武蔵野酔夢潭
深川夏眠
武蔵野酔夢潭
「あの、ちょっと、よろしいですか?」
窓の外を流れては途切れ、また新たに溢れ出す緑のグラデーションをぼんやり眺めていたら、老女に声をかけられた。嗄れているが深みのある美声。知らぬ間に横にいた彼女は、脛と日傘を平行にして腰掛けた上品な居住まいで、
「この列車、どちらまで行きますかしら」
「さあ」
「今時の若い方は何でもすぐ調べて、おわかりになるんじゃありませんの?」
やんわり切り込まれてハタと気づいた。手ぶらだ。どうやって乗車したのだろう。あたふたする様子がおかしかったのか、彼女は手の甲を口の端に当ててホホホと笑った。左の耳たぶに目立つほくろがあって、まるでピアスのようだ。妙に色っぽい。
「すみません」
「どういたしまして。そのうち思い出すでしょう」
スッと隣の車両へ移動した。他の誰かに訊くのだろうか。チラと目を向けたが、もう姿は見えなかった。
森林浴に飽きたので下車した。肺の中まで草色に染まった気がする。改札に駅員。工具のようなものを器用に回してカチャカチャ言わせている。あれは確か切符に穴を開ける鋏だ。すると、自分でも驚いたが、手品師のように襟の折り返しから硬い券を取り出すことができた。
「はい、どうも」
元々どこへ行くつもりだったかも、後にしたばかりの駅の名も確かめずに町に出てしまった。街路樹も緑。だが、歩いていると不意に香ばしい匂いが鼻腔に飛び込んできた。一服しよう。
「いらっしゃいませ」
夢で見た理想の喫茶店だった。仄暗く、全体に渡って調度がヌメ革の色。万事にこだわりが強そうな蝶ネクタイのマスターが茶器を磨いている。
「奥のテーブルへどうぞ」
謹製ブレンドは美味かったが、持ち合わせがない。ポケットを探っても今度は何も出てこなかった。途方に暮れつつナプキンスタンドに視線を向けると異質な紙片が紛れていた。トランプの束の中から、いかにも引いてみろと言わんばかりに少しだけ顔を出した一枚のよう。書き込みは鉛筆より眉墨を思わせる柔らかな線で一語、
「こちらのお客さんに、いただきましたから」
「ありがとうございます」
救いの主、カウンター席に腰掛けた還暦ぐらいの女性は振り返らずに会釈した。日傘を携えていた。
支払い留保につき、近いうちに舞い戻って、今度は二杯分のコーヒー代を払わねばならない。しかし、駅から同じ道順を辿ったつもりでも、あの店は見つからない気がした。水が流れ続けるように町の形も変わる。何故なら、これは夢だから。
夢なら触覚や味覚は、だんまりを決め込むだろうが、五感は隈なく鋭敏。ならば、この舗道は現実のものか。そういえば、以前誰かが、夢の中で食事したとき風味や歯応えを感じたと話していた。と、すると……。
ビッシリ蔦に覆われたビルの角を曲がった。縄跳びや石蹴りで遊ぶ子供たちがいた。質素な家並。駄菓子屋のおかみさんが縁台に座って幼子を見守る。木綿のワンピースと団扇が同じ朝顔の色柄で小粋だ。店の奥の薄暗がりから老いた三毛猫が鈴を鳴らしてのっそり現れた。おかみさんは跳躍力の衰えた彼女を重そうに抱き上げた。風鈴が囁く、シャボン玉が飛んでくる……。髪をジリジリ日差しに焼かれながら、時間が止まったような、妙に冷え冷えした感触を覚え、何事かと思えば転げてきたゴム毬に足を掬われ、尻餅を突き、飲み物を冷やすビニールプールに片手を浸けていた。おかみさんが団扇で口を隠してホホホと笑うのがわかった。
「お一つどうぞ」
「いただきます」
ラムネの瓶を持って傍へ寄った。左耳にクッキリしたほくろ。小鬢のほつれが艶めかしい。中年のおかみさんは猫を膝に載せて空けた場所を軽くはたき、座れと促した。
「失礼します」
彼女は木製の玉押しでポンとビー玉を落として返してくれた。
「ここらの水で作ったものだから、美味しいですよ」
「湧泉があるんですか」
彼女は猫を抱えて引っ込み、戻ったときは代わりにポリタンクを提げていた。
「袖振り合うも他生の縁。お遣いをしていただけません?」
水を届けろというのか、行き先を書いたメモを渡された。頷いて、ほとんど一息にラムネを呷った。喉が痺れた。
服はすぐ乾いた。歩くにつれて水がトプトプ音を立てる。地図は甚だ
菅笠を被った船頭が
コツッと軽い衝撃を感じて起き上がった。川を上ったか、下ったのかも定かでないが、浮桟橋に着いていた。あの人はもういなかった。手の中に小銭。それを船賃にして陸に上がった。振り返ると船頭さんはあぐらを掻いてキセルを咥え、細い煙を吐いていた。背景は夕陽に染まり始めた水脈で、風の流れに従って金の喜平めいてキラキラ光った。
地図は風に吹かれてどこかへ飛んでしまった。ポリタンクを提げ、石段を上って道路に出ると、斜交いに煉瓦造りの建物がどっしり構え、ガス燈を灯して羽虫と酔漢を招いていた。清水はこの店への届け物だったのかと独り合点して重い扉を押した。
「いらっしゃい。こんばんは。どうぞ」
花を活けようとしていた女性が手を止め、椅子を引いてくれた。一番乗りか、他に客はいない。カウンターに容器を置くと、
「それを待ってたの。ありがとう」
ラフな服装にカフェエプロンを纏った彼女は言葉遣いも些かカジュアルだった。注文も聞かずにウィスキーソーダを差し出し、作業に戻った。水盤では蓮が花弁を閉じて眠っていた。
「ヨザキスイレン。もう少しで咲く頃合い」
その白い花が開いてまた閉じるまでが店の営業時間だそうだ。
「優雅だなぁ」
壁際に傘立て。見覚えのある日傘が一本。
「それは私の。帰り道、月の光が強いと肌が灼けてしまうから」
「珍しい話もあるもんだ」
むしろ月光浴に相伴したい。月夜のそぞろ歩きは楽しかろう。眠気を誘う柱時計の振り子のリズム、低く流れるジャズ。三々五々、常連がやって来て、密やかに杯を傾けては去っていくことの繰り返し――。
思い出した。祖母の家へ行こうとして電車に乗ったのだ。いつの間にか突っ伏していた。跳ね起きると他に客はいず、睡蓮は閉じた傘のように窄まっていた。
「ハイボールは私の奢り。迎えが来たみたいね。ごきげんよう」
土産をくれた。チュールレースの小袋。別れの手を振りがてら、彼女は軽く髪を搔き上げた。耳たぶに大きなほくろ。大分若くなったが、またしても同じ女だった。
外に人力車が待っていた。深く腰掛け、貰った包みを開けた。一粒、二粒摘んで蓮の実の素揚げだと得心したときには森の中の遊歩道を突き進んでいた。
車夫は数寄屋門の前で梶棒を下ろした。
朧な軒灯に表札の墨字が滲んでいる。番頭さんが型どおりの挨拶で迎えてくれたはずだけれど、聞き取れなかった。昼間の船頭と同じ顔に見えなくもない。立ち働く幾人かが音もなく行き来する。ここは昔、旅館を営んでいたが廃業したのだ。だから、人も調度も皆、セピアに褪色している。
座敷に名物のうどんが出てきた。不思議だが、器の中だけ色彩が豊かだし、熱や香りも感じる。鶏と葱のつけ汁に、笊に盛られた麺を浸けて啜る。こうして顎を動かしているうちに目が覚めはしないかと首を傾げつつ、
浴室は半露天で、間がよければ月見と洒落込めるだろうが、濛々たる湯気で先が見えない。いくら何でもこんなに広いはずはない。だが、夢は願望を反映し、限度を知らないのだろう。白濁した湯の中で泳ぐ贅沢。
脱衣所には糊付けされた浴衣が畏まっていた。祖母が手ずから縫ったに違いない。帯を結びながら日めくりの暦を見てハッとした。現実はいざ知らず、少なくとも夢の中では今日が祖母の誕生日であり、命日だった。
仏間に駆け込んだ。蚊取り線香の細い煙が、壁に立て掛けた日傘に蛇のように絡みつく。部屋の中央にポツンとクーファンが置かれ、赤ん坊がスヤスヤ眠っていた。この子のために、いい水が必要だ。しゃがんで顔を覗くと、左の耳たぶに、ほくろが一つ。
【了】
*2020年7月 書き下ろし。
武蔵野酔夢潭 深川夏眠 @fukagawanatsumi
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