第29話

 そして放課後、俺は席に座り、生徒たちが下校するのを待った。雪乃の席の周りには、数人の女子生徒が集まり、楽しそうに何か話していた。初めて見る光景だった。

 数分後、ようやく教室が静かになった。雪乃は二つのクマのキーホルダーを手に持ち、それをじっと見つめている。余程嬉しかったのだろうか。


「なんかどっと疲れたな。でもよかったな。皆雪乃に感謝してた」


 雪乃は振り返り、にこっと笑う。


【私はただ黒板に書いただけだよ。頑張ったのは碧くんだよ】

「そんなことない。頑張ったのは雪乃だよ。本当にすごいと思う」


 互いに褒め合って、互いに照れて二人で笑い合った。

 それから雪乃は立ち上がって、【ありがとう】と頭を下げた。


「何が?」

【私のこと、助けてくれて。嬉しかった】

「ああ、別に。なんか気づいたら立ち上がって、あんなこと口走ってた。自分でもビックリしてる」


 よくあんなこと言えたな、と改めて自分でも思う。普段言いたいことを言えない俺が、それも他人のためにやったなんて、数ヶ月前の俺が聞いたら呆れて笑うだろう。雪乃と出会ってから、俺の中で何かが変わったのは事実だった。


【もうすぐ夏休みだね。あっという間だったね】


 そうだな、と返事をする。振り返ってみると、いろいろなことがありすぎた一学期だった。


【ありがとう】


 雪乃はもう一度、俺に礼を言った。

「何が?」俺ももう一度聞き返した。


【初めて会った日、碧くん、あの時も私を助けてくれたよね。ちゃんとお礼言わなくちゃってずっと思ってた】


 雪乃と初めて会った日、俺は入院していて三週間遅れの新学期となった。雪乃はあの日もいじめられていて、確か隠された上靴を探していた。上靴は女子トイレにある、そう教えてやったのが始まりだっけ。なんだかずいぶん前のことのような気がして、懐かしく思えた。


「そういえばそんなこともあったな。いろいろありすぎて忘れてた」


 あの時声をかけていなければ、今こうして雪乃と二人で話すこともなく、雪乃は孤独だったんだろうな、とも思った。


【すごく楽しい一学期だった。二学期は、もっと楽しければいいな】

「きっともっと楽しくなる」

【だといいな】と雪乃は笑う。

「そろそろ帰るよ。せっかくクラスの人気者になりつつあるのに、一気に嫌われ者になった俺と一緒にいたら、何言われるか分からないしな」


 俺は自嘲気味に笑って立ち上がる。

【ちょっと待って!】と雪乃は心の中で叫んだ。【まだ悩みを解決していない生徒がいるよ】

「誰だよ」俺は首を振ったが教室には誰もいない。雪乃は【碧くんだよ】と俺を指差した。


「俺? 別に悩みなんて……」

【言ったでしょ、私。悩みを抱えてる人は見たら分かるって。碧くん、初めて会った時からずっと悩んでるように見えたから】


 言いながら雪乃は教壇の上に立つ。そして黄色のチョークを手に取り、黒板に文字を書き始めた。


『森田碧くんは、言いたいことを言えなくて、悩んでいる』


 その文字を見て、胸がちくりと痛んだ。雪乃は見抜いていた。俺の心の闇を。


【何を言えなくて悩んでるのかは分からないけど、誰かに言えなかったこと、伝えそびれたこと、あるんじゃない?】


 雪乃はまるで、俺の心の中を覗いたように言った。返答に窮していると、雪乃は続ける。


【ありがとうとかごめんなさいとか、友達になりたいだとか好きだとか、誰にでも言えなかったことって、きっとあると思う。でもそれを言える人って、なかなかいないんだよね。このクラスの人たちもそう。私だってそうだった】


 雪乃は穏やかな表情で語りかける。「うん」俺はそれだけ返事をした。


【次は碧くんの番だよ。これからは後悔しないように、素直に生きよう。私もそうする】

「……そうだな。俺もそうするよ。ありがとう、雪乃」


 つい先ほど、皆の前で言いたいことを言えた。今の俺ならきっと言える。


「また明日な」

【うん。頑張ってね、告白】


 雪乃の最後の言葉が気になったが、構わず踵を返した。きっと雪乃は、俺が誰かに愛の告白をできずに悩んでいる、と思っているのだろう。訂正するのも面倒なので何も言わずに教室を出た。


 自転車を走らせ、駅に向かう。

 駅の駐輪場に自転車を止め、バス停でバスを待った。素直な気持ちを伝えたい人は眠ったままだけど、それでも伝えようと思った。

 ふいにスマホが鳴って、画面を見て驚いた。姉から着信が五件、メッセージが四件届いていた。


『お母さんが目を覚ましたから、早く来て!』


 メッセージを見てさらに驚く。マジかよ、と思わず呟いた。最初に届いたメッセージは、一時間以上前だった。

 目を覚ましたのなら直接伝えられる。ちょうどよかった、とスマホの画面を見つめたまま微笑んだ。

 数分後バスがやってきて、俺は一番前の席に腰掛けた。

 早く病院に着いてくれ、と思いながら進行方向を見つめた。


 病院に着くと、早歩きで真っ白なリノリウムの床を歩き、エレベーターに乗って三階のボタンを連打する。

 三階で降りると、小走りで母さんの病室へ急ぐ。すれ違った看護師に小さく頭を下げて、解放されているドアから病室の中に入った。


「あ、碧! こっち来てお母さんに顔見せてあげて!」


 姉は立ち上がって手招きをする。さっきまで泣いていたのか、目と鼻が真っ赤に腫れていた。


「お母さん、碧が来てくれたよ」


 姉は母さんの耳元で声をかける。母さんは目を動かして、俺を見た。


【碧、心配かけてごめんね】


 母さんは声が出ないのか、心の中でそう言った。


「お母さん、呼びかけたら反応してくれるけど、まだ声が出ないみたい」

「そうなんだ。何ヶ月も眠ったままだったからかな。でも母さん、目が覚めてよかった」

「そうだね。ほら、碧も何か声かけてあげて」


 姉は場所を譲ってくれて、俺は母さんのすぐそばの丸椅子に腰掛けた。

 母さんと目が合う。けれど俺は、用意していた言葉が出てこなかった。いざ母さんを目の前にすると、照れ臭くて言い出せなかった。今は姉も隣にいるし、また次の機会でもいいか、と思ってしまった。


「ほら碧、お母さんに言うことあるんじゃないの?」


 姉に急かされ、分かってるよ、と答えた。

 ふいに雪乃の顔が頭に浮かんだ。この場にいないのに、何故だか雪乃にも急かされている気分になった。

 分かったよ、言うよ。もう後悔はしたくないから。

 心の中で見えない雪乃に語りかけ、俺はゆっくりと口を開いた。


「母さん、今まで反抗したり、生意気なこと言ったり、弁当食べないで残したりしてごめん。早く退院して、また弁当作ってよ。姉ちゃんの卵焼きしょっぱくて、母さんの甘い卵焼きのほうがずっと美味しいんだ。今度からは弁当残さず全部食べるし、家事とか、手伝えることは俺も手伝うし、真面目に勉強もするから、もうどこにも行かないでくれよ、母さん」


 言いながら俺は、自分が涙を流していることに気がついた。そのせいで後半は声が掠れてしまった。それでも言いたいことはちゃんと言えた。いつか伝えようと思っていた言葉を、ようやく伝えることができた。雪乃が背中を押してくれたおかげだ、と今は思う。ずっと言えなかった言葉を言えて笑いたいはずなのに、どうしてか涙が止まらなかった。


「死なないでくれてありがとう。目を覚ましてくれてありがとう。ここまで育ててくれてありがとう。毎朝ご飯を作ってくれてありがとう。毎日弁当を作ってくれてありがとう。夜もご飯を作ってくれてありがとう。俺と姉ちゃんを産んでくれてありがとう。本当にありがとう」


 泣きながら、思いつく限りのありがとうを母さんに伝えた。まだまだ言い足りない。今日まで言えなかったありがとうと、ごめんなさいがあまりにも多すぎて、何回言っても物足りない。

 俺は母さんの骨張った手を優しく握る。強く握りしめたら粉々になってしまいそうな母さんの手を、両手で包み込む。


 ──母さん、ありがとう。


 最後にもう一度、力強く言った。


【優しい子に育ってくれて、こちらこそありがとう】


 母さんのその言葉に、俺は嗚咽を漏らして泣いた。

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