは人格が一瞬で入れ替わったようだ。先の尖った錐のような、言葉が彼女から発せられた。

「ごめんなさい。あいつのことは思い出したくない。黒魔術師を何人も分捕られたわ。」

「あいつは何なんだ?」

「知らないわよ、質の悪い呪術使い? もう何百年も生きてるはずよ。その頃はね、あいつみたいな術を使う白魔術師が何人もいたわ、でもあいつが、順繰りに殺していって、今ではあいつしか残ってないと思う。肉体が老いると、その辺の誰かに乗り移って支配する。それを繰り返すから、だから死にゃしないのよ。あれこそ化け物だわ。でもコピーはコピーらしくて、それを繰り返すうちに、あいつ自身も自分が何だか、自分でも分かんなくなっちゃたみたいね。今じゃ、快楽を求めることと、そのコピーを維持するためだけに生きてるようなもんだわ。あら、年がばれちゃう。嫌だ。」

 フローラは怒ったり照れたりしながらアルに話しかける。不用意に、ちょっとだけ、カワイイと感じてしまう。

「奴の中にいた人格の一つに、ここを教わった。」

「ええっ、あんたあいつとやり合ったの? それで無事なの? 前のままなの?」

 両手のひらをグーにして、それを口元に寄せて、フローラがびっくりする。瞳がバーンと見開かれて、分かりやすいくらいに驚いている。ほほえましい。

 ふ、と思う。心の動きを読まれているのかもしれない。彼女は自分の心の動きを読みながら、印象のいい所作をして振る舞っているのかもしれない。そう思って感情を奥へ閉ざす。

 フローラがニヤリと笑う。しかし何も言わない。

 暫く沈黙する。

「で、私に何の用なの?」

 大人の優しい声でフローラが尋ねてくる。

「いや、ここのことを少しでも知っていればと思って…。」

「お役に立てなくてごめんなさいね。私にはそのフルハヤ・スタルツって名前さえ初耳だもの。取りあえず周りに聞いてはみるわ。多分誰もバウの遺跡の中の事なんて知らないだろうけど…。」

 ニヤニヤしながら話すフローラの表情がそこで硬く凍り付いた。アルを見上げる目線がまず下方へゆっくりと降りて行く。そしてそれが限界に達すると、ゆっくりと首が下へ向いて行く。

 彼女は自分の足元を、アルの肉と融合したファウナの腕を、十秒程凝視してから、その首を再びゆっくりと、上へ戻した。

 表情が欠落し、顔色が青ざめている。口元がせわしなく、痙攣したように振動している。瞳には涙が溢れ、今にも頬へこぼれ出しそうだ。

「キ…。」

 耳を突き抜けるような悲鳴が、アルの鼓膜を数ミリ秒だけ振動させて、悪魔フローラは勝手に姿を消した。

 アルは掌を握りしめると、天井を見上げた。そのまま暫く、虚空を見つめる。


 迷子の親をようやく探し出し、祭りで賑わう遺跡のパトロールに戻ったメリルの元に、隊長からの伝令が訪れる。

 彼が言うにはすぐに遺跡の北端にある円形劇場に来るように隊長が言っているとのことだ。理由を問うと、彼は耳元で『人が殺されました』という。

 遺跡のメインストリートを北の端に歩くと突き当たりに円形劇場がある。石造りの露天の劇場で、メインストリート側からみると三階建て程度の建築物に見える。建築物にはいくつもの上りの階段があり、劇場内部に突き抜ける。この建物は要するに、客席を支えるための土台だ。中央に配置したステージを出来るだけ多くの人が障害物無く見るためには、前後の席の間に充分な高低差があることが望ましい。

メリルが永くここに勤務する感想としては、何らかの理由により、この遺跡では地下には設備を作ることが出来ないのだ。だから舞台を掘り下げるのでは無く、客席を上へ積み上げて劇場を作ったのではないか。

 メリルは劇場の入り口に立った兵士に敬礼をして中へ進む。恥ずかしい話だが、バウの駐屯兵でメリルを知らない者はいない。それも例の痣のせいだ。劇場中央に設置された一番広い上りの階段を上りきり、劇場の内部に立つ。観客席のほぼ中央の位置だ。座席数は5,000席程ある。椅子も例の石造りだ。座席全体が概ね三十度程度に傾斜しており、なかなかの急勾配である。前方中央の円形の舞台を取り囲むように座席が配置され、そこから放射線状に座席が広がる。

 中央の舞台の上に、数人の人影が見えた。一人は隊長のフルシツカヤの姿に見える。ああ、もう一人も分かる、同じ隊のミンダエフ伍長だ。メリルは中尉を拝命しているので階級は彼女の方が上だ。ここ数日、顔色が悪く、何となく雰囲気もおかしい。体調を崩しているようで心配している。ここ何日か夜勤を担当して貰っているが、真っ昼間のこの時間にこんなところにいて体は大丈夫なのかと更に心配になる。

 メリルは急いで皆の集まっている場所へ階段を降り始めた。

 途中でフルシツカヤがこちらを見つけたようだ。こちらを向いて片手を上げた。

「クレルニン中尉、忙しいところを済まん。」

「いえ、…。」

分かっているくせに、と思う。

「それより、人が、殺されたのですか?」

 そう言って人混みに加わると案の定、中央には一人の女性が瞳を深く閉じて横たわっている。古風な衣装をまとった若い女性だ。

「今日明日と演じられる舞台に出演する役者らしい。」

 その劇は毎年上演される伝統的な演目だ。ジークムントとリズズの神話に基づいて演じられる有名な話だ。メリルが一番良く知っており、一番恨みを持っているお話。

「ご存じのようにリズズを裏切る醜女の役は、観客の恨みを買いますから、毎年村の外から女を選びます。この女も一昨日から人の目に触れないようにこの劇場の中で寝起きしながら稽古をさせておりました。」

 メリルも見知っている年老いたバウの村長は、死体を見下ろしたまま、そう言ってから顔を上げた。そして、メリルに気付いてヒュッと息を吸い込んで黙り込む。

「お気になさらず。」

 メリルが冷静に言葉にする。いつものことだ。どうやら殺された娘が、痣のある女の役を演じる予定だったらしい。

「犯人の目星は?」

 村長に気を使ったわけでは無かったが、メリルは質問をして雰囲気を少し変えたかった。

「朝早く、何人かの女達が劇場から出て行くのを見たという者がおります。」

 ミンダエフは乾いた声でそう言うと、コホコホと咳き込んだ。メリルには、彼がどう見ても病人に思える。雰囲気があまりにも虚ろだ。

 彼女は足元の遺体の横に跪くと、遺体の状態確認しようとした。

「クレルニン中尉!」

 ミンダエフが慌てて彼女を制止する。

「素性の分かっている者ではありません。ロスガルトとの国境付近を放浪していた女だそうです。」

 メリルは部下を見上げて睨みつける。そして彼を無視して動作を続けた。

「人をそんなことで区別するな。理不尽に殺されたことに変わりない。」

 着衣の内側を覗いてみる。酷い痣がいくつもある。殴られた痕のようだ。女の力で出来る酷さでは無い。しかも服を着せれば外から見えない場所にあるのが不自然、と言うよりも計画的だ。

「隊長。」

 上司に視線を送ると、彼もメリルの横にしゃがみ込む。

「男だな。」

 一目見て認識を共有する。

「はい、よく調べないと。」

 二人が立ち上がると、背後から話し声が聞こえた。観客席を三人の男性が降りてくる。僧侶の格好をしている。

「坊主を呼んだのか?」

 上官のフルシツカヤがミンダエフに確認する。

「はい、このままでは開演できませんから。すぐに火葬して埋葬します。」

「ずいぶん手回しがいい。」

 メリルがつぶやいた。隣で上司が立ち上がる。

「とにかく少し待たしておけ。まだ調べは済んでいない。」

「しかし、浮浪者の女です…。」

 部下は食い下がるが、上司は首を縦には振らない。何処にスイッチがあるのか分からないが、一度決めると仕事はきちんとする男なのだ。


 彼は濁った瞳の奥からその場面を見ていた。支配下に入れた死体の目を通して、その場の光景を観察できるのだ。

 一目見ただけで、雷に打たれる程の衝撃を受けた。整った目鼻立ち、美しい黒髪、豊かな胸と腰回り、長く細く、そして鍛えられた四肢。キビキビとした声。

極めつけはベールの裏に薄く見える、顔を覆う痣。この女が欲しい。絶対に手に入れて、コレクションにしてやる。彼は決心する。


フルシツカヤの判断で、広く捜査が継続される事になる。ミンダエフの報告した女達の件は取りあえずメインターゲットから外される。メリルは祭りの警備に戻り、フルシツカヤが殺人の捜査に当たる。ミンダエフは夜勤の見回りに備え宿舎に戻る。そして時が過ぎ、日没に至る。


ミサリア軍のバウ駐屯地は、バウの村の南方にある。昨晩、アルたちが宿泊した寺院よりも更に南側だ。ロスガルトの首都ロガリアを発した街道は、ポペットの森を西側へ大きく迂回し、森の西端とモラール湖東岸の間隙を抜けて北上する。そしてその後、ミサリア国境を抜けて、モラール湖畔をほぼ真北に進んでバウの村に至る。つまりバウ駐屯地は、ロスガルトからバウを守る位置に配置されている。

この道は更に北方に抜けて、東西に分岐する。東へ進めばミサリアの首都ミグーンが、西へ遙かに進めばアガ王国の領土につながる。ちなみにアルたちはバウから東北東に位置するオルバットから来たのでこの街道を通ってはいない。村々をつなぐ名も無い細い道を歩いてきたことになる。

ミサリア軍駐屯地は高い壁に囲まれた、要塞と呼べる程の巨大な施設だ。太い街道を遮るように設置され、有事には門を閉ざして敵の侵攻を防ぐことを想定している。また、西端はモラール湖に突き出しており、水の確保にも配慮されている。ジュニアは北側から駐屯地に向かったが、裏側になるこちら側も敵に囲まれたことを想定して前面と同様、堅牢に作られている。

既に日没を過ぎたが、辺りはまだ充分に明るく薪には火はともされていない。

ロガリアの城壁がそうであるように、街道が駐屯地を貫く南北二つの門には、分厚い門扉が設置されている。今は開放されているが、閉じられれば強引に開くことは容易ではないことが明白である。

門扉を過ぎると城壁内の通路があり、上下左右に無数の矢狭間が見られる。ここに入り込んだ敵兵を攻撃することが目的だ。ロガリアの城門よりも、戦闘に特化している事があからさまである。さすがに通路は既に暗く、壁に明りが灯され地面を照らしていた。どうやら壁の内部から油を供給し点火させるものらしい。おそらく油の供給は集中的に管理されているのだろう。もしかすると瞬間的にかつ同時に消灯する仕組みも持っているかもしれない。敵に攻め入られたときには必要な仕組みだ。

もう一点興味深かったのは、通路の床のレベルが外から2m程低い位置にある点だった。具体的には通路の両端に下りの階段があり、それを下ってから先へ進む構造になっている。おそらくどこかに水の引込口があり、モラール湖から水を引き込んで通路を水没させることが出来るのだ。通路内に敵を閉じ込められれば、溺死させられる可能性がある。

通路を抜けると、内側にも門扉があり、そしてだだっ広い広場に出た。練兵場だ。兵士の訓練に使用するのだろう。土で出来た広いグランドが整備されている。

これまで、所々にミサリア軍兵士が立って警戒にあたっていたが、彼女の姿は見えなかった。辺りを見回してみたが、いつまでもこの場所に立っているわけには行かないだろう。ミサリア軍の施設にロスガルト軍人がキョロキョロしながら立っていてはさすがに何をしているのか問いただされると、自分でも思う。

彼は仕方なく練兵場を南へ歩き始めた。もう辺りは暗く、そろそろ駐屯地の門も閉ざされる時間である。前方に南側の門につながる通路の入り口の明りが見える。門が閉じた後は、駐屯地の外周を壁に沿って歩かなくてはならない。敷地が巨大なので、大分遠回りになるが仕方ない。

「お待ちください。」

 暗闇から声をかけられる。それまでまるで気配を感じなかったことにびっくりする。

「来て下さいましたね。」

 闇の中から浮かび上がるように女性のシルエットが実体と化す。昼間の女性だと分かる。

「ここで?」

 ジュニアは重心を少し低くして、腰の剣に手を添えた。

「いやいや、さすがにここでは…。」

 彼女がちょっと驚いたように返答する。そりゃそうだ。クスクスと笑っているように思う。ジュニアは突然、何故か新鮮な気持ちに見舞われて、自分もおかしくなった。勿論、笑いなどはしない。

「あちらに小さな闘技場があります。そちらにしましょう。ここだと邪魔が入りますし、私が負けたときにあなたは無事には逃げられないかもしれません。」

 そう言ってその女性は振り向くと西の方向に歩き始めた。ジュニアがそれを追う。

 中央の円形のエリアを、360°観客席が取り囲んでいる。これでは武術の興行だ。ロスガルトにこのような場所はない。ミサリア王は、闘いを好むと聞いているので、本気で部下同士を争わせるようなことをするのかもしれない。恐ろしいことだ。

 既に観客席の最前列には、多くの薪がたかれており、明るさは充分である。ジュニアは闘技場の中央手前で足を止めた。彼女もこちらを振り返る。明りの下で二人が見つめ合う。

「あなたが勝って私が死んだら私の後ろの通路を先へ進んで下さい。湖沿いに外に出ることが出来ます。」

 やはりこの人は私の顔の痣のことを何とも思っていないことを再確認する。でも、ただそれだけだ。神経がぴりぴりする程の緊張感が脳を麻痺させているようだ。考えるのでなく、闘いたい。今二人に言葉はいらない。

 彼女はミサリアの軍服ではなく、ガンドアスターゼンの女性が昔から着用している戦闘服を着ている。この服は動きやすく、そして最大の利点は多くの場所に武器が隠せる点だった。腰の左右から二刀を手にした。右利きの彼女は右手の刀が若干長い。

 剣を抜くと彼女と正対した。呼吸を鎮める。彼女は二刀を使うようだ。二刀流とは手合わせしたことがないが、わくわくとする。あの二本の剣はどのように役割を分担するのだろう。短い剣でもそこそこの重さがあるはずだ。女性が片手で操るには重すぎると思う。それに二本とも直刀である。突くか殴るにはいいが、袈裟に切ったときには角度が悪いと後で抜けなくなる。切り抜くには12-13°の反りがある方が好ましい。

 服装も独特だ。先程までのミサリアの正式な軍服ではない。袖口が緩く長い、下半身も左右に深いスリットの入ったタイトなスカートだ。動きにくいのではないかと思うが、何か理由があるのは明らかだ。油断できない。

 二人の間合いは3m程。どちらにとっても遠い間合いと思う。

 彼女の体がフッと沈み込んで、直線的にこちらに走り出してくる。右手の長刀を大きく振りかぶり上段から力任せに振り下ろしてくる。ジュニアはその剣を、体を左に振って避ける。

 ジュニアの左上方から彼女の回し蹴りが落ちてくる。右手を振り下ろすのに、右足で踏み込んでいると言うことだろうか?

 彼女の体が大きく上へ上がり、ジュニアの頭上を越えて行く。跳躍しているのではない。剣を杖のように使っているのだと分かる。上方に気を取られたその瞬間に、ジュニアの脇腹に激痛が走る。彼女の左手から投げられた剣が、ジュニアの脇を切り裂いている。

 彼女はジュニアから5m程も離れた位置に着地した。

 ジュニアのターンだ。脇腹の出血に気を取られてはいられない。彼女はジュニアの反撃の早さに一歩だけ下がったが、上段から振り下ろされたジュニアの剣を左で受けた。先程投げた剣は地面に落ちたままなので、別の剣をこの短い間にどこかから取り出したと言うことになる。

 それは200mm程度の短い剣だ。いや、よく見ると二股に分かれた音叉のような棒である。十手に近い武器だ。

 彼女が左手を捻ると、ジュニアの剣が引っ張られる。二股の間に挟み込み強引に剣を折るつもりだ。

ジュニアは体を思い切り彼女にぶつけた。抵抗しては剣を折られる。勿論剣を手放せば相手の剣で刺し殺されるだけだ。

 二人はそのまま地面に倒れ込んだ。ジュニアが彼女に覆い被さる。痛みを感じ、ジュニアが慌てて体を離す。背中に痛みが走っている。彼女が背中に回した右手には短いナイフが握られている。一体どれだけ武器を携帯しているのだろうか?

 離れて行くジュニアの体に向けて彼女が何かを投げつけた。目を逸らしていいか判断できないまま、ジュニアは体を捻ってそれを避けた。薬品であれば当然視力を奪われる。

 ジュニアが構える。彼女も既に短剣を構えている。右手に短剣、左に十手状の武器を持っている。彼女は腰を低くしてナイフを前に構えている。

 既に武器を使い果たした。脇腹と背中に傷を付けたが、相手の活動を停止するまでには至らなかった。無念である。しかし傷は浅くはない。未だ出血は続いているようだ。動けるだけ動き回って、相手を動かして、出血を増やし、敵が力尽きるのを待つしかない。不可能ではないはずだ。

 ジリジリと敵が距離を詰めてくる。自分が追い詰められた獣のように思えてくる。左右に動くが隙がなく、徐々に追い詰められる。剣術の能力は相手の方が何枚も上なのだと悟る。

敵の手にはまだ彼の剣がある。慣れ親しんだ剣であるはずだ。自分のように武器を捨てながら、敵を傷つけて行くやり方とは根本的に何かが違うのだと思う。

 ジュニアが動いた。距離を詰めて切り込む。

 敵の踏み込みに合わせて、こちらも前へ出る。敵の間の内側に入り込むのだ。短い剣だからこそ勝機がある、可能性がある。十手を捨て、ナイフを右手に逆手に持ち、柄の端に左手を当てて、敵に突き出す。勝った。

 切っ先が相手の肉体に届く瞬間、手首を強引に左側から握られる。ナイフが横へ押しやられ、ああ、負けてしまったと漠然と感じる。強引に右へ体を倒される。もう男性の体力には、自分の身体では対抗できないのだと思い知らされる。仰向けに倒された。彼が自分に馬乗りになり、彼の剣が、自分の喉元に突きつけられる。

 喉に鋭い痛みが生まれる。ああ、もう死ぬのか。思い返せば中途半端な命であったと思う。全てを顔の痣のせいにして、言い訳しながら生きてしまった。

 涙が流れる。何故だろう。だってやっぱり死にたくない。出来ればもう一度やり直したい。

「何故?泣く?」

 目前の彼が驚いたようにそんなことを言った。気がつくと既に剣は喉元にはない。

 メリルはその状況を疑った。自分がこの状況に持ち込むことが出来たなら、迷わず相手を殺している。幼い頃からそう教えられたからだ。でも今私は、死んでいない。いや、もしかしたら、既に死んだのかもしれない。彼が、今までの私を殺してくれたのだ。きっとそうなのだ、私はあのガンドアスターゼンという頑強な檻から解き放たれたのだ。生まれてから死ぬまで、組織のために諜報活動に従事し、死ぬときには常に組織のためだ。そんな組織に属していながら、諜報でも戦闘でも役に立たなくなった私の抜け殻から、私は今解放されたのだ。

 彼女がもの凄い力で抱きついてくる。唇を奪われる。豊かな胸がぎゅっと自分に押付けられる。今初めて、彼女が女性だと意識した。そして、そう思ってしまうとより強く意識せざるを得なくなる。

「お願いです。私をここから救い出して下さい。」

 再び思い切り抱きつく。何と逞しく頼りがいのある肉体か。

 ジュニアは動揺する。しかしこの相手が真剣である事は心が感じる。彼女は震えている。何かに怯え震えている。そして自分を必要としている。自分のことをかけがえないと思っている。彼女は強い。しかし本質は、弱く孤独なひとりぼっちの人間だと感じる。

「分かった。」

 彼の手が、自分の背中にまわされて、優しく抱きしめてくれる。心がドキドキとして息が出来ないくらいになる。もう絶対放さないと思う。

 暫くそのままの時間が流れる。彼が頭を撫でてくれる。特に額を撫でられると心が落ち着く。

いつの間にか二人向き合って闘技場の地面の上に座っていた。彼女は彼の手を放せずに握ったままだ。

「大丈夫?」

 問いかけられて素直に頷く。しかしその先は続けてくれない。見つめ合ってはいても会話は続かない。

「メリル・クレルニン。」

「シトラウト・シュミッツ・ジュニア。」

 それきりだ。

「何故?とどめを刺さなかったの?」

「手合わせは済んだ。」

 再び見つめ合う。ジュニアの堅物らしい真剣な顔を見つめていて何だか急におかしくなった。

「おなかすいた!ジュニア!」

 そして彼の鼻の頭をつんと押す。メリルが声を出して笑った。ジュニアも声に出して笑う。そして脇腹を痛がる。

「ああ、ごめんなさい、傷、傷む?わよね。」

「君は強い。」

 そう言われて、ちょっとびっくりする。ジュニアを見つめる。またおかしくなって、彼に抱きつく。ジュニアが痛がる。

 メリルはジュニアを、下士官用のロッジに誘った。モラール湖畔に建てられた小さな小屋だ。駐屯地から10分ほど歩いた場所にある。

闘技場の更衣室で軍服に着替えた彼女は、駐屯地内の厨房に二人分の食事と酒を注文してからロッジに向かった。

 丸太で組まれた素朴な建物だ。

「どうぞ。」

 扉を開けてジュニアを招き入れる。すぐに手をつなぐ。彼が手に何かを握っているのに気付く。

「何?」

 取り上げて観察する。獣の皮を丸めて縫い合わせたものだ。硬いがそこそこの弾力性がある。彼がそれを握って、握力を鍛えていることに驚く。

「…。」

 彼女が後ろのポケットから取り出したのは長さ200mm程度の植物性の棒だ。素材は昨晩の寺院の庭に植えられていたものと同じ植物だが、それを両手に持って曲げる動作を繰り返すと腕と胸の筋肉が鍛えられる。

 二人がお互いの道具を交換し合って真剣にその効果を考える。

 メリルが先にふと我に返り、ジュニアから自分の道具を取り返す。

「まず、体を清潔にしましょう。泥と汗で、ドロドロだもん。その間に食事も運ばれてくると思うから。」

 メリルはジュニアの手を取って、ズンズンと部屋の奥に入って行く。部屋の内装は外側と同じで丸太が露出したシンプルなものだ。左手に暖炉があり、右手にはドアが二つ、寝室へ続くのだろうと想像する。正面は壁だが、恐らくは開けられる構造になっている。ガラスの類いは貴重なのでこの建物にはない。

正面の壁の横に設置された扉を開けるとそこは外だ。木製のバルコニーがあり、湖の上に張り出している。そのバルコニーの端から、湖の上に橋が架けられていて、どこかへつながっている。先には小さな小屋が見えるのでそこに行けるのだろう。

メリルはその橋を進んだ。ジュニアの手を引いている。橋の先の小さな小屋には自分たちが来た方向以外からも木製の橋がつながっていて、この小屋が共同で使われるものだと言うことが分かる。メリルが扉を開ける。二人で入り、彼女が鍵をかける。正面には扉が二つあり、片方が男性用、もう一つが女性用だと推測する。ジュニアにはミサリアの文字は理解できない。メリルは片方の扉を開けると、手を引いてジュニアをその部屋へ引き入れた。

「座って。」

 狭い部屋の壁に作り付けられた腰掛けに座らせられる。メリルがジュニアの軍服に手をかけて上着を脱がせる。

 軍服もその下の着衣も、脇腹と背中で血に染まっている。胸の心臓の辺りにも赤い点が一点ある。最後のナイフがあそこまで行ったんだ、と思うとまた何だか悲しくなる。

メリルはしゃがみ込んで脇腹と背中の傷の様子を暫く観察する。ジュニアは普通に振舞っているが鋭く切られていることに変わりない。凄い精神力だ。

「痛くないの?」

「何も変わらない。」

恐らくは『痛がっても何も変わらない』と言うことだと推測するが、言葉が少なすぎて意味が分かりにくい。それにしても、生物としての当然の反応を否定するようなことを平気で言うので唖然とする。

しかしいつまでも呆れてはいられない、とメリルは気を取り直して立ち上がり、ジュニアに背を向けた。

「この駐屯地に女性の下士官は私だけなの。だからここは私専用みたいな感じ。同僚が奥さんとか彼女とか連れてくることもあるけどね。」

 振り向くと手には瓶やら袋やらを持っている。彼女は再びしゃがみ込んで、瓶の液体を袋から取り出した布に染みこませ、傷を洗った。

「私よく怪我するから…、必需品。」

 やっぱり痛がったりしないんだ、などと思いながら手際よく洗って行く。

「しかし、上手くかわされてるなあ…、ショックだわこれは…。」

 この男は、自分の剣をギリギリでかわしている。そのギリギリが、切られる切られないのギリギリではなく、勝てる勝てないのギリギリなのだ。肉を切らして骨を断つなどと、格好のいいことを言うが、実際に肉を切られればその後は正常に剣を扱うことなど出来るはずがない。激しい痛みが生じるからだ。しかしこの彼はその痛みを、どのような方法でかは分からないが、超越して本当にギリギリのところで闘っている。

 最後に何か緑色のドロドロのものを傷口に分厚く塗られる。

「はいお終い。よく我慢しました。」

 口づけする。

「ここは女風呂だから、あなたは隣よ。」

 背中を押されて部屋を追い出される。

 隣の部屋に入ると、そこは先程までいた部屋と同じ構造だ。脱衣所である。ジュニアは服を脱いで棚に置かれた小ぶりなタオルを手にとって奥へ進んだ。

 扉を開けると、熱気と湿度がモウと襲いかかってくる。水蒸気が充満しており、視界がほとんど無い。中へ入り扉を閉める。どうすればいいのかよく分からない。どこかで湯を沸かし、その蒸気を引き込んでいると言う構造だとは想像できるが、ロスガルトでは浴槽に湯を張って浴びるのが一般的なのでこのタイプの風呂はどうしていいか不明だ。

 などと考えている間に体中が汗だくになる。なるほどこの方法でも体は清潔になるなと、理解した気になる。いられるだけここにいて、キツくなったら脱衣所に戻って体を拭いて戻ればいいと考える。取りあえず目の前の、恐らくはベンチに腰を下ろす。それにしても浴槽につかるよりも遥かに肉体的な負荷が大きい。心臓を鍛えるにはいいのかもしれない。

 と、その時彼の隣に誰かが座る。ドキッとしてそちらを見るとメリルがいる。彼女がジュニアの腕を取って体を寄せる。

「ははっ、びっくりしてる。」

 彼女はバスタオルを体に巻いて、ジュニアの横に座っている。ジュニアは何もまとっていない。彼女がジュニアの腰の辺りを見下ろす。

 メリルの胸と腰が更にジュニアに押付けられる。

「面白い。」

 ジュニアの体の変化を見下ろしながらメリルが、緊張した声でそう発音した。少なくとも面白そうではない。

「ねえ、私の顔、どう思う?」

 メリルが唇をジュニアの耳元に寄せて囁く。

「美しい。」

「痣があるわ。」

「気にならない。」

「うそ、リズズ・バウの話を知らないわけがない。私はあの女みたいに裏切るよ。」

「人が人に惹かれるのは魂が求めるからだ。」

 そこでジュニアは我慢が出来なくなり、メリルを抱き寄せて口づけをした。そのまま体を押しつるようにして、木製の床に彼女を押し倒す。彼女のまとう、バスタオルを脱がせる。

「まって、こんなとこでしたら、死んじゃうよ。…多分。」

 メリルがジュニアに口づけをする。どうしても気になるのか、右手でジュニアを包み込むように握る。

 彼女はゆっくりとジュニアを立たせながら自分も立ち上がる。

「こっち。」

 部屋の奥へ進む。

 そこには一枚の扉がある。メリルはジュニアの後ろに回って、扉を前方に押し開いた。目前に真っ暗な空間だ。

「それ!」

 メリルがジュニアを思いっきり闇の中へ突き放す。ジュニアの体が宙に浮いた。

 ジュニアには何が起こっているのかが分からなかった。そして2秒後に湖に飛び込んだ。体が急激に冷却される。全ての細胞がキュッと締め付けられる。呼吸が止まる。

 ザバリ!

 水面に飛び出して深く息を吸い込む、肺が破裂しそうだ。

 そこへメリルが飛び込んでくる。ジュニアの横に着水してそのままジュニアに抱きつく。ジュニアが再び水中に引き込まれる。唇が重ねられ、メリルの呼気がジュニアの肺に送り込まれる。

「冷たい!」

 メリルはジュニアと抱き合いながら顔を見合わせる。

「だめだ、上がろう。」

 メリルはジュニアの手を引いて小屋へ泳ぎ始める。小屋の脇から橋よりも一段低い板場へ上がる。水面よりも少し低い高さだ。

「寒い寒い…。」

 メリルがそう言いながら、ジュニアの手を引いて段を一段上がる。ここは濡れていない。小屋の壁に作られた棚からガウンを引っ張り出してジュニアに投げる。自分も一枚取って袖を通す。

 キュッと帯を締めてジュニアに振り向く。ジュニアの帯も結んであげる。そのまま抱きつく。

「暖かーい。」

 二人は手をつないで橋を小屋に戻る。服は後でいいとメリルが言ったが、ジュニアは一緒に持って帰ると主張した。赤の騎士の軍服はロスガルド王から頂いたものだ。メリルが入り口に鍵をかけてしまったので、ジュニアがもう一度湖に入って、浴室経由で取り戻した。

 ロッジに戻ると既に食事の用意が出来ていた。暖炉に火が入り、スープの鍋が掛けられている。スライスしたパンと厚切りのステーキ、酒の瓶と、ピンク色をしたジュースがデカンターになみなみと注がれていた。

 ジュニアが暖炉に掛けられたスープの鍋を不安そうに見ていると、メリルがジュニアの手を引く。体を寄せてジュニアのローブの帯をほどく。自分のローブを脱ぎ捨てて、裸のままジュニアのローブの内側へ入る。

「食事は後がいい。お願い。」

 メリルはジュニアに口づけると、二人は寝室へ向かった。


 二人で乾杯した。透明な酒は小さなグラスに注がれた。60ml程度の容積がある。メリルが何か挨拶を、と言ったのでジュニアが困る。どうもミサリアでは酒を飲むときには誰かが一言挨拶をしてからで無いとグラスに口を付けてはいけないらしい。

「二人の立ち会いに。」

 ジュニアが言うとメリルが文句を言う。

「立ち会いに?出会いにじゃないの?」

 乾杯をして、ジュニアがグラスに口を付ける。その様子を見ていたメリルが首を横に振る。そして自分は一気にグラスを空ける。そしてアゴで同じようにしろと合図ずる。クイと飲む。

 うわっ、喉の皮膚が焼けるようにヒリヒリとする。ゲホゲホと咳き込んだジュニアをメリルが笑う。でもすぐに心配になる。

「大丈夫?」

 大きな、足の長いグラスにピンク色のジュースを注いでジュニアに手渡す。ジュニアがそれを飲んだ。何かの果物の果汁だ。甘くて美味しいと思う。

「酒は初めて。」

「うっそ。」

 メリルが驚く。

「剣の役に立たない。」

 ああ確かに、と納得してしまう。

「ジュニアは何歳?」

「15。」

「くっそ、やっぱ私の方が年上か。」

「剣は誰に?」

 私はあなた自身を知りたいのにと思うが、まあ仕方ない。

「私の生まれた村では、子供は皆、村の大人に剣術を習ったわ。」

 超オブラートに包んで話し始める。だが、そこで言葉を止めて考える。彼に嘘をついてはいけない。真剣に彼を見つめる。

「闘技場で言ってくれた言葉を憶えていますか?本当に私を助けてくれるのですか?」

「約束した。」

 見つめる。色々と聞きたいが、それも怖い気がする。

「一緒に旅をしよう。仲間には僕が話す。いい奴達だ、心配ない。可能か?」

 頷く。絶対について行く。

「絶対だからね。もう口に出して言ったんだからね!駄目だって言っても付いていくんだからね!」

 メリルが立ち上がり、嬉しそうに、でも真剣に声に出す。

 その後、二度程乾杯をして、ようやくメリルが落ち着いて話し始めた。

「ガンドアスターゼンを知っている?」

 ジュニアが首を横に振る。

「私の祖国。ミサリアの北部にアスターゼン山脈という山岳地帯があって、その中央にガンドアスターゼンはあったわ。土地は貧しく、冬が長くてろくな作物が育たない土地だった。そこで私たちの祖先が考えたのは人を、能力の有る人を、アルシア各地に有償で派遣することだったの。男達は人を殺す技術を学び、身につけてアルシア各地で暗殺や戦闘に活躍したわ。アルシア全土で、統一戦争が激しかった時代だったから、暗殺者のニーズはいくらでもあったの。」

メリルは自分の生い立ちを話し始めた。ジュニアにはしっかりと理解して貰いたかった。

歴史はその後、アルシア西部ではアガ王国が、南部ではロスガルト王国が、北部ではミサリア王国が統一戦争に勝ち残り、大勢は明らかになった。

その時ミサリア王、アドボルド・ミデデルザはガンドアスターゼンの危険性を恐れ、突如ミサリア軍をそれまで協力関係にあったガンドアスターゼンに派遣し、これを征服した。しかしその時、ガンドアスターゼンは既にその情報を把握しており、多くの民は国外に脱出したあとであった。ガンドアスターゼンは、暗殺者と共に多くの諜報員をアルシア全体に派遣していたのだ。彼らは暗殺者の市場が拡大して行くに従い、最終的な勝者に滅ぼされる可能性が高いことを認識していた。

そういったことで、ガンドアスターゼンに生まれた子供達は徹底的に暗殺の技と、諜報の技術を叩き込まれる。特に男の子は格闘系の技能を、女の子は毒物や男性を籠絡する技を教え込まれるが、メリルは生まれながらの顔の痣のために、同じ女の子達のような教育を受けさせてもらえず、殺人の技術ばかりを体得した。

この後は先に述べた通りである。幼い頃から組織のために生きることを教え込まれ、その通りに実績を残してきた彼女は、体の成長と共に自身の生きる意味を見失いかけている。

「君は充分に強い。」

 ジュニアは率直に感想を言う。実際に闘ってみたので自信を持って言える。しかし、メリルは力なく首を横に振る。

「私なんて全然…。男性は勿論、ガンドアスターゼンには私よりも強い女性が何人かいるわ。」

 そうしてジュニアを見ると彼は嬉しそうに瞳をキラキラさせている。すぐに分かる、強い相手と闘いたいのだ。

 メリルは呆れたようにジュニアを見つめた。この人が頼もしく感じる。しかし、ガンドアスターゼンの仲間達は、ジュニアのように相手の命を取らないまま闘いを終わらせることはないだろとも思う。


 暗い部屋の中に二人はいる。一つのベッドに裸のまま入り込んでいる。メリルはジュニアの体に寄り添うように横になっている。

「メリル…。」

「ええ、分かってる。」

 メリルはゆっくりと起き上がると床に落ちたガウンを拾い、羽織る。ジュニアが上体を起こすが、メリルは口づけをしてそれを制する。

「待っていて。部下だわ。」

 メリルには個人の気配が特定できるらしい。

 彼女は部屋を出た。食事を取った部屋だ。正面に暖炉がまだ赤く火を残している。メリルは戸口まで歩く。

「ミンダエフか?どうした?」

 彼が扉をノックする直前のタイミングで、扉の裏側から声を掛ける。部下のミンダエフだ。ただ、何ともなく、違和感があるのがここ数日、メリルの心にわだかまっている。

「クレルニン中尉、夜分にすみません。昼間の殺しの件で、隊長がお呼びです。」

「何か分かったのか?」

「私も中尉に声を掛けてから円形劇場に来るようにと言われたので、まだ内容は聞いておりません。」

「分かった。先に行っていてくれ。」

「ハッ。」

 戸口の前から気配と足音とが遠ざかって行く。

 メリルは部屋のソファに置かれた自分の軍服に手をかける。背後で扉が開き、ジュニアが出てくる。

「ごめんなさい。上官に呼ばれたわ。行かなくちゃ。」

 話しながらテキパキと身なりを整える。ジュニアが歩み寄ってきて彼女に抱きつく。口づけをして体を離す。

「仕事が終わったらすぐに戻るわ。休んでいて…。夜が明けたら一緒に朝ご飯を食べましょ。」

 口づけする。


劇場の入り口で空を見上げた。星々が夜空を飾っている。夜明けまではまだ時間がある。

祭りの期間だがさすがに深夜の遺跡には誰もいない。ここへ上がる階段も施錠されていたが合い鍵を使って開けてきた。ただ、街路には所々に薪がまだ火を保っており、街は真っ暗ではない。

建物へ入り、劇場内部に出る。ここも薪がいくつも焚かれている。昨日の午後からは、殺人があったこの場所で、予定通り劇が行なわれたはずだ。ここの村人達にとって、どこかから拾ってきた女の死など特に気にする事ではないのだろう。自分が死んでも同じような扱いを受けるのだろうなと、何となく考える。

周囲に複数の物騒な気配があるが、目に入るのは部下のミンダエフだけである。無防備に舞台に立っている。

「隊長は?」

 大きな声を出して部下に尋ねる。

「居られないようです。」

 部下がのんきに返事した。明らかに彼は囲まれている。早足で舞台に向かう。彼の腕では生き残れない。

 歩きながら周囲に気を配る。気配は四つ。座席の下にでも隠れているのだろう。薪の作る影は背が低く、陰を沢山作る。

 舞台に駆け上り振り向いて彼をかばうようにする。

「囲まれてるぞ。」

「はい?えっ?」

 慌てて彼が剣に手をかける。彼女が辺りを見回すと観客席で数人の人間が立ち上がった。

「待っていたぞ。呪われた痣を持つ汚れた女よ。お前を俺様のコレクションに入れてやろう。」

 舞台正面の一番奥に立つ男が言った。ぶくぶくに太った男だ。遠くて細かい容姿は見分けがつかない。

「おお、いい臭いだ。艶めかしい血の臭いだ。」

 その言葉を合図にしたように、四つの影が舞台へ押し寄せる。それぞれが剣を持ってメリルに斬りかかる。彼女は冷静に一人一人を切り倒す。彼女の腕を持ってすれば、恐れることなど何も無い。そして、四人目。彼女は自分の目を疑った。一瞬躊躇する。しかしそれでも目前の彼女を斬り倒す。

 あの、昼間の被害者の女性だった。見間違いではない。昼間、確かにここで殺されていた女性だ。倒れた女性を呆然と見下ろす。

「ミンダエフ、彼女、どういうこと!」

「私にも何も…。」

 部下も絶句する。確かにあの女性だ。

「どうなってる!」

「中尉!」

 ミンダエフの声で身を固くする。左腕を切られる。切断は免れたが、腕を深く切られた。もう機能は元へは戻らないかもしれないと思う。

 身を翻して敵を切る。何と先程殺したはずの男だ。メリルの周囲に四体の死体がある。そして、それらが動き始める。殺したはずの死体達が、うごめき、立ち上がる。ゾンビだ。

 切りつけられる。受けて切り返す。左腕がブランとしてしまい、上手くバランスがとれない。

 敵は切っても切っても立ち上がってくる。こいつらは、死なない死体なのだ。

 観客席の男がメリルの様子を見て大声で笑う。私が無残に殺されて行くのを楽しんでいるのだ。くそお、死にたくない。折角今の生活から抜け出せるのだ。ジュニアと一緒に。

 永遠に終わらない斬り合いが続く。倒しても倒しても奴らは攻めてくる。心が折れそうになる。いや、まだまだだ。

 次の敵の足を薙ぐ。足を切り落とす。腕を切り落とす。死体は倒れるが、四肢が欠けているので、上手く立ち上がることが出来ない。メリルは敵の体を切り刻む。腕を切り落とし、足を切り落とし、首を切り落とすと、四人の死体はばたばたと地面でじたばたするばかりの肉塊と化した。

 メリルはその様子を見下ろしてから、観客席の男を見上げた。剣を右手に持ち、男の方へ駆け出そうとする。

「う…。」

 背中から刺された。自分の胸から剣が突き出しているところが見える。どうして、だ。敵は全てこのステージの上に、四肢をばらばらにして転がしたの、に、…。

 そこで息絶える。もうジュニアには会えないと思うと心が、凍え、もう、動かなく、なった。


 その部屋の隅でドリスが眠っている。野宿の時に地面に寝るのとはまた違うようで、落ち着きなく、頻繁に寝返りをうっている。

 アルはまだ例の図書室で本を読んでいる。集中して文字を追っている、はずだった。

「今日は逃げないでもらえるか?」

 そう言って顔を上げる。

 え、これって。

「話を聞きたいんだ。もう俺はお前の存在を確信している。」

 …。

「お願いだ。誰にも秘密にする。ジュニアにも、ドリスにもだ。俺は知りたい。お前が何なのか、自分がなんなのか?」

 本当に秘密を守れるのか?

私は考え方を変えてみることにした。

「約束する。俺はもっと沢山の事を知りたいんだ。今まで俺をずっと監視してきたお前は誰なんだ?」

 答えにくい質問だ。お前は私の存在を、概念として理解していない。

「お願いだ。説明してくれ。俺たちには時間はいくらでもあるはずだ。」

 私は短時間で出来る限りのシミュレーションを実施した。全てが、彼に話をすることのリスクに関するものだ。

 私はジークムントの作ったプログラムの一部だ。

「ジークムント?お前は神に作られたと言うことか?」

 ジークムントは神ではない、生物としては普通の地球人だ。

「地球人?」

 夜空に輝く星の一つから来たと言うことだ。

「?」

 理解しなくていい。ただ、ジークムントは神ではない。彼は遥かに進んだ文明と知能を持ってはいるが、生物としてはお前達と同じような人間だと言うことだ。

「神が俺たちと同じ?」

 お前はその点を議論したいのか?そのためにはお前には知識がなさ過ぎる。生物学と神学に関する知識だ。従ってその議論は拒否する。考え直せ、今日は一つだけお前の質問に答えよう。その結果を見てこれからのことは判断する。今日は一つだけだ。

「分かった、俺が一番知りたいのは、『運命の定めし敵』のことだ。何故神は、あのような人が人と殺し合うような非情な仕組みを作ったのか?」

 効率的な進化のためだ。一人の人間が一生の間に経験できることは限られている。且つ、人が自分の子供に伝えられることはごく少ない。遺伝的な意味で言えば、後天的な経験を継承することは不可能だ。『Nur ein Idiot glaubt,aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.Ich ziehe es vor,aus den Erfahrungen anderer zu lernen,um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.』というビスマルクの言葉がある。プロイセンの首相だった男の言葉だ。ジークムントの設計したシステムは、何も新しいものではない、愚直に、出来るだけ多くの経験を情報化して集積し、その情報を出来るだけ多くの命に、忠実に拡散伝達する仕組みを設計しただけだ。

 この世界は、私を存在させているようなナノサイズのメカニズムで充満している。全ての大気と全ての水、ある程度の深さまでの地中には隙間なくその粒子が存在している。従ってお前達の体の隅々まで私たちは入り込んでいる。

私はその粒子上で展開されているプロシージャだ。私はあくまでもソフトウェアであるプロシージャであり、構成要素であるハードウェアのナノメカニズムではない。私たちの視点では、君たちは我々の電脳空間の中で生きているある種のアクチュエータでしかない。この星全体の一部であるアルシア全体がサイバースペースなのだ。

ジークムントは科学者であり技術者だった。この星を使ってより効率的な進化を実現するための方法を実験しているのだ。その情報収集のために私たちは設計された。しかし、リズズ・バウが我々を空間に拡散する直前に、OSに変更を加えてしまった。そのためにシステム自体の耐久性は格段に向上したが、情報を収集する効率が遥かに低下した。『運命の定めし敵』のシステムはそれを補完するためにジークムントが後付けで付加したシステムだ。リズズは人の経験は、人にしかデュプリケイト出来ないようにプログラムを書き換えた。そのことによって情報は、二つを一つにしか出来なくなった。非効率なことだ。リズズが何故こんなことをしたかは分からない。ただ、リズズはお前達の祖先が好きだった。勿論ジークムントもお前達の祖先を愛していたが、リズズは個人を愛し、ジークムントは種を愛した。

ジークムントのプロトコルでは、時間Xに人工の1/2の情報を、概ね同時に収集し、収集後の個体をデリートする。そしてそれらの情報を統合し整合性を持たせて、新しく生まれた人に拡散するはずだった。この情報の統合と整理には膨大な時間がかかることが予想されたし、私たちにかかる付加が大きくなりシステム障害が突発的に生じる可能性もゼロとは言えなかったが、ジークムントの演算ではこの方法が最も効率的であると結論づけられた。

リズズの方法は、二つの個体を一つに統合するだけなので、情報の統合はほぼ瞬間的に終了するし、2から1への統合は個々がいつ発生しても構わないので、情報の統合は常時継続的に進行するし、拡散もその時点で生まれた命に書き込むことになるので処理は高速だった。データは分散できるので、ハードウェアに部分的な障害を生じてデータが破壊される可能性もほぼ考えられなかった。

そしてリズズは、自分のシステムの方が人に多様な個性が生じる余裕がある、と考えたのだと思う。愚かしいことだ。

ジークムントがリズズの行為に気付いた時点で、ナノマシンは既にアルシア全土に拡散しており、全てを回収することは不可能だった。ジークムントが本来設計したOSで動作するナノマシンを再度散布することは、リズズのOSと、ジークムントのOSとが世界に混在する状態で実験に踏み切ることになり、得られるデータの定量的な信頼性を損なうには充分だったのだ。

加えて、リズズのコードをジークムントが解析した結果、この違いは設計思想の問題で、どちらが最終的に目的に適切であるかはジークムントにも判断できなかった。実際、リズズが改変したのはいくつかのパラメータの閾値でしかなかったと聞いている。今でも私たちが正常に機能していると言うことは、リズズの判断が正しかったためかもしれない。ただ、そのおかげで我々はまだ実験の途上にいる事も事実だ。繰り返しになるが、ジークムントの設計と比較して、リズズの設計はより多くの時間を必要とし、バラツキを許容するシステムだったからだ。

ジークムントは統合と拡散とを交互に繰り返すこのシステムを、Alternと名付け、実験を継続した。ただ、リズズがこの実験にそれ以上参加することは許さなかった。

実験は今も続いている。従って私は未だに地球にいるこの実験の出資者へ、実験経過をレポートし続けている。

あなたが読んでいるこの文章こそ、私が書き続けているジークムントの実験経過を記したレポートなのだ。読者は地球上でこの文章を読み続けているが、しかしながら、もう数千年前から、地球からのレスポンスは失われている。

以上がお前の質問に対する答えだ。このような知識が、お前のニューラルネットワークを改善するようであればまた議論をしよう。それは私にとっても望ましいことだ。

この図書室にある本をどれでもいい、一冊持って行くように。その本でお前が私たちの持つ無限に近い知識にアクセスできるようにしよう。つまりその本を開き、お前が念じればお前の読みたい内容の書籍をその本に転送しよう。そもそも本というものは入れ物でしかないのだから。

そしてお前にはその権利がある。なぜならお前は私たちが数千年掛けて再構築を目指してきた、脳内ネットワーク構造が最もジークムントに近い個体だからだ。この実験を次のステージに進めるためにはジークムントの知恵が必要だ。

では。


 ジュニアはメリルを小屋で待ったが、夜が明けて暫くしても彼女は帰ってはこなかった。このままここに居続けて、掃除にでも来たミサリア兵に問い詰められても面倒と思い、ジュニアは早朝のうちに小屋を出た。小屋を出るときに昨晩尋ねてきたメリルの部下と同じような気配を周囲に感じたが、すぐに消えてしまい、確認は出来なかった。

 ジュニアは遺跡にある、円形劇場に向かった。昨夜男がメリルにその場所へ行くように指示していたからだ。ジュニアはメリルが戻らないことに不安を覚え、せわしなく両手にニギニギと革球を握る。

 早朝の遺跡にはまだ人はほとんど見られなかった。店先で例の辛すぎるスープの仕込みをしている男をようやく見つけ、円形劇場の場所を教えて貰う。

 道の先に巨大な建築物が見える。濃い灰色の石畳と、両脇の明るい灰色の一階建ての建物達、道の中央には用水が流れ、所々に円形に石が組まれた場所があり、直角方向に分岐して周囲の道に水を分配している。正面の建造物は三階建て程の高さがあり、壁が垂直に立ちはだかるようだ。

 その壁に空いた入り口の一つをくぐると、正面に上へ昇る直線の階段があり、他に選択肢もないのでジュニアも素直にそれを上る。

 観客席の中央に出る。頭上には空が広がる。正面に円形の舞台があるが誰もいない。観客席を見回すが、こちらも完全に無人だ。背もたれのない、半ば階段と一体化した座席なので、隠れようとすれば無理では無いにしろ、明るい日差しの元の現在ではそれはほとんど難しい。

所々に薪を焚くための籠のようなものが、中に燃えかすを残して置かれている。静かだ。

 階段を舞台へ降りる。観客席側は明るい灰色、舞台は色の濃い灰色だ。席の最前列を抜けて舞台へ上がる。舞台を奥へ進み地面を見下ろす。

 血痕がある。ジュニアはしゃがみ込んでそれに触れる。既に乾いている。誰のものかなど分からない。ジュニアは立ち上がる。


 その部屋に戻ると放射状の階段にこちらに背を向けて座るアルの姿があった。ドリスはまだ横になって寝ているようだ。

「アル。」

 ジュニアが呼びかけるとアルが振り返る。ジュニアを視認して、表情が少し明るくなったように感じる。

「助けて欲しい。」

 ジュニアがアルに向けて歩く。アルの瞳はジュニアの手を見ている。最近は彼の革球の握り方で、感情の状態が把握できる。

「どうした、説明してくれ。」

「人を探したい。」

 アルは少し考えて返答した。ジュニアは明らかに動揺している。彼には珍しいことだ。

「ドリスも起こそう。ドリス、起きてくれ、ドリス!」

 アルが自らドリスに近づいて彼女の肩を揺する。程なくして眠たそうなドリスが起き上がる。

 ジュニアは事の経緯を説明した。きわどいところは割愛したが、ドリスなどはニヤニヤとして聞く気満々だ。だが、メリルが帰ってこないことと、行ったはずの場所に血痕があったくだりで二人とも真剣になる。

「私とアルはその人を知らないから、どうしていいか分からないわ。ワンちゃんだって、臭いのついたものを嗅がなくちゃ、その人を見つけることは出来ないでしょ。」

 ジュニアが明らかに落胆する。

「とにかくミサリアの憲兵にあたってみよう。ジュニアより、俺とドリスがいいだろう。ロスガルト軍人がミサリア兵のことを聞いて回るのは、少々目立つだろ。」

 すぐにアルが立ち上がる。

「本は?」

 ジュニアがアルに問う。

「そりゃまだ全部は読み終わらないさ。ただ、ここに居座って読む必要は無くなったようだ。」

 アルは手にした本をバンバンと叩くが二人には何のことだか分からない。

「さあ、外へ出よう。」


 遺跡には大分人が増えている。ほとんどの店が既に開店し、呼び込みの声が賑やかだ。

 ジュニアは遺跡でメリルを探している。ドリスも遺跡で警備の兵隊を探して話を聞こうとしている。アルは遺跡を降りて駐屯地へ向かい話を聞くつもりだ。夕方にまた、例の寺院で待ち合わせた。


 ジュニアは日の沈むまでメリルを探し続けた。途中で何度かドリスに会ったが、ドリスが仕入れた情報と言えば、メリルは祭りの昼間、日没までの警備を担当しているので、遺跡のどこかにいるはずだと言うことだけだった。

 ジュニアが寺院の門を抜ける。二日前に雨の中、獣人化する男と闘ったときのことが朧気にしか思い出せない。日没間もない時間だが、周囲は静かだ。石畳の真っ直ぐな路の先の寺院の建物の方は明るく火が焚かれ、沢山の人が行き来しているのが伝わってくる。

 ジュニアが進むと、覚えのある感覚がふと体にまとわりつく。昨晩メリルを尋ねてきた男のものだ。

「失礼ですが、お聞きしたいことがあります。」

 奥の寺院の光を背中から浴びてシルエットとなったミサリア兵がジュニアに尋ねる。

「メリル・クレルニン中尉を探しているのですが、お心当たりは無いでしょうか? 昨日中尉があなたと一緒にいたと聞いたのですが…。」

 ジュニアは彼の様子を伺う。メリルは何となく彼に違和感を覚えると話していた。ジュニアも今分かる。同感だ。

「ミサリア軍人は下がれ、そいつは俺の獲物だ。」

 ジュニアの背後から野太い声が聞こえる。振り向くとブクブクと太った醜い男がいる。髪はほとんど抜け落ちて、見える皮膚はグジュグジュと膿んでいるようだ。不潔なまま食べて寝るだけの怠惰な生活をし続けているのが明らかだ。

「ロスガルトの赤の騎士か。俺様のコレクションには持ってこいの野郎だ。すぐに取り込んでやる。」

 男が醜く笑うと、地面が細かく震えるような気がした。石畳の路から、その脇の地面から、黒い影が立ち上がってくる。人の形をしたものだ。手に剣を携えて、緩慢な動きでジュニアの方を見る。

「すまねえが、命乞いは無しだ。死んで貰わなきゃ俺様のコレクションには入れねえ。」

 ジュニアが機敏に動いた。敵は四体、左の一人を切り伏せてから隣へ、これは女性だが躊躇は無い。残りの二人と正対したときに、左側から再び殺意を感じる。ジュニアが少し下がる。

 先程斬り殺した二人が、のそのそと立ち上がる。

 こいつら死なないのか?いや、既に死んでいるのだ。だからそれ以上は死なない。

四体の敵が一斉にジュニアに斬りかかる。ジュニアは正面に踏み出して二人を切り、更に前へ突っ込む。体当たりして空間を作り包囲から抜け出す。振り向いて敵に斬りかかる。二つを切ると、先に切った二つが再び起き上がる。それも切る。また二つ起きてくる。

 きりが無い。

 ジュニアが一歩下がった、最初に声を掛けてきたミサリア兵士の側に立つ。

「大丈夫ですか?何なんですあいつら?」

「ゾンビ。」

 息の乱れなどまるで無くジュニアが答える。奴らは強くは無い。ただただ、終わりが無いだけだ。そのうち自分の体力が限界に達すれば、こちらが負けるだろう。それまでにどうにかしなくてはいけない。もっともジュニア自身は、明日の朝まででもこいつらと戦い続けられる自信はあった。

「手足を切り離してはどうでしょうか?そうすれば奴らも自由には動けないはずです。」

 男が言う。ジュニアが頷いた。

 切り込む。一人ずつだ。低い姿勢から足を薙ぐ。膝のところで二本の足が胴体から分離する。そのまま腕を落とす。ごろりと腕一本になった体が地面に落ちる。腕も体もそれぞれは動いているのだが、腕や足が自ら元の体と接合しようとは考えられないようだ。辛うじて腕一本になった上半身が、もう一本の腕を求めて体を這いずり回らせようとしているので、残った腕も切り取ってやる。もうじたばたするしか無い肉の塊になる。

 ジュニアは続いて残りの三体も同じように丁寧に体から腕と足とを切り分けて行く。

 ついにそこには醜い男とジュニア、ミサリア兵の三人と、ばたばたとうごめく16本の四肢と、4つの頭のついた体になった。

 ジュニアが醜い男と正対した。

「これで勝ったと思ったか?この死人使い、ゾーラン・ホルシユウをそんなに簡単に殺せると思ったか?」

 男が気味悪く笑った。

 男とジュニアとの間の地面から、黒い影が立ち上がる。その影が次第に実体化する。中央に大きな影、周囲に十体近い小さな影。

「メリル…。」

 中央の影、ジュニアの前に立つのは、メリル・クレルニン。ジュニアが動揺する。その瞬間、背後からジュニアに殺意が襲いかかる。ジュニアは脇腹に剣を受けながらも、振り向きざまに敵を切り倒した。例のミサリア兵だった。こいつも既に死人だったのだ。奴の剣に固まった血痕を見つける。おそらくメリルはこいつに殺された。味方と思っている相手に後ろから殺されたのだ。

 ミサリア兵は倒れ、しかし再び起き上がる。今度は再び背後から殺気が襲う。

「ジュニア…、逃げ…。」

 涙を流しながらメリルが切り込んでくる。同時に沢山の小さな影、死した野犬のゾンビがジュニアに飛びかかる。

メリルと刀を合わせ、押し返す。脇腹の傷が酷く痛む。いや、メリルがここにいることが痛いのか。犬がジュニアの体中に噛みつく。体中を激痛が包み込む。

 メリルは死んでしまった。その事実がジュニアの精神を追い込む。生への執着が弱まって行く。メリルと約束した未来。体中が猛烈に痛む。

「フェムアリシウム、火と炎を司りし精霊たちよ、今こそ我を信じその怒りをもって我に力を貸したまえ。セム・ブラフ・ガシス。」

 ジュニアの背後でミサリア兵が燃え上がる。ジュニアの体に取り付いた野犬たちも青い炎に包まれて燃え上がる。死体は灰となり、空間に消えて行く。

 メリルが再びジュニアに切り込む。ジュニアはそれをかわし、メリルの腕をつかむ。

「メリル!僕だ!ジュニアだ!」

 ジュニアの真剣な瞳に、メリルはあくまでも虚ろだ。それは仕方ない。既に死んでいるのだ。

 メリルがジュニアを振り払い、ジュニアが後方へ投げ出されると、それをアルが受け止めた。

「駄目だ!」

 ジュニアの制止も虚しく。メリル・クレルニンが発火する。一瞬で炎に包み込まれる。

「この火は彼女を浄化する。死人使いから解放できる。」

 ドリスが隣に並ぶ。

「ジュニアごめんなさい。私たちには死者を生き返らせることは出来ないわ。」

 既にメリルの体は炭化して崩れ落ちている。ドリスが口元で小さくスペルを唱える。

 その場所から光の柱が立ち上がる。キラキラとラメを振りまいたようなきらびやかな柱だ。その中にメリル・クレルニンの美しい裸体が輝いている。ドリスは慌ててアルの両目を塞ぐ。

「ジュニアごめん、私しくじっちゃった。」

 ジュニアが傷ついた体のまま、メリルに歩み寄る。その姿を抱きしめようとするが、何の抵抗もなくメリルの姿を通り越して地面に転倒する。

「ジュニア、私の大切なジュニア。残念だけどもうお別れね。私を行き場の無い暗闇から助けてくれて本当にありがとう。あなたにお会いできて私は本当に幸せだったわ。だからあなたもきっと幸せになって。」

 メリルもジュニアに手を差し伸べるが、その手がジュニアに触れることは無い。メリルが悲しそうに微笑む。

「メリル、行っては駄目だ!僕らこれから旅に出るんだろう?一緒に生きるんだろ?」

 その声にはメリルは答えず、彼女は次第に姿を崩し空間に消散した。

 ジュニアが悔しさに歯ぎしりする中、アルは死人使いを名乗る男に目を向けた。アルの白魔法で、男の周囲には厚い空気の膜が出来ている。男は少なくなる酸素の中で青白く喘いでいる。そして突然崩れ落ちるように体を地面に投げ出す。ハアハアと深い息をする。アルが壁を取り去ったのだ。

「おいおい、俺様をどうしようってんだ?殺そうもんならいつまでも貴様を祟ってやるぜ。明日から一晩も安心して眠れなくしてやる。」

「殺さなければいいのか?」

「逃がせって言ってんだよ!このガキ、脳味噌ねえのか?」

「あんたの術の仕組みは概ね理解した。俺にも死人は使えそうだ。どうだ、永遠に俺に使役されてみないか?」

 アルがそう言うと、ゾーランが青ざめる。

「ちょっと待て、分かった、今あっさりと俺を殺してくれ、頼むこの通りだ。」

「今のその姿は俺の趣味じゃ無い。もっとさっぱりとしろ。」

 アルがゾーランを見るとゾーランの体から炎がポツポツと燃え上がる。先程の青い清浄な印象の炎では無く、肉を焼け焦がす赤い炎だ。

「あちい、あちいよ、止めてくれ、頼む、止めてくれよお。」

 ゾーランのおぞましい悲鳴が聞こえるが、炎は揺らめき続ける。肉の焼ける嫌な臭いが充満して更に不快になる。

 次第に悲鳴は消えたが、そのままゾーランは暫く燃え続けた。人だった体が、ぐしゃりと骨になって崩れる。

 アルが口元で呪文を唱えると、ゾーランが地中に消え去る。そして間を置かず、地面から黒い影が立ち上がる。

 それは骸骨の剣士だ。すっかり細身になった骨格と化したゾーランの肉体が、死人としてアルの支配下に置かれたのだ。

「あちい、あちいよお。何とかしてくれ。体中がちりちりとあちいんだよお。」

「俺の命令に従えば、その苦痛は和らぐだろう。従うか?」

「分かった、分かったよう。助けてくれよう。」

 下顎をカクカクとさせて、骸骨のゾーランが助けを乞う。アルが頷くと次第にゾーランの弱々しい言葉が消えて行く。

「ああ、助かった…。」

「それにしても焼きすぎたかな。スケルトンになってしまった。」

「何だと!てめえの目は節穴か!ここんとこをしっかりと見ろ!まだ肉が残ってんだろうが!俺はスケルトンじゃねえ、ゾンビだ馬鹿野郎!」

 骸骨のゾーランが左の眼窩を指さして抗議する。確かに奥の方にちょこっと肉片が見える。

「あ、ああ、あすまねえ。あんたに逆らったんじゃねえんだ。止めてくれ、あちいよお、あちいんだよお。」

 そう言いながらゾーラン・ホルシユウは地中に消えて行った。アルに口答えしたので痛みが蘇ったようだ。

 ゾーランが消えると辺りは静かになった。

 ドリスはジュニアの傷を回復している。ジュニアはきつく目を閉じて何かを思っている。


 数日後、ジュニアの回復を待って三人はバウを出発した。向かうはミサリアの首都ミグーン。

三人に遥か遅れて、悟られないように臭いを追うのはガド・レオ。大雨の翌朝、ドリスが治癒を施した、獣人化の白魔法を使う僧侶だ。

 季節は既に春を過ぎ、初夏を迎える。ミサリアの北部平原では地面を覆う氷が溶け出し、小さな虫が無数に飛び交う短い夏を迎える。

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アルターン 井上研司 @yumatakuto

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