第4話 オルバット
ドリス・ミーアはすぐに知り合いの渡し船の船頭の家に押しかけ、船を出させた。ぶつぶつと文句を言っていた男だったがアルの尋常で無い様子を見ると、後は黙って協力してくれた。アルは目も口も中途半端に開いたまま、ドンヨリとまるで無反応な状態だ。
舟をロスガルト側に渡ると、船着き場でケンドアが野営をしていた。急いで出発の準備をしてもらい、彼を乗せて再び舟を出す。ドリスに聞けば、今度はミサリア側に渡るという。ドリスとジュニアとの真剣さにケンドアは従うばかりだったが、アルの様子を見ながら話を聞くうちに、事態の深刻さが分かってくる。そのジョン・ドバンニという男には、深い傷を負わせたというが、いつ反撃してくるか分からない。アルがこんなになってしまった今、自分たちに勝ち目はまるで無い。
やはりドリスの知り合いを頼り、三人は年老いた、痩せた農耕馬を一頭買い付けた。その金はケンドアが負担する。四人の中では彼が一番裕福なのだ。
ドリス、ケンドアと老馬、その背には廃人と化したアルとその体を支えながら手綱を握るジュニアが乗っている。一行はリン川の下流、アルシア大陸の東岸に位置する漁港オルバットに向かった。
この時、ジュニアとケンドアの二人には、今の状況がどう進もうとしているのかがまだよく理解出来ていなかった。迫り来るかもしれないジョン・ドバンニの不気味な陰と、目前に明らかに異常な状態で存在しているアル、ドリスのあまりに切羽詰まった様子に、献身的にアルの世話をする様子に、これから自分たちがどこへ行き、何をするのかを聞き出せる雰囲気ではなかったのだ。
二人は訳も分からないまま、取りあえずドリスが知っているというオルバットの有能な医師の所へアルを連れて行くんだということだけを共通の認識として、深い意思疎通を避けたまま行動を共にしていた。
アルの状態は非常に不透明だった。戦いの後の、目と口とを中途半端に開いた状態のまま、外からの刺激に対しての反応が皆無だった。もちろん食事も取らず、排泄もしない。呼吸だけは辛うじてしているようだったが、それも顔をよほど寄せなければ分からない程度だ。
夜も目を開いたままなので眠っているとは思えない。ドリスが彼女の白魔法の能力でアルに気を注ぎ続けなければすぐに生命活動は停止してしまっていただろう。そんなドリスの努力によって彼は何とか生き延びているといった感じだ。
アルシア大陸の南東部の海岸は、地形的に二つに大別される。緯度で考えるとポペットの森の途中から南側、ロスガルトの領土においては高い断崖絶壁が荒々しく、海と陸とを大きく隔てる。これに対して北側のミサリアでは穏やかな砂浜や岩場が人を親しく近づける。従ってミサリア側にはいくつもの漁港が開けている。
そのうちのオルバット漁港はリン川の河口を中心に広がる中規模の漁港である。オルバット漁港の周辺の海には数多くの島が点在し、多くの岩場や岩礁に無数の魚が住み着いている。またこの港より南は、先にも書いたように高低差を増して断崖絶壁の地形へと推移するので漁港は無く、この町の漁師達がその海域も獲物を独占している。
ただ、オルバット周辺には大きな都市が無いので、昔は捕った魚を売る相手がいなかった。これに目を付けたのがソウの村のプラントル家であり、ポペットの森に石畳の街道を作り上げロガリアに魚食の文化を創り出し、最近ではロガリアの断崖にリフトを建設して海から直接魚を水揚げする試みを進めている。
このようにプラントル家の活動により、オルバット漁港を中心とするオルバットはゆっくりと、だが着実に発展していっており、人口も実際少しずつ増加している。
一方、オルバットには神々の昔から変わらないものもある。オルバットの島々の中でひときわ目立つのが高い標高を持つオルバット山だ。夏でも山頂には雪を抱くこの山は、古くから地元の信仰の対象とされ、今では特定の人間以外は上陸を禁止された聖なる島とされる。
オルバットの陸地側に広がる地域は、リン川による土砂の浸食により出来た、海に面した広い傾斜地に築かれた街である。オルバットの街からはどこからでも海が、オルバット山が美しく見渡せた。
一行はリン川を右手に見つつ、左手に広大なミサリア平原北端の農地を見ながら東へ進んだ。穏やかな農村の風景が彼方まで広がっていた。
進むにつれ、次第に辺りには家が見え始め、町が近づいていることが感じられる。リン川の周辺は川による浸食で、川の左右は緩い傾斜地となっている。川は西から東に流れているので、この傾斜は川を中心に南北が高いことになる。そしてその河口がオルバットの港の中心になる。
「凄い。」
ジュニアが馬上から感嘆の声を上げる。前方の海に聳えるオルバット山に気がついたのだ。山は今の自分たちのいる位置を遙かに超えて上に高く伸び、人々に語られる通りに山肌には雪を抱いている。まだ春も早く、積雪は大分残っているようだ。
ドリスは海に向かって傾斜する路の途中で進路を左に折れた。まだ、町の中心部にはほど遠い場所だ。
緩い坂を上る。周囲には農地が広がっている。畑では主に葡萄が栽培されているようだ。少し離れたところに一・二カ所大きな建物が見えるのは、おそらくはその果実を酒に加工する酒蔵だと推測する。
ドリスは迷うこと無く皆を一軒の屋敷に案内した。ソウの村のプラントル家の屋敷には遙かに及ばないが、それでもそこそこに大きな屋敷が遠くからも見ることが出来る。
彼女はその家につながる一本道の入り口で、ジュニアとケンドアに少し待つように話すと一人で屋敷に向かって立ち、意を決したように歩いていった。
堂々とした門をくぐる。建物の前、中央には馬車を寄せる車寄せがあり、屋敷はその車寄せを挟んで両翼に広がり海を見下ろしている。両翼の建物の前の庭には、広い芝生が丁寧に手入れされた状態で整然と広がっている。
ドリスは門を抜けるとすぐに一人の少女を見つけた。その人は前庭に椅子を出して海を見るようにして一人腰掛けている。ドリスたちをジョン・ドバンニとの狂気の闘いから救ってくれたその人、ドリスが今一番必要としている人物だ。
「クリス!」
思わず声に出してしまう。思わず駆け寄ってしまう。
ドリスの声に反応して、腰掛けた少女がこちらを向く。肌の色が際だって白い少女だ。髪も、瞳も、唇も体中の全ての色合いが、儚く薄い。
「ドリス。」
姉がこちらを向いて私の名前を呼んでくれる。二人はどんなに離れていても、いつでも話の出来る間柄のはずなのに、ドリスからはどうしても連絡が出来なかった。きっと姉は自分が来ることを察知して待っててくれるはずと言う甘えがあったのだと感じる。
クリス・ミーアは、ドリスに微笑みかけると、妹の方へ足を踏み出す。
ドリスは姉に駆け寄ると思いのままに彼女に抱きつく。抱きついてみて、その体の冷たさにびっくりする。
走り寄ってきた影が、力強く自分を抱きしめてくれる。その体の臭いが、自分を深く深く安心させてくれる。ドリスだ。本物のドリス・ミーアが今自分の腕の中にいる。
そのままお互いに甘えるように体を預ける。一卵性の双子が今再び一つになった。
「ドリス、本当に会いたかったわ。」
姉が嬉しそうに言ってくれる。声がかすれて姉が涙を堪えられないことが分かる。ドリスも泣く。
「クリス、ごめんなさい。本当にごめんなさい。私、クリスに助けてもらってばかりで、それなのに全部をクリスに押しつけて勝手なことばっかりやって…。」
ドリスも感情を押し殺せず、姉に謝罪する。顔を上げると自分と同じ顔の色白の姉が、自分と同じように泣いている。
『心配しないで、私は大丈夫よ。それにそんなに謝らないで。私は幸せだわ。』
姉の言葉が心に響く。二人に言葉を通じた会話は必要ない。お互いが望めばどんなに離れていても、二人はいつでも会話が出来るのだ。それがオルバットの『人のミーア』の直系である二人の卓越した白魔法の能力だ。
『ごめんなさい。ごめんなさい。』
ドリスが繰り返すと、心がフッと温められる。
『もう謝らないで、私のためにドリスが苦しい思いをするなんて耐えられない。リンダスプールであなたが襲われたのはあなたが悪いわけではないし、それとも家を出たことを言っているのなら、この仕事は元々私がすべき仕事だったんだから…。これでも結構楽しんでいるのよ。』
正面のほんの近い距離で姉が微笑む。
彼女の様々な感情がドリスの中に流れ込む。ドリスの心の中へクリスの赤裸々な思いが、素直な気持ちの波となって押し寄せて、ドリス自身の感情とごっちゃごちゃに混ざり合ってゆく。
ドリスは心の底から驚きを禁じ得なかった。姉は本当に私のことを恨んでなどいなかったのだ。それどころか彼女は私が黙ってこの家を出た日以来、そのことに責任を感じ、罪を感じ、後悔を感じ、深く悔やんでいた。あれ以来、クリスからの呼びかけを全て無視していた自分を思い出し、ドリスは愕然とする。自分は何という酷いことをしてしまったのか…。反省さえ出来ない。
既に二人はまるで一つの人格に統合されてしまったようだ。一卵性の双子であるクリス・ミーアとドリス・ミーアとは、そもそもどうして双子として別々に生まれ出てこなければならなかったのかと神に尋ねたくなるほどにお互いに『補完』し合う人格なのだ。繰り返す。同じなのではない。補完する人格だ。
ドリスが背後に人の気配を感じる。彼女が振り向くと、間髪を入れずに金属製のトレーと陶器の食器が芝生の上に落下する。
「ドリス、ドリス! 貴方、よくも今更この家の門を…。」
「止めなさい、ミクハイレ! それ以上言うことは私が許しません!」
クリスが毅然と言い放つ。
「でもクリス様…。」
「お黙りなさい、ドリスを傷つけるようなことを言うのなら貴方をこの場で解雇します。双子とは言え、私はドリスの姉です。ミーアの家に伝わるこのお役目は長姉が継ぐことを義務づけられていることは私よりも貴方の方がよく分かっているはずです。本来守られるべきミーア家の正しい『しきたり』はある意味彼女によって守られているのです。」
「でも、…。」
「もう黙りなさい。見苦しい。」
「クリス、私が悪いのよ、あんまり、…。」
「ドリスも黙りなさい。貴方は優しすぎるのです。それよりもミクハイレ、これ以上貴方から聞くことは何もありません。その使い物にならなくなったお茶を持って、改めてドリスと私にお茶を、それとドリスのお友達が門の外でお待ちのようです。お客様として丁重にお迎えしなさい。」
ドリスの心に姉の、ミクハイレに対する鬱積した怒りの感情がビンビンと伝わってくる。ドリスにはその感情があまりにも激しいことがよく理解出来ない。ドリスの知るミクハイレというメイドは厳しいが一本筋の通った女性だ。
ミクハイレが不満げな表情のまま、クリスに深々と頭を下げて下がってゆく。
「すぐに彼を看ましょう。安心して、私に出来るだけのことはするわ。だからドリスは少し気持ちを楽にして、ゆっくり休んで。今の貴方のように張り詰めてばかりでは、貴方の体が持たないわ。お願い。」
二人になるとクリスは妹に優しく語りかけた。既にドリスの考えていることなど彼女は全て把握しているのだ。やはり姉の能力はドリスのそれを遙かに凌駕している。それがオルバットの『ヒトのミーア』たるクリス・ミーアの能力だった。
オルバット山は聖なる山である。オルバットの人々はこの山を『命生まれる山』と畏敬を込めて呼ぶ。
この地方の信仰によると、アルシア大陸の東の端にあるオルバット山は『命生まれる山』として、アルシア大陸の西の果てにある西方の大地に聳えるという『命果てる山』と対にして語られる。アルシア大陸に住む命は、全て命生まれる山であるオルバット山からこの世に現れ、死した後、運命の定めし敵のルールに従わなかった場合を除いた全ての命は、命果てる山から霊的な世界に去って行くとされる。
その為、オルバット山を聖なる山として厳しく管理する事がオルバットの人々に義務づけられている。それを担う一族を『ミーア』と言い、禁欲的な厳しい生活の代償として、ミーア家の巫女には特別な力と、神からの恩恵を受ける権利が与えられるという。
もう数えることの出来ないくらい遙か昔、オルバット島には、ヒト、エルフ、ドワーフの三つの種族が生活していた。それぞれは、『ヒトのミーア』、『エルフのミーア』、『ドワーフのミーア』と呼ばれる巫女を中心として、お互いに助け合いながら、オルバット山に祈りを捧げ生活していたという。しかし時が経るにつれ、大地に溢れ始めたヒトが、オルバットの島にも時折訪れるようになり、それを嫌った彼らはヒトのミーアを島から本土に渡らせてそれらの歯止めとした。その場所が今のオルバットの港である。それ以来、オルバット島にはヒトは住まないし、本土から島へ渡れるのは、『ヒトのミーア』の許可を得たものだけとなった。
ドリスの姉、クリス・ミーアは現在まさにそのヒトのミーアの役割にある。
馬から下ろされたアルは、クリスの屋敷の北西の角の客間に寝かされた。この部屋は角部屋なので風通しがよく、昼に日が当たらないので温度の変化が少なく過ごしやすい、とクリスが穏やかに皆に説明する。調度品も高級なものが入っている特別な部屋だ。
屋敷は全体として天井は3メートル程と高く。壁は1メートル×1メートルほどの石造りの四角いタイルが並べるように貼られ、装飾されている。おそらく家中の部屋や廊下などは全てメートル単位で寸法を表せるのだろう。
その部屋は、色は白が基調で暖炉があり、大きな油絵が二枚ほど掛かっていた。華やかな印象である。天井からはシャンデリアが下がり、アルの横たわるベッドには天蓋がついている。
「それ以来、もう何日もこの状態なの。言葉も話さなければまばたきもしない。息はしているけど、何も食べないし、夜もこのままで寝ているとは思えないわ。」
ドリスが、アルを見下ろすクリスに早口で説明する。二人の後ろには、ジュニアとケンドアが、まだ状況をよく理解出来ないまま立っている。その更に後ろにはクリスの家の使用人であるミクハイレが立つ。
「そのジョン・ドバンニという男はいったい何なの?」
クリスが質問する。ドリスの話は、今のところまだまるで整理されていないので、分からないことばかりなのだ。
「確か呪術師と言っていたわ。ねえ、ジュニア?」
「ああ。」
当然それ以上を彼は語らない。皆の期待を裏切って、数秒、会話のない時間が流れる。
「呪術師…。それは、珍しい。もうずっと昔に途絶えたジョブだと思ってた。…黒魔術士が能力の高い悪魔の力を利用して人の心に直接ダメージを与える術を使うって話は聞くけど、それを自分だけの力でやるなんて、本の中だけだと思ってた。それで、そいつと闘って彼はこうなった訳ね。」
「うん、しかもとてつもなく強力な力だったわ。私なんか一瞬で意識を失わされたもの。クリスが声をかけてくれなかったら今頃は私もアルもジュニアも、皆奴に殺されていたわ。」
ドリスはその時のことを思い出したのか、両腕で自分を抱きしめるようにして少し震えているようだった。
「確かに、ドリスはきちっとした訓練を受けていないとは言え、ミーアの後継としての資質は持っているはずだものね。貴方がそう感じるなら、きっととんでもない術者だったのでしょう。」
そして、今少しクリスはアルを見下ろしてから、彼の胸に手を当てた。
「彼の心を覗いてみます。今の話だと、彼は、そのジョン・ドバンニという呪術師に相当の精神的なダメージを受けたのでしょうから…。」
目を閉じてクリスが黙る。
「あ、それとまず話しておかないと…。」
クリスがパッと目を開けて皆の方を向いた。
「その男、おそらく追っては来ないわ。それだけのやつが来れば、このオルバットにいる限りは私が見つけることが出来ると思うから。それに、本の知識だけど、呪術師は目の前のことにしか意識を集中出来ない者が多いみたい。勿論、彼があなたたちに対する恨みを忘れてしまうことはあり得ないけど、むこうから積極的に追いかけてくるようなことは無いはず。」
彼女はそれだけをサクサクと話すと、再び黙り込み、目を閉じた。今度は、暫く時間が流れる。部屋はしんと静まりかえる。開けられた窓から風と共に鳥のさえずりが部屋に入り込んでくる。
クリスがふらりと、下半身が砕けるように床に倒れる。慌てて背後にいたケンドアが彼女を支える。
「クリス! 大丈夫?」
ドリスがすぐに彼女に声をかける。しかしクリスは既に目を開けている。
彼女は背中を支えてくれているケンドアを振り仰いで礼を述べてから、彼に支えられつつ立ち上がった。
「大丈夫です。気にしないで。それよりも彼のことです。」
クリスがドリスを見つめる。
「ドリスにはどうせ隠し事は出来ないものね…。」
クリスが沈んだ表情で言うので、ドリスもジュニアもケンドアも、それぞれがそれぞれのイメージで、悪い報告を聞く覚悟をした。
「私の手には負えそうも無いわ。心が完全に閉じてしまっている様子。外部とのやりとりをまるでしていないみたい。心に触れてみたけれどそれにも無反応だわ。私の働きかけに対して彼が何らかの反応をしてくれない限り、私に打つ手は無いわ。」
クリスが申し訳なさそうに話す。ドリスが耐えられないのか目を伏せる。
「おそらくその呪術師に、とてつもなくおぞましいものを見せられたのね。いや、きっと見せられるよりももっと直接的な体験をさせられたのかも。とにかく何かそういったことが原因で完全に自分を封じて、おそらく彼の心としてはこのまま死ぬ気なんだと思う。」
「どんなものを見せられたんですか?」
ケンドアが好奇の目で尋ねる。
「それは分かりません。今彼は完全に自分の殻に閉じこもっています。何を見せられたかを知る術は、私の能力にはありません。普通、どれだけ自分の殻に閉じこもったとしても、どこかで外部に助けを求めているものです。心の本質はまた再び元のように健全に戻りたいと望むものです。しかし、今の彼の心にはそんな様子は全くありません。自分が助かりたいと思わない精神を救う方法はこの世にはありません。今のままの状態も長くは続けられないでしょう。」
クリスは感情のこもらない口調でケンの質問に答えた。
ドリスが白魔法でアルに生気を注ぎ続けていなければ彼は既に死んでいたと言うことだ。そしてそれももう長くは続けられないということだ。
クリスは一人一人の表情を見る。ジュニアが嘆願する瞳でクリスを見つめる。
そこで何故かクリスとドリスの姉妹がお互いにちらちらと視線を交わす。
「クリス…。」
暫くして意を決したように、ドリスも期待を込めてクリスを見つめる。
「分かってるわ。ドリスも知っているようにあの水は使うことを惜しむ種類のものではないのですから。神が、我々ミーアに、我々が周囲の同族達の統率を取るために、そのために準備したものです。でも知っているでしょ、量が限られるから。少し時間を頂戴。アリスとエリスに相談しなくちゃ。彼女たちの都合もあることでしょうから。」
そう言ってクリス・ミーアはドリスに安心するようにと言う意味を込めて頷きかけた。
「ミクハイレ、皆様にお食事を。私は暫く部屋に籠もります。」
明瞭な声で指示を出すとクリス・ミーアはさっさと一人で部屋を出て行ってしまった。
ジュニアとケンドアはドリスに事態を説明捨て欲しい様子だったが、それを話すより先に老齢のメイドが三人に声をかけた。
「皆様、どうぞこちらへ。ドリス様も。」
彼女は一礼すると扉に向かう。
「ミクハイレ、私は…。」
ドリスが慌ててその背中に声をかける。
「ドリス様、私はこの仕事に誇りを持っております。これからも出来れば何の役にも立たなくなるまでこの仕事を続けたいと思っております。貴方に隠し事をしても無駄ですから正直に申し上げますと、私は貴方には今すぐにでもここから出て行って頂きたいと思っております。が、しかしクリス様のご命令です。貴方を含めてお三人には私に準備出来ます最高のご昼食を準備させて頂きます。」
そして彼女は扉を開けると無表情のまま、深くお辞儀をした。
「それでは皆様、食堂へご案内いたします。私についていらして下さい。」
ドリス、ジュニア、ケンドアの三人は屋敷の食堂へ案内された。屋敷の前庭に面した東向きの部屋で、海に向かう一面はガラス張りになっている。そのガラスも街にある厚ぼったい、向こう側も見えないような類いのものでは無い。
正面には巨大なオルバット山が美しく荘厳に聳える。庭木の配置が配慮されており、人工物は一切目に入らない。壮大なオルバット山を借景した巨大なキャンバスだ。この土地にまだ慣れないジュニアとケンドアとが思わず立ち止まり感嘆のうめきを漏らす。
部屋の前はテラスになっており、今はガラス張りの大扉が解放されている。自由に外へ出られる構造だ。ガラスは薄くて透明度が高く歪みがほとんど見受けられない。外の景色がほとんど色褪せず、歪まずに見えているのがその証拠だ。それはこの家のオルバットにおける地位の高さを証明するものだ。
内装にも手がかけられている。二十人以上は座れる広いその部屋には、壁面に絵画が所狭しとひしめくように並べられている。
「クリス様のお母様のナリス様が一番愛されたお部屋です。どうぞおくつろぎを。」
景色に圧倒されるジュニアとケンドアの横を抜けて、最後に部屋に入ってきたドリスが手近な席に着こうと椅子に手をかける。
「ドリス様、貴方は反対側へ。男性お二人に景色の見えるお席に着いて頂きます。」
メイドの声に、びくりとしてそちらを見るが、既にミクハイレは深く頭を下げていて表情は窺えない。
一礼をして彼女が下がると、すぐにケンドアが好奇心旺盛な瞳でドリスに問いかける。ジュニアはいつもどおり、いつの間にか手の中の革球をニギニギと握っている。ここの所、馬の手綱を握っていたので久しぶりな印象だ。先程はクリスに遠慮してか、握っていなかったし…。
「おい、ドリス、そろそろ説明をしてくれ、この家は何で、お前は誰なんだ?」
ケンドアはいつもの気さくさで遠慮無く話を聞き出そうとする。ジュニアの方は、いつもは無関心なくせに、今日はちらちらとこちらを見ている。それが汚れない純粋な瞳に見えてやるせなくなる。
「僕も聞きたい。」
珍しくジュニアが参加してくる。ドリスはこんな状況が嫌だった。彼女には直面する色々なことから逃げながらこの人生を歩いてきたという、ちょっと歪な自覚がある。この家から逃れ、放浪して、法を犯さずに真っ当に生きることから逃れ、様々な嘘と誤魔化しで、日々をくぐり抜けてきた。だから面と向かってこの話を振られるのは大分抵抗がある。
思わず心では反論している。こっちが明らかに黙っているのだから少しは気を遣って欲しいなあ。せめて、ケンドアのように何気なく、当たり前のことのように聞いてくれるとか…。真面目に聞かれても困るじゃない! 本当に、心配りの出来ない男。
あれほど変幻自在な剣を使い凄まじい『気』を放つ男が、どうして普通の人がほんの少しだけ使える方の『気』を使うことが出来ないのだろう。
彼女の様子を見て、ケンドアが口を挟む。
「まあ、話したくないなら…。とにかく私たちがこれからすべきことを教えてくれよ。これから力を合わせてアルを助けなくてはいけないんだから。」
ケンドアがドリスの様子に遠慮して質問を変える。しかしドリスの気持ちはこれも斜に構えて受け止める。世の中の汚い部分を生き抜いてきたドリスには、そんな応対が薄っぺらく、彼の自己中心的な対応に思えてしまうのだ。
しかしそれはそうとしても、いつまでも黙っているわけにも行かないだろうとは、分かっている。
二人に分からないように深呼吸してから、彼女が重い口を開く。
「もう分かってると思うけど、クリスは私の双子の姉よ。彼女は小さい頃から病弱で、何かあるとすぐに寝込んでたわ。私とはまるで正反対だった。…」
日差しが高い。刺すように熱い夏の日差しだ。夏の日中は海水温が上昇し海の上にある空気が加熱されて上昇気流を生じる。その結果、海上の気圧が低下して陸からの風が海に向けて吹き込む。だから今は、風は西から吹いている。
屋敷の前庭は、海への眺望が開けるように芝生が広く敷かれていたが、西側の裏手へ回ると、雑木林が広がる。よく手入れされた、風通しの良い広葉樹の林だ。
雑木林は蝉の声に溢れている。ジージー、ギィーギィー、ジャッジャッジャッと、少なくとも三種類の蝉が周りの同類他種を圧倒しようと声を競っている。鳥の声はそれにかき消され、まるで存在感を失っている。木々の葉が日差しを遮ってくれる林の中だが、あまりにうるさい蝉の声に体感する温度は、何度も上昇する。
木の上では何かがカサカサと移動している。体長は1m以上はあるだろうか、獣の類いに思える。移動の速度はそれほど速くないが、身軽な動きで大きさの割にはほとんど音を立てない。
ドリス・ミーアは両腕の力を入れてゆっくりと体を引き上げた。目前の木肌が下へ移動して、目の前に三つ股に別れた枝分かれの部分が見える。ヒュッと息を吸い込む。
昨日仕掛けていた餌、綿に蜜を染みこませておいたもの、に沢山の虫がたかっている。中でも目立つのが、日差しを受けて七色に光る甲虫だ。大きさは50mm程度だろうか、体の平べったい薄い小判型の甲虫だ。
際立っているのは背中を覆う硬い前翅の色合いだ。メタリックな青、緑の下地に、赤や黄色の斑が規則的に並んでいる。その色合いが光の方向により様々に色を変えてゆく。ドリスの知る最も美しい生き物だ。
彼女の表情が緊張する。虫の集団に手を伸ばす。しかし彼女が緊張しているのはこの美しい昆虫のせいではない。
雑多な昆虫の集団の中にひときわ大きな奴がいた。透明な羽を閉じて黙々と蜜を吸っている。100mmはあるだろう大きな蜂だ。二度刺されると人でも命を奪われるという毒を持っている。実際にオルバットでは何年かに一度は死者が出る。攻撃的な、凶暴な生き物だ。
山や林を歩けばこの蜂とはしょっちゅう出くわす。虫取りを趣味にしているドリスにとっては、こいつを見かけ無い日は無いくらいだ。以前うっかりして刺されたときには腫れ上がった上腕の痛みが一週間以上も消えることはなかった。あの時のことを思い出すと今でも左腕の刺された部分がうずくような錯覚に捕らわれる。今では自分の安全のために、毎朝雑木林を隅々まで回り、全ての巣の位置を確認して把握しているほどだ。奴らはほんの数日で人の頭よりも大きな巣を木の上や建物の壁や、様々な場所に作ってしまう。幸いなのは、どうやら幼虫が高温に弱いらしく、巣の場所は風通しの良い、つまり人の目にも探しやすい所に限られるということだ。既に一度刺された自分にとっては、次の一刺しは命取りになりかねないとの認識がある。それほどに彼女にとってこの、ヒトをも殺すという蜂は恐怖の対象である。
足場を確保する。ようやく両手を自由にして、ポケットから短い木の棒を取り出す。慎重に、慎重に棒を操作して例の七色の虫だけを端に追いやるように押してゆく。虫は甘い蜜から離れないようにと抵抗するが、次第に端に追いやられてゆく。そこを捕まえる。ここの餌では三匹が採れた。腰に付けた、自分で木で編んだ籠に虫を押し込む。入り口には「戻り」と呼んでいる内側に向いた竹を付けているので、ここからは虫が逃げ出せないようになっている。中の虫を取り出すときには、底の編み目の一部をほどいてフタを開ける仕組みだ。
次の餌に向かって木の枝の上をゆっくりと渡ってゆく。広葉樹の枝は複雑に絡み合っているが、もちろんそれだけではこんなことは出来ない。ドリスは木の枝が自分の体重を支えられるようにするために、一部の枝を紐で結わえて強度を上げ、支えられる荷重を大きくして木の上に自分専用の路を作っている。
それでも慎重に行かなくてはいつ枝が折れるかは分からない。両手両足を使って、四肢に均等に体重がかかるようにバランスを取ることが重要だ。こういったときには、枝を握れない足の裏は、手に比べて使い勝手が悪い。自分の足の裏で枝が握れればどれだけ便利かと毎日のように思う。今彼女が一番欲しいもののベストワンが把持機能のある足の裏だ。
「ドリス様!」
突然怒鳴られて、手元を誤る。枝を握れない足元が滑って、枝から落下する。ここで下手に枝を持ち続けると折角作った樹上の通路を壊してしまう。それでも直接地面に落ちては体が保たない。通路を構成する枝たちの下の層の枝に捕まり、足を出して体を出来るだけ減速する。
ドタン!
「いたたたた…。」
尻餅をついて痛がるドリスに、黒い影が覆い被さる。
「何をしているのです! 今はお勉強の時間のはずです。こんな所で遊んでいるとはいったいどういうことですか!」
「あ、ああミクハイレ、ごきげんよう。それは、それはきっと誤解だわ。あなた、時間を間違えているんじゃなくて?」
大切な籠をさりげなく背後に隠す。
「時間についてはドリス様、貴方の方が正確におわかりになるはずよ。今何時だか、答えてご覧なさい。」
メイドが意地悪に口元をつり上げて笑う。ドリスが仕方なく空を見上げると、広葉樹の葉の間から真夏の太陽がちらちらと姿を見え隠れさせている。
ドリスは目の前に仁王のように立ちはだかっているミクハイレを見上げるとどんな男の子もイチコロと自負する(実験したことはない)、満面の笑みを浮かべた。
「南はどちらでしたでしょうか?」
「正午まではお勉強をする約束です。」
「そんな、虫取りも立派なお勉強ということで…。」
「ドリス様、貴方は私のことを好きでないかもしれません。でも私は、貴方のことが本当に心配なのです。将来ヒトのミーアを貴方が継ぐことになったときに、しっかりとお役目を果たしてゆけるかが心配でならないのです。そんな私の気持ちも少しは慮っては頂けないでしょうか?」
ミクハイレは真剣だ。本気で自分のことを考えてくれているのだなと、再度認識する。
「でも、ミーアを継ぐのはクリスだわ。こういう時に二番目がしゃしゃり出るとろくな事が起こらないのは、よくお芝居であるパターンだわ。ね、ミクハイレもそう思うでしょ?」
「でもクリス様はご病気がちで、この先何が起こるか分かりません。ドリス様ももしもの時に備えなくてはなりません。」
「そんなあ、その話は何度も聞いてるけど、クリスに何か起きるみたいなこと言わないでよお。」
ドリスが涙目になる。
「とにかく虫取りはお終いです。大体、虫の命は短いのです。捕って籠に入れてしまうなど、残酷なことはお止めなさい。」
「ミクハイレったら、それは誤解よ。例えば蝉は地上に出てくる前に十年近く土の中で楽しく暮らしてるのよ。動くこともせず、木の根っこに取り付いて、チュウチュウと木から養分を奪い取るの。楽ちんで最高の生活じゃない。虫って、最後に繁殖するために地上に出て来た姿が私たちの目には留まりやすいから、そこだけを取り出して儚いーとか、かわいそうっ、とか言われるけど、私思うに虫にとって繁殖のための形態って言うのは、人生の最後の辛いおまけみたいなものなのよ。絶対に彼らは、その時期を死ぬ前の最悪の苦行のようなものだと思ってるわ。厳しい競争に晒されて、同類と比べられ、下手すれば食べられて。それを人が自分の感覚で判断するなんて、トンデモない勘違いだと思うわ。こういうことも、お家にある本に書いてあるのよ。ミクハイレも少しお勉強なさった方がよろしくてよ。」
「ドリス様!」
彼女は乱暴に襟首を捕まれるとミクハイレに垂直に持ち上げられ、足をばたばたさせて反抗するも抵抗も虚しく屋敷へ運ばれていった。
「暫くしたらお食事をお持ちします。それまではしっかりとお勉強をなさってください。」
ミクハイレがバタンと扉を閉じた。ガチャリと外から鍵をかけられる。これでは座敷牢に監禁されているのと変わらない。どうも、ミクハイレは自分にヒトのミーアを継がせようと真剣になりすぎだ。純粋に自分のことを思ってくれているようであり、あまりの真剣さに何か理由があるようにも思えてしまう。どちらにしろ、ミーアを継ぐのは姉のお役目だ。ムダなことをするものだと思う。
それにしてもミクハイレもどこか抜けている。『暫くしたら』食事を持ってくると言うことは、しばらくはここに来ないと言うことだ。用件を済ましてしまおう。
早速窓に駆け寄って開け放つ。上下左右はレンガ作りで手がかりなど何も無い。ドリスは、部屋の奥に戻って衣装棚の一番上の引き出しを開ける。手を突っ込んで奥から取り出したのは直径50mm程のロープと手袋だ。テキパキと部屋のベッドの足に結びつける。いつだったか、漁港へ遊びに出かけたときに見かけて、気がついて漁師に習った結び方だ。引けば引くほど締まる構造だと聞いた。
ミクハイレはドリスを警戒していつも違う部屋にドリスを閉じ込めるが、今ではどの部屋にも逃げ出すための仕掛けをドリスは準備している。抜かりはない。ロープは壁のレンガと同じ赤茶色をしている。壁に垂らしっぱなしにしておいてもほとんど目立たないようにするためだ。
外へロープを垂らし。手袋をはめる。窓枠に昇って、えいやと枠を蹴る。手を緩めて軽やかに壁を降りてゆく。三階の窓からだから、三度も壁を蹴ると地面に降り立った。周囲を確認して腰を低くして壁沿いに走る。
ああ楽しい。
屋敷の角まで行くと靴を脱ぎ捨ててレンガの壁に取り付く。所々にレンガを切り欠いて手足が掛けられるようにしてあるのだ。壁を這うようにして上へ昇る。上へ昇って、次は蟹のように横に進む。目的の窓はすぐそこだ。窓は風通しのために開かれている。窓の下から昇ってゆき窓枠に手をかけて一気に体を引き上げて部屋へ飛び込む。
「クリス!」
「きゃあ!」
いつものこととはいえ、突然現れた妹にクリスは悲鳴を上げる。びっくりして立ち上がってしまう。
「ごきげんよう。」
ドリスがおどけて微笑む。クリスは慌てて部屋の入り口に走る。廊下を確認してから開け放していた扉をバタンと閉じる。
「ドリスったら、何? 今日はどうしたの?」
扉に背中を付けてクリスは嬉しそうにドリスに笑顔を向けた。
「いいものを見せてあげるわ。クリスが見たがっていたものよ。」
クリスに駆け寄ると背中から籠を取り出す。
「ジャーン!」
クリスがドキリとする。よく見かける籠だ。中に入っているものが95%以上の確率で想像出来てしまう。虫だ。
「ちょちょ、ちょっと待って。」
「こないだ話したでしょ。私のお勧めのきれいな虫よ。クリスが見たことないなんて、私思ってもみなかったのよ。こいつを見たことないなんて…。」
ドリスがペチャクチャと話しながら手際よく籠を分解する。そして中をのぞき込んで無造作に手を突っ込んだ。クリスの目の前500mmでの出来事である。クリスは何を見ても驚かないよう決意する。
ドリスの手が取り出されクリスの目の前に差し出される。
そんな近くで無くていい。しかし背中は既にドアに押しつけられている。逃げ場はない。
ゆっくりとドリスの掌が開かれる。
「わあ。」
クリスは思わず声を出した。ドリスの掌にキラキラと七色に輝く宝石が載っていた。特に青が美しいとクリスは思う。
クリスは思わず両手でドリスの手を支えるように持つ。
「綺麗…。」
ドリスが掌を微妙に動かすと宝石の色がキラキラしながら変化する。
「なにこ…。」
宝石?がもそもそと動き始める。
「え?」
ドリスの手を伝わってクリスの手の方へ進んでくる。
「や!」
クリスは思わずドリスの手を払う。例の宝石(のようなもの)がその勢いで宙を舞う。
「あらあら。」
ドリスは反射的に虫に手を伸ばすが届くはずもない。虫は床に落ちる寸前に羽を開いて飛び始めた。迷うことなく開いた窓から飛び去ってゆく。
ドリスはそれを見送ってからクリスに振り向いた。クリスは自分のしてしまったことを今ひとつ理解していなかったが、兎にも角にも謝らなくてはと思う。
「ねえ!どうだった? めっちゃ綺麗でしょ?」
クリスの言葉を制止してドリスがクリスに問いかける。虫が逃げてしまったことなど何とも思っていない、超わくわくとした表情だ。
「どうだった? どうだった?」
「え、あ、ああ。すっごい綺麗だった。」
「よっしゃあ」
「宝石みたい。キラキラしてカラフルで、色がどんどん変わるのがすっごい素敵。」
クリスが興奮したように感想を並べ立てる。もぞもぞと動き出したのは別にして、その美しい輝きはクリスにはショックだったのだ。
物語の舞台であるこの時代、宝石を採掘するための鉱山は既に存在し、ミサリア北方の山岳地帯には規模の小さな、宝石の種類に応じた沢山の鉱山がありある程度の量が社会に流通していた。
一方、金や銀などの貴金属は西方のアガが主な産地である。アガの女王、ガーネット・シュウ・アガミライは天文学を始めとした各種の学問に理解が深く、農産物の収穫が限られる山がちな国土のハンデに打ち勝つべく、金属の採掘、精錬、金属製品の製造を奨励し、国力を高める政策を取っていた。
しかしながら、クリスが先程見たあの美しい色合いは、これまでに見たどの宝石や貴金属を使ったアクセサリーよりも遙かに美しかった。
キラキラと光る色合いに加えて、斑の細かな色使いは決して人の手で作ることなど出来ない細かさを備えていた。前翅の表面に映える産毛のような細かな繊維の一本一本が光の角度によって赤から青へ、青から金色へと色を変える様には、視覚だけでなく、心までも奪われるほどだった。
取り付かれたようにその美しさを褒め称えるクリスを、ドリスは何故か半ばぽかんとした感じで聞く。ドリスの様子に、クリスはますます熱心に気持ちを語ってしまう。
そして彼女は、クリスが話をしている途中で、突然パッと明るい顔をして手にした籠をのぞき込んだ。そして中に手を入れる。
「…。」
クリスの言葉が止まる。
「そんなに気に入ってくれたのね。」
ドリスの手が取り出される。既に指の間に数匹のそれが動いている。
手を開くと、七・八匹の美しい虫がうごめいていた。
クリスはドアに背を押しつけてズルズルと腰を抜かした。
「こんなにかわいいのにね。」
ドリスは甲虫の背中を撫でると空に放り投げた。その生き物は空中で回転しながら美しく輝いた後、羽を開いて飛び去っていった。
ドリスがパタパタと手をはたいて汚れを落とす。
振り向くとベッドに腰掛けるクリスがいる。こちらを向いてちょっとだけ血の気の引いた顔色で困った表情をしている。元々色白なのであまり目立たない。真っ黒に近く日焼けしたドリスとは対照的だ。一卵性なので顔つきはそっくりだから、同じ型で取った砂糖菓子と泥人形のようである。
「大丈夫?」
ドリスが、クリスの様子を見て、心配げに声を掛ける。クリスの横に静かに腰を下ろす。
「ええ。」
平気だと返事するクリスの言葉にはまるで説得力がない。
「ちゃんとご飯食べてるの?」
クリスが小食なのは、ドリスもよく知っている。彼女は小さいときから病弱で、沢山食べるとすぐに戻してしまう。ここ何年かは、体力もついてきたのかそんなことは無くなったが、食べる量が少ないことには変わりは無い。しかし、今日の彼女は少々痩せすぎだ。
ドリスの問いかけに、クリスの返事が無い。
「食べてないの?」
「味がおかしいのよ。」
「?」
クリスが困った顔をする。上手く表現出来ないらしい。ドリスもクリスと食事を共にするわけでは無いので判断しかねている。
この家は、主にドリスの面倒を見るミクハイレというメイドと、クリスの面倒を見ているラハイエラという執事がいる。お互いに仲が悪いというわけでは無いが、二人が合意しない限り家の中での習慣が変わるはずは無いので、ドリスとクリスの知らないところでの合意のもとに、いつの間にか食事は姉妹で一
緒に取らなくなってしまった。
ミーアの家は女児の年長者が継ぐのが仕来りである。ミーアの後継は初めての女子を産むとその任を解かれる。不思議なことにミーアの後継の産む子の、第一子の九割以上が女児だと言うから、何らかの神様の差配が影響しているのかもしれない。とにかく最初の女子が生まれた段階でミーアの後継は家を出てその任を子に託す。もちろん生まれたばかりの子らが何かをすることなど出来ないので、そこは仕来りに従って執事とメイド長とが取り仕切るのが習わしだ。子供でも数年経てば祈りなどの慣例的な儀式は出来るようになるので、特に不都合は生じない。どうしても何らかの判断が必要なときには、先代のミーアにお伺いを立てることになるが、それはある一つの事柄を除いて希な例である。
オルバットには二つの有力な一族が存在する。一つはその名をモルフォーミン家といい、オルバットで古くから漁師たちを束ねてきた網元の家柄である。もう一つは、若干時代が下がってから勢力を拡大してきたアダンダラ家で、アダンダラ家は傾斜地に広がる葡萄畑とそれを原料にして作るワイナリーを経営する。現在では更にこれにソウの村でアルたちも会ったプラントル家が加わるがこの頃はまだまだ、先の二家に比べれば規模は遙かに小さかった。
ミーアは長い間、嫁ぎ先としてこのニ家を交互に選んできた(正しくは、選んでいるのは二家の方である)。実際に、ドリスとクリスの母はアダンダラ家に嫁いでおり、祖母はモルフォーミン家にいる。
話を戻すが、ミーアが判断しなくてはならない事柄の内、慣例に従って決めることが難しく、かつ最も重要であるのが、『歓喜の雫』と呼んでいる水の使い道である。
歓喜の雫はオルバット山の中腹にある洞窟で取れる奇跡を起こす水である。その水を飲めばどんな病も完治するという優れものだ。この物語がドリスの回想に移る前に、ドリスとクリスの姉妹が話していたのもこの水のことについてである。
春と夏と秋に、グラス一杯ずつのその水が取れるのだが、オルバット山はヒト、ドワーフ、エルフの三者で管理しているのでヒトに割り当てられるのは秋の一杯のみである。それでも年に一度、その水により誰かが病から解放されると言うことが、その使い道の決定権のある者に莫大な富を与える。
その権益を二家が独占しているのだ。
問題は新たなミーアの候補が女児の双子だったことにある。これは歴史上、例の無いことだった。しかも初めに胎外に出たクリスが、育つにつれ体の弱い子だということが分かってきたことも事態を複雑にした。
次のミーアの後継の嫁ぎ先は、順序でいえばモルフォーミン家にあたる。既にモルフォーミン家には将来、ミーアの後継を娶るべき男児が養子として入っている。しかし女児の双子が生まれる事態を受けてアダンダラ家にも欲が生まれた。自分たちは妹を後見して姉に、もしもの事があった場合には、連続してミーアの後継を家に迎え入れようと画策したのだ。そしてそれを後押しするように、クリスが体の弱い子だということがはっきりしてきた。
生まれた直後はアダンダラ家がドリスの後見をしたいという希望を受け入れ、鷹揚に構えていたモルフォーミン家だったが、その事態に直面して、やはりドリスも同時に後見するとアダンダラ家に申し入れたが後の祭りである。ドリスを取り返すことが出来ない。
加えてアダンダラが、『そもそもミーアの後継を決めるのは生まれてきた順番などでは無い、あくまでも仕来りに書かれているのはミーアの後継に初めて宿った女児、とあるではないか。だから誕生した順番では無く、二人には平等に権利があるはずだ』と主張するに至り、新たなミーアを決定することが出来ずに、ドリスもクリスも宙ぶらりんのままにさせられているのが現在の状況なのである。
加えてのんきなドリスは気付いていないが、執事のラハイエラはモルフォーミン家と繋がり、メイド長のミクハイレはアダンダラ家と繋がっている。屋敷の中の他の使用人たちも同様にどちらかの派閥に属しているのが現実だ。
「そうかしら、ミクハイレのお料理はちゃんとおいしいわよ。」
ドリスが食事を思い浮かべているのか、視線を上に向けてクリスに明るく答える。
「それが心配なの。」
クリスは真剣だ。
「ドリスも知ってるでしょ、ミクハイレはアダンダラに近い人よ。私のことが邪魔なのよ。
」
「まさかクリスったら。ミクハイレが何するっていうの? 美味しくないお料理でクリスを餓死させるつもり?」
そう言ってから、もっと手っ取り早い方法を思いつく。
「イヤイヤ、それにしたってアダンダラにはお母様がいるのよ。そんな怖いことさせない。させるわけが無い。」
「お母様がご存じなはずは無いわ。あの人たちが、そんな大切なことお母様に教えるものですか。」
再びドリスが天井を仰ぎ見て、アダンダラ家の面々の顔を思い出す。ぞっとする。
二代毎に同じ家系から嫁を取り続けることは、遺伝的に不可能に近い。血が濃くなり過ぎるからだ。従ってそれぞれの家に嫁ぐといっても、それぞれの家では本筋の血筋とは別に養子を迎えてミーアと結婚させているのが常識だ。クリスとドリスの知る母の亭主は人の良い優しい男性だったが、アダンダラ家の母の義理の両親や、父とは血の繋がらない兄弟たちは、何かギラギラとした目をした獣のような印象がある。特に人の心を読むのに長けたミーアの血筋の二人にはそれが明らかに分かった。
アール・バウがロスガルト軍の兵士たちに教育した例は極端であるが、人の心をのぞき込む白魔法に対してある程度のブロックをする方法は確立されている。ミーアの後継たちは有能な白魔術師たちだったが、それに仕えるこの屋敷の使用人たちや引退後の嫁ぎ先の家族などは、常に心をのぞかれていたのでは精神的に参ってしまうし、見えてしまう方のミーアの後継たちにとっても苦痛以外の何ものでも無い。そこで、ミーアの後継たち自身が遠い過去において容易に心をのぞかれないような心の持ち方を家人たちに指導して以来、そのような不都合は無くなっている。
しかし特にその能力に長けたクリスが本気でそれを知ろうとすれば、恐らくそれは出来ないことでは無いのだとドリスは思った。
「ミクハイレがまさか…。毒を…。」
「私にも全てがはっきりと見えるわけでは無いのよ、まだそこまででは無いとは思う。けれど最近私の体力もついてきて、寝込むことも少なくなるとアダンダラとしては不都合な気がするの。ミクハイレが衝動的に何か入れてしまったら、私…。」
ドリスが息をのむ。
「やられる前に、しなきゃならないかも。」
クリスがさらっと言う。ドリスはその言葉に呼吸が出来なくなる。クリスがドリスを見る。痩せた顔にうっすらと笑みが見えるような気がする。
取りあえずドリスはクリスに早まったことはしないように約束をさせた。食べ物は自分に出されたものから持ってくると約束する。ミクハイレも私に死なれては困るはずだ。私の食事は安全だ。
夜が来るのを待った。ドリスがいくら機敏に動けても昼間に何度も外へ出歩いては、いつかは見つかってしまう。見つかればどのように外に出たかを説明させられる。また新しい方法を準備するまで多少不便になる。特に夏の間は明るくなるのが早いので、メイド達は早いうちから室内の掃除を始め、決められた順番に部屋を移動して午後には仕事を終えてしまう。仕事を終えてしまうと誰がどこにいるかはドリスにもまるで分からないので見つかってしまう危険が高いのだ。
確かに午前中だと、その時間に主に屋外で働いている庭師たちに見つかる確率は高いが、彼らは既にドリスと一蓮托生の間柄だ。その為に、日に二回出されるおやつのほとんど全てを庭で働くおじさまたちに提供しているのだ。資本がかかっている。固い絆だ。
ドリスは衣装棚から喪服を引っ張り出した。夜の闇に紛れるには最高の衣装だ。裾の広がった、ゆったりとしたドレスだが、これほど黒い服を、ドリスはこれ以外には持っていない。普段の服と違って胸元から肩にかけてが広く開いているので、そこだけが彼女の本来の肌の、白くきめ細やかな色合いをしている。遠くから見ると口角を上げて笑う道化師の唇のシルエットに見える。彼女は鏡を見ながら見える範囲のその白く美しい場所に、昼間に取ってきた花壇の土に水を混ぜて泥にしたものを塗った。服には極力つかないように彼女としての最新の注意を払う。それでも服が汚れたが、そこはまいっかと思う。
準備が終わるとドリスは瞳を閉じた。精神を集中してクリスを思い浮かべる。
『クリス、まだ起きていて? 今からお食事を差し入れてもいいかしら?』
『ああ、ドリス、貴方こそ起きていて良かった。私も今貴方とお話ししようと思っていたの。』
何だかいつもと違ってクリスがあたふたとしている。
『誰かがうちの敷地に入ってきたわ。』
『泥棒?』
『それが、落ち着いて聞いてね。どうやらドリスのことを狙っているらしいの。ドリスの命を…。』
『エエッ!』
ドリスの瞳が顔から飛び出す。今まさに思考回路はショート寸前だ。
『だから落ち着いて。大丈夫。私が何とかするわ。安心して。取りあえずそいつの情報をドリスに転送するから。とにかく逃げて。逃げて逃げて逃げまくれば、そのうち朝は来るわ。明けない朝は無いもの・多分。』
『エ、ええっ、でもそれって根本解決になっていない! 俗に言う対症療法だわ。』
『チャンスがあれば、私がそいつの息の根を止めてあげるから。ね。』
クリスが困った笑みを浮かべているのが、ドリスの脳裏にイメージされる。
『分かった、分かったからすぐに情報を頂戴。』
敵は今、屋敷の外周を歩いている。ドリスにもその画像が見えるわけでは無い。言ってみればテキストが頭に流れ込んでくるような状態だ。クリスは何らかのイメージを持っているのかもしれないが、ドリスはそういった認識の仕方が苦手だ。
不思議なことに、敵の歩みに迷いは無いようだ。目的地を把握していると言うことだ。
ドリスは考える。敵は直接ここに来る。逃げるとしたらどこだ? 隠れるとすればどこだ?
窓枠に手をかける。風を入れるために窓は全開だ。ふと考える。この状態のまま鍵を閉めて部屋を出れば、敵は自分が外へ出たと思うに違いない。
クリスの声がする。敵が屋敷内に侵入した。鍵のかかっていない窓を開けて中に入り込んだようだ。恐らく誰かが手引きをしている。年老いた執事のラハイエラの顔が思い浮かぶ。アダンダラ家にとってクリスが邪魔なように、ラハイエラに近いモルフォーミン家にとって、ドリスは邪魔な存在だ。
「クソじじい。」
ドリスは窓枠に足を掛けた。
ミーアの屋敷は大きいとはいえ単純な構造だ。玄関を中心にして両翼に50m程廊下が延び、玄関ホールにある階段を使って上下に移動する構造だ。
従って家の中に逃げると言っても迷路のように敵を避けて進み続けることは出来ない。どこかの部屋に息を潜めて閉じこもり敵をやり過ごすことが必要になるのだ。
しかもラハイエラが手引きしているなら敵の手には家中の部屋の扉を開けられるマスターキーがある可能性が高い。隠れ通す自信は無い。
ドリスは外へ身を乗り出した。引き窓の外に両開きの雨戸が付いている。外に一杯に開かれた雨戸の上の枠を掴み、体を上へ引き上げる。雨戸の上に立ち上がる。次に、上を見上げる。階と階との間にはちょっとした突起がある。そこに手をかけ再び体を引き上げる。その動作を繰り返す。ミーアの屋敷は四階建てだ。三階のドリスの部屋から一階上がって、今、更にその階の雨戸の上にいる。頭上にはちょっとした張り出しがあるが、ここも対策済みだ。以前玄関ホールの吹き抜けの上の採光窓を明けて屋上へ出たときに短いロープを固定してある。目立たないように垂れ下がったそのロープをつかんでドリスはじりじりと屋上へ上がった。屋上は5deg程の傾斜の付いた板張りだ。ヤニが塗られているのでてらてらと黒く光っているように見える。
ドリスの部屋に入るわ。
頭に響く。ドリスは玄関ホール上のドーム型の天窓の方へ走りかけていたが、慌てて立ち止まり、屋根の端へ移動する。体を投げ出し、腹ばいになって今自分が逃げ出してきた部屋の方へ視線を向ける。
一分が経ち、二分が経つ。
黒い影が窓から現れる。窓から乗り出し、外を見回している。ドリスが思わず首を引っ込める。十秒ほどして影が窓から体を乗り出してきた。『ええっ! 飛び降りるの?』ドリスが慌てる。下は芝生とはいえ三階の高さである。そこで影の動きが止まった。さっと上を見上げる。
『じぇじぇ!』
ドリスが氷る。動けない。視線が合ったわけではない。影は上を見上げただけだ。
しかし影は迷わず窓枠に出てくると上へ昇り始める。
信じられない動きだった。まるで壁に吸い付いているようだ。手足に何かが付いているのだろうかとドリスは思う。いやいやそれどころではない。ドリスは立ち上がり屋根を走り出す。
『クリスやばいよ、あいつ私がどこにいるか分かるみたいだよ。追いかけてくるよ。』
『そんなことは無理なはずよ。だって、ええ、どうして?』
クリスも敵の位置を把握したのだろう。ドリスと一緒になって混乱している。
『ドリス、とにかく逃げて。奴に無茶無茶に話しかけてみる。』
ドリスが玄関上の構造物の裏に身を隠す。そっと今来た方向を覗き返すと屋根の上に影が上がってきたところだ。
『セルゲイの子は、ラムゼイ。ラムゼイの子はディルハムとイラシス。ディルハムの妻はカシスの娘…。』
クリスの声が頭の中に飛び込んでくる。主には敵に向けられたものだろうが、ドリスの鋭敏な感覚が声を捕まえてしまったのだ。
敵がふいに足を止め周囲を見回す。頭の中に大音量で響き始めた突然の訳の分からない文章に驚いた様子だ。それにしても、クリスは何を読み始めたのかドリスには見当も付かない。
ともあれ敵の動きにこれまでの敏捷さがなくなったのは事実だ。今のうちに逃げなくてはならない。しかし屋根の上には身を隠す障害物など、今隠れている玄関ホール上にしかない。とにかく降りなくては。
家の裏側へ向かう。身を低くして走る。屋根の端まで言って周囲を見下ろす。屋敷の裏手は雑木林だ。木が見えるがよく手入れされているためせいぜい三階くらいまでの高さしか高い木がない。それでも出来るだけ高いものを探してドリスは走った。ふと振り向くと、敵が玄関ホール上の構造物を回ってこちらに姿を現した。すぐにドリスを見つける。
何でこんな暗いのに! と思うが実はドリスはとても目立っている。彼女は一つ失敗をした。黒いドレスは背中側も広く肌を露出していたが、彼女が泥を塗りたくったのは鏡に映る胸の範囲だけだったのだ。
ドリスが速度を上げて屋根を走る。彼女も早いが、しかし敵は更に早い。おまけにドリスは裾の広いスカートをはいているのだ。その間隔が徐々に縮まって行く。もう手が届くと言うとき、その時、突然敵がバランスを崩した。
ドリスはそれに気付かずに屋根から跳躍する。美しいジャンプだ。屋根を離れ宙を舞う。放物線を描きながらゆっくりと落下して、近くの木の梢に衝突する。もの凄い衝撃と音を立て、木の枝をバキバキ、ボキボキと折りながらドリスが下降して行く。
バランスを崩した敵もドリス同様屋根から転落するかのように見えた。しかし敵は手にしていたらしい小ぶりの鎌を板張りの屋根に向けて投げつけた。鎖の付いたその鎌が見事に屋根を貫き、敵はその鎖にぶら下がるように軒下にぶら下がる。
『間に合ったかしら?』
クリス・ミーアの脳裏に突然声が聞こえる。誰?
『私はリリス・ミーア。ドワーフのミーアよ。』
声がクリスの頭の中の質問に答える。
『エリス・ミーア。エルフのミーア。』
『ちょっとしたコツがあるらしいの。大きな破裂音を突然ぶつけると平衡感覚を失うらしいのよ。エリスが…。』
『奴は白魔術師よ。風を使うみたい。香りの痕跡を見えるようにしてドリスさんを追っているわ。彼女を出来るだけ臭いの濃い場所へ誘導出来ますか?』
『ちょっとエリス、話を遮らないの!』
二人の言葉が並行してクリスの頭に入ってくる。
『えっと、初めまして。私はクリス・ミーア。人のミーア候補の一人です。』
『堅苦しいことはいいのよっ。お互いに助け合いましょう。』
『リリスさん、それよりも今はドリスさんを助けないと。』
高い声のエリス・ミーアに言われてクリスはドリスを思い出す。
『ドリス! ドリス!』
返事がない。気を失っているのかもしれない。
『あのくらいで死にゃしないわよ。あ、ごめんなさい、ドワーフならって事。』
『平気です。もう気がつきそう。』
『ク、クリス。あいつは…。』
『ドリス、大丈夫? ねえドリス!』
『大丈夫ではないけど、何とか。それよりあいつは?』
『まだ屋根の上よ。動けるの? すぐに逃げて。』
『臭いの強いところへ。』
エリスが念を押す。
『臭いの強いところがいいみたい。奴は臭いの痕跡を目で見ることが出来るみたいなの。』
『なにそれ。彼女はオナラも出来ないって事?』
『どこか思いつきますか?』
『ぐずぐずしてらんないよ。』
『ちょっと二人とも! 私には口は二つないわ、ドリスに直接言って下さい!』
クリスがパニックになると、二人の声が止まった。
『え、どうしたの?』
『クリスさんは、もしかして気付いていないのですか?』
冷静な声でエルフのエリスが話し始め、リリスがそれを受ける。
『ドリスの能力は私たちとは大分差があるわ。普通に考えれば彼女も凄い能力者だけど、ミーアを継ぐほどの卓越したものは全く無いわね。』
『クリスさんの能力が強いので、貴方は彼女にも自分と同じくらいの能力があると勘違いしているのです。』
『ドリスに聞こえるのは貴方の声だけよ。』
『ドリスさんはもう以前から薄々気付いていると思います。』
クリスは絶句する。
『クリスさん、今はそのことは忘れて下さい。それよりもドリスさんの命が問題です。』
クリスの言葉が途切れたが、ドリスは素早く反応していた。臭いの強い場所ったって…。思い巡らすが、急に思いつくものでも無い。取りあえず、雑木林を屋敷から離れる方向に木の上を進む。ドリスが張巡らせたこの迷路には奴は入ってこられないはずだ。敵の体重はドリスよりも遙かに重いはず。そんな人間がここを歩くことは出来ない。
いつものようにのんびりとは歩けない。思い切った速度で駆けるように枝を渡って行く。
敵の気配はない。地面を追ってくる影は見当たらない。と、思って思い出す。奴は壁に吸い付くように屋根へ上がってきた。それって普通の人には、やっぱり出来ないんじゃない?
そう気付いて、ふっと上を見上げる。頭上にいる。
影が落ちてくる。ドリスが走る。ドリスは跳躍する。枝が折れ、葉が舞い散る。腕を伸ばして枝をつかむ。思ったよりも細い。枝がたわんで彼女を振り子のように振り回す。速度が加速する。鞭のように撓った枝が反動でドリスの体を上へ高く、放り投げる。
空中を舞い、次の枝をつかむ。幹に近い枝だ。幹に足を掛け更に上に駆け上がる。
上空からドリスを襲った影は地面へ落下した。そちらを振り返る余裕はない。きっとまたすぐに追ってくる。木を昇りながら次の幹に跳躍する。これじゃ私まるで猿だわ。
再び飛ぶ。ドリスの更に上から、影が彼女に覆い被さる。連続して強い力で腕を捕まれる。
「きゃーーー!」
悲鳴が口を貫くように発せられる。ドリスが敵と一緒に落下する。彼女は捕まれた腕を軸にして敵に向き直った。酷くねじれた腕がねじ切れそうなほど痛い。ドリスは敵の顔を見据える。男だ。凹凸の少ない平板な顔をしている。目は細く、鼻も低い。
それだけ見て迷わず顔面に一発パンチを食らわせる。男は身をよじってそれを避けようとしたが、ここまでドリスが反撃してくるとは思ってもいなかったのだろう。また、空中のことで鍛え抜かれた運動能力を相手が十分に発揮出来なかったことも災いした。
ドリスの腕をつかんだ力が抜ける。ドリスは、男を踏み台にして再び木の枝に跳んだ。男が背中から地面に落ちて行く。ドリスは枝を掴み、幹にしがみつく。
遙か下方で重苦しくモノが落ちる音がする。
ドリスは呼吸を整えながら、男の落ちていった方向へ神経を集中した。何も動く気配はない。ただ、敵はまだ生きていると感じる。恐ろしいような、安心したような感覚がドリスを包む。彼女は木を下へ向けて降り始めた。
地面に着くと、仰向けに横たわる男の姿があった。ドリスは遠巻きにその姿を見つめる。
『クリス、聞こえる?』
『ええ。』
すぐにクリスの声が反応する。
『見てた?』
『ええ、話しかけたらドリスの気が散ると思って黙ってたの。』
『…ありがとう。』
ドリスは一歩だけ男に近づく。
『ドリスダメよ、まだ死んではいないわ。』
『なら助けないと。』
『ダメダメ、殺すべきだわ。』
『でも、…。』
『ここで情けを掛けてもアダンダラやモルフォーミンの奴らは何も感じないわ。きっちりと息の根を止めて、私たちがやられてばかりでないことを知らしめなきゃ。』
ドリスは返答に困り黙ってしまう。また一歩近づく。
『ドリス!』
『でもやっぱり。』
次の一歩を踏み出した瞬間、男が飛び上がるように立ち上がった。手に短い剣を持ち、ドリスに斬りかかる。
「きゃ!」
ドリスが辛うじてそれを避ける。ドリスの運動神経のたまものだ。次の攻撃が来る。ドリスが避けるが今度は彼女の腕に掠る。
「くっ。」
ドリスの表情が苦痛に歪む。腕から出た血が黒い服を濡らして行く。
死にたくない、と思う。やはり死にたくない。
ドリスは振り向くと一直線に一本の木に向けて走った。背後から敵が確実にドリスを追ってくる。
しかし、ここはドリスの庭だ。実はここで戦いを始めた瞬間から男に勝ち目はなかったのかもしれない。
ドリスは目の前の木に瘤のように張り付いた人の頭くらいの大きさの丸い塊をむしり取った。そしてそのまま追ってくる男に投げつける。ドリスの目前で男は跳んできた塊を手にした剣で両断にする。二つに分かれた塊が男にぶつかる。地面に落ちた片方を男の足が踏み壊す。ドリスが一目散に逃げる。
低い、巨大な空気の塊が押し寄せてくるような音が男の足元から湧き上がる。男がさすがに異変を感じて立ち止まる。
低い音は、黒い小さな竜巻のように実体化し、男の足元から湧き上がり、一瞬で男を包み込む。
人の声とは思えないような醜悪な、低く絶望的な悲鳴が約四秒だけ耳を不愉快にする。ブーンという低音の単調な音の中、男のシルエットが黒い竜巻の中で無秩序に動き回る。そして地面に崩れのたうち回る。
ドリスが逃げる。男が動かなくなれば今度はこちらを襲ってくるかもしれない。昔の記憶と共に腕を刺された痛みが蘇る。
その蜂に刺され数年に一度は命を失う者がいるという。
ドリスは屋敷に駆け戻る。部屋へ戻り、まとめられるだけの荷物をまとめてすぐにここを出ようと決心する。自分がここにいることが、クリスと自分自身とを追い詰めているのだ。私が姿を消しさえすれば、ミーアの後継はクリスに決まり、誰もそれを妨げることはない。
先程からクリスが呼んでいる。でももう返事は出来ない。クリスは病弱な自分を捨てて逃げ出した妹を恨むかもしれない。いや、きっと恨むだろう。もうここへは帰れない。
ドリスが屋根から落下した音を聞いて、ミクハイレは頼りとするアダンダラの屋敷にメイドの一人を使いに出した。アダンダラの人間が彼らの屋敷に詰めている十数人の私兵をミーアの屋敷に送る。ミーアの屋敷の周辺で事の成就を待っていたモルフォーミンの兵が、アダンダラの人間に気付いて戦闘となった。ミーアの屋敷の外で小競り合いが起きる。
そこに何故か駆けつけたのがプラントル家の家長たるソウ・プラントルその人だった。馬上のソウは数十人のごろつきたちを一喝してその場の殺し合いを諫めたという。
翌日になって、オルバットの行政を束ねているミサリアの国境警備軍はその顛末に激高し、ミーア家に対する干渉を今後永遠に二家に禁じる決定を出した。ミサリア軍は、これまでも、アダンダラとモルフォーミンの二家の増長と、互いの確執にはウンザリしていたのだ。彼らには絶好のチャンスだった。
当日の諍いを納めたソウ・プラントルは、その功績からミーア家の後見を依頼され、モルフォーミン、アダンダラの二家がつとめていたその座にはプラントル家がちゃっかりと納まった。また、屋敷に賊を引き込んだ罪で執事のラハイエラは処刑された。
プラントル家はミサリア国軍の後ろ盾を借り、モルフォーミン家が牛耳っていた漁師たちの管理と、アダンダラ家が支配していた葡萄園とワイン製造の設備の両方を手に入れて商売を拡大して行く。
もっとも、この事件から少し経った時期にソウ・プラントルはポペットの森でエルフのビルジ・ヴァルメルと出会ったとされており、その後ソウの村に籠もりがちになって行ったということである。プラントル家の商売の実質は、この後ソウ・プラントルの妹が引き継ぎ、彼女の商才でプラントル家は更に繁栄して行く。
彼女はミーアの巫女たちに対しては、同性故か過剰な干渉をすることはなかった。生まれながらにして重い運命を背負わされた少女たちに同情したのかもしれない。そしてその後はミーアは本来の巫女としての役割をしっかりとこなすようになったという。
この晩の出来事を含めてオルバットを支配してきた二家の繁栄と確執、そして没落の物語は、後の世に『アダンダラとモルフォーミン』というタイトルで戯曲化され、アルシア全土で好評を得るが今この段階では、物語に関わる誰にも関係はしない。
ドリスが話を終える頃には饗された昼食も食後のお茶を残すのみとなっている。都合のいいことに、ミクハイレは調理に忙しかったと見え、給仕に現れなかったので、ドリスとしては気を遣うことなく話しを終わらせることが出来た。
しかしながら話の冒頭から、ジュニアが何とも納得のいかない表情でこちらを見ているのが気になる。案の定、ドリスが話し終えるのを待ってジュニアがぼそりと言う。
「お前、男だろ…。」
「ドリス!」
部屋の扉が開かれクリス・ミーアが青白い顔色をして部屋に入ってくる。そのまま窓側へ座るドリスの横へ駆け寄る。ドリスもクリスのただならぬ様子に椅子から腰を浮かす。クリスが強引にドリスの手を取る。
「調和の紋章が奪われたらしいの!」
「え!」
ドリスが息をのむ。『調和の紋章』はドワーフのミーアが管理する道具で、『歓喜の雫』を集めるのに必要なアイテムの一つだ。もちろんその辺りを、ジュニアとケンの二人はまだよく理解していない。
「そんな、それじゃアルを、」
「ドリス、貴方はすぐにオルバット島へ行きなさい。静寂のグラスまでも奪われるようなことがあってはならないわ。」
「うん、でも鍵はどうするの?全てが揃わなくては歓喜の雫を受けることは出来ないのでしょ?」
「鍵は貴方が持って行きなさい。貴方がエリスの所に辿り着く前にグラスが奪われても、始まりの鍵がなければ何も始まらないもの。賊は紋章とグラスを持って貴方の所へ行くはずよ。アリスとエリスと協力して、そこで取り返すしかないわ。ごめんなさい、ヒトのミーアはドワーフやエルフのように武術に秀でた人物を周りに持たないもの。その役目を担っていたアダンダラ家とモルフォーミン家の後ろ盾がなくなった今、アリスやエリスと一緒にいた方が安全だわ。オルバットに着くまでは危険な目に遭わせるけど、私達には襲ってくる賊と闘う能力はないの。私は体がこんなだし、お願いだから貴方が鍵を守って。」
クリスがドリスの手を放すと、既にドリスの手には大振りな鍵が持たされていた。銀色に輝く無骨な鍵だ、ドリスの掌から若干はみ出すほどに大きく、厚みもあるようだ。片端は平べったくなっていてその端の方に皮の紐が通してある。首に掛けられるようにしてあるようだ。逆側では棒の周囲に突起が複雑に飛び出している。360°、棒の周囲を囲むように様々な形状の突起が様々な角度で突出している。ちょっと見たことのない複雑な形状だ。
ケンドアはどのように作ればいいのかを、自然と頭の中でシミュレートしている。複雑な合わせ型を造って鋳造するか、塊から削り出すか。恐らく削り出すのが正解だ。二つとは必要ないのだから。
「すぐに出発しなさい。今からなら日没までにオルバットのエルフの村まで辿り着けるわ。舟の手配はすぐにするから。」
ドリスはクリスの言葉に真剣に頷く。そしてジュニアとケンの方を見る。
「二人ともお願い。アルを元に戻すには、ミーアの管理する『歓喜の雫』がどうしても必要だわ。私を助けて。」
「ああ、ここまで来たんだ、指示には従う。でも詳しいことをきちんと教えてくれよ。」
ケンドアが朗らかに言う。ジュニアは黙って頷くだけだ。
姉妹の真剣な様子は、状況を理解しきっていなくても二人に伝わっている。ジュニアもケンドアも指揮官と言うよりも、最前線で仲間を信頼し、その仲間と命を預け合う一兵卒なのだ。
ケンはそこで考える。
「ここは、どうなります?」
言葉を選ぶようにそう話す。
「次にエルフが襲われるとは限らない。次の標的は、その鍵かもしれない。ドリスがそれを持ちだしても、敵は一度ここに来なくては、鍵が既にここにないことを知ることは出来ない。違いますか?」
ケンはエリスを見つめてそう話す。
「もしかすると今のところは全員がここに残った方がいいのかもしれない。エルフが襲われようが襲われまいが、敵はここに来るのだから、ここの守りを整えた方が我々にとっては有利に事が進められるように思います。」
「それはダメだわ、エルフが襲われるかもしれないって言うのに、自分のことだけ考えて放ってはおけないわ。」
ドリスが真剣に抗議する。ケンはその様子を冷静に観察している。彼女の考えていることをイメージしている。
「そういうことであれば、私はここ残りましょう。お二人の言われるようにエルフが狙われる可能性の方が高いのでしょうから、ジュニアがそちらに行くのがいい。私よりも遙かに腕がたちますから。」
ケンはそう言ってジュニアを見て優しく微笑む。ジュニアが尊敬するケンドアにそんなことを言われて感激しているのが分かる。分かりやすい子なのだ。
「ドリス、すぐに発ちなさい。オルバットの島までは何時間かかかります。暗くならないうちにエルフの村に着かないと…。ドワーフの闘士達を倒した敵です。侮ってはなりません。」
そもそもまだ旅装も解いていないジュニア達である。二人はすぐに屋敷を離れる。
夜になって風向きが変わった。海面の方が地面よりも温度の上昇と下降の速度が早いので、日没後水温が下がると海上の空気も冷やされて陸上の空気の下側へ入り込もうとする。そうなると人々の住む地上では風が海から吹き始める。心なしか日中よりも強く吹いているようだ。
ケンドア・ドルメドルは短めの剣を提げて屋敷の廊下に出ていた。服装もいつでも立合えるものを着ている。可能性は低いとはいえ、敵がこの屋敷を襲うことは想定しておくべきである。常日頃、旅をしながら生活しているケンは火を起こして野宿することも多く、旅装のまま眠ることには慣れている。おまけに今日はいささか神経が尖ってしまったようで、そもそも落ち着いて眠れずにいたのだ。
そして、暫く前から何か嫌な感じがする。
廊下の両側には整然とドアが並んでいる。灯は暗くまばらでようやく扉のあることが認識できる程度の明るさだ。風が部屋の中の窓枠を揺らす音と、屋敷の裏手に広がる雑木林の葉をかき回す音が激しくなったり、おとなしくなったりしながら聞こえてくる。
今、屋敷には自分とクリス・ミーアとたった二人ばかりの使用人がいるだけと聞いている。オルバットの祭司を司るミーアの家とはいえアダンダラ家とモルフォーミン家からの支援が無くなって家計は楽では無いのだ。
斜め前にクリス・ミーアの居室の扉が見える。安心できることにここは特に異常は感じられない。
敵は恐らくどの部屋に例の鍵が保管させているかを知らないので、その在処を知るために、始めにクリスを探して各部屋を回ると思われる。その備えにケンはクリスの隣の部屋を使わせてもらった。
そしてもう一つ備えをしている。
今この屋敷の最上階である四階の端の部屋に、小さな灯を点してある。
クリス・ミーアを探すことを考えたとき、自分なら上から見て回るだろう。上の階の方が窓からの景色が良いからだ。屋敷の主人であるクリスはまだ若く、階段の上がり下がりに問題があるなどとは思わないのが普通だ。それであれば見晴らしの良い最上階の部屋を居室に選ぶと思うはずだ。実際は病弱な彼女の部屋は二階にある。四階の灯はそのための囮である。今日、ケンとクリスはまだ明るいうちにそれぞれの部屋に入り、窓を厚い布で塞いで、小さな灯で身を潜めて過ごした。
ケンは廊下を静かに歩き出した。
この屋敷の構造は以下のようだ。屋敷の中央にある入り口を入るとそこは円形のエントランスホールになっている。ホールの中央にはホールの直径の1/3程度の幅の二階へ上がる階段がある。階段は真っ直ぐに伸び、正面の壁に辿り着いたところが二階になる。二階から四階まで、エントランスホールの上は円筒形の吹き抜けになっている。そしてその吹き抜けを丸く取り囲むように各階に円形のテラスが張り出している。
二階から三階への階段は、一階から二階へ階段を上がりきった所の両側、テラスの外周部にありこれも円弧を描いて90度回ったところで三階に辿り着く。
建物は入り口から左右に90度ずれた位置に一直線に伸びて建っているので、従って、二階から三階へ上がる階段を向かって左へ上がると三階では右手に各部屋に続く廊下があり、向かって右手へ上がると三階では左手に廊下が延びる。
三階から四階への階段は廊下を越えた先にあり、再び90度回って四階に辿り着く。従って四階に上がった場所では正面に逆を回ってきた階段の上がり口があり、その真下、一階の高さには正面の玄関がある。
階段は四階で終わるが吹き抜けの上部はドーム状の明かり取りのガラス張りの天井になっている。ガラスは強度のため、厚ぼったいガラスなので、外の景色などは見えない。今は空には月が出ていないらしく、ガラスは黒く、室内の微弱な灯さえも反射して室内を映しだしている。
ミーアの屋敷はこのような構造だったので、中央の吹き抜けを取り囲む階段を使わないとフロア間を移動することは出来なく、またこの吹き抜けの回廊を監視することで、全ての人の階をまたいだ動きを監視できるのだった。
ケンはまず四階へ上がり、吹き抜けの回廊をぐるりと、自分の部屋とは逆翼へ回る。ここから見れば上がってくる人影は全て確認できる。クリスを二階へ残すのは不安だったが、自分がクリスと距離をとることも結果を推測するとメリットのようにも思えた。敵と戦って自分が敗れたときには、自分は彼女の側にいない方がよい。
廊下の奥の一番手前の部屋の扉は開けてある。誰かが四階まで上がってきたときには隠れる場所が必要だからだ。廊下には身を潜める場所は無い。闘うのに邪魔になる小机や花瓶、鉢植えの類いは全て片付けてもらった。というか実際は彼が自分で片付けた。屋敷にはクリスとメイドしか残っていなかったからだ。
ケンは床に腰を下ろし、壁にもたれて闇に同化した。彼は一流の鍛冶であり、その技能と比べれば、そこそこの剣士である。ジュニアには遠く及ばないながらも一般と比較すれば剣豪と言って差し支えない実力者である。
彼は闇に潜みながら、昼過ぎの楽しかった時間のことを思い出す。鋳掛けをしながらロスガルト国内を旅する最近の日々だったが、今日午後の会話ほど心に残り、楽しかったことは思い出に無い。
午後の穏やかな日差しが部屋を明るくしている。ケンドア・ドルメドルとクリス・ミーアはジュニア達が昼食を摂った、例のオルバット島を見渡せる広い部屋に二人でいる。ドリスとジュニアとはもう既にオルバットへ出発した。
エリスが遅い昼食を摂る所に、ケンがお茶を飲みながら同席している。エリスは気詰まりなので何気なくケンに自由にしていいと何度も話しているのだがケンは気にする風もなくその場に残っている。
ケンはクリスよりも五歳ほど年下だ。クリスだって歳は今年で十八、ケンはまだそういう年齢だが、幼い頃から一人で鍛冶の仕事をしながら色々な町を旅して歩いているので人に対して物怖じしない性格だ。くぐってきた修羅場が違う。ミーアの後継として大きな屋敷に籠もっていたクリスとは経験の量が雲泥の差だ。
「あの子達、大丈夫でしょうか?」
クリスはしても仕方ないなと思う質問をする。子供とはいえ男性と長い時間、二人でいることなどこれまでの人生ではあり得ず、何を話していいかなんて分からないじゃない。
「ジュニア、ああ、彼の名前は、シトラウト・シュミッツ・ジュニアと言いますが、彼はかなり強い。私の知る限りでは五本の指に入る実力を持つ騎士だ。心配はないと思います。と言っても私が知っている騎士達は、ロスガルトとミサリアの北部に限られた、狭い世界の住人だけですが。」
「それでも私に比べれば広い世界ですわ。私なんかこの屋敷から出たことなどほとんどありませんもの。」
「そう言った意味であれば、この町の人々もほとんどがこの町を出たことがないのではないでしょうか? 程度の差は多少はあるにしても、人の行動出来る範囲の外には、その内側と比べて遙かに広い世界があるものです。そう言い換えれば私も貴方もその経験には大きな差がないとも取れるのではないかと思います。」
クリスはそこでケンの顔を見つめた。少年と思っていたが、面白いことを言うものだと思う。
「えっと、貴方はどういった、…ごめんなさい、どういった方であったかをもう一度教えて頂けませんか?それとお名前も。」
真面目なクリスの表情に、ケンは目を開いて驚いた様子を隠しもせずに暫く黙った。
「私はケンドア。ドルメドル。金属の精霊の声を聞く、鍛冶という職業を生業としています。」
そして穏やかに話し始める。
「私の家は代々続く鍛冶の家柄です。ロガリアの南西のドルメドルと呼ばれる場所で職人達を率いて武器や防具の製造をしています。家訓により、一通りの技能を身につけた後は鋳掛け仕事をしながらロスガルト国内を放浪し、自立することを学びます。私は今その段階におります。この段階に到達した鍛冶としては一族で最も若いみたいです。」
最後はちょっとだけ自慢なのか、恥ずかしげだ。
「クリスさんは、私のような鍛冶に会ったことはありますか?」
ケンの問いかけに首を横に振る。するとケンは腰に下げた短剣を鞘から抜いて机に置いた。
「私たちは金属の精霊と会話をする事に特化した白魔術師者です。」
そして柔らかに光を反射する短剣の刃に触れる。銀色に輝く細かな光の粒が、ケンの指先と生身の刃を中心に現れては消える。その光は冷たく美しい。
クリスはその美しさに、はっと息を吸い込む。
「この世界は様々な物質から出来ています。それが複雑に組み合わさることで色々なものを形作っています。その中でも私たちが重要と考えているのが『オキシル』というこの銀色の物質です。これが他の様々な物質と結びつくことで、良いことも起きれば悪いことも起きる。金属を強くすると同時に、金属を腐らせる。私たちが年老いるのもこのオキシルの仕業です。もしも差し支えなければ庭に炉を建てさせてください。三日ほどかかりますが、もっともっと美しい色々な物質の輝きをお見せします。」
ケンが微笑み、クリスが微笑み返して小さく頷く。
それからケンは、これまでの旅の中で出会った人、起きたこと、考えたことをぽつぽつと話し始めた。春先のまだ短い昼はすぐに過ぎ去り、夜が屋敷を覆い隠して行く。
どれほどの間息を潜めていたであろうか、ようやく誰かが屋敷の扉を薄く開けたようだ。外で吹き止まぬ風が、ホール一階の蝋燭を揺らし、吹き抜け全体がゆらりと歪んだように歪む。ケンは寄りかかっていた壁から背中を離し、四つん這いでテラス内周の手すりまで移動する。下を覗く。
薄ぼんやりとした暗い階下が見下ろせる。人影も、何か動くものも見えないし、その気配も感じられない。意識を階段に集中する。
すると二階から三階へ上がる階段を、闇に溶け込むように上がってくる一つの人影が見える。黒い装束でかなり大柄な体型だ。にもかかわらず先程まで気がつかなかったのは、それだけその人影の気配を消す技能が卓越していると言うことだ。「木化け」、「石化け」などと言うように、周囲に同化して自らの気配を消す技能は、そう簡単に身につけられるものではない。
敵は三階に達した。ちょうどケンの正面の一階下にその姿がある。敵は横断すべき通路の様子を確認してから素早く正面の四階への階段に向かった。ケンも慎重に背後の廊下へ下がる。まだ、見つからない方が良い。敵が部屋への廊下を進み始めてから、つまり敵の退路を断ってからが勝負だ。
準備していた、扉を開けたままの部屋に入る。扉は開いたままにする。閉めれば確実に相手に悟られる。部屋に入り、入り口の陰に身を潜めて腰に下げた剣の柄を握る。ここで緊張してはいけない、その緊張は確実に相手に伝わるからだ。非論理的と言われても仕方ない。何か、今の技術では把握できない何らかの情報が緊張する自分の体から発せられて相手に伝わってしまうのだ。それを精密にセンシングする能力のあるものが、命のかかったやりとりを生き抜いてゆけるのに違いない。
もっとも自分もよく勘違いをする。相手の殺気を思いの外、強く感じてしまったりするのは自分の技能の至らなさだと反省する。そう考えるとこのセンシングは、自己のセンサーの校正技能の問題でもあると言える。人は全て、この感覚を察知している。しかし察知した上でどの程度の強さかを判定する過程に優劣の差があるのかもしれない。
しかし、慎重になりすぎた方が生き残りやすいのも現実だ。油断は、慣れと余裕から生まれる。
敵は四階に達した。この距離であれば、どれだけ注意して行動しても、ケンが集中してその気配を読めば敵の気配は把握できないほどのことはない。相手は歩いているのだ。手を動かし、足を動かし移動しているのだ。ほんの少しの床の軋み、絨毯を擦る靴の音、息遣い衣擦れ、ケンの五感が敵を包囲している。音は耳だけで聞くものではないのだ。
ケンのイメージするこの四階の平面図の中で、敵は今ケンに背を向けて、囮を仕掛けた奥の部屋へ歩き始めた。心の中で数を数える。落ち着け、確実に行き止まりの廊下の奥へ追い込むのだ。
そして意を決して部屋を出る。敵は既に廊下を奥へ入り込んでいる。想定通りだ。足早に歩く。気配よりも気づかれるまでに距離を縮めておきたかった。
ケンが廊下を半ばまで進んだときに、敵がこちらを振り返った。大柄な黒い影が素早くこちらに振り向く。
一瞬で敵の気配が消えた。
そこにあるはずの敵の肉体もケンの視界から消失する。思わず踏みとどまる。廊下に目を凝らす。ゆっくりと陰が現れる。朧な、陽炎のような曖昧なものだ。
敵は黒い装束に黒いフードを被っている。二メートルを超える大きな筋肉質の体は、しかし明らかに人とは異なる。腰から下は筋肉質で無駄な肉の一切がそげ落ちている。まるで野生の馬の足に似ている。骨盤は大きく横に張り出しているが腰は細く締まっている。上半身も逆三角形の硬そうな筋肉で構成され、胸が大きく前に張り出している。
ドワーフの女性だ。ケンが判断する。ドワーフは男女で体格差が著しい亜人間である。男性は1.5メートル程度と小柄で腹の出たぷにょぷにょな体型をしている。そして何より、怠惰な性格でほとんど働くことはない。逆にドワーフの女性は大柄で筋肉質で勤勉である。性格もあっさりと気の良いものが多い。目の前の敵は、このドワーフの女性としての有利な体格を生かして、とことん体を鍛え抜いた闘士だ。こういった生業を選び傭兵としてアルシアで活躍するドワーフの女性も多いと聞く。
彼女が静かに腰を少し落とす。
「そこにクリス・ミーアはいない。」
ケンが抜刀しながら、暗闇のようなフードの中の敵に声をかける。
「そもそも始まりの鍵は既にこの屋敷にはない。」
ケンの一言に、闇の中でドワーフの目が怒りに赤く発光したように見える。表情は読めない。顔に黒いプロテクタを着けているのだと思う。
「嘘!何故、欺す!」
くぐもった声が憎しみを交えて、真に吐き出される。動揺した言葉とは裏腹に、彼女の気が鋭利に研ぎ澄まされて行くのを感じる。やる気だ。受けて立たなくてはならない。しかし、明らかに敵は自分よりも強い。
ケンが自分の刀を上段に振りかぶろうとするが、すぐに思い留まる。ここは天井が低いのだ、そもそもそれは既に織り込み済みで、そのつもりで短めの一差しを持ってきている。落ち着け。
剣は中段のまま、ステップを踏む。床に落ちたケンの影が弱々しい光に揺れながら、床を、壁を、天井を海の底の如くウネウネと揺らめかせる。
彼女の手には武器はない。しかしケンにはその鍛えられた体全てが凶器に見える。あの体格で、敏捷な動きで、蹴りや手刀を食らえば、自分は一撃で終わるかもしれない。
その攻撃が届く前か、そうでなければその攻撃をかわして自分の剣を彼女に到達させなくてはならない。
だが、自分の剣は守る事を得意としない。攻撃してこそ敵に辿り着ける。守る事を考えて自分を安全な位置に置こうとすること自体が自分を死に追い詰めると考えてしまう。浅ましい、刀鍛冶の理論なのだろう。しかし、それが彼自身だ。
従って彼には敵の攻撃をかわすという発想が欠如している。打ち込むのみ。幸い、素手よりも剣の方が間合いが長い。それだけが心のよりどころだ。
ケンはステップを踏みながら、徐々に距離を詰める。剣は中段なので、剣を振り戻してから打ち込まなければならない。ケンの剣は彼が使いやすいように、自ら軽めに仕上げてある。しかしそれでも金属の塊だ。後方に振った剣に与えたベクトルを前方に反転させるには相当の力が必要だ。当然速度も落ちる。彼女とのスピードの勝負になる。
廊下は狭い。人が二人なら余裕を持ってすれ違えるが、三人では余裕はなく、四人ではギリギリだ。そして天井は高くはない。相手の体格からして、正面から打ち合うのは危険だ。運良くこちらの剣が敵を捕えられても、そのまま彼女の巨大な体が凶器になって自分を押しつぶすだろう。上段から頭を狙えない以上、瞬間的に絶命させることはほとんど不可能だからだ。
ケンは右利きなので敵の左側へ入り、横から胴を薙ぐことにする。攻撃を受ける可能性が大だが、それ以前に腹を割ってしまえば、威力は格段に落ちるものだ。致命傷を負わせる自信はある。
敵を見つめる。ここからは呼吸の読み合いだ。相手が踏み込んでくる、ほんの一瞬先の、動きが止まる瞬間の、頭の一瞬を捕えて攻撃を仕掛けるのだ。
ケンは徐々に廊下の左端へ身を動かして行く。敵はそれに合わせて、ケンから見て右へ回って行く。
「破!」
ケンが踏み込んだ。良いタイミングだ。相手が一瞬遅れた。ケンの剣が、彼の思惑通り、敵の右脇腹へ向かう。しかし相手はまるで動じない。おかしい。
剣が敵に到達し、ケンの手に激しい衝撃が加わる。予想外のものだ。この流れを予想していたのは敵の方なのだ。敵の武術は、相手を殺すためだけにある事を即座に理解し、心が酷く衝撃を受ける。剣法家は『剣』に命をかける。しかし彼女は、相手を殺すことに命をかけているのだ。
そういった思考と同時に、ケンは手に加わる衝撃の理由を即座に理解して、握っていた剣を放した。体を捻って敵の方に向く。敵の右手が正面からケンを襲う。ケンは顔の前で両腕をエックスに組んでその攻撃を受け止める。
辛うじてクリーンヒットを免れる。それでもケンは壁まではじき飛ばされ叩きつけられる。視界の端で相手がゆっくりとこちらを向く。
敵は黒い装束の下に金属で編まれた防具を着ている。鎖帷子と呼ばれるものだ。切り込み続ければ剣が折れると判断してケンは刀を手から放した。しかしそれでも、金属の棒で力任せに脇腹を殴られたのと同じ事のはずなのに、内蔵へは相当のダメージがあったはずなのに、奴は平然とこちらを見下ろしている。
床を転がり、ケンが身を起こす。
ケンは短刀を抜いて敵との間合いを慎重に自分に有利な距離に合わせて行く。自分の長刀は残念ながら敵の足元なのだ。
先程、一瞬怒りに燃えたように見えた瞳は、既にフードの闇の中に沈んで見えない。息遣いも安定している。敵は冷静だ。ケンのつけいる隙は見当たらない。絶望的と思うが、それを振り払う。
巨大な体がケンの目の前で拡大しケンを追い詰める。デカい体が、こちらに覆い被さってくるような錯覚を覚えた時、そして、プイ、と消失する。
彼女は廊下を走っている。先程の一撃で体勢が入れ替わったのでドワーフの方が玄関ホールに近い側にいたのだ。ケンがそのことにようやく気付いた。それだけ彼の神経は敵に集中していた。強ばっていた体が思わず床に崩れそうになる。まだダメだ、下にはクリスがいる。敵が逃げるのは構わないが、ここで気を緩めて休むわけにはまだ行かないのだ。
逃げる彼女を、刀を拾ったケンが、体にむち打ち追いかける。
しかしながら彼女の鍛えられた筋力も、長い四肢もケンの速度の追従を許さない。彼女はホールの内周の手すりに飛び上がり、ホールに跳躍した。巨大な体が円形のホールを舞い、正面の三階のテラスに飛び込む。そしてそのまま左へ折れて二階への階段を駈け降りる。
ケンがようやくホールに辿り着く。三階への階段へ駆け込んで、こちらも階下へ走る。
敵は既に一階へ降りる階段を下っている。ホールを抜けて玄関扉に辿り着いた。しかしそこで止まった。彼女は扉を開こうとドアのノブを握ったまま静止し、そして右後方を振り仰いだ。
「きゃ。」
クリスがその迫力に思わず小さく悲鳴を上げた。何で、部屋から出ているんだ…。
瞬間的にドワーフが階段に戻る。走る。二階へ駆け上がり、左へ折れる。階段の脇を抜けてクリスの元へ。そこへケンが三階から降りてくる。部屋へ逃げるクリスの手はまだ、ドアノブにかかったばかりだ。振り返った彼女に、ドワーフの太い腕が伸びる。クリスの悲鳴が、絶叫が発せられたとき、ケンドアが背後からドワーフに斬りかかる。
敵は後方が見えているかのように自然にケンの一太刀をかわす。ケンがすかさず振り返り、剣を構える。自分の体をクリスとドワーフとの間に割り込ませる。
「早く部屋へ!」
ケンが怒鳴る。その時既にドワーフがケンを脇に薙ぎ払おうと腕を横に振っている。
その腕にケンは体を弾かれる。ぶっとい鉄の棒で殴られた感じだ。体の中で嫌な音が沢山している自覚がある。もう生きられないと覚悟する。それでも彼女を守らなくてはならない。自分も死ぬが、敵も殺すと意を決する。
剣がはじき飛ばされ、ドワーフとクリスとの間に何も無い空間が生まれる。ドワーフが前に進む。クリスは部屋へ入るのを諦めて廊下を後ずさる。ケンが力任せに剣でドワーフの足元を薙ぎ払う。自分でも腕がおかしな方向に曲がっているのが分かる。
「ぐ!」
うめきをあげるのはケンの方だ。ケンの剣はあっけなくドワーフの腕で受けられ、つかまれて、捻られ、取り上げられて、捨てられる。
巨大なドワーフの目の前に、小さなクリスが無防備で立っている。
「始まりの鍵はここにはありません。信じてください。」
クリスの瞳をドワーフが直視する。クリスとの距離を更に詰めながら、ドワーフは視線を決してクリスから外さない。
影がガタリとその視線を遮る。ケンが二人の間に割って入ったのだ。
「信じろ、ここには既に鍵はない。」
立って、言葉を発していること自体が異常だった。そして隙あらば無傷のドワーフの命を奪おうと、ギラギラと瞳を輝かせている。
背中にクリスの体を感じる。ケンは構える剣に一層力を込めた。剣士としてはよい行為ではない。無駄な力は、無駄で緩慢な動作を生む。いや、それはおかしな話だ。既にケンの体は立つ事も、剣を握り構えることも出来るはずが無い程に壊れてるのだ。
割り込んできたケンの瞳を凝視したまま、ドワーフが後ろへ下がる。瞳には驚きがある。いや、呆れているのかもしれない。彼女にかなう腕も無く、それでもしつこく前に立つ少年に、明らかにこれから死んで行く少年をドワーフの瞳が無表情に見つめる。
彼女はそして突然身を翻すとホールの手すりを飛び越えて階下に消えた。玄関が乱暴に開かれる音がする。
ケンドアが廊下に崩れる。体中に痣があるが、それが分からない程全ての皮膚がどす黒く紫色に変色している。両腕はあり得ない方向に曲がっていたし、肋骨は折れ一部で体外に突き出し、内臓は破裂している。クリスはケンに身を寄せる。
「ケンドア様!」
ケンが瞳を開くと、明らかにそれは何も見ていない。クリスの顔がすぐ目の前にあるはずなのに…。
「…。」
階下で音がする。しかしこれはあのドワーフではない。一階に部屋のある住み込みのメイドたちが、騒ぎが静まったのを確認して部屋から出てきたのだ。すぐにミクハイレが上がってくるだろう。
「ケンドア様。」
クリスがケンに強引に口づけをする。クリスの舌がケンの口の中をなめ回す。勿論何の反応も無い。
「クリス様!」
階下で早速ミクハイレの声がする。クリスが慌てて唇を放す。
「私は平気です。でもケンドア様が! 早く上がってきなさい。ケンドア様をお部屋へお連れして!」
階段を駆け上がってきたミクハイレが、横たわりクリスの腕に抱かれているケンの満身創痍の体を見て驚く。それは明らかに死体以外の何ものでも無い。
それでも彼女はクリスの指示に従って、クリスとケンの間に割って入り、ケンを抱き上げる。クリスは彼女の部屋の隣のケンの部屋の扉を開けてミクハイレとケンを中へ入らせる。
「ベッドへ!」
ミクハイレが指示に従いケンをベッドに寝かせる。
「旅装を解いて。」
彼女の指示に従いテキパキとミクハイレが動く。ケンを締め上げていた衣服が緩められ、色々な場所から血が噴き出す。
「死なせるわけにはいきません。これから白魔術で治癒を行ないます。気が散りますから誰もこの部屋へは入らないように。良いですね。」
ミクハイレを振り向いてクリスが命令する。
「しかしそれでは、クリス様のお体が…。失礼ですが、私にはこの者が既に死んでいるようにしか見えません。」
ミクハイレの抗議も真剣だ。クリスの命にも影響が出ては元も子もない。
「さっさと出て行きなさい。邪魔です!」
クリスの形相が尋常では無い事に衝撃を受ける。心臓が締め上げられるように痛みを感じる。勿論痛がっているのは精神の方だ。心臓に神経は無い。すぐに呼吸が出来なくなる。あの冷静な子が…。クリスは半ば自分を失い、無意識のうちにミクハイレの自律神経系に攻撃を仕掛けてきている。このままでは殺される。激しい恐怖を感じる。
「か、かしこまりました。」
ミクハイレは辛うじてそれだけを言うと、青ざめた表情のまま無言で部屋を出て行きドアを閉じた。扉が閉まると同時に深く息を吐き出し、膝をガクガクと震わせる。
クリスは扉が閉まったことを確認して、我慢できないように再びケンの唇を自分のそれで塞ぐ。
「ケンドア様。あなたは必ず私が助けます。何としても…。その前にもう一度。」
クリスが口づけをする。
「ケンドア様、多分、私は貴方を愛してしまったような感じがそれとなくするのです。」
「姉は何て言うか、極端な性格でね。」
ドリスとジュニアはオルバットの森林を抜ける路を歩いている。
先程半ば朽ちた桟橋からこの島に上陸し、エルフの村落に向かっている。
「何かを決めて一度思い込むと、中々考えを変えられない。」
島に人が渡らなくなってもうずいぶん長い時間が経っていたし、この島に住むエルフもドワーフも基本的には魚を食べないので漁に出る必要がないのだ。ただ、舟は何艘かつながれているのでまるで海に出る需要がないわけではないらしい。
「それに何かを決めると徹底してやり遂げようとするので、周りは大変だ。」
二人はとりとめもなく話をしている。いや実際はドリスが自分とクリスの昔の話をしているだけだ。
「まあ、昔から病気がちでずっと家の中で本ばかり読んでいる子だったから、今ひとつ応用が利かないってゆうか…。」
どうやらジュニアはドリスが女だということにまだ気がついていないようである。ドリスは面白がって男言葉で話を続ける。
「全部知識の範囲で解決しようとするもんだから、柔軟性が無いんだよ。もっとも、だからこそ考えがぶれずに、一度決めたらその方向へ粘り強く進めるんだろうけど。」
深い森だったが、日没までにはまだ多少の間があるようである。クリスに聞いている道だと暗くなる前にはエルフの村落に辿り着けそうだ。
「仲がいい。」
相変わらずニギニギしながらジュニアが一言いう。結論だけなので、何故そう考えたかはよく分からない。実際に姉妹のいないジュニアは、ドリスのことを羨ましがっているのだが、それを上手く伝えられないのだ。
それと、もしもジュニアの勘違いしている通り、二人が男と女であれば二卵性であり、実際の二人のようにコピペしたように似ているはずがない。ジュニアはそこが分かっていない。
「てゆうか、姉を尊敬しているわ。それに姉には大分迷惑を掛けたことも事実だし。」
ジュニアが横を歩くドリスの顔をいぶかしげに見る。
「なによ…。」
「来る。」
ジュニアの表情がにわかに厳しくなる。手のひらのニギニギが止まる。ジュニアがドリスの前に手を出して制止したので二人の歩みも止まる。ドリスもジュニアの見つめる方に集中してみるが、特に何も分からない。
「エルフ。三人。」
ジュニアはそう言うと体の力を抜いたようだった。気配を見極めて危険が無いと判断したためであろう。クリスからエルフには連絡が行っているはずだ。おそらく迎えだろう。
しかしながら今の瞬間、ドリスには彼が何故かがっかりとしたように感じられた。だがドリスもそんな違和感は一瞬で忘れ去る。
「私はドリス・ミーア。ヒトのミーアであるクリス・ミーアの依頼でここに来ました。どうぞ、私たちをエルフのミーア、エリス・ミーア様の所へお連れください。」
その瞬間、ドリスは腕を乱暴につかまれて横に思いっきり引っ張られた。思わず悲鳴が出る。それと同時に、顔の横を一本の矢がすり抜けた。耳にその空気を裂く音が聞こえ、戦慄する。
ジュニアの体が、スッとドリスの前に出る。
「僕が守る。」
さらっと言ってのける。目の前には逞しい背中がある。守って欲しいと抱きつきたい衝動に駆られる。
何?何なの??
胸がドキドキする。ええっ、こいつただの剣術オタクと思っていたが、か、か、か、格好いいじゃない。ちょっと待って、ええっ、そんな簡単に惚れたりしないんだから。
「気合いの入らない矢を撃っても無駄だ。殺気の無い矢など避けるに値しない。」
急に冗長にそう言って、剣を抜く。戦闘モードに入ったの? ジュニアが突然ギラギラした獣に変わったようだ。
「次に放つときにはそれなりの覚悟をして放て…。」
森が沈黙する。ぴりぴりとした空気がドリスにも分かる。
「まあ待て、ヒトのミーアの遣いし者よ。今の矢の非礼は詫びる。だからまずは剣を納めてくれ。貴様も知っておろう。そもそもエルフとヒトとは仲の悪いものだ。この程度のことをいちいち真に受けていては何も始まらん。それよりも、もう日も暮れる。ついてきてくれれば今日の寝床に案内しよう。粗末だが食事も用意してある。エリス様は既に執務を終わられた。全ては夜明けを待ってからだ。クリス様が直々に話をしてくださるそうだ。」
言うだけ言って、二人を取り囲む気配が移動して行くのが分かる。ジュニアはドリスの手を無造作に取るとその気配を追うように足早に歩き始める。
「ちょちょと!」
手を握られて、顔が沸騰しそうになる。強引すぎだわ。
慌てて体勢を立て直し、手を振り払う。ジュニアがぽかんとしてドリスを見つめる。
ジュニアの純粋なブルーの瞳に見つめられて、ドリスはますますドキドキする。じゃじゃ。
「悪い。」
そしてジュニアは前方へ振り返り、また足早に歩き始める。エルフの気配を追っているのだ。
全く無神経だわ。やっぱりただの剣術オタクめだ。もう…プンプン?
結局二人は森の中に建てられた一軒の小屋に誘導された。ほんの2m四方ほどのみすぼらしい物置の小屋だ。
ドリスが恐る恐る中を覗く。床には何か乾燥した植物が厚めに敷き詰められており、くたびれた掛け布団が畳んでおかれている。
『☆○×凸凹△…!!!! こんな狭いところであいつと二人で寝るの!』
と耳まで真っ赤にして動揺する。
「食い物だ。」
背後からジュニアの冷静な声がする。ドリスの頭頂部に設置された減圧弁が開き、脳味噌の中の高圧ガスを排気する。シュウ…。
ジュニアは石で粗末な、かまどを組上げる。小屋の横に置かれていた薪に、小屋の中の枯れ草を少し持ってきて着火して、手早く火を起こす。そこへ用意されていた食事を入れられた鍋を火に掛ける。別に堅いパンのようなものもある。
ジュニアが無言のままテキパキと働くうちに日が暮れる。ドリスは手も出せずに、見ているばかりだ。無言の圧力が協力を拒んでいるように感じてしまう。
森の中は暗く、視覚の働きのためには目の前の焚き火だけが頼りだ。オルバット島はヒトのミーアの住む大陸よりも少し暖かいようで、寒さは感じなかった。その代わり火には少数だが虫が集まってくる。大きな羽の蛾の一種らしい。その蛾が時々火に焼かれ地面に落ちてばたばたして動きを止める。
ジュニアがその蛾の動きを無言のままジッと見つめているので、ドリスはここぞとばかりに気を使って、鍋の中のシチューのような食べ物を軽くかき混ぜてから器によそい、ジュニアに手渡した。
「ありがとう。」
礼儀正しくジュニアが礼をいう。彼は木製のスプーンでシチューを少しかき回してからほんの少しだけ中身をすくい口に運んだ。人の食べる食べ物とは、何となく色合いも粘性も違っているのだ。
「…。」
無言である。しかし特に表情は変わらない。それを見てドリスも意を決してシチューを口に入れた。
草の苦みが口いっぱいに広がる。べとべとと口の中の粘液にまとわりつく。植物の繊維が明らかに残っていて舌に不快な感触で触れる。
「げえ。」
ドリスはそれをはき出した。
「…。」
「なにこれ!酷い味じゃない!」
思わず怒ってしまう。目は涙目だ。ゴホゴホと喉に残った液体を体外へ出そうと食道が活動する。
その様子を横目に見ながら、ジュニアが再びシチューを口に運ぶ。
「よく食べられるわね。あんたって、ロスガルトの騎士の家柄の出でしょ? こんな酷いものもの食べたことないんじゃないの?」
悔しさを通り越して、ドリスは半ば感心してジュニアに話しかける。
「祖父は農民だ。」
ジュニアはシチューのようなものをクリクリとかき混ぜながら時々それを口に運んでいる。歯が折れそうな程硬いパンもさほど違和感はないようだ。
「統一戦争で傭兵になった。」
俯いたまま黙々と食べ続ける。ドリスはもう一口、口元に運ぼうと頑張ったが、諦めて皿を地面に置いた。
「すぐに死んで、父は苦労して成り上がった。」
ジュニアは相変わらずの木訥な語り口で自分の家の事をほんの少しだけ語り、その話を打ち切った。ドリスの驚く様子を見て、居心地が悪くなったらしかった。
「母はびっくりするくらい料理が下手なんだ。」
小さな声で言う。何とも照れくさそうだ。椀に残った液体を掻き込むと、ジュニアは立ち上がった。既に闇と化した周囲の雑木林を見回す。
「寝た方が良い。お前は疲れている。外で見張りをしてるから…。ついでに食べられるものを探しておく。」
翌朝、ドリスは小屋に敷き詰められた乾いた草のマットと、ぼろ切れのような掛け布団の間で目覚めた。思いの外、暖かく快適だった。エルフ達は嫌がらせでこのような寝具を用意したのでは無いかもしれないと思ってしまう。
それにしてもこれほど熟睡したのは久しぶりだった。アルのこと、クリスが見ていてくれると思うと安心できた。
実際は昨夜、クリスとケンドアは例のドワーフの闘士に襲われ、ケンドアは重傷を負っていたし、その治癒にあたったクリスもちょうどこの頃、疲労の極みに達し深い眠りに落ちていた。
だからドリスも、クリスの存在を感じられず、何とは無しの違和感を胸に感じていたはずなのだが、今彼女を取り巻く状況がなんともなく刺激的な感じで、、、要は心が浮ついていて、その感触を見逃したのだ。
伸びをしながら上体を起こす。隙間だらけの小屋の壁から幾筋もの光が差し込んでいる。そして人の動く気配が感じられる。ジュニアほどに異常に鋭敏ではないが、ドリスもそこそこの白魔術師であり、シーフでもある。人の気配には敏感だ。
立ち上がり、服の乱れをチェックし、直してから扉を開ける。
朝の清々しい光とそよ風の中、野郎が一人、一心不乱に汗だくになって剣を振り回している。訓練し尽くされた舞踏を見るようで美しいと思う。しかし、不思議なほど音がしない。鳥の声や風が葉を揺する音は聞こえるのに、ジュニアの動作からはまるで音が聞こえてこなかった。何かそこに合成してはめ込まれた動画を見ているようだ。
ザッ!
最後だけ靴が地面を擦る音がして彼の動作が止まった。
しばらく静止してから、フッとドリスを振り向いて、薄くさわやかに微笑む。手ぬぐいで汗を拭き、シャツの胸元をパタパタして風を送る。
「川。」
林の一方向を指さす。ああ、顔でも洗えと言っているのだ。それとも私、汗臭い?!
「お、おはよう。ああ、そうだな。」
ドリスは動揺を隠して、小屋の自分の荷物に戻り、手ぬぐいを持って出てきた。キョロキョロと周囲を見回す。
「音がする。」
もう一度林の方を指さしてくれる。
彼女にはまるで聞こえない。何で剣を鍛えると耳まで良くなんだよ!と心の中でクレームを付けて、ジュニアの指さす方向へ歩き出した。
するとジュニアが後からついてくる。更に何歩か歩くがやはりついてくる。ドリスはパッとジュニアに振り返るとキツい口調で告げた。
「何でついてくんのよ!」
ジュニアはぽかんとして返す。
「汗…。」
「後にして!」
ぴしゃっと言ってジュニアを置いてけぼりにしてズンズンと川へ向かう。
私は顔を洗うの!その時横であんたが裸になって水浴びしてるのなんか見たくもないの!
残されたジュニアが顎をポリポリとかく。
しかしながら少し言い過ぎたかなと半ば反省してドリスは小屋の方へ戻った。既にジュニアが火を起こして湯を沸かしながら何かを焼いている。
ドリスを見るとジュニアは嬉しそうに(さわやかに、しかし無言で)微笑んで、ドリスの横を抜けて川の方へ向かった。
焚き火を見てみると湯を沸かしている横で、串に刺さった川魚が二匹、火に掛けてある。どうやら朝早くに採ってきてくれたようだ。昨日の晩ほとんど食べていなかったので今すぐにでもかぶりつきたいくらいだ。そこでふと思う。あいつ、そんな私のために、わざわざ採ってきてくれたんじゃね?いやまさか…。ハハハ…。はは?
ドリスは暫くボーっと魚を見つめる。頭の中は大混乱である。
冷静に考えれば、ジュニアの分の魚もあ…えっ、もしかして、…のだ…あいつったら、私のこと…。考えす…す・す・す…。
ええいうるさい!
ドリスの心はショート寸前だ。
背後から彼女の顔のすぐ横に、突然ジュニアの顔がヌッと現れる。もう彼女の頬にくっつきそうな近距離だ。ドリスはお約束のように驚いてゆっくりとジュニアの方へ90°、顔を回転させる。
ジュニアの横顔がほんの間近にある。整った顔だ。ロスガルト的な鼻筋の通った、彫りの深い顔立ち。青い瞳。つい見とれてしまう。
「ち、ちょっと、近い!」
突然恥ずかしくなって、ドリスがジュニアから飛び退く。大方の期待に反して上半身裸ではないジュニアが、ぽかんとしてこちらを向いている。
『チッ!』
どこからか舌打ちが聞こえる。
「ちょっと、近いわよ!」
ハアハアと肩で息をしながら、ドリスがジュニアを見る。暫く固まってしまう。
「あ、魚!」
視界の隅に黙々と立ち上る黒煙。ドリスが慌てて焼いていた魚を見ると、モクモクと黒い煙が立ち上がっている。やっば…。
慌て手を出して串をつかむ。
「アイヤー! 熱いアルヨー!」
熱くなっていた串にびっくりしたドリスの手から魚が中に飛び跳ねる。縦方向に回転しつつ、放物線を描きながら焼かれた川魚が宙に舞う。慌てて追うドリス、駆け出しながら目一杯体を伸ばしてええええ。
キャッチ。
どん。
何かにぶつかった。
あんまり痛くない。そちらを見る。ジュニアの顔がすぐ目の前。5センチくらい?にある。どき。どきどき。
「…。」
ジュニアが少し微笑む。(ドリスの慌てた様子が可笑しかっただけだ)
あ、臭くない。さわやか。いい香り。
「慌てもんだな。」
ジュニアはドリスの両肩を持って、彼女を自分の体から離した。
「じぇ、じぇーーー。」
ドリスの脳天に充満した蒸気の圧力が上昇し、23個の骨で構成される頭蓋骨の縫合部から勢いよく蒸気が噴き出す。そして更に圧は上昇し、骨片をはじき飛ばしながら上方へ脳が爆発する。
『シューーーーー…。』
圧力の解放により減圧したドリスの体は、圧延後の薄板のようにヒラヒラでヘロヘロだ。体全体が、クネクネと波打ちながら地面に落下して地面にへばりつく。
ジュニアはそんなドリスの様子には無頓着のまま、焼けた魚にかぶりつく。納得したように一人で頷いて、もう一本を手に取りドリスに向けて差し出す。
地面に尻餅をついたまま、差し出された魚の串を手に取る。既に条件反射でしか動けないようだ。しかし、手にすると焼けた魚の何とも良い香りだ。昨日の晩はほとんど何も食べなかったので、この刺激が堪らない。ああ、嗅覚って本当にプリミティブな感覚器なのね。おなかが『ぐうう。』と盛大に音を立てる。『がぶり、むしゃむしゃ。』恥じも外聞もなく焼き魚に食らいつく。これが幸せというものかと思うと自然と涙が出てくる。『くううう。』
皮は?骨は?鱗は?
一方、ジュニアはくつろいでいた表情から、一瞬で厳しく緊張した。
彼はあたりの雰囲気の変化に気付くと、スッと淀みなく立ち上がった。剣は既に手にしている。
五人から十人位か。昨日のエルフもいるようだ。どうしてここまで人を嫌うのか。悪意に満ちたその空気を感じ、ジュニアは心を引き締める。
「準備がよければ、エリス様の所へ案内しよう。」
相変わらず姿は見せずにエルフが声を掛けてきた。
ジュニアがドリスに顔を向けると彼女が立ち上がる。頷いて、小走りに小屋へ向かう。荷物が置いてあるからだ。
ジュニアも火に掛けた鍋の中身を周囲にぶちまけて空にする。自分の荷物の外側へぶら下げる。
「よろしく頼む。」
ドリスが戻ったので、ジュニアが森に潜むエルフに声を掛けた。
「こちらだ。」
二人の正面にエルフの男が三人ばかり、ようやく姿を見せる。エルフの男性には共通して言えることだが、背が高くスマートで肌の色が白い。それだけ言えば良い感じだが、目も鼻もいわゆる『彫りの深い』顔立ちでは無く、凹凸が少ない、印象の薄い感じだ。表情も読み取りにくい。特にここオルバットのエルフはその傾向が強いようだ。恐らく大陸のエルフには少なからず人やその他の亜人間の血が混じっているのだろう。オルバットのエルフはエルフの原種に限りなく近いように感じる。
二人はエルフ達の方へ歩き出す。三人のうちの一人だけが、他の二人より長い時間、ジュニアを見つめていた。昨日矢を放ってきた人物かもしれないとドリスは思う。
森に入ると、いつの間にか二人の後ろにも何人かのエルフが付いてきている。
ジュニアがその様子を観察するように首を回す。
「人は信じられない。」
ジュニアの所作に反応してリーダらしいエルフが答える。
「我々は長い間、人を信じてそれを受け入れてきたが、長い間裏切られてもきた。そしてもう長い間人を信じなくなった。」
ポペットのビルジ・ヴァルメルと比べると大分話した感覚が違う。やはり、このオルバットのエルフはそれだけ閉鎖された、閉ざされた空間で代々生きてきたと言うことなのだろう。
オルバットの森はどんどんと深くなる。昨晩二人が夜を明かした小屋の辺りなどは、今となっては森とは呼べないほどの雑木林に思える。辛うじて道と分かる程度の、足元の見えない草の茂った道をエルフ達はズンズンと進む。ジュニアはまだしも、ドリスにはいっぱいいっぱいだ。
「おい、少し休憩を入れよう!」
二人の背後から、一人のエルフが前を歩く三人に声を掛けた。前の三人は無言で止まる。
「理解しろ、人の扱いには慣れていないのだ。」
声を発した男がドリスに話しかけたようだが、どの一人かは分からない。表情に変化は無いが、心には気遣いがあるようだ。ドリスはそれが何故か無性に嬉しく、面白く、『ありがとう』と大きな声でエルフの集団に礼を言った。もちろんそれに対する反応などはまるで無い。
再び一行は歩き始める。これまで歩いてきたのと同じくらいだけ歩くと、突然森が途切れる。草原が広がる。向こうに再び森林が見えるが、そこまでは恐らく100m程はあるだろうか。草は、明らかに人の手によって刈られたもので、きちんと管理されていることが分かる。
その草原を気にとめることも無くエルフ達は進む。ドリスにはこの場所の意味が分からなかったが、ジュニアには明白だ。
居住地が近いのだ。居住地の手前に遮蔽物の無い草原を作って、侵入者をチェックするためだ。敵が攻めてきてもここで完全に太陽の下に晒される。正面の森からは矢の射放題だ。
森に近づくと、その森が石造りの壁で守られていることに気付く。積んである石の高さは5m程か。既に表面は苔に覆われており、緑一色だが、石積みであることは明らかだ。単色なので見にくいが、どうも上に行くほど前にせり出すように積まれているように思える。高度な技術である。
石壁の手前には濠がある。ここも水面が水草で覆われており、うっかりすると草原が続いているように見える。また、水の底がまるで見えないので深さが分からず何とも不気味だ。水中には恐らく背の長い草が絡まっており、泳ぐことも難しいのかもしれない。
一行の正面には木製の細い橋と、やはり木製の頑丈そうな扉が見える。この都市の入り口なのだろう。
中は鬱蒼とした森だった。歩くことにも難儀しそうな深い森だ。所々、ジクジクと沼のようになっていて足を取られそうになる。
ようやく高度を上げてきた太陽が発した光が、重なった葉と葉との間を何とかすり抜けてきて地面に辿り着く。しかしその割合は、全地表の5%にも満たない。
地面をスポット的に照らしているその明かりの不自然な動きに、ドリスがふと上を見上げると、何か大きな影が動く。はっとして理解する。自分が昔作った木の上の通り道と同じだ。エルフは樹上を移動しているのだ。だから地面にはろくな道が無いのだ。石垣を抜けて、集落の中に入ったと見せかけて、それでいて今いるこの空間自体が集落を守るトラップなのだ。
そう思ってドリスが辺りを見回すと、すぐに後ろから注意される。
「前のエルフの歩いた後だけを辿れ。」
「危険なの?」
ドリスは立ち止まり、振り向いてから問いかける。いつの間にかかいていた冷や汗が額から垂れて目に入る。
ドリスの視線を受けたエルフは無表情に暫く沈黙した後、言葉を加えた。
「ぬかるみには毒を持つ生き物もいる。」
背筋がぞくりとした。再び周囲を見回す。そうしてみると、そこら中に気味の悪い毒虫が潜んでいるように思える。
「急いだ方が良い。」
再び注意される。ドリスは彼を見返して、何度も頷いてから、既に大分前を歩いているジュニアと他のエルフ達を追い始める。すかさず一人のエルフがドリスをかわして彼女の前に立つ。
「私の足跡を踏んで歩け。」
振り向かないまま、目の前のエルフはそう言うと、足早に森を進み始めた。
暫く歩くと、再び目の前に石積みの壁が現れた。そこに隠すように付けられた狭い、しかし頑強な扉を抜けて二人は、オルバットのエルフの村へ足を踏み入れた。
暖かな木漏れ日の降りそそぐ、穏やかな、整備の行き届いた空間だった。豊かな緑をたたえた木々が10mおきくらいの密度で生えている。所々には作物を栽培する畑もあるようで、その場所だけは木々は生えていないようで、日光が力強く降りそそいでいる。建物の類いはまるで見当たらない。アルが一瞬だけ見かけたと話していたポペットのエルフの村と同じだ。住居は木々の上に作られているのだ。恐らくはこれが本来のエルフの住居の文化なのだろう。しかし今アルシアに存在するほとんど全てのエルフはその習慣を失っている。エルフとしてプリミティブなオルバットのエルフ達と、その村から距離的にも最も近いポペットにのみその文化が受け継がれているのだろう想像する。
エルフ達は先導する歩みの速度をいくらか緩めて、集落の中央の方向へ向かっているようだった。そして木々の間に木製のベンチの並べられた空間が現れる。集会場の役割を果たす場所だろう。
一人の女性が立っている。エルフの女性だ。ドリスには分かる。姉と同じ使命を背負った人物だ。エリス・ミーア、エルフのミーアである。
落ち着いた雰囲気の美しい人物だった。男性のエルフと同様に無表情だが、顔の彫りは平板では無い。エルフ独特の耳や鼻や目尻のトンガリも男性のようにそれほどキツくなく理知的な引き締まった表情を作り出すのに役立っているようだ。
身長は170cmくらいだろう。細く美しいブルーの長い髪が日光を反射してキラキラと輝いている。キメの細かい肌だが、ぱっとみた外見よりは、少しばかり歳を重ねているようにも思える。何せ、ビルジ・ヴァルメルの例のように、エルフはヒトが見るととても若く見えるのだ。
緑色の服は周囲の木々に溶け込むような色だ。手首も足首も袖口を細く絞ったスポーティーな印象で、彼女の女性的な体つきとはいささかアンバランスな印象を受ける。しかし、そこがまた魅力的だ。
ジュニアとドリスは、先導の男達に指示されるまま、彼女の前に立った。ほんの短い間、彼女を見つめる隙に、二人を残して男性のエルフ達はこの場所から姿を消している。
「ようこそ、オルバットのエルフの森へ。」
容姿に似合った、高い澄んだ声だった。微笑んでくれているようだが、ヒトから見ると微妙すぎて分かりにくい。
いつの間にかジュニアが革球を出してニギニギを始めていた。ここは安全と判断したのだろう。…って、エルフのミーアに失礼でしょ! 奴を見つめるが、こちらのことなど知らんぷりだ。状況が状況なだけに、言葉にして注意するわけにも行かない。
気を取り直す。笑顔笑顔。
「エリス様、お邪魔して申し訳ありません。今の人の里には、私たちを守ってくれる剛の者たちはおりません。どうかここで共に敵と闘わせてください。」
ドリスの言葉に、エリス・ミーアは彼女を少しばかり見下したような目線を送って冷たく話し始めた。
「人の判断はいつでも極端です。貴方とクリスとを巡って諍いがあったとは言え、全ての護衛を手放してしまうなど、私には理解できません。」
続けて、エリス・ミーアが冷静な表情のまま淡々とヒトのミーアを批判する。理路整然と諭すように話しかけてくるので、ドリスには何も言い返せない。
でも、いろいろ決めたのはクリスじゃん。あたしに言われても困るわよ。エリスから視線を伏せたまま、心の中でつぶやく。ドリスは家を逃げ出して、そういったことが決まって行くその場にはいなかったのである。姉は、ああ見えて、こうと決めると強情で大胆で、無慈悲な人である。きっと、テキパキとこれまで自分がおかしいと思ってきたことを変えたんだろうなと思う。体は病弱だが、心は誰よりも頑強な人だ。クリスになら今のエリスにもきっちりと反論するのだろう。
ドリスは俯いたまま、一通りエリスの小言を聞いて、言葉が途切れるのを待った。
静かになったのを機にそろそろと顔を上げると、やはり無表情のエリスが静かにドリスを見つめていた。
「私たちは同じ使命を持つ共同体です。何があろうともエルフのミーアは、ヒトのミーアを見捨てることなどしません。」
またあの表情だ。やはり彼女は微笑みかけてくれているのだ。二度目でドリスは確信する。エルフの表情の作り方は微妙すぎて、ヒトにはとても分かりづらい。先に自分たちをここまで案内してくれた男達も、無表情だが心の中では思いの外、親切にこちらを気遣ってくれているようだった。思いのすれ違いというのはこういったことの積み重ねなのかもしれないと思う。
「それではドリス、こちらに…。」
そして振り返って歩き始める。ドリスが慌てて従う。
「貴方は我々の指揮下に入ってもらう。私はシュラウド、貴方を何と呼べば良い?」
二人をここまで先導してきた男性のエルフが、ドリスの後を追おうとするジュニアに声を掛けた。ジュニアが足を止めてそちらを見る。
「ジュニア。」
男は無言で頷いた。
「ジュニアは私と、二人のミーアを守る役目だ。」
先程までのエルフ達の自分達に対する態度は決してぞんざいなものでは無かった。表情が読み取れないので印象は悪いが、彼らは非常に親切で親しみやすい性質なのかもしれない。これはドリスと同じ感想だ。
エルフの警備責任者であるシュラウドは、近くのベンチに革で出来た図面を開いた。ジュニアにも一見して付近の地図と分かる。
「分かると思うが、この街は周囲を草原地帯、濠、石垣、密林、内側の石垣で囲まれている。我々はそれを避けて歩いてきたが、その全てに様々なトラップが仕掛けてある。」
シュラウドは革に描かれた図面を見下ろしながら淡々と語る。
「日々メンテナンスはしているが、全てが設計通り作動するかは分からない。もうこの村の誰もそれらの罠が有事に作動したところをみたものはいないからな。」
そこで言葉を句切る。
「敵がもしも内側の石垣を潜り抜けたとすると後は闘いになる。ルウはトラップの詳しい配置などは知らないはずだが、存在自体は知っている。リリス・ミーアと何度かここを訪れている。」
「ルウ? リリス・ミーア?」
ジュニアの問いかけにシュラウドが顔を上げる。
「敵はルウ・シンバル、ドワーフのミーアである先代のリリス・ミーア、今のアリス・ミーアの二人に仕えた、ドワーフの近衛最強の闘士だ。」
周辺の地形とお互いの持ち場の確認をして二人はドリス立ちが異動していった、集落の中心部に向かった。
歩いて行くと、道は次第に緩い上り坂になり、森が密度を増して、木々の間から正面に巨大な樹木が佇立しているのが見える。時折人の声は聞こえるが姿は見えない。先程の地図では既にエルフ達の住む街区のエリアに入っているはずだが、姿はまるで見えない。そして全ての声は遙か頭上から聞こえてくるのだ。
「お前には難しい。」
立ち止まり、上を見上げるジュニアに向かって、少し先を行くシュラウドが振り返って話しかける。
「通路があるにはあるが、恐らくヒトには非常に不安定に感じると思う。板で補強はしているが基本的には自然の木の上を移動するのと変わらない。」
「木の上に?」
「ああ、何を驚く。エルフとはそういうものだ。森は恵みに満ちているが、同時に危険にも満ちている。樹上に生活するメリットは大きい。」
「大陸では地上に住む。」
そう聞くと、シュラウドは無表情のまま凍り付いたように停止した。そんなことは知らなかったのだろう。
「既に半ばエルフでは無くなっているのだろう。」
何拍か間を開けて、やはり冷静につぶやく。そして彼は既にこの会話に興味を失ったように歩き始める。
一方、ドリスはこのコミュニティーの中央に位置している巨大な一本の樹木の前にいる。周りにはエリスと彼女の侍女らしき数人の女性がいる。巨大な木の幹は直径が4-5mはあるだろうか、苔むした表皮はその樹木の長い命の営みを想像させると同時に、今だ衰えない若々しい精気のようなものを発散している。
「上へ行きましょう。その方が安全です。」
エリスは無表情のまま後ろにいるドリスを振り返ってそう言うと、木の幹に階段状に取り付けられた板をしなやかに昇ってゆく。木の幹を中心とした螺旋階段だ。
ドリスもそれに続くが、木の幹から細い板が飛び出しているだけで、手すりも無いので何とも心許ない。板が撓み、体が揺さぶられるので、出来るだけ板の元の方に足を掛け、幹の側の手を樹木に添えてバランスを取る。ドリスが二十段ほど昇ったところで遙か前方のエリスが立ち止まって振り返る。
「大丈…、…ああ、貴方は平気でしたね。クスクス。」
あ、笑った。きっと笑った。エリスの表情の微妙な変化を見てドリスは思うが理由は分からない。あの夜、ドリスが屋敷の屋根の上や裏手の林の木の上をとびまわっていたことを彼女が知っているなど思いもよらなかった。
エリスはその後も、トントンと階段を上がってゆく。ドリスは始めこそどぎまぎしてしまっていたが、次第に軽快に段を昇り始める。わたし、こういうのが得意だった。
周囲に繁る分厚い緑の壁が、階段を上るにつれて次第に薄くなって行く。
視界が開けてゆく。周囲の森の木々が葉を茂らせる層を上へ突き抜けると視界が突然開ける。風が強くなる。髪がなびく。服がはためく、体が揺すられる。この感触を思い出す。幼い頃、森の中を駆け抜けていたあの感触だ。
海が見える。山が見えるのはオルバット山だ。オルバットの村は山の向こう側だろうか、何て開放的なのだ。何て自由なのだ。そう、子供だったあの頃、私は自由だった。
もしかすると、これがエルフの人生観なのだろう。風に身を任せて自由に、孤高に生きてゆく姿は無表情なエルフに相応しく感じる。
更に階段をもう暫く上がると今度はこの木自身の葉が茂り始めて再び視界が閉ざされる。幹からは沢山の枝が生育し、頼りにしてきた板きれの階段もこれまでのようにこちらの勝手な場所には取り付けられなくなり、間が広がっていたり段差が激しかったりするようになり、そしてついに樹上に作られた踊り場のようなスペースに辿り着く。板張りのしっかりした踊り場だ。
周囲を見回すと、路はそこで複数に分岐し、幹を上がる路や、枝を先端方向に向かう路などが現れる。しかしそのどれもが必要な分だけの板を取り付けただけで、見るからに危険なこと限りない。
既にエリスの姿は見えなかったが、ドリスは迷わず上へ昇る路を選ぶ。だって、エリスは上へ行こうと言ったんだから。
更に上へあがると先の方に不思議な構造物が見えてくる。もう地上からは50m以上は登っている。
それは細い枝の絡み合う球体のような立体物だった。びっちりと密に絡んだ枝は、この大木の枝よりも色が薄い。生えている葉もこの木のものとは明らかに異なった。ドリスはそこへ向かう。その球体の横にエリスが立っていた。球体の直径は2m程で、近づいてみると思いの外、扁平な形をしている。
「この木は、大木に寄生しています。もちろん私たちが故意に植えたものです。植えて、育てます。枝を編んで壁を作り部屋にするためです。ようこそ、私の部屋へ。」
球体の側面には一カ所丸い穴がぽかりと口を開けている。エリスがそこへ入ってゆく。ドリスも物珍しく周囲を見回しながらその部屋へ入った。
「二人はいれば一杯ですね。」
相変わらず無表情にエリスが言う。
狭い部屋だった。入り口の正面に寝台らしきものがあり、天井近くに棚がいくつかある。それだけだ。エリスはまず自分からベッドに腰を下ろすと、彼女の隣にあたる場所をポンポンと叩いてドリスにも座るように勧める。
二人並んで丸い入口の方を見ながら座った。入口の向こうには生い茂った大木の葉が壁のように見える。その壁は外の明かりを優しく加工して透過している。
「貴方はどうしてあの後すぐに家を出たのですか?」
突然エリスがそんなことを言った。
「実はあの夜、私とナリスはクリスと一緒に貴方を見守っていました。貴方は勇気を持って敵と闘い、見事、戦闘の訓練を受けた大人の男性に勝ちました。それなのに、何故あの場から逃げてしまったのです? 私には不思議でなりません。」
その言葉にドリスはすぐ横に座るエリスの方を向いた。無表情に正面を向いていたエリスがゆっくりとドリスの方へ首を回す。すぐ近くで目が合う。ドリスは思わず目をそらして正面の下の方を向いた。
「それは私にもよく分からなくて、何かもう嫌になっちゃって、このままここにいては行けないっていうか…、だって私はクリスを大好きだから。そうなの、そうそう、私はクリスを傷つけたく無かったの。私みたいな中途半端なのがあの家にいたら、きっとクリスにもっと悪いことが起こるって思ったの。元々私がいなくて、クリス一人だったら、クリスは幸せだったはずだもの。私が生まれたからこそ、問題がややこしくなったわけでしょ。」
板張りの床へ向けて熱心に語るが、ちらりと彼女の顔を見ると、やはりの無表情だ。言葉が続かなくなり黙ってしまう。何だか悲しくなる。
「エルフのミーアと、ヒトのミーアとでは後継者の選び方が違います。クリスに聞いた話だと、ヒトのミーアは女の子が生まれた時点でミーアの職を解かれ、その幼子がミーアになるそうですね。エルフの場合は、例えば私の母は死ぬまでミーアでした。私は母が大好きで母のようになりたいと思っていました。だから絶対ミーアの職を継ぎたかった。もちろんそれは何人もいた姉たちも妹たちも同じ思いでした。だから皆母に認められようと一生懸命努力しました。その結果として母は私を後継に指名したのです。今の私にはまだ子はいませんが、私も将来的には母と同じ事をしたいと思っています。だから、私にとってミーアの職は周りと競争し勝ち取るものなのです。」
そこでエリスは言葉を句切った。少しだけ躊躇するような間があって、言葉がつながる。
「これは私が勝手に考えたことですが、ヒトにとって、ミーアの職の持つ意味は全然違うのだと思います。ヒトにとってミーアは権力です。私たちにとってのミーアのように、心のより所では無いのではないのでしょう。だからミーアの職を持つ巫女を『支配下に入れること』がヒトの社会にとっては大切なことになるのです。産まれたばかりの子に、何も分からない子にミーアを継がせて自由に操ろうというのがヒトのミーアの仕組みです。でも、そうなるとミーアを継ぐことが決して幸福なことにはならないと思うのです。そうだとすると貴方は何故、あの場からいなくなったのですか? やはり貴方はクリスに全てを押しつけて逃げ出したということなのでしょうか?」
エリスの言葉に、ドリスは何も言い返さないでいる。自分が誤魔化そうとしている事を彼女は全てお見通しなのだ。
涙が溢れてくる。自分に悲しくなる。
「でも私は、ドリス、貴方がそんな子では無いことも知っているのです。私のミーアとしての能力は私の知っている限りのミーアの中で最も強いものです。もちろんクリスにも負けません。私の前では貴方は自分を隠すことは出来ません。だから分かります。貴方はとても姉思いで、真面目で、純粋で、心の美しい女性です。だからこそ分からないのです。」
その時、エリスは心から苦しそうな表情を見せた。ヒトのそれと比べれば、ほんの微妙な変化ではあったが、それはエルフにはまるで似合わない苦悶の表れだった。
「ヒトの心は、私にはとても理解しがたい。エルフや、ドワーフなら、もっとシンプルなのです。私はそれが何故なのかを知りたいのです。なぜヒトだけがこんなに複雑な思考のプロセスを実現できるのか、私はそれが知りたいのです。まるでヒトは自分から不幸になろうとしているかのようです。」
その時ドリスは辺りに微妙な違和感を感じた。不審に思い顔を上げると、高速で放たれた光の矢が、エリスの頭部を貫いたように見えた。
「きゃ!」
ドリスが思わず声を上げる。エリスは一瞬だけドリスを見ると、落ち着いた様子で、ゆっくりと瞼を降ろした。特に危害が加えられたわけでは無いようだ。
周囲をよく見回すと、寄生樹の枝の密集した、つまりこの部屋の壁の一部から、ほのかに薄明るい帯状の何かが部屋に侵入し、エリスの周囲に緩やかに巻き付くように漂っていた。まるでエリスは羽衣を纏う天女のようだ。しかし、光はほんのか弱いもので、この部屋のような、落ち着いた薄暗い空間で無ければ気がつくことも無かっただろう。
暫くすると光は消え去り、エリスが瞳をこちらに向けていた。
「どうしました?」
当然の質問をする。
「あの、エリスに光の帯のようなものが飛んできたように見えました。あんまり早かったので矢が刺さったのかと勘違いして…。」
エリスが自分の中で、ドリスの言葉を整理している。
「貴方には、白魔法が見えるのですか?」
自分の達した結論を、そのままドリスに問いかける。エリスとしても信じられないのだ。
「え?」
ドリス自身も返答に困る。あの光が何だったのかはこちらがエリスに聞きたいのだ。
「私にはその能力はありません。ドリス、貴方、凄い子なのですね。」
どこまで感心しているのか、無表情な言葉からは想像できない。
エリスはその話は既に終わったとでも言いたげに、スッと立ち上がった。
「あの子が来ます。一度下へ降りましょう。」
ドリスが問いかけようとしたほんの一瞬前に、クリスが振り向く。
「アリス・ミーア。ドワーフのミーアです。もう村の外まで来ているようです。今彼女自身から聞いたので間違いはありません。彼女も私に嘘はつけませんから。」
その一団は、ジュニア達のいる巨木の根元からはまだかなりの距離のある位置で立ち止まった。三人のうちの一人だけがこちらへ歩いてくる。
背が高く、肩幅の広いシルエットがこちらへ向かってゆっくりと歩いてくる。身長はジュニアよりも大分高い。半袖の衣服はワンピースのようだが、腰から下で切れていて動きやすい服のようだ。髪を束ねて上へ上げているのを見て、ジュニアはようやくその人物が女性であると認識する。
整った顔立ちは彫りが深く、パーツの一つ一つがデカい。エルフとは対照的な作りだ。顔型も、鼻も耳も丸みを帯びていて、こちらもエルフとは正反対に見える。
彼女はジュニアとシュラウドの前に立つと、二人を見下ろすようにして微笑んだ。
「アリス・ミーア。ドワーフの今のミーアよ。エリスはどこ? さっき話したら、ここに来てって言われたんだけど? 知らない?」
低めの声でアリスが聞いてくる。
「あれ、貴方、ヒトじゃない。ここはエルフの里でしょ? あら珍しいこともあるのね。もしかして、あれれ?」
楽しそうに、アリスがジュニアを見定めるように見据える。初対面にしては、よく言えばかなりフランクな感じだ。
「心をプロテクるテクを身につけているのね。しかも相当高度だわ。凄い。私じゃどうにもならないわ。」
アリス・ミーアがしきりに感心している。終いにはジュニアの周りを、頭からつま先までジロジロと見ながら回り出す。
「あんた、いい男ね。」
最後には正面に来てウィンクする。
「アリス、元気にしていましたか?」
ジュニアの背後から、抑揚のない声が聞こえる。
「あ、エリス。この度は本当にごめんなさい。申し訳ないことで…。」
深く頭を下げる。
「あ、分かった。貴方がドリスね。母から聞いたことがある。」
すぐにピョンと頭を上げて、興味深げにエリスの後ろに立つドリスを直視する。
「アリス・ミーア…。私がどれほど貴方に立腹しているかを想像できますか?」
エリスが淡々と話し始める。
「ミーアの者が、神様から預かった大切な神器を奪われるなど…。」
エリスが、心が極まったように言葉をつなげなくなる。歯を食いしばり。瞳から涙が溢れる。しかしそれでも感情豊かな表情は少しも見えてこない。
「え、ええ、エリス、ちょっとちょっと。待って待って、私本気で謝るから、反省するから、お願い、泣かないで。」
背の高いアリスが屈み込みながらエリスの肩をさする。ドリスも慌ててエリスをなだめる。
暫くして、ようやく落ち着いたエリスを大樹の階段に座らせ、ドリスも隣に座る。アリスはと言えば、大樹に体を預けて腕を組んで立っている。
「ルウ・シンバル。」
ぶっきらぼうにアリスが言う。表情は厳しく、覚悟して話し始めた事が分かる。
「元々は母の頃からミーアの護衛をしていた子の一人。武術では、うちの誰も敵わなかった。でも考えることは少し苦手だったので、リーダではなかったわ。」
アリスは大樹から体を離すと、二人の前をゆっくりと歩き始める。
「彼女、暫く前に赤ちゃんが出来たの。皆で喜んだわ。だってもうそんなに若くなかったから。でも相手が誰かは言わなかった。それで、その後、急に護衛の仕事を辞めて姿を消してしまったの。そうしたら今度の件、彼女が突然現れて紋章を奪っていったの。」
そこでアリスは一拍おいて二人を交互に見つめた。
「きっと子供に何かあったのよ。それしか考えられないわ。彼女の赤ちゃんが水を必要としている。しかも急いで。だからお願い、彼女に水を使わせてあげて、赤ちゃんの命があぶないんだわ。」
「それならばまずは貴方に相談をすればいいことです。ルールを破って力ずくで神器を奪うなど言語道断です。まずは罰しなければなりません。」
無表情のままエリスが言う。しかし心の中は怒りに煮えたぎっているのは容易に想像できる。
「でも、…。」
「デモもストライキもありません。」
意味不明な、エリスの厳しい口調にアリスが黙る。アリスの方も顔が紅潮し、激しく興奮しているのが分かる。
「だから、エルフは!」
吐き捨てるように言う。エリスが冷静な目でアリスを見据える。アリスも正面から見返す。
「だからエルフは、って言ったのよ! あたし達にはあんた達みたいな悠長な時間はないのよ。ドワーフの寿命は長くて30年、ヒトは60年、エルフは120年。ルウにはもう時間がないの、今の赤ちゃんが最後の望みなのよ!」
感情丸出しの怒りの表情でアリスはエリスを睨みつけている。エリスは無表情に見返すだけだ。
「それでも、ルールは守らなくてはなりません。私たちの生活は全てルールによって守られ、成り立っています。弱者だから、少数だから、異質だからルールを破って活動してもいいなどと言う論理はないのです。この世界で守られ生きてゆく便宜を享受するのであれば、全ての命はおしなべて平等にルールを守らなくてはなりません。」
「ちっ、…。」
アリスはエリスから目を離すと仲間達の方に歩き始める。一度立ち止まり振り返る。
「二人とも、今回のことはドワーフの不手際だわ、そのことは謝ります。ルウ・シンバルがルールを破ったこと、これも許されることではないのかもしれません。でも、出来れば寛容な心を持ってルウを許してくれることを期待します。」
アリスが怒ったように足早に去って行くと、あたふたしているドリスを、エリスが相変わらずの冷静な表情で見つめる。
「ドワーフを信頼してはいけないわ。」
冷たい言い方だが、元々話し方から感情が欠如しているので、真剣さの度合いが測りにくい。エリスが続ける。
「ドワーフは自分たちの寿命がエルフと比べて短いことに、常に不満を持っているわ。それにドワーフの男どもときたら…。」
ドワーフの男性は身長が100~150cmの短躯で、揃って小肥りである。顔立ちは女性同様彫りが深く見方によっては、男前と言えなくもないが、性質としてとことん怠惰で不潔である。寝ている以外は酒を飲んでいるのではないかと言われるほど常に飲酒して赤ら顔で、ドワーフの男性の働いているところなど見たことがないと言うのが、通常の印象だ。それと比較して、ドワーフの女性は働き者で献身的な者が多いと聞く。そう言った意味でドワーフの女性は常に自分の種族に不満を持っているとエリスは言いたいらしい。
「ドワーフは常に享楽的で短絡的にものを考える。その場が良ければ、将来のことはどうでもいいのよ。あの夜、貴方を襲ったあの男も、ドワーフから武術を習っていたはずよ。」
ドリスはびっくりして目を見開く。
「え、あの男がドワーフだったんですか?」
エリスは無表情にドリスを見つめて、一拍おいてから言葉を続けた。
「彼は人間よ。あんなドワーフの男がいるはずがないでしょ。でも彼に武道を教え込んだのはドワーフたちよ。あの頃、ヒトのミーアを取り巻く人間達は、お互いに敵対して主導権を争っていたでしょ? ドワーフの高度な武術に目を付けたどちらか側の人間が、沢山のお金を払ってドワーフに教えを請うたんだわ。ドワーフもドワーフで、そんなことをしたら、ヒトのミーアに危害が加わるかもしれないなんて想像もせずに、目の前のお金で自分たちの技能を売ったのよ。神様を守るために授けられた技能をね。」
エリスはそれだけ言うと立ち上がり大樹の階段を昇り始める。
「ドリス、アリスを地上には置いてはおけないわ。話をして上へ来るように言って頂戴。」
そこで言葉を区切って当惑したようなドリスを見詰めた。
「あの子はまだ八歳なの。」
「じぇじぇじぇ!」
ドリスが思わず声に出す。アリスは外観的にはどう見ても十七・八にしか見えない。
「ドワーフのミーアの継承の仕組みは、私たちとも、あなたたちとも違います。ドワーフの寿命は、アリスが言っていたように長くて30年。彼女たちは自分の人生の最後を楽しむために20代前半で仕事を次の世代に引き渡すの。前のリリス、アリスのお母さんがアリスを産んだのが15のはずだから、あの子は今八歳。まだ自分の感情を上手くコントロールできる年ではないわ。寿命が短ければ短いなりの、長ければ長いなりのスピードで肉体は育つけど、感情が育つには絶対的な時間と経験が必要なの。だからドワーフはドワーフ。そう考えて付き合わなくてはいけないわ。憶えておいてね。」
エリスはそう言って階段を上って行く。でも何だかドリスには違和感がある。
自分は幸せな?子供時代を送り、自ら望んで家を出て大人の世界に飛び込んだ。しかもアウトローの、法律の機能していない世界だ。正直に言ってその世界は、当時子供だった自分にとって正視に耐えられる世界ではなかった。…なかった。
だから思う。人は大人になることで何かを得る…、いや、何かを得ることによって大人になるわけではなく、広い世界へ出るために何かを失うなり、鈍感になるなり、そういった引き算を受け入れることによって『大人』と呼ばれるカテゴリーに分類されるようになる、と言うことなのだ。だから、エリスは既に忘れてしまっているだけで、彼女も若い頃にはアリスと同じ思いを胸に抱けたはずなのだ。恐らくそこがエルフとドワーフとの行き違いの一つ。ドワーフが生き急ぐ思いを受け止められないのは、ドワーフたちと対等にコミュニケーションをとる世代のエルフたちが、既に年老いてしまっているからに過ぎないようにドリスは感じた。
ただ、社会の一員として生きて行くために、その社会のルールを守るのは当然だ。
ドリスは、アリスが納得してくれるまで彼女の思いを受け止めるために会話をつづけなくてはいけないと思った。
ジュニアの前に二人のドワーフの女性が立っている。ジュニアよりも、シュラウドよりも背が高い。先程のドワーフのミーアの女性も含めて、ジュニアには彼女たちの顔の判別がほとんど出来ない。皆同じに見えてしまう。強いて言えばミーアが一番若かったように何となく思える。
こちらの二人は、スリットの入ったタイトなワンピースのミーアと異なり、完全に戦闘用の装束だ。腕は手の甲まで、足はつま先まで硬い感じの布で包まれている。いや、あれは何か生物の皮を加工したものかもしれない。しかもその下には恐らく鎖を編んだ重い服を着ているように見えるが、素早い動作からはそんな感じは微塵も分からない。
女性達はどちらも、女性らしく胸と腰が大きくボリュームがあるが、四肢は驚くほど細く筋肉質だ。特に両脚は、大腿部は太いが、先に行くにつれて尖った千枚通しのように細くなる。腿の筋肉で作られたエネルギーが、踵やつま先で一点に集中する蹴りが入れられるだろうと想像する。
「だから、私たちには関係ないって。私たちはアリスの命令しか聞かないわ。」
「そうそう、だから放っといて頂戴。」
「そうはいかない、エルフの集落の中では我々の指揮下に入ってもらう。」
先程からシュラウドが繰り返し説明しているのだが、彼女たちは聞く耳を持たない。
「そんなの関係ないって、何でエルフの言うことなんか聞かなきゃなんないのさ。」
「関係ない関係ない。」
無表情なシュラウドに対して、ドワーフの女性達は表情を様々に変化させながら、手振り身振りを交えて激しく反発している。
「それがこの村のルールだ。従えなければ出ていってもらう。」
「何だとぉ、あたし達はアリスのそばからは絶対離れないからね。」
不毛な押し問答である。
「アリスに相談。」
ジュニアが相変わらずの名詞での発言をする。三人がハタと黙る。
「このままじゃ埒があかない。いつ敵が来るかも分からない。」
「分かった。」
ドワーフの一人がそう言うと、アリス・ミーアの立っている方向へすぐに歩き出した。決断に要する時間が短いのがドワーフ流のようだ。
「ドワーフめ。」
ドワーフの背中を見送った後、シュラウドは小声でそう独り言を言った。そのことに自分でも気付いたのか、ジュニアと一瞬だけ目を合わせると、先の彼女とは逆の方向に歩いて行ってしまった。
ジュニアともう一人のドワーフだけが残される。
「ねえ、私シルドラド。よろしく。」
にこにこと微笑みながらドワーフがジュニアに握手を求めてくる。ジュニアは彼女を見上げながら握手をする。
「シトラウト・シュミッツ・ジュニア。」
「何だか知らないけど格好いいね。その名前。あと、あんまりしゃべんないところも気に入った。ふーん。剣を使うの?見せてくんない?」
無造作に手を出してくる。ジュニアはちょっと迷ったが柄に手をかけた。
「見るだけだ。」
そう言って鞘から抜く。
「ふーん。」
シルドラドは興味深そうに剣を眺め回す。
「持たしてくんないの?」
ジュニアは無言と冷たい視線で拒否する。そして剣を鞘に戻す。
「私を切れそう?」
口元に微笑みを浮かべて彼女が聞く。
ジュニアは少しだけ真剣に彼女の瞳を見た。
「その鎖帷子なら。」
「あらまあ、怖いヒト。何でもお見通しだ。決ーめた。あたしはあんたとは闘わない。だって死にたくないもん。ただでさえドワーフは人生が短いのに、危ないことはごめんだわ。」
そしてにっこり笑う。
「楽しいことは大好きだよ。」
ウインクする。
「ヒトもいいかもね。エルフみたいに説教ばかりじゃ無いみたいだし。ねえ、あんたあたしと付き合わない?」
そう言ってガハハと笑う。ジュニアが返答に困って黙っていると、大きな掌で彼女はジュニアの背中をバンバンと叩いた。
「何、照れてんのよ。こっちが恥ずかしくなるわ。深く考えないの。人生短いのよ。まあ、まずはルウと闘って生き延びないとね。あいつはマジで強えからなあ。」
日が沈み闇の支配が強くなる。静かな夜だ。大陸にあるオルバットの村同様、日が沈むと海から風が吹き始めるが、エルフの集落のあるオルバット島の西側では不思議なことにオルバットの村ほど強い風は吹かない。山が遮っているためだろう。
黒い、大柄な影が音も無く森を移動している。そして草原の縁に立った。様子を伺う。見知っている土地だ。何度か来たことがある。草原があり、濠があり、密林がある。自然を活用したトラップは、美しいが残酷だ。
影が神経を集中する。尖った槍のような鋭い空気を周囲に発散する。次第に鋭利さを増その殺気にも似た感触は、そして突然消失する。
既に影はそこにはいない。いや、そこにはいるのだが誰にも見えない。影は既に影でさえ無い。正しくは強い意志を持って見る者にしか見えない。影は既に周囲の自然に溶け込んでいる。確かに影は今までと同じようにそこに存在するのだが、あたかも周りの自然の一部と化したかのように、境目無く影だけを自然の中から切り出して認識することは不可能に近い。
影は古い気配を追っている。それは自然の中にのこされた微妙な痕跡。しかし影にとってそれはさほど苦労を伴う作業では無いようだ。エルフが歩けば草を踏む。踏み重ねられた場所を辿って行けばいいだけだ。
影は草原を渡り濠に辿り着く。多くのエルフが月明かりの元、この草原を渡ってくる人影を監視しているはずだが、誰一人として見とがめる者はいない。
目の前に細い橋が架かっている。記憶の通りだ。古い記憶、アリス・ミーアと私、ルウ・シンバルとの思い出。そしてすぐにそれを振り払う。今はそれを懐かしむ時では無い。
ここからが問題だ。この先には石で出来た壁があり、その壁はこちらにのしかかるようにオーバーハングしているはずだ。出入り口は厚い木製の壁で破壊するのは容易ではない。いや、素手では不可能だ。
記憶の通り、城門と呼ぶべき木製の扉と、城壁と呼ぶべき高い壁が進行方向を塞いでいる。ルウは門を簡単に確認して、それが現在は強固に閉ざされていることを理解した。
すぐに石壁に移り、躊躇無く壁の凹凸を両手で握る。足も凹凸に掛け、ゆっくりと体を上方へ運んで行く。握りやすい石を探し、足が支える体重と、上へ進むための力を受け止めてくれる石を探し、重力に逆らい、体を石壁にぶら下げながら、それでも上へ昇ってゆく。
ルウが身につけているのは、ドワーフのミーアを守る親衛隊の服装だ。彼女がその任にあったときから使っているものだ。体にフィットして動きやすく、それでいて動きを制限しない。最初の一着は、昔のミーアが、ヒトのミーアに相談して作らせたとのことだ。こういう細工の凝ったものは人の作ったものが一番具合がいい。
ルウは、慎重に石をまさぐり、試し、誤って地上に落ちることを繰り返しながら、より確実なルートを探し登ってゆく。登る度、落ちる度に疲労が蓄積してゆくがそれに構ってはいられない。私には時間が無い。
その単調とも言える作業を繰り返し、ついにルウの掌が壁の上端に届いた。巨体がヌウッと壁の上へ持ち上がってくる。
ルウは壁の上にしゃがんでいる。目前で視界を塞ぐ木々の葉を通してその先の湿地を見下ろしている。
夜にここを通ったことは無い。それどころか、気まぐれなアリス・ミーアが日没後にドワーフの村に帰ろうとしてエルフ達に止められた記憶がある。奴らは言った、昼のうちは動き回らない毒虫たちが夜になると活動を始めるのだ、と。
ルウはしゃがんだ姿勢から跳躍した。木製の門のすぐ先だけは石が敷かれ乾燥している。その場所に着地する。音も無く着地し、音も無く立ち上がる。
ルウは周囲を見回す。記憶を振り絞り、何度か通った見えない道を辿ろうとするが、夜の独特の雰囲気に記憶の景色と眼前のそれとがマッチングすることは無い。
彼女は心を決めると足を踏み出した。足元で水が跳ねる。ぬかるみはヌルヌルと柔らかく、手応え無く足を滑らせる。しかし止まるわけには行かない。ぬかるみの深さは10cmばかりもある。くるぶしまでが水に沈む。春先の水はまだ冷たく、熱く興奮した体には心地よくもある。なめした革を細く裁断して編み上げた靴に、水が容赦なく染みこんでくる。動きやすさを基本に編んでいるので、防水性などまるで無い。
次の一歩を着地したはずの一瞬、そこに地面が無いことに気づく。くるぶしが抵抗なく更に水に沈んでゆく。上体が前傾になり、重心が前方へつんのめるように弧を描きながら下がってゆく。
そこで足が底につく。突然地面からの反力を受けて、膝に上半身の質量と速度の積がのしかかる。後ろから前に回しかけていた次の一歩が、先の地面を踏みしめて辛うじて体勢を立て直す。ルウは暗闇の森林を歩き続ける。いつの間にか彼女の世には十数匹ものヒルが張り付いている。ヒル達はゆっくりとしかし確実に彼女の皮膚に忍び寄る。
ジュニアは大樹の元に身を潜めている。シュラウドも別の場所で警戒に当たっているはずだ。時折、ドワーフの女戦士がほとんど気配を消して巡回している。ジュニアが見るに身のこなしも申し分なく、鍛えに鍛えられている印象だ。一度闘ってみたいと思う。
「ねえ、あんたあんた。」
辺りをはばかるような声がする。聞き覚えがある。あのドワーフの戦士だ。
「その辺にいるんだろ。ちょっと話があるんだけど…。」
ジュニアを探しているように思えるので、仕方なくそちらへ出て行く。
「お、おお!そっから出てくるのか。まるで幽霊だ。気配がまるで無い。」
「?」
相手は驚いているが、ジュニアは無視して目線で用件を尋ねる。
「そんな目で見ないでって、今日はもうルウは来やしないからさ、あんたと話でもしようかと思ってね。」
そして腰に下げた木製の容器を叩く。
ジュニアが不思議そうに顔をしかめる様子を見てドワーフがニヤリとする。
「酒だよ酒、嫌いじゃ無いだろう。一緒に飲もうよ。」
あまりの楽天的さに、ジュニアが言葉を返せないでいると、彼女は無遠慮にジュニアのそばに寄ってきて肩に手をかけて、耳元に口を近づけた。
「楽しもうよ、人生短いんだからさあ。」
熱い吐息が耳に覆い被さるように発せられ、そして耳を軽く咥えられる。ジュニアがびっくりして体を離す。酒の臭いがする。既に飲んでいるのだ。
「くく、可愛いわあ。あたしってばラッキーかもだわ。」
ジュニアは不思議そうにその様子を見て、何か思いついたように彼女に話しかけた。
「君たち流の挨拶か、昨今の流行なのかは知らないが、他人への挨拶としては少し距離が近すぎはしないだろうか。まあ、それよりも楽しいことと言えば、君と立ち会わせてもらえないか? 本格的な体術を使う相手とは立ち会ったことが無いんだ。とても興味深い。」
凄いことを思いついたかのようなジュニアが、早速剣を鞘から抜いてしまう。相変わらずのせっかちさだ。
「ちょちょっと、待って待って、楽しい事って他にも沢山あるでしょ!」
「大丈夫、僕の剣は君には当てないから。君の方は遠慮無く打ち込んでくれていい。だからほら、早くしよう。」
ジュニアが構えに入ると、さすがのシルドラドも目が真剣になる。
「第一、僕は酒を飲まない。」
ジュニアの言葉がゆっくりと聞こえてくる。シルドラドが左足前の半身に立って膝を少し沈める。腕は垂らしたままだが、掌をせわしなく開閉している。彼女は何か話そうとしているのだが、その呼吸がつかめないようだ。言葉を発した瞬間に切り込まれる想像が脳裏に浮かんでいるのかもしれない。
ジュニアが少し間合いを詰める。シルドラドが少し体を引く。素手の間合いよりも剣の間合いの方が長いはずだが、シルドラドはその距離に入ろうとしない。入る前に切られる自分が想像できてしまうのであろうか。
今度はジュニアが少し距離を広げる。すっと殺気が消えたように感じる。
「切り返さないから、攻めてみてくれないか? 感触を知りたいんだ。」
ジュニアは既に構えを解いている。隙でガラガラだ。
「本当に切り返さないのか?」
「ああ、本当だ。君の技を受ける練習だ。こちらからは攻めない。」
「信じられるか、命のやりとりに際して、欺されて死んだものなどいくらでもいる。」
「ドワーフの文化はそうかもしれないけど、ヒトは、少なくとも僕はそんなことはしないよ。」
「なら剣を、剣を置け。それなら攻めてやる。」
ジュニアは自分の剣に目を落としてから、なるほどという表情になり、剣を鞘に収めて、鞘ごと地面に置いた。再びシルドラドと正対する。
「…。」
ひゅっと息を強く吐き出す音がして、シルドラドの体が大きく前に弾き出された。右足の筋力だけで瞬間的に前方に跳躍したのだ。前に出している左足がジュニアの右手からほぼ地面と水平に振り回されてくる。避ける暇は無い。彼としても思ったよりも攻撃が早くて回避できない。上腕で足を受ける。激しい痛みが腕全体を襲う。足の甲に金属製の武具を着けているのだ。生半可な衝撃ではない。
体が、自分の体がこんなに軽いかと思うくらい簡単に、ジュニアは左へはじき飛ばされた。シルドラドの腰の高さはジュニアの重心よりも高いので、打撃点もジュニアの重心よりも高く、ジュニアは左、側方の地面に叩きつけられる。
それでも無理に体を捻って、受け身を取りながらその勢いで立ち上がる。次打は?と身構えるが、何故か彼女は蹴りを入れた位置に留まっている。
「入った。あらら、あたしの蹴りでも入るじゃない。」
彼女が嬉しそうに笑っている。
「これなら、普通に勝負すればよかっただわ。」
浮かれる彼女を見ながらジュニアは考えている。
武器を持っているといないとでは、敵に攻撃をインパクトさせるための距離、つまりは間合いが異なる。剣にしろ槍にしろ、何にしても素手よりは遠い位置から敵を攻撃できる。だから有利なのだ。しかしそのためには重量のある武器を機敏に動かすための筋力が必要であり、それを目指して日々騎士は訓練をする。
ドワーフは自分たちと比べて、遙かに発達した筋肉を生来的に持っている。ヒトよりも遙かに機敏な動作が当然の如く可能だ。また、大柄な体がそれを助けているのだろう。腕の長さは、目の前のシルドラドでも、ジュニアの1.2-1.3倍はある。太い腕は重量がありそれ自体が凶器になる。
彼女たちにとっては、必要以上に重い武器を持って振り回すよりも、親から授かった長くて太い、素早く動作させることの出来る生身の腕を振り回した方が、効率がいいのだ。
そんなことを考えているうちに、シルドラドが再びジュニアとの間合いを測り始める。ジュニアも両腕を少しでも防御の助けにしようと構えてみる。
ひゅっと再び鋭く息を吐く音がして、彼女の足が振り回されてくる。落ち着いてみれば軌道が見えないほどの速度ではない。先程よりも広い間合いをとっていたジュニアは上半身をスウェイして蹴りをかわす。
ジュニアの直前を彼女のつま先がすり抜けて行く。引き裂かれた空気が、ジュニアの皮膚も切り裂く勢いで、厚手の上着をすり抜けて彼の肌を刺激する。
一瞬だけ間を置いて次の足技が来る。恐らくだが、足の方が敵と上半身が離れるので反撃されたときのリスクが低いのだろう。ジュニアが先程と同様に避けに行くが、今度はそうはいかなかった。
彼にはまるで彼女の足が伸びたように感じた。体のどこかの関節なりを工夫して、更に足先を前に出してきたのだろうか?彼にその仕組みは想像さえ出来ない。避けきれないジュニアの腕に足がヒットし、ジュニアはコマのように回転させられて、後方へ倒れ込んだ。
全身に激痛を感じるが、ジュニアの心証はそこにはない。『ああ、勉強になるなあ…。』とジーンとしている。こいつ、基本的に剣術オタクな上に、プラスして天然なのだ。
「どうだい! あたしだって満更捨てたもんじゃないだろ!」
ガッツポーズをして、目をキラキラさせながら、シルドラドが胸を張る。ジャン!!!って感じだ。
「確かに素晴らしい、その身体能力には感激した。」
ジュニアも構えを解いて、正直な感想を伝える。脳裏では、それに対抗する剣技をイメージトレーニングしている。
「なあ、もうこんなもんでいいだろ? 早く飲もうぜ!」
シルドラドは一気にリラックスして飲む気満々である。
「申し訳ない。僕は酒を飲まない。だが、僕の我が儘に付き合ってくれたお礼だ。酌くらいはしよう。」
ジュニアも今の立ち会いの興味深さにそこそこ満足だ。頭の中では、動きのシミュレーションとラーニングが延々と続いている。
ジュニアが胡座をかくようにその場に座った。手で、シルドラドにも座るように促す。
「そうこなくっちゃだわ。」
彼女もジュニアの横に座って腰に下げた酒の容器をジュニアに差し出す。ジュニアはそれを受け取るとすかさず彼女に酌をする。酒器も腰からぶら下がっていたものだ。
ゴクリとシルドラドの喉で音が鳴った。
ものの十分と言ったところだろうか、シルドラドが静かな寝息を立てて眠っている。ジュニアと立ち会って、よほど緊張したのだろう。あっという間に酔いが回ったようだ。ジュニアの肩に寄りかかってきたのを、静かに地面に横にしてあげる。
ジュニアは剣を握り、闇と対峙している。彼の脳裏には先程のシルドラドの所作が精密に再生されている。重量のある武装を持たない手足は自由に加減速し、自由にベクトルを変える。足は唐突に伸び、一瞬だけ静止する。
自分はこの剣を持って、その動きにどのように対応すればいいのだろうかを考える。手先が、足先が、変幻自在に動くのなら、その先を押えればいい。その先とは、つまりはその元にあたる。剣と素手の間合いの差、それは剣の長さを生かした長い間合いではなく、敵の手足を縛る短い間合いだと判じる。
ジュニアは音も無く、しかし激しく動かしていた体を止めると、剣を鞘に収めた。呼吸を整える。
でもまだ、知らないことが一杯あるんだろうなあ、と思うとわくわくする。ルウ・シンバルという敵は本当に強いのだろうか? どれほど強いのだろうか? そんなことを考えるだけで、アルに負わされた、首筋から下の火傷の痕が熱く燃えるように感じる。
夜明けが近づいている。まだ周囲は闇に包まれているが、ジュニアは風の動きでそれを感じる。元々穏やかな天候の日には、日没時と同様に日照のある場所と、それがない場所との温度差で風が生じる。その場所が海であるのか、陸であるのかで吹く風の強さの度合いは異なるが、冷たい空気は決まって地表付近を這うため、夜に近い側から風は吹いてくる。もちろん既に記述したとおり、この場所では風の動きは少ないようだ。
ジュニアは立ち上がる。ほんの微かな気配が林の向こうから近づいてくる。相手はこちらには気付いていないようだ。彼は確信する。ルウ・シンバルという娘に違いない。
シュラウドは既に敵に気付いているだろうか? 今更ジュニアから彼に知らせるのは得策とは思えない。敵に自分の存在を知らせるだけだ。それよりも、そうだここにはミーアが二人もいるのだ。彼女たちの感覚から人が隠れ通せるとは思えないし、なに、戦いが始まってしまえば嫌でも気がつくだろうと楽観する。ジュニアはあくまで冷静にその気配の方へ向かった。
相手の進路を読み、待ち伏せて森と一体化する。その女性の使う武術の概略は学習したが、相手の実力が分からない状況では、より自らの生存率の高い方法で闘わなければならない。彼はあくまでも職業軍人なのだ。敵を倒して生き延びることが彼の仕事だ。正々堂々と言う名の下に、敵に名乗りを上げて挑むような文化を、彼は持ち合わせていない。
ジュニアの視界のずっと奥で、相手がふと立ち止まる。ジュニアまではまだ距離があるが、こちらを察知したのだろう。気配が濃密になり殺気が突き刺さるように感じられる。本気のモードに入った証拠だ。ジュニアも迷いなく抜刀する。敵に向かって歩き始める。
闇の中に、大柄な人影が見える。光学的な視認とは少し異なる感覚かもしれない。何せ辺りは濃い夜の底だ。星々は出ているが、明るい夜という状況ではない。ジュニアも、敵も別の何かを敏感に感じている。
二人の距離が5m程になる。そこで距離が縮まなくなる。二人とも何も言わない。言葉を発すれば隙が生まれることが分かっているからだ。既にジュニアはこの相手がシルドラドよりも遙かに手練れであることを感じている。先程よりも更に敏捷な、柔軟な動きをしてくるだろうと覚悟する。
敵が腰を少しだけ落として構えに入る。その隙のない構えを見ると、先程のシルドラドがまるで落ち着きなく思えてくる。ジュニアはジリジリと距離を詰める。敵はジュニアの左に回りながら、こちらも距離を詰めてくる。
近づくにつれて、不確かだった彼女のシルエットが明確になってくる。もしかするともう夜明けも近いのかもしれない。鍛え抜かれた筋肉質の上半身が、野生の動物のような無駄のないスリムな脚の上に載っている。両者をつなぐ骨盤は幅広く逞しい。
その瞬間、敵の影がスッと消える。それと同時にジュニアも動く。
エリス・ミーアは、その気配に誘われて部屋の外へ出た。まだ周囲は暗い。夜が明けるまではもう少しかかるだろう。部屋から漏れる光と、樹上や地上にともされた灯り、空に瞬く数少ない星が頼りない。
彼女にはその人物が来ていることが明らかに感じられた。もう既にこの里に入り込んでいるようだ。自分が察知できずにそこまで入り込まれたことに、エリスは驚いていたが、動揺しているわけではなく、冷静に事実を受け止めているようだ。
彼女は手元の笛を口にすると力一杯に吹いた。高い音が辺りに響き渡るが、それもエルフに対してのことだけである。ヒトや、ドワーフの可聴域よりも高い音色だ。
続けて何度か短い音を繰り返す。ルウ・シンバルと思われる気配が進入してきた方向を指示しているのだ。
エリスが振り向くと上からドリス・ミーアが降りてくるところだ。そういうことであれば、じきにアリスも姿を現すだろう。この中ではドリスが一番感性が鈍いから。
「私、下に降ります。」
ドリスが生真面目に宣言する。
「それはご自由に。貴方はここで、誰にも束縛されてはいないわ。」
「話をしたいのです。水を必要としているのは私の知り合いですから。」
エリスは言葉を返さない。ドリスもそれ以上は語らずに階段を降りて行く。
ジュニアは彼女の蹴りを辛うじてかわした。しかし落ち着く間もなく、次の攻撃が迫ってくる。たゆみのない連続した動きだ。まるでそれは、足と手が何本もあるような連続性だ。しかも腕も手も自由自在に速度と方向を変化させながら動き続けるのだ。ジュニアのどこかが、驚きに似た感動に包まれている。
ザッと荒々しく地面をふみつける音がして、彼女の動きが止まる。表情に疲労の色はまるでない。それどころか、どこか余裕さえ感じられる薄い笑みを浮かべているようにジュニアには見える。見える。もう夜は明けたのか? そのために辺りを見回す余裕は二人にはない。
すかさずジュニアが彼女に切り込む。彼女はその剣を避けて右へ跳躍する。ジュニアが切り返そうと重心を移動したその体勢に、今度は彼女の足技が来る。攻撃と、それによって生じる隙は表裏一体だ。攻める事にはリスクが伴うのだ。しかしそれでもひたすら攻め続けるケンドア・ドルメドルのような剣士もいる。
彼女の脚を、自らの正面で、剣で受けるために足の軌道の先に剣を構える。敵の攻撃の速度が速ければ速いほど、その打撃は彼女の足に返される。自分のエネルギーで足が切断されるはずだ。
ピタリと止まった。
ジュニアがすかさず一歩踏み込んで剣を上段に振りかぶる。すぐに振り下ろす。攻める。敵は後退しながらジュニアの剣をかわす。ジュニアの剣は、円を基本とした連続した剣。次々と切っ先が彼女の首を、胸を、胴を、腰を狙うがことごとくがかわされる。それでも追う。追い詰める。
横に薙いだジュニアの視界から、敵が消える。一瞬、何が起きたか解らない。風の音がする。いや、実際には音はしていないのかも。とにかく微小に大気が動いたのだろう。ジュニアの体が無意識に後方へスウェイする。左から右へ、目の前を脚が高速で通り過ぎる。今度は確実に音がした。ジュニアが反応する。敵は下にいる。両手を地面に着けて、両足が自由自在にジュニアに絡みつくように襲いかかってくる。彼女の掌を中心に円を描くような軌跡で脚が振り回される。そして腰を中心にして更に捻りが加わる。そう思えば腕の屈伸で踵が直線的にジュニアに突き出される。
上半身が極端に下方にあるので、剣が届きにくい。ジュニアが思い切り後方に距離をとる。さすがに腕が脚の代わりでは、大きく前には踏み込んでこない。
彼女が立ち上がった。やはり疲労の色は見えない。再びジュニアが、彼女に襲いかかる。彼には次第に相手の動きのパターンが見えてきている。武術は突き詰めて行くと体が無意識に覚えて行くものだ。ギリギリの状態まで追い込まれればそれを意志で変えることは難しい。とにかく相手を追い込むのだ。攻めろ!攻めろ!攻めろ!
ジュニアが上段に剣を振りかぶりその瞬間に振り下ろす!
ガツンと剣が始めて打撃する。よし!
彼女が両腕を頭上にクロスして剣を受けている。衣服の下に着込んだ鎖帷子が彼女の生身の体を防護した。しかしただでは済むまい。重い金属の棒で叩かれれば、通常であれば骨は砕け散る。いくら鉄の鎖を身にまとっていたところで、剣の持っていた運動エネルギーと(位置エネルギー…剣の速度に依るがこの場合、比較して十分に小さい)は鎖と彼女の体が受け止めなくてはならない。ましてや剣である。先端の尖ったもので叩けば、少ない面積でそのエネルギーを受け止めなくてはならず、単位面積あたりのエネルギーは極端に増加するはずだ。それが剣を使う意義である。
二人は止まった。ジュニアが見上げる位置にルウ・シンバルの顔がある。彼女の表情は苦痛に歪んでいる。そうだ、ダメージがないわけがない。
「水が、必要。子供、助ける。」
はっきりと発音する。その時、ジュニアの剣が左に持って行かれる。
残念ながら剣を打ち込んだことを確信したとき、彼は油断した。
信じ難い力だ。彼女が腕を組んだまま、両腕を剣ごと回したのだ。ジュニアは必死に剣を握る両手に力を入れて、剣がはじき飛ばされるのを防ぐ。と、彼女が笑った。
両腕がほどかれ、ジュニアの体に触れる。彼女の片方の腕はジュニアの腕を体の方へ遡るように、蛇のようにまとわりつく。もう一方の手はジュニアの手首をつかんで捻る。片手は容易に剣から離れ、体を回されて彼女が背後に回る。同時に脚が絡まり完全に動作が封じられた。背後から磔にされたような状態だ。
ジュニアは死を意識した。彼女が軽く力を入れれば自分のどこかの骨が砕け散り、容易に絶命するであろう。
なるほど素手にはこんなメリットもあるのかと感心する。これからはもっと他流も研究する必要があるなと考えている。もういつでも殺されるというのに、ちぐはぐな話だ。
肩関節に激烈な痛みを感じながら、ジュニアは体を前方に押し出された。ルウ・シンバルの体が、逆に後方に下がって行くのを感じる。感じる?まだ生きている? そのまま地面に激突する。
空気の切り裂かれる音がして二人のいた場所に大量の矢が降りそそぐ。矢は、ルウを追って目標位置を後方に移動して行く。『ぐう』というおかしな声が聞こえた。矢がルウを貫いたのかもしれない。
「ジュニア!」
無様に地面に倒れ込んだ彼を、駆け寄ってきたドリスが抱き起こす。ジュニアは四肢の関節が皆あっちこっちの方向に向いてしまったような感覚でドリスに抱き起こされる。ドリスは膝をついたまま、ジュニアの上半身を自分の上半身にもたれかからせる。ジュニアはドリスの柔らかな体を感じているが、鈍感なので何も感じない。
「もう一度戦える。」
ドリスは呆れたような表情を浮かべ、ジュニアを優しく地面に降ろした。
木にもたれて、ルウ・シンバルが立っていた。エルフ達の矢の攻撃はもう止んでいる。ルウの腕や脚には何本もの矢がぶすぶすと刺さっている。彼女は無表情にその矢を折っては前後から引き抜き周囲に捨てている。その都度低い苦痛に満ちたうめきと、大量の血しぶきが現れる。
辺りは既に明るい。木々も人々もその姿を見るのは容易だ。ルウは完全にエルフの護衛兵達に取り囲まれている。ドリスに見える範囲でも二十人くらいはいるだろう。恐らく木々の上や陰にもその倍以上は潜んでいるはずだ。
「もう止めて!」
ルウをかばうように大柄な女性が立ちはだかる。ドリスは知らないが、彼女はシルドラドというアリス・ミーアの護衛をしているドワーフの女性の一人だ。
「もういいでしょ! 私たちはあんた達ほどいつまでも生きられないのよ! 勝手なことしないで!」
感情的にわめき散らす。
「だからドワーフは…。」
どこかでエルフの嘲笑を交えた声が聞こえたように思う。
「ルウさん。」
ドリスが少し離れたところにいるルウに話しかける。ルウが怒りに満ちた表情でドリスを睨みつける。
「ルウさん、私はドリス・ミーア。ヒトのミーアの妹です。私には助けたい人がいます。その人は今死んでゆこうとしています。ですから今回の命の水を貴方に譲ることは出来ません。」
「わたし、子供、助ける。死ぬの。」
「貴方にも事情があることは分かっているつもりです。でも私の友達も、今あの水を与えないと死んでしまうのです。どうぞ分かって下さい。」
「子供殺す、いけない。許さない!」
ルウがシルドラドを押しのけてドリスに向かおうとした瞬間、周囲から一斉に数百の矢が降りそそいだ。それは激しい雨の音のようで、耳を覆いたくなる悲鳴を巻き込みながら周囲の音を全て飲み込む濁流のようで、憎しみと怒りを覆い隠す、無表情なガランとした虚ろな空間が後に残る。
「シルドラド! ルウ! オオオオオオー、だから、エルフはアアア!」
ドリスの背後でアリス・ミーアが地面のそこから全てを揺さぶるほどの怒声を上げた。
後には、ドワーフの女性の二体の大きな体が横たわる。
ドリス達による、命の水の採取の場面については説明を割愛する。それは民俗学的には興味深い描写かもしれないが、今はそれをここに残す意義を憶えない。
ルウの言葉については少しだけ補足すると、アリス・ミーアが探し当てた山中のルウの住処には既に息絶えたドワーフの女児が見つかったという。ドワーフの医師の見立てによれば、生まれる以前から命果てていたとのことだったが、ルウ・シンバルがそれを理解していたかどうかはもう分からない。ともかく、ルウは私生児を産んでそして母子共が亡くなったという現在があるのみである。
アルシリアス・ブルベットは例の、オルバット山を一望できる広い食堂で皆と机を囲んでいる。他にはジュニアとドリス、負傷してまだ傷の癒えきらないケンドアとそれを介助するエリスの姿がある。アルはまだ、半ば呆然とた様子で、ほとんど口を利かない。エリスによれば、意識は戻っても精神に受けたダメージはどれほどのものか計り知れないほどだろうという。ただ、アルは生きている。声を掛ければこちらを向くし、お茶を差し出せばニコリと微笑んでくれる。ドリスは幸せを噛みしめる。何がジュニアだ、やっぱただのオタクじゃん。
昨夕、この屋敷に戻って早々に運んできた水をアルに飲ませた。その瞬間、アルの中途半端に開かれた瞳も口元も閉じられ彼は静かに眠り始めたのだった。
翌朝、側に付いていたドリスが目を覚ますとベッドの中でアルは既に目覚めていて、ドリスに向かって唇を動かした。ドリスが慌てて耳を寄せるとかすれた声で、でも確実に『おはよう』と彼は言った。そのままドリスが彼を抱きしめたことは言うまでもない。
その後の回復は目を見張るようだった。あの水は確かに効くのだ。そしてこうして昼には、移動にドリスの手助けが必要ではあったが、皆と一緒にテーブルに着いている。
皆静かだ。アルに問いかけるものはいない。それはどう考えても激しい苦痛の経験だ。それを思い出させるような質問をすることは出来ないのだから当然だ。だから、皆が時々アルを見ながらその他は美しいオルバット山を眺めている。美しい景色は何よりも雄弁だ。
「俺には・・・。」
突然アルが言葉を始めた。もう朝のようなかすれた声ではない。まだまだ健康とは言いがたいが、皆にしっかりと聞こえるボリュームだ。
「俺には行きたい場所がある。」
そう言う。
「どこに? どこに行きたいの?」
ドリスが心配そうに問いかける。アルが彼女に顔を向ける。クリクリとした瞳が、今痩せてしまっている顔では更に大きく見える。
「バウ、と言う村。」
「バウ?」
「ここから北西に行った、ミサリア平原の西部、モラールの湖に面した村だ。」
ケンドアが答える。行ったことがあるのだろう。
「バウには有名な遺跡がある。モラール湖沿いに、長さ約1000m、幅約500m、高さ約50mの巨大な四角い岩の塊があって、村ではこれはアルシアを作った神様のうちの一人、リズズ・バウが作ったものだと伝えられている。だから村の名前もバウ。そういえば春に祭りをするはずだ。丁度今頃かもしれない。」
「お祭りを、見たいの?」
ドリスがアルに尋ねると、アルは困った様子で微笑んだ。
「まさか、…ある人に教えてもらった。その村の出身だと言っていた人だ。俺が興味を持ちそうな何かが、そこにはあるらしい。」
「バウの遺跡は巨大な岩の塊だ。切り出したような直角の巨大な岩が、ドンっ、と湖の横に置いてある。岩の上は平らで、街が築かれている。神話の時代に作られた町だそうだ。バウの村の住民の祖先が、昔、苦労してその岩を登ったとき、その上に無人の廃墟を見つけたそうだ。」
「ならどうして、それをリズズ・バウが作ってと言えるの? だってそれを証言する人は誰もいなかったって事でしょ?」
「ああ、でも神話なんてそんなもんだろ。」
ドリスの問いにケンは素っ気なく答える。そこにはあまり興味が無いようだ。
「今はすっかり観光化されて、岩の上の街は土産物屋でいっぱいだ。」
「僕は構わない。」
ジュニアが言葉を挟む。
「ついて行くと決めたから。」
「あたしも、あたしももちろん行くわ。」
ドリスが慌てて賛同する。
「姉さん、ごめんなさい。私行きたいの。」
クリスはドリスを見て優しく頷いた。
「もちろん構わないわ。ミーアは、もう大分昔から私が守るべき血筋なのですから。」
「済まない、僕はまだ無理だ。」
ケンドアが小さな声で付け加える。横で、クリスがケンの手を握っている。
「まだしばらくは、旅なんてとても無理です。ここで静養して頂きます。ケンドア様には命を救って頂きました。その恩を返させて下さい。」
クリスがケンドアの瞳を真っ直ぐに見て話しかける。強い意志を感じる。
確かにケンドアの傷はまだ良くないようだ。ルウ・シンバルに受けた数々の打撃はケンの内臓に甚大な影響を及ぼしているようだ。ジュニアがアルの白魔法によって焼かれた傷も激しいものであったが、内臓に受けるダメージとまた質の違うものなのだろう。また、ジリアラスとクリスとの白魔術師としての技量の差も多分にあると思う。クリスは白魔術師とはいえ、職は巫女であり、卓越した能力は主にテレパスとしてのものだ。実はこの遠距離を隔てて通信をすると言う能力は、白魔法としては著しく特殊なものだ。それは前にも書いたとおり、白魔法の基本は音波であるので音の届かない遠隔地と交信することの特殊さは際だったものがある。
ケンはアルとジュニアとドリスに向けて、困ったような笑みを浮かべて肩を軽く上下させた。
「皆を足止めするわけにも行かない。君たちだけで行ってくれ。また会うこともあるだろう。少なくともロスガルトの南部を通るときは僕の村に寄ってくれ。約束だぞ。特にジュニア、君には見せたいものが山ほどある。本当に山ほどね。」
ケンがジュニアに頷きかけると、ジュニアも力強く応じた。
その時、アルが突然立ち上がってから周囲をキョロキョロと見回して、上方を振り仰ぐ、その様子に、皆が不思議そうだ。しかしアルは真剣そのものである。そして天井に向かって尋ねる。
「おい、お前は誰だ?」
その一言に私は慌てて回路の主要部分を切断し、プロトコルを分散させた。
暗転。
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