第2話 ポペット

 その大陸全体を初めて宇宙船から見下ろしたのは、ジークムント・フェイル、リズズ・バウという二人の科学者だった。夜の大陸は暗黒に包まれ、一点の光もなく闇に沈んでいたという。

 それから長い時が流れ、今その大陸『アルシア』には多くの人が住むようになり、夜は闇だけが支配する時間ではなくなった。

 まばゆい灯りの集中する大都市ロガリアの北、大昔の暗黒の大陸を思い出させる『ポペットの森』、そんな奥深い森に、今夜はいくつかの灯りが見えている。その中の二つ、少し離れて灯るその二つの灯りのそばにはそれぞれ一つの影が寄り添っている。

 既に冬は明けたとはいえ、まだまだ夜間の気温は低い。アルシリアス・ブルベットは厚手の毛布にくるまって眠っている。背中の石畳は硬く、眠っていても無意識のうちに時々寝返りをうっているようだ。

 ハッ、として目を開ける。目前に人影、アルにはすぐにそれがシトラウト・シュミッツ・Jrだと分かる。しかも鞘を外した剣を手にしている。

「おまえ、だからすぐに剣は抜かないと約束しただ…。」

 怒って上半身を起こしたアルの口元が塞がれる。

 ジュニアの真剣な表情にアルも言葉をとめる。周囲の気配を伺う。奴らが戻ってきたのかと恐怖が心を襲う。

ジュニアが森の一点を見つめている。

 アルにも分かる。あの中だ。複数の気配。しかし奴ら、あの黒魔術師や悪魔ではない。

 ジュニアが立ちあがる。アルもそれに倣う。森の中の暗闇を今一度凝視する。

 ガザリ、と音がして人影がゆっくりと森から石畳の街道へ出てくる。黒い人影だ。二つの焚火に照らされて、おぼつかない足取りで二人に向かって歩いてくる。人影は五・六体か。いや、まだ森の中にいるかもしれない。

「ボゴーッ!」

 一体が叫び声をあげる。しかし顔には、本来あるべき目も口も鼻も耳もない。のっぺらぼうの、マネキンのような人形と変わらない。服も着ていないし、よく見ると手の指もないし、手足の関節のつくりなど大雑把でいい加減だ。二人を捕まえようというのか、両腕を前に伸ばすようにしてぎこちなくこちらに歩いてくる。

 ジュニアが剣を構え直す。

「何だ、あれ?」

「ゴーレム。」

 それだけ言ってジュニアが黙る。

「で? 名前だけ言ったってその知識、役に立たないだろ!」

 わめくアルをスルーして、ジュニアが前に出た。手近な敵を袈裟に切る。

「ボグオ!」

 ゴーレムの上半身が太刀筋に沿って滑り落ちて地面に落下する。落ちた上半身はその衝撃でボロボロに砕け土と泥の塊に変わる。

 ジュニアはまるで敵を切った気がしなかった。勿論こちらに向けられた殺気もそのままだ。この泥人形をただ切り倒すだけではだめなのだ。

 上半身を失ったゴーレムの、残った下半身も同様に地面にボロボロと崩れた。ゴーレムの立っていた場所に泥の山が出来る。

ほんの数秒の後、出来たばかりの泥の山が、今度はもぞもぞと動き始める。泥たちは重力に反して盛り上がり、そして再び人型に戻って立ち上がる。

「なんだこりゃ?」

 その理不尽さに驚くアルの声を普通に無視して、ジュニアが無感情に再度切りかかる。縦に横に斜めに、これでもかと言わんばかりに泥人形を滅多切りにする。

 再びジュニアの目前に泥の山が出来る。そして当たり前のように、理不尽に人型に戻る。

 緩慢な動きしかしない人型に比べて、泥の山から人型に戻るのにはさほど時間がかからない。アルにはこの生物の行動の意味がよく分からない。いったい何がしたい?

 アルは手にした木製の杖で、緩慢な動きの人型を怖々とつついてみる。胸の辺りをつつくと確かな手応えがある。二度三度とつつくうちにアルにも油断が生じる。

「ボガオ!」

 胸から突然泥の突起がアルに伸びる。先端には丸い開口部と無数の歯。それが杖を噛み砕き、更にアルに襲いかかる。

「うわ!」

 その時横から、ジュニアの剣が泥を切り崩す。後ろに尻餅をついたアルの目の前に泥の山が出来る。すぐに人型に戻る。アルを見下ろす。アルにはそののっぺらぼうな顔が笑っているように見える。怖っ。

泥の中に本体がいるのだ。泥人形の中を自在に動き回り泥人形をコントロールしている。想像するに、倒しても、倒しても何度倒しても復活して襲ってくる。逃げても、逃げてもいつまでも追ってくるのだろう。泥の中では妖獣の動きは早く、ジュニアの腕でもなかなか切れないようだ。嫌な生き物だ。

「逃げよう。」

 アルが提案する。ジュニアは眉間に皺を寄せたが、反論はしない。

「こんな、時間も労力も無駄にするばかりの敵といつまでも戦っていても仕方が無いだろ。時として、逃げることが最高の勝利への方法だ。」

 ジュニアに言うと自分はさっさと荷物の方へ走る。いつでも移動出来るようにまとめてあるのは旅慣れている証拠だ。ジュニアも追ってくる。二人が荷物を持って街道を走る。すぐにゴーレム達は見えなくなった。奴らは石畳の街道から、森へ入っていったようだ。

 アルが速度を緩めてジュニアを見る。あの人型の速度なら歩いていても追いつかれることはないだろう。

「なっ。」

 ジュニアが足を止めて森を見つめる。アルもつられて同じ方向を見る。

「ボグオオ!」

「じぇ。」

 森からゴーレム達が現れる。のたのたとおぼつかない足取りでアルたちに迫ってくる。

「土の中は高速で移動する。」

 知ってるなら先に言え! アルの怒りが頭のてっぺんから蒸気になって噴き出す。

 深夜のポペットの森、二人は街道の石畳の上にいる。月明かりの中、十体近い泥人形が二人に迫ってくる。

「所詮、泥だろ!見ててみな! …ティンクフラスト、空気に潜みし水の精霊たちよその悲しみの刃を持って未熟なる我に手を貸さん、ソルドクランツ…。精霊の力によりて、全てを砕かん!」

 アルの足元に水溜まりが形成される。空気に含まれる水分が飽和水蒸気量以下で結露して急速に液化してゆく。水溜まりは広がり、そこから何本もの水柱が立ち上がる。まるで鎌首をもたげた蛇のようだ。

 アルが杖を振る。それに合わせて水の柱が弾丸のようにゴーレムを襲う。

 水に弾かれるゴーレム。あるものはその場で粉砕され、あるものは人型を保ったまま弾き飛ばされて森へ倒れ込む。水の流れが辺りを縦横無尽に駆け回る。それは航跡をはっきりと残して飛び回る蜂の群れのようである。

 そして暗闇の中、辺りが急に静かになる。水流たちは既に姿を消した。立ち、歩き回っていた屍鬼のようなゴーレムたちも、今ではその気配も消失した。もうそこには誰もいない。ポペットが静かな夜に逆戻りする。周囲は水に溢れ、履物の厚みほどの深さの水が一面に溜まっている。水、水、水。ゴーレムを構成していた泥は水で薄まり、塊を形成できない。

 何も見えない中、ポペットの奥深い闇の中、近くに音だけが聞こえる。バシャバシャと水を叩く音だ。アルの作った水溜まりで何かが跳ねているのだ。

「フェムアリシウム、火と炎を司りし精霊たちよ、今こそ我を信じその怒りをもって我に力を貸したまえ。セム・ブラフ・ガシス。」

 アルが小声で唱える。アルの周囲の空中でボオッと炎が発生する。アルの作り出した人魂のような灯りが辺りを優しく照らす。

「ボグオオ!!!」

 アルの視界に突然、何か暗い色の塊が飛び込んでくる。顔面に食いつかんばかりに襲いかかってくる。

「うわっ!」

 辛うじて杖で顔を守る。瞳の50mm先で、杖にかじりついた妙に白い尖った沢山の何かがワサワサと忙しく動いている。先程折られた杖が更に短くなる。ああ、もう使い物にならない。

 アルが壊れた杖でそれを払いのける。バシャリとそれが水溜まりに落ちる。

 蛇?というよりミミズ? でなければ足のない芋虫に見える。直径100mm位、長さは500mm位か、リングのような節が連なって体を形成している。色はまさしく土の色そのものだ。体の一端が口になっており、外径と同じ寸法までの大きな口が開いている。その中の一面にびっしりと、妙に白い尖った歯が生えている。さっきアルの目の前まで来た奴だ。

 アルが驚いて体を引く間に、その生き物は水に潜ってどこかに消える。

「何だ!あれ!」

 取りあえずジュニアの方を向き、消えた生物の方を指さしてアピールする。

勿論ジュニアからの返答はない。

 ガザリ、バキボキバキ、と大きな音がする。二人が、ドキリとしてそちらを見る。街道脇の森の中からだ。…ゴーレムが現れる。

 ズーーーン。

 二人はそれを見上げた。二人の首が同時に45°以上傾いて上を見上げる。

現れたゴーレムの背丈は、遥かに3.0mを越えていた。アルの作り出した白魔法の水が、辺りの土を泥に変えゴーレムを巨大化させたのだ。先ほどと違い、ゴーレムからは水滴のような泥がしたたり落ちている。

水が引き始め、周囲では別のゴーレムたちも再び人型に戻りつつある。結局アルはゴーレムを大きくしただけである。

「勘弁してくれぇ。」

 アルが弱音を洩らす。

一方ジュニアは相変わらず無表情で、でもどこか少しだけ嬉しそうに、その泥の巨人に切りかかる。石畳に広がる水を軍靴で叩きながら切り込む。

 彼はなぜか左足に切りかかった。ズバリと足が切断される。ジュニアが『チッ!』と舌打ちするのがアルにも聞こえる。切ったそばから泥の足は接合する。ジュニアは森の方へ駆け込むと太めの木に蹴りかかり、三角飛びの要領で反転し、ゴーレムに飛びかかった。ゴーレムの左胸辺りを刺し貫き着地する。

「ゴボ、オ。」

 ゴーレムが不自然に動きを止める。

「ゴボ、 。」

 そして泥人形は崩れ落ちた。バシャリと大量の泥が辺りにはじけ飛んでアルを泥だらけにする。その中に、例のミミズの体が半分に切断されて落ちていた。ジュニアが的確に本体を切ったのだ。

 アルを振り返る。

「気配はつかんだ。」

 とんでもないことを言う。そんな気配アルには微塵も感じられない。剣術オタクを極めると妖獣の気配さえピンポイントで感じられるというのか!

 しかしまだ、倒したのは十匹ほどいるゴーレムのうちの一体のみだ。残りのゴーレムが再び緩慢な動きで二人に向かって来る。

 ジュニアはあからさまに面倒くさそうな顔をした。えっ、もう飽きちゃったの?おいおい早すぎるよ、ここにいる分をやっつけてからにしてくれよ、とアルはびっくり。

 敵に囲まれた状況でこんなことを考えるのも何だが、何かこいつ天然な上に、分かりやすいと思うと少しだけ親近感がわく。いやいや、待て待て。

 アルは再び唱える。

「セム・ブラフ・ガシス!!」

 アルの得意な炎の精霊の出番だ。アルとジュニアとの二人を空気の膜が包み込む。その外側に超高温の青い炎の渦が巻き起こる。

 焼き尽くせぇ!!!!!!!

 その炎は数十秒に渡りアルたちの周囲で荒れ狂った。炎の嵐が数百度から数千度の世界を作り出す。すべては焼かれ灰に帰す。高温は急激な上昇気流を作り出し、生成された灰は全て高速で上空へ巻き上げられる。

 炎の渦は激しく燃え盛った後、突然消え去った。

 アルとジュニアの周りは数十メートルの半径で焼き尽くされた。あれだけ密集していた木々も既にその姿は無い。街道沿いのそのあたりだけ何もない焼け野原になる。ただ、見回すとオブジェのような複数の人型が立っている。さすがのアルの炎でもゴーレムの泥の体は焼き尽くせなかったのだ。

「ボゴ?」

 じぇじぇ?

 こいつらまだ生きてやがる。ゴーレムがバキバキと、関節で音をたてながら動き始める。ジュニアは迷わず切りかかる。

 ズバッ、・・・とはいかない。アルが炎で焼いたゴーレムは泥のゴーレムから、素焼きのゴーレムに進化してしまったのだあ!!!!しまったのだあ!

 しかも切られてパキンと脆性破壊するなら可愛いものを、ジュニアの剣が中途半端に切り込んだところで、噛みこんで抜けなくなってしまう。ジュニアの剣はゴーレムの体に刺さったままだ。おいおい、どうするよ。ジュニアがぐりぐりと剣を捏ねるが抜けやしない。

 ゴーレムは進んでくる。抜けない。進んでくる。抜けない。進んでくる。ガーーーー!

 と、そこでゴーレムが突然歩みを止める。焼かれた堅くなった表面に無数の亀裂が入り砕けると同時に、内部の泥も突然ボロボロと崩れはじめる。再び足下に泥の山が出来る。そしてその泥の山から、ミミズのような本体が飛び出して高速で石畳を這って森へ逃げ込み土に潜り込む。

 その突然の反応に二人は、…いや呆気にとられてなどいない。二人とも真剣な表情で森の奥の同じ方向を見つめている。

「何か来るぞ。さすがは世に名高い妖獣の森、何せここはポペットの森だもんな。」

 アルがジュニアを見ると、ジュニアがアルに笑いかけた。また新しい獲物が来たと思えば現金な奴だ。ああ、こいつやっぱり壊れてるよ。

 まさにそれは森が爆発したようだった。先ほどアルの炎が焼き尽くした森の境界の向こうから巨大な何かが飛び出してくる。

 ヒュドラ。

 九つの首を持つ大蛇だ。全長は20m以上あるかもしれない。アルの放った炎の残り火で、ギラギラと照らされる無数の鱗がメタリックに輝いている。

「炎は効かない。」

 ジュニアが小声で言う。1m以上の直径の体はキラキラと光る無数の鱗で覆われている。磨き抜かれた鉄のラメラーアーマを着用した兵士を連想させる。鱗の下の皮膚も防火性が高く炎よけの外套に使われる素材だ。顔は正に蛇そのもので、三角形に尖った顔の正面には目が並んで二つ。三角法で正面の敵との距離を正確に測るためであるのはファイヤードラゴンの目と同じ原理だ。口から赤くて細い舌がちょろちょろと出たり入ったりしている。外皮を覆うメタリックな鱗も常に脈動を繰り返し外皮に空気を送り込んでいるようだが、皮膚と鱗の構造から、外皮を通じての体温調整が困難なのであろう。

「剣だって歯が立ちそうも無いじゃん。」

「鱗の隙間。」

「やったことあるのか?」

「無い。」

 最後の一言、この人、今『おまえ、何言ってるんだ?』、とでも言いたげな声色だった。ジュニアは戦う気満々だ。でも、逃げるという選択肢もあるだろう? いや、きっとこの人には無いんだろうなあ。

とはいえアルとジュニアとの初めての会話だ。『祝』だ。だから、そんなことはどうでもいい、今はヒュドラが目前にいるんだよ。

 ジュニアの横顔を見ながらアルがそんなことを考えている間にも、ヒュドラの九つの鎌首がそれぞれ勝手に動きながらこちらへ近づいてくる。九つの首は自分勝手に様々な動きをしていて、こちらに注意を払っているとは思えない。いや、そうやって敵の集中力を散漫にするのが目的かもしれないと疑ってみる。そもそも頭が九つもあったらどうやって体をコントロールするんだよ。実は頭は一つで、他の八つはダミーなんじゃねえの?

 ジュニアの言うように、炎が効かないとすると、水や空気を出来るだけ尖らせて針のようにして奴に突き刺すか、岩の塊をぶつけるようなことしかとっさには思いつかない。前者は一撃あたりのダメージが小さいし、後者では衝撃が閾値を超えない場合、何の役にも立たない。

 後は空気を遮断して窒息させるとかだが、そんなことはやったことが無い。自分に生き物を殺すために特化した白魔法の技能は無い。

 アルは迷った末にジュニアにこう提案した。

「俺があんたに盾を提供する。あんたは存分に戦ってくれ。」

 ジュニアは隣に立つアルの方に首を少しだけ回して、アルの目を数秒だけじっと見る。そしてヒュドラに向き直った。

 ジュニアがヒュドラに向かって大きく踏み出した。それはこの小さな戦いを始めるための一歩であると同時に、遠い未来に成し遂げられるアルシア統一のための最初の一歩でもあった。


 夜は既に明けていた。もう自分たちがどこにいるかなどまるで分らなかった。周囲の樹木はことごとくなぎ倒されている。ヒュドラの赤い血がいたるところを赤黒く染めている。酸化が進んでいるのだ。所々に切り落とされたヒュドラの首が落ちている。探して数えれば九つになるはずだ。

 アルは仰向けに体を投げ出して、空を見上げている。呼吸がまだ落ち着かない。体中が傷みで軋んでいる。目を閉じる。

しばらくすると瞼を通して瞳を刺激する光が、ふと弱まる。アルは目を開く。

 視線の先にジュニアの顔がある。アルを見下ろしている。逆光で分かりにくいが、何だかとても無表情に見える。左頬から首にかけて火傷の跡が生々しく残っている。アルのつけたものだ。

「疲れたあ。」

 アルが目を再び閉じて、口にする。

ジュニアの反応はない。

 アルが目を開ける。ジュニアが少し恥ずかしそうに先程のままアルを見下ろしている。アルが上体を起こした。

「ここ、どこだろ。一休みしたいけど、寝ちゃったらまた夜になりそうだ。」

 ジュニアが無言で、考えるような顔をする。両手にはいつもの革球を握っている。

「だって、また夜になれば変な妖獣が襲ってくるかもしれないじゃ…。」

 ハッとしてジュニアを見る。目が明らかにワクワクしている。アルは0.5秒で立ち上がると辺りを見渡した。何としても日のあるうちにソウの村へ辿り着かねば命がいくつあっても足りない。


 ポペットの森にある唯一の村がソウの村である。過去にはこのポペットの森を抜ける街道は、北東の漁港オルバットとロガリアを結び、多くの海産物の流通経路であった。ポペットの森は一日では抜けられないため、物資の輸送に携わる全ての人と荷がソウの村に宿泊し、移動したとされる。

 今二人の目前に石造りの高い壁がそびえている。その高さはロガリアの城門を遥かに超え、20m程もあるように見える。

二人がたどってきた石造りの街道は、基本的にポペットの森を南北に縦断する一本道であるが、この場所でだけ50m程の直径の円形の広場になる。その広場の東側にソウの村の入り口となる木製の門がある。

 木製の門は、幅が5m、高さは10m程もある大きなものだ。荷馬車が余裕ですれ違える大きさに設計されているのだろう。今、目前の門は閉じられている。

アルが門に取り付けられた、人が出入りするための小さな扉をノックする。ドンドン、ドンドンとしばらく叩き続ける。既に日は西に傾いている。今日は、昨日のようなエキサイティングなのはごめんだ、こちらは必死なのだ。

 大分経ってようやく内側に人の気配がする。

「誰だ。」

「旅の者です。中に入れてはもらえませんか?」

「そんな、どこの誰とも分からん者を入れられるか。」

 即答であるが、なるほど、もっともな話である。

「赤の騎士団です、入れてください。」

 横からジュニアが男に話しかける。男がしばらく考えるように沈黙する。小さなドアの、顔の高さに取り付けられた、更に小さなのぞき窓が開く。中の男の疑り深そうな顔が見える。年老いた、痩せた老人だ。ぎょろりと二人を見る。二人が少し困ったように愛想笑いを浮かべる。

「…。」

男は二人の周囲を確認して、そしてバタンと窓が閉じられる。

「赤の騎士のくせにドラゴンを連れておらん。」

 ごもっとも。ジュニアの革球が大きく変形する。

「今日はちょっと用があって連れて無いだけなんですよ。どうか信じてください。」

 アルがすかさず出任せを言う。

「何か証拠は?」

 うむ、アルはハタと困る。このおっさん、見かけによらず仕事が出来る。

 さて、赤の騎士に警察手帳のようなものは無い。ああ、とそこでアルが思いつく。

「この村に、ビルジ・ヴァルメルという方はいませんか? その方を頼って旅をしてるんです。」

 実際の所、アルには既にこの『ビルジ・ヴァルメル』なる人物に会うつもりは無かった。最後の別れ際に、ジリアラスから聞かされたこの人物の名前は、アルにとっては、ジリアラスと後で必ず再会するための待ち合わせ場所程度の認識に過ぎなかった。ジリアラスが他界した今、ビルジとやらに会う理由は彼には無い。

 村の中に入り込むきっかけがつかめない今、何か話のとっかかりになれば、と名前を出してみただけのことである。

だが、相手の反応は極端だった。

「なんと。」

 男のびっくりしたような声がする。ガチャガチャと金属製のカギをいじる音がして、慌ててガチャンとカギを落っことす音までする。

 扉が開かれた。『ビルジ・ヴァルメル』は魔法の呪文か!

「まず入りなさい。ビルジ様のお知りあいとは露知らず、大変失礼を致しました。」

 男は丁寧に二人を招き入れた。

 男はそれ以上、そのビルジ・ヴァルメルという人物の事を聞こうとはしなかった。アルたちとしても、折角中に入れたのだ、余計なことを言って今度は追い出されでもしたらたまらない。好都合だった。

 そこは広場になっていた。

 ソウの村を囲う壁は、ロガリアの城壁のように堅牢には見えなかった。想定する敵が妖獣だからだろう、厚みは1m程しかない。壁を抜けたところの左手に木造の小屋があり数人のガラの良いとは言えない男たちがたむろしていた。皆、腰に立派な剣を装備している。歳は様々だが、皆が鋭い目つきをしている。村を守るために雇われた用心棒というところか。金でどこへでも動く男達だ。

 ロスガルトには警察は存在しない。町の治安を維持しているのは軍だが、軍も本来の目的は国家間での争いを解決するためのものだ。従って国境付近や大都市にはある程度の部隊が配備され、警備と同時に治安の維持にもあたるが、地方の小さな村々に配備されるはずも無い。そこで村では自らを構成員とする自警団を組織して自衛するのが通常の姿だが、軍は同時にそう言った自警団が勝手に周辺を統治することも許す訳には行かない。そこで、彼らをコントロールするために区域を区切って特定の自警組織に治安維持を委託して活動させるのが一般的である。しかし、ポペットの村は、村とは言え個人の土地である。外部から隔離されて軍の目が届きにくいし、他の住民がいないので所有者自身がある程度の武力を持って自らを守らなくてはならないのは当然である。ここは、安全は国民の権利として全てに平等に与えられるものではない世界なのである。

 広場は一辺が100mはあろうかという広さで、一面石畳が敷かれている。石畳には縦横に幅500mmほどの溝が掘ってあり、溝の近くには等間隔に直径150mm位の穴があいている。ソウの村に立ち寄った隊商が連れている馬や牛などをこの広場に繋いでいた名残である。溝には水を流し、穴は馬留用の木材を差すのに使われた。勿論、アル達はそんなことは知らない。今、この広場にはそういった動物も、門にいる男たち以外の人の姿もまるでない。ガランとしている。

 広場の周囲は宿屋だろうか、間口の広い四・五階建ての建物で囲まれている。これだけ階層の高い建物は大都市ロガリアでも珍しい。それが隙間なくびっちりと建てられている。後で分かるのだが、ソウの村はさほど面積が広くないので、栄えていた時代には高さ方向へ広がらないと押し寄せる人々を収容しきれなかったのだ。建て増しに次ぐ建て増しをしたらしく、同じ建物でも下層階と上層では意匠や色が異なっていたり、真上にではなく少しずれながら重なっていたり、渡り廊下のようなものでつながれていたりする。今までに見たことのない奇異な街並みだった。

 しかし今、それらに往時の勢いはない。ガランとした廃墟である。

 男はアル達を先導して広場を歩く。溝や穴が無いところは石畳の石のサイズが大きい。

 門から真っ直ぐに奥へ進んだ。ちぐはぐに積み重なった建物の間の隙間のような路地に入る。頭上で道の左右の建物がつながっているのでトンネルのようだ。路地は幅の真ん中辺りが低くなるように設計されていた。降雨時の水はけを考えたものだろう。道自体も進行方向に軽く上っている。

 路地はジグザグに折れ曲がりつつ緩い半径でカーブもしている、そして100m程歩くと突然途切れる。今度は手入れされた芝生が目の前に広がる。そしてその100mばかり先に大きな邸宅が見えた。

目前の芝生は屋敷前の庭園の位置づけだ。庭園の中央には、水を溜めるために円形に組まれた石の構造物が見える。近寄ってみるとその中央部辺りから水が豊富に湧き出している。自然の泉だ。泉から出た水は、その多くが今抜けてきた街の方へ引かれ、ほんの一部だけを奥の屋敷に引いているようだった。水の流れが結構早い。芝生の周囲にはソウの村を囲う高い壁が見える。

 二人は男について庭園を抜けてゆく、日は増々傾き辺りが暗くなってくる。横を流れる水の流れは力強い。考えてみれば先ほど通ってきた建物を一杯にするほどの人を生活させるためには相当の水が必要だ。飲料として使うのはもちろんだが、汚物を村の外へ排出するためにも水流は有用である。風呂は我慢できてもトイレを諦めることは誰にも出来ない。

 男は邸宅の玄関の10mばかり手前で二人に待つように言うと、一人で玄関まで歩いていった。

 しばらくして中から出てきた小柄な人物に男は何か話しかけたが、遠かったので二人にはよく聞き取れなかった。その人物は男をかわすようにしてこちらを見てから、男を従えてこちらへ歩いてきた。

「ビルジ・ヴァルメル様のお知り合いとか?」

 その人物が活舌のいい、はっきりとした発音でそういう。子供のような高い声だ。背筋がピンとのび、きっちりとした肩幅の広い制服を少しの隙も無く着こなしていた。背はアルよりも低く小柄だが、姿勢がいいためか大きく感じる。歳はとても若く見える。もしかしたらまだ十代では無いだろうか? ショートカットの髪に小さな顔、目は大きくよく見ると女にも見える。アルはこの人物がこの家の執事だと判断する。

「はい。」

 必要最小限で質問に答える。出来れば嘘はつきたくなかったし、何よりも余計なことを言って墓穴を掘りたくない。隣にいる馬鹿正直な天然君が普段はほとんど話さないくせにこんな時ばかり、発言を訂正されたりしたら最悪だ。

「あなたは赤の騎士と?」

「はい。」

 相変わらずシンプルな答えだ。聞かれた答えしか答えない。これは彼本来の反応で、アルのようにわざと口数を減らしているわけではない。その証拠に革球の握り方に変化は無い。

 執事であろうその人物はジュニアの事を頭の先から靴の底まで見透かすように見つめた。何か品定めでもするかのようだ。腰の剣で視線を少しだけ止める。

「ソウ・プラントル様は既にお寛ぎになっておられます。お目通りは明朝になさってください。朝になったら誰か迎えをやります。それでは。」

 冷たい声でそういうとその人物はさっさと振り向いて屋敷へ戻り始めた。

「あなた様のお名前を、一応…。」

 遠ざかる背中にアルが声をかける。

「ドリスロウ・ミーア。」

 振り向くことなく返答が返ってきた。そのまま屋敷に入り扉が閉じられる。

 男は二人を促すと足早に元来た道を帰り始める。もうすぐ日が落ちるので暗くなるまでに戻りたいのだろう。手にランプの類は持っていない。

 屋敷前を後にするする際に、アルの視界に赤い光が見えた。しばらく離れた屋敷の端の方で誰かが火を焚いているようだった。断続的に空気を送られているのか、火が呼吸するように明滅を繰返している。おそらく鋳掛屋だ。旅をしていると時々出会うことがある。彼らは、ふいごなどの大きな道具を背負い、やはり旅をしながら村々を回り壊れた鍋や釜など金属製の道具を修理して銭を稼いでいる。中には包丁やナイフ、剣などのメンテナンスをする者もいる。ふいごを操る小柄な鋳掛屋に、スカートをはいた長身の女性が何か話しかけているようだった。見た感じでは女性は鋳掛屋に相手にされていないようだ。アルは、特にそれを気に留めることもなく男の後を早足で追いかけた。


 一度門の所まで戻り、ランプを二つ取ってから部屋に案内された。男に案内されたのは例の複雑に入り組んだ建物の中の一室だった。彼は腰の鍵束から取り出した鍵で扉を開けて建物の中に入った。一番手前の部屋に入る。鍵はあったがかかってはいない。部屋は一応整理されていたが、しばらく掃除はされていないらしく埃っぽかった。広さは一辺が5m程の正方形で正面に窓らしきものがあったが、鎧戸が閉じられており、外の様子は分からなかった。方向からすると、ここに来るときに歩いてきた路地に面しているはずだ。天井は低く、この中では一番背の高いジュニアならジャンプをすれば頭を天井にぶつけてしまう程しかない。

調度の類は二台の木製のベッドのみだった。箪笥や棚の類は一切ない。ただ、寝具は二つのベッドの上に、それぞれ布を掛けた下に積まれていたのでひとまず安心する。男はランプ一つと部屋の鍵を置いて出て行った。

 床に置いたランプを挟むようにして二人が胡坐をかく。ランプの炎は時々揺らめいて、部屋の壁に映った二人の大きな影もグニャグニャと形を変える。二人はそれぞれの荷物から自分の食料を取り出すとめいめい口に入れて食事とした。昨夜から寝ていなかったので疲労は限界に近かった。


 二日前のことである。前の晩にシトラウト・シュミッツに助けられたアルは、朝目覚めるとすぐに彼の元を去ることにした。ジリアラスを殺した憎い相手と少しの時間も一緒には居たくなかったし、その相手の中にジリアラスの面影が見えるのが辛かった。おそらくこのまま一緒にいれば、ほんの何日かで自分はこの人を許してしまうだろう、そのことが、そんな自分自身が許せなかったのだ。重体のアルをロガリアまで運ぶのは明らかに無理だった。だから三人は、過去に軍が使用していた、今は廃棄された屯所まで移動して、朝までの時間を過ごした。その間もシトラウト・シュミッツは休むことなくアルの体を治療した。ジリアラスの能力にシトラウト・シュミッツの耐力が加わり、見る間にアルは回復していった。

そして翌朝早く、シトラウト・シュミッツの部下が運んできた、ジリアラスの荷物から、必要なものをまとめると、アルはそのまま旅立つことにした。シトラウト・シュミッツは無言のまま、別れ際に紐で束ねたジリアラスの遺髪をアルに渡した。ジリアラスの死に直接触れていないアルは、その現実に胸を裂かれるような痛みを覚え、大声で泣いてしまったのだった。

 アルが疲れ果てて泣き止んでみると、心は前よりも穏やかになり、遺髪を胸の辺りに当てるとジリアラスがそばにいてくれるようで、暖かく心強い思いが胸を満たしてくれた。そして同時にそれが悲しかった。

ジュニアは旅立つアルに同行したいとただ一言いい、深く頭を下げた。しかし、そもそもこの一連の出来事の根源であるジュニアの顔などもう見たくもなかったアルは、その求めをきっぱりと断った。

…。

 はずだった。アルにはどうもこの同い年の青年が理解できなかった。厳しいことを言っても、あまり感じている様子がない。その証拠に、アルにさんざん非難されても無言のまま当然のようについてくる。

夜になり、アルが野営の準備を始めると、そばでやはり野営してもいいのかと聞かれたので、『勝手にしろ!ただ、俺の前では金輪際絶対に剣を抜くな!』と言ってアルは眠ったのだった。


 埃っぽい部屋の床に胡坐をかいて、二人は少し話をした。といってもジュニアはほぼ無言だったので、アルがこれまでの旅の事を一方的にしゃべった。彼はアルの少しばかり誇張した話を例の革球を両手に握りつつも、真剣に聞きながら息をのんだり、感心したりしていた。アルはこの青年が、ただ自分の気持ちを言葉で表現することが苦手なだけで、自分と変わらない普通の人間であると漠然と感じた。

 昨日の夜、夜を徹して協力しながら一頭のヒュドラを葬り去って、アルの彼に対しての感情は実はその前とはまるで変っていた。既にジュニアは自分の仲間だった。アルにとっては生まれて初めての同じ年頃の仲間だ。心で思っていても、昨日と真反対の事を今すぐに口に出来るほどアルは素直でなかったので黙っていたが、こいつはそんなことまるで気にしてないんだろうなあなどとも思った。

「…お、ああ。」

 胡坐をかいたまま、いつの間にかうとうとしてたアルの背中を、ジュニアがトントンと叩く。

 アルが彼を見上げると、黙ってベッドの方を顎でしゃくる。

「ああ、そうだな。」

 ジュニアに手を引き上げられて立ち上がり、ベッドにもぐりこむ。そしてアルは眠りに落ちた。ジュニアがランプの火を落として、部屋は真っ暗になった。


 『ギイ。』かすかな音がした。ドアとドア枠のほんの狭い隙間から扉を支える蝶番が覗き見える。黒い影は腰回りに付けた革袋と一本の細い棒を手に取ると、細い棒の先を蝶番の上に載せ、反対の端に革袋からドロリとした黒い液体を垂らした。液体は棒を伝って錆び付いた構造物にかかり、流れ、染み込む。

 今度は音もなく扉が動く。接触部の潤滑状態が改善されたのだ。部屋の内側が廊下とつながる。

黒い影は戸口に立ったまま動かない。中の様子を伺っている。ぼそぼそと影が本当に小さな声でつぶやくが意味は分からない。声に呼応するように部屋が何となく明るくなる。とは言ってもほんの微かな明るさだ。

完全な闇の中では、どれほど目を慣らしても何かを見ることは出来ない。この明かりは、完全な闇からほんの少しだけ、ものの見える側にズレる程度の仄かなものだ。何か光源があるわけでは無い。空間が光という色を備えたような感じだ。

 ようやく影が部屋の中に入ってくる。音は全くしない。影は人の形をしている。衣擦れのしない細かい繊維のタイトな黒い服を纏っているようだ。体のラインが想像できる。背は高くなく、というよりもどちらかと言えば小柄な部類だろう。

 今、影は二人の足元側に立った。二人の荷物は無造作に影の足元に置かれている。影はまず、二台のベッドの間に進んだ。左にアルが、右にジュニアが休んでいる。何かを探しているようだ。

 ジュニアは自分の剣に寄り添うように眠っている。影がその様子を見下ろす。剣は柄の部分を外に出して鞘のほとんどは掛布団の下にある。剣の鍔の部分には細いワイヤーがかけられていて、それが掛布団の中へ延びている。おそらく手首あたりにかけてあるのだろう。盗難防止用のワイヤーだ。影は腰回りから何かを取り出す。手に握るような工具だ。工具の先をワイヤーに近づけて柄を握りこむ。『パチリ』という音がしてワイヤーが切断された。影は動きを止めてじっとジュニアを観察する。起きた様子はない。

 しばらくしてから、ゆっくりと剣に手を伸ばす。布団から出た鞘の部分をつかんで引っ張る。

 明らかに抵抗があった。力を抜いて冷静に考える。剣の向き、体の位置。

 眠りながら剣を握っているとしか考えられない。影はあきれると同時に悔しく思う。先ほど見たところ、この剣は相当高価なものだ。この二人の若い旅人たちの持ち物の中では一番値打ちのあるものだろう。

寝ながら握るなよ。小さな子がぬいぐるみを抱いて寝るのと変わらないじゃないか。

 仕方がない。鞘は置いてゆけばよい。多少金はかかるが後で仕立てればよい。剣の位置と頭側の壁までの位置を目測で測る。先ほど見た剣の長さを思いだして鞘から抜けるか頭の中で計算する。

 微妙だがやってみる価値はあると判断する。鞘を右手に持ち替え剣の柄を左手で握って剣を鞘から抜こうとする。今度は微動だにしない。

 頭の中が?で一杯になる。鞘から抜けない剣?そんなものがあるか?鍔の部分を触って何かロックする機構が無いか確認する。何もない。するとこの剣はやはり鞘から抜くことが出来ないのだ。とんだ食わせ者だ。鞘から抜けない剣、使い物にならない剣、赤の騎士というのも真っ赤な嘘か?

 呆れると同時に感心した。正直そうな顔をして、子供の詐欺師なのだろう。明日から気を付けなくてはいけない。ビルジ・ヴァルメルの知り合いというのも嘘かもしれない。

 影は剣に興味を失うと二人の荷物のある場所に戻った。詐欺師なら、現金の方はたんまりかもしれない。

 荷物を改めようとしゃがんだ時、背後でバサリ、と音がした。

「何だ?誰?」

 影は動きを止めた、瞬間的に部屋が真っ暗闇になる。息を殺す。これで何も見えない。

「君は誰だ?そこで何をしている?」

 問いかけが続く、アルの声だ。影は逃げ出したい気持ちを抑えてじっと我慢する。気づかれるはずがない。真の闇だ。何も見えない。気配を消すことには自信がある。そこで信じられないことが起きた。声がぼそぼそと何かつぶやき始めたのだ。

 スペルだ、白魔法使い!

 白魔法を使える素質のある人間は数千人に一人だ。この部屋に二人なんて信じがたい。影は迷わず部屋を飛び出す。その時頭上で明かりが灯る。自分の操る仄かな光ではない。これは炎の白魔法だ。メラメラと刺激の強い光が目に突き刺さるようだ。

「ジュニア、起きろ!泥棒だ。」

 アルはベッドを飛び出して部屋から走り去った黒い影を追う。白魔法の火の玉がアルを先導し、アルに付き従う。アルは呪文を唱え火の玉をもう一つ作り出すと、逃げ去る黒い影を追わせた。これで見失う危険性がだいぶん減るはずだ。

 ジュニアもガバリと身を起こす。手元を確認する。剣はある。しかし盗難避けのワイヤーは切られている。ゾクリとした。よかった盗まれずに済んだ。鞘から剣を抜く。するりと抵抗無く金属の光沢面が現れる。剣を改める。昨日、父から預かったばかりの剣が美しい刀身を見せてくれる。

 アルの残してくれた火の玉の一つが次第に光を失ってゆく。ジュニアは剣を鞘に戻すと慌ててランプを手にした。消えかけてほんの小さくなった火の玉をランプに入れてやる。明るくなる。

そのままアルを追おうとしてジュニアは踏みとどまった。

 盗賊に仲間がいれば、自分がこの荷物を置き去りにしてここを出れば、この荷物を盗られる。アルが飛び出してから、もう大分時間が経っている。自分が今から追いつける可能性は低い。今はここを守るべきと判断する。

人のものとは思ったが、床に出ているアルのものをかき集めて彼の鞄に押し込む。自分の荷物も一つにする。二つを持ってみる。やはり走り回るには重すぎる重さだ。

 ドカリと二つの荷物を床に置くと、ジュニアはその後ろに胡坐をかいて座った。


 一方のアルである。影を追って廊下を走る。階段を駆け上り、飛び降りる。通路は右に左に、上に下に複雑に入り組んでいる。増築を何度も繰返した建物は、ある所では幅広くあるところでは人もすれ違えないほど狭く、天井も高かったり低かったり、階段の高さもまちまちで駆け上がったり飛び降りたりするのに勝手が悪い。おまけにアルの灯す炎は光源が一点であり、アルと一緒に異動しているので創り出す陰が慌ただしく動き、足元の立体感が掴みにくい。

 前方に見える灯りは盗賊の目印に放った灯りだ。アルの放った灯りは逃げる盗賊にピタリと寄り添うように移動しているのでこうなれば見失うことはほぼ無い。アルは明るい方を目指せばよい。

 床は板張りだったり石造りだったりして、ドカドカと足音を響かせたかと思うと急に静かになったりする。起き抜けのアルはもちろん裸足だ。時々何かを踏みつけるが構ってはいられない。走れ!

 長い直線に来ると前方を逃げる奴が見える。全身を黒いタイトな衣装で包んでいる。しかしすぐに通路は再び左右上下に折れ曲がり後姿を隠してしまう。

 えい、走れ!自分を叱咤する。跳べ、駆け上がれ!

 逃げる相手との距離が次第に縮まる。両側の壁と、上下の天井、床が視界の端を流れるように後方へ飛び去ってゆく。

 行け!

 アルは全力を振り絞り速度を上げる。

 行け!もう少し。

 黒い背中がもう目前にある。手を伸ばせばきっと・・・。

「!!」

 突然、視界が真っ白になる。明るくて何も見えなくなる。それでも走る。指先が影の背中に触れる。

「うわっ!」

何かに躓いた。足下に段差があったのだ。派手に転倒する。体中に激痛がはしる。突然光が消え、今度は闇が支配する。瞳の、露出の調整機能がすぐには反応できない。

「くそ、・・・。」

 手をついて立ち上がる。ようやくゆっくりと視界が戻ってくる。アルの炎はまだ周囲を照らしていてくれている。強烈な光に焼かれた目も光量の調整が出来るようになる。

 相手も白魔術師だとその時分かる。相手は空間自体を発光させることが出来るのだ。初めて見る方法だった。その点には感心する。いやいや、そんな場合ではない。

 再び走る。膝に痛みが走る。速度を緩めるわけにはいかないとは思うが、体は思うようには動かない。

 大分離された。敵にぴたりとくっついているはずの灯りも、もう視覚的には認識できない。ただ、アルの研ぎ澄まされた感覚が自分の放った炎の精霊の存在を感じるばかりである。

これ以上離されると見失う。いや既にそうなのかもしれない。アルには奴のそばにある炎の、その大まかな方向と距離とは感じられるが、それは具体的な位置情報ではない。テンソルと同等の情報に過ぎないのだ。例えば相手が上の階を走っていたり、隣の建物を走っていたりしてもアルには、自分と相手との隔てる壁や空間については何も分からないのだ。生身の人間同士の距離は、迷路の壁の制約を受けざるを得ない。

 しかし止まるわけにはいかない。

「アエリギスランタス、風と空気を司りし精霊たちよ、漂い遊びまわる気ままな精霊たちよ、今ここに己が信念を捨て、我の意志に従いたまえ。ガン・デュトロ・ワウ。」

 あがる息の中で、走りながら無理やり発音する。肺が悲鳴を上げる。

 アルが風と空気の精霊を召喚する。空気の波動がアルから敵に向けて放たれる。二日前にウチパスという黒魔術師にさんざんやられた、いや前向きに言えば血のにじむ特訓で教えてもらった縦の波動だ。空気が膨張と圧縮を繰り返しながら直線的に前方に押し出される。

 くねくねと曲がった通路を無視して、壁を天井を破壊して空気の波が直進する。空気を単に圧縮して押し出すよりも波動にして放った方が遠くまで威力が減衰しにくい。

 アルの前に道が出来る。微妙な弧を描くがほぼ真っ直ぐな道だ。建物の床面の高さは無視しているので、アルは自分が歩けるように空気を圧縮して見えない床を作る。奴は既に自分よりも高い階層を逃げていた証拠だ。アルが透明な空気の床の、その上を走り続ける。敵への最短距離だ。


 足元から振動が伝わってくる。建物を震わせる振動だ。

 たちの悪いのにあたってしまった。率直な感想だ。ババを引いてしまった。それにしても、まとわりついてくるこの人魂みたいなのは何だ? 水や風を用いて消しても再び燃え盛る。こんな白魔法は見たことも聞いたこともない。どれだけの能力があるのだ。自分が手に負える相手ではない。

 光の魔法で目つぶしをして、ようやくある程度距離が離れたので、このまま逃げ切るしかない。人魂の光の強さを見ると、奴の魔法の影響力は明らかに低下している、と思う。もう少しだと思う、願う。

 が、今感じている、この地面の振動は白魔法に起因するものだ。自分には分かる。自分の白魔法にとって、距離は問題ではない。遠くても意識しさえすれば大概の事は感じられる。それが自分に祖先が与えてくれた特殊な能力だ。距離を無視した白魔法を使う白魔道士を、自分と姉以外には知らない。

その暴力的な力は真っ直ぐにこちらに向かっている。更に振動が激しくなる。足元が数十センチも揺れている。走るどころではない。バランスを崩して窓枠にしがみつく。下だ、下から何か、…。

 体が上へ持ち上げられる。足元の床が弾ける様に破壊される。衝撃が…、体を丸めて庇うようにする。

「キャー!」

 悲鳴を上げてしまう。しまうが、…。

 痛みは無い。衝撃も無い。何故かフワフワと、静かに地面に降ろされる。

 動揺からハアハアと息が荒くなる。何が起きたのか? 強い力が自分の足元の床を貫いたのは確かだ。今目前の床に大きな穴があいている。

 しかし自分には怪我はない。床を貫いた力は自分には害を及ぼさなかったということだ。

 そんなことはどうでもいい、そんな場合ではない。早く逃げるのだ。

 両足を投げ出し、後ろに両手を突いている体をひっくり返して、あたふたと四つん這いになる。立ち上がろうと体を起こそうとする。

 20cmほど姿勢を上げると、突然体が何かにぶつかった。何?

 自分の周囲を異常に密度の濃い空気層が覆っていた。自分はその空気の箱に閉じ込められている。何と芸の細かなことをしてくれる。通常の白魔法の技量では考えられない。

 それでもそのままではいられない。すぐに奴はやってくる。逃げなくては。目に見えない壁面を押す。

「こいつ!」

 奴の声がした。後ろからタックルされて前へ押し倒される。突然空気の呪縛が解かれ、呼吸も筋肉も楽になる。

 飛びかかってきた手が、自分を仰向けに裏返す。

「観念しろ、泥棒め!」


 アルはうつ伏せに倒れたその黒装束の影を仰向けに裏返した。馬乗りになり、そして胸倉をつかむ。

 つかむはずだった。わざとじゃない、絶対わざとじゃない。本当だよ、信じてくれよう、…。

 勢いが余ってしまっただけだ。アルの手は胸倉でなく、胸をつかんでいた。

「?」

 アルの頭上に『はてな』が浮かんだ。その人物の顔を見ようとしたはずだったが、視線は瞬間的にもっと下へ。掴んだはずの胸倉の方へ移動した。

 モミモミすると、ムニュムニュした。柔らかい。弾力性がある。

「きゃーーーーーー!」

 聴力がブラックアウトするほどの悲鳴が聞こえ、アルのほっぺたに激痛が走る。頭が都合二回転半して、首が雑巾を絞ったようにグルグルになる。

 『ドゴッ。』と腹のあたりで鈍い音がする。アルが後方へ突き飛ばされる。アルの体はきれいな放物線を描いて、風と空気の精霊の穿った穴へ消える。ゆっくりと階下へ落下するアルの表情はニヤニヤと妖しく、エッチに笑っている。胸倉をつかんだはずの手だけが、あーえーもん触らせてもろたぁ…と、未だにムニムニと動いていた。


 草原を二頭のドラゴンが走っている。それぞれに赤の騎士が騎乗している。二頭はポペットの森へ向かっている。

 森の周縁部が近づいていた。プランラットはドラゴンを減速し、歩をとめるとその場に降り立った。ドラゴンが一度は巨大な頭部を下げ、騎士を下すと再び頭が高く上がる。彼に従ってきた、彼の部下も竜を降りる。

 二日前、彼のバディのクロイツが力尽きた場所だ。じっと地面を見つめる。様々なことが思い出される。

 そして彼は再びドラゴンにまたがる。まだ若いドラゴンだ。クロイツの子でもある。

 今朝正式に上官であるシトラウト・シュミッツから、黒魔術師の処刑の許可が出た。プランラット本人としても、赤の騎士としてもそのままにはしておけない事案だ。プランラットとしては、目前でクロイツに手を下した白魔術師の子供への憎しみの方が強かったが、あの少年に復讐することは上官から許されなかった。実際にあの少年は黒魔術によって自らの意思に反して操られていただけらしいのだ。複雑な心境ではあったが、プランラットは思い直した。ポペットの森へ入ってしまえばどうとでもなるではないか。上官の監視がつくわけではないのだ。今はとにかく奴らを追うことが何よりも重要だ。

 プランラットに迷いはなかった。彼らはポペットの森にいる。


 アルがジュニアの待つ部屋に戻れたのは、既に日が昇った後だった。

 まず第一に、破壊した通路を修復することは、秒単位の速さですぐに諦めた。白魔法は、自然の現象を利用して発動するだけなので、人の作った建造物を直すことなど出来るわけがなかった。勿論時間を戻すことなど出来ない。大体そんなことをしたらこの話、ややこしくなりすぎて収集がつかなくなる。

 しばらく暗い通路を彷徨ったが、まだ春先の深夜は気温も低く動くのを諦めてじっとしていることにする。転倒した時に痛めたいくつかの骨の回復のための白魔法を使った。

ようやく日の光が外を照らし始めたのを確認してアルは窓から一度外へ出ることにした。内部を歩いていたのではいつまでたってもいきたい所へ行けそうもなかったからだ。彼がいたのは階で言うと四階にあたったが、壁を伝って何とか下まで降りることが出来た。こういう時にはつぎはぎだらけの建物には手掛かりとなる突起物も多く感謝したくなった。

朝日の見える方角から、東西南北を割り出して、まずはこの村に入った時に最初に通った広場を目指す。そこまで戻れば昨日と同じ経路をたどって部屋に帰れる算段だ。

 そしてようやく部屋に戻り、ジュニアに顛末を報告する。勿論、モミモミとムニュムニュについては秘密だ。

 鎧戸を開けて外の空気を入れる。寒々としているが、反面きりりとして清々しい。そうこうしているうちに昨日の男がやって来て二人を連れだす。朝一番で、ソウ・プラントルというこの村の所有者が会ってくれるらしい。この村、と言うよりも高い壁に囲まれた巨大な家と言うべきなのか、この壁の内側全体がプラントル氏個人の所有物であるらしい。

 昨日の道を屋敷へ戻る。庭園を抜けて家の前に辿り着く。例の鋳掛屋の男が朝早いのに既に何か作業をしているのが目に入る。勤勉な男である。

 例の執事が玄関の階段の上から三人を見下ろしている。

「ソウ・プラントル様がお待ちだ。」

 執事は簡潔にそれだけ言った。二人を連れてきた男は屋敷には入らずにそのまま一礼して去ってゆく。アルはさすがにジュニアに合図して、彼がニギニギしている革球をポケットへしまわせようとする。ジュニアの手のひらを指で指して、首を横に振るが、ジュニアには意味が分からない。『それしまえ。』小声で言って、ジュニアがようやくポケットに入れる。二人は玄関から屋敷へ入った。

 入り口の扉に立つ執事の横を抜ける時に、アルが執事の方を見る。執事は何故かバツが悪そうに顔をそむけた。

「??」

 アルが不思議に思う。

「おお、そなた方がビルジ・ヴァルメル様のお使いの者か?」

 エントランスホールは広く上は二階まで吹き抜けになっている。正面には幅の広い階段があり階段は奥の壁で左右に分かれている。壁には大きな肖像画。若く美しい女性のものだ。

階段の一番下の段に座っていた小太りの男が立ち上がる。パジャマ姿に裾の長いガウンを着ている。後ろから身の回りの世話をしていると思われる侍女が二人ばかり追いかけて来る。

「プラントル様、ですから『使いの者』という訳ではございません。」

 背後から執事が訂正するが、プラントル氏は意に介する様子もない。

「どちらがそうなのじゃ?」

 プラントル氏は呆気にとられている二人の前まで来ると交互に顔を見比べる。

 プラントル氏は人の良さそうな温和な顔つきの紳士だった。肌の艶もよく、いかにも裕福な家の主人という感じだ。ただ、落ち着きが無い。

「子供たちか…。」

 プラントル氏の一言に、ジュニアが不満そうに口を尖らせる。アルはまたかと思い、いいじゃん別にと心の中でジュニアに裏拳で突っ込む。

「で、どちらなのじゃ? ビルジさまはお元気でいらっしゃるか?」

「こちらの者が、ビルジさまのお知り合いとのことです。」

「おおそうかそうか。」

 プラントル氏がアルの手を取る。ぶんぶんと握手をする。目が『で?』と言っている。

「アルシリアス・ブルベットと申します。はじめてお目にかかります。」

「おお、おお、そうかそうか。」

 再び『で?』となる。

「プラントル様、ですからこの者たちは…。」

「うるさい! ドリスロウ、わかっておる。使いではないのだろう?何度も聞いた。それでも良い。ビルジさまの話を少しでも聞ければ十分じゃ。それでビルジさまはお元気か?」

「申し訳ないんですけど、俺はビルジ様に会ったことはないんです。ビルジ様を、探して、旅をしているだけなんです。」

 プラントル氏の表情が固まる。ワクワクとしていた表情が徐々にガッカリに変わる。

「知らんと…。」

「はい…。」

 あまりの変化にアルが何故か申し訳なくなる。それと同時に、すぐにでもここを追い出されないかと不安になる。

「ごめんなさい。」

 アルが取りあえず謝るが、プラントル氏はアルの方は見ずにもごもごと話す。もう目は合わせてくれないようだ。

「いやいや、お前が悪いわけでは無い。悪いわけでは無い。」

 泣き出しそうである。いや、泣いている。目元にきらりと涙が光る。ええ、いきなり泣くの? プラントル氏は深くため息をついた。

「なぜ、ビルジ様を?探して居る?」

「先日亡くなった私の師だった、ジリアラス・ガトウというものが、自分が死んだらビルジ様を頼れと…。」

「ジリアラス・ガトウ?うーむ聞いたことはないが…。で、そのガトウ殿はその他には何か?ビルジ様はポペットのどの辺りにおられるかとか…。」

 プラントル氏はアルに問いかける。頭の中で何か考えながらなのか、半ば上の空な感じに聞こえる。

「…。」

 アルが答えようとしたとき、プラントル氏の表情が急に明るくなった。

「ビルジ様はエルフの村にお住まいじゃ。残念ながら私はその場所を知らん。その場所を知る人間は世の中に一人もおらんのじゃ。どうだろう、もしもお前がその場所を見つけたら私にその場所を教えてもらえないじゃろうか?ビルジ様とご親交のあった方のお弟子が探しているということがビルジ様のお耳の入れば、ビルジ様も無視はできまい。きっとお前にお会いになるだろう。そうしたら私にもその場所を教えて欲しい。頼む!」

 プラントル氏は先ほどにも増してアルの手をブンブンと上下に振り嘆願した。アルが思わず頷いてしまう。

「おお、おお神よ!」

 プラントル氏は感無量になり膝をついて天を仰いだ。

「おお、神よ。この世界を作りしジークムント・フェイル、リズズ・バウのお二人の神よ。このソウ・プラントルは、お二人がこの少年を私の元にお使わし下さいましたことを死ぬまで感謝いたします!」

 次女たちがプラントル氏に駆け寄り立たせる。プラントル氏はそれでも神に対する感謝の言葉を連発していたがやがて少しおとなしくなった。

「二人ともこの村では自由に過ごすがよい。何でも必要なものがあれば遠慮なく言うように。ドリスロウ、早速村の者を出来るだけ多く森に出して大声でこのことを話させるように。後はエルフたちが聞きつけるのを待てばよい。うん、そうじゃ、そうじゃ、いい思い付きじゃ。」

 プラントル氏は既にアルとは話が終わったと判断したのか、夢を見るように振り向くと、侍女たちに支えられて階段を上がり始める。

「プラントル様!」

 すかさずアルが話しかける。プラントル氏が、その声にこちらを向いた。

「実はお貸しいただきましたお部屋にネズミが出まして周りの扉や床や壁などを少々壊してしまったのですが…。」

「よいよい、気にするな。すぐに人をやって修繕する。二人は今夜からこの屋敷に泊まればよい。」

 上機嫌に言って、プラントル氏は手を振りながら階段を上がっていった。

「さあ。話はもう終わりました。」

 執事、ドリスロウに促されて二人は屋敷を追い出される。

「荷物をまとめて戻って来てください。お部屋を準備させていただきます。また、昨晩の件もお気になさらず。こちらで修繕の手配を致します。」

 名探偵なら、ここで『昨晩?俺は、“いつ”ネズミが出たかなんて一言も言ってない!』ビシッ!とドリスロウを指さすところだが、そんな叙述関連のアイテムに気が付く二人ではない。

 素直に礼を言って屋敷を出た。玄関の階段を数段降りる。

 一人の少年が剣を片手に立っている。何度か見かけた鋳掛屋の少年だ。パッと見には十二・三歳の骨格だ。まだ、アルやジュニアほども成長していない。骨も筋肉も細くて頼りない感じがする。髪は茶色が濃く、短く刈り込んでいる。それに対して、肌は黒く焼けている。炎の前で働き続ける鋳掛屋としては勲章のようなものだ。腕のいい鋳掛屋程、多くの仕事をこなすので、肌も黒くなる。ただ目の周りだけは彼の元の肌の色のままだ。その理由は後で分かる。

 少年の方が二・三歩前へ出る。

「おい、その剣をどこで手に入れたか教えてもらえないか?」

 ジュニアに向かって、刺々しく言う。言葉遣いは普通だが、ジュニアを疑っているのがありありと分かる。

 横にいるアルにも、隣でジュニアがカチンと来たのが分かる。ああ、まただ、こいつこう見えて気が短いんだからやめてくれよお。アルはジュニアから離れようと歩みを止める。ジュニアだけ数歩前へ歩いてその少年と向き合った。

 ジュニアはいつも通り黙っているだけだが、初対面の相手はそうは感じない。無言でプレッシャーをかけられていると感じるのが当たり前だ。

「言えないのは、やましいことでもあるからではないのか?」

 ジュニアが鞘を払う。

「えっ!」

 なぜか後ろで声がする。屋敷の入口で執事のドリスロウが驚いて声を上げたのだ。何で?アルが振り向くと、執事は慌てて扉を閉めて屋敷に引き下がった。仲裁する気は無いらしい。

「顔に似合わず乱暴だな。そのつもりなら相手をしよう。」

 少年の言葉に、ジュニアがニヤリとする。こいつ本質的にこういうのが好きなんだと改めて感じる。

 少年も剣を抜く。

 少年は上段に剣を構える。ガチガチに力が入っているように見えるのは気のせいだろうか。一方ジュニアは中段、自然な構えで無駄な力を感じない。

「いくぞ。」

 少年が宣言する。激しく体を揺らして小刻みに前後にステップする。間合いを測っているのか、それに対してジュニアは全く静かだ。

「破!」

 少年が真っ直ぐに切り込んでくる。まるで迷いない剣が直線的にジュニアに飛び込んでくる。早い。防御するという発想を全て捨て去った太刀筋なためか無駄な動きが一切無いのだ。危うくジュニアがかわす。彼にとっても予想外の動きだったようだ。

 再び向き合う。ジュニアのマントが切れている。あの、アルの炎をはじき返したマントが切られている。フワフワと抵抗なく揺らぐ布を切るにはよほどの剣の鋭さと振りの切れがなければ成り立たない。

 ジュニアの頬から首にかけての火傷の跡が赤く色を変える。彼を興奮が包んでいる。彼も本気になったのだ。この少年、見た目よりも遥かに腕が立つようだ。

「よい筋だ。」

 ジュニアが言葉にする。えぇ、こんな時はしゃべるの?

一方、少年は相変わらずステップ踏んで間合いを測っている。ジュニアも明らかに攻めあぐねている。相手をしたことの無いタイプなのだろう。

 しばらくそのままで膠着する。そして突然ジュニアが攻撃に転じた。少年の剣が直線の剣とすれば、ジュニアの剣は円の動きを基本とした剣だ。左右上下と剣が連続して少年を襲う。剣の動きは自由自在でどこから来るかが予測できない。

 『ビシッ』!地面を叩く音がした。ジュニアが踏み込んだ音だ。彼の剣が少年の胴で静止している。少年の剣はまだ上段にあり、ジュニアが止めなければ少年は腹から一刀両断にされていたはずだ。少年も強いが、ジュニアはそれにも増して遥かに強い、技量が違いすぎる。

「切るなら切れ。」

 悔しそうに少年が言う。

「切るには惜しい。」

 ジュニアは剣を引いた。鞘に納め距離を取る。

「剣は、譲り受けた。」

「その剣をか? 信じられるものか?その者の名を言ってみろ。」

「シトラウト・シュミッツ。」

 少年の表情が少し変わった。

「うむ、確かにその剣は赤の騎士団長、シトラウト・シュミッツのものだ。」

「?」

 ジュニアが少し不思議そうな顔をする。この少年は何故か父を知っているらしい。

「しかし奴がその剣を人に授けるとは思えん。だが、奴が他人に剣を奪われるなどとはもっと想像も出来ん。…もしや、お前奴の息子か?」

 ジュニアが不機嫌に頷く。

「おお、お前がシトラウト・シュミッツ・ジュニアなのか? ああ、ああいつも聞かされておる。自慢の息子だ。それにしてもあのごつごつとした醜男から、よくお前のような爽やかなのが生まれたものだ。母上がよほどお美しいと見える。」

 少年は終には妙に上機嫌になって、何とも失礼なことを言った。

 ジュニアが少年を睨みつける。

 ジュニアの無言の問いかけをものともせず、少年は楽しそうに笑いながら自分のことを話し始める。

「いやいや、知らなかったとは言えこれは失礼をした。私はケンドア・ドルメドル。」

「じぇじぇじぇ、じぇ!」

 ジュニアが吃驚して言葉を失う。

なに?誰?それ?

「あなたがケンドア様とは…。」

「あまり言うな、ここではまだ私がドルメドルとは誰も知らん。」

 慌ててジュニアが口をつぐむ。剣を鞘へ戻し辺りをキョロキョロと確認する。

本当に誰?

 その自己紹介を聞いていたのは、ジュニアにアル、ケンドア本人と、そして扉の裏にはドリスロウ・ミーア。


 ケンドア・ドルメドルと名乗ったその少年が足元の板を踏みこむとレンガで出来た炉の中の炎が息を吹き返したかのように燃え上がった。

「火を直接は見るな。長く見ると目をやられるぞ。」

 ケンドアは自分の目を覆っていた赤い板で出来た不思議な形のものをジュニアに渡した。

「眼鏡というものだ。色の濃いガラスを作り、鼻に載せられるようにしてある。父の発明だ。このガラスを通せば目を焼かれなくて済む。ドルメドルの家の者は多くが年老いて光を失ったが、父のお陰でこれからはそういったつまらん事は起きないだろう。」

 ジュニアが眼鏡越しに炎を見ると確かに先ほどまでの輝くような光が穏やかな赤い炎に変わって見える。思いついて太陽を見上げる。まさしく夕陽の色に見える。ジュニアはそれをケンドアに返した。それでこの少年の目の周りは日焼けをしていないのだ。

「おまえの持つこの剣は祖父の鍛えたものだ。中に黒魔法を封じ込めてある。祖父が死んで、その技法は絶たれているから、こいつのような剣はもう今では容易には手に入れることの出来ない貴重なものだ。普通それを手放すものはいない。だから疑った。ましてやシトラウト・シュミッツはそのことをよく知っているし、この剣は昔、命の恩人にもらった剣と聞いた。奴は絶対に手放すはずがない。いやいや、疑ってすまなかった。」

 ケンドアは豪快に笑いながら、素直にジュニアに謝った。

「ケンドア様、こちらこそ失礼を、致しました。」

「なあジュニア、なに沢山しゃべってんだよ。それにどうして敬語?そもそも誰?この人は誰?」

 アルが勝手に会話に割って入る。

「ああ、君は白魔道士か?相当の使い手のようだな。」

 ケンドアがアルを見定めるように見る。

「失礼失礼、私はケンドア・ドルメドル、ああ、名前はさっき名乗ったか、私は鍛冶師、君と同じで白魔法を使うものだ。ただ、私の使う白魔法は金属の精霊としか話を出来ない。それは知ってるね? 先祖代々、剣士が使う剣の製造に携わってきた一族の今の頭領だ。これでもドルメドル家はこの辺りでは名の知れた鍛冶の一族なんだぜ。」

 ジュニアがぶんぶんと首を横に振る。

「ドルメドル家はアルシア一の鍛冶の家柄です。アルシア中の剣士はケンドア様を尊敬しています。私が人生の中で一番お会いしたかった方です。」

「ふーん…なんだ、そういうことなら俺は剣を使わないからあんま関係ないね。ケンドアさん、俺はアルシリアス・ブルベット、ご名答、白魔術師だ。」

 ケンドアがアルを見て微笑む。

「アル、私を呼ぶときは『ケン』でいい。」

 そしてまた炉に目をやる。

 ジュニアが何か言おうとしたとき、ケンが片手を上げて制止した。

「頃合だ。」

 ジュニアに預かった剣を大胆に炎に突っ込む。思わずジュニアが声を上げる。ケンドアはそれを無視して炎に空気を送る。

「今の、この剣のバランスはジュニアには合っていない。当然だ、私がシトラウト・シュミッツに合わせて調整したからだ。だからこの剣の持つ本当の力、黒魔術の力も発動しない。」

 ケンドアが炎から剣を引き出す。手前のアンビルに載せる。

「タテマクサラエボナリクサノマツニ……………。」

 意味不明の言葉をケンドアが唱える。ジュニアには何も見えないし感じられないが、アルにはひしひしと感じられる。

 これが、金属の精霊か…。

 鍛冶とは金属の精霊を召喚できる白魔術師のことを指す。さらに言えば、その術に極端に特化した者たちだ。

 目に見えない何かが辺りに濃く充満している。アルは息が苦しいほどの空気の濃密さを感じる。

 ケンドアが鎚を振り上げて剣を叩く。精霊たちがその音に応じて金属に飛び込み、金属から飛び出す。

 叩くたびに金属から飛び出す火花は炭素が空気に触れて酸化したものだ。それと入れ違いに別の元素が飛び込んでゆく。アルが辺りを見回す。炎の上がる炉の向こう側に様々な色の石を重ねた塔のようなものがある。どうやら様々な金属はそこから出たり入ったりしているようだ。アルの目も次第に慣れてくると、様々な色の光る粒が辺り一面を舞い飛んでいることに気づく。

「うわ、すっげえ綺麗!」

 ケンドアがちらりとアルを見る。ジュニアには何がなんだかわからないようだ。

 あか、あお、きいろ、みどり、きん、原色に近い刺激の強い色ばかりだ。しかしそれが美しい。

 どのくらい続いただろうか、ケンドアの最後の鎚の音が響き、消えると原色の光の粒も一瞬にして消えさる。

 ケンドアはその剣をジュニアに向けてかざした。ジュニアが手を伸ばす。直前で、ケンドアがジュニアの手を避けて取れないようにする。

「悪魔と契約したことは?」

 ケンが無感情に聞く。ジュニアが首を横に振る。そもそもジュニアには質問の意味合いが分からない。

「この剣には黒魔法が封じられている。その黒魔法は悪魔の姿に擬人化されている。この剣は持ち主にしかその力を開放しないが、それをジュニアにも使えるように今私が調整した。どのような魔法かは知っているのか?」

 ジュニアが頷く。父とジリアラスとの戦いの様子を思い出す。この剣は白魔術の力を無効化する剣だ。

「使いたいか?」

 強く頷く。

「ならば覚悟を決めて手に取ってみろ、すべては剣が教えてくれる。」

 ジュニアが剣を握る。


 世界が瞬間的に闇に包まれた。何も見えない。上も下も分からない。

「あいつの息子か。」

 声がすると姿が見える。いや、姿が見えたのが先だったか?もうよく覚えていない。

 それは年老いた老人の姿をしている。大きさは20cm位か、杖を突いてジュニアの前に立っている。顔色の悪い黒い色をしている。

服装は派手だ。どぎつい色がごちゃごちゃになったポンチョのような衣服をまとっている。

「儂を使いたいのか?」

 ジュニアを意地悪く見つめる。獣の目だ。

「それとも儂に使われたいのか?」

 うひゃうひゃと笑う。

「使うのは僕の方だ。」

 正面から瞳を見返す。老人が沈黙する。そして向こうが目を逸らした。

「冗談だよ、またいつかあいつの所へ戻されたときに、酷い目には合いたくねえからな。手を貸してやるよ。」

 それでも途中からニヤニヤしながら老人はジュニアを見ている。

「見返りはお前の魂だ。いいか?」

 思わず言葉に詰まる。ジュニアの心で声がする。『了解だ、ただし私の力が勝るうちは、お前の魂を、私によこせ!』ケンドアの声だ、そのまま言葉にする。


 世界が明かりに包まれる。先ほど同じ、ケンドアの前に自分は立っている。最後に悪魔の叫び声が聞こえたように感じたが既に定かではない。

「上出来だ。」

 ケンドアが言う。豪快に笑いながらジュニアの背中をバンバンと叩いたりする。高飛車な感じもするが、ずいぶん気さくな男だと思う。

 ジュニアは剣を眺めた。以前と特に何も変わらない。ケンドアは後ろを向いてしまったので仕方なくアルの方を見る。アルも首を振るだけだ。

「ほお。」

 ケンドアが口にしたのでそちらを見る。だが彼はジュニアには既に興味無さそうにまるで別の事を言った。

「珍しいこともあるものだ。祖父の剣がもう一振り現れるとは…。」

 彼の視線の先には老いぼれた老剣士が、例の門番に連れられて歩いている。


 その夜、屋敷では盛大な宴会が開かれた。ソウ・プラントルの誕生日を祝う宴会だ。

しかしながら主人はすこぶる機嫌が悪い。ビルジ・ヴァルメルが姿を現さないからだ。もう何か月も前から召使いたちに命じて今日のパーティーの事を森で触れ回らせていたのに、明らかな反応は無くてもエルフたちの耳にはこの話は絶対に入っているはずなのにだ。エルフとは全くそういう生き物だ。ソウ・プラントルは苦々しくそう思う。

 エルフは人間が嫌いである。人間もエルフが嫌いである。しかし全ての人間やエルフがそうという訳ではない。反対に気に入るととことん気に入ってしまうのがエルフと人間との関係だ。そういった意味で、ソウ・プラントルは、エルフの女性ビルジ・ヴァルメルを大変気にいってしまったのだ。いつも彼女の事ばかり考えてしまう。一方、ビルジの方はエルフとしては普通に彼を嫌っている。そこが切ない。

 ポペットの森のどこかに、エルフの村があると言う。しかしそれを知る人間はいない。エルフは森の民である。人にわからないように森に潜んでいるのだ。

 ビルジに会いたいソウは、懸命にその村を探すが何の手がかりも無い。

 今日もビルジが来ないであろうことは、ソウには分かりきっていたことだ、しかしそれでも期待してしまう。そしてやはり来ないので機嫌が悪くなる。

恋じゃん、片思いじゃん。

ソウには亡くなった妻との間に、ジュリエットという娘がいる。彼女ももう十七になる。ソウはもうすでに四十代半ばを過ぎている。ちなみにビルジ・ヴァルメルは既に百歳近い年齢だ。エルフの寿命は人間よりも遥かに長いので彼女は外見的には三十代くらいにしか見えない。男性はやはり若い女性に興味を持ちやすい。遺伝の仕組みで種を維持している生物としては自然な感情だ。

 ソウ・プラントルは盃を手にしたまま席を立った。二人の侍女が後に続く。彼を呼び止めるものは誰もいない。

 細長い部屋だった。部屋の両脇にはそれぞれ四人の正装した給仕が直立した姿勢のまま立っている。中央に長いテーブルが置かれ、ニ十脚程の椅子が並べられている。しかし既にそこに座るものはいなかった。

食事が始まった時にはビルジ・ヴァルメルのために用意した、プラントル氏に一番近い席以外の全ての席が招待客で埋まっていたが、主の機嫌はすこぶる悪く食事中はそれに気を使って会話も沈みがちだった。プラントル氏が最近特に感情の起伏が激しくなってしまっていることには皆同意見だったが、口にだして言う者はいない。

全ての料理が饗され終えた今では、みな席を立ち屋敷内のどこかへ消えてしまっている。

なぜなら、部屋の外からは騒がしいばかりの楽器の音や歌声が響いてくるからだ。彼らは虫が街灯に誘われるように部屋を出て行った。勿論、プラントル氏の不機嫌さがそれを後押しした。

プラントル氏は招待客たちに加え、この村に住む全ての者や、噂を聞きつけてどこからか集まってきた者たち全てに食事と酒を振舞っている。彼は心優しい人物であるのだ。

「そうだ、お前たちも食事と酒を楽しみなさい。」

 ソウは部屋に並ぶ給仕たちと自分についてくる侍女にもそういった。

「私の事はもうよい。ベッドに入って眠ることくらいなら自分一人ででも出来るから。」

 寂しそうに微笑む。

「せめてお部屋までは・・・。」

 侍女の一人が、弱弱しく言葉にする。

「気にしなくてもいい…。」

 それだけ言うと。プラントル氏は部屋を出て行った。


 部屋の外は正に宴もたけなわである。広間の調度品は脇に追いやられ、部屋の中央には広いスペースが作られている。弦楽器をアップテンポで奏でる男がおり、それに合わせて踊る女たちがいる。人々は分け隔てなく床に座り思い思いに会話を楽しんでいる。

勿論騒ぎは広間だけではない、何十かあるこの屋敷の部屋の多くで、同じように皆が食い散らかし酒を浴びている。ソウの村に住むのは使用人など約四十名、招待客がおよそ二十名、呼びつけた芸人や女など二十名ほどと、それに加えてタダ酒を期待して集まってきた二十名ほどが、現在ソウの村とよばれる壁で囲まれたエリアにおり、そのうち村の警備に当たる、貧乏くじを引いた五人ほどを除いた残りが、屋敷内で騒いでいる計算になる。

 プラントル氏の一族はこのポペットの森を大都市ロガリアへの海産物の輸送ルートとして開発することで財を成した。ロガリア周辺は海抜が高く海岸線は断崖絶壁の地形で、漁業自体が産業として成立しなかった。

ロガリアから最も近い漁港は北東のオルバットで、そのオルバットとロガリアとの間にはポペットの深い森が横たわっていたのだ。

ポペットは古くから妖獣の跋扈する森として恐れられていた。そのため海産物のロガリアへの輸送はポペットの森を大きく西に回り込んだ遠回りのルートを使わざるを得なかった。しかし、そのことは商品の鮮度を著しく下げたし、コストを上昇させた。

そこに目を付けたのが当時ロガリアで石工を営んでいたプラントル氏の一族だった。彼は森の中で安全に隠れることの出来る石組みのシェルターを考案して、ポペットの森に設置した。このシェルターを山歩きのオリエンテーリングよろしく、順番に伝うように旅することで初めてオルバットからロガリアへの物の輸送がポペットの森を貫通して可能となった。

当時、ロガリアは町から都市へと変貌を遂げる過渡期にあり、石工であったプラントル家には多くの仕事が舞い込み、ふんだんな蓄えがあった。石工の仕事が繁忙を極めた当時、本業以外のそんな金にならない仕事を推し進めたことで、プラントル家は他の石工仲間からは笑いものにされていたらしい。

しかし信念を持って、苦労して作り上げた、そのシェルター経由の輸送経路が完成し、プラントル家は自らが輸送の請負業者となり、海産物の輸送に携わることで莫大な富を稼いだ。

事業はロガリアの都市としての規模が拡大すると同時にいっそう拡大し、ソウの祖父母は後継者となるであろう孫の誕生を機に『ソウ』の村の建設に着手した。

その頃、シェルタールートでの物資の輸送は既にキャパシティーを超えており、いっそうの輸送量拡大の方策が求められていたのだ。

ソウの村の建設と同時に、個々のシェルターを解体し石畳の街道が整備された。この街道により、高速の荷馬車による物資輸送が可能となり、ポペットの森を一泊二日の日程で通り抜けることが出来るようになった。

この頃を境に、プラントル家は運送部門を売却し一定の報酬を得ながら、ソウの村の経営に専念するようになる。自身で荷の買い付けから保険の手配、運搬人の調達や売り先の確保まで行うことは非常に煩雑であり多くの雇用を必要とした。それよりも必ず利用しなくてはならないポペットの森で通行料とでも言うべき宿泊費を徴収したほうが効率的で確実だったのだ。一人の人間が、しっかりと目を届かせながら経営できる範囲は無限ではない。

ソウ・プラントル氏がこのソウの村で育ったのはそういった環境下であった。彼の友達は旅の行商たちであり、使用人たちであり、その子供たちだった。そして彼らのその姿はソウの両親や祖父母たちの過去の姿そのものだったのだ。だからソウは使用人たちでも分け隔てしない。母も初めは父に雇われた女性だったし、自分の妻もよく働く者を使用人の中から選んで娶ったのだ。

しかしながらここ十数年は、物資の輸送手段が改善されたことにより、ポペットの森を西に迂回するルートや、海側から船で物資を運ぶルートが活況を呈している。特にロガリアの東の断崖に、船から直接荷を運び上げるクレーン設備が出来たことでポペットを通る物資の量は激減した。今でも細々と荷物が通るもののソウの村は閑散としているのが日常である。

ただ、その海の輸送ルートを開発したのもプラントル氏が過去に売却した輸送会社であり、従ってその企業の経営は健全で、株式を保有するプラントル家としては今でも十分な収入がある。


 アルはジュニア、ケンドアと共にその騒がしい部屋の中の一つにいた。

壮年の芸人の一人が弦楽器を、一人が木製の管楽器を、一人が打楽器を奏でている。歌っているのは太めの女性だ。それなりの衣装を着ていることから一応は本職の演奏家のようだ。今日のために誰かに呼ばれたか、誕生会の噂を聞きつけて、報酬を期待して集まってきたのかもしれない。テンポの早い楽曲に合わせて踊るのはこの村の男女だろう。こちらは演奏家たちと比べると明らかに質素な服を着ている。

別の車座では博打をやっているらしく時折大きな声がする。さほど大きな金額が動いているとは思えないが、周りの雰囲気もあって相当興奮しているようだ。

部屋を出入りする人たちは、空いた皿や酒瓶を持ち出して、それを満たして戻ってくる人たちだ。特に給仕をする人はなく誰でも思いついた人物が取りに行けばもらえるらしい。人々の中にはきちんと着飾ったものも、先ほどの踊りに興じる二人のように質素な身なりものもいたが、誰も分け隔てなくこの夜のイベントを楽しんでいるようだ。

「呑め、お前は私の酒が呑めねえってか?」

「済みません、酒はあまり。」

 いつものニギニギをしながらケンの質問に答える。さすがに尊敬する相手からの質問には、言葉で答える礼儀は知っているようだ。それにしてもいつものニギニギ、いったいどれだけ握力を鍛えれば気が済むのか。

「何だと、だからおめえの剣はへっぽこなんだよ! なんちゃってえ、今朝ボッコボコに負けたのは私で――ス!」

 ジュニアにからんでいるのはケンドアだ。この子、飲むとむちゃくちゃざっくばらんだ。

「でもこんなにおいちいのに何で飲まないの?」

「太刀筋が乱れます。」

 まじめに答えるジュニアの言葉にケンが沈黙する。無表情のまま首を捻ってアルを見る。ジュニアを指さす。

「アル、聞いた?聞いた? 『酒がシュギルト、○○がピー無くナリマシュ!』だってよ!」

 ゲラゲラとケンが笑う。アルも愛想笑いしながら、ジュニアの表情を伺う。なんと屈託なく笑っている!なんと楽しそうだ!きっと自分がからかわれているのが分かってないのだ。

 そうか、こいつ剣術以外は天然なん、だっ、た!

満足げに微笑んでいるジュニアの表情にアルが噴き出す。口の中の酒が、霧状になってケンの顔にかかる。

「うおーー、毒霧じゃーー!」

 ケンがのけぞる。のけぞりながら自分のグラスの酒を飲み干す。飲み干したまま盃を落としてふらふらと立ち上がる。

「おい、ご老人!」

 ケンが、部屋の戸口で中を見ていた老人に声をかける。というより呼びつける。

 老人はケンを無視して、そのまま部屋を出て行ってしまう。

「ちぇ。」

 と言って座るとケンの横の女性が盃に酒を注いでくれる。

「おっ、すんません。」

 今度はジュニアが立ち上がる。老人の消えていった方へ歩き去る。ジュニアがいなくなって十秒ほどしてから、入れ違いに一人の女性が入ってきた。

 美しい女性だった。歳は十七・八歳くらいだろうか、長い黒髪が美しい。

「ジュリエットさま。」

「おお、ジュリエット様!」

「ジュリエットさま、どうぞこちらへ!」

 座っていた男も女も、立ち上がり彼女を呼ぶ。人気者らしい、まああれだけ可愛ければ当然、とアルも思う。

 ところがジュリエットは部屋の入口で止まっている。彼女は誰かを探しているようにしてこちらを向いた。アルと目が合うと、ちょっと困ったようにした。それからケンを見つけて嬉しい顔をする。

「やべえ。」

 小さな声でケンがつぶやくのが聞こえる。おぼつかない足取りで立ち上がろうとするが、ジュリエットが彼の元へ辿り着く方が遥かに早い。周りの人達が気を使ってジュリエットが腰を下ろす場所を開けてくれる。少し離れたところで何人かがこちらを見ながらこそこそ話をしているのが見える。

「ケンドア様、ようやく見つけましたわ。」

 ニコニコとケンに話しかける。小さな顔に目がパチリと大きくてチャーミングだ。さらさらの豊かな金髪が床に広がる様子が優雅である。

 隣の女性がジュリエットに盃を渡して酒を注ぐ。ジュリエットはニコリとして『ありがとう』といった。

 その間、逃げ出すのを諦めて再び腰を下ろしたケンはむっつりと黙っている。

「ケンドア様、探しましたよォ。まるでお声をかけて下さらないんですもん。ジュリエット嫌われてしまいましたか?でもケンドア様は無口でいらっしゃるから、それが普通なのかしらとも思ったりして、これでも色々と考えますのよ。えへん、今日は少しお願いがあってまいりました。実はケンドア様にジュリエットの悩みを聞いて頂きたいの。それに、出来ればお願いも聞いて頂きたいわ。お願いの方はお聞きになるだけじゃなくって、実際にお助けいただきたいってことですけど。実は私、私、ああ恥ずかしいわ。うん、でも頑張ります。その。恋をしてしまいましたの!」

 ああ長い。

 『おお』と聞き耳を立てていた周りの人達が声を上げる。ジュリエットは顔を赤くして俯く。ケンの方はしかめっ面だ。そこでアルは思い出す。そうそう、屋敷の外でケンを見かけた時、傍に女性がいたっけ。あれがこのジュリエットなのだ、となると当然相手はケンと言うことに…。

「シトラウト・シュミッツ様をご紹介ください!」

 ジュリエットが勇気を振り絞って告白する。両掌をぐっと握りしめ、両目を閉じて精一杯の勇気を出した一言だ。

 あたりがざわめく。誰だそれ? ケンもびっくりして顔を上げる。

「ごめんなさい。ケンドア様。私、運命の人と出会ってしまったのです。確かに今朝までは、ケンドア様の事がとおっても気になっていましたわ。でもケンドア様が、ここで待っていろとおっしゃっていなくなられて、そしたらジュリエットは、いてもたってもいられなくってしまいますよね。ねっ、ケンドア様が向かわれた方向の、あの場所に近づいてそっと隠れながら見てしまったのです。あの方の、シトラウト様の凛々しいお姿を…。それから物凄い剣術の立ち合いが合って、まさかケンドア様がお負けになられて、びっくりして、その時初めてまじまじとあの方のお顔を拝見したのです。涼しげなお顔、逞しいお体、ああジュリエットには分かってしまったのです。この人、なんだ…って。」

「お、おお、おお、そうだったのですか。ジュリエット様、どうぞどうぞ、私の事は気になさらずに、これで仕事を邪魔されずに済むというもの。いやいや、あなたの魅力に心乱されず、仕事に専念できるというもの。シトラウト・シュミッツの息子など何人でもご紹介いたします。」

 ジュリエットの話を聞くウチに徐々に元気になってきたケンが嬉しくて仕方なさそうにぱちぱちと手を叩きながら話す。

 そしてケンはきょろきょろしてからこちらを見た。

「あれ? アル、ジュニアはどこに?」

 答えようとしたが言葉にする前にジュリエットが話し始めてしまう。

「私、あなた様の事も実は存じ上げておりますのよ。シトラウト様と一緒にいらした方ですわね。ケンドア様とシトラウト様とがお二人でお立合いになれているときに後ろで、ぼーっと見ていらした方。アル様とおっしゃるのね。素敵なお名前ですわ。かわいらしいワンちゃんのよう。実は、アル様にもお願いがございますの、私の事、シトラウト様に取り成しては下さいませんでしょうか。アル様はシトラウト様とはお親しいご様子、アル様からジュリエットのことを好意的にご紹介いただけたら、シトラウト様のご印象もきっと違いますわ。ええ、ええ、わかっております。私がそれに見合うだけの何かを持っているかということですわね。実はジュリエット、アル様のお役にしっかり立つことが出来ますのよ。お父様からお聞きしました。アル様はエルフの村をお探しだとか。私、その村の事を知っているものを、存じております。あっ、私が村の事を、という訳ではございませんのよ。村の事を知っている者を存じているということですの。」

 そこでようやくジュリエットが言葉を切った。今度も長い。

「ストーカ!ストーカはいますか?」

 ジュリエットが振り向いて人を呼ぶ。

 その隙にアルがケンを見る。彼は既にそばにいた女の子と楽しそうに話している。膝を寄せてくっつきそうな距離で手まで握っている。その娘は日に焼けたそばかすの目立つ顔で大らかに笑っていた。一般的に言えば、容姿としてはジュリエットの方がはるかに美しく魅力的なのだろうが、如何せん…。とても疲れる。彼女は自分で話すばかりで、まるで人の話を聞かないタイプなのだ。一方通行のコミュニケーションほどくたびれるものはなかなか無いとさえ思える。

 ケンが一瞬だけこちらを向いて『お疲れ様』と唇を動かし、アルが『ずりーぞ』と唇を返す。

「アル様、アル様、この者がストーカ・ティースクウェア。この屋敷の用心棒をしてもらっています。そして、エルフの村を知るものです。」

 一見して分かる。ストーカ・ティースクウェアはエルフの血の混じった青年だった。エルフと人の両方のテイストがあるがエルフの方が強いようだ。見るからに美男子である。エルフの母を持ち、父親は人間だったという。そういえばエルフが母親の場合には子供にエルフの血が強く出ることが多いらしい。逆の場合に、つまり父親がエルフの場合には、外見的には人と変わらない子もいるそうだ。

ストーカの肌は白く透き通るようで、確かに血管が所々で浮いているように見えるほどだ。目は緑がかっておりジュニアの青よりも薄い感じ。髪は完全に茶色い。背は高く痩身で、関節や指先、耳の先などが尖って見える。その点は少しだけ件の悪魔に似て無くもない。

 ジュリエットの隣に座ったストーカは無愛想に会釈した。エルフは人間と比較すると感情の起伏が少なく冷静だと言われる。しかしそれも人間の立場から見てのことだろう。エルフの意見をアルは聞いたことがない。

「ジュリエット様、申し訳ありませんが、エルフの村については私から申し上げられることはございません。」

 ストーカは冷静に言った。ジュリエットが不満げな顔をあからさまにする。

「でもあなたのおばあさまがエルフの村にいるのでしょ?知っていないはずはないわ。お母様はおばあさまと喧嘩なさって村を出たとか、それでお父様はお父様に、えっと、あなたのお母様の旦那様は私のお父様にお願いしてこの村に来たはずですわ。あなたはエルフの村のことを何か知っているはずです。小さな頃から私はあなたを弟と思って接して参りました。その姉がお願いしているのに何も、一言もお話しできないというのはあまりにも冷たすぎはしませんか? あなたには今の私の気持ちを慮ることは出来ませんか?人生の本当の、ただ一人の相手に出会って、その方とお近づきになるためにあなたにお願いをしているのです。ストーカ、お願いだから願いを聞いてはくれませんか?」

 ジュリエットが正面からストーカを見つめる。怖いくらいに真剣な瞳だ。ストーカがタジタジとして視線を逸らす。ジュリエットは彼の耳元に唇を近付けて何かを一言二言話す。ストーカが赤くなる。

 大人の会話か?何かの取引き?

 しかしジュリエットは機嫌を損ねてしまったようだ。プイとストーカから顔を背けると黙ったまま足早に部屋から出て行ってしまう。ジュリエットがいなくなるとストーカはアルの方を向いた。

「ポペットにあるエルフの村は隠された村です。簡単に見つけることは出来ません。あるいは、ジークムントやリズズのような神が天からの目で探せば可能かもしれませんが…。」


 一方、ジュニアは人を探して屋敷内を歩いていた。相変わらず革球を両手でニギニギと握っている。勿論探しているのは例の老人である。

先ほど、老人に視線を向けた瞬間、凍るようなぴりぴりとした感触がジュニアに向けられた。ほんの一瞬だった。老人の視線はその外見からは想像しがたい剣呑さを伴っていた。おそらく普通の人には分からないだろう、ジュニアが老人と同じ剣の道に生きる人間だからこそ垣間見た殺気だったかもしれない。

 騒がしい部屋を渡り歩いて、ジュニアはようやく老人を見つけた。

 広い部屋だった。中央に大きなテーブルが置かれ、二十ばかりの椅子が整然と並んでいる。どうやら食堂として使われている部屋のようだ。今は老人が一人、椅子にかけているだけである。ジュニアが部屋に入っても、老人は特に反応しない。

 痩せた小柄な老人だった。頬がこけ、髑髏に皮膚を貼り付けたような顔形をしている。目には力強い生気は無く、どこかをじっと見ているが、焦点が合っているようには思えない。禿頭だが白い髭が頬からあごにかけて伸び、毛筆のようだ。

しかし、動きやすそうな服は戦士が好んで着るものだったし、幅広のマントが妙にしっくりときている。そして極めつけに大刀を一本、少し小ぶりな剣を一本の二本の太刀を下げていた。若い騎士でも二本帯刀することはほとんど無い。重くて動きを阻害されるからだ。外観にそぐわない重装備だ。

老人が、吃驚するくらいゆっくりと、ジュニアの方に首を回す。

「ヤコビ・ヌーツェバル。」

 それだけ言って、ジュニアを見つめる。先ほど感じた殺気は露程も感じられない。『あれっ?』とジュニアは思う。

 老人の口元が動き、笑う。しかし声は出ず、少し咳き込む。

「少年よ、まずは座りなさい。そこに立たれては首が疲れてしまう。」

もう少年という年ではない、と心で抗議しながら、ジュニアは無言のまま、素直に椅子を引いて腰掛けた。

「なぜこんな老人と、貴殿とでは勝負になるまい。」

 老人の瞳が、ジュニアの瞳を真っ直ぐにのぞき込む。心の中まで、ゾロリと嘗められたようだ。見透されていると感じる。

 しかし、ジュニアがドキリとした次の一瞬には、今さっきの鋭い視線は消え失せ、再び生気の薄い瞳がジュニアを呆然と見ている。感情はほとんど分からない。

「分かりますぞ、大分人を殺しましたでな。ある程度人の気持ちが分からないと、戦場では生き残れんのじゃ。自分はそうはなりたくなくても、この命は、自分の意志とは関係なく、自分を生かすために自分をそう変えて行くものじゃ。…じゃが、腕の方は既に体力や筋力と共に衰えました。」

 そして目をそらす。

「そちらも、入ってこられよ。」

 老人が突然、部屋の入り口に向かって声を発する。ジュニアが反射的にそちらを見る。

 正装した人物が入ってくる。例の執事だ。名を確か、ドリスロウといった。

 ジュニアはその存在に全く気づいてなかった。その薄い気配を感じ取った老人の方を改めてガン見してしまう。

「何か用かの?」

 老人の物言いにはどこか棘があるようだ。なるほど、気配を消して聞き耳を立てていたのだろう相手を信じることは難しい。

「そうお怒りになりますな。屋敷の中で帯刀されるお二人が、小声で何か相談をされていれば、屋敷の雑事を任された私として聞き耳も立てたくなります。」

 にこやかに応対する様子はさすがに人扱いには慣れている感じだ。老人も緊張を解く。

「それは済まんかった。」

「いえいえ。…ああ、何かお持ちしましょう。」

 そう言うとドリスロウは、背筋の伸びた美しい姿勢で部屋の奥の扉に消えた。すぐに金属製のトレイを持って戻ってくる。トレイにはグラスが三つと液体の入った瓶。あと小ぶりな皿がいくつか載っている。

「どうぞお召し上がりください。主人のもてなしです。受けて頂かないと私が叱られます。」

「酒か。」

 老人がゴクリと喉を鳴らす。その音の大きさに老人自身が恥ずかしそうに咳払いをした。

「お好きですか?」

 そう言って渡したグラスに赤い血の色の液体を注ぐ。自然な感じでジュニアもグラスを渡されてしまい、受け取ってしまう。こちらにも酒がなみなみとつがれる。ドリスロウは慣れた手つきで皿をテーブルに並べると自分もグラスを持ち、酒を注いで二人の間に立った。ジュニアの座る椅子の背もたれにリラックスした感じで手をかける。

 ドリスロウが軽くグラスを上げたので、二人もそれにならい乾杯とする。老人はそのままごくごくと酒を飲み干す。

「酒はうまい。」

 乾いた声でつぶやく。ドリスロウが注ぐ。ジュニアも促されたので杯を空ける。飲み方が今ひとつ分からない。ドリスロウが注ぐ。

「あんた、ここに来る前は何しとった?」

 老人がドリスロウに聞いた。ドリスロウが少し首を傾げる。

「言葉が…、ミサリアの出身か? 南部じゃな。」

「よくおわかりで、ここから北に行って、国境を越えたその辺りです。ここに来る前はミサリアの南部の平原を行ったり来たりうろうろとしていました。」

「うろうろと何を?」

 ドリスロウは答えない。

「年は?」

「十七です。」

『じぇじぇ!』ジュニアが目を見開いて驚く、てっきりもっと上だと思っていた。ドリスロウの顔を凝視してしまう。

「なぜそんな格好をしておる?」

 老人が質問を重ねる。ドリスロウはその質問に、老人の瞳を見返す。

「なぜと言われましても…。執事の仕事着ですから、これは…。」

 二人は正面から見合ったままである。ジュニアはまるで付いていってはいないが、言葉の裏の探り合いだ。

「質問のお好きなご老人ですね。それでは私も聞かせてください。その剣、素晴らしいですね。どれほどの価値のあるものでしょうか?」

 ドリスロウは老人の下げる大きな方の太刀を指さした。老人が自分の剣を見る。

「こいつか、さっさと潰してしまいたい疫病神じゃ。」

「ご謙遜を。これでも剣の善し悪しは少し分かります。そうそう、君の不思議な剣もね。」

 最後はジュニアの方を向く。なぜかどきっとする。

「お互い質問は終わりにするかのう。ただ、儂はもうここの主人に雇われた身じゃ、そのために働く。そのことは憶えておいてくれ。」

 老人は自分のグラスに自分で酒を注いだ。ドリスロウは老人に丁寧にお辞儀をすると無言のまま部屋を出て行った。

「酒はうまい。」


 夜が更けて宴会も静かになった。屋敷のそこここで居眠りをする人や、ひそひそと話しながらまだ博打に興じている者たちもいるが、大方の人間は自分の住処に引き上げたようだ。もちろんどこか人目につきにくい場所で何かしている者も当然いるだろう。

 アルが、準備してもらった屋敷内の部屋に戻ったときには既にジュニアはベッドでぐっすりと眠っていた。小さくいびきをかいている。憎たらしいほど健全なやつだと思う。

 アルはしばらく寝付けそうもなかった。元々感覚が鋭敏なので、アルコールなど飲むと五感が冴えてしまって眠れなくなるのが普通なのた。

とりあえず窓辺へ行き、夜の庭園を見渡す。彼がいるのは二階の部屋だ。先の方に昨日寝泊まりした、ゴチャゴチャとした宿屋の建物が見える。距離をとって離れて見ると、よりいっそうその建造物の独特さが際だって感じられる。建物は、歪み、くびれ、重なり、突き出して勝手に成長したもののように見える。複雑に配色されたそれぞれの時代の色が素っ頓狂に目に飛び込んでくる。

 アルは少し暑く感じたので窓を開けた。『ギイ』という音がして窓が開く。早春の冷たい風が吹き込んでくる。

 より一層風を浴びようと、体を乗り出して庭園を見渡す。まだ春も浅く、虫の声などはまるで聞こえない。

 アルの視界の中で何かが動いた。反射的に体を窓枠に身を隠す。

 庭園を何かが、いや誰かがこちらへ走っていた。黒い影のようだ。アルにはすぐに分かる。昨日のあいつだ。一瞬迷うが、すぐに窓枠を飛び越えた。地上での衝撃を吸収するために前転をしてから立ち上がる。

「何者か!」

 アルが影に向かって走り出そうとする寸前、別の人物が屋敷の側から現れた。背の高い青年だ。見覚えがある。ストーカだ。

「止まれ!」

 ストーカの声に黒い影が止まる。

 ストーカは既に弓に矢をつがえている。腰には剣もある。エルフに弓をよく使うものは多い。影としては下手に逃げられない状況だ。障害物の無いこの庭園でストーカに背を向ければ矢を射られる。この月明かりの中で背後から高速で飛んでくる矢を避け続けることはほとんど不可能だ。

「こそ泥か? 動くな。」

 ストーカは慎重に影に近づいた。影が何かを背に隠す。

「何を隠した。出せ。」

 もう二人の距離は二メートルほどだ。ストーカは矢を捨てて剣に持ち変える。剣先を影に向けたまま、空いた手を影に差し出す。影はゆっくりと背後から隠したものを前へ出す。大振りな剣だ。装飾も立派だ。アルには分からなかったが、これはあのヤコビ・ヌーツェバル、という老人の剣である。ストーカの注意が剣に注がれる。

 その瞬間、影は剣をストーカに投げつけた。ストーカの顔にまともに剣が当たる。ストーカが怯む隙に、影が走り逃げる。

 アルが影を追う。

 影は町の方へ一直線に走る。その時、影の足に激痛が走る。そのまま転倒してゴロゴロと芝生の上を転がる。痛い。ふくらはぎに見事に矢が刺さっている。力任せに抜くと血が吹き出る。すかさず手を当てて止血する。影の口元が何かをつぶやくように動く。ストーカごときに見つかるとは抜かった、と心が激怒する。

「ニガスモノカ。」

 ストーカがこれまでとはまるで違う声で話す。影はドキリとしてストーカを見上げた。老人の剣を抜いたストーカが立っていた。

 いや、ストーカだったものと言った方がいいくらいだった。ただでさえ白い肌が、今はさらに白く死人のようだった。茶色かった髪もすべてが白髪に転じている。頬はこけ、目は落ちくぼみ、眼の色も澱んだ灰色だ。どこかで見覚えがある。ああ、あの老人に似ているのだ。しかし老人よりもさらに老いさらばえて見える。

年老いてしまったストーカが正面で剣を持ちながら無表情に影を見下ろしている。

 心が底から恐怖した。自分の目前にいるのは明らかに既に生きた人間では無かった。死人だ。

「キャーーー!」

 高い、本来の女性の声で影が叫ぶ。恐怖が心を支配して手も足も自由に動かない。歯の根が合わなくなり、ガチガチと音を立てる。まぶたはまばたきを忘れてしまったようだ。

「シヌノダ。オマエヲコロシテ、ソウダ、アアジュリエット、アイスルアノヒトヲ、コノテデコロシタイ。アイスルヒトヲコロシタイ…。」

 ストーカが影に踏み込んだ。影はまぶたを閉じて死を意識した。心臓の鼓動が爆発するように高まっている。

 高まっている。心臓はまだ動いている。

 目を開くと、目の前に人の後ろ姿があった。

「立てるか?」

「う、うん。」

 前を向いたまま手を差し伸べてくれる。手を引かれて立ち上がった。何と頼りがいのある手だろうか。

 見ると彼の目前にストーカがいる。剣を力任せに振り下ろそうとしているが剣は今以上こちらには来ない。空気の壁が形成されているのだ。昨日の夜に引き続き、彼女には見覚えのある魔法だ。

「一度離れる。ええっ!」

 一瞬だけ振り向いた彼が、彼女の顔を見て驚く。しかし今はそんな場合で無いと気づいてか、それ以上は何も言わない。

 彼が正面の壁に意識を集中する。力を込める、前へ押し出す。

 ストーカがはじかれるように、後ろへ飛ばされる。

「あんた、ドリスロウさん、おお。」

 振り向いたアルに、彼女は力任せに抱きついた。

「怖かった、怖かったよお。」

 心臓が口から飛び出しそうなくらいドキドキと激しくビートしている。彼に体を預けて、彼の臭いをかぐ。心が和らいでゆく。

 て、ええ? これって何? この人を好きになりかけてるって事? 私が? ドリス・ミーアが? もう何年も男に化けて泥棒して、人を欺して、勝手気ままに生きてきた私が? こんな子供みたいな子を?

 心の中が激しく動揺するが、答えは見つからない。

「分かった、分かったから。」

 タイトな黒ずくめの服装のドリスロウがアルに抱きついている。ぴっちりとした薄い服を軽々とすり抜けてドリスロウの柔らかな体の感触がアルにビチビチ伝わってくる。昨晩のムニュムニュの感覚が蘇る。

ええっ、彼女の体を引きはがそうとする。ストーカはまだそこにいるのだ。

「やつが来るから!」

 そう言って振り返るとストーカが立ち上がりこちらを死んだ目で見る。

 アルは強引に彼女を自分の後ろに隠すようにした。

ダメだわ。落ち着いて、いつものペースを取り戻さなきゃ。だわ。

ドリスロウが、慌ててアルの後ろからストーカの姿をのぞき見る。べーをする。

「何なのあれ?」

「分からない、けどあの剣を鞘から抜いたとたんにおかしくなったみたい。」

 ゆっくりと歩み来るストーカから距離を取る。

「あの年寄りの剣だわ。何なのあのジジイ。」

「あの人のか、ケンが彼のおじいさんの作った剣だって言ってた。」

「ケンって、ケンドアのこと? わお、だとしたらバグロマ・ドルメドルの剣だわ。市場に出せば一年以上は遊んで暮らせる。」

「おまえ、盗んだのか? 年寄りから?」

「ええ、悪かったかしら? それが私の本当の仕事だもの。薬を入れたお酒を飲ませたらぐっすりだわ。昨日と違って楽勝だった。あっ、そういえば、あなたあの時私の胸触ったでしょ。」

 からかうようにドリスロウが言う。アルがどぎまぎする。それが面白くドリスロウは言葉をつなぐ。

「責任取ってよね。初めてだったんだからあ。」

 ストーカが速度を上げて距離を詰める。アルにスペルを唱える時間は無い。

 それでもアルの右手が発光した、拳から光の棒が延びるように発生する。その光の棒が発火する。

 ストーカの剣をアルの炎の剣が受け止めた。

「フェムアリシウム、火と炎を司りし精霊たちよ、今こそ我を信じその怒りをもって我に力を貸したまえ。セム・ブラフ・ガシス」

 全然遅れてアルのスペルが音になる。これじゃ順番が逆だ。

 赤々と燃えるアルの炎の剣がストーカの剣を払う。

アルは今まで一度も剣など握ったことは無い。ジュニアの動きを頭でイメージする。見よう見まねだ。おまけに後ろにドリスロウをかばっている。

実力の差は歴然だった。アルはストーカに確実に追い詰められてゆく。

ドリスロウがそれに気づいてアルから体を離す。射貫かれた足の出血は止まっていた。まだ激しく痛むが致し方ない。少し逃げて、離れたところに立つ。ストーカを睨みつけ彼に意識を集中する。口の中で小さくスペルを唱える。音となって外に聞こえてくる音量では無い。通常、白魔術師の魔法は音波を通じて発動するので、ドリスロウの魔法も標準からは外れている。

ドリスロウの声と共に、ストーカの動作が少し遅くなった。逆にアルの動きは軽くなったように見える。彼女には物理的に強力な白魔法の能力は無い。空間を明るく発光させたり、今のように空気の密度を若干変えたり出来るだけだ。いま、ストーカは普通よりも少しばかり密度の濃い空気の中で動いている。だから動きが制約される。アルはその逆だ。彼女には空気の壁を作るほどの能力はない。

大分状況を改善したもののそれでもアルは明らかに劣勢だ。元々のスキルが違うのだ。

アルもドリスロウも気づいていなかったが、ストーカによって彼は確実に屋敷の方に追い込まれていた。ストーカはアルを倒せるなら倒すし、そう出来なくても本来の目的の方向へ近づこうとしていた。

ジュリエット・プラントルの眠る部屋の方向だ。

ストーカは屋敷に充分近づくと、アルと位置を入れ替えて自分が屋敷側へ立った。そして、一目散に屋敷の中へと駆け込んだ。アルの前で扉がバタンと閉じられる。

二人はあっけにとられた。しかしすぐに我に返る。屋敷の中から悲鳴が聞こえてきたのだ。しまった。

アルは自分も屋敷へ駆け込もうとして立ち止まる。上を見る。

「おい! ジュニア! 起きてくれ! 君の助けが必要だ! おい、ジュニア!」

 駆け寄ってきたドリスロウがアルの肩を叩く。アルがドリスロウを見る。

「無理だわ、起きてこないわ。飲ませちゃったの、彼にもたっぷり…。」


 アルが屋敷へ駆け込んだとき、玄関ホールは既に血だらけだった。ストーカは自分に刃向かってくる者は勿論、泥酔してそこここで寝ている人たちも几帳面に刺し殺していた。悲鳴を追ってアルが部屋を移動する。

 ストーカは逃げ惑う人たちを追いながら切り殺していた。本来のジュリエットを殺すことは、目先の快楽のために一時棚上げらしい。

 アルは走る。声の方へ走る。すると屋敷が唐突に静かになった。

 アルがその部屋に駆け込んだとき、アルの目に入ったのは、ストーカと対峙するケンドアの姿である。ドリスロウがアルに追いつく。

 さすがにストーカも容易には踏み込めないようだ。広い間合いを取って中段に剣を構えている。対するケンドアは上段の構えだ。リズミカルなステップで間合いを計っている。

「ケン、どうなってるんだ! そいつ、その剣を手にした途端、死人みたいになって、狂っちゃったんだ。」

「祖父の剣だ。ラマダラゴスという名の悪魔が封じられている。」

 ケンはアルの方は見ないでそう言った。ストーカが暗い表情のままぴくりと反応する。

「貴様、バグロマの血縁か? ああ、分かるぞ、あの薄汚いジジイの臭いがしやがる。」

 ストーカの口を使って別の人格が現れる。

「それはひどい言いぐさだな、ラマダラゴス。当時最強の悪魔と言われた貴様も、祖父の鍛冶としての能力には抗えなかったではないか。次々と切り裂かれ数多の剣に封印された負け犬め。」

「ぐおおお!」

 ストーカがケンに襲いかかる、常人の動く速度では無い。明らかに筋肉や骨格の能力を無視して体が酷使されている。

「破!」

 ケンがストーカの剣に真正面から切り込む。二本の剣が激しくぶつかり、両者共がはじかれる。ケンの剣は途中で歪んでしまっている。あれではもう鞘には戻せない。

 それでもケンは次の一撃をストーカに打ち込もうと剣を上段に振り上げ、間髪を入れずに切り込む。彼の剣に防御は無い。ストーカはかわそうとするが背中をザックリと切られる。剣自体はストーカの持つものが勝るが、剣術はケンの方が遙かに優れているということだ。

 流れ出した赤い血がその場でどす黒く変色して固まる。肉がもこもこと増殖して傷を覆う瘡蓋になる。こんなの既に人では無い。怪物と化したストーカが振り向く。

「サミシイ、ココロガ、カラッポダ。ジュリエット、コロサセテクレ、アナタノ、シニユクスガタ、ダケガ、ボクヲ、スクエル。」

「貴様、持つ者の心を食らうのか?」

「ちっぽけな男だ。だが仕方ない。折角久しぶりに手に入れた体だ。文句は言えぬ。」

 今、二人の位置が入れ替わったことで、ストーカに対して、アル、ケン、ドリスロウの三人が向かい合う立ち位置になった。ストーカが迷わず部屋の奥へ走る。別の部屋へ抜ける扉があるのだ。彼は開いた扉を駆け抜けると、扉を閉めて横の書棚をずらして開かなくする。本の詰まった書棚だ。一人の人間が軽々と動かせるものでは無い。ピキピキと嫌な音がストーカの腕からする。筋が破壊されているのだろう。何の抵抗もない動きで棚は動いて扉を塞いだ。

 戸棚の裏でガタガタと音がする。アルたちがたどり着いたのだ。彼らにはこちら側の様子が分からないので、ガタガタと扉を押して開けようとしている。裏に書棚があることを知れば、無駄な努力とすぐに分かるはずだ。

 既にストーカはこの場にいない。目指すのは玄関ホールから上へ上がった、ジュリエットの居室だ。

「何かに引っかかってる。ちょっと下がって。」

 扉の向こうでアルの声がする。

「アエリギスランタス、風と空気を司りし精霊たちよ、漂い遊びまわる気ままな精霊たちよ、今ここに己が信念を捨て、我の意志に従いたまえ。ガン・デュトロ・ワウ。」

 激しい風の流れと共に扉が破壊される。しかし、書棚は大きく揺れたものの倒れはしない。

「棚が邪魔してる。ガン・デュトロ・ワウ。」

 次の呪文で棚が激しく吹き飛ばされる。三人が部屋に入ってくる。

「くそ、どこだ。」

「きっとジュリエットの所!」

 ケンの質問にドリスロウが阿吽の呼吸で答える。ドリスロウが先頭に立って走り出す。彼女しかジュリエットの部屋の場所は分からない。

 走る。走る。玄関ホールに出て階段を駆け上がる。通路を二度ほど折れたところでストーカを見つける。ドンドンと部屋の扉に体当たりをしている。ジュリエットの部屋だ。さすがに令嬢の部屋だけあって、作りが頑丈に出来ている。今のストーカの異常な筋力でも破壊出来ないとは驚きだ。大勢の賊に侵入されても立て籠もれる強度に設計されているのだ。

「待てえ!」

 ドリスロウを押しのけてアルが廊下を走り出す。ストーカがこちらを向いて、やつもこちらに進んでくる。

その時、手前の扉が内側に開いた。アルたちとストーカとの間にあたる位置だ。距離としては大分ストーカ側に近い。開いた扉から姿を現したのはジュニア。片手に剣を、もう片方は例の革球だ。

眠たいためか、ジュニアはとても不機嫌な顔だ。

側方から殺気を感じる。瞬間的に表情が引きしまる。ストーカとはもう一メートルほどの距離だ。ストーカが斬りかかる。ジュニアに剣を抜く暇は無い。

 すっとジュニアの体が沈み込んだ。ストーカの剣がジュニアに向けて振り下ろされる。二人の細かい動作は、アルの位置からはジュニアの陰に入ってしまってよく分からない。しかし次の一瞬、ストーカが動きを止めてガクリと床に崩れ落ちる。

 ジュニアが立ち上がる。

「ジュニア、グッジョブ!」

 アルが嬉しそうに叫ぶ。

「ヤコビ殿の剣?」

 ジュニアが腰を折って床に落ちた剣を拾おうとする。

「ジュニア、だめーーー!」

 三人が声をそろえて悲鳴に近い叫び声を上げる。しかし、既に遅い。

 ジュニアは剣を手にして立っている。表情は無表情だ。ぽかんとしている。

 ガチャリ、と音がして奥の扉が開く。

「どうなさいましたの?騒がしいことですね。ストーカ! ストーカはどこです?」

 ジュニアが声の方を向く。廊下に出てこようとしたジュリエットが慌てて引っ込む。顔だけを廊下に出して恥ずかしそうだ。

「シトラウト様、いかがなさいました? シトラウト様? どうしてそのように寂しそうなお顔をなさっているのですか?」

「ジュリエット様!部屋に入って!すぐに鍵を!」

 ドリスロウが執事の声で叫びかける。

「ああドリスロウ、あらあなた何て格好を…。」

 ジュリエットに危機感は無い。ああイライラする。

「アル、助けてくれ…。」

 ゆっくりとジュニアがこちらを向く。ストーカほどでは無いがジュニアも青白い顔をしている。

「ジュニアの精神力が半端なく強いんだ。あの剣は持つ者の心を空っぽにする剣。普通の精神力なら耐えられない。ストーカのように老いさらばえるはずだ。そして、おそらく持った者の一番大切な人を殺せば解放されると思い込ませて、無限に人殺しを続けさせる剣だ。」

 ケンが早口でアルに説明する。

「使う人間を苦しめてどうすんだよ!何のためにそんなものを!」

「知るかよ、うちの祖父さんの考えてたことなんて知るもんか。きっと敵に持たせて自滅させるんだろ!」

 とはいえぶっちゃけて言えば、ケンの身内のしでかしたことを皆で尻ぬぐいしているのだ。ケンは自分自身に冷静になるように言い聞かせ、深呼吸して説明する。

「とにかく、アルは逃げてくれ。俺たちじゃ束になってもジュニアの剣術には太刀打ちできない。おまえ殺されるぞ。幸いジュニアの精神力のおかげで、彼はおまえ以外には興味が無いようだ。」

「アル、君を殺したい。」

 ジュニアがとんでもなく切ない瞳でアルを見つめる。

「逃げろったってどこに逃げるんだよ。」

 ジュニアとケンとを交互に見ながらアルはほとんどパニックだ。

「あの老人の所へ行け、少なくとも彼はあの剣と一緒に旅をしてここまで来たはずだ。あの剣を鞘に封印することが出来るかもしれない。」

「ジュニア相手にあんな年寄りが役に立つもんか!」

「アル。」

 ジュニアがアルを呼ぶ。ジュニアがこちらへ歩いてくる。

「まずは行ってくれ、老人に話を聞いてダメなら、僕の村へ行くんだ。僕がここで殺されても父がいる。きっと父が何とかしてくれる。ロガリアの南西だ。海沿いに進めば僕の村、ドルメドルの村に行けるから。さっさと!」

 ケンがアルを後ろに押し出す。ジュニアの方を向いて廊下をふさぐようにする。

「さあ早く!」

 今度はドリスロウがアルを引っ張る。

「あの年寄りの居場所なら分かるから早く行きましょう。」

「君は来ない方がいい。俺はジュニアに追われる身だ。一緒にいたら危険だ。」

「いいの、一緒にいたいの。それで死ぬなら後悔しないから。」

 ケンはジュニアを見ている。アルがドリスロウの手を引いて廊下を駆けてゆく。姿が見えなくなる。

「アル。行くな…。」

 ジュニアが切ない声を上げる。

 ケンの瞳がジュニア視線と一致する。ケンは自分の死を直感する。背筋が縮み上がる。彼に逆らえば容赦なく殺される。祖父さんも何て厄介な剣を鍛えたのか。

「どかない。」

 ぶんぶんと首を横に振る。唇はもう緊張で青く変色している。

「ジュニア、よく考えてくれ。君はその剣に操られているだけなんだ。アルを殺す意味がどこにある。」

「寂しいんだ! とてつもなく寂しいんだ!!」

 ジュニアが一転して感情的に怒鳴る。距離が近い。もう二メートルばかりだ。ケンが剣を上段に構える。

「退け。」

 その声は地獄から湧き上がってくるような声だった。ケンの精神が凍り付くように麻痺する。ジュニアの表情が明らかにケンに『殺すぞ』と言っている。

「だ、だめだ。」

「剣を、捨てろ。」

 最後の力を振り絞って首を横に振る。次の一瞬でジュニアの姿が消えた。今、上段に構えたケンの両手をジュニアの左手が握っている。ジュニアが右手に握ったラマダラゴスの剣がケンの喉元に触れている。ぽたぽたと血が流れ、廊下の絨毯を赤く染める。

「僕の我慢の限界だ。」

 ジュニアに手をつかまれ麻痺した両手が剣を取り落とす。ガチャリと音を立ててケンの剣が廊下に落ちた。ジュニアはケンを力一杯壁に押しのけた。ケンがバランスを崩し倒れ込む。

 ジュニアはケンを無視して廊下を進む。そして早足になり走り出す。

「ケンドア様。」

 ジュリエットが駆け寄ってくる。ケンを支え起こす。

「いったい何が? シトラウト様はどうなさったのです?怖いです。」

「いかん、…説明は後で。」

 ケンがジュリエットの手を振りほどき廊下を進む。一度止まる。振り返る。

「ジュリエット様はお部屋へ。夜が明けるまで決して外へはお出にならないでください。」

 ケンのあまりに真剣な様子に、ジュリエットが真剣に頷く。


「ドリスロウ、あの年寄りはどこに?」

 二人は手をつないだまま走り続けている。もうすぐ庭園を抜ける。

「ドリス、ドリスと呼んで。ドリスロウは男に化けているときの名前。」

 一瞬ああ面倒くさいと思う。

「ドリス、…。」

「その先を右。」

 折角言い直そうとしたのに、途中で遮られる。

 石畳の道。道の中央に向けて少し傾斜がある細い道。両側から倒れかかるように高い建物が隙間無く建っている。過去には人であふれたソウの村の宿屋街だ。指示された角を曲がる。

 暗い街路が続く。石畳を走る靴音が響く。近くに二つ、遠くに一つ。

 ジュニアだ、もう来たのか。二人は必死に走る。しかし足音は明らかに近づいている。

「次、を、左。」

 ドリスの息が上がっている。速度も落ちてきた。これ以上走るのは無理かもしれない。アルは速度を緩めた。ドリスがアルにぶつかる。

「止まらないで!私まだ走れる!」

「無理だ。ここで闘おう。安心しろ。俺に死ぬ気はない。」

 アルの真剣な表情にドリスが息をのむ。

「ジュニアを殺す気になれば、俺は負けない。」

「やっと捕まえた。」

 ジュニアの声がする。彼は何故かアルたちを先回りしていた。おそらくあの剣のなせる技だ。ジュニアの運動能力はどんどんと過剰に向上させられている。このままではストーカのように、剣に体を破壊される。


「もう僕は空っぽなんだ。」

「何で俺なんだよ。一番大切な人なんて、ほらいくらでもいるだろ。お父さん、お母さんはどうなんだよ。俺とおまえなんて。会ってまだ何日も経ってないじゃないか。」

「時間じゃない、分かるだろ。僕らはもう戦友だ。」

 ジュニアが寂しく微笑んだ。

「行くよ。」

「ダメだよ! 相手をしないで! アル!」

 ドリスが悲壮な叫びを上げる。

 アルの手に炎の剣が現れる。もうスペルのことなどどうでもいい。アルが剣を構える。構えてみて勝てるはずが無いと思う。自分は馬鹿だと思う。剣でジュニアに勝てるはずが無い。

 アルの手から炎の剣が消える。自分の武器はこれでは無い。しかし今、手元にあの使い古した杖は無い。いや、もうあんな杖はいらない。集中するのだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。ジリアラスとも約束したことだ。

…しかし、心の片隅で思う、人が生きるとは何なのだろう。幼くして両親に捨てられたアルがいつも考えていることだ。

『おまえはおまえ一人では無い。このアルシアにある生命全体が一つの命なのだ。おまえが勝手に自分の命を捨てることは傲慢以外の何ものでも無い。その位、思い出せ。理解しろ。』

 誰かが頭の中で話しかけてきた。誰だと問うても返事は無い。しかしよく知っている声だ。昔からよく知っている声だ。

 その声に言われるまで忘れていた。でも忘れてはいけない。人は人生を全うしなくてはいけない。可能な限り生き続けなければいけない。そうすればいつか『運命の定めし敵』に出会えるのだ。その時こそ自分の全てをかけて戦わなくてはいけない時なのだ。それが、自分が作ったこの星の摂理。『自分』?

「少年よ! おまえが手合わせしたかったのは儂だったはずじゃ!」

 矍鑠とした声が響く。あの老人だ。アルと、ジュニアが同時にそちらを見る。ジュニアの背後だ。遅れてきたケンがその場に、アルとドリスの後ろにたどり着く。

ケンの手には一つの鞘が握られている。おそらくはラマダラゴスの剣のものだ。ストーカが鞘を払ったままにしていたものを拾ってきたのだろう。

 老人は古びた鎖帷子に胸当てを付けていた。一昔前の軍装である。おそらくあの、前の戦乱の時のものだ。赤の騎士とは違って重装備だ。

「ヤコビ・ヌーツェバル! おまえと手合わせしてやろう。来い、少年よ!」

「既に少年では無い!」

 お約束的な反射でジュニアが返答する。

「ならばまずはその小僧のことは忘れて儂に集中せい!」

 老人が抜刀する。二本携えていた小ぶりな方の剣だ。

 ジュニアが体ごと、老騎士の方へ向き直った。

 ジュニアが老剣士に頭を下げる。アルには分かる。きっといつもの楽しそうな笑みを浮かべているのだろう。そうでなくてはいけない。剣に封じられた悪魔、ラマダラゴスに支配されているとはいえ、ジュニアはジュニアでなくてはならない。剣術オタクでなくてはジュニアではない。

 二人の息遣いが聞こえてくるようである。アルもケンもドリスも、呼吸を忘れてしまったように静かである。ただ、今から戦おうとする二人は安定した規則的な呼吸音を発している。

 アルは思う。ケンも思っている。決着に長い時間はいらない。おそらく一撃で片がつく。実力的にはおそらくジュニアが遙かに老剣士を凌ぐだろう。あの剣を封じる秘策を老剣士が持たない限り、勝負は、老剣士に勝ち目はない。

 老剣士が打ち込もうとするその先の先を押さえてジュニアが切り込む。老剣士の動きは遅い。老剣士は鎖帷子と胸当てを付けている。ジュニアは突きに出る。防具の隙間を狙い、剣を老剣士の胴体に突き刺す。

 ジュニアの剣が老剣士に深々と突き刺さる。老剣士は振り上げた剣を下げることなく、一歩、また一歩とジュニアに向かって体を寄せる。ジュニアの剣が更に奥深く老剣士の体に食い込んでゆく。老剣士の体がジュニアにぶち当たる。老剣士はジュニアに体を預けた。そして捻る。

 そこでようやく老剣士の剣が振り下ろされる。老剣士は鍔の部分でジュニアを横に殴った。老剣士の体の奥深くに固定されたラマダラゴスの剣がジュニアの手を離れる。頭を殴打されたジュニアがその力に体をひねらせて倒れる。老剣士も体に深々とラマダラゴスの剣を突き刺したまま崩れ落ちるように倒れた。

 死ぬことを恐れない動きだった。ジュニアには剣を手から放せないと言うハンデがあるのだ。剣を放した途端、ラマダラゴスの剣はジュニアをコントロールする術を失うからだ。

だからこそ実力の差を排除して、老剣士がジュニアに一撃を与えられたのだった。老剣士は自分の体を鞘にして、自分の剣、ラマダラゴスの剣を取り返したのだ。

 アルが二人に駆け寄る。

「待て! 絶対に剣には触れるな! 俺が処理する!」

 ケンが怒鳴る。彼も必死だ。また、別の誰かが剣に触れれば元の木阿弥だ。命をかけてジュニアを止めてくれたヤコビ・ヌーツェバルに申し訳が立たない。

「分かってる! ジュニア!」

 アルがジュニアを助け起こす。そのまま両脇に手を入れてズルズルと引きずり老剣士に刺さったままの剣から遠ざける。

 ケンが老剣士に近寄る。既に息絶えているのは明白だ。目を見開いたまま、口を中途半端に開けている。

「彼の魂が上ってゆくわ。」

ケンの背後でドリスが言う。

 ケンが慌てて振り返る。

「そんなものが見えるのか?」

 ドリスはケンを一瞥すると、唇を小さく動かした。アルもジュニアを抱えたままその様子を見ている。夜の暗い路地に光の柱が立ち上がる。ケンの目の前にあるヤコビの死体から輝く球体が浮かび上がる。そして空へ昇ってゆく。

『ケンドア様、後はお願いします。今日の顛末の処理に困ったら儂を悪者に…。』

 球体に老人の顔が重なる。澱んだ目をした生気の薄い、皺だらけの顔だ。そして光が消えてゆく。

 ケンが慌てて、再びドリスに振り返る。

「珍しいことではありません。いつでも起きていることです。死者の魂は、西方の大地にある命果てる山へ向かいます。」

「じゃあ、今の言葉はこの老人の本当の声なのか?」

「声? 勿論です。ただ、彼があなたに話しかけたのなら、それはあなたにしか聞こえません。私にもそれは聞こえないのです。」

 ケンは再び老人の死体を見下ろした。

 しばらくしてケンは表情を引き締めると居住まいを正した。右手に鞘を持ち左手を剣の柄にのばす。

「タタラネナリユカソミニルエニヲセムニ………。」

 スペルに反応して鞘から光のひものようなものが多数現れた。ウネウネと蛇のようにうねりながら老人に突き刺さった剣にまとわりついてゆく。

ケンが剣に手をかける。しっかりと握る。引き抜く。刀身が強く輝く。剣が鞘に収められることに抵抗しているのかもしれない。鞘に近づくにつれ、光は更に強くなる。光の中に入り込み、もうアルやドリスの位置からはケンの姿も見ることが出来ない。すべては光に塗りつぶされている。そして。

急激に暗くなる。剣の先端が鞘に入り始めたのだ。しかしアルにはその様子は見えない。視覚が明るさに追従していない。

『パチン。』

 乾いた音がして剣が鞘に収まった。

「ミナセリヌタエニ……。」

 ケンが短いスペルを唱えると、再び鞘から発生した光の鞭が剣の柄に絡みつく。そしてぐるぐるに縛り付ける。

 光が収まると、今見た光景そのままに柄から出た複数の革紐が柄をがんじがらめに縛り付けてそして本体に溶け込むように融合している。

 ラマダラゴスの剣は封じられた。

 ケンが安心したようなため息をつく。三人とも無言だ。ジュニアがようやく呻き声を上げて意識を回復する。アルは白魔法で、ヤコビに殴られたジュニアの脳を回復する。


 筋書きはこうだ。難しいところは何もない。

 深夜、泥酔したヤコビ・ヌーツェバルが抜刀し屋敷内で殺人に及んだ。それを止めようとしたストーカ・ティースクウェアとシトラウト・シュミッツ・ジュニアが負傷しながらもヤコビを撃退し、とどめを刺した。

 特に齟齬はないはずだと四人で確認する。しかし心情的には受け入れがたいものがあるのも実際だ。特にドリスはあの剣を盗み出すことでこの事件の原因を作った張本人だ。もうこの村にはいられないとしきりに言う。アルについて行くと決めたようだ。プラントル氏に対しても、屋敷の監督を任されていながらこれだけの人死にを出してしまった責任を取って辞職すると言うことであれば納得してもらえるだろう。

 ケンもアルたちに同行したいと言う。ジュニアは大歓迎だ。アルシア随一の鍛冶の話が間近に聞けるなど、ジュニアにとっては最高の幸せだろう。

とにかく、これで四人のパーティーができあがった。魔術師と騎士、盗賊と鍛冶士のパーティーだ。

人を総動員して、夜のうちに出来るだけ屋敷内を整理した。遺体を運び出し、街に移送する。血のついた家具や絨毯、壁などは残念ながら手を付ける暇がない。

ストーカはジュニアにみぞおちを突かれた以外にいくつかの骨折と筋肉の損傷を受けていた。剣に操られ、自分の身体能力以上の運動をさせられた結果のようだった。アルが回復してジュリエットにそばに付いていてもらう。彼女はもうジュニアに近づこうとはしなかった。ストーカは自分が剣を握っていた間の記憶はなかったので、四人で作ったストーリーを事実として刷り込んだ。一部、ジュリエットの記憶とは合致しない部分もあるが致し方ない。屋敷にいてストーカの剣から逃れたものもおり、彼らが見たことと事実とは、どちらにしろ合致しないのだが、あの時のストーカの外見がヤコビに似ていたので、ヤコビが犯人で押切るしかないだろう。ストーカを守るためには仕方ないことだと無理に納得する。

翌朝、プラントル氏が起きるのを待ってドリスは打ち合わせ通りの事の顛末を説明した。屋敷内を見回ったプラントル氏は血のついた壁や床を見て明らかに顔をしかめたが、一言『すぐに補修するように』と指示しただけだった。ドリスが願い出た暇もすぐに受け入れられた。

その日は諸々の手配と、後任者への引き継ぎでドリスは忙しい一日を過ごした。ケンは鍛冶で使う炉を畳むのに二日ほどかかるといい、その作業を始めた。金属の精霊とよい関係を保ち続けるためには、様々な手順や儀式を経なくては炉を立てたり分解したりは出来ないらしい。ケンの本業は刀を鍛える鍛冶であるが、歴代の当主は一年のほとんどを、炉を担いで村々を回り、人々が日々生活に使う様々な金属の道具類を直して回りながら対価を得て生活するのがしきたりらしい。鍛えれば一振りで何年もの生活を支えられる剣を造れるのに、何と慎ましい事かとアルは呆れる。それぞれの生業にはそれぞれのしきたりや思想、信条があるものだ。

そして翌朝。まだ、夜明け前。

「それじゃ、リンダスプールで。」

「大丈夫、私分かるから。」

 ドリスが自信持って答える。ケンは旅立てるまでまだ一日はかかるとのことで、アル、ジュニア、ドリスの三人が先に村を出ることになった。四人が合流するのは、リンダスプール。女神リンのハーレムと名付けられたその町は、ポペットの森の北、ロスガルトとミサリアの国境となるリン川にある巨大な中州の上に作られた町であるらしい。ドリスの話によれば、この時間にソウを出れば日没頃にポペットの森を抜け、夜にリンダスプールの対岸の川縁までは行けるだろうとのことだ。そこで野営して翌朝、町に渡る船が動くのを待って町に入ればよい。

 朝の風はすこぶる気持ちよく、石畳の道を進む足取りも軽かった。しかし、しばらく歩いて行くうちに、ふと人の気配を感じる。誰かが三人を監視していた。近すぎず、遠すぎない距離で複数の誰かが三人を追っている。あまり気持ちのいいものでは無い。

午後になって天候は一気に悪化して、空は厚い雲に覆われた。激しい雨が降り出し、視界は大きく狭められた。そのうち雨は霧のようになり、十メートルほど先までも、ぼんやりと霞むようになる。いつの間にか監視者の気配が遠ざかる。

それでも三人は黙々と道を進んだ。天候の回復を待って日没を迎えてしまう方が、リスクが大きい。雨は夜現れる妖獣たちのように人に襲いかかっては来ない。

時間が経つにつれ、辺りの霧はますます濃密さを増し、空気さえもあたかも水のように肌にまとわりつく。体中に汗が噴き出したように、霧の水滴が結露する。

そして視界はほとんどゼロになった。そばにいるお互いの姿さえ朧気で頼りない。

「止まろう。」

 先頭を歩くアルが立ち止まる。既に足元さえ見えないほどの濃霧である。歩き回るのは危険だ。

「どうするの?」

 ドリスが不安げに聞いてくる。

「どうしようもないだろう。霧が晴れるのを待つしか無い。」

 アルが答える。すぐそばにジュニアもいるはずだが姿は見えない。微かに彼も緊張しているように思う。

「何か、気配を感じる。」

 瞳を閉じてアルが周囲に集中したとき、三人の周りの地面に光の線が現れる。光の線は複雑に動き回り、見たことのない細かな図形を地面に描く。円を基調にした図形だ。対称な図柄ではない、規則正しく見えて、実はそうでもなく、整然としているようでどこか歪みのある不安定な図形だ。見ていると頭がグラグラとして気分が悪くなる。

「魔方陣。」

 さりげなくアルの腕にしがみついたドリスがつぶやく。アルの記憶とこの雰囲気とが結びつく。体が思い出す。全身の体温が一気に下がる。

「悪魔だ。」

 アルの中で何日か前のあの時の光景がよみがえる。悪魔がいる。しかもすぐ近くに。

「ご名答ですわ。アルシリアス様。」

 すぐ耳元で声がする。大人の女性の落ち着いた声だ。艶めかしくさえ聞こえる。

「うわっ。」

 アルがその声から逃げるように飛び退く。アルのいた場所に何かがふわふわと浮いている。人の形だ。

 大きさは十五センチくらい。長い黒髪に色白の肌、目が大きく、小さな顎が鋭く尖る。心を奪われるほど美しいが、やはり悪魔の顔だ。大きな胸元を大胆に露出した黒のタイトなドレスを着ている。細い足を組んで何もない空間に腰掛けている。組み替える足のふくよかな太ももが悩ましい。数え切れないくらいの沢山の宝飾品を首や腕や足などに付けてじゃらじゃらと音がしそうだ。

「悪魔、フローラと申します。」

 深々とお辞儀をしてニコリと笑う。背筋がぞおっとするような残忍な笑みだ。

「今日はご挨拶に来ましたの。一度あなたにお会いしたくて…。」

 そしてアルのことをジロジロと無遠慮に眺め回す。

「普通ね。ほんとに普通。ちょっとがっかりかしら。」

 いつの間にかアルの陰にドリスが隠れるように立っている。アルがフローラと名乗った女性の悪魔を睨みつける。二人は、既に周囲にジュニアの気配のないことに気づかない。

「そんな怖い顔しないで下さいな。戦いに来たわけじゃないんですから。それどころか、使役する黒魔術師に魔方陣を準備させたりして、あなたに会うために結構手間をかけていますのよ。」

「ちょっと待ってくれ、俺は別にあんたになんて会いたくもないぞ。」

 アルが反論する。悪魔と対話するときには相手のペースに入ってはいけないというのは、ジリアラスに何度も聞いた話だ。

「そう言われましても、こっちは興味津々なんです。あなた、ファウナにお会いになったでしょ、何日か前にウチパスって言う、程度の低い黒魔術師とやり合ったときに、お会いになっているはずだわ。あいつ…、ファウナのことね、あいつ実は私の師匠なんだけど、よっぽどあなたのことが気にかかるらしくて、あたしたちの国の九つの神聖な泉の近くに住む、九人の徳の高い先読みにあなたの事を占わせたようですの。そうしたら意味不明、『アルシリアス・ブルベットは悪魔の未来に今後大きな影響を与える存在になるだろう』って言われたそうですのよ。そんな予言、少なくてもいい影響か、悪い影響か教えてくれなくちゃ役に立たないと思いません?」

 彼女の姿が朧気に消えて、アルの目前に移動してくる。きめの細かい肌と目の下のほくろが蠱惑的だ。

「そんなこといわれても、俺は悪魔になんか全く興味ない。これから自分の力で生きて行くだけでいっぱいいっぱいだ。」

「そうかもしれないわね、確かにあなたはあんまり普通だもの。何でファウナがあんなに気にかけるのか…。」

 アルが目の前の悪魔の体をつかもうとする。再びフローラが遠ざかる。

「危ない危ない、魔方陣の中では悪魔は実体なのよ、握りつぶしたりしないで頂戴ね。それよりも、あなたがどう思おうと、ファウナはあなたのことを良くは思ってないわよ。お気をつけなさい。あいつ、あれで臆病だから、ねちっこくあなたを殺しに来るわよ。自分に余計なちょっかい出して来そうなやつは、とにかく芽の出ないうちに排除しようとするはずだから。」

 フローラが消える。

「だから、俺は悪魔にちょっかいなんか出す気は無い。」

「私は逆にあなたに、期待してみてもいいかなって思ってる。性格かな、あたし、とにかく『今のまま』ってのが本当に嫌いなのよ。」

 声はアルの背後から聞こえる。アルが振り向く。

 時が止められているようだった。悪魔の魔方陣の中である。彼女の思い通りに様々なことが出来るのだろう。驚いた表情のまま動きを止めたドリスの肩にフローラが足を組んで座っている。アルと目が合い微笑む。妖艶だが冷たい微笑みだ。

「ということで私との連絡用の魔方陣とスペルを受け取りなさい。何かの時にはいつでも私を呼べばいいわ。私はあなたに出来るだけ協力する。だから、あなたはいつか私たちの世界を変えて頂戴。」

 フローラが、そしてぼんやりとなり、消えた。

「きゃーー!」

 ドリスの悲鳴だ。時間が動き出したのだ。ドリスがその場に崩れ落ちる。

「ドリス!」

 アルが駆け寄る。抱え起こす。彼女は青い顔をして浅く息をしている。アルが気を注ぎ込む。これも既にお約束、スペルを介さない白魔法だ。しばらくしてようやくドリスがうっすらと瞳を開ける。

「大丈夫か?」

「うん、多分。」

「ほんとに?」

 ドリスが弱々しく頷く。

「おい悪魔! 彼女に何をした!」

 しかし反応は全くない。既に悪魔の気配も消えている。あっという間に霧が晴れてゆく、あれだけ濃密な水分を含んだ空気が、アルの周りから外へあふれ出すように消えて行く。

ドリスの顔色に赤みが差し始める。大丈夫だ。

「アル、…。」

 ドリスが目を開く。不安そうな表情だ。

「肩が、肩が熱い。」

「肩? ちょっとごめん。」

 アルがドリスの服の隙間から彼女の肩をのぞき込むく。ほんの短い間だが、悪魔が座っていた場所だ。ドリスが襟元に手を当てる。

 ボオッと青白く光るものがある。図案のようだ。円を基本とした複雑な図形だ。魔方陣。アルには細かくは判別できないが、先ほど地面に描かれたのと同じような魔方陣だ。

「アル、熱いよ。」

 うんとうなずくがどうしていいかはまるで分からない。

 魔方陣は明滅を繰り返しながら徐々に光を濃くして行く。まだ、書き込みの途中なのだ。間に合うかもしれない。何が?

 アルは直感に従って、ドリスの服に手を差し込み肩の上で青白く光る魔方陣に自分の手を重ねた。鋭い痛みが手のひらを襲う。鋭い針でちくちくと刺されている感じ。その点が手のひらの上を移動して行く。

「痛みが軽くなった。」

 ドリスの言葉にアルがうなずく。今はアルの手が燃えるように発熱している。アルの表情が苦痛に歪む。彼の口からうめき声が漏れる。

「アル! ドリスロウ!」

 今まで、悪魔フローラの魔法から隔離されていたと思われるジュニアが、再び同じ空間を共有し駆け寄ってくる。二人に声をかけるが、痛みのためアルには答える余裕がない。

 苦痛はその後もしばらく続いた。同時に脳に、不愉快な音が繰り返し流れる。笛を吹くような高い音だ。これがスペルか、とアルは痛みの中で考える。そして、静かになり、手の痛みが消えて行く。

 アルはドリスの服の下に差し込んだ手をゆっくりと外へ出した。手のひらを上に向けてドリスに見せる。

 アルの手に、フローラの魔方陣が刻まれていた。転写したようにリバースになっているが彼ら三人にはそれが分かるはずも無い。魔方陣は最後に青く発光すると、フッ、とあっけなく消えた。


 悪魔の残していった魔方陣について色々と不安があったが、今はポペットの森を、陽のあるうちに通り抜けるのが優先だった。悪魔のお陰で思いの外、時間を浪費していた。

 遅れた分を取り返さなくてはならない。まだ春の日は短い。三人は早足でポペットの森を歩いている。

ジュニアがアルの肩を叩き、周囲に目配せする。目だけを動かして周囲の森を見ている。

「見張られているのか?」

ジュニアに問うと彼が頷く。今頃手のひらの中の革球は激しくニギニギされているだろう。

見張られてる感触はアルにも分かる。所々で誰かがこちらを監視している。時々、鳥の鳴き声がするが、鳥のものでは無い。その誰かが鳥の真似をしているのだ。

とりあえず監視しているだけで襲ってくる様子は無い。不気味だ。

 『ピュウ』と口笛の音がする。ジュニアが呼んでいるのだ。初めてのパターンだ。森を気にしていたアルは前を行くジュニアにぶつかりそうになる。既にジュニアは歩みを止めている。

「誰かいるのか?」

 ジュニアに問いかける。街道の先に、人影がある。大柄な感じには見えない、女性かもしれない。

「エルフだな。」

 アルが言うと、一度止まっていたジュニアがゆっくりと歩き始める。緊張しているのが分かる。向こうは明らかに我々を待っていたのだ。アルとドリスも彼について行く。

「アルシリアス・ブルベット殿はどちらでしょうか?」

 推察したとおりそれはエルフの女性だった。遠目には小柄に見えたがそうでもない。美しい女性だ。歳は、エルフの歳は人には判別しづらいのだが、せいぜい三十代くらいに見える。腰までの金色の髪が美しくウェーブしている。目尻はエルフには珍しく少し下がり気味で優しい印象だ。通常エルフの目尻は凜々しく持ち上がっているのだが、それとはまるで違う印象だ。肌は白く透き通るようで、手足は細く、胸や腰回りは女性らしくふくよかだ。

 彼女は暗い色の厚手のコートを羽織っている。

「アルシリアス・ブルベットは私です。あなたは? それにどういったご用件でしょうか?」

 アルはエルフの女性の前に立った。ドリスは後ろで不安そうだ。ジュニアは彼女を見ながら、実は周囲の森に気を配っている。彼女が話し始める直前に監視者たちの気配が消えたのだ。彼女が人払いしたのかもしれないが油断は出来ない。エルフは遠距離から矢を放ってくるものだ。

「私はビルジ・ヴァルメルと申します。」

「じぇじぇ!」

 ジュニアが後ろで素っ頓狂な声を上げる。アルはあらかた予想していたが、ジュニアはその天然さ故に無防備だったらしい。目を見開いて失礼なほどにビルジをガン見している。

 彼女がビルジ・ヴァルメルだとすれば既に八十歳以上の年齢のはずだ。

 彼女はジュニアを冷たい瞳でちらりと見てからアルに話しかけた。

「ジリアラス・ガトウ様は…。…あの…。」

 勇気を出して話し始めようとした彼女を逡巡が包み込む。その先は恐ろしくて口に出せないのだ。

「亡くなりました。」

 アルが言葉をつなぐと、ビルジは『イヤ!』と行って両手で顔を覆った。そしてふらりとバランスを崩す。

「あっ。」

「待て!」

 支えようとして前に踏み出しかけたアルの肩をジュニアが引き留める。ジュニアは剣を抜いてアルをかばうように街道の、ビルジのいる側とは反対側を向いている。

 ジュニアは凄まじい殺気を感じている。街道沿いの樹上に何人ものエルフのボウマンが潜んでいる。

 アルの代わりにドリスがおそるおそるビルジに近づく。両手を突いて石畳の上に座り込んでしまったビルジの肩に手を添えてささえる。

「何と、どうしてジリアラス様は…。」

「運命の定めし敵と出会い、命を全うしました。」

 アルの口からすらりとそんな言葉が出た。アル自身が驚く。自分はまだジリアラスの死を納得していないはずだ。

 運命の定めし敵のシステムとはいったい何なのだ?

 絶望に沈み込んだ表情と瞳でビルジがアルを見上げる。美しく可憐だ。彼女の瞳から涙があふれ出る。アルを見上げたまま彼女は嗚咽しはじめる。中途半端に開かれた口から息を吸い込むとき悲しげな声が漏れてしまうのだ。

 アルにはどうにも出来ない。どうしようも無く悲惨に泣いている彼女を見ていると自分が冷めて行くのが分かる。

「せめて、せめて、何か形見となるものを分けては頂けませんでしょうか?」

 必死の表情でビルジが語りかける。

「あなたはジリアラスとはどういった間柄だったのですか?」

 アルが訪ねる。ジリアラスの遺品はアルにとっても大切なものだ、どこの誰ともしれない人物に簡単にあげてしまうわけにはいかない。

 寂しげな表情をして、ビルジが真剣に考える。

「ジリアラス様はお話になられませんでしたか? …アルシリアス様はジリアラス様とはどのようなご関係で?」

「ジリアラスは俺の師匠です。といっても俺がまだ何も分からない頃に、俺の両親が捨てるも同然に俺をジリアラスに預けたそうです。それからこの前まで親子同然に育ててもらいました。それだけです。」

 アルが淡々と話す。ジリアラスとの思い出が、早送りでアルの意識を駆け巡る。切ない。

 アルの言葉に、ビルジはすぐには反応しなかった。まだ躊躇している。

「お話ししなければなりませんか?」

 ビルジが言葉を詰まらせる。

「そうですわね。別に隠すことではありません。村のものは誰でも知っていることです。ただ、話せば気持ちが切なくて…。私とジリアラス様とは若い頃に共に暮らしておりました。子も、何人かもうけました。しかし、あの方は、ご自分の、能力を、確かめたく、なってしまい、私の、元を、…去られました。戦争へ。」

 涙をぽろぽろと溢れさせながらビルジが訥々と語る。昔のあの戦乱の時代の暮らしぶりや思い出が切なく語られる。ジリアラスが出て行った後も、今日に至るまでビルジ・ヴァルメルはただただ、ジリアラス・ガトウが自分の元へ帰ってくるのを待っていたのだ。

「アル、この人の言うこと、本当だと思う。」

 ビルジを支えるドリスが言葉を添える。

 アルは手を伸ばしてビルジを立たせた。

「半分なら。」

 アルは服の間に手を突っ込んで、布の包みを取り出した。ゆっくりと開く。ジリアラスの遺髪だ。アルはそのだいたい半分をつかんで、ビルジに差し出した。ビルジが奪い取るように受け取る。抱きしめ、号泣する。

 アルは自分の手元に残った髪を、静かに布に包んだ。

「行こう。」

 ジュニアとドリスに言う。アルはもうここには興味が無い。おそらくビルジもアルに興味は無いだろう。

「待て。」

 ジュニアが言う。

 地面が細かく振動を始める。何か大きなものが来る。

 ジュニアがまだ泣いているビルジを見る。

「手を出させるな。」

 そして森の奥に視線を送る。

 ビルジが手の甲で涙を拭いて振動の来る方を見る。口元が少し開くがアルたちには音は聞こえない。人の可聴域外の音声なのだろう。

「大丈夫です。村の者たちに伝えました。」

 ジュニアが頷く。

 足元の振動が次第に激しくなる。規則的な振動だ。そして街道の向こうに姿が現れる。

 ファイヤードラゴンが速度を落としたのが分かる。巨大なドラゴンが近づいてくる。止まる。

 アルとジュニアには見覚えのある顔が、ドラゴンから降りてこちらに歩いてくる。ドラゴンは二頭いて、もう一人の赤の騎士はドラゴンに乗ったままだ。

「副長。」

 ジュニアがその人物の名を呼びながら近づいて行く。アルは逆にドリスとビルジとをかばうように、赤の騎士との間に立ち位置をずらす。

 ジュニアとプランラットとは少し話をして、それからこちらに進んでくる。

「ロスガルト王国、赤の騎士団のプランラットと言います。」

 彼はビルジに礼儀正しく正式な敬礼をした。

「現在、以前私と行動を共にしていたファイヤードラゴンを殺した人物を追っています。」

 プランラットは生真面目な表情でビルジを見つめている。アルは彼が感情的でなさ過ぎるのを不思議に感じた。

「ウチパス・ヴァルメルという名の男です。聞くところによると、あなたもヴァルメルというお名前のようだ。ウチパスのことをご存じではありませんか?」

 ビルジの表情が明らかに変わる。正直な女性だ。

「ご存じのようですね。」

 プランラットがビルジを見据える。初めて感情が表面に現れた瞬間だ。

「はい、ウチパスは、私の孫です。」

 弱々しい声でビルジは答える。

「今どこに?」

 たたみ掛けるように問いかける。ビルジが言葉を詰まらせる。

「どこにいますか?」

「ウチパスは、亡くなりました。」

 ビルジが目を伏せたまま答える。明らかに嘘だ。

「証拠をお見せ願いたい。」

 間髪入れずにプランラットが問いかける。

「証拠、証拠と言っても、あの子の遺体は既に焼いて…。」

「殺されたクロイツは私のバディでした。あいつが卵から孵った瞬間から私はあいつを知っていました。私はあいつの親としてあいつを育て、共に育ってきました。苦しい訓練にも一緒に耐えてきた。あなたも妖獣使いを生業とするのならおわかりになるはずです。我々と妖獣たちとの深い結びつきを…。」

 俯いたままプランラットの話を聞くビルジ。表情に変化は見られない。

「ウチパスは、そこにいる少年を操ってクロイツを殺したのです。やつが黒魔術師だったことはご存じでしょう? ウチパスはその能力を使って彼を操縦し、クロイツを殺したのです。嘘だと思うなら、彼に聞いてみるといい。彼は有能な白魔術師なのです。」

 ビルジは上目遣いにアルの方を見た。アルは不安げな表情をしたものの、小さく頷く。

「…あの子にはもう何も分かりません。心が壊れてしまったようです。確かに息をして、心臓は鼓動を打ってはいますが、生きていると言えるか…。」

「その彼に会わせて頂きたい。私には彼のその状態を確認する仕事上の責任があるし、それにバディを殺されたものとして会う権利があるはずだ。」

 プランラットが真剣な表情でビルジに語りかける。

「もしも会うことが出来たら、彼をそのままにしておいて頂けますか? それ以上の仕打ちはしないと約束して頂けますか?」

 ビルジが嘆願する。ビルジとプランラットの視線が正面からぶつかり合う。プランラットが目をそらした。

「約束しましょう。ただし、彼が本当に廃人となっているかが確認出来たらだ。」

 プランラットが不意にジュニアの方を向く。

「ジュニア、口出しするな!」

 ジュニアが言葉を発する前にプランラットが釘を打つ。

「貴様にバディを殺された俺の気持ちが分かるか!」

 これまでに無く感情的なプランラットの怒声がジュニアに向けられる。

 アルは気がつく。今度はこのプランラットという赤の騎士が嘘をついている。ジュニアはそれに気づいたのだ。

「副長は許す気などない。」

「ジュニア! 貴様!…。」

 ビルジが困惑したように怯えた表情になる。

「ジュニア!黙れ!」

 プランラットが抜刀する。ジュニアがプランラットをじっと見つめる。

時間がゆうっくりと流れる。

ジュニアの瞳がプランラットの中をのぞき込んでいる。プランラットは手を震わせながらジュニアをにらみ返す。

時間が流れているはずなのに、しかし流れている感じがまるで無い。止まったようだ。そこにいる全ての人の脳が高速で演算を処理し、状況を把握しようとしている。その速度が時間を追い越したのだ。

 ザッ、と風が吹く。実際の風だ、冷たい、凍るような風が突然吹いた。

「こんな男でも、大した人気者だと見える。ケケッ。」

 アルの背筋が凍り付く。いつか聞いた声だ。あのどこまでも冷たく暗い、あの悪魔の声だ。

「ファウナ!」

 声の方にアルが叫ぶ。森の中から人影が現れる。

 それはあの悪魔ではない。

 しかし見覚えのある姿だ。ウチパスと名乗ったあの黒魔術師だ。

 まさに死人だった。黒ずんだ顔に生気はまるで感じられない。皮膚からは毒々しい色の膿が溢れ、瞳は白濁している。その瞳で何かが見えているとは思えない。しかしそれでいて表情には微妙に笑みを浮かべている。

「ウチパス、あなた!」

 ビルジがすかさず近寄り抱きしめる。

「ビルジ・ヴァルメルか、噂には聞くが初めて会うな。俺は悪魔ファウナ。ついこの前まで貴様の孫のこの役立たずを使役していた悪魔だ。」

「悪魔がなぜそこにいるのです。すぐにウチパスの中から出て行きなさい!」

 驚いたビルジは体を離すと厳しい表情で孫の中に居座っている悪魔に言い放つ。

「そうはいかない。俺も用事があってこんなやつの中にいるのだ。言わばこいつは人質だ。おまえに働いてもらうためのな。」

 ウチパスの表情と、以前見たファウナの顔が重なる。ウチパスであるファウナがビルジを突き飛ばす。

「こいつを生かすも殺すも俺次第だ。こいつの命をこのままにしておきたいなら、やつを殺せ。」

 ウチパスの指先がアルを指す。

「そんな。」

「廃人同様だがこいつはまだ生きている。こいつの中に入ってみると分かるが、壊れた心の真ん中の所はまだまだあんたに助けを求めてるみたいだぜ。俺はこいつに最高級の苦痛を味あわせながら、なぶり殺すことが出来る。そうして欲しいか?」

 ビルジがぶるぶると首を横に振る。悪魔の触手はビルジを脅すと同時に、彼女の心のコントロールに入っている。

「ならばやつを殺せ。おまえに選択の余地はない!」

 ビルジが立ち上がり、振り返る。アルを見る目が憎しみに燃えている。

 ビルジの口が開かれる。しかし声は聞こえない。

「矢だ!」

 ジュニアが叫んでアルに体当たりする。アルも瞬間的に状況を理解する。

 ザーッと風の切り裂かれる音がする。プランラットが森へ駆け込みながら金属製の笛を吹く。これも可聴域外だ。ファイヤードラゴンへの命令音だ。

 アルが瞬間的に頭上に展開した空気の盾に数十本の矢が降り注ぎはじかれる。

「きゃあ!」

 ドリスが悲鳴を上げるが彼女にも矢は届いていない。

 大地が激しく振動する。プランラットのドラゴンが一直線にこちらへ突進して来る。プランラットはそれに合わせて街道へ戻り、疾走してくるドラゴンに飛びついた。ドラゴンの側面に付けられた金具に手をかけ、剣を構える。勿論目指すはウチパス。

 アルたちの横を駆け抜け、ビルジの背後にいるウチパスへ斬りかかる。すれ違い際の一撃だ。

「うおおおおおお!」

 プランラットの太い声が響き渡る。ビルジが既にマントを翻している。マントの内側には何十もの小ぶりな瓶がぶら下がっている。その一つは既にビルジの手のひらの中にある。

「ごめんなさい。」

 アルにはそう聞こえた。

 ビルジが瓶をプランラットに投げつける。プランラットの近くで瓶が破裂し、黒い猿が現れる。ピー・ポーンカーン、猿の姿をした妖獣だ。

猿は空中を走るようにプランラットに飛びかかる。毛むくじゃらの50cmばかりの体に長い尾が付いている。ギラギラと赤く光る目と、鋭い牙に囲まれた口の中だけが血のように赤い。

猿に取り付かれ、ウチパスに振り下ろそうとした剣が定まらない。その間もファイヤードラゴンは速度を緩めず、ウチパスの横を走り抜ける。

「くそ。」

 プランラットは金具から手を離してドラゴンの腹を蹴り、石畳の上へダイブする。勿論黒い猿をクッションのように自分と石畳との間に来るようにする。石畳の上へ押しつぶす。骨の砕ける嫌な音がして、口から飛び出してきた血液と内臓がプランラットの顔にもろにかかる。酸性の液体がプランラットの皮膚を溶かすが気にする様子も無い。そのまま転がり立ち上がる。

 木々がなぎ倒される凄まじい音がして、ドラゴンが方向転換している。この狭い街道では機敏な動きが難しい。プランラットが駆け寄るとドラゴンは頭を下げてプランラットを迎える。彼が再び騎乗した。周囲を確認する。既にウチパスの姿はない。森に逃げ込んだのだろう。街道上ではビルジに対して、アルと少女の二人が対峙している。まずはとにかくウチパスだ。やつを探し出してぶち殺してやる。

 プランラットは、のそりとドラゴンを森に入れた。


 ジュニアはもう一頭のドラゴンへ向けて走っていた。その間も正確な弓の射撃が続いている。ジュニアはその矢をかわしながら、たたき切りながら進む。

ドラゴンの背には既に騎乗しているべき赤の騎士の姿はない。多くの矢を受けて彼は力なく石畳の上に横たわっている。ドラゴンも何本もの矢を受けていたが、背中は皮膚が硬く、また鞍を載せているのでダメージはほとんどないようだ。それよりも動かなくなった自分のバディの臭いをかぎながら不安そうにしている。

 ジュニアが指笛を吹く。先ほどプランラットが使った金属製の笛ほど繊細な指示は出せないが、単純な命令ならこれでも出来なくはない。ドラゴンの顔が上がりこちらを見る。明らかに安心した表情になる。勿論、赤の騎士であったジュニアだから分かる微妙なニュアンスの話だ。ドラゴンがこちらに歩いてくる。大丈夫、ジュニアと、このドラゴンにしてみれば、お互いに小さな頃から接している顔見知りだ。実は亡くなった若い騎士よりも古い付合いだったりする。

 ジュニアが騎乗する。ドラゴンの体を優しく撫でてやる。もう安心だ。一緒に敵を討とう。ジュニアは剣を納め、鞍に付けられた弓を取る。あまり得意ではないが仕方ない。手綱を絞り、ドラゴンの向きを変える。街道沿いに生い茂った木々がドラゴンの尾になぎ倒されて行く。

 ジュニアは矢を放ち、ドラゴンが火炎を放射する。そして次の瞬間、ジュニアを狙うエルフたちは、彼を見失っていた。巨大なドラゴンが一瞬で石畳の街道の上からかき消えたのだ。混乱が彼らを襲う。ヒュンと空気を切り裂く音がして、次に悲鳴に変わる。そしてもう一撃。どこからかの正確無比な射撃でエルフたちが殺されて行く。あの巨大なドラゴンを音もなく移動させながら、ジュニアがエルフたちを狙い撃ちにしている。恐怖に駆られたエルフたちがその場から逃げ出す。彼らは軍隊ではない。ビルジを守るために待機していた村の有志に過ぎないのだ。エルフたちによる後方からの支援はこれで完全に沈黙した。


 アルはビルジ・ヴァルメルと向き合っている。

「ビルジさん、俺はあなたと戦いたくはない。だってそんなの意味がない。あの憎たらしい悪魔の思う壺だ。」

「しかし、私は孫の命を守らなくてはなりません。あまり素行のいい子ではありませんでしたが、そんな子でも孫の一人です。他の孫たち同様、出来るだけの手を差し伸べてあげなくてはいけません。」

「悪魔の言うことを信じないで、奴らは自分の利益のためなら平気で、どんな嘘でもつく奴らなんです。」

 アルとドリスが必死でビルジに話しかける。しかしその声が彼女に届いているとは思えない。

 ビルジの手のひらから小瓶が地面に落ちる。白煙が上がり、何かが実体化する。

 見上げるような影が次第に形になって行く。2mはあるであろうその姿を、アルもドリスもこれまでには見たこともない。

 ミノタウロス。牛の頭を持ち、それ以外は屈強な人間の姿だ。腕や足は筋肉質で、アルやドリスの胴回りよりも遙かに太い。胸は筋肉で盛り上がり、縦横に深い筋が入る。股間には巨大な生殖器がぶら下がる。

 ミノタウロスは神話の時代から語られる、呪われた妖獣である。神々がまだこのアルシアの土地で生活をしていた頃、神々の庇護の元で生きていた人間は大いに繁殖し、神から与えられた場所だけでは生きて行くのが窮屈になった。そこで数人の男たちが集まって話し合いをした。

『我々人間は数が増えすぎた。神様はたった二人で、このアルシアのほとんどの土地を使っていて、人間に与えられたこの平原にはもう住む場所が無い。』

『住む場所が狭くては人間は生きていけない。食べ物には限りがあるし、おそらくくだらないことでいがみ合い、最後には殺し合いが始まるだろう。』

 するとある男が不遜にもこんなことを言った。

『どうせ神様はたった二人なのだから人間が神様の土地を奪ったところで何が悪いものか、みんな勇気を出して旅立とうではないか!』

 別の男はその不遜な男に答えてこう言った。

『おまえがそう言うのなら俺は森へ行きたい。森には木が多く秋になれば多くの果実が実り、飢えに苦しむことはないだろう。』

『それはいい考えだ、森へ行けば飢えもなく、おまえとおまえの一族とはきっと幸せになれるだろう。』

 不遜な男はそう言ってその男に決断させた。

『どうせ行くなら俺は森より山がいい。山は険しく厳しいが、人間の魂は山に生まれ山に死ぬもの、俺は人の魂を守って生きてゆきたい。』

『なるほどそれもいい考えだ。山にゆき我々人間全ての生まれ故郷である〝命生まれる山〟に奉じて生きるもまたある意味で人の定め。おまえとおまえの一族の魂は永遠に山に抱かれて消滅することは無いだろう。』

 不遜な男はそう言ってその男にも決断させた。

『俺が行くなら空がいい。空は広くどこまでも続いている。このまま地面にいるよりも高い空から大地を見下ろしていきていく方が、俺の性には合っている。』

『なるほどこれも素晴らしい。空は我々の命の源たる太陽に最も近い場所。空に上がったおまえとおまえの一族とは、人間を超える雄大な優しさと活力を得て、必ず幸福に包まれるだろう。』

 不遜な男はそう言ってさらにその男まで決断させた。

『いやいや俺は荒野へ行く。人間はそもそも神様によって荒野へ放たれ、荒野をこのような平原に変えて生き延びてきたもの、人間が行くべきところは地の果ての荒野以外にあるものか!』

『うーむ、これこそまさに人間の生きる道やも知れぬ。おまえとおまえの一族とが荒野へ進むのなら神様など恐れるに足りず。必ずや成功し、新たな平原を、この住みやすい平原を手に出来るであろう。』

 ついに不遜な男はその男にまで決断させてしまったのである。

 後にはもう大分残り少なくなった何人かの人間だけが残った。

『俺たちにはどこへ行けばいいのか分からない。森には恐ろしい妖獣がいる、山はいつ機嫌を損ねて火を噴くかも知れないし、空にしたって飛んでばかりいる体力は俺たちにはない、ましてや荒野など命を落としに行くようなものだ。そしてさらに神様のお怒りをも覚悟しなくては・・・。』

 すると不遜な男は涼しげな表情でこういった。

『我々はもうどこにも行く必要はない。みんながああやって森や山や空や荒野へ旅立ったおかげで、どうだこの住みやすい平原の広々としたこと!』

 やがて自分たちの土地に人間が勝手に入り込んだことを知った神々は怒り、人間たちに罰を与えた。

 森を目指した男はエルフになった。山を目指した男はドワーフになった。空を目指した男はハーピーになり、そして荒野を目指した最後の男はゴブリンになった。それ以来このアルシアの世界には四種類の亜人間が登場したのである。

 そして問題の不遜な男は最も大きな神々の怒りをかい、ミノタウロスにされてしまった。神々の怒りがあまりにも大きかったためミノタウロスとなったズル賢い不遜な男だけは考える力のほとんどを奪われて、醜い妖獣にされたのだった。

 ミノタウロスは太い棍棒を左手に握っている。牛の瞳には感情はなく、ただ無表情にアルを見つめている。

「ヴォ。」

 ゆっくりとアルに近寄ってくる。

 アルの手に炎の剣が現れる。アルが中段に剣を構える。

「隠れてて。」

 ドリスに声をかける。ドリスは頷いて後ずさり森へ入る。

 周りにはジュニアもケンドアもいない。自分が一人でこの相手を倒さなくてはならない。

「フェムアリシウム…。」

 スペルを唱える。アルの周囲に炎の塊が、二十近く浮遊し始める。剣を持たないアルの左手が上へ上げられ、素早い動作でミノタウロスを指さす。それを合図に炎の塊がミノタウロスを襲う。

「ヴォーー!」

 ミノタウロスがアルとの距離を詰める。棍棒を高く振り上げる。その全身に炎が次々と打ち込まれる。ミノタウロスが発火したように炎を身にまとってアルに突っ込んでくる。棍棒が振り下ろされる。頭上に正方形の空気の盾を形成する。四角い盾の四つの角から空気の柱が延びて地面にしっかりと足を付ける。ミノタウロスの振り下ろした棍棒がアルの空気の盾に激突する。盾が軋む。何という力だ。アルの魔法が盾を強化する。四本の足を互いに支え合うように斜めに空気の柱が加わる。トラス構造化する事で盾の強度は格段に上昇するはずだ。

ついに棍棒が砕ける。同時にミノタウロスの腕があり得ない方向に折れ曲がる。

「ヴォーー!」

 炎にまみれたミノタウロスがのけぞり後方に倒れ、石畳の上をのたうち回る。自分の腕力で、自分の腕をへし折ってしまったらしい。タンパク質の焼ける嫌な臭いが立ちこめる。そしてその動きは次第に緩慢になり、終いに停止する。

「ミノタウロス…。」

 ビルジが黒焦げのまま肉塊と化したミノタウロスに駆け寄る。しばらく死骸を見下ろす。そしてアルを振り返った。

「許せません。私はあなたを決して許しません。」

「ちょっと待ってくれ、そいつに俺を襲わせたのはあなたじゃないか!」

「え、何を…。」

 そこでビルジは頭を押さえた。記憶を呼び覚まさないようにファウナが何か画策しているのは明らかだ。

「欺されません。どこの誰とも分からないような子供の言うことなど信じるものですか!」

 感情的になって叫ぶ。もう精神はバランスを失っている。彼女にとって衝撃的な事が立て続けに多すぎたのだ。彼女自身がこの現実から逃げ出したいのが本音なのだろう。そこに悪魔はえげつなくつけ込む。

 ビルジが次の瓶を取り出す。その仕草が、それでもあくまで優雅で美しいのがアンバランスだ。

 アルの目前に、羽の生えた漆黒の豹が立ちふさがる。人はこの妖獣をグリフォンと呼ぶ。機敏な動き、鋭い爪と牙、残虐な性質。

 グリフォンが鋭い目つきでアルを見つめる。一定の距離を取りながら、アルの周りを時計回りに回り始める。アルもその動きに角速度を合わせて、体の向きをゆっくりと変える。

「ガヴ!」

 全く突然、グリフォンが向きを変えてアルに突進する。反射的にアルが身をかがめる。同時に空気の壁がアルを取り囲んでいるが、アル自身は自分の白魔法に気づいてさえいない。

 だが、グリフォンはその見えない壁を見分けている。風の動きか、理由は分からない、グリフォンはアルの作った壁に前駆を付いて上へ跳んだ。アルを飛び越え、音もなくアルの後方の石畳に着地する。

 再び無言のまま、ゆっくりとアルの周りを歩き始める。

 アルの周囲に炎が浮かび上がる。後は発動のスペルを唱えるのみだ。いや、彼にはそれはいらない。

 火球がグリフォン目指して弾丸のように打ち出される。高速で襲い来る火球を軽いステップでかわしながら、グリフォンがアルとの間合いを詰める。

 来る。アルの炎の剣が輝きを増し、アルは中段に剣を構える。

 恐ろしい衝撃だった。剣と共に、右腕が引きちぎられるような感覚。慌てて見るとまだ腕があることが確認出来る。そしてわっと血が噴き出す。

 火球も剣も、空気の盾も役に立たない。深い恐怖を覚える。

「ガ、ガヴー!」

 それを見透かしてか、グリフォンがアルを威嚇する。

どうするか、だ。相手の動きが速すぎて、ジュニアと闘ったときのように至近距離に炎を発生させることは難しい。火球も水の矢もどれだけ高速で打ち込んでも、避けられてしまうだろう。見えない壁に激突させることも無理なようだ。極限まで運動能力の高い敵には自分は無力だと悟る。

しかしながら同時に相手にも自分を殺すだけの能力はないと思い当たる。あの妖獣には、空気の壁を見分ける事は出来ても、それを破壊する事は出来ない。

などと考えているときに、ビルジの動きが目に入る。別の瓶を取り出した。

三度目のあの白煙が立ち上がった。今度は前の二つよりも倍程度は大きい。嫌な予感がする。

巨大な妖獣が現れる。これはアルも知っている。サイクロプスと呼ばれる一角単眼の巨人だ。姿は人と変わらない。ただ身長は4m程もあり、頭頂部には角が一本、目は顔の中央に一つしかない。

「ガガ。」

 こう見えてもサイクロプスはミノタウロスのように知能が低くない。アルとグリフォンとを見下ろすように立ち、何かを考えている様子だ。

「サイクロプスよ、グリフォンを助けてその子供を殺すのです!」

 ビルジの悲痛な声が聞こえる。

「ガガ。」

 サイクロプスはビルジの命令を理解したのか返事をするように『ガガ』と声を出した。

 サイクロプスは手を伸ばすと無造作に街道脇の木を一本引き抜いた。

 しかしその間も、グリフォンから目が離せない。やつは緊張したまま明らかに自分を狙い続けている。

 サイクロプスが無造作にアルの方へ一歩踏み出した。アルが反射的に後ずさりする。サイクロプスが、手にした木でアルを容赦なく叩こうとする。グリフォンが距離を詰めてくる。

 アルは自分の周囲を空気の壁で囲った。頭上でサイクロプスの振り下ろした木が砕け散り、側面では空気の壁に気づいたグリフォンが、急な方向転換をして、壁を足の踏み台にして飛び去る。その瞬間、アルは自分の体が持ち上げられていることに気づく。

 足元にも壁を張り落ちないようにする。サイクロプスがアルの空気の壁、今の状態では、言うなれば空気の殻を持つ卵ごと上に持ち上げたのだ。

 サイクロプスの両手が卵を挟み込む。破壊しようと両側から全ての腕力を振り絞って卵を潰しにかかる。アルの白魔法がサイクロプスの力に負けた瞬間に、アルは両手に潰される計算だ。空気の殻がミシミシと悲鳴を上げる。

 シンプルな一軸の圧縮なので、断面積を大きくして応力を小さくするのが好ましい。殻を厚くして、構造を強化する。根気の勝負だ。サイクロプスがどれだけ長く今の力を維持出来るのか。自分がいつまでこの白魔法を継続出来るのか。

 目の前の妖獣を見つめる。ビルジの命令で単純に自分を殺そうとしている。なぜこんなことになるのだろうか? あのファウナという悪魔はなぜこんなことが出来るのだろうか? ふと自分の手を見る。うっすらと魔法陣が浮かび上がる。脳裏にあの笛の音のようなスペルが思い出される。

 いや、悪魔に頼ってはいけない。あの女の悪魔もファウナの手先かもしれないのだ。罠と考えるのが妥当だ。

 危険な思いを振り払って再び目前のサイクロプスを見る。自分を潰すことに必死だ。先程の牛頭の妖獣よりも表情がある。おそらく知能が高いのだ。

 アルはそこで思いつく。知能があるなら、対話出来るかもしれない。方法は知っている。ファウナとウチパスとが自分にしたようにすればいいのだ。

 実はこの時点で、アルは信じられないような飲み込みの良さで白魔法の幅を広げている。一度体験した事は、自分なりにかみ砕いて消化し、自ら発動出来る自信がある。ウチパスにかけられた人心操作や、ケンドアの冶金術、ドリスのやった魂の可視化やあの漠然とした光の白魔法でさえも使う自信があった。

 サイクロプスのたった一つの瞳をじっと見つめる。スッと景色が変化する。

 自分は上空から地上を見下ろしている。ここはポペットの森の上空だ。うっそうとした森が眼下に広がっている。村が見える、? 錯覚では無い。ポペットの森の奥深く、十重二十重に妖獣達が村を取り囲み、守っている。ビルジ・ヴァルメルの作った、突破不可能な見えない城壁。

エルフの村は人には見つけられない。ストーカの言っていた、天空にいる神になら見つけられるという言葉の意味はここにあったのだ。

意識を目前の課題に戻す。緑の中に一本の灰色の線が見える。石畳の街道だ。そこにサイクロプスを俯瞰する。アルはそっと自分の視点を、サイクロプスに近づける。慎重に自分の心をその妖獣の影と会わせて行く。それはまるで落下傘を正確に目標地点に誘導する操作のようだ。右へ、左へと微調整を重ねながら、お互いを理解し合うためにアルは自分の心をサイクロプスのそれと重ねた。

「あ…。」

 空気の卵の中で我に返る。目から涙が溢れて止まらない。心がぽっかりと空っぽになったようで…、体がガクガクと震える。

 卵が崩壊を始める。アルの白魔法の力が削がれたのだ。明らかにミシミシと変形を始める。

 それは、怖いほどの寂しさとアルは感…、…やばい潰される、逃げな…、…全くのうつろな心だった。…足元に穴を開けて自分を落下…、…根本的に人とは構造が異な…、…体が地上に激突するのと、頭上で空気の殻が砕け散るのをほぼ同時に知覚する。

混濁した意識の中で、アルはサイクロプスの拘束から逃げ出した。空気の卵を放棄して地上に落下したのだ。アルには現状が理解出来ない。そんなことをしたら殻を瞬間的に破壊され、自分はぺしゃんこにされるのが当然だったはずだからだ。それほど構造的にギリギリの強度であの殻は持っていたはずだ。思ったよりも何故かサイクロプスの反応が遅かった。

落下によって地面に叩きつけられた体を起こそうとしたとき、頭上から黒い塊がアルを襲った。そうか、まだ奴もいた。

グリフォンがこのときを待っていた。鋭い牙と爪とがアルの目前の空中にあった。

もう為す術は無かった。一瞬未満の時間で自分はこの妖獣に切り裂かれることをアルはなぜか落ち着いて納得した。そりゃそうだよな、忘れてたほうが大ポカだ。いやいや、実感が無いだけだ。殺されるという、死ぬという実感がまるで湧かない。ここ何日か、身の回りで人が沢山死にすぎたからかもしれない。ジリアラス・ガトウ、ヤコビ・ヌーツェバル、プラントル氏の屋敷の沢山の人たち。

その時、別の黒い塊が側方から暴力的にアルの前を通り過ぎる。それが何か認識出来ないまま、目前のグリフォンが消える。

ザッと、巨大な足で踏みとどまる激しい音が聞こえて、アルの意識が現実の時間へ強引に引き戻される。

「しっかり!」

 そんな叫び声が聞こえる。同時にものすごい地響きと共にサイクロプスの姿が遠ざかる。突然現れた影は、二脚、巨大な頭部、長く尖った尾。ファイヤードラゴンだ。もちろん、背中に騎乗するのはシトラウト・シュミッツ・ジュニア!

 ファイヤードラゴンの口にはグリフォンの体が。まだ激しくうごめくそれをドラゴンは軽く放り上げてそのまま飲み込む。満足な顔だ。

 今、サイクロプスとアルの間にはジュニアとドラゴンがいる。ドラゴンの背でジュニアが矢をつがえる。ピンと伸びた背中で、美しくサイクロプスに狙いを定める。

 一方、サイクロプスは苦しそうに地面に這いつくばっている。確かにジュニアのドラゴンの尾を体に受けて、物理的にも激しいダメージを受けたはずだが、それだけという様子では無い。

「どうしたの?! 落ち着きなさい!」

 ビルジ・ヴァルメルがサイクロプスに近づく。ジュニアとアルとからサイクロプスを守るように、彼女も間に割って入って来る。

 ビルジがアルを睨みつける。

「呪術を使ったのね!この子の心を攻撃したのね!それこそ悪魔の所業!人と妖獣がどれだけ違う生き物かを分かってるでしょ!」

 しかしそこでビルジ・ヴァルメルはふと考える。

「え、でもそれなら、あなたがもしも本当にこの子の心に触れたのなら、あなた自身も正常でいられ無いはず…。く、…。」

 ビルジが論理的に何かを考えようとすると、おそらくファウナの妨害が入るのだ。今は純粋にアルに憎しみを燃やすように方向付けられているからだ。

 アルはビルジの言葉で気付く。自分の実感を持って確信する。アルが触れたサイクロプスの心はまるで理解の出来るものでは無かった。

構造もロジックも何もかも異なる。アルがいくら慎重にアプローチしようと、妖獣の心と人の心とが触れ合うこと自体が劇薬なのだ。お互いに全く異質なものが、通訳不在のまま身を寄せ合ってはいけないのだ。例えば人の心にコンピューターのプログラムが入り込むような、想像すら出来ない全く異質のプロシージャーを受け入れる状況。

 妖獣使いには常識なのだろう。しかしアルには全く初めての経験だ。人に、心に入られたことはあっても、人の心にさえ入った経験が一切無かったのだ

「あなたはいったい何なの? どれだけ私を苦しめれば気が済むの? あなたが来てからろくな事が無いじゃ無い! ジリアラスが死に、ウチパスは廃人になり、ストーカも危険な目に遭ったと言うし、この子たち四体も殺すなんて、非道が過ぎる! いったい私にどれだけ恨みがあるというの? あなたはそう、まるで死神よ! さっさとここから立ち去りなさい! そもそも人間とはどれだけ業の深い生き物なの? 運命の定めし敵などと、人を殺してのうのうと生きて行くための詭弁じゃない。エルフの世界にそんな理屈を持ち込まないで頂戴! そんなのエルフには関係ないのよ。だからあの人を帰してよ! 私のジリアラス・ガトウを今すぐに返してよ!」

 激しく怒るビルジの美しい姿が見える。その後ろで、彼女のサイクロプスが狂ったようにもがき回る。サイクロプスの巨体が次第に彼女に近づくが、ビルジはそれに気づかない。

「ビルジ・ヴァルメル!」

 アルとジュニア、そして森の中から様子を伺っていたドリスさえも声を合わせて彼女の名前を叫んだ。

「マ・マ。」

サイクロプスは苦痛から逃れようと、自分の最も信頼出来る人に助けを求めたのだろう。しかし彼の精神はアルの接触によってガラガラと崩れ続け、既に歯止めのきかない状態に突き進んでいたのだ。制御の出来ない心が、持て余すほどの巨体をコントロール出来ずに腕が大きく振られる。サイクロプスの大きな掌が、無残にも美しいエルフの女性をはじき飛ばした。

ビルジ・ヴァルメルは石畳に叩きつけられ、跳ねて宙を舞い、地面に激突した。

それでも激しく動き回るサイクロプスの単眼に、ジュニアが矢を放った。矢は眼球の中心に突き刺さり、そのまま目の中に吸い込まれた。吸い込まれた矢がサイクロプスの脳を直撃する。

暴れ回っていたサイクロプスの両手両足が地面に力なく横たわり、辺りは急に静寂に包まれる。


 ファウナはプランラットのドラゴンを見下ろしている。プランラットはそれに全く気づいていない。彼はドラゴンの足音を忍ばせて熱心にファウナであるウチパスを探している。

「これまでか。」

 ウチパスであるファウナが独り言ちる。先程、呪をかけたビルジ・ヴァルメルの命が途切れたのだ。あの戦乱の時代、数多の妖獣を使役してこのポペットの森を守り抜いた英雄、最強の妖獣使いと恐れられた彼女も、既に人々の記憶からも、そしてこの現実の世界からも消えて無くなったと言うことだ。

 アルシリアス・ブルベットへの対抗策としては、後はこの赤の騎士がいるだけだが、心に入れない以上役に立たない。ここに居続けるのは時間と体力の無駄だ。赤の騎士にこの技能を教育したと想像出来る男の事を思い出すとはらわたが煮えくりかえる。ロスガルト黒の騎士団長、アール・バウだ。

ほとんど死人と化したこのウチパスを操り続けるのには思いの外、体力がいる事をファウナは実感している。あまりにも死に近すぎるのだ。死んでしまえばいくらファウナでも黒魔術師との繋がりを継続出来るはずも無い。悪魔は呪術使いではない。

 ファウナはゆるゆると地上に降りると、プランラットの前に姿を晒した。

「見つけたぞ。ウチパス。」

 目前に現れた憎き敵の姿にプランラットは興奮を隠せない。

「もう逃げ切れん。好きにすると…。」

 その言葉の途中でウチパスの両足に矢が突き刺さる。彼が膝を折って倒れ込む。続けて両肩を矢が襲う。正確無比な射撃だ。

 ファイヤードラゴンの巨大な頭部がウチパスの腕にかぶりつく、上空に放り投げるようにして腕を引きちぎり、落ちてくる胴体を咥えた。

「苦しんで死ね。」

 ミシリと音がしてウチパスの肋骨が砕ける。ウチパスの体がついにぐったりとする。

 もう一人。


 街道に戻ったプランラットがすぐにアルたちを見つけ、近づいて行く。三人はビルジ・ヴァルメルの遺体を整えている。全身を強打して複雑に骨折した遺体だったが、不思議と顔は穏やかで美しいままだ。

「ジュニア。」

 プランラットはドラゴンを降りるとジュニアに声をかけた。彼の後ろでドラゴンがウチパスの遺体を石畳に投げ捨てるのが見える。

「副長!」

 ジュニアが彼の生存を確認して嬉しそうに声をかける。かけるが、そこでジュニアの表情が硬くなる。

「妖獣たちは始末したのか?」

 プランラットは一点を見据えたまま、軽い感じで心にもなさそうにそんなことを言う。視線の先にはアルがいる。そちらへ直線的に歩いて行く。アルはそんなことには気づかずに立ったまま寂しげにビルジ・ヴァルメルを見下ろしている。

 プランラットの視線にスッと影が割り込んでくる。プランラットが足を止める。

「どうした、ジュニア…。」

 ジュニアがプランラットの正面に立ち、彼を睨みつけている。

「どうした…。」

 ジュニアが黙って首を横に振る。

「何のことだ。」

 ジュニアが剣に手をかける。一瞬だけプランラットの眉が上がる。

「その殺気…。」

 プランラットがジュニアをにらみ返す。

「俺は闘ってもいい。それでその人の気が済むなら。」

 ジュニアの背後からアルが声を上げる。ジュニアが振り向く。

「でも俺は殺されないよ。俺はどんなことをしても生き抜くと決めたんだ。卑怯なことをしてもいい。だってジリアラスと約束したんだ。ジリアラスに言わせると俺には『生きたい』という気持ちが他の人より大分少ないらしい。俺自身はそうは思わないけど。だからせめて無理にでも意識して、生き続けようとする努力を惜しむなと言われたし、俺もそういう気持ちを惜しまないことに決めたんだ。だから闘うというなら、全力で相手になる。それが本当にあなたのためで無く、あの、俺が殺したファイヤードラゴンのためになるなら。」

「副長では勝てない。」

 プランラットが歯をギシリと噛んでジュニアの言葉に耐える。

「僕なら気絶ですみます。」

 ジュニアが剣を抜く。ジュニアが持ち前の真っ直ぐさ(天然さ)で真実をいっていることは間違いないが、言われる方は平静ではいられない内容だ。

「クロイツは望んでいない。」

 プランラットがジュニアを睨む。睨むが、しかし長くは続かない。彼がうなだれ、視線を落とした。

 プランラットが素早い首の動きで再びジュニアの方に表情を向ける。彼が言葉を発するために息を吸い込む。

「無駄死にです。」

 プランラットが息を吸い込んだタイミングで、ジュニアが厳しく言い放つ。真剣での立ち会いと同じだ、先の先をつく。これが命のやりとりを制するのだ。プランラットが言葉を発しようとした一瞬だけ前の瞬間に放たれたジュニアの一言が二人の議論に終止符を打つ。ジュニアの勝ちだ。剣術ならプランラットは既に死んでいる。

 プランラットの表情が急に変化する。既に全てをあきらめた表情だ。穏やかにさえ見える。ジュニアが剣を鞘に戻す。

「分かった。取りあえず考えさせてくれ。納得したわけでは無い。」

「当然だ。」

 アルがぶっきらぼうに同意する。

「俺だってあんたたちの隊長にジリアラスを殺されたこと、納得してない。大切な者を失うと言うことはそういうことだ。」

「しかしあれは、運命の…。」

 プランラットが口を挟む。なぜ、『運命の定めし敵』であれば納得出来るのか? 納得しなくてはいけないのか?

「でも何故か、時間が、心の、その、憎しみの気持ちを無くして行くのが不愉快だ。…でも、きっとこんなものなのかなあ。本人にとっての生きる死ぬ、親しい人にとっての生きる死ぬ。多分色々あるんだ。まだ俺にはよく分からない。」

 そう半ば絶望したようにアルが言う。そして突然表情を凍らせる。今度はアルの表情が急激に怒りに支配される。

「貴様のことは何があっても許さない。」

 アルがジュニアと、プランラットの後方を睨みつける。二人がそちらを向く。

 そこにはウチパスの死体と。

 死体の上に、薄明るく輝く魔法陣。魔法陣の上に足を組んで座る悪魔。

 体中にじゃらじゃらと派手な色の宝石を身にまとっている。どす黒い皮膚はあまりにも不健康で死人のようだ。指や肘などの関節は妙に尖っている。

「また会ったな。」

 不適に笑う。アルは迷わずにそいつのいる場所へ歩く。

「俺に何の恨みだ! 死ぬ必要の無い人が何人も死んだ!」

「俺には関係ないな、おまえの不始末だろ。」

 悪魔の触手は会話の間にアルに伸びる。が、ファウナは愕然とする。隙が無いのだ。この白魔術師はこの前ウチパスに心を操られたことでそれに対応する手段を既に身につけている。しかもおそらく無意識のうちに、だ。

 しかし百戦錬磨の悪魔はそんな動揺を表面に表したりはしない。

「これからも付きまとうぞ。」

 アルが不愉快に呻る。悪魔の魔法陣まではもう1m程なのに、更に前へ進もうとするアルの手が後ろからふいに握られる。振り向くとドリスが心配そうに立っている。目が『落ち着いて』と言っている。

「おまえを許さない。」

 再び振り返り、ファウナを見据えて宣言する。アルは先程のドリスの苦痛を思い起こす。元はと言えばあれもこの悪魔のせいだ。

「おまえをいたぶり続ける。」

 悪魔が、ふざけたように、しかし心を凍らせるように笑う。

 アルの手が熱くなる。掌に魔法陣が浮かび上がる。

「くそお!」

 アルがドリスの手を振り払った。ドリスが小さな悲鳴を上げ、それでもアルを放すまいと背中にしがみつく。

アルの両手が目の前の悪魔に伸びる。

しかしそこには目に見えない壁がある。ちょうど死体に描かれた魔法陣の外周と同じ位置に壁がある。

「愚か者め、悪魔の魔法陣に誰も手など出せるものか。」

 ファウナがあざ笑う。

「うをおおおおおおお!」

 アルの怒声が高くなる。魔法陣がビリビリと震えはじめる。笑っていたファウナの表情に不安が表れる。彼が周囲を見回す。アルの掌が更に発光する。光で目が焼かれる程に発光する。ビリビリと震える魔法陣の壁が変形する、アルの手形に合わせて内側に凹んで行く。

「うをおおお!」

 アルの怒りが叫び声となる。恐れたファウナが体をかばうように、アルを押しとどめるように、片手をアルの方にのばす。アルの手が障壁を突き抜けファウナの上腕をつかむ。そして強引に引き抜いた。

「ぎええええええ!」

 アルの腕が魔法陣から抜かれる。ファウナの体はアルに引っ張られて魔法陣の透明な外壁に押しつけられるがその壁を抜けることが出来ない。腕だけが魔法陣の外へ引き抜かれる。その他のファウナの部分は魔法陣の中のまま。腕を失ったファウナが失神したまま、魔法陣の外壁をズルズルと下へ落ちて行く。

 そして魔法陣自体がアルたちの視界から薄くなり、徐々に消えて行く。

 恐ろしい叫び声がまだ耳に残る。悪魔の叫び声だ。

 アルがガクリと膝を落とす。ドリスが支える。ジュニアとプランラットは言葉も出せないで立ったままだ。

 アルがゆっくりと掌を開く。

 薄く光るフローラの魔法陣。その上に。

 アルの皮膚と融合したファウナの腕が一本。アルの肉に埋もれるように、ある。

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