第3話 リンダスプール

 ロスガルトとミサリアの国境を流れるリン川。川幅は200m程もある。そのリン川が二手に分かれ、再び合流するまでの間に出来た中州がリンダスプールの町である。

 川は西から東へ流れている。西のモラール湖を水源とし、東の海に注ぐ。南側はポペットの森、北側にはミサリアの南部平原が遙か北、ミサリアの首都ミグーンまで広がる。

 川の対岸から望む夜のリンダスプールの町は、光で出来た楕円形のホールケーキのようだ。川からの浸食を防ぐために周囲は全て石造りの護岸工事がなされており、水面から垂直に壁が立ち上がって見える。この中州は古くは周囲を水で囲まれた砦であったと聞く。

 さほど広くない中州であるため、建物が密集し上に伸びている。三階、四階建てくらいの建物が隙間のないくらいに密集して並んでいる。ポペットの森、ソウの村の宿屋町が幼い子供がいたずらに積んだ様々な形のカラフルな積み木なら、リンダスプールの町は神経質な子が几帳面に並べた沢山の同じ種類のキャラメルの箱のようだ。

 並ぶ沢山の窓には灯りがともる。ある窓は人の集まる酒場らしく比較的明るい。ある窓はバーなのだろうゆらゆらとした小さな炎の、生きている光が強調された演出だ。そしてある窓は娼館らしく暗い赤色の扇情的な照明だ。

 リンダスプールは国境の町である。正しくは、リンダスプールは国境に『挟まれた』町である。リン川の両岸は、それぞれ南はロスガルト、北はミサリアに属するが、このリンダスプールはどちらにも属していたし、どちらにも属していなかった。

もう数年にわたって、ロスガルトとミサリアの関係はすこぶる良好だった。フリルベア王は、あの通り穏やかな人格で、ミサリアに侵攻するなどと言う野心は一切持ち合わせていないようだった。一方のミサリアのアドボルド・ミデデルザ王はひどく野心的な人間であったが、今だ北方のウィスカ列島の統一に手を焼いており戦時である。当分は国力の豊かなロスガルトと戦乱を交える充分な国力があるとは言えない状況だった。

 従ってリンダスプールの帰属問題は、両国間で棚上げになっていた。と言うよりもこの地域の唯一の大きな町として両軍兵士たちが共に何の制約もなく立ち入れる安息の場として、両軍共に今の状況を維持することが最も負担の少ない解決策だった。

 リンダスプールの町には、両軍の兵士たちが溢れている。シフトをずらして休暇を取りに来る兵士たちが毎晩押し寄せる。日が沈めば明け方まで、高級なレストランから、量り売り立ち飲みの酒屋までもが灯りをともして人を呼び、仕事の女たちが街路を歩き、店をのぞいて客を探している。この町はそんな町だ。

 一つの部屋の灯りが消えた。ある建物の屋上のペントハウスだ。この町でも最も高級なアパートの一室である。住んでいるのはドンナ・アンナというロスガルト軍の上級将校とその娘の、名はチエリア・アンナという。今年十八になる。母は早くに他界して二人家族の生活を始めてもう十年以上になる。ドンナ・アンナはロスガルト軍の北部国境警備隊長としてこの地に赴任した。チエリアはそれまで長くロガリアに住んでいたが、大好きな父の身の回りの世話をする人間が必要と主張してこの地についてきたのだ。本心はこの地域随一の歓楽町と名の高い場所に父を単身で赴任させてしまったら、どこの誰ともしれない女に、幼い頃から育ててもらった父を盗られるようで嫌だったためだ。

 暗くした部屋に、カーテンの隙間からの細い外の灯りと、ごちゃごちゃにかき混ぜられた騒音が入ってくる。彼女が父についてこの地に来て既に一年が経ち、既にこの猥雑な音にも慣れてしまった。それに軍人ばかりのこの町で起きる犯罪は、せいぜいが酔っ払いの喧嘩くらいで、思いの外、治安がいいのは彼女自身驚きだった。住んでいる住民も実は都会的なサバサバとした人ばかりで、ロガリア育ちのチエリアとは肌が合った。美味しい空気と豊かな自然に囲まれた、閉鎖的な地方の小さな村落では、こうはいかなかっただろう。

「…との…、うら…。」

 眠っていたチエリアの胸に、フッと何か嫌なものが触れたような感触があった。眉をしかめて瞳を開ける。

 灯りの落ちた部屋が寝ているチエリアには横向きに見える。外から入ってくる灯りで部屋の調度品のシルエットがはっきりと見える。

 あれ、と思う。カーテンを閉じたはずなのでこれ程室内が明るいはずがない。再び緊張して瞳を動かし、部屋の中を観察する。

 どうやらテラスに出る窓が開いている様子だ。風が吹き込んでカーテンがずれたようだ。春になったとは言え、夜はまだまだ冷え込むこともある。戸締まりはしたはずだと、いぶかしながら横たえた体を起こしたとき、ふいに両目を塞がれる。

「きゃ!」

 口も塞がれる。

「大きな声を出さないで。」

 聞き心地のいい優しい声が耳元で聞こえる。声の主が背後にいてチエリアを抱きかかえている。まるで気がつかなかった。

 しかし不快ではない。その人物は暖かく優しく、先程の声もとても安心感がある。

「君の名前を聞かせてくれる?」

 声が訪ねてくる。彼女は反射的に答えてしまう。

「チエリア・アンナ。」

「そうか、チエリアか。いい名前だ。チエリア・アンナ、今から君は僕のものだ。」

 その言葉に背筋に寒気が走る。意識しないのに体がガタガタと震える。

「どうしたの? 寒いのかい?」

 笑いを含みながら声が聞いてくる。首を動かして『うん』と合図する。

「どれ。」

 背後の人物はチエリアの目と口を覆った手を外した。ベッドから降りてチエリアの正面に回り込む。

「こんばんは、僕のチエリア。」

 背の高い男性だった。カールした栗毛の髪が肩までの長髪だ。肩幅は広くがっちりとした感じ。大きな胸と比べて腰は細く足もすらりとして長い。顔つきはロスガルトよりもミサリア人に近いように見える。色が白く細面で鼻が高い。

 チエリアの好み、ドンピシャリである。

「僕はどう見える?」

「とても背が高くて、逞しそう。格好いい素敵な人です。」

 そんな言葉が反射的に出てしまう。言ってから恥ずかしくなる。

「なるほど、完璧に術に落ちたね。さすがは俺様だ。」

 にやりと笑う男の表情が歪む。あっという間に背が縮み、横幅が広くなる。何か嫌な臭いがする。

 チエリアは自分の目を疑い、目元に手を運ぼうとするが手は動かない。その間にもますます男は醜く変形する。

 背の低い男だった。ブクブクとだらしなく太っている。髪は薄くボサボサで脂ぎり、前髪が固まった汗で額に張り付いている。顔は瘡蓋だらけだ。目が小さく、鼻がでかい。口元がだらしなく開いていて、薄く呼吸音がする。

 服は貴族の着るもので、股下までの長い青の上着と金色のベスト、その下には薄汚れているが白いシャツを着ている。下は黒のパンツにソックスが膝下まである。靴は黒い革製のものだ。しかしながら、その全てがぴちぴちでサイズが合わず、大きく張り出した腹がはじけそうでようやく止まっているボタンの間から臍の辺りの剛毛と共に見えてしまっている。そして汗のすえたような異臭がする。

「立て、チエリア。」

 チエリアが意に反して立ち上がる。男が近い付いてくる。嫌な臭いが鼻を突く。胃液がこみ上げる。

「分かるか、お前は俺様の言うままにしか動けない。」

 小柄な男がチエリアを見上げながら、気持ち悪く笑う。

 状況を理解し始めたチエリアの心に恐怖がこみ上げる。

「そうそう、どんどん怖がってくれ。それが俺のエネルギーになる。恐怖、怒り、嫉み、恨み、そう言ったマイナスのエネルギーが俺様を作っている。」

 男の唇の両端が、ニッと上へ引っ張られる。

「お前の精神と肉体は全て俺様の思いのままだ。ほら。」

 男の一言でチエリアは自分の意思に反して足を踏み出し男に近づく。そして彼を抱きしめる。背の低い男の顔を自分に胸に埋めるようにする。体全体に悪寒が走る。毒虫の溢れる大きな壺の中に投げ込まれた感じだ。悲鳴を上げようにも声が出ない。気絶をしようにもそれは許されていないらしい。

「そんなに不快か? その感じだ、もっと色んなことをしようぜ。お前が嫌がれば嫌がるほど俺様は満足だ。精神を残したまま、体だけを操る。お前の気が違うまで続けよう。さて、どうされるのが一番嫌かな?」

 心の中に何かぬるぬるとした巨大なものが暴力的に侵入してくる。心の中の隠しておきたいことや忘れたいことが、立て続けに頭に想起されて行く。この男にも見られている。

「そうか、そんなに父親が好きか。」

 暗い声で男が言う。

「なら、彼を呼んでもらおう。」

「お父様! お父様!」

 男が言った途端に、自分の意思に反して声が出た。かなりの大きな声だ。

「お父様! 来て下さい!」

 少ししてドアの外に灯りがともる。

「どうしたチエリア!」

 父の声だ。娘の呼ぶ声に驚いて、かなり驚いているようだ。

「入るぞ!」

 扉が開く。外から灯りが入ってくる。

「む。」

 男と抱き合う娘を見て父が言葉を詰まらせる。

「誰だ貴様!」

「お前こそ誰だ。」

 自分の胸元で男の暗い声が響く。

「私はドンナ・アンナ、その子の父親で、ロスガルトの国境警備隊の隊長だ。今すぐ娘から離れて出て行くがよい。」

 父親、ドンナ・アンナはエペと呼ばれる細身だが芯の太い剣を抜いて男に向ける。男がチエリアの元を離れてドンナに正対する。

「人の世の、恨み、憎しみ、怒り持て、我に仕えん。」

 男が早口にそんなことを言う。

「うむ、ロスガルトの兵士は誰が教育したのか防護が硬いな。でももうお名前うかがっちゃたもんね。」

「貴様は誰だ。」

 剣を見てもまるで動じない男に、ドンナが聞き返す。

「でもドンナなんて、女の名前じゃん。」

 男が馬鹿にしたように笑う。そして続ける。

「我こそはミグーンの呪術師ジョン・ドバンニ、ミサリアで四百六十五人、アガで三百八十二人、ロスガルトで百五十二人の女神たちと愛を交わし合った希代の色男のこの名なら、こんな寂れた田舎町でも聞こえておろう!」

 ドンナが一瞬あっけにとられる。

「貴様など知らん。」

 言い捨てて斬りかかる。今は隊長とはいえ、一兵卒からたたき上げてきた彼である。過去の戦乱の時代においては、どれだけの実践でどれだけの敵を屠ってきたことか。

 ドンナのエペがジョン・ドバンニの喉元にある。一押しすれば喉を貫通して首の脊髄を貫けるだろう。

「さっさと出て行け。娘の部屋を汚したくない。テラスへ出ろ、地面にたたき落としてやる。」

「いいねえ、その怒り、あんたも最高! アンナ家最高!」

 悪びれずジョン・ドバンニが言う。表情には笑いさえあるほどだ。

「でもね、ドンナ・アンナ、お前の影は既に縫われた。だよ、分かる? あれ、この言い回し、いいねえ。誰の作品? 気に入った気に入った。」

ジョン・ドバンニがいつの間にか手にしていたレイピアを板の間の床、ドンナ・アンナの影に突き刺した。彼の手を離れたレイピアがビイーーンと振動する。

「もう動けないよ。」

 そして大声で笑いながらその場を離れる。ドンナとチエリア、二人の親子が動けずに立ったままの部屋の中を、楽しそうにステップを踏みながら踊り回る。しかしそのステップは調子っぱずれでそれだけ見たら、芸の無いギャグのようだ。彼には音感が無いのだ。

 ひとしきり踊ると、ジョン・ドバンニは疲れたのか息を切らせてドンナの前に立った。彼のエペを奪い取る。ドンナは抗おうと思うがすんなりと剣をジョン・ドバンニに渡してしまう。

「さて、メインイベントだ。さあチエリア、俺様が今からあんたの父親を殺すよ。あんたにやらせてやってもいいんだけど、さすがにそれだとあんたも壊れ過ぎちゃうだろうしなあ。生かさず殺さず、真綿で締めるように人を苦しめるのがいいのです。見てな。あれ、この剣結構硬いね。」

 ジョン・ドバンニはドンナのエペをしならせようとするが、動かない。彼のレイピアよりも太く、断面の剛性が高いのだ。

「まいっか。ぐさ。」

 まず足を一突きする。ドンナが『うぐ』と悲鳴をこらえる。

「貴様、…」

 ジョン・ドバンニが剣を彼の目の前で、ヒュン、と振り上げる。ドンナの顔が下の方からザックリと割れる。ドンナの悲鳴が響き渡る。噴き出した血がジョン・ドバンニの衣服をどす黒く染める。

「しゃべっても、しゃべらなくてもうるさい奴だな。」

 ドンナの顔が左下から右上にかけて割れている。右目は既に視力を失っている。鼻が割れ、唇も斜めに裂けている。しかし気は失えないようだ。おそらく死ぬまで、意識は失えないのだろう。

 ジョン・ドバンニがぷすぷすと面白くなさそうにドンナの体に穴を開けて行く。

 チエリアはその光景をまばたきも出来ずに見せられている。

「アンナ家最高。わお!」

 ジョン・ドバンニが快感に包まれ嘆息する。

 既にドンナに反応は無い。ジョン・ドバンニが彼に顔を近づける。

「ああ、もう死んでら。」

 チエリアの瞳からは涙が絶えない。

「すごい気迫だねえ。そんなに俺が恨めしいか? もっと恨んでええ。」

 そうふざけながら、ジョン・ドバンニは床に突き刺したレイピアを引き抜く。

 ドンナの体が、ドサリと床に崩れた。

 その死体をしばらく見下ろしたジョン・ドバンニは、やがてゆっくりチエリアの方を見た。チエリアが射るような目でジョン・ドバンニを睨みつけている。

「嬉しいねえ。その調子だ。でも、今日はもうおなかいっぱいだ。これ以上は食べきれないよ。」

 そう言うとジョン・ドバンニはチエリアに近づく。腰から短刀を抜く。無造作にチエリアの髪を一部切り取る。

「後は明日にお預けだ。こいつがあれば離れていても、チエリア、君は僕のものだ。」

 そう言って切り取った長い髪の毛を、いとおしく祈りを捧げるように胸に当てる。

「げげ、汚いなあ。」

 チエリアの髪がジョン・ドバンニの胸に付着したドンナの血で汚れてしまう。

 ジョン・ドバンニはそばにいるチエリアの着ている服でドンナの血を拭こうとする。

「まいっか。」

 すぐに面倒くさくなったのか、あっさりと諦める。今は充足して大概のことがどうでもいい気分なのだ。

 そしてチエリアを見つめる。

「明日の晩、うちにおいで。待ってるぜ。」

 唾液だらけの唇でチエリアにキスをしてからあっけなく振り返ると、ドンナが入ってきた扉に向かった。そしてチエリアが床に崩れ落ちる。


朝から容赦のない光が地上を焼いている。ここは川の中州にあるとは言え、真夏には相当の暑さになる。さすがに日の出、日没の前後には涼しい川風が吹くが、夏の日は早く上がりすぎて恩恵がない。加えて虫が煩わしい。周囲を川に囲まれたこの島にはそこここに水溜まりがある。そこで蚊が発生する。夜に部屋に紛れ込んだ蚊に耳元を飛び回られるほどうざったいことはない。真夏は寝苦しい夜が続く。

『ダンダンダン!』

 今朝はこの意味不明の音だ。

 士官になったからには朝は礼儀正しい部下のキビキビとした声で起こされるものと思っていた。

『ダンダンダン!』

「少尉さん!」

 少なくとも同じ階級で軍に入隊した父からはそのように聞かされていた。快適な目覚めの話だ。

『ダンダンダン!』

「起きてくれ!大変だ!事件なんだ!」

 仕方なくベッドから這い出す。

「今行く、今行くから少し待て。」

 無様な下着姿に軍服の上だけを羽織って戸口に立つ。

 ここへ赴任して二ヶ月が経った。職務は街の治安維持だ。街の名はリンダスプール。リン川の中州に浮かぶ島に作られた街の名だ。

 正真正銘の閑職だ。この街には犯罪がほとんど無い。街は巨大な歓楽街で、一見ドロドロとした犯罪組織の巣窟のように思えるが、ロスガルトとミサリアの国境線に位置しているという地政学的な理由から、両軍の干渉がバランスし、犯罪組織が根付かなかったのが実際だ。そもそも街の住人以外でこの町を彷徨くのは両国の国境警備隊員くらいのものなのだ。もちろん職業としての酒場や娼館などがひしめき合う街ではあるが、両軍の管理が行き届いているので、彼らの中に進んで諍いを求めるものはいない。街の由来にもある女神『リン』の作った神がかり的なバランスの中にある地域と言えた。

 扉を開けるとこの区画の長を任された中年の男が立っている。

「少尉さん、大変だ、人殺しだ。」

「何て?」

 さすがに気の緩みきっている彼も、その一言に目を見開いていた。

 現場はアパートの一室だった。朝、いつものようにその家を訪れた家政婦の女性がそれを見つけた。

 部屋には二体の死体が。家政婦の話によると、現在のその部屋の居住者であるロスガルト軍属の男と、その婦人(恐らくは愛人)である。その部屋はロスガルト軍が借り上げている部屋で、中級以上の士官が1から2ヵ月程度静養に訪れるのに使われていた。

 彼を起こしに来た男の案内で、彼は部屋に踏み込んだ。二部屋続きの部屋で、奥の部屋の入り口に男性の死体が転がっていた。これが件の軍属のものだろう。さらにその部屋の奥を覗くと、そこでは既に一人のミサリア軍人が殺人現場の調査を始めている様子だった。軍服は自分と同様、尉官クラスのものだ。

「失礼、ロスガルト軍でリンダスプールの治安維持を担当している、クリスティアン・ケルナ少尉です。」

 彼は男性の遺体をまたぎ超して、そのミサリア軍人のすぐ後ろまで進む。背中に声を掛け、相手の反応を待つ。先程の顔役の男は死体を見たくないのだろう、既に部屋を出て行った様子だ。

リンダスプールはロスガルト、ミサリア両軍の管轄下にあるので、事件が発生した際も両軍の担当者が協力して捜査に当たることが義務づけられているのだ。だが、これまで二ヶ月事件らしい事案は一件もなく、彼がミサリアの担当武官に合うのはこれが初めてになる。

 声を掛けられたミサリア軍人が振り返りながら立ち上がる。デカい。まるで、彼の前に壁が立ち上がって行くようだ。あっという間に彼が相手を見上げる。そして更に驚いた。

 透き通るような白い肌の女性だった。高い鼻と長い睫毛、大きな瞳、面長の顔は小さくバランス良くまとまっている。左右のバランスも完全なシンメトリーに見える。ここまで完璧に左右の一致した顔は見たことがない。まるで女神のように美しい。

「タチアナ・ブルイギン中尉。」

 彼を見下すような視線で、自分の名前と階級だけを発音したその女性はそれっきり口をつぐんだ。仕方なく彼の方から握手を求める。彼女は少し考えてから右手を出した。軽く握ると凄まじい握力で握り返してくる。

 数秒握ってから彼女はパッと手を放すと再び彼に背を向けてしゃがみ込んだ。彼もそこをのぞき込もうとするが、彼女の背中が広くてよく見えない。

 彼がのぞこうとすると、彼女はさっと手にした布の端を放して何かを隠すようにした。

「被害者だ。服を着ていない。」

 ぶっきらぼうに言う。

「いやいやちょっと見せてくれよ。」

 彼が彼女の横にしゃがみ込み、床に敷かれた布を捲ろうとすると、彼女が遮った。

「女性だ。死者の尊厳は保たれなくてはならない。」

「いや、待ってくれ、僕だって軍の仕事で来ている。状況を見届ける責任がある。」

 彼女は首を彼に向けて瞳をのぞき込んでくる。数秒沈黙する。

「済まない。私も動転しているのだ。」

 彼女は立ち上がると場所を彼に譲った。

 その遺体には胸の辺りに刺し傷があった。致命傷と判断する。彼も軍人だ、死体は見慣れている。彼は胸の前で指を使ってクロスを描くと死者に祈りを捧げた。布を戻す。

 立ち上がり振り向くとタチアナは既にもう一人の男性の遺体の方の検分に取りかかっていた。彼も近づく。近づきながら部屋を見回す。置いてあるものなどに特に違和感は無かった。どこかの教会で購入した小さな絵や、そんなどこにでもあるようなものばかりだ。

 こちらの死体は酷い有様だった。体中を滅多切り、滅多刺しにされている。よほどの恨みか、切りつけることに喜びを感じている人間の犯行だ。

「こっちが本命かな。」

 彼がつぶやくと彼女が彼を見る。

「殺し方が執拗だ。」

「そうね。」

 そして彼女が立ち上がった。

「捜査は任せます。」

 きっぱりという。

「おいおい、待ってくれよ、そりゃ無責任ってもんだ。」

「彼はロスガルト軍人です。貴軍内での人間関係が原因と考えるのが自然でしょう。そちらで捜査して下さい。」

「そりゃそうだろうけど、一応はさ、例えばこの辺りの住人に話を聞いたりすべきだろ?」

「…。分かりました。まずは貴方の報告を待ちます。この辺りの聞き込みを行なって下さい。」

「ちょっと待った。僕一人でかい?君は聞かなくていいの?僕は嘘を言うかもしれないよ。この事件の犯人は実は僕で、勝手な目撃証言をでっち上げて、自分の犯行を隠すかもしれない。」

 彼がそう話すと、タチアナはびっくりした表情をした。彼が初めて見る彼女の感情表現だった。顔が整いすぎているほど整っているので、著しく可愛い。

「あなた、えっとお名前は…。とっても賢くていらっしゃるのね。」

「クリスティアン。」

「そうそう、クリスティアンさん。でも今日は時間がありません。」

「時間?こいつの捜査があんたの仕事だろ。それ以上に大切なことがあるのか?服でも買いに行くか?」

「亡くなった彼はロスガルトの軍人です。もしミサリアの兵士なら軍が責任を持って葬儀を行ない埋葬します。ロスガルトでも同じ事をするでしょう? しかし彼女はそうではありません。私の所に来た報告では、彼女は妾である可能性が高いとのことです。家族ではありません。ロスガルトでは彼女をどう扱いますか?ミサリアであれば、遺体の引き取り業者にこのままいくらかの最低限のお金を渡して引き取らせます。そして恐らく彼女は、何も着せられないまま、男達の手に渡り、運が良ければ葬儀も行なわれないまま、どこかの墓地の穴の中に投げ込まれるでしょう。でも実は下劣な嗜好の男共に陵辱されて、川か野原にでも捨てられる可能性の方が遙かに高いのです。違いますか?犯行時間が遅かったのか、幸い、まだ硬直が進みきってはいないようです。今のうちに服を着せて、どこかの教会に運び弔ってもらいます。私にはその時間が必要です。」

 無表情に話すタチアナを見上げながら、彼は嘆息する。確かに彼女の言うとおりだ。

「分かった。あんたはそうしてくれ。費用はあんたが持つのか?軍では出さないだろ。そんな金。」

「そのつもりです。致し方ありません。」

「半分は僕が出す。後で請求してくれ。」

「いいのですか?もしかしたら私は一切そのような事はせず。只のような金額でこの遺体を質の悪い業者に引き渡して、シラッと貴方にお金だけ請求するかもしれませんよ?」

 クリスティアンは少し目を見開いて驚いた表情を見せた。彼女を見返すが、無表情のまま微動だにしない。今のあれが、ジョークであるのか、そうでないのか、判断が付かなくなる。

「あ、ああ分かった、欺されても文句は言わないよ。とにかくその女性はあんたに任せた。僕は周囲の聞き込みに行く。これは仕事だ。それでお互い円満に別れよう。」

 クリスティアンが投げやりにそう提案すると、タチアナは無言のまま頷いて振り返り、窓へ近寄った。無造作にそれを開け、力を入れすぎたのか、木製の窓が蝶番を軸にして180度勢いよく回転し外壁に激突した後、外に詰めている部下に声をかけた。

「近くの教会から人を呼んできなさい。弔ってもらいたい人がいます。」

 少なくとも、同じ仕事でも彼女には部下がいることが分かった。ミサリア軍に転職は出来ないものだろうか?待遇改善は自分の手で努力しなくては勝ち取れない。

 クリスティアンは部屋を出て、周囲の聞き込みを始めた。まずはこの建物の所有者に話を聞くべきだろう。


 クリスティアンの努力も虚しく、事件は何の進展も見せないまま、次の事件が丁度七日後に発生した。シンプルにコピペしたような、うり二つの事件だった。違ったのは今度の被害者はミサリアの軍人だった事と、殺された女性が彼の正妻だったと言うことくらいだった。

 従って今日の二人はミサリア軍人の遺体を見下ろしている。

「今度はお宅の士官だ。どういうことだ。手口は全く同じだぞ。」

「見れば分かるわ。」

「どうりで前の件で、軍隊内部での人間関係を洗っても何も出てこないわけだ。こいつらに対する個人的な怨恨じゃない。偶然、ロスガルトとミサリアの両軍の士官を殺したいほど憎んでいる奴なんかいるはずがない。」

「確率的にはほとんどあり得ないわね。ゼロとは言えないけど。」

 相変わらずの無表情で無感情な発言をタチアナが繰り返す。

「どうする? 取りあえずは昨晩のこの辺りの状況を聞いて回るか?」

「それしかないようね。でも昨晩と言うより、今朝早い時間だわ。三時とか四時とか…。」

「何でそんな時間だと分かる?」

「遺体の硬直が始まっていない。女性の方。」

 タチアナの言葉に、彼が不思議な顔をした。彼女が説明を付け加える。

「遺体が硬まり始めるのは、死後三から四時間後から。今が七時だから彼女が亡くなったのはその頃の時間以降。」

「ずいぶん詳しいな。」

 クリスティアンは横に立つ彼女を見上げて問いかけるが、彼女は目を合わせようともしない。クリスティアンは肩をすくめる。

「部屋から出て行ってくれる? 彼女に服を着せてしまうわ。そしたら聞き込みに行きましょう。遺体は、後はうちの兵が来て運びます。」

 クリスティアンはタチアナの視線に晒されて、『分かった』と返答して部屋を出た。部屋を出る際にぐるりと部屋を見回してみたが特に違和感のあるものはない。ほんの小ぶりな宗教画が壁に掛かっている程度である。

 どうもあの彼女を見上げる状況がよろしくない。見下されるとどうしても萎縮してしまう気がする。

 彼はロスガルト西部のアガとの国境に隣接した地域の出身である。祖先にはアガの血筋が混じっているのか、彼の家族は総じて背が低かった。山岳民族のアガの人々は小柄なところが特徴だ。自分が相手にするにはミサリア人はやはりデカすぎる。

 今回の現場は四階建てのアパートメントの一室だ。一階は酒場になっており、二階に大家が住んでいる。三階と四階の部屋を貸している。四階は四世帯分、三階は八世帯分の部屋があるが、埋まっているのは四階の四世帯だけだ。大家は仕方なく(部屋の設計から元々その目的で設計された可能生が高いが)、三階は日貸しに使っているらしい。分かりやすく言えば売春宿だ。

二人はまず三階に向かった。日貸しの客は用が済めば出て行ってしまう。そうしたら彼らの足取りを追う事は不可能だ。大家によれば昨晩は二件の客が三階に入ったとのことだったが、一件は日付が変わる頃には鍵を返して帰ったとのことだった。

 残りの一部屋の扉をノックすると、暫くしてやや落ち着かない声で返事が聞こえた。クリスティアンとタチアナの両方が名乗り、扉を開けるように話すと、暫く待って欲しいと返答があった。そして二分ほど待つと、警戒するように扉がゆっくりと引かれた。

「おはようございます。」

 まだ若い青年だった。二十歳は過ぎていないだろう。瞬間的に新兵と思ったが、部屋の奥の椅子に無造作に投げ出された上着の階級章をのぞき見ると、その通り階級も一番低かった。所属はロスガルト軍だ。

 クリスティアンが前に出て質問する。

「昨日の晩から今日の朝にかけてのことを知りたい。何かおかしな物音や、人物その他気になることがあったら何でも話して欲しい。」

「…特に何もありません。少尉殿、それよりいったい何をお調べで…、今は休暇中で、自分の上官もリンダスプールにおりますし、というか上官に誘われてこの町へ来たわけですし、軍規に違反するようなことは…。」

「ああ、そういうことじゃ無い。君を何か疑っているのでは無いんだ。実は昨晩、と言うか今朝早くこの上の階で人が殺されてね。それで何か物音など聞かなかったかと聞いて回っているんだ。」

「ああ、そうなんですか…。」

 青年は自分が疑われているのではないと言うニュアンスに一瞬安堵したようだったが、人が殺されたという言葉を再度飲み込んだのか、再びすぐに表情を硬くした。

「君は一人か?その、相手の女性は?」

「今は一人であります。昨晩、私が眠る前までは女性とおりましたが、寝た後に原隊に復帰したらしく、部屋の鍵が床に落ちておりました。」

 恐らく彼女は仕事が終わった後、彼が眠ったのを確認してから部屋を出て、施錠した後、床と扉との隙間から部屋の中に鍵を滑らせて戻したのだ。

「それは何時頃か分かるか?」

「さあ、時計を確認しながら行なうわけではありませんので分かりかねますが、深夜一時か、二時頃では無かったかと思います。」

 相手が上官と言うことで話す内容の割には硬い言葉遣いが、おかしくクリスティアンは笑いを堪えながら応対している。

 その時、彼の後ろから、タチアナがスッと移動した。下りの階段のある廊下の端へ歩いて行く。クリスティアンはその様子を見送ったが、階段を見下ろしたタチアナが数秒後にそこを降りて行くのを見て、慌てて質問を続けた。

「その女性とはどこで会った?」

 青年が律儀に答える。クリスティアンはその日の夕方に再び近所の酒場で彼と待ち合わせる約束をした。彼女が深夜に部屋を出たなら、何か見ている可能性がある。彼女たちにはそれぞれにテリトリーがあるので恐らく同じ時間に同じ酒場へ現れるだろう。先に誰かが連れ去らないことを祈るのみである。

「もう一度聞くが、本当に君は何も気がつかなかったのだね。もう一度よく考えてくれ。」

 クリスティアンに言われて、彼は暫く真剣に考え込んでいたが、答えは変わらなかった。

クリスティアンは青年に礼を言ってその場を離れ、階下にタチアナを追った。彼女を追って一階に降りると、通りの左右を彼女が見渡していた。リンダスプールの朝は遅いので人影はほとんど無い。

「どうした、急に?」

「誰かがいた。私たちの話を聞いていた。」

「誰が?」

「分からない。二階の窓口の部屋にいた大家も誰も見ていないと言うし、通りにももう誰もいない。まるで幽霊のような人物だ。」

「気のせいじゃ無いのか?二階の部屋にいた大家が知らないなら、誰も逃げられないだろ?だって、そう言う作りだ。三階の部屋を勝手に使われないように二階の廊下でチェックして金を取れるようになっているはずだ。」

「その通りだ。だから恐らく私の気のせいだろう。その方が論理的だ。」

 明らかに腑に落ちない様子でタチアナがそうまとめる。

 四階の住人も誰も何の物音も聞いていなかった。事件は深夜に起こっているが、リンダスプールの深夜はそんなに静かでは無いと言うことだろうか? いや、それにしても人が二人も殺されている。しかも一人は惨殺に近い状態だ。叫び声の一つもあげずに、会話程度の音量の恨み声で静かに殺されるものだろうか?

「少し論点を整理したいんだが、どこかで食事でもしながら話さないか?」

 一通りの聞き込みを終え時間は既に正午を過ぎている。クリスティアンはタチアナに提案した。珍しくタチアナは驚いたような表情を見せた。

「話があるなら、今ここですればいい。」

 タチアナの言葉に、さすがに廊下では…、と思ったクリスティアンが現場の部屋を見ると、ミサリア兵がまさに遺体を搬出して行くところだった。恐らくまだ暫く時間がかかるだろう。彼はタチアナを今一度見上げた。相変わらず無表情な瞳が彼を見下ろしている。

「わかった、また今度にしよう。何か分かったら連絡するから、そちらもそのように頼む。」

 二人はそのようにして別れた。


 再び七日が過ぎたが今度は何も起こらなかった。そして、次の事件が発生したのは九日後だった。

 繰り返して書くことが嫌になるほど、状況は前の二件に酷似していた。今度の違いは、殺された女性が、殺された軍属の男の娘だったことと、事件現場にクリスティアンの方が先に辿り着いたことくらいだった。

 相変わらず男は刃物によって滅多切りにされており、女性は全裸で床に横たわっていた。しかし、彼はその女性に、何か不自然な感じを憶えていた。始めそれはもやもやとしてつかみ所が無く見えたが、次第にはっきりしてきた。姿勢だ、女性の姿勢があまりにも整いすぎているのだ。彼女は姿勢良く仰向けに、真っ直ぐに横たわっており、両腕・両足も指の先まできちんと伸びている。前の二件の時には、既にタチアナが遺体にシーツをかぶせてしまっていたので彼にはその様子が見えなかったのだ。

 後から来た彼女が部屋に入るなり、彼はその疑問を彼女にぶつけた。

「前の二人も、こんなにきちんとした姿勢で亡くなっていたのかい?」

 その問いに彼女は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに無表情になって肯定した。

「もしかすると、我々は勘違いしていたんじゃ無いか?犯人の目的は男の方じゃ無くて、女性達にあったんじゃ?そうでなきゃ、こんな神経質に女性の遺体を、行儀良く寝かせる必要なんてないだろ?」

「でも、何のために?」

「うーん、それは分からないが…。とにかく三人の女性の共通点を洗い出してみよう。」

 そう言葉にしてから部屋の中を見回した。特に気にかかるものはない。どこの家にも普通にあるものばかりだ。前の二件の現場の様子も思い出そうとする。

「ちょっと済みません。」

 唐突に部屋の入り口の方から声がした。特段の特徴のないありきたりの声に聞こえた。

 戸口に男が立っていた。背は低くもなく高くもない。痩せているわけでもなく、太ってもいない。髪も伸ばしているわけでもなく、短く刈り込まれてもいない。ただ、度の強そうなめがねをかけているのが唯一気にかかった。今彼がいなくなったら、その眼鏡しか印象に残らないだろう。

「もうそろそろ、この件から手を引くことは出来ませんか?これ以上は危険です。」

 クリスティアンが問いかける前に男が先をとって話しかけてきた。

「何?どういうことだ?」

 男を誰何しようとしていた彼だったが、思わず男の問いかけに聞き返してしまう。

「犯人は恐ろしく凶悪な人間です。慈悲の欠片もない。おまけに非常に有能な人間だ。彼を追い詰めてもあなた方が命を失うだけです。」

「どうしてそんなことが言える?」

 クリスティアンのその問いに、男は彼の瞳をのぞき込む。

「そもそもお前は誰だ?」

「例えばその質問。その質問の本当の恐ろしさをあなた方は知らない。そんな人間があいつに刃向かって生き延びられるはずがないんです。」

 冷たい瞳でクリスティアンの心までのぞき込みながら男が言った。

「例えば、私の名前はフルハヤ・スタルツ。この名は後で忘れてもらいますが…、そもそも名前とは何だと貴方はお考えですか?」

「名前?名前は名前だ。私を他の人間と区別するために使うものだろ。」

「そう、いい答えだ。名前によって人は特定されます。それはつまり、名前を知られると言うことは、名前を知る相手の前に貴方だけがポツンと一人、裸で立つようなものなのです。その瞬間に他の人は消える。貴方は貴方の名を知る人の前では無防備にならざるを得ないのです。確かにそれが普通の相手なら問題はないでしょう。しかし敵は呪術師です。彼らの悪意が貴方一人に向けられたとき、貴方は生き残ることは出来ません。それでも闘うのですか?」

「私は闘う。無残に殺された人たちのために。」

 突然タチアナが言葉を挟んだ。フルハヤ・スタルツの視線が彼女に向かう。時間が流れる。沈黙の時間だ、フルハヤがじっとタチアナの瞳をのぞき込んでいる。どうしてか、何も言葉にする気がしない。黙っていろと誰かに命令されているようだ。

「仕方がないようですね。止める気がないならすこしだけ、私に害が及ばない範囲で協力しましょう。貴方方の心にプロテクトをかけます。それとこれを忘れないで下さい。決して敵に自分の名を名乗らないこと。」

 『そうだ!』彼の脳裏に一枚の絵が浮かび上がる。この宗教画がどの部屋にもあったはずだ。

「タチアナ、この絵だ。この絵の出所を調べよう。」

クリスティアンは大股で壁の小さな絵に近寄るとそれを手に取った。

 アルシア大陸では至極一般的な絵の構図だ。絵には二人の神が描かれている。ジークムント・フェイルとリズズ・バウの二人だ。この二人が空からアルシアに舞い降り、今の文明の礎となる知能をヒトに与えたとされる。ジークムントが前に立ち、リズズがそれに従う図が不変的だ。ただ、当然それを描く画家により絵のテイストが異なるので、それがどこの教会で取り扱われているかを調べることが可能なはずだ。

 アルシアの神話の基本は非常にシンプルだ。空から地上に降り立った二人の神が、ヒト、エルフ、ドワーフ、ゴブリン、ハーピーの五種属に同様の知恵を与え、その中で最も優秀、狡猾であったヒトがこのアルシアで一番大きな勢力を持つにいたったとされる(五種属は勢力が別れた後で人から分化したという神話もある)。そして増長したヒトの裏切りによって、二人の神はアルシアから姿を消して物語は終わり、その後は混乱した争いに満ちた世界に変貌してしまうという内容だ。

 原始的な宗教の段階では、超人的な神々が、ある程度人間らしく我が儘に世界を創世して行く構図は特別ではない。

 更に文化が発達すると、複数発生した種族と種族との境界で対立が発生し、そのため多くの戦乱が起こり、継続し、命の危険に晒されて、ギリギリで生きて、死んで行かなくてはならない人々の間では魂の救いとしての、『死後』が神を中心に語られるようになる。そして、神の帰還が世界の安定と平和をもたらすという思想が広く定着し、人を救済するという宗教のシステムが定着する。

アルシアの宗教観もこのレベルに達しており、人々は二人の神を、自分たちの魂をすくってくれるありがたい存在として崇拝している。ただ、アルシアでは二人の神にも旧来の属人的な人格が残っており、ジークムントは厳格で厳しく、リズズはおおらかで融通が利くと言うことで、一般的にはリズズの方が人気がある。しかし同時に、あくまで信頼されているのはジークムントであるという二面性もある。リズズは人気者だが、最後に皆が頼るのはあくまでもジークムントなのである。

 二人の調査の結果、絵の出所はすぐに判明した。リンダスプールの中心部にある教会だった。地下にクリプトと呼ばれる巨大な墓地があるので有名な場所だ。二人は早速そこへ向かった。

 辻を折れると正面に荘厳な教会が見える。しかしここに来るまでには大変な苦労があった。リンダスプールは迷路のような街である。というよりも迷路であると言った方が実感が伝わりやすいだろう。路は微妙に曲り、辻と辻とは複雑に交差する。いや、交差すればよいが、とにかく行き止まりが多い。歩くだけ歩かせておいて、どこにもつながらない路が多いのだ。方角を頼りに街を歩くと必ず目的には辿り着けないと言われるほどだ。また、分岐も故意と思われるような、似たような角度の特徴的な分かれ道がいくつもある。これらはこの島が元々要塞であったことに起因するとされる。上陸してきた敵を誤った方向に誘導して攪乱するのが目的と言うことだが、しかしながらこれではここを拠点にしている側も路が分かりづらく不便であったことは間違いが無い。

リンダスプールには土地があまりないので、教会の前に広場のようなものは見当たらないが、教会そのものは立派すぎるくらい巨大だ。二人は開かれた扉を、高さが4mはあるであろう扉を抜けて建物に入った。

 薄暗い室内には人がほとんどいない。平日の午後なので礼拝に来る人もほとんどいないのだろう。天井の高い巨大な室内にほんの十人程度が、整然と数多く並べられたベンチにかけて祈りを捧げているのみである。見回すと、礼拝堂の入り口横に物品を販売するスペースがある。二人はまずそこへ向かう。

 二メートル四方程度のスペースの机の上に様々なものが並べられている。祈りのための本や木製の偶像。そして例の絵もある。売り場の中央にはでっぷりと太った男が首をうなだれて座っており、寝ているのか起きているのかも分からない。

 二人は絵を確認するとお互いに頷いて成果を確認した。売り場に背を向ける。

「何も買わないのか?」

 背中から声をかけられる。振り向くと男がこちらを見ていた。表情の暗い陰鬱な男である。酷く太っていて皮膚には数多の爛れがあった。あまり衛生状態のいい場所に住んでいないように思えた。

「あんたら何者だ?」

「軍の者だ、殺人犯の捜査をしている。」

 クリスティアンが男の問いに答える。

「そうじゃない、どこの誰かと聞いてるんだ。」

「軍の者だ、殺人犯の捜査をしている。」

 クリスティアンが先程とまるで同様に質問に答える。

「だから違うって、あんたらの名前を言えって言ってるんだ!」

「軍の者だ、殺人犯の捜査をしている。」

 クリスティアンが再びオウム返しに答えた。その男もさすがにおかしいと思ったのか、質問を止める。クリスティアンの瞳を深くのぞき込む。暫く沈黙する。二人の時間も止まったようになる。

「小賢しい、プロテクトするかぁ。相手は俺様だぜえ。…まあいい。相手になろう。」

 その言葉と同時に二人の時間が動き始める。男は再び俯いて無言になる。二人の背後でガタガタと音がする。二人が慌てて振り返る。

 礼拝堂の中の十人ほどの人間が立ち上がりこちらへ向かって歩いてくる。手には何か棒のような物を握っている。明らかに殺気がある。

「なんだおい、…どうする?」

 クリスティアンが不安そうに声を出す。突然の異様な雰囲気だ。つい先程まで、静かに神に祈りを捧げていた人たちが、今は殺気だってこちらへ向かってくる。売店の男の方へ一瞬振り返った隙に何が変わったというのだ。

「死ぬつもりはない。」

 タチアナが冷静に言う。

 二人は慎重にこの教会の入り口の方へ後退する。いつの間にか閉じられた扉を押し開けようとするが、扉は施錠されている。扉に背を向けて追い詰められた形だ。

 次第に相手の様子が分かってくる。教会内は暗いとは言え、天井の明かり取りから十分な光が差し込んでいる。しかし、歩いてくる人影は全て、全て真っ黒な影の塊だ。全ての物を吸い込んでしまうような、澱みのない黒。濃淡のバラツキのない黒。クリスティアンが思わず息をのむ。そして手にしているのが剣だと分かる。

 クリスティアンとタチアナの二人がほぼ同時に抜刀する。タチアナが走り出す。整然と並んだ木製の椅子の背もたれに飛び乗り、その上を飛び跳ねながらこちらへ迫り来る黒い影に斬りかかる。影も椅子に飛び乗り、長い剣を振りかぶってタチアナに斬り返す。タチアナは背もたれの上を疾走しながら、そして跳躍し、無言のままその影達を横に薙ぎ払った。そして背ももたれに着地する。切られた敵はガラスの塊が砕けるように、黒い粉々の破片となり、破片は更に細かくなり消えて行く。エネルギーが加わるのは切られる瞬間のはずなので、砕けた影の破片が、更に細かくなって消えて行く様子は、力学的には不自然である。しかしながら恐らくは破壊される事による新生面の発生により、例えば活性な面が大気中の元素と反応して元々の結合を破棄して分散して行く様子なのかもしれない。恐らくこの影は非常に不安定なバランスの上で成立しているのだろう。

彼女はすぐに次の相手を探すために周囲を見回した。

 クリスティアンも影と対峙している。こちらは正面に祭壇のある通路のど真ん中だ。通路の先には、広い教会の中央の祭壇が巨大に構えている。それは彼の頭上に覆い被さって来るように威光を放っている。

実はタチアナと違い、残念ながら彼はあまり剣術を得意としない。長い剣を振り回す敵を相手にそれをかわしながら何とか切り込む機会を狙っている。既に前には二人の影がおり、形勢は決して良くない。いや、明らかに劣勢だ。それでも何とか相手の剣をかわして切り込む。ザクリとした手応えがあり、剣が黒い影に突き刺さる。

そこへ横から切りかかられる。とっさに剣を合わせようと捻る。人が突き刺さったはずの剣がほとんど何の抵抗もなく、ぐるりと動く。自分で捻ってみて、そのことに驚いたりする。

結果的に剣先に刺さっている真っ黒な男を、切り込んできた男にぶつけるように振り回して、その陰に入る。相手の剣が、既にクリスティアンの剣に突き刺されている男を貫き、男が酷く醜く低い声を上げる。クリスティアンはその男を、相手の方に蹴り出すと、自分の剣を一度引き抜いて。相手の肩口へ切りつけた。そして距離をとる。敵は粉々に砕けて大気に帰って行く。周囲を見渡す。

 タチアナを見つける。数体の影に囲まれている。しかし彼女は強い。剣を合わせながら、少しずつ敵の数を減らして行く。そして見る間に一対一になる。

 最後の相手は特別だった。これまでの影達とは速度もパワーも別格だ。剣を合わせたときに押し負ける感覚がある。彼女は幼い頃から剣術を習わされてきた。剣術だけではない、馬術も、槍術も、弓も。学問も同じだ。医術や経済、それに帝王学だ。彼女はミサリア北部の豪族の娘である。豪族と言ってもある程度の範囲を統治していた地域の王の娘だ。父に息子はなく、自分と妹はどちらも将来に王となるべく教育を受けて育った。しかしその生活も、数年前に領土をミサリアに占領されて終了した。母は自分たち姉妹を連れて民衆に紛れ込み、難民となってミサリアの首都へ流れ着いてから将来に絶望したまま命を失った。自分と妹は死ななかった。

戦争によって失った軍人の補充をミサリア軍は常に必要としていた。そこで二人は軍に志願し、親の敵の敵軍で生き延びることを選んだ。能力の劣る自分はリンダスプールという僻地の閑職へ任官し、妹は今、ミグーンの王城の警備に当たっているはずだ。しかし、そんな話は、今ここではどうでもいいことだ。

 意識を戻す。次第に疲労して行く自分を敵は待っているようである。決して自分を休ませないよう、引きながら押し、押しながら引いてくる様は敵ながら見事だと思う。ガクン、と体がバランスを崩す。椅子の背を踏み外したのだ。椅子と椅子との間にはまり込むように倒れる。

「うおおおおお!」

 声がする。声を出す。腹の底から絞り出す。タチアナが転倒した。急げ、間に合う。

 クリスティアンは影に飛びかかった。力一杯跳躍し、上段から影に斬りかかる。全身の力を込めて剣を振り下ろす。確かな手応えと共に、体全体で影に激突する。衝撃がある。しかし一瞬だ。影が砕け散り。彼は突き進んで床に固定された椅子の列に激突する。ボキボキとおかしな音が腕や脚から聞こえるようだ。彼は椅子を破壊しながら次には床に激突した。

 タチアナは椅子の陰から周囲を伺った。そこは不思議なくらいに以前と同じ教会の礼拝堂の中だった。人がちらほらと祈りを捧げているのが見える。真っ黒な影法師ではない。ちゃんとした、目も鼻も耳もある普通の人々だ。彼女は立ち上がる。今周囲には脅威は存在しない。そして椅子を跨ぎ越しながら彼の所へ向かう。破壊された椅子と椅子との間をのぞき込むと、そこにその人が横たわっていた。彼女が手を差し伸べると痛々しい表情で彼が反応する。

「タチアナ…。」

 体中が傷んでいるかのように痛々しい呻きが聞こえる。

「ターニャ。」

 彼女が返事をする。彼に差し伸べていない方の掌は自分の胸に当てている。

「え?…ああ、あ、ならこっちはクリス。痛っ。」

 タチアナが腕を引くが痛みで彼は起きられそうもない。体格のよい彼女はひょいと彼を持ち上げて、子供を抱くように胸の前に抱いた。

「おい、おい。」

 彼が慌ててもがこうとするが、彼女は無表情のまま自分の唇で彼の唇を塞いだ。

「クリスとターニャ!」

 二人の体がビクリと弾んだ。そしてそのまま動きを止める。

 椅子に座り、神に祈りを捧げていたと思っていた一つの影が立ち上がる。不細工に太った、不潔な感じの男性だ。皮膚は爛れ、髪は絡まり合って無造作に伸びている。異臭がする。先程の売り子の男性だ。

 彼はゆっくりと動きを止めた二人に近づいた。

「よくも散々勝手なことをしてくれたな。」

 そしてつばを吐きかける。

「この俺様に嘗めた真似した償いはきっちり付けてもらうぜ。」

 そして男が鋭い目で二人を凝視した。

 彼は二人の心をさぐっている。二人が何者で、どのような意図でここに来たのか。

『ほお、二人とも嘘はついてねえんだ。しかし、この男…。そうそう、名前は、名前は、…フルハヤ・スタルツか。頭でっかちな奴だ、理屈は知ってても実際の人の脳味噌の中のことはちっとも分かっちゃいねえ。そんな簡単に人の記憶を完全に消せるか。俺様じゃねえんだ。でも、興味深い、興味深い。』

 そしてそんな思考に伴い、男はだらだらとよだれを垂らす。二人の中に発見したフルハヤという男によほど興味があるようだ。既に目の前の二人の男女には興味を失っている。

『自分以外の呪術師なんぞに会うのは、もう何十年ぶりか。しかも色々面白い事を知っていそうだ。どこにいる。もう逃がさんぞ。』

 そして男はふらふらと教会の入り口に向かって歩き始める。歩き始めて、ふと立ち止まる。タチアナとクリスティアン、その二人に振り返る。

 醜い顔の奥に正気を感じさせる瞳が少しだけ見える。この男の中にも、まだ普通の部分が残っているのかもしれない。

「…。」

 抱き合う二人に薄く微笑んで、男は再び出口に向かう。

呪術師は世界に一人しか必要ない。その最後の一人には、生き残るたびに人の心の汚い部分ばかりが堆積して行く。今度の奴を取り込んだら、おればどれだけ邪悪なモノになるのだろう。彼はその自分を夢想する。彼はジョン・ドバンニ、アルたちがリンダスプールに来る遙か以前、ドンナ・アンナが殺されるよりも以前の事である。


 冷たい雨が降っている。激しくでは無い。ぱらぱらと、そう、傘を差すほどでは無い。

 船は川を渡って行く。目指すのがリンダスプール。三人の行き先だ。

 昨日はあの忌々しい悪魔のお陰で移動が遅れた。夜通し歩いてようやく明け方にポペットの森を抜けてここへたどり着いた。幸い妖獣の襲撃は受けなかった。それどころか森は静まりかえりまるで墓場のようだった。森中の生き物が、ビルジ・ヴァルメルの死を悼んでいるのだとドリスは思った。

 もうすぐ岸に着く。岸に上がればリンダスプールだ。ジュニアは緊張しているようだ。初めての国外と言うことらしい。ミサリア兵にも初めて会う。

 船が岸に着く。乗っているのは三人だけだったので、のんびりと立ち上がる。

「ドリスロウ、また帰ってきたのか? 尻の落ち着かねえ奴だ。」

「うるせえ、川に尻のへばりついてる奴よかましだろ。」

 顔見知りの船頭に軽口を叩く。この町では彼女は男の顔で過ごしてきた。その方が生きやすいからだ。いや、ほとんどの場所で男の方が楽だ。

「ほら三人分だ。」

 船賃を渡す。船頭が嫌な顔をする。

「これじゃ二人分にもならねえ。」

「けちけちすんなよ、たまに帰ってきてやったんだ、少しはサービスしやがれ。」

「おめえはいつもそうじゃねえか、そんなに銭にうるせえんじゃ、嫁の来てなんか金輪際ありゃしねえぞ。」

「大きなお世話だ。それより、ここの船頭は女房に何の秘密も無かったっけな? あれれー、おっかしいぞー。」

「うるせえうるせえ、さっさと行きやがれ、この銭の亡者が!」

戦乱の時代が終わってまだ長い時間が経ったわけでは無い。力が支配する世ではどうしても腕力の強い男に頼らなくてはならないのは仕方の無いことだ。かといって、いつか平和が永く永く続けば女の方が生きやすい時代が来ると思えるかというと、彼女にはそんな世の中、まるで想像も出来ない。

一番に岸に上がる。振り向くと、我らがパーティーの頼もしい仲間たちが船から上がってくる。

「割り勘だからな、船賃。」

 そして笑いながら手を出す。

 ドリスを先頭に路を歩き始める。冷たい雨は止む様子も無い。

「ドリスロウ、この辺り、詳しいのか?」

 アルが尋ねる。ジュニアは黙って後から付いてくる。勿論両手では革球を握り続けている。

「ああ、何度か住んだことあるからな。何でも任せてくれ。取りあえずは寝床だ。俺の知ってる宿屋でいいか?」

「安くて、清潔で、飯の旨いのが条件だぞ。」

 アルが大きな声で突っ込んでくる。機嫌良く振る舞っているが、そうとう落ち込んでいるはずだ。

ビルジ・ヴァルメルを死なせたことを悔いているのだ。アルと同じ白魔術使いの彼女には、アルのそんな感情がひしひしと伝わる。

 彼女は二人を先導して行きつけの宿に向かった。

町の中は細い路地が、平面に広げた蟻の巣のように入り込んでいる。路自体が緩やかにカーブしていたり、中途半端な角度で折れ曲がったりしている。路同士も様々な角度で交差しているので、方角を正確に把握することが非常に困難な構造になっている。従って、非常に路に迷いやすく、感覚で歩いていたのでは思った方角に進むことはほぼ不可能である。町の住人でさえ、同じ目的地に行くためにはいつも同じルートで行かないと路に迷うと声を揃える。

このような不便さを改善しようと、数年前に、街路の至る所に、目印が設置された。路の交わる場所には、角に必ず1.5mほどの高さの石柱が立ち、その上に何らかの生き物の石像が置かれている。それは、ウサギだったり馬だったり、ドラゴンだったりと様々で、同じ種類の生き物で同じ姿勢のものは無いとされる。この町独特の住居表示で、「鶏―犬」と言えば、鶏の像から、犬の像までの間の筋と言うことを意味する。この像は道案内にも使用され、「猿―後ろ向きのドラゴンーネズミー上に昇る鰻―横たわる馬―鷲―……」などと目的地までの経路を教えるときに役立つ。ただ小さな町ではあるが、路の交差する場所の数は数百を数えるので、住民でさえ通常地図を携帯して像の種類を確認しないとどのように進めばいいのかが分からなくなるのが当たり前である。また、進む方向の次の像が何かが分からないとどちらへ行っていいのか分からないので、石柱には次の石像の名前が文字で書かれているが、彫り込んだ文字は消えかけているものもあり、やはり地図は必須である。

そんな理由から、町中のどこのどんな店でも、娼館においてでさえ、市街地図を安く販売していた。値段については広告などを入れて価格を抑える工夫がされている。リンダスプールでは深夜でも全ての店が同時に閉まることはあり得ないので、地図を無くしても必ずどこかで入手が可能だった。

早朝の街は人通りもまばらだった。ただそれでも路が細いこともあり、度々人と近距離で擦れ違った。ドリスの顔見知りのものもいれば、明らかに夜を徹して遊んでいたと思われる顔色の悪い男達も多くいた。

前から歩いてきたそんな飲んだくれの男達とぶつかりそうになったドリスが振り向きざまにアルに酒瓶を一本渡す。

「飲むかい?」

 アルがきょとんとする。ドリスはコルクを捻って瓶を開けるとラッパ飲みで中身をあおった。

「今の奴らから頂いた。あたしの本当の仕事はアンタの両手がよく知ってるでしょ?」

冷たい雨が細い路地の石畳を濡らす。元々川の中州であるからか、水はけがとても悪い。町の中心から周囲の川に向かって勾配がついており、水は川へ流れ出すように設計されているが、既に長年の時間を経て地面はウネウネと歪んでいるため、そこここに水溜まりが出来ている。リンダスプールの街路は細く曲がりくねっているため、荷駄での物の搬送はほぼ不可能で、重い物が路地を運ばれることはまれだったが、それでも長い年月を経て人の踏みつける足の重みによって、路は激しいと言えるほどに歪んでいた。

 徹夜明け、雨の中、そんな悪路をようやく歩いてようやくたどり着いた宿屋は不運なことに満室だった。当然宿泊を断られる。紹介された近くの別の宿屋まで更に歩くことになった。大した距離ではないが、ドリスは、何ともついていないなあと思う。

 店の主人に「猫―鶺鴒―十姉妹―鯰」と書いた紙と町の地図を渡される。ところが不思議なことに、ドリスはその場所にこれまで行った記憶が無かった。リンダスプールにはこれまで、断片的だが何度も住んでいて、期間をつなぎ合わせればもう大分長いことになるはずだった。だが、その場所には、そういえば行ったことがない。

「行けるとは思うけど…。行ったことはないな。」

 正直にそう言うと宿屋の主人はびっくりして、有名な場所なのに、という。何でも、古い教会が建っている観光スポットらしい。

 ドリスのメモをアルがのぞき込む。

「やべえ、俺、読めねえんだった。

 ジュニアは相変わらず我関せずという感じで、ニギニギを続けている。剣術の足しにならないことには興味がほとんど無いのだろう。今も、誰かが宿に連れて行ってくれるなら、よろしく、と言ったところか。

 ドリスは仕方なく、宿屋の主人に一つ二つ質問して、答えと地図を見比べてから『分かった』と言った。

 冷たい雨の中、ドリスは戸惑いながらも、すれ違う人に路を聞いたりしながら、目的の宿屋へ進んでいった。何だか頭が痛くなりそう。何故かそんな予感がする。そういえば何だか肌寒い気もする。

 ドリスはいつしか、何故か気持ちがざわざわと落ち着かなくなり始めている自分に気づいた。気のせいと思っていた頭痛が、少し

し始めたようだ。

 昨日からほとんど寝ていないし、そんな状態で酒を飲んでしまったこともあり、具合が悪くてもおかしくは無い。彼女は足元を見ながら、しっかりと歩くことにした。しかし見下ろす地面は様々に歪んでいる。

 いつの間にか、歩を進めるごとに、頭痛が激しさを増す。こんな酷い頭痛は、今までに無い経験だ。目的の宿屋はもう目前だ、着いて部屋に入ったら少し休もう。こんな遊び所満載の町でアルのそばにいられないことが気になるが、拘束するわけにも行かないのでどうしようも無い。

 ドリスは少し歩く速度を落として、アルと並んだ。しばらくするとアルが自分の不自然な様子に気づいてくれる。

「頭痛が酷いの。」

 先んじて、甘えるように言ってみる。

「もう少し頑張って。」

心配そうに心悩ましてくれるが、でもそうじゃないんだってば! もっともっと心配して欲しいの!

 イライラと心で不満を言うが、だがそんな感情も更に悪化する頭痛に、今やそれどころでは無い。頭がズキズキとますます具合が悪くなる。

 ようやく宿屋を見つける。路に面した観音開きの扉は閉じられていたが、それを押し開けてロビーへ入る。ジュニアが続く。アルは何か突然心がザワリとするのに驚いて周囲を見回した。既に二人は宿屋の中だ。

 アルが路を振り返ると、黒衣の女性が足早に歩いて行く後ろ姿が見える。まだ若い女性に思えるが、雨の中、黒いショールを頭からかぶった後ろ姿では判別出来ることは、ごくわずかだ。

 だが明らかに彼女には何か、不吉な雰囲気がまとわりついている。何かに取り憑かれているようだと言った方がしっくりとくるかもしれない。アルは雨の降る路の中央で立ち尽くしたままその女性の背中を見送った。

 あの悪魔と黒魔術師が自分の心に入り込んできたときの感覚に近かった。

 路の遙か遠くで、女性が足を止める。アルの視線に気づいたかのように、彼女は進むことを止めた。

 心臓がドキドキと脈打つ。これまでに感じたことの無い不思議な、圧迫されるような感触を受ける。

 そして彼女がゆっくりと振り返る。

 黒いフードの下の顔がこちらに振り向いてくる。それは黒く爛れた顔。男とも女とも見分けのつかない醜悪な顔。口元が歪に笑っている。欲望や恨み嫉み、そういった、目を背けたくなるような心の負の部分をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて具現化したとでも言うのだろうか。その顔がアルをじっ、と見ている。

 スッと視界がぼやける。醜い顔が、美しい端整な顔立ちに変わっている。しかしどこまでも寂しそうで、助けを求めるような、見るものの心を切なくする表情だ。あの恐ろしく醜い先程までの顔は、いつの間にか彼女の肩に乗った黒いカラスの顔になっている。人の醜さを象徴するような顔を持つ、不自然なカラス。そのカラスが翼を広げる。

 アルの目の前で、突然黒い鳥の羽ばたきがおこる。思わず両手で顔を守る。しかしそれは一瞬の錯覚だ。アルのそばには何もいやしない。再びあの女性を探すと、遠くの角を折れる姿が一瞬だけ見える。



「アル!」

 宿屋の扉を半分ほど開けてジュニアが声をかけてくる。

「泊めてくれるそうだ。」

 相変わらず用件しか話さない男だが、アルの様子がおかしいのに気付いたのか、路へ出てくる。

 無言で、アルが見つめる同じ方向を見る。

 はっとしたアルが、ポケットに突っ込んでいたこの町の地図を引っ張り出して、ぐしゃぐしゃのその紙を広げる。断られた宿からここまでの道筋がペンで描かれている。乱暴に丸が付けられたところが今の場所だ。

 地図を目で追う。その先の辻。

 『黒い蜥蜴』(もちろんアルには読めない)と書かれたT字路。脇に折れたその先は。

「ジュニア、ここは何?」

 ゴミゴミとしたリンダスプールの市街地の地図に、ぽっかりと穴の開いたような、大きな区画割のスペース。

 ジュニアがアルの指先のその場所に目を凝らす。

「墓地。いや、教会。用か?」

「いや。」

 そこで言葉を句切る。

「でも多分行くことになる。」

 ジュニアは不思議な顔をしたが、すぐに冷たい雨の降る空を見上げる。心持ちニギニギのピッチが速いことをアルは見逃さない。

「中へ入ろう。…アル、お願いがある。後からケンドア様が来るだろ。僕はあの人と一緒の部屋でいいかな?頼む。」

 ジュニアが深々と頭を下げる。アルはあまりの突然さに、ジュニアの肩に手を回して自分の顔が彼に見えないようにする。笑いをかみ殺す。こいつ天然の上に、カ・ワ・イ・イ。

 ジュニアが言い訳がましくまだ何かを言っている。しゃべれるじゃん。

二人は宿屋へ入った。路を見下ろす建物の屋上から、数羽のカラスがその様子を見下ろしている。


 あの雨はまだ降り続いている。音も無く静かに降る冷たい雨だ。

 ドリスは部屋に入るとすぐにベッドに横になり眠ってしまった。時々うなされて声を上げるが目を覚ますことは今のところ無い。

部屋は宿屋の二階に二室確保した。遅い朝食をジュニアと宿屋のロビー横の食堂で済ましたが、部屋に戻ってもドリスの様子には変わりは無かった。

アル自身も昨晩の寝不足から、うとうととベッドの掛け布団の上で寝てしまう。

夢を見る。眠れない夢だ。何故か眠れない。気持ちがワサワサとして落ち着かないのだ。暗い室内で、諦めがちに目を開く。何も見えない、真っ暗な天井を見つめる。そこに浮かび上がる顔。例の醜い顔。

アルはガバリと上半身を起こした。呼吸が荒い。心臓が早い。息が苦しい。

息苦しさが更に酷くなる。どれだけ吸い込んでも肺に空気が入って行かない。アルは駆け出すようにベッドを降りて木製の鎧戸を押し開けた。

冷たい雨と、冷たい空気が流れ込んでくる。アルの肺が思い切り空気を吸い込む。そして咳き込む。

一拍遅れて、アルの耳に、爆発音のような雑踏のざわめきが堰を切ったように飛び込んでくる。音の波を大量に重ね合わせた末の、意味不明の振動が鼓膜を振動させる。ごちゃごちゃと、いろいろな音が重なり合い、こんなのもう元の音源に展開することは不可能だ。耳から脳に伝達される電気信号は、はなから意味を成していない。

朝方とうって変わり、路には多くの人が歩いている。狭い路を挟む、両側の店々には煌々と灯がともり、人が忙しく出入りしている。多くが軍服だ。アルの知るロスガルト軍のグレイのものと、見覚えのない方がミサリア軍のものだろう。こちらは薄い茶色だ。軍服を着ていないのはほぼ全てが着飾った女たちだった。リンダスプール、女神リンのハーレムという名の歓楽都市の風景だ。

アルは漠然とその賑やかな通りの風景を見下ろす。

人の群れ。色の群れ。臭い息の蒸れ。人々の欲望を凝縮して出した絞り汁を更に濾過して集められた、ピュアな、濁りの無い、純度の高い、しかし濃厚な蜜のような邪な欲望の塊だ。ビバ、リンダスプール!

路の上手から下手へ、下手から上手へ、無制限にぐらぐらと沸きかえる熱湯のような、無秩序で無責任な流れが目前に渦巻く。そしてその時、その流れに異質な者が加わる。一人、幾何学的な定義従った直線を描きながら人影が流れを貫いてゆく。

アルにはその人影に見覚えがある。先程、宿屋に入る前に見かけた、あの黒いショールをかぶった女性に違いない。

で? 俺はどうするのだ?

問うまでも無い。既に掌はドアにかかっている。気になることを放っておけるか。

階段を駈け降り、ロビーを駆け抜けて路へ出る。冷たい雨が降りかかる。

アルは人波を掻き分けて例の角へ、『黒い蜥蜴』だ。T字路の一つの角に、1.5m程の高さの、20cm角の石の台座が立てられており、その上に、赤黒い色のトカゲが乗っている。アルが想像していたトカゲの姿よりももっと寸胴だ。足は短く表皮はボコボコとしている。黒いトカゲなどと言うので、もっとスマートなものを想像していた。

曲がった先の路地を見る。20m程先に巨大な鉄柵の門があり、その向こうに鉄柵よりも更に高さのある巨大な観音開きの扉が見える。扉は、石造りの高い建物への入口だ。

ジュニアが言っていた、教会、なのだろう。

建物に近寄ったアルは、鉄柵に隙間を見つける。南京錠が外れて人が通れるほどに少しだけ開いている。もちろん中に滑り込む。

数段の階段を上がると次に目の前にあるのは巨大な木製の扉だ。これを開けなくては建物の中へは入れない。アルは迷うことなく扉に体重を掛けて押した。

ギイと音がして巨大な扉が内側へ動いてゆく。扉が開くのに従い、暗い室内に歓楽町の灯が差し込む。

中は天井の高いホールだ。木製の作り付けの椅子が整然と並んでいる。数百人は入れそうだ。高い天井を見上げるとうっすらと絵画を認識する。明かり取りの窓から差し込む光は冷たい雨のせいで弱々しく絵の全貌はつかめないが、明らかにそこには何かが描かれているようだ。

ここアルシア大陸では、ジークムント・フェイルとリズズ・バウと言う二人の神様と、自然を象徴すると考えられる擬人化された数多の神が混在する。大筋としては、厳しい自然の中で苦労を強いられてきた人々が、後から現れたジークムントとリズズにより、苦難から解放されて行くという筋立てだ。ジークムントは有能だが厳格な原理主義者で融通が利かず、リズズの能力はジークムントに劣るが、おおらかで柔軟で寛容な優しい神だ。

この教会にも正面の祭壇に、二神を象徴する、白い立方体と青い円柱とが並べられている。

室内には誰もいないようだった。人の気配はまるで無い。人がいればアルが気付かないはずが無い。

アルはキョロキョロと左右を見回しながら。祭壇へ近づいた。ジリアラスと一緒に田舎ばかりを歩いてきたアルにとって、これほど本格的な教会は始めてだ。そもそも白魔術師は自然を操る術に長けた者達なので、ジリアラスもそうだったが、ジークムントとリズズという異質な神を信仰する者はあまりいない。

祭壇の右手の奥に何かを感じる。ほんの微かな感触だ。根拠の分からない違和感のような、心がストンと収まらない感じ。

視線の先には階段が見える。地下へ降りてゆけるようだ。行こう。今日のアルには迷いが無い。

地下へと続く、石造りの狭い階段だった。濃密な闇が目の前にポッカリと存在する。

「フェムアリシウム…。」

 アルの前に炎の塊が現れる。

狭い階段は人同士がすれ違うことは難しい程だ。小さな半径の螺旋を描きながらぐるぐると地下へ続いている。ステップの摩耗が激しく角が凹んでツルツルになっているため滑りやすいのに加え、段差にもばらつきがあり、非常に歩きづらい。

螺旋を何周ほどしただろうか、ステップが終わり、目の前に木製の扉が現れる。アルは迷わず押し開ける。

そこは、クリプトと呼ばれる地下に作られた墓地だった。地域の有力者など限られた人だけを埋葬するために作られたものだ。もちろんアルはそんなことは知りもしない。

そこは天井の低い広い地下室で、沢山の石の柱が天井を支えている。空気がじっとりと湿っぽく、かび臭く感じる。室内に並ぶ墓碑の文字はアルには読むことが出来ない。

アルはクリプトの中を進む。書いていることは分からなくても、石造りの墓碑や石棺の意匠から、ここが墓地であることをうっすらと認識し始める。

アルだって屋外の墓地はよく見知っている。あれと似ているのだ。ただ、サイズは一つ一つが、外にあるものよりも二回りも三回りも大きい。

クリプトを奥まで進むと、正面に扉が見える。石の壁に木製のドアが取って付けたように配置されている。

アルが真っ直ぐに扉に進み、そして開く。

中は埃っぽく、嫌な臭いがした。何かが腐ったような鼻孔を刺激する臭いだ。床は板張りで何故か天井が外のクリプト内よりも高い。アルが更に奥に進む。奥に部屋があるようなのだ。

そこは寝室のようだった。ベッドと衣装ダンス、鏡台が置かれており、一人の女性が鏡台に向いて座っている。服は着ていない。

女性が立ち上がりアルの方を振り返る。美しい女性だ。まだ若い。二十歳前後だろうか。胸はさほどではないが、腰はしっかりとしている。例の女性だと確信するが、根拠は無い。彼女がゆっくりとこちらに歩いてくる。服を着ていないので目のやり場に困るが、視線を逸らせないのだ。気付くといつの間にか体も動かない。

彼女の両手がアルの肩に掛かる。そしてそのまま抱きしめられる。耳元で囁く声がする。

「私はチエリア・アンナ。あなたの名前を教えて頂戴。」

アルの心がそれを激しく拒絶する。ジリアラスに習ったことがある。『名前』は人も物も全てを特定する。逆に名前の無いものを特定することは難しい。名前を知られれば、自分を特定される。特定されれば、精神攻撃の対象になる。

アルが激しく首を振る。耳に言葉が入ってこないように大声を上げる。


そこで目が覚めた。宿屋の部屋の天井が見える。

ドンドンと扉を叩く音がする。

「どうされました? 大きな声が聞こえましたが…。」

扉の向こうから心配そうな声がする。アルが『すみません、大丈夫です。』と応じる。上半身を起こして、ベッドに座る。

「お休みの所、申し訳ありませんが、宿帳を確認しておりまして。お隣の方のお名前はお伺いしたのですが、あなたのをお聞きしていなかったようで…。教えて頂けませんでしょうか?」

返事をしようとして違和感に気付く。隣のベッドにドリスがいない。

欺されている。名前を言ってはいけない。ここはまだ夢の中だ。同じ手をくうものか。

開いた瞳の裏側から、もう一度強引に瞼を持ち上げる。再び、目の前に天井が現れる。

これは何らかの罠なのだ。一定の入力に対して、命令文を書き連ねた自動のプロトコールが決められた攻撃を仕掛けてきている。

今、この罠を張った何者かはおそらくここにはいない。これほど有能な相手なら、こちらの反応に応じて攻める方法を変えてくるはずだからだ。

そしてこの罠の目的はあくまでも攻撃だ。相手には自分に対しての明らかな敵意がある。会ったことも無い相手に仕掛けてくるやり方としては常軌を逸したえげつなさではないか。今のうちにこの土俵、誘い込まれてしまった相手の作ったこの世界から逃げなくては…。

アルは精神を集中する。あのウチパスと、ファウナの時のことを思い出す。今回の敵は精神攻撃において、奴らよりも遙かに手練れだ。

しかし、アルには数少ないあの経験を生かすしか手は無いのだ。思い出せ、ウチパスに心を操られたとき、どのような対処法が最も有効だったのか…。

そうだ全体を俯瞰するのだ。劇場のようなこの夢の空間から逃れて、外側から全体を見渡すのだ。あの時もそうであった。天空から自分のいる世界を見下ろす巨大な瞳の、更に後ろへ回って何が起きているのかを見渡せたではないか。

ベッドの上から天井を見上げている瞳を閉じる。しかし閉じても同じ光景だ。再び天井が現れる。今見えている物は実際には見えていない。心に書き込まれ、脳に投影されているだけの幻影だ。

ならば自分も書き込んでみよう。今度は開いたままの瞳を先程同様、更に開く。目前には天井は無いと念じる。見えるのは自分のはずだ…。

やはり天井が見える。しかし諦めない。次こそ自分を俯瞰するのだと念じて繰り返し瞳を開く。開く。

俺が寝ている。ベッドに仰向けになって寝ながら天井を見上げている。お互いの視線が合う。寝ている俺の表情が驚愕する。これで、プロトコールを自分から分離出来たかもしれない。更に瞳を開く。今度は町を見下ろしている。視点はどこか空の上の空間だ。もう人としての実体の認識は無い。そもそも精神の中のことなのだ。更に上へ、この世界全体を外側から見下ろすのだ。この術者だって何もかも全ての森羅万象をこのプロトコール内に設定しているわけでは無いはずだ、どこかに世界の境界は必ずある。その外側へ出たとき、自分はこの敵の本体の背中を見ることが出来る。

その時、体がフッと軽くなった。相手の気配が消える。相手が危険を感じて逃げたのだろう。

瞳を開く。宿屋の天井だ。体をゆっくり起こす。まだ、昼間だ。窓の向こうで冷たい雨がまだまだ降り続いている。隣のベッドにはドリスが寝ている。先程までの苦痛の表情は見られない。頭痛は去ったようだ。おそらく原因は今の敵と同源だったのだ。アルへの触手を引くと同時にドリスからも逃げたのだろう。ドリスを経由して、再びアルが手を出してくることを恐れたのかもしれない。アルはそんな方法知らないのに、念の入った、慎重な性格だ。

何故か、白魔術師をターゲットにしてこの付近に罠が仕掛けられている。ドリスの方が彼女自身の術の影響範囲がアルよりも広いので遠くから反応したらしい。ただ、ドリスの白魔法の強度は、あまり大きくは無いのでアルに対してのものと同じプロトコールは発動しなかったのだと想像する。程度は不明だが、術の強さの小さい白魔道士は頭痛のような嫌がらせで遠ざけて、ある程度以上の術者の場合には積極的に干渉してくる作戦のようだ。ある種の防衛のシステムだと考えると合点がいく。しかしこれほどの術者なら、嫌な相手からは身を隠し通すことも出来るだろうに、と思う。もしかしたら強い敵を探しているのかもしれない。

アルはドリスをそのままにして、隣のジュニアの部屋に向かった。彼を交えて話し合う必要がある。

しかし彼はアルがどれだけノックをしても、彼は現れなかった。その部屋にはその時、既にジュニアはいなかったのだ。


 ジョン・ドバンニは彼の部屋に戻ると、不在の間に自分の仕掛けたトラップが作動していることに気付いた。昨晩は思いの外楽しい夜で、忍び込んだミサリアの女兵士の部屋で昼過ぎまで寝てしまった。惨殺した死体はそのままに、冷たい雨の中ここまで戻ってきたところだった。

 ねみーな、だりーな、めんどくせえなと思いながら、ログを確認する。次第に頭がすっきりとして、口元に笑みが生まれる。

 ジョン・ドバンニのトラップは僕(しもべ)として支配しているチエリア・アンナの精神に入力されている。彼女の心を改造し、アンテナのように感度を高め、周囲をうろつく白魔術師をセンシングする。能力の弱いものには精神的な苦痛を与えて、この教会の地下の彼の部屋から遠ざけ、能力が一定以上の相手からは巧妙に情報を聞き出すのが目的だ。能力の高いものに中途半端にちょっかいを出しても返り討ちに遭う可能性がある。それよりも決定的に有利な情報を聞き出して後で挑めばいい。そう、相手の名前。親、もしくはそれに準ずる人物に付けられた最初の名前さえ知ることが出来ればジョン・ドバンニに逆らえるものはいない。

人にとって親の存在は絶対である。特に生まれたての状態では全てを親に依存して生きてゆかなければならない。従ってそのルートから入力された命令には基本的な精神の反射のシステムは逆らうことが出来ないのだ。それは生き抜くための生物としての赤ん坊の本能であり、その呪縛は一生続く。従って、その名前をキーにして相手に仕掛ければ相手には防御する術はない。

 ジョン・ドバンニのいい加減で雑な性格の裏側から、別の人格が表面に浮かんでくる。先程よりもより知的で思慮深いジョン・ドバンニだ。実はジョン・ドバンニはシンプルな単一の人格ではない。呪術師たるジョン・ドバンニはこれまでの長い時間の中で多くの呪術師と出会い、戦い、融合して永らえている人格の集合体だ。

実は呪術師同士は、著しく相性が悪い。出会えばお互いに心を支配しようと油断無くつばぜり合いを始める。呪術師はその猜疑心の深さ故に呪術師たるが、その為、お互い信じ合って共存することが出来ないのだ。口先ではお互いに信じ合い、相手の精神に介入しないと約束しても、それを真に受けて油断して自分の中に相手の侵入を許せばその瞬間に相手に取り込まれて隷属させられる。その疑いの心から、呪術師同士は出会った瞬間から、精神の戦いを始め、どちらかを支配するまでそれを止めることが出来ないのだ。

 すなわちジョン・ドバンニはその数多くの呪術師達の唯一の生き残りである。と言ってもいわゆる、『アルシリアス・ブルベット』であるとか、『シトラウト・シュミッツ・ジュニア』とか言う単純な人格ではなく、多くの呪術師が心の融合を繰り返した事により、いつの間にか主たる人格さえもが曖昧になってしまった、『ジョン・ドバンニ』と意味も無く呼ばれる意識の寄せ集めだ。

いろいろな色の水彩絵の具をパレットの上に出して、中途半端に5~6回筆でかき回したような、色の混ざりきっていない、それでいて一つの絵の具の塊だ。

 ジョン・ドバンニの表向きの性格が変わる様も、その絵の具の塊を、例えば洋梨のような三次元の立体に置き換えて水に浮かべたときの平面図と考えると分かりやすい。

洋梨は水に浮かべると位置エネルギーが最も小さくなる姿勢で安定するが、洋梨に何らかの力が静かにかかれば、水の上でそれはゆっくりと回るだろう。そうすれば上から見下ろした洋梨のシルエット、つまり平面図は当然形を変化させる。ジョン・ドバンニの外に現れる人格はまさにその平面図の形状のようで、外部からの情報が変化することで洋梨は姿勢を変え、平面図は形を変え、ジョン・ドバンニは人格を変えるのだ。

 話を戻そう。ジョン・ドバンニのトラップにかかったのは中々有能な白魔術師だった。ログを見る限り決して侮れる相手ではない。言ってみれば、こちらの手管を色々と見せたあげくに、あちらの情報はほとんど入手出来ていない状況だ。言ってみればこちらの敗北だ。

ジョン・ドバンニが入手出来た情報は、自分のプロトコールがどのようなフローチャートを辿ったかということと、センサーであるチエリアが感じた相手の印象くらいだけである。つまり相手の朧気な容姿と白魔術師として発散する、奴固有の雰囲気くらいだ。

プロトコールに照らし合わせて、そこから相手の入力を検証してみる。ログを見る限り、プロトコールは異なる選択肢を次々に実行させられて、手詰まりになって終了している。おそらく奴は、ジョン・ドバンニの思考のプロセスの一部を理解し始めているだろう。

最終的に奴がとった手段も面白い。プロトコール内に残留しながら、ソフトウェアの設定する境界の外側をのぞき込もうとしている。ジョン・ドバンニにも無い発想だった。

 ジョン・ドバンニは、日夜退屈している。生きるために人を辱め、その負の感情を喰らって生きる毎日に退屈している。昔のことはもう覚えていない。自分がどのような人間だったかなどという記憶は失って久しい。ただ人を虐殺して快楽に浸るだけの毎日だ。たまにはこんなイベントもいい。

 ジョン・ドバンニは考える。これ以外の情報は無いだろうか? 彼のトラップのシステムのことを再度思い起こす。得られる情報は、プロトコールの進行順とその実行した時間、今回は辿り着けなかったが、完遂されれば結果…。ちょっと待て。

 実行時間は把握出来る情報の一つだ。プロトコールが起動した時間にこの白魔術師は、付近に現れたはずだ。

 人の精神攻撃に特化した白魔術師である『呪術師』たる自分の能力をこの少年にぶつけてみたい。こいつの能力が卓越しているなら、楽しいイベントになるだろう。そうでなければまたくだらない日常に戻るだけだ。負けることなどあり得ない。殺し、移動し、殺し、移動する。それが彼の本能であるのだから。


リンダスプール、夜。ジュニアがイライラとするアルの待つ宿屋に戻ったのは日が落ちて暫くしてからだった。アルはすぐにでも自分たちに降りかかり始めている危険な兆候についてジュニアに相談したかったが、気のはやるアルを前に、頼みのジュニアはのんびりとあっけらかんと先制攻撃で『空腹』と言う。そうだ、こいつは普通の時は天然なのだ。『天然、天然、天然』、三度繰り返して自分を落ち着ける。

アルはすやすやと寝ているドリスを起こし、三人はホテルと内部でつながっている、隣接する食堂で食事をとることにした。アルとジュニアが遅い朝食をとったあの場所だ。だが、夜は調理もホールもスタッフが朝とは違うようだ。あの教会からは遠ざかりたかったが、外をうろつき回るのは避けた方がいいように感じた。

食堂の女主人(多分、それだけ彼女には自信と威厳とを感じた)に案内され、席に着いた。具合が悪そうなドリスと、相変わらず口数の少ないジュニアに挟まれて、アルがうっかりとジュニアに外で何をしてきたのかを質問してしまう。

ジュニアはアルの表情をじっと見てから、唇重く話し始める。

「一手目の一歩目のとっかかりが、どうにも重い。」

 意味不明なことを言う。

「敵に仕掛けるときの一手目、その一歩目は静から動、その切り替わりが全ての肝になる。敵の先、その先を押えることが重要で…。」

 やべえ、ドリスとアイコンタクトする。彼女も具合悪そうに苦笑する。

ジュニアがテーブルの一カ所を見つめながらぶつぶつと話している。次第に言葉に熱がこもってくる。アルもドリスもそれ以上質問するのを止めた。

二人にとって幸いなことに先の女主人が注文を取りに来たので、ジュニアの剣術講座は中断になる。女主人にお勧めを聞きながら注文して行く。

店は混んでいる。噂通りリンダスプールにいるのは軍人ばかりだ。酒場においてロスガルト人とミサリア人の見分けは簡単だ。軍服が違うのはもちろんだが、特にミサリア人は時々誰かが立ち上がって乾杯しながら透明な酒を飲む。それ以外は何か果物のジュース(そこにもアルコールが入っている可能性はある)を飲んでいるように見える。おそらく故郷の習慣なのだろう。飲んでいる酒の種類は度の高いもののようだ。小さなグラスで、ストレートで一気に飲み干す。アルたちロスガルトの人間はそんなことはしない。葡萄酒などを好き勝手に飲むのが普通だ。乾杯も最初に一回だけだ。

 アルたちの頼んでいた葡萄酒の瓶が運ばれてくる。グラスは三つ。女主人は少し考えてからジュニアの所へ行き、少量だけグラスに注いでグラスを彼の前に置く。

ジュニアが慌てて自分は飲まないという。そこで初めて炭酸水を注文する。

代わりにドリスが一口含んで、問題ないという意思表示をすると女主人は黙って二人分のグラスを注いでからテーブルを離れて行く。以前にも書いたが、このアルシアには、年齢で飲酒を制限するという発想は今のところ無い。しっかりと勘定を払ってもらえればそれを止める理由はない。

アルは自分の前に置かれた葡萄酒のグラスに口を付けながら、横目に二人を伺う。そこで彼はようやく話題を切り出した。

「なあ、出来るだけ早くここを出ないか?」

 何気なく言ったつもりだが、不審そうな顔で見返される。アルにとっても昼のことは衝撃的な体験だったが、ただの夢の範疇の出来事かもしれないのだ。

「何かあったの?」

 眉間に皺を寄せながらドリスが尋ねてくる。アルコールを口にしたお陰で少しすっきりして来たようだがまだ、どこか具合が悪いのだろう。アルにはその理由が分かっているつもりだ。ジュニアの前に炭酸水が運ばれてくる。

「夢のようなものを利用して、おかしな術をかけられそうになった。相手の目的は分からないけど、誰かが白魔術師をターゲットにして、罠にかけようとしているみたいだ。ほら、君の頭痛も同じ原因だ。」

 ドリスが息を吸い込むようにして嫌な表情になる。痛みを思い出したのだろう。

「ドリスロウ、白魔術師?」

 ジュニアが名詞だけで問いかけてくる。

「えっ、だって、あれ、知らなかった?」

ジュニアが一瞬ぽかんとした表情になって、驚いてドリスを見つめる。彼女が頷いた。

「俺も狙われた。でも頭痛じゃ無くてもっと攻撃的に夢に誘い込まれた。相手はどうやら精神攻撃に熟達しているみたいだ。さっきは何とか逃げられたが、次に来たらおそらく俺では太刀打ち出来ない。」

 深刻な表情のアルの前に、注文したサラダや肉のソテー、パスタなどが並べられる。配膳が終わるまで会話が途切れる。

「ジュニア、俺がウチパスに操られたときに、プランラットさんが奴らに操られなかったのはどうしてだか分かるか? だってウチパスとすれば両方をコントロールした方が話は簡単だろ。」

 アルの唐突な質問に、ジュニアは暫く考えを整理しているようだ。

「訓練。怠れば味方同士で殺し合いをさせられる。」

「何をどういう風に訓練するんだ?」

「やることはシンプルだが、その説明は、難しい。」

 ジュニアが一転のんびりとしてしばらく考える。グラスを飲み干して、炭酸水をを注ぐ。グラスの中で泡が元気良く弾ける。目の前の肉にフォークを入れて食ってやがる。

「怒ったり、笑ったり、泣いたり、とか、そういう一瞬に、人の心には隙間が出来る。つまり奴らは玄関をノックして、その瞬間に裏口をピッキングする。相手が驚くような信号を送って、別の方向から心に触手を突っ込む。突然心が何か、ザワザワとか、ドキドキとか、そんなざわついた瞬間が敵の攻撃の第一波。人はそういう感覚に自然に反応して心を落ち着けようとする。そこに隙が生まれる。奴らは離れたところから、ここぞと言うタイミングで突然信号を送る。それに心が反応した瞬間を狙う。その反射を抑えることを徹底的に訓練させられる。」

「そんなこと、そもそも訓練すれば出来るようになるものなの?だって自然に出ちゃうんでしょ?」

 ドリスが質問する。アルは彼女がビルジ・ヴァルメルの事を思い出していると察する。ドリスはアルがウチパスに操られた様子を見たわけではないからだ。

彼女にとってはビルジ・ヴァルメルの、急激に態度が変化して行く様子が衝撃的だったのだろう。自分があのようになりたくなければ、それを防がなくてはならない。当たり前のことだが、誰でも悪魔どもになど操られたくはないのだ。

「黒の騎士団長。彼がその方法を考案した。彼自身も黒魔術師だった。」

アルはロスガルトの軍隊には詳しくない。黒の騎士団などと言う名前も聞いたことくらいはあるのかもしれないが興味など全くない。しかし、自分の魂を悪魔に渡してまでその能力を手に入れ、王のために働くなどという人間がいるのだろうか。馬鹿げている。アルは思う。自分は自分が生き延びるので精一杯だ。

「黒の騎士団なら知っているわ。凄く有名だもの。所属したのはたった一人。その一人でロスガルト最強の軍団と呼ばれていた。」

 ドリスが相槌を打つ。彼女もその騎士団の事は知っているようだ。しかしながら騎士団なのにたった一人とはおかしな話だとアルは思う。

 ドリスが続ける。

「フリルベア王の城が囲まれたとき、数千の敵に一人で立ち向かい王を救ったとか、そんな英雄伝を十も二十も聞いたことがあるわ。それに何だかおかしな伝説も何倍もある。たまたま立ち寄った村の数十頭の牛を一晩で食べつくしたとか、彼が来たら町からゴキブリやネズミが一匹もいなくなったとか、彼が訪れた途端10代から60代までの女性が皆妊娠して、出て行ったらおなかの子供もいなくなったとか、雌鳥が一日に四十八個卵を産んだとか、喉につかえていた骨がとれたとか、何か不思議なことが起こると皆、彼のせいにしてるとしか思えないほど訳が分からない。」

 ドリスが時々アルの顔を見ながら話す。具合はもうほとんど良くなったようだ。

 楽しそうなドリスと対照的にジュニアがいつものぶっきらぼうさで言葉を挟む。

「彼は悪魔さえも使役していた。何人もの悪魔や死人たちを支配していた。」

 その姿を想像する。背筋が寒くなるのを覚える。荒廃した戦場に、騎乗した彼が立つ、彼の周囲には複数の悪魔がゆらゆらと浮いている。そしてその背後に整列するのは武装した死者の軍団。気温はマイナスまで下がり。凍えるほど冷たい白い気体が地面を流れる。死者達は整然とどこまでも並んでいる。既に死した、これ以上は死を恐れることのない無敵の軍団だ。

「彼の方法はシンプル。彼自身が訓練者の精神を攻撃する。それをとにかく繰り返す。」

 ふむふむ、とドリスがタイミングよく相槌を打つ。ジュニアは炭酸水で舌を湿らせる。

「彼は精神を執拗に攻撃する。訓練者の精神を酷く傷つけても彼が回復してしまう。何度も繰り返し攻め続ける。地獄だ。その最初の訓練者が父だった。」

 ドリスとアルは顔を見合わせた。特にウチパスに攻め込まれた経験のあるアルには想像するだけでうんざりな話だ。

「父はその訓練のことをほとんど話さない。でもこの方法が有効で、父を実戦で救った事は事実だ。」

 ジュニアはそこで息をついた。ソテーの最後の一切れを口に押し込む。そして二人の皿を見回して『食べないのか?』と視線を送ってくる。慌てて食事を始めた二人を見ながら、ジュニアはもう一度水を口にする。

「彼が直接訓練したのは父だけだった。彼はとことん飽きっぽく、父を教育した後、面倒だから止めると言いだした。仕方なく白の騎士団長がポイントを聞き出してより苦痛の少ない方法で訓練化した。それ以来、ロスガルト軍からは一兵たりとも黒魔術師に精神を操られたものはいない。」

 アルは思う。それは簡単な方法ではない。少なくとも今の危機を回避するために、今日明日の訓練で成し遂げられるものでは無い。単純に落胆する。

「でも実は、それが肝ではないと言うのが父の意見だ。」

 ジュニアは今までよりも少し心許なさそうに言葉を続けた。

「ロスガルト軍では、訓練に先立って一人一人が宣誓をする。『アール・バウの名の下に我が心を守りたまえ。手厚き加護を我に。』、父はどんなことがあってもこの伝統は省略してはならないと彼に厳命された。」

「あ…。」

その言葉にアルは確信する。彼がロスガルト軍の兵士に言わせているのは白魔法の呪文だ。文の構造がアルの使うスペルと同じである。はじめの宣誓の言葉で魔法を起動し、『手厚き~』以降で発動させている。シトラウト・シュミッツは正しい。彼は、シトラウト・シュミッツを訓練して、この方法、個人の能力を鍛えるという方法では、一般の兵卒を黒魔法から守ることは不可能だと悟ったのだ。だから自らの力で全ての兵士を守ろうとした。

しかし果たしてそんなことが可能なのだろうか? 何万人というロスガルト軍人全員に、永続的に黒魔術に対抗する白魔法を発動させ続けるなどアルには想像も出来ない。

アルはその人物に会ってみたいと心の底から思った。しかし今はそれどころではない。

「ドリス、君も宣誓して。」

 アルがドリスに話しかける。

「え? 私が? 今?」

 びっくりしたドリスの瞳が大きく見開かれる。

「まじないだ。気休めだよ。」

 ジュニアが止めるがアルの真剣さは揺るがない。

「ああ、今すぐだ。」

 ドリスがアルを見つめ返す。見つめながら話し始める。

「えっと、アール・バウの名の下に我の心を守りたまえ、手厚き加護を我に。」

 ドリスが両手を組んで真摯に祈る。

 アルはそれを観察していたが、特に何も特別なことは起こらない。周囲に何か魔法的な変化はない。自分の思い過ごしか、もしくは彼の白魔法は自分の知っている白魔法の仕組みとは別の法則で成り立っているのだろうか?

 ジュニアが呆れたように視線を逸らす。

「鰯の頭も信心から、って言うじゃないか…。」

 アルがぼそりと付け加える。付け加えてから三人が揃って不思議な表情をする。しまった、この世界には鰯と言う生物は存在しない。

「なあ、ジュニア。明日ケンが来たら、出来るだけ早くここを発とう。俺はあいつに勝てる気がしない。」

 アルの提案に、ジュニアが頷く。彼はケンドアと合流さえ出来ればこの町になど初めから興味は無いのだ。

 アルが言葉を句切る。そして恐る恐る続きを口にする。言ってしまったら最後、それが現実になってしまうような口ぶりだ。

「おそらく…、おそらく奴は俺を殺す気だ。」

 ドリスが息をのむ。ジュニアは思いの外蚊平然としている。考えてみると彼にしてみれば真剣勝負の命のやりとりは逆に望むところなのかもしれない。

「ねえ、今晩は大丈夫なの? 少しでも早くここを離れた方がよくない?」

「相手は罠の中で俺のことを知ろうとしていたが誤魔化せたはずだ。相手は俺たちのことを何も知らない。と思う。」

 ドリスは腑に落ちない様子だ。ジュニアは無表情に戻っている。アルもジュニアも、そしてドリスも、既にロスガルト兵が何人も殺されていることは知らない。

三人が残りの食事を手早く済ませる。言葉は少なくなった。店の中の乾杯の声は大きくなり、宴会はたけなわの様相だ。

デザートが運ばれてきたので、葡萄酒を空けてしまう。最後に濃い酒を一杯勧められたが断る。会計を頼んでそれぞれ払う。

この先旅を続けて行くためには、特にジュニアはお金を稼ぐ方法を考えなくてはいけない。それにドリスにも朝のように違法な事をさせるわけにもいかないだろう。こんな状況で、何だかとても現実的な事が頭に浮かんだことが、なんとなく可笑しい。


ジョン・ドバンニが冷たい雨の降る町を闊歩する。夜、賑やかなリンダスプールの町並みだ。町は人に溢れている。休暇を取ってこの町に来たロスガルト、ミサリアの兵士達が、クリーニングに出した、普段は着ない、とっておきの制服で胸を張って町を歩き回る中を、貴族風の衣装に身を包んだ、チビでデブで汗臭いジョン・ドバンニが歩いて行く。服がピチピチ過ぎて濃い体毛に囲まれた臍が出ているのがさらに醜い。室内と異なり、手にはステッキ、頭には金で縁取られたつばの広い帽子をかぶっている。

町の誰もがジョン・ドバンニに気付いた様子は無い。彼は路の真ん中を堂々と歩いているだけで、自然と周りの人の流れが彼を避けて行く。

住処としている教会を中心に、円を広げて行くようにリンダスプールを歩き回るが、呪術師にだけ分かる、白魔術師の精神特有のあの感じはどこにも無い。奴はもう逃げたのだろうか…。

自分なら絶ーってえ、そうしねえ。認めたくは無いが、今朝の情報戦は、あれは相手が100%勝ったのだ。相手から攻めて来ることはなくても、奴はすぐそそくさと逃げはしないだろう。奴は勝ったのだ、俺を何とか出来ると嘗めているはずだ、奴にはその驕りがある。この雨の中、くそ寒い中、町を出るはずがない。『この島にいる人間を、片っ端から殺しゃいいんだよ。』

誰かが頭の中でそう言った。全部殺しちまえ楽しいぞおこの町一つみんな狂わしちまえば楽しいなあ簡単簡単人なんてのは皆誰も他人を信じてねえ不安にさせれば何でもするぜえ。

そんな物騒な言葉が頭の中で炎上する。理性をしっかりと持たないと抑えられない。俺はジョン・ドバンニ、一つの人格だ。俺がこれからすることは俺が決める。俺はジョン・ドバンニ、一つの人格だ。俺がこれからすることは俺が決める。俺はジョン・ドバンニ、一つの人格だ。俺がこれからすることは俺が決める。絶対そうする。そう宣誓する。

大ブーイングだ。文字には書けない言葉のオンパレードが頭の中で右から左に流れてゆく。

うるせえ。黙れ負け犬ども。全てこれまで俺が屠ってきた呪術師の思念の残り滓だ。俺は俺だ、俺はジョン・ドバンニだ。誰でもねえ。俺はジョン・ドバンニだ。俺はジョン・ドバンニだ。呪文のように言い続ける。嘗めんなよ、呪詛の澱のような貴様らに俺を制御させて堪るか。俺はジョン・ドバンニだ。しかし実際は、そう叫ぶ彼も騒ぐ負け犬の一匹に過ぎない。もう最古の呪術師ジョン・ドバンニなど存在しない。彼はジョン・ドバンニという概念を薄く包むオブラートの膜に過ぎないのだ。

イライラとしたジョンが、ステッキを振り回しながら通行人を殴りつけ、ものを破壊しながら路沿いにある店を一軒一軒尋ねてゆく。勿論誰も彼には気がつかない。

例えば酒を売る商店。ジョンは無言で店に入り、その辺の商品をステッキでぶっ叩き、壊しつつ無言で店員の前に立つ。誰も彼の理不尽な行動に気付かないばかりか、その過程で彼の進行方向にいる人全てが、自然な動きで彼を避けて歩く。もちろん彼のコントロールによるものだが、彼は誰にも見られていないようだ。今更だが、卑怯な奴だ。

店員と交わす言葉は無い。彼は店員の脳をスキャンする。今日のあの時間に見かけた人物がいるかいないか、シンプルな質問の答えを自分のメモリーに書き込む。そして近くにある商品をステッキでぶち壊す。近くにいる人をステッキでぶっ叩く。ジョン・ドバンニというこの生き物のこれまでの長い歴史の中では、奇跡的に地道で粘り強い捜査を繰り返す。これも彼の中に混ざっている、奇跡的に珍しい過去の一人の呪術師のなせる技だ。

どこかに自分の求める相手がいるはずだ。見つけ出し、そばまで行けば必ず分かる。白魔術師がどれだけ意識的に自分の発する気配を押し殺そうと、俺様には一目瞭然だ。この稀代の呪術師、ジョン・ドバンニ様を嘗めんなよ。

リンダスプールに溢れかえる人々を、冷たい雨が包み込む。人々の放つ熱気が雨を蒸発させて街は霧に沈んだような景色だ。暑ささえ感じる。歩き回る中で我慢出来なくなり、客を物色する娼婦をひっ捕まえて引きずり倒す。路の真ん中で暴行し、最後には殴り殺す。全くすっきりしない。

しかし、冷たい雨の中を何時間も歩いて、そしてついにその時が来る。あの、ログが記録する時間に宿にチェックインした客がいるという。もう時間は午前二時を回っている。それでもリンダスプールの夜としてはまだまだOKの夜時間だ。

宿屋の人間の精神に介入して、予備の部屋の鍵を奪い取る。部屋は二階に二室だ。階段を上がる。『おお、階段を自分の力で上がるなど、どれほどぶりのことか!』 いや、ジョン・ドバンニは自動で階段を上がる魔法を持っていないので、このコメントは嘘だ。ああっ、しかもアンナ家はペントハウスだったではないか!

ジョン・ドバンニは重たい体をむち打って二階まで上がった。ゆっくりと部屋の前まで進む。板張りの廊下だ。ジョン・ドバンニの重たい体が、ギシギシと床を軋ませる。

そしてようやくジョン・ドバンニは扉の前に立ち、鍵を差し込んだ。右へ回すと、びっくりするような大きな『ガチャリ』という音を立てて錠前が外れる。ジョン・ドバンニはしばらく動きを止める。部屋の中から反応は無い。

彼は扉を押し開いた。立て付けの悪い蝶番がギギイと音をたてる。

キングベッドの部屋である。二人の人間が休んでいる。ジョン・ドバンニはベッドに近づく。

横に立ちその人物を見下ろす。ジッと見下ろす。ジッと見下ろす。

…こいつは白魔術師では無い。

怒りが爆発する。叫び声を上げて。腰のレイピアを抜き、ベッドの人間を刺し殺す。隣の女も刺し殺す。何度も刺す。何度も刺す。もういいと思うまで刺す。滅多くそ刺す。

次に隣の部屋に移動する。彼らも白魔術師では無い。やはり腹いせに血祭りにする。

ああ胸くそが悪い。

主人をぶち殺してから、宿を出て次へゆく。どこかに絶対に奴はいるはずだと自分に念を押す。それでもイライラと心にわだかまりが湧き上がる。

冷たい雨の中、再び地道な時間が繰り返される。ジョン・ドバンニにとっては苦痛以外の何ものでも無い。再びイライラとストレスが蓄積してゆく。

ようやく再び別の宿屋にぶち当たる。やはりおおよそログが記録する時間に宿にチェックインした客がいるという。

いくらジョン・ドバンニでも先程よりは冷静だ。宿屋の男の記憶に侵入する。そいつが来たときの画像を検索する。

残っていたのは軍人の男の画像だ。少年と言ってもいい。少なくともそいつはジョン・ドバンニのトラップにかかった白魔術師ではない。しかし借りた部屋は二部屋。別の何人かが奴かもしれない。

くそ、また二階だ。また、二部屋だ。

面倒くさくて嫌々な気持ちを押し殺して結局二階へ上がる。今のジョン・ドバンニの、その気配は、殺気は、尋常では無い。ストレスで行き先のはっきりしない怒りがプンプンだ。

イライラとする気持ちを抑えて、音を立てないように部屋の前に立つ。やはり奪い取った鍵を鍵穴にねじ込み、ゆっくりとひねる。ガチャリと音がして錠が外れる。

扉を押し開ける。部屋の中に廊下の明りが差し込んで行く。蝶番が軋む音がする。

ジョン・ドバンニはゆっくりと部屋に踏み込んだ。

そこで気付く。…こりゃ、ビンゴだ。先程確認した、あの罠に残されていた白魔術師の気配が、まさに漂っている。

ジョン・ドバンニは足音を忍ばせてベッドに近寄る。奥のベッドだ。腰のレイピアを鞘から抜き出す。光と影が支配する無彩色の部屋で、ジョン・ドバンニの下品な笑いが微かに聞こえる。

「くたばれや。」

 レイピアをベッドに突き刺す。ジョン・ドバンニの表情が変わる。慌てて掛け布団を引きはがす。

 誰もいない。振り向いてもう一方のベッドの掛布もつかんで投げ捨てる、誰もいない。

「ぐおおおおおーーー。」

 トドがうなり声を上げたかのような野太い声が部屋を振動させる。ジョン・ドバンニはベッドを蹴り壊し、周辺の家具を力任せにひっくり返す。

 『ぶち殺す! あのガキぜってえぶち殺す!』心で繰り返しながら、周囲のものを破壊し続ける。

 時間稼ぎのために、自分の気配を残していきやがったのだ。ジョン・ドバンニの予想に反して敵は既に逃げ出している。小賢しい奴だ。

 追い詰めて殺す。追い詰めて殺す。追い詰めて殺す。何度も繰り返し続ける。

 一階に戻るとフロントに向かう。立ち話している客の頭を掴み、床に叩きつけて殺す。そして先程の宿屋の主人らしき男の前に立つ。言葉に出しての命令はいらない。無言のまま指示を出して宿帳を出させる。部屋の借り主を指ささせる。

 『ドリスロウ・ミーア』というのが奴らの名前だ。三名とある。さっきの軍人以外にまだ二人いるのだ。

 ジョン・ドバンニは乱暴に宿帳を閉じると、男の胸ぐらをつかんだ。

 無言のままその男の記憶をスキャンする。先程は奴が来たと思われる瞬間しか確認しなかったが、それ以外にもこの男の中に何か記憶が残っているかもしれない。

 『ダア!』

 すぐにそいつをぶっ殺したくなる。この男、奴が来た直後、昨日の昼前から夜までは仕事をしていない。ここにはいなかったのだ。

考えてみれば当たり前のことだ。いつまでも連続して働き続けることなど出来るわけがない。この男は夜勤なのだ。しかしそんなことはジョン・ドバンニの知ったことではない。

深夜になって勤務し始めた男の記憶はあまりにも退屈だ。時々現れる客と雑談する以外は、帳面に向かって帳簿を付けてばかりだ。

スキャンの速度を上げる。元々映像として残っている記憶がほとんど無い。

ジョン・ドバンニはギリギリの精神力で記憶を辿っている。おそらく彼の中にいる少なくとも一人以上の精神は著しく執着心が強い。しかし大多数は、不安定で怒りっぽく我慢出来ない人格だ。

そして、記憶の映像がフロントの壁の鍵が並んで提げられている場所で停止する。

この男は暫く鍵を見ていた。もしくは鍵を見て何か深い印象を受けたのだと推測する。何故鍵を見て気にかかったのか、しかもその鍵が先程押し入った部屋のものだと気付く。その瞬間の男の思考をトレースする。『鍵を置いて外に出たのか?』、鍵があることに疑問を持っているのだ。ジョン・ドバンニは考える。夜外出するのに、鍵をフロントに預けることは普通のことだ。何故そこに引っかかっているのだろう。

男は次に帳簿を確認する。ドリスロウ・ミーアは二部屋一泊分の金をきちんと払っている。

男は暫くそのページを見ていたが、納得してページを閉じた。その時男の記憶が書き換わる。この動作の前までは、男にはチェックインの際に前金をもらったという記憶はなかったのに、今では金を受け取った自分に記憶が書き換えられている。

これは嘘の記憶だ。その証拠に、男は気付かなかったが、帳面の筆跡が彼のものとは異なっていた。しかし彼の中では、彼が宿賃を受け取ったことは既に事実になっている。

よくあることだ。人の記憶など後からいくらでも上書きされ、それを本当だと思い込むものだ。自分はやっていないと思っていても、他人から繰り返し何度もやったと言われればいつしかやったという記憶に書き換えられる。普通のことだ。本人がそうだと言っても、それが事実でないことなど多々ある。しかも本人は本当に信じているので厄介だ。

ジョン・ドバンニはこれまでの状況を整理してみた。奴を含む三人は昨日の朝、この宿に入った。そしてトラップにかかり、ここを出ることに決めた。そしてこの男が宿屋に戻ってくる夜の十時頃までに宿屋を後にしている。どこに行った。手がかりはもう無いのか?

再び男に向き直る。奴らがチェックインしたその時間をもう一度再生する。

若い男が見える。フロントデスクからは少し離れた入り口の扉の所に立ってこちらに話しかけている。満員で断られた別の宿屋に紹介されたと言っている。よくあることだ、お互い様だと考えて空室を確認する。空いているので泊めてやると言ってやる。

シーンがジャンプする。若い男は既に彼の目の前にいて宿帳に名前を書いている。彼はその若い男に特に興味が無かったのだろう。男の顔や身長・体格などの特徴は漠然としか記憶されていないようだ。なぜなら、若い男の顔は、彼の思う一般的な男性の顔に、若い男の概ねの特徴だけを残して既に置き換えられている。

手を動かして名前を書く彼だが、その時間、他の部分、景色も含めて記憶の映像のその他の部分はまるで動いていない。興味の無い部分はデータの量を少なくするために簡略化されるのだ。

若い男が書き終わった宿帳を自分の方に向けながら、彼は若い男に何か言ったようだが記憶には残っていないのか音声は再生されない。客を迎えるときのルーチンワークとして話しかけているために欠如したと考えるのが自然だ。部屋の場所や、食事の時間などを機械的に言葉にしているのだろう。

「ドリスウロ、大丈夫か?」

 突然声がする。既に若い男はいつの間にかロビーのソファで休んでいた仲間の側におり、心配そうに声を掛けている。

 こいつが奴か? ジョン・ドバンニはすぐに怒りと共に集中する。自分のトラップに触れて体調を崩しているのだろう。いや、こいつは女だ。奴ではない。

 彼の記憶はその女、まだ若い女に関しては先程と不釣り合いなくらい鮮明だ。顔がしっかりと認識出来る。確かにこの女ではない。先程トラップのログで確認した奴の顔とはまるで異なる。

 宿屋の男は、よほどこの女に興味を持ったのだろう。若い男と比較して、記憶がディテールまで鮮明だ。

 記憶が飛び、若い男の方が入り口から出て行く。そして再びコマが飛んで、二人の男が扉から入ってくる。記憶の中では待ち時間は当然割愛だ。男は二人に注意を払ったようだが、まるで興味を覚えなかったのだろう。先程にもまして二人のシルエットも何もかも、余りにも曖昧だ。

 しかし彼には分かる。ジョン・ドバンニにはこのぼやっとした小柄な男が彼の探す白魔術師だと。

「頼むよ、アル…。」

 辛うじてそんな言葉が聞こえる。

「分かったよジュニア…。」

 …………これが奴らの名前だ。しかし不完全だ。更にただのあだ名かもしれない。それでは効果が無い。

 ジョン・ドバンニはこれらの映像を何度も繰り返して確認する。しかしこれまで以上の情報は何も無い。

 人の記憶はデジタル化されて脳に格納される。全てのアナログデータをそのまま記憶したのでは、例えば一時間の経験を思い出すのに一時間かけて記憶を再生するようなことになってしまうが、実際はそんなことは起こらない。

 先程もあったが、記憶したい部分以外は動画は静止画に置き換えられる。例えば行きつけの居酒屋に行った記憶では、いつ行っても背景となるのは同じ静止画だ、実際は月が変わり旬の料理が変わり、カレンダーがめくられていても記憶では、『行きつけの居酒屋』として同じ静止画に置き換えられる。

 その他の様々なものが同様に置き換えられる。友人の『シュミッツ』さんは、いつも髪型も何もかも同じ人だし、見上げた星空の記憶も、その日の星の配置が重要で無い限り同じ星座の並びだ。

 人の脳の記憶の仕組みはこのように、記憶の重要部分だけを残し、他はライブラリーにある既存のイメージに置き換えられるのだ。これは主に処理系の速度の不足を補うためのものである。ディテールまで詳細に再現することによる時間のロスは、人の物事に対する判断のための準備にかかる時間を多くし、それは反射的な対応が必要な場合の反応時間を著しく長くする。それは古来から死につながるシンプルなロジックである。

要するにそういう脳は、生き残れないのだ。いざというときに高速で判断出来ない脳は淘汰される。自然選択説の基本だ。

 結局こんな方法ではダメなんだよ。

 ジョン・ドバンニの中で、そんな思いが頭をもたげる。これまでの執着心が強く、細部までロジカルな整合性にこだわる人格の断面が入れ替わり、別の思考プロセスが浮かび上がってくる。

 脳がこのような、古いアニメのような処理方法に頼るのは先程も言ったように、あくまでもCPUの処理速度の律速のためである。脳のストレージとしての容量はまだまだ余裕があるのだ。視覚から得られたアナログデータは、十分な時間が経たない限り再生可能な状態で保存されている。記憶を呼び起こすための制約から、詳細の捨てられたデータだけが再生可能だが、アナログデータ自体は、脳の中に保存されている。今必要なのは、それをどうやって呼び出すかだ。精神→記憶→脳というプロセスでは、生のアナログデータには辿り着けない。

 でも俺はその方法を知っている。俺だけはその方法を知っている。

 そのジョン・ドバンニは彼にしては酷く穏やかな表情で宿屋の男に微笑みかけた。男の表情がやはり穏やかなものに変わる。ジョン・ドバンニは男の手を取るとゆっくりと歩き始める。宿屋を出て、道を彼の部屋のある教会へ。石畳を進み、門を抜け、階段を下り、じめじめとした陰鬱なクリプトを抜ける。墓の下の死者達に迎えられているようだ。そしてその奥の忌々しいその部屋へ。

 ジョン・ドバンニは男を彼の部屋の椅子に座らせた。椅子の背後にはテーブルが置かれている。ジョン・ドバンニの後ろには僕たるチエリア・アンナが佇んでいる。主の指示を待っているのだ。

 ジョン・ドバンニは指示をする。

「斧をここへ。」

「はい。」

 音もなくチエリアがそこから消える。ジョン・ドバンニは椅子に座る男の前に立ち、穏やかな微笑みをもって男を見下ろしている。

 時間がゆっくりと流れる。二人は微笑んでいるが言葉の一つも交わさない。

 やがてチエリアが戻ってくる。その時にはジョン・ドバンニの手には既に小ぶりな斧が握られている。

「押さえて。」

「はい。」

 チエリアが男の胸を反らせるようにして後方の机に男の後頭部を押しつける。男は素直に天井を向き口を大きく開ける。まるで、これから何が起こるかを知っているようだ。

「くくく、…。」

 ジョン・ドバンニは男の横に立ち、嬉しそうに斧を振り下ろす。

 ズドンと言う重い音が響いて、男の上顎から上が体と分離する。不思議と多くの血は流れない。体はまだ頭部が切り離されたことを知らないのかもしれない。

 ジョン・ドバンニは無造作に、乱暴に男の体を蹴り倒す。湿気で湿った床に、男の死骸と椅子が投げ出される。

 テーブルの上には男の頭部。重心が脳の側にあるので後頭部の頭蓋骨の曲面でゆらゆらと揺りかごのように揺れている。ジョン・ドバンニはそれを両手で挟むように持ち上げる。顎の方を上にして片手に持ち替える。

 斧の時と同様にいつの間にかジョン・ドバンニの手に小さなノコギリが握られている。いや、ノコギリと言うよりも目の粗い薄いヤスリと表現した方がいいかもしれない。

 頭部裏側の後頭部側に、白いゼリーのような物質が見える。断面は円形だ。

 ジョン・ドバンニは恐ろしく丁寧に、そのゼリーの縁から側頭部側を頭頂部に向かってこりこりと手元のヤスリで削り始めた。

 掌に乗せた頭部。ジョン・ドバンニのヤスリが頭蓋骨を縦に削る。コリコリ、コリコリ。

 静かな部屋にその単調で微かな音だけが休まずに続く。コリコリ、コリコリ。

 ジョン・ドバンニの削った骨がヤスリで削られて机の上に降りそそぐ。乾き始めている男の血液の赤黒い色の上に白い粉が振りまかれたようだ。

 ジョン・ドバンニは作業を黙々と続ける。そして、『コーン!』という軽い音を立てて分離された後頭部の頭蓋骨がテーブルに落ちる。ついに脳が露出した。やはり白くぷるぷると震えている。よく見るとゼリーのような透明感はなく、脂身を固めたようだ。温度の低いこのクリプトの中でこそ形を維持しているが、外の日に晒したなら、どんどんとろとろとろけてゆきそうな柔らかさだ。

 ジョン・ドバンニは優しく脳を頭蓋骨の中から取りだして、机に乗せた。脳はその振動で大きく揺れている。

 ジョン・ドバンニは空になった頭部を投げ捨て、使い終わったヤスリを投げ捨て、そしてチエリアから50~60cmはある長くて細く、薄い包丁を受け取る。

「脳の細胞が切られたことに気付かないくらいまで研ぎ上げなくてはいけない。」

 ジョン・ドバンニが独り言を言う。彼は左手で優しく脳を押さえる。その瞬間も手の形に脳がとろけてゆきそうだ。刃の付け根付近を脳に当てて、一気に脳を引き切る。

 後頭部側の脳が薄く切り取られる。ジョン・ドバンニはすかさずその切片を包丁に乗せて口元へ運ぶ。白く濁ったような脳の切片がにゅるりと、赤いジョン・ドバンニの口の中に消える。ジョン・ドバンニ天を仰ぐように上を向き、瞳を閉じてその最高の食物を味わう。

「ああっ…。」

 喘ぎにも似た感嘆の声が、あの不作法なジョン・ドバンニから漏れ聞こえる。そのまま数秒彼は静止した。

 そして働き始める。再び脳を優しく押さえて、包丁を当てる。引く手に迷いはない。包丁の刃はどこまでも鋭利に研がれている。鋸歯ではダメなのだ。一般的に刃の先端はほんの少し鋸歯(ノコギリの刃)のように凸凹がある方が切れが良いとされるが、ここではそれはダメなのだ。新鮮な細胞内の旨味を細胞内に閉じ込めたまま口に入れるためには出来るだけ鋭利に刃先端を研ぎ上げて、あくまでも鋭い楔が細胞の形を壊さずにそれを分断する必要があるのだ。

 向こう側が見えるほど薄くスライスされた脳の薄造りが仕上がってゆく。ソースは彼の血液だ。精密機械の精度と速度で、ジョン・ドバンニは一気に脳を薄く切り尽くした。最後に包丁を器用に使い、チエリアの差し出した皿に載せる。

 調理に使ったテーブルがそのまま食卓になる。先程男を座らせた椅子が食卓に戻され、チエリアの揃えたフォークと、葡萄酒の注がれたグラスが添えられる。

 ジョン・ドバンニは血だらけのいつもの貴族の衣装で脳を食べ始める。すぐにそうしないとどんどんと溶けていってしまうのが明らかだ。

 味わいながら楽しみながら、脳を食う。口に入れ、飲み込む毎に男の脳にしまわれた記憶のデータがジョン・ドバンニの中を駆け巡る。それは幼い頃から記憶され続けた、彼の見聞きしたアナログのデータそのものだ。古いものはさすがに劣化し音や色彩やくっきりとした輪郭を欠き始めているが、それは仕方の無いことだ。脳には一度書き込んだ記憶を、書き込む以前の状態に消去する機能が無い。上書きすることは可能だが、前の記憶に重ね合わせられるため、混濁する可能性が高いのだ。それを避けるために脳はストレージを貪欲に増やしてきた。一度書き込まれたデータは検索効率を上げるために、一般化、抽象化されて別の部位に集中して整理されるが、元のアナログデータはそれ以降、必要とされないため放置される。放置されたデータは元の状態のままそこにあるが、周囲の電位の変化や書き込みや呼び出しに一度だけ使われた伝達経路の劣化により完璧な再生が難しくなってゆく。脳の使われていない大部分にはアナログのデータが整然と放置されているのだ。

 ジョン・ドバンニは探している。そう、あのドリスロウ・ミーアという軍人が来たときの画像を。その為に、溶け続ける脳のスライスを、休むことなく口に運び続ける。不要なデータはジョン・ドバンニの中にある底なしの暗い闇の中へ投げ込み、必要なものだけを求める。

 ああ、ここだ。ピッ。再生される。

 『すいません』と言いながら入ってきたその少年が着ていたのはロスガルトの赤の騎士団の制服だ。赤の騎士団と言えば、ロスガルト軍の中でもエリート中のエリートとされる、五つの騎士団の一つで、通常戦力では最強を誇るとされる。

 彼は同業仲間の宿屋の名前を言うと、そこから紹介されたという。よくあることだったし、お互い助け合いなので空室を確認すると問題なく泊まれるようだったので了解する。

 ジョン・ドバンニと宿屋の男との一人称が混濁しているのは仕方が無い。ジョン・ドバンニは直接男の脳を吸収しているのだ。

 ジョン・ドバンニは記憶の映像で、このタイミングで例のソファに座っていた女が宿屋に入ってきたことを見つける。

 若い軍人が出された宿帳に、ドリスロウ・ミーアと署名したのを確認して鍵を二つ渡す。彼は鍵を持って若い軍人が歩いて行く先に、ドリスロウ・ミーアが座っているのを確認して、ああ、そういえばそうかと納得する。

 ジョン・ドバンニが画像を止める。どういうことだ? この若い男がドリスロウではないのか?

 既にジョン・ドバンニは例の神経質な分析好きのジョン・ドバンニに戻っている。

 しかもこの男は、ドリスロウ・ミーアを以前から知っているのだ。今度はそちらを検索する。既に置き換えられ簡略化された記憶の方からドリスロウ・ミーアを検索すると高速で情報が返ってくる。

 ドリスロウ・ミーアはこのリンダスプールを度々訪れる流れ者だ。生業は不明だが堅気だとは誰も思っていないようだ。ただ、それほどの悪党でもないというのがこの男の仲間内での評価だ。見た目が女のようなので、手を出そうとした男もいたようだが、目的を成し遂げた奴はいないらしい。とにかく勘が鋭くすばしっこいのだ。

ドリスロウ・ミーアと親しくしている何人かの人物の名前が分かる。住所が分かる。

ビンゴだ! 奴らはおそらくこいつらの誰かを頼って出かけたはずだ。

 ジョン・ドバンニは立ち上がった。口元に血と脳の脂身がべっとりと付着している。口元が笑う。笑いながら歩き始める。

 同時にジョン・ドバンニは動画の続きを再生していた。

 一度外に出る若い軍人。宿屋の男はちらちらとドリスロウ・ミーアの方を見ている。確かにこいつは女かもしれないと思い。体調を崩してぐったりとしている風のドリスロウに邪な想像を巡らせる。

「頼むよアル、…。」

 入ってきた二人の顔立ちがはっきりと見える。こいつだ。今から俺はこいつをぶち殺しに行くのだ。既にデフォルトに戻ったジョン・ドバンニは声を立てて笑うとうきうきとしたステップでクリプトの中を進んでゆく。


冷たい雨の中、既に空が白み始めている。ジョン・ドバンニは宿屋の男の脳味噌から入手したドリスロウ・ミーアなる人物の友人リストを片っ端から訪問し、問いかけ、ぶっ殺し、それを繰り返してここに至った。

今ジョン・ドバンニは、その一人が漁の道具を保管するために使用している、川沿いの小屋に向かっている。

街を囲むリン川は、続いている雨のせいか、豊かな水をたたえ、逞しく、しかし静かに流れている。降り続く冷たい雨の雨粒は細かく、水面や地面に衝突して立てる音は無い。ジョン・ドバンニの貴族然としたピチピチの寸足らずの衣装は、冷たい雨にずぶずぶに濡れている。

街の中心部と異なりこの辺りは静かだ。密やかな人の気配は感じられるものの、あの真夜中のような熱気に溢れたドロドロとした人臭さは微塵も無い。遊び疲れて眠り始めた誰かの寝返りをうつ気配や、早々と起き出してきた漁師が火を起こす気配が微かに嗅ぎ取れるかそうでないかという程度に、ふわふわと聞き違えのように漂っている。

ジョン・ドバンニは目的の小屋の前に立ち、中の様子を伺う。

人が三人、確かにいる。

ジョン・ドバンニは彼にしては恐ろしく慎重に中の気配を伺った。緊張したまま気配を消そうとしているが、ジョン・ドバンニには丸見えの状態だ。相手に感づかれないようにそっとそれぞれの精神に触れてみる。

一人目は例の軍服の若造だろう。ガチガチに防御を固めている感じだ。こいつは簡単には心に入り込めないと覚悟する。それにしても、誰だかは知らないがロスガルト兵にこういった精神攻撃に対しての防御方法を教えた奴には心底腹が立つ。俺様の楽しみを奪う権利なんざあ、誰にもある訳が無いっつーの。いつか、どっかから引きずり出して小便ぶっかけてボコボコにしてぶっ殺してやろう、と決意して想像してゲラゲラと笑いたくなる。

ザワリ、と背筋が一瞬凍えたように冷たくなる。ジョン・ドバンニはもう忘れていたが、これは純粋な恐怖の感覚だ。

何だ?と思うと同時に、夢想していた意識が現実に戻ってくる。二人目は例の女だったが、これはあまりにも付け焼き刃な感じだったのでさっさと無視する。どうにでもなる、つまりこの件の片がついたら、好きに弄べるって事だ。

最後にもう一人。例の白魔術師に触手を伸ばす。力の抜けた感じだった。無駄な気負いがまるで無い、鍵は空いた状態だ。ジョン・ドバンニは不自然さを感じる。試しにもう少し心の奥まで触手を伸ばしてみる。

とても虚ろな心の中だ。まるで…。

そこでジョン・ドバンニは自分の置かれている状況に気がつく。高速で忍び込ませた触手を引き戻す。この心は偽物だ。奴はどこにいる?

ジョン・ドバンニは自分の触手に何かがまとわりついていることに気付く。これは奴の触手だ。俺様は、自分の力で奴を自分の心に引き込もうとしているのだ。

こいつ何なのだ?俺様のトラップにかかった感触からは、普通の白魔術師と判断した。それ以上のどのような特色も見られなかったからだ。だが今のこの攻め手は明らかに呪術師のやり口だ。奴は呪術も使えるのだ。

にわかには信じ難い。呪術師は白魔術師の中でも著しく特殊な技能者だ。そもそもほとんど存在しないはずだ。更に言えば、呪術を使うものは必ず、徐々に変質してゆく自らの心に敗れ自己を崩壊させてしまう運命にある。そのプロセスをくぐり抜けて自己を保持している呪術師に、もう何百年も生き続けているジョン・ドバンニの核となる精神は出会ったことが無い。この白魔術師は二人の仲間と旅をしている。そもそも呪術師が仲間を持つことなど聞いたこともない。俺様達にとっては周囲の人間は敵か奴隷でしか無いのだ。そう、呪術師のとっての敵は同業の呪術師、その他はただの奴隷どもだ。殺したいときに殺し、いたぶりたいときにいたぶり、働かせたいときに働かせる。この、歓楽街という理由から人の移動が著しく、二国の国境の狭間にあると言うことから警察力の低いリンダスプールという島はジョン・ドバンニ、つまり呪術師の中の呪術師たる彼にとっては理想的な住処なのだ。

目前のガキは呪術師だ。出会った呪術師同士はお互いを攻撃し、破壊して、精神は統合されて行くのが運命だ。最後に呪術師と出会ったのは実はさほど遠い過去では無い。ほんの数年前に若い呪術師がジョン・ドバンニの中に取り込まれた。若いが洗練された術を操る男だった。まるで教科書で読んできたような呪術だった。

だから、既にこのアルシアにはジョン・ドバンニ以外の呪術師は、今はもう存在しないと思っていた。そんなに頻繁に会える相手ではないのだ。まるで、どこかに呪術師を育成するスクールでも開校したみたいだ。

ともあれ、この手口は明らかに呪術師のものだ。事実として建屋の中の男は呪術を使えるという事だ。今は集中して闘い、打ちのめして支配するだけだ。相手が本当に呪術師と言うことであれば気を抜くことは出来ない。

ジョン・ドバンニは敵の呪術使いの本体を探し当てる。彼にはそれが金属で出来た球に見える。早速触手を伸ばすと冷たい感覚がする。絞り上げるようにしてもまるで歪まない。強固な球体だ。ジョン・ドバンニは俄然ファイトが湧いてくる。

そして彼は同時に、例の若い兵士と女に別の触手を向ける。女の方は一撃だ。心の扉を強引にこじ開けて触手をぶち込む、ひ弱な精神に一撃して意識を失わせる。これでしばらくは放っておける。問題は兵士の方だが、こちらは感覚器に圧力をかけてやる。精神を操る前段として敵の三半規管や視力などに影響を与えることはよく行う手法だ。そちらの方が比較的術が扱い易い。視界を歪ませて平衡感覚に干渉する。

確かな手応えを感じる。既に兵士は動けない、それどころか理不尽な視界と平衡感覚の変化に嘔吐すら催しているはずだ。

小屋の入り口を足で蹴破る。

居やがった、居やがった。小屋の中に三人。倒れた女と、膝をついて動けなくなっている兵士の男、もう一人が例の呪術使いだ。先程脳味噌で見た同じ服装をしている。こちらもジョン・ドバンニの闇雲な攻撃に苦痛を感じている表情だ。当然感覚器はほとんど機能していないはずだ。上体がグラグラと揺れている。

ジョン・ドバンニは興奮で自分が抑えられなくなる。震える手で、腰のレイピアを抜く。殺してやる。

一歩踏み出す。いや、思い留まる。焦りは禁物だ。

「分かるぜ、貴様の怯えまくってる気持ちの動揺がよ。」

 まずは精神的な優位に立つ事が重要なのだ、こいつには勝てないと思わせた瞬間に実は勝負は決まる。

「俺様はジョン・ドバンニ。呪術師だ。おめえら、誰だ?」

 返事はない。まあ、予想していたことだ。

「なんかしゃべれよ。」

「何故俺たちを狙う?」

 奴が苦痛の表情で聞いてくる。白魔術師の小僧だ。

「何故って…。あれ?」

 言われて考えるが答えを思いつかない。

「どうでもいいだろ、そうだ、面白そうだからだ。俺様は退屈してるんだ。少しは楽しい思いをさせやがれ。」

 一歩前にでる。

視界が狭窄する。おいおい、生意気にこいつ俺様を攻撃してやがる。

「ジョン・ドバンニ! 貴様の心を見せてみろ!」

 アルが宣言する。名前を呼ばれたジョン・ドバンニは彼には逆らえない。心の扉を無条件に開き、アルの触手を招き入れる。

 ジョン・ドバンニの瞳が大きく開き、口が大きく開き、背が大きくのけぞる。

「グワアアアアアアア、ガガ…、ガ…、馬鹿め!」

 ジョン・ドバンニが笑う。

 アルが差し込んだ触手が突然強い力で引っ張られる。アルはアルの精神ごとジョン・ドバンニの心の内部へ引き込まれた。アルの心を象徴する金属製の球体ごとアルはジョン・ドバンニに取り込まれた。間髪を入れずにジョン・ドバンニの心がバコリと口を閉じる。

 アルは通りを歩いている。既に見慣れたリンダスプールの繁華街だ。しかし体が妙に重い。両手を、足を、腹を、見える範囲を見渡して愕然とする。明らかに自分の体では無い。ブクブクと太った誰か他人の体だ。

 しかし歩く度に上下する腹にもすぐに感覚が慣れてしまう。五歩も歩くと既に自分の体だ。歩く先には沢山の人が溢れている。そして手には自分のレイピアが握られている。既に鞘から抜刀しているのだ。これから自分が何を始めるかに気付いてアルは愕然とする。そして意思に反して群衆に向けて走り始める。

 『止めろ!』、心で叫ぶが声にはならない。アルがレイピアを振り下ろすと目前の男性の背中が切り裂かれ赤い血がアルに向かって噴き出す。間髪を入れずに次の獲物に剣を突き刺す。

 手に、人を殺す生々しい感覚が伝わってくる。恐怖に怯える心に反して、何故かドキドキと気持ちを高揚させ、興奮させるような感覚が盛り上がってくる。ジョン・ドバンニの感覚だ。殺人に快楽を覚える、ジョン・ドバンニの歪みきった、壊れた感覚がアルを襲う。アルの心の中でこれまでにアルと共に育ってきた感性や常識や倫理や徳目が全て否定され、自分の存在が突如として曖昧になる。自己の完全な否定だ。

 アルの人格が行き場を失う。そこにジョン・ドバンニの人格が入り込む。殺人の恐怖が、快楽に変わる。

 「わああああ。」

 現実のアルが叫び声を上げる。アルの心が無理矢理に入り込んできたジョン・ドバンニの巨大な人格を納めきれずに粉々に破壊される。

 景色が一変する。どこか静かな森の中のようだ。目前に一軒家が建っている。アルはもちろんジョン・ドバンニの姿をしている。アルの精神は既にジョン・ドバンニに見せられた殺戮の情景にほぼ破壊されているので彼のなすがままに動くしか無い。アルは無言のまま入り口に近づき、問答無用に扉を蹴破る。

 家には一人の女性がいた。アルが突然入り込んできたので、反射的にかけていた椅子から立ち上がったまま動きを止めている。

 アルは部屋に押し入り、その女性につかみかかった。とっさに女性が身をかわしてアルを避ける。それでもアルは執拗に女性を追いかける。女性の恐怖感がアルに伝わり、それが快感に変わる。

 逃げる女性に追いすがり、アルは彼女をついに捕える。彼女が激しい悲鳴を上げるが、その全てがアルにとって快感に変わってゆく。服を引きちぎり肌があらわになる。床へ突き飛ばし、上から馬乗りに彼女にのしかかる。顔面をはたく。腹を殴りつける。暴力を重ねて女性を黙らせる。

 女性が恨みのこもった鋭い視線をアルに向ける。それ自体が快感になる。もっと恨め!もっと憎め!

 いつの間にかアルの手にナイフが握られている。女性の目が恨みから恐怖に変わる。

 アルは心の底からの笑みを浮かべると、女性の肌に刃を当てる。気の狂ったような叫び声がアルを恍惚とさせる。殺さない、少しづつ切り刻んで気を失うことも許さない。そういった行為が永遠に続けられる。

 気がついてみると自分が何も無い暗闇の世界にいることが分かる。上下も、時間も、光も、何のよりどころもない世界。不安が押し寄せる。その不安に理由は無い。純粋な不安だ。理由のある不安は、理由を解決することで解消出来る。しかし理由のない不安はよりプリミティブな、根源的なものだ。生命が知能を獲得したときに初めて気付いた、永遠に逃れることの出来ない純粋なものだ。これがジョン・ドバンニが突きつけてくる究極の恐怖だ。具体的でないため、映像のような形ではない。ただ意味も無く心が揺さぶられる嫌な感触。自分自身が自分の意思に反して動き出すような嫌な感触。

 傷つききったアルの最後の部分が何とかそれに耐えようとする。しかし敗れるのは時間の問題だ。アルの精神はそれほど長くは持たないだろう。理由のない究極の不安が少しづつアルの精神を侵食してゆく。

「アアア!」

 アルが叫ぶ。おそらくは最後の叫びだ。

 一方、ジョン・ドバンニも激しい苦痛に耐えていた。まるで異なる他人の精神が自分の中で最後の格闘をしているのだ。彼にとってもこれは一か八かの攻撃なのだ。アルとジョン・ドバンニのどちらの精神がこれに耐え続けられるのかが勝敗を、命のやりとりの結果を決める。


「僕はきっと負けるな。」

 その男性は自分を見下ろしている。背の高い若い男性だ。髪はボサボサで、着ている服もボサボサで、黒くて四角いめがねを掛けている。服はしかも丈が短い。まだ成長期の途中に買ったものなのだろうなと呆然と感じる。

 そこがどこであるかは分からない。ただただ白い平らな所だ。自分は仰向けに寝ているが背中が痛くは無いので地面は固くは無いらしい。空も同じ色だ.だからどこからが空で、どこまでが空かがよく分からない。

 男は両手を腰に当ててパンタグラフのように肘を外側に張っている。パンタグラフって何? 服の色は曖昧だ。白いシャツとクリーム色の硬そうなズボン。これってズボンで良かったのだろうか?

「君にお願いがある。」

 男は無表情に言う。木で出来た人形の顔のように、左右に切れ目の入った口が上下にぱくぱくと動く。

「ここから北に進むと『バウ』という村がある。大分先だ。いつかそこに行くときがあったら『フルハヤ・スタルツは死んだ』と村の人に伝えてくれ。」

 いつの間にかアルの手は男に支えられており、その掌に、悪魔ファウナの腕がめり込んだ、悪魔フローラの魔法陣の描かれたその掌に、指輪が一つ置かれている。重さは感じない。実体のあるのもでは無いのだと理解する。ホログラムだ。

「これを見せれば分かってくれるはずだ。」

 その瞬間にアルの脳にバウの地図が焼き付けられる。行くべき場所は記憶した。後は自分の意志次第だ。フッと体がどこかへ落ちてゆく感じに包まれる。

 自分には体の感覚が無いことに気付く。どこも動かないどころか、体が存在する感覚さえ無い。それってどんな感覚?と自問して答えに詰まる。

「君にとっても、いい経験になるはずだ。」

 次の瞬間、男の顔がほんの目の前にある。

「そこには遺跡がある。」

 周りの景色が変わる。自分はその男、フルハヤ・スタルツと並んで立っている。広い草原だ。足先を、風に揺らぐ草の先端が引っ掻く。空は微妙に明るい。これから夜が明けるのだ。太陽は東から上がる。

 隣の男は何も語らない。自分、ああそうだった、アルシリアス・ブルベットは男の横顔と、男の視線の先の景色を交互に見るだけである。

 そして辺りが明るくなると、平原の彼方に黒い巨大な影が見え始める。

 遙か遠くなので大きさは分からない。しかし、巨大であることは心が分かる。巨大な四角いモニュメントに見える。

 平らな平原に唯一横たわる巨大な塊。高さに対して四倍ほどの幅がある黒い影。

「あれが、バウの遺跡だ。」

 男が感慨深げに口にする。この景色がよほど好きらしい。

「僕の故郷であり、君が抱いている多くの質問に答えてくれる場所だ。」

「どうして自分で行かない? そこに見えるじゃないか。歩いてもせいぜい二日で着けそうだ。」

「さっきも言っただろ。僕は君に負けるのだから。いや、そもそもジョン・ドバンニに負けた時点で僕は僕自身を失ったから。」

 景色が切り替わる。どこかの街道だ。路の両脇には高い木が茂り、風に揺らされた木漏れ日が、地面で川面に跳ね返る太陽光のように右に左にせわしなくうごめいている。

 目の前には、隣に立つのと同じ男がいる。その彼と相対しているのが例のジョン・ドバンニだ。見にくい、ぶつぶつの肌の太った男。脂ぎった汗と、パッツンパッツンの貴族ぶった衣装が自分の知っているあの男と変わらない。

 二人は無言だ。動きもない。しかし表情は苦痛に満ちている。今、精神の世界ではお互いがお互いを攻撃し合っている。

 そして時間が流れる。

 ドサリと片方が地面に崩れ落ちる。

「あ、」

 驚いたことに倒れたのはジョン・ドバンニの方だ。隣の男と同じ顔の男は安堵したような表情を浮かべる。アルは慌てて隣の男を見る。

「僕に勝てるはずなどなかったのさ。融合させられてから知ったことだけど、ジョン・ドバンニはもう数百年以上もこの世に存在し、多くの呪術師を自分の中に取り込みながら生きてきたのだから。僕など相手にもならなかったはずだ。」

 男の台詞を待っていたかのように、路上のもう一人の男は急に苦悶の表情を浮かべる。苦しんで苦しんで、両手を地面に着けて、両膝とで四つん這いになった。その姿勢が暫く続く。

 アルから見ても明らかだった。男は激しく体を震わせた後、ぴたりと静かになって、ゆっくりと立ち上がった。

 それは見紛う事もない、あのジョン・ドバンニだった。

 アルはその景色の下から瞼を上げた。また始めの曖昧な世界に、横たわる自分に戻っている。

「だから僕には行かれない。すまないが言づてのこと、よろしくな。君にとってはとても貴重な体験になることは僕が保証するから。」

 男が疲れたように微笑むと、自分の脳味噌の中に、膨大な情報が流れ込んでくるのが分かる。恐らくはフル…。

 ブツリと映像が途絶え、一瞬、目の前は砂の嵐のように何も見えなくなる。そして再びジョン・ドバンニの執拗な攻撃に身を晒される。


 二人の男の、目に見えない、凄まじいまでの争いの中、ジュニアは焦点の合わない視界とグラグラと揺れ続ける天地の中で何も出来ずただその場で苦しんでいた。こんな状態でもジョン・ドバンニによるジュニアへの精神攻撃は続いている。彼には身動きは取れない。

 ドリスは一人意識を失い、場違いな平安の中に居た。『ドリス、もう目覚めなさい。今の彼にはあなたが必要よ。』聞き覚えのある耳触りのよい声が心に安息を与える。その安らぎに甘えてもっと休んでいたくなる…。

『ドリス、いい加減にしなさい!』突然のその声に彼女の意識が覚醒する。

「クリス?」

 同時に耳に飛び込んでくるアルとジョン・ドバンニの怒声。ドリスはガバリと身を起こす。既にしなくてはいけないことは分かっている。姉に教えられたとおり実行するのみだ。恐れてはいけない。殺さなければ殺される。私は人を殺すくらいなら自分が死んだ方がましとは思わない。

 ドリスはふらつく体に鞭を打ってジュニアに近寄る。ジュニア自身はドリスに気のつく余裕は無い様子である。顔中に脂汗をかきながら何かの苦痛と闘っている。ドリスはジュニアの剣に手をかけた。

「お願い、私に力を貸して!」

 ジュニアの剣に嘆願する。この剣はケンドアの祖父が鍛えた悪魔の宿りし剣。訳もなく彼女に従うはずもない。そのことはソウの村でこの剣を盗もうとしたときに知っている。剣に認められなければ鞘から抜くことさえ出来ないのだ。

ドリスは祈る。どうかアルを助けるために力を貸して欲しいと。

『こんな小僧のことなど知るもんか、だがあんたには使われてやるよ。それが今の主の意思だからな。』

ドリスの手でジュニアの剣が鞘から抜かれる。ずっしりと重い。足を広げて腰を落として剣を構える。ジョン・ドバンニを見据える。彼には何も見えていない。天を仰ぐように上を向いて苦痛の叫び声を上げている。

よし、い…。

ジョン・ドバンニが突然ドリスの方へ顔を向ける。彼女を正面から睨みつける。

ドリスの足がすくむ。今まさに斬りかかろうとした瞬間の先を押さえてジョン・ドバンニがドリスを制した。

だめだ、怯んではいけない、行かなくては…。心は叫ぶが体は動かない。行かなくては、行かなくては。心ばかりがはやるが足は動けない。

と、突然彼女が前に進む。『私はいつもあなたと一緒よ』

姉の声が心に響く。ドリスの持つジュニアの剣がジョン・ドバンニのぱんぱんに張った腹に突き刺さる。

「うげえええええーーー。」

 ジョン・ドバンニが信じられないくらい激しく痙攣して後方へひっくり返る。それでも痙攣は治まらず地面の上でばたばたと跳ね回る。生きのいい魚を陸に投げ出したときのようだ。

 ドリスの後ろでアルが崩れ落ちるように地面に倒れる。ドリスはその音を聞きアルに駆け寄る。ジュニアの剣を投げ出してアルを抱き起こす。

こちらもジョン・ドバンニの束縛から逃れたジュニアがすかさず剣を取り、ジョン・ドバンニを振り返る。ジョン・ドバンニは腹に穿たれた穴を押さえながら、ようやくふらふらと立ち上がるところだ。

「何だい、何だい、三人で寄ってたかって、…でも、お前らに俺様の相手なんざあ100年早いぜ。」

 ジョン・ドバンニが、適当なことをいいながらよろよろと小屋の外へ逃げ出す。ジュニアがそれを追って小屋を出る。

「分かんねえかなあ! 100万年早いって!」

 ジュニアの視界がぐらりと歪む。再びの感覚器への攻撃だ。ざまあ見やがれ、まともに歩けるもんか。

 ジョン・ドバンニが視線をジュニアから正面に戻すと何人もの人間が小屋の周りに集まっていた。アルとジョン・ドバンニの異常な叫び声に集まってきた人たちだ。

 背後に殺気を感じる。振り返り、再びジュニアを見る。奴がこちらに斬りかかってくる。

げげ、まさかと思うがこいつ普通に動いてやがる。なぜそんな風に歩ける。いま、奴の三半規管はぐにゃぐにゃのはずだ。歩くどころか立ってさえいられないはずだ。

 いや、そんなことはどうでもいい。実際に奴は立って歩いてこちらに向かっているのだ。何かしなくては、ずたずたに切り裂かれる。剣の技術では自分がこの若い兵士の足元にも及ばないことはわかりきっている。精神攻撃が利かない今、自分に何が出来るのかすぐに答えを見つけないと生き残れない。ほんとに俺様はジョン・ドバンニ様か?不敗無敵を誇った俺様が、こんなどこの誰ともしれない小僧ども三匹に殺されそうになっているのか? 

 ジョン・ドバンニは彼のすぐ横に立つ男に視線を送ると瞬時にコントロール下に入れた。斬りかかるジュニアに無防備のまま正面から体当たりさせる。ジュニアはそれを避けきれずに激突され転倒する。これは使える。瞬時に周りに居る全ての人間を制御下に入れる。

左右から二人、同じくジュニアに向かわせる。キズを押さえる手の指の間を抜けて、腹からドクドクと血が出ていたが今は構ってはいられない。今はここからとにかく逃げ出すことだ。弱々しい足取りでトボトボと前へ進むが、すぐに力なく地面へへたり込む。

畜生、歩くこともままならねえ。

男を一人呼びつけて自分を背負わせる。

残った人の群れを後方のジュニアに向かわせて、ジョン・ドバンニは男に背負われたまま、男をアジトのある教会へ向かわせる。


 ジョン・ドバンニからジュニアに向けて放たれた呪術は全て彼の剣に食い尽くされていた。この剣は白魔法を喰らう剣。鞘から抜かれた瞬間から、貪欲にジョン・ドバンニの放った魔法を喰らい続けているためにジュニアには彼の呪術が及んでいない。

 ジョン・ドバンニがジュニアに向けて放った街の人々はジュニアの剣の技能には対抗する術もない。ジュニアは何の罪も無い相手達に気を遣いながらも確実に沈黙させる。命には別状無いのだ、骨折程度は勘弁してもらいたい。

程なくジュニアは彼に群がる人々を全て静かにした。彼の動作はほとんど無駄無く行われたが、見回すとあの太った汚らしい男は見失ってしまった。卑怯にも人の壁を盾にして逃げ去ったのだ。ひとまず小屋の中のドリスの方へ向かう。

「大丈夫か?」

 ドリスに尋ねる。ドリスは怯えたような表情でジュニアを振り仰ぐ。

「大丈夫とは思うけど、何も反応してくれないの。」

 ドリスに抱かれたアルを見る。怯えたような瞳のまままるで動かない。瞬きさえしていないようだ。口も中途半端に開き固まったように動かない。

「おい!」

 まるで反応がない。不安と恐怖が押し寄せてくる。

「どうしようどうしよう、お医者に連れて行くしかないの? と言っても普通の病気とは違う…。」

 ドリスがパニックに支配されたまま声に出す。

「そうだ! わたし、最高の医師を知ってるわ。お願いジュニア手伝って。ここから東のオルバットの村に彼を連れて行けばきっとアルを元のように直すことが出来るわ!」


 ジョン・ドバンニは路を進んでいる。既に自分で歩くだけの力は無い。意識はだんだんと薄くなっている。この肉体がすぐに滅びるのは確実だ。

 辺りは既に朝になっている。リンダスプールの込み入った路地にも明りが差し込んでいる。

 意識の朦朧とした中で、ジョン・ドバンニは自分の進む方向に巨大な影が立ちふさがっていることに気付いた。

「お前がジョン・ドバンニか?」

 男の声が遙か上方から聞こえる。どうやら男は馬上にいるらしい。馬の渡れないリンダスプールでは決して見ることのない光景だ。しかし、今の弱り切ったジョン・ドバンニにはそのような事は頭にも浮かばない。

「ああ、そうだ。」

 ジョン・ドバンニがいかにも億劫そうに答える。

「貴様は?」

 馬の上の男がジョン・ドバンニの上の方から、名前を名乗る。

「ふうーん。」

 ジョン・ドバンニはやる気なさそうに反応するだけである。

「で、俺様に何の用だ?」

 相手は答えない。

「分かってるよ、あんたは俺様が気に入らない。だから締めに来たって事だ。」

 そこでようやくジョン・ドバンニは重たい体を捻って声の主を見上げた。逆光で顔の詳細はジョン・ドバンニには見えない。更に、既にジョン・ドバンニは著しく弱っており視力も低下している。ただ、その男が背も高く肩幅も広い逞しい巨体の持ち主であることだけは把握出来た。

「…よ、お前の影は既に縫われた。貴様はもう動けない。」

 それだけ言って、町の男に背負われたままのジョン・ドバンニは大男の大柄な黒い馬の横を無造作に抜けてゆく。横目にちらりと見ただけでも彼がこれまでに見たこともないほど美しい馬だと分かる。毛並みが輝くように艶々している。肉付きもよく足の筋肉が惚れ惚れする程逞しい。

「いい馬に乗ってやがるな。でも俺様と闘おうなんて1,000万年はえーよ。」

 その声に黒馬がゆっくりと向きを変える。

「どういう意味だ?」

 背負われた状態のままジョン・ドバンニが上体を起こして驚きの表情を浮かべる。

「貴様…。影は…?」

 にわかに空に雲が広がる。気温が下がり。再びあの冷たい雨が降り始める。黒馬上の大男を中心に冷気が広がる。息も凍るような冷気だ。石畳の上の雨の水分が大男を中心に凍ってゆく。降り始めた雨も、氷り、雹に変わる。

 二人は擦れ違ったことにより、光の向きが反対に変わる。今度は男の顔がはっきりと見える。馬上の男は老人だ。髪は半ば白く、顔に刻まれた皺も、長い間日差しに焼かれて出来たシミの類いも、その大男の長い人生を物語っている。しかし、手綱を握る腕の筋骨は逞しく、背筋もピンと、ほんの少しの隙も無く馬上に直立している。

 ジョン・ドバンニの背筋に恐怖が走る。これは先程一瞬だけ感じたあの感覚だ。

「それじゃあ、小便ぶっかけてボコボコにしてもらおうか…。ジョン・ドバンニよ、愚か者よ、お前の相手など、この男で十分だ。」

 大男が無表情にそう言うと、地面が細かく振動した。石畳の路が闇と同化したように真っ黒に染まる。そしてその闇の井戸の底から何かが浮かび上がってくる。

「おおおおおお、ジョン・ドドドドドバンニよ、久しぶりだな。お前のことは決して許さぬ。」

「おい、なんだ、なんだ。」

ジョン・ドバンニが彼を背負う男と共にずぶずぶと闇に引き込まれてゆく。男はその底なし沼のような黒い穴から逃れようと必死に前進しようともがく。その背後で、逆に闇の奥からは一人の帯刀した士官が浮かび上がってくる。

「恨めしやジョン・ドバンニよ、今こそ我と共にこの地獄の底へ行こうではないか。」

「誰だよお前、何だ気持ち悪いぞ。」

 浮かび上がってきた男はジョン・ドバンニに近づきその腕をとった。

「我は、ドンナ・アンナ。貴様に対する恨みを晴らさんがため、貴様を地獄へ引きずり込むため、自ら、自らを地獄へ落とし、その機会を待っておった。我の血に染まりし、我が娘チエリアの髪を持つ限り、我が目が盲いて光を失っても、貴様を見失うことなどあるものか、貴様に屠られし無念を今、晴らさん。」

「だから、ドンナってあんた誰だってば、俺様はあんたなんか知らないってば。どんな奴だよ。あんな奴かよ。」

 そう言いながらジョン・ドバンニはドンナ・アンナに腕を捕まれて地獄の底へと引き込まれてゆく。ドンナの腕は、ジョン・ドバンニの腕を手繰り、肩に届き、胸にかかり、腰に巻き付いてジョン・ドバンニを完全に拘束した。

「やめろよ、おい。男に抱きつかれたって嬉しくないぞ。」

 もうドンナ・アンナもジョン・ドバンニも腰から胸の辺りまで闇に引きずり込まれている。先程までジョン・ドバンニを担がされていた男は、いつの間にかジョン・ドバンニを放りだし、ようやく泥沼のような闇を抜け出して、そして石畳の路を一目散に逃げてゆく。

「おい放せよ、分かったよ。ドンナ、俺様はあんたのことを知っている。あれだろ、何日か前に居酒屋で一緒に飲んだあの時のドンナだろ。」

 もちろんドンナ・アンナは返答しない。恨み重なるジョン・ドバンニを地獄に引きずり込める快感に浸って既に意識があるようには見えない。

「頼むよ、ドンナ、ゴボッ!」

 ついに闇がジョン・ドバンニの口元まで来た。二人とも石畳に開いた地獄行きの黒い穴に沈んでゆく。

「止めろよ。勘弁、がぼぐお…。」

 ジョン・ドバンニとドンナ・アンナが完全に地獄に沈んでしまうと、辺りは静かになった。

 馬上の老人が今黒い穴が塞がったばかりの石畳を見下ろしている。

「小賢しい。」


 男は一目散に逃げている。先程までジョン・ドバンニを背負わされていたあの男だ。しかしどこか先程と雰囲気が違う。男を凝視していると男の、特に特徴の無い顔つきの裏側から、毒の強いジョン・ドバンニの表情が現れてくる。

ジョン・ドバンニには簡単な技だ。何百年もの間、数多くの人間の精神を乗り移りつつ生きながらえてきたジョン・ドバンニにとって、他人の心に入り込みそれまでの肉体を捨てて生き続けることは生きるための普通の方法に過ぎない。

男の精神を乗っ取ったジョン・ドバンニはリンダスプールの複雑に入り組んだ路地を、考えもなく行き当たりばったりに駆け抜けてゆく。必死の形相だ。何だか分からないが、あのデカい非常識なくそジジイに目を付けられてしまったようだ。俺様は何も悪くないのに迷惑な話だと思う傲慢なジョン・ドバンニは、原因が自分にあるとは夢にも思わない。

目の前に三叉路が見える。三叉路の脇にはいつものように石の像がある。地面に寝そべる犬を彫ったものだ。『昼寝する犬』と書かれている。

 ジョン・ドバンニはT字路を90°曲がった。そして、バッと踏みとどまる。

 目の前に巨大な影がある。馬にまたがった大柄な老人だ。どこまでも冷徹な無表情のまま男を見下ろしている。あーあ、嫌になっちゃうなあ、もう。

「待った。分かった。もう逃げねえ。あんたの勝ちだ。俺様の負けだ。謝る。謝るから、命だけは…。」

 ガバリと動いてジョン・ドバンニが石畳に土下座をする。暫く待って、首を捻って老人を見上げる。

「土下座までしたんだから、もう許してちょ。」

 ジョン・ドバンニが気持ち悪く笑いかけてくる。

「口先だけの、無様な男だ。」

「お願いデスじゃ、お侍様あ、どうぞお目こぼし下せえ。」

 再び地面に額をこすりつけるように頭を下げる。

「ジョン・ドバンニよ。無駄なことは止めよ。貴様は俺が嫌いだし、俺も貴様が嫌いだ。何をされても許す気など毛頭無い。」

「ざけんなよ、くそジジイ! このジョン・ドバンニ様が、心にも無い嘘とは言え謝ってやってんだぞ、許してやるのが当たり前だろう!」

 怒り狂って立ち上がったジョン・ドバンニに対して、馬上から老人が無表情に手にした槍を放った。ジョン・ドバンニの体が貫かれ、槍は石畳の石に食い込んでジョン・ドバンニを串刺しにする。

 辺りが急に静かになる。槍に貫かれたジョン・ドバンニが無様に石畳の街に屍をさらしている。

 老人は馬を進めて槍を引き抜いた。既に命を失ったジョン・ドバンニの遺体がズルリと地面に横たわる。

その瞬間、老人が鋭く視線を移動させ、そして三叉路の方を見る。

 例の石像の上に黒いカラスが一羽とまっている。

「ほお、全く小賢しい奴よ。こんなことで俺の目を誤魔化せるとでも思うのか?」

 老人は何故か少しだけ嬉しそうに、そう言った。老人のその言葉に、カラスが大きく羽を広げて舞い上がろうとする。しかし。

 しかし足が離れない。カラスは大声で泣き叫びながら懸命に羽ばたくが、犬の石像にとまった両足が像から離れないのだ。よく見ると、カラスの足が石の像と同化し始めている。カラスの足元から徐々に、カラスが石化し始めているのだ。

「ジョン・ドバンニよ、お前は本当にくだらなく、本当に面白い奴だ。」

 馬上の老人は、思いの外楽しそうな口元でそう付け加えた。カラスが一瞬だけ、老人を睨みつける。

 更にカラスは大声で叫び続け、徐々に石化を続け、そして辺りは再び静かになった。昼寝する犬の像の上で羽を広げて石と化したカラスは、まるで両足に獲物を捕え飛び立とうとしているように見える。ジョン・ドバンニを封じた石像は、その後『昼寝する犬』から、『獲物を捕えたカラス』という呼び名に変わる。しかし街中の地図が記載を変えるまで、しばらくは路に迷う人が多く出ることになる。

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