第28話
「また森田? 今回は何?」
井浦にそう言われ、俺は自分が立ち上がっていたことに気づいた。どうして立ち上がってしまったのか、自分でも説明ができない。けれど今さらもう後に引けない。言いたいことを言えない人生なんてまっぴらだ。そう思いながら、俺は迷いなく言い放った。
「雪乃は悪くない。悪いのは全部俺なんだ」
数秒の沈黙の後、「はあ?」と井浦は笑う。
「何言ってんの森田。なんで雪乃を庇ってんの? もしかしてこの女のこと、好きなの?」
その言葉には返事をせず、俺は机の中から一冊のノートを取り出した。これを見られたら、俺の高校生活は終わる。それでも構わない、という気持ちでノートを広げてみせた。生徒たちの心の闇が記された、『心の闇ノート』と名付けたそれを。
「は? 何これ、きもいんだけど」
「おいおいおい、森田まじかよ」
「ちょっと! 何よこれ!」
井浦と数人の生徒が叫ぶ。井浦にノートを奪われ、生徒たちは立ち上がりノートの周りに集まる。
【……どうして】
雪乃と目が合うと、彼女はそう呟いた。俺は返事をせず、小さく笑ってみせた。
「田嶋裕介……AVの隠し場所に悩んでる。妹にDVDの存在を知られ、さらに悩んでる」
誰かがノートの一文を読み上げた。田嶋が「なんで知ってるんだよう」と戯けて笑いが起こる。
「柿本由香……ピアノが上手く弾けなくて困ってる。コンクールまで時間がなく、とにかく焦ってる」
次の一文を読み上げると、柿本が「もしかして森田くん、盗み聞きしたの?」と俺を蔑むような目で睨んでくる。心の声が聞こえた、なんてさすがに言えない。
「高梨美晴……雪乃のいじめを快く思っていない。井浦たちのグループを抜けたがってる。ピンク」
ピンクってなんだ? と誰かが言った。いろいろとやってしまった、と俺は焦った。
「美晴、どういうこと?」と井浦が詰め寄る。高梨には後で謝ろう。
「俺がノートにそれを書いて、雪乃に見せた。心優しい雪乃は、お前らの悩みを解決してやろうと思って黒板に書いたんだ。井浦たちの悪口は俺が書いた。いじめとかださいことしててムカついたから書いた。理由はそれだけ」
一部事実とは異なるが、はっきりと言ってやった。生徒たちの俺を見る目がこれで変わってしまうだろう。しかし不思議と清々しい気分だった。後悔もなかった。
「森田、あんた最低だね。皆、こいつ無視しよう」
井浦は堂々といじめを宣言した。こいつもとんでもない奴だな、と思った。
「ねえ聞いてんの? 皆もなんか言ってやりなよ!」
井浦の言葉に応える者はいなかった。
その時、一人の女子生徒が申し訳なさげに手を挙げた。
「あの……私、雪乃さんに感謝してます」
勇気を出して声を発したのは、少女漫画コンテストで受賞した樋口だった。彼女は立ち上がり、顔を伏せて言葉を続ける。
「雪乃さんが黒板に漫画のことを書いてくれて、私嬉しかったです。そのおかげで友達もできたし、皆に漫画を読んでもらえて……。だから私、雪乃さんには感謝してるんです。ずっと、お礼が言いたかったです」
樋口は小さく頭を下げて、席に着いた。顔が真っ赤になっていた。俺に感謝はないのか、と少し落ち込んだがそう言ってくれて素直に嬉しかった。
「お、俺も!」
次に立ち上がったのはお騒がせナイフ少年の川原田だ。彼はぐっと拳を握り、やがて口を開いた。
「雪乃さんが黒板に書いてくれなかったら、きっと武藤と仲直りできなかったかもしれない。言えなかったことを代わりに書いてくれて、あの時正直助かった。ありがとう」
川原田は一息にそう言うと、席に着いた。
次に立ち上がったのは男女二人だ。両思いの鈍感な岩島と原だ。
「あの……私たち、実は先週から付き合い始めたんです。そのきっかけをくれたのは雪乃さんでした。私も雪乃さんにお礼が言いたかった。ありがとう雪乃さん」
岩島もありがとう、と頭を下げて二人は席に着いた。
まじかよ! と誰かが叫び、騒がしくなる。おめでとう、という声も上がった。
次にギター少年の笹林が手を挙げ、雪乃に礼を言った。
「俺も雪乃さんに感謝してるよ。おかげでライブが盛り上がったよ」
誰かが指笛を鳴らす。俺は少し、このクラスの奴らが好きになってきた。
そして次に立ち上がったのは、無関係なはずの女子生徒だった。はて、あいつのこと黒板に書いただろうか、と怪訝に思っていると、その女子生徒はスマホの画面を見ながら言葉を発した。
「藍田さやかです。誰が黒板に私のことを書いたのか分かりませんが、お礼を言わせてください。あなたのおかげで、赤ちゃんを産む決心がつきました。あのまま一人で悩んでいたら、どうなっていたか分かりません。書いてくれたことで、親や友達にも相談できました。彼にも話せて、大学を辞めて私と赤ちゃんのために働くと言ってくれました。本当に感謝しています。ありがとうございました」
これ、さやかちゃんに伝えてほしいって言われて、と藍田の友達らしき女子生徒は付け加えた。
何故か拍手が沸き起こった。雪乃は戸惑いながら、恐縮ですと言わんばかりにぺこぺこ頭を下げていた。
井浦は親の仇のように俺と雪乃を睨んでいたが、こうなってしまうと何も言えないようで、おとなしく自分の席に座っていた。
「あ、他に何か言いたいことある人はいませんか?」
いつの間にか議長になっていた俺は、生徒たちにそう声をかけた。まだいるだろうと思っていた。皆が言いたいけど言えなかったことを、勇気を振り絞って声に出したのだ。この機会を逃したら、きっともう言えなくなるぞ、と高梨に視線を向けた。
高梨は悟ったのか、意識的に視線を逸らした。
「あの! 僕! 雪乃さんのことが好きでした!」
急に立ち上がって叫んだのは、伊吹だった。お前が言うべきことはそれじゃないだろう、と苦笑した。雪乃はぺこぺこと頭を下げ、【ごめんなさい】と心の中で拒絶していた。
「他にいないようならホームルーム終わりますけど」
議長俺は再度促した。時計を見ると、そろそろ六時間目の授業が終わる頃だった。高梨は俺の視線から逃げるように俯いていたが、観念したようにため息をつき、鞄を持って雪乃の窓際の席まで歩いた。
すでに着席していた雪乃は、高梨を見上げる。高梨は雪乃と目を合わせようとせず、躊躇いがちに鞄に手を入れ、中からぼろぼろのクマのキーホルダーを取り出した。
雪乃の目の色が変わった。その見開いた目には、涙が溜まっていた。
「これ、ずっと渡したかったんだけど、今まで返せなくてごめん。それから、今まで酷いことしてごめん。それから……」
高梨は感極まったのか言葉を詰まらせた。零れた涙を手で拭い、涙声で高梨は言った。
「あの時、いじめられてた私を助けてくれてありがとう。ずっと、令美に言いたかった。遅くなって、本当にごめん」
雪乃の目から涙が零れた直後、予鈴が鳴ってホームルームが終了した。藤木先生は泣きながら、一人だけ拍手をしていた。
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