第30話
翌朝、俺はいつもと同じ時間に家を出た。
これでようやく平和なクラスに戻ったのかぁ、と安堵しながら学校に向かった。嫌われ者にはなってしまったが、やっと平和な高校生活を送れると思っていた。実際、そうなるはずだった。
「森田碧って、お前?」
学校に着いて三階まで階段を上がり、教室に入ろうとしたところで背後から低い声がした。振り返るとそこには、金髪の坊主頭が立っていた。坊主頭には何本もの線が入っていて、奇抜すぎて俺にはできないな、と呑気に思った。
「そうですけど」
「ちょっと屋上行こうぜ」
金髪に肩を掴まれる。拒否したかったが、力が強くて抵抗できなかった。
こいつは確か、井浦愛美の恋人だ。とにかく喧嘩が強くて、危険な人物だということだけは知っていた。彼の背後には子分と思われるヤンキーが二人いる。
森田碧を袋叩きにしてほしい、と井浦が彼に頼んだのだろう。
「お前さ、黒板に悪口書いたんだってな。男らしくないぜ、そういうの」
悪口を書いたのは伊吹という男です、と言ってやりたかった。言いたくても言わないほうがいい言葉もあるんだな、とこの時に知った。
「とにかくさ、天気いいことだし屋上来いよ」
掴まれた腕を、俺は咄嗟に払った。
「なんだてめぇ。抵抗すんなよ」
闘う、大声で叫ぶ、逃げる、の選択肢の中から、俺は三つ目を選択した。
一瞬の隙を見て、俺は駆け出した。
「おい! 待てよてめぇ!」
三階の廊下に、金髪の怒声が響き渡る。俺は怯むことなく必死に走った。逃げることは、ださいことではない、と俺は思っている。逃げるが勝ち、という言葉がある。今まさに、俺は勝とうとしているのだ。
自分の行動を肯定しながら、登校してきた生徒たちの間を走り抜ける。そして階段を一気に駆け下りる。三階から二階へ、二階から一階へ。
その二階から一階へと続く階段の途中で、事故は起きた。
一階から階段を上がってきた女子生徒がいた。高梨美晴だった。
身体がぶつかりそうになって、俺は咄嗟に身を交わす。その時、不幸にも階段を踏み外してしまった。
あ、と思った時にはすでに手遅れだった。俺の身体は階段の下まで一気に転がり落ちていった。それは一瞬の出来事だった。
身体が停止した直後、全身がズキズキと痛み出す。何より頭を強打したようで、視界がぐるぐると回る。まだ階段を転げ落ち続けているように、焦点が合わない。
「森田! 大丈夫?」
近くにいるはずの高梨の声が、遠くから聞こえた気がした。
ふと、見覚えのある一匹の黒猫が昇降口にいるのが見えた。黒猫は退屈そうに欠伸をした後、去っていった。
俺の意識は、そこで途絶えた。
次に俺が目を覚ました場所は、病院のベッドの上だった。まず真っ白い天井が目に入り、周囲を見回すとすぐにそこが病院であることに気がついた。何故自分が病院にいるのか、すぐには思い出せなかった。身体を起こそうとすると節々が痛み、頭もズキン、と痛んだ。
「あ、碧。やっと起きた」
椅子に座ってスマホをいじっていた姉が俺に気づき、ほっと吐息をもらす。学校帰りにそのまま来たのか、制服姿だった。
「ああ、そっか。階段から落ちたのか」
ようやく何が起こったのか思い出した。目を大きく見開いた高梨を視界に捉えたのを最後に、俺の記憶は途絶えていた。
「こんな短期間で二回も入院するなんて、あんた何やってんの。心配かけないでよ」
「ごめん。それに関しては何も言い返せない」
「いや、言い返そうとすんなし」
姉は苦笑して立ち上がった。外はもう真っ暗になっていて、時刻は夜八時を回ろうとしている。
「お父さんのご飯作んなきゃいけないから、また明日来るね。すぐ退院できるってお医者さん言ってたよ」
「……そっか。分かった」
「ん? どうかした?」
「いや、なんでもない」
姉が俺の異変に気づいたように、俺も自分の身体の異変に気づいた。いつも聞こえていたはずの声が、聞こえなかったのだ。当たり前のように聞こえていた心の声が、聞こえてこなかったのだ。
俺は病室を出ていく姉の背中を見送る。姉が今何を思っているのか、俺の頭に届くことはなかった。
頭を打った衝撃で、元に戻ったのだろうか。それならそれでも構わないが、雪乃の声が聞こえなくなってしまう。そのことが何より怖かった。
その後俺は三日間入院して、連休明けの月曜日から学校に復帰した。幸いなことに脳に異常は見当たらなかったらしい。前回も思ったことだが、本当に調べたのか、と言ってやりたかった。
人間の心の声は、正確に言うと完全に聞こえなくなったわけではなく、途切れ途切れではあるもののまだ少し聞こえるようだった。盤面が傷だらけのCDを再生するような、ところどころ音が飛ぶように声が聞こえるのだ。はっきり聞こえない分、少々もどかしさを感じていた。
「いってらっしゃい。車に気をつけてね」
「姉ちゃんさ、もう母さん目を覚ましたんだから、進学ちゃんと考えたほうがいいんじゃない? 演劇関係の学校に行きたいこと、知ってるよ、俺」
家を出る前に、姉にそう声をかけた。姉は毎日のように進路のことで悩んでいることを、以前から心の声を聞いて知っていた。母さんのことや家事のできない俺と父さんを心配して、姉は自分の夢を諦めようとしていた。
「何言ってるの。お芝居はいいのよ、もう。近くの大学に進学するか、就職するか、そのどっちかにするって決めたから」
「嘘つけよ。あの性格の悪い彼氏と一緒に、演劇の専門学校に行きたいんだろ」
「人の心を覗かないでよ。プライバシーの侵害!」
姉は眉をひそめて言った。最近あの性格の悪い男と交際を始めたことも、心の声を聞いて知っていた。
「家事のことなら心配しなくていいよ。俺がやるし弁当だって自分で作る。だから、姉ちゃんは自分のやりたいことをやりなよ」
姉は少し黙り込んだ後、破顔して答えた。
「分かった。もう少し、真剣に考えてみる。ありがとう、碧」
俺はその時、久しぶりに姉の笑った顔を見た気がした。母さんが倒れてから、姉は一度も笑っていなかったように思う。
姉に微笑み返して、俺は家を出た。
【会社……ねぇかな】
【あの女……まんだな】
【隕石とか……滅亡……かな】
しばらく自転車を走らせていると、サラリーマンや学生の心の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
会社早く潰れねぇかな。あの女欲求不満だな。隕石とか落ちてきて、人類滅亡しないかな。
おそらくそんなことを考えていたんだろうな、と彼らの願望を脳内補正しておいた。
降り注ぐ蝉時雨の中、軽やかに自転車を走らせる。そして緩やかな下り坂に差し掛かり、ペダルから足を離した。この下り坂を越えたら、学校が見えてくる。ブレーキに手をかけ、生温い風を浴びながら勢いよく坂を下っていく。
軽くブレーキを握り、角を曲がる。春先に軽トラックと衝突した事故現場を、難なく通り過ぎる。
「おう、碧。怪我はもう大丈夫なのか?」
通学途中の道で、小泉と合流した。
「ああ、もう大丈夫」
「そうか。それにしても、気持ちのいい朝だな」
俺は空を見上げる。雲一つない快晴で、確かに気持ちのいい朝だ、と思った。
「そういえば碧が休んでる間、すごいことがあったよ」
小泉はにやりと笑って言った。
「すごいこと?」
「ボスギャルが退学になったんだよ」
「え、まじで?」
驚きのあまり思わず赤信号を見落とすところだった。慌ててブレーキを握り、もう一度聞き返す。
「一体何があったんだよ」
「ボスギャルの奴、本当に援助交際してたらしいんだ。それが学校にバレて、警察沙汰にもなって退学になったらしいよ」
「そ、そうなんだ。偶然とはいえ、伊吹すげえな。黒板に書いたこと的中してやんの」
「俺も思った。これでやっと平和になるな。クラスの奴ら、皆ほっとしてたよ」
クラスメイトが退学になって喜んではいけないけれど、皆が安心する気持ちも分かる。小泉の言う通り、これで俺たちのクラスは平和になった。雪乃や高梨は解放され、またきっと二人は仲良くなれるだろう。井浦が退学して一番ほっとしてるのは、もしかしたら藤木先生かもしれない。
前方の信号が青に変わり、俺たちは再び自転車を走らせる。
【高梨さんと……るといいな】
高梨さんと今日も話せるといいな、だろうか。小泉の考えていることは、心の中を覗かなくともなんとなく分かる。
夏休みの予定などを話しながら並走し、二人で学校へ向かう。
教室に入ると、すぐに雪乃と目が合った。
【おはよう】
雪乃はにこりと笑って言った。俺も笑い返して、自分の席に着く。
「碧、階段から落ちたんだって? 大丈夫かよ」
「森田、一学期に二回も入院するなんて、災難だったな」
「階段から落ちる時、どんな感じだった?」
数人の生徒たちが俺の机の周りに集まってくる。誰にも声をかけられることはないだろうな、と思っていたので驚いた。
大変だったよ、と答えるとさらに質問責めに遭う。どうやら階段から転げ落ちて生還した男は、彼らにとってはヒーローらしい。
「まさに地獄に転げ落ちていくような感じだったよ。スローモーションになって、何度もこれまでの人生を振り返れた」
大袈裟に、嘘も交えてそう話した。生徒たちは笑って、満足そうに自分の席へと戻っていった。
心の闇ノートを見せたせいで、何人かの生徒は俺のことを嫌っているようだったが、半数以上は今まで通りに接してくれていた。
窓際の席の雪乃に目を向けると、彼女の周りには樋口や、数人の女子生徒が集まっていて、仲良さそうに話している。雪乃はノートに返事を書いて、彼女らと会話をしていた。
よかったな、と心の中で声をかけてやった。
「夏休み、皆で海行こうぜ。高梨さんも誘おう」
昼休みになって、小泉が提案した。雪乃も誘おう、と俺はさらに提案した。
「いいね。伊吹はどうする? あいつ、卑怯者だから誘うのやめるか?」
「いや、呼んでやろう」
苦笑してそう答えた。
雪乃に視線を向けると、この日も心の中で食材の名前を呟きながら弁当を食べていた。
【ハンバーグ、ご飯……テト、ブロッコ……】
ブロッコリー、毎日のように弁当に入ってるな、と心の中で突っ込みながら姉が作ってくれた卵焼きを頬張る。いつもより少しだけ甘く感じた。
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