最終話

 放課後になって、生徒たちは勢いよく教室を出ていく。あと数日で夏休みだからなのか、朝から浮き立っている奴が多かった。

 下校していく生徒たちを眺めていて気がついた。昨日よりも人の心の声が聞き取りづらくなったような気がする。時間が経てばやがて、この聞こえる声は聞こえなくなるんだろうな、となんとなく思う。それでいいのだ、それが普通なのだ、と自分に言い聞かせるように何度も頷いた。

 この聞こえてしまう力は、もう俺には必要ない。この不思議な力のおかげで、俺は成長できたし、様々なことを学ばせてもらった。


 このクラスには、言いたいことを言えずに苦しんでいる生徒がたくさんいた。俺も、雪乃も、高梨も、小泉だってそうだった。このクラスだけではなく、言葉にできずに悩んでいる人はそこら中にいた。


 誰にだって、言えなかった言葉はある。

 言えずに後悔して、前に進めない人もいる。

 いつか言えばいい。誰もがそう思って、毎日を生きている。しかし、それではだめなのだ。言える時に言ってしまわないと、雪乃のように一生後悔する人だっている。伝えたい相手が死んでしまったら、もう伝える手段がないのだ。

 だから、そうなる前に、俺たちは言葉にしなくちゃいけないんだ。

 この聞こえる力を手に入れ、そして雪乃に出会い、俺はそのことに気づくことができた。雪乃の素直で真っ直ぐな、無色透明の声が俺の背中を押してくれた。彼女がいなければ俺は、今でも変われずにいたんだと思う。


 窓から身を乗り出して、外の景色を眺めている雪乃に目を向ける。そよ風が吹き込み、雪乃の髪をふわりと揺らす。綺麗だな、と俺は思った。


「なあ雪乃。放課後のこの時間、今日で最後にしないか」


 雪乃は振り返る。どうして? と首を傾げる。


「俺、もう心の声がほとんど聞こえないんだ。たぶんそのうち、完全に聞こえなくなると思う。だから心の中じゃなくて、これからはちゃんと会話しよう。雪乃の声が、聞きたいんだ」


 雪乃の心の声は聞こえてこない。潤んだ瞳で俺をじっと見つめている。真っ直ぐで、綺麗な瞳だった。


「雪乃なら、きっとすぐに声を取り戻せる。その日が来たら、またここで二人で話そう。何年経っても、俺は待ってるから」


 雪乃の瞳から、涙が零れ落ちた。小さく微笑んで、雪乃は指でそっと涙を拭う。


「雪乃には本当に感謝してる。ありがとう」


 雪乃のおかげで、俺は言えなかった言葉を言えたのだ。大切なことに、彼女は気づかせてくれた。


「一緒に帰ろう」


 雪乃と二人でいるところを誰かに見られても、今はもう平気だった。鞄を肩にかけ、先に教室を出ようとしたところで、俺の耳に、声が届いた。


「……あり……がと……う」


 その声に足を止め、振り返る。雪乃は苦しそうに笑いながら、絞り出すように声を出した。心の声ではなく、雪乃は声を出していた。俺は驚いて、目を見開く。


「……ありが……と……う……ありがと……う」


 何度も同じ言葉を、雪乃は繰り返した。咳き込みながら、何度もありがとうと言葉にした。


「……喋った。雪乃が、喋った。すげぇ……」


 情けないことに、そんな感想しか出てこなかった。心の声よりも、ずっと綺麗で透き通るような声だった。


「……声……出せた……」


 喉元を掴みながら、雪乃は目を丸くして言った。

 なんだよ、喋れたのかよ、と俺は笑う。

 雪乃も笑った。泣きながら、二人で笑い合った。


 自転車を押して並んで歩き、初めて雪乃と一緒に帰った。学校を出てからは二人とも無言だった。教室以外のところで雪乃と二人なんて、少し変な気がした。夢の中にいるような心地でもあった。

 もう碧くんと話せなくなるんだ、って思ったら悲しくて、そしたら声が出た、と雪乃はたどたどしい声で言った。


 駅まで雪乃を送って、また明日な、と声をかけた。雪乃はうん、と微笑んで駅舎に向かう。


「あ、雪乃!」


 駅舎に入ろうとした雪乃を、俺は呼び止めた。雪乃は振り返り、首を傾げる。


「俺、雪乃のこと……」


 二人で歩いている時に気づいた。俺は、雪乃のことが好きだ。もう後悔したくないから、言いたいことは言ってしまおう。そう思って雪乃を呼び止めた。


「雪乃のことが……その……なんていうか……あれだよ」


 雪乃の口調が移ってしまったのかと思うくらい、上手く言葉が出てこない。雪乃は不思議そうに俺を見つめる。俺は照れ臭くて顔を逸らした。


「だから、雪乃のこと……す、すごいと思ってる。何がって言われたら説明できないけど、とにかくすごいと思ってる。それだけ。また明日な」


 俺は雪乃に背を向け、自転車に跨った。恥ずかしくて、早く立ち去りたかった。

 やっぱり、まだ言えそうにない。この言葉だけは、もう少し、言えるまで時間がかかりそうだな、と俺は苦笑した。でも、いつかきっと言える。それも近いうちに。なんとなく、そう言い切れるほどの確信があった。

 ブレーキを握り自転車を止め、俺は振り返った。

 去っていく雪乃の背中を見つめる。


【幸せだなぁ】


 雪乃は心の中で、そう呟いていた。

 鞄に付けられたクマのキーホルダーが二つ、雪乃が歩くたびに弾む。まるでスキップをしているかのようで、雪乃だけではなく、クマも、幸せそうだった。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無色透明な君の声 JO太郎 @jjjj0929

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ