娯楽としての二者関係について
大鳥居平凡
娯楽としての二者関係について
娯楽作品、とりわけ二次創作作品において、AとBという二者間の関係について表現することと、Aという人物について表現すること。
(「人物」なんていっているからおまえはダメなんだ。「人物」じゃなくて「キャラ」と捉えなさい。)
物語は、もっぱら関係について述べる。とくに人間関係について(昨今における「百合」の隆盛)。
関係については、二つの捉え方がある。一つ目は、Aとはこういう人物であり、そのAに対してBという刺激が加わるとAはこういう反応を返す、という捉え方。Aという人物の表れのひとつとして、関係を捉える。
そしてもう一つは、AとBの間にはこういう関係(感情)があるんだよ、という捉え方。関係に表れているところのものとして、Aを捉える。Aの行動や反応は、その関係・感情にもとづき説明される。
一つ目の立場は、Aを描くことに重心をおく。二つ目の立場は、AとBの関係を描くことに重心をおく。
実のところ、一つ目の立場をとるにしても、Aがどのような人物であるかは、外部に対する反応としてしか表現されえない(帰納的にしか到達されえない)。してみれば、Aは結局、Aと外部との関係の総体として規定されるに過ぎないのかもしれない。物語がもっぱら関係について述べる所以である。
しかし、「総体」であるところに二つ目の立場との違いがある。ひらたくいえば、Aにとって個別のBとの関係は必須ではない。
Aは別に四六時中Bのことを考えている必要はない。AのすべてがBに対し開示される必要はない。AとBの関係は、Bのあずかり知らぬところでAに起きた事象によって変化を被るかもしれないし、それは現時点でのことに限らずBはついに変化の原因を知らないままかもしれない。
さらにこれは、Aに対してもBのすべてが開示されているわけではない、ということを意味している。Aは、Bの総体に対し反応を示しているわけではなく、AにおけるBの表れに対して反応を示している。裏返せばAは、AにおいてBと同様に表れるものに対しては、たとえそれがBでなくとも、Bに対するのと同じ反応を返す。Bは置き換え可能なものとしてそこにある。
このように第一の立場は、個人のかけがえのなさを脅かす。AにとってBは本質的には重要ではないかもしれない、と示唆する。
しかし第二の立場も別の形で、個人のかけがえのなさを脅かしている。Bのことを考えていない時間のAを、Aの一部として認めず切り捨てるからだ。一人の時間、誰のことも考えていない時間にも自己は確かに存在する、その時間にこそ本当の自分(もしかしたら「実存」と呼ばれるもの)が存在する。そのように考えるのが近代的個人観であると思う。無論「近代的」であることは必ずしも優れていることを意味せず、むしろ今日においては批判の対象とされやすい。
たとえBがいなくとも、Bと別れても、AはかわらずAでありつづける。それはとても寒々しいことかもしれないが、一面では個人の主体としての自由の源であり、何物にも左右されない個人のかけがえのなさの肯定である(*)。
第一の立場は、主体たるAが、Bを含む外界からの刺激を客体として扱う。Bが客体化される居心地の悪さがある。第二の立場は、AとBの関係によってAを規定する。Aが主体たりえない息苦しさがある。
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この文章がどのような視座から語られているかを明示しないと、この文章が妥当に位置づけられないのではないかという懸念から、ここで個人的な話をする。
私自身はどうやら、第一の立場をとった作品のほうが、よく味わうことができる。おそらく、恋愛やそれに類する、人(主体)としての他者に対する強い感情を抱いたことがないせいかもしれない。
この文章の判断と主張は、そのような私の嗜好・視野を反映しているだろう。とりわけ以下では、私は第二の立場への批判と、第一の立場の称揚を匂わせているように思われる。
嗜好とは価値観である。あるいは、価値観とは嗜好に過ぎない。そして、何の価値観にも立脚せずに論立てがなされることはありえない。論理は、前提からなにか帰結を導くことはできるが、無から前提を生み出すことはできない。どれほど論理的な主張も、出発点として、論理に正当性を保証されない前提をもっている。その前提を肯定するのは、無根拠な価値観である。
強いていえば、嗜好と価値観の違いは、一貫性にある。自身の有する個別的な、複数の嗜好は、抽象化され一連のものとして把握されることで、安定性の強い一貫した価値観へと育つ。
自身の嗜好について論理的に述べようという試みは、しばしばその嗜好の無根拠性を隠蔽して他者に強要する振る舞いと見なされる。しかし本来的には、この試みは、嗜好を価値観に育てたいという欲求に由来するのではないかと思う。
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ところで二者関係が作品として存在する場合、実は二者関係は二者で完結して存在しているわけではない。第三者として、その二者関係を消費する作品享受者の視線が存在する(作中世界のモブを語り手とする二次創作)。その視線の先で、AもBも、客体たらざるをえない。
第二の立場においては、作中で提示された二者関係が、そのままA(もちろんBでもよい)を本質的要件として規定する。実際にはその二者関係は、消費の視線の先で選択されたものであるはずなのだが(リアリティショー)。
第一の立場は、「こうではなかったかもしれないA/B」の可能性を常に留保しつづける。消費の視線から逃れつづける、自由と主体性の可能性を留保する。ただし、その留保をエクスキューズとして——「真の姿ではないとわかっている」ことを言い訳に(ときには第二の立場に対する優越感すら抱きつつ)、私は作品が消費に最適となることを要求する。
以上に対する正論として、「AもBも実在しないぞ」というものがあげられる。作中で提示された二者関係からの相対化は、二者の自由の希求などではなく、作者という第四の、そして最大の(ひょっとしたら唯一の)権利を有する人物に対する侵害に過ぎないかもしれない。
ただ、物語を受容するという体験は、何らかの意味でその人物・世界が実在するかのような感覚を一切伴わないことが可能なのか、というしこりは残る。
つまるところ私はときどき、作中人物が、他の人との関係からときはなたれて、一人で街を歩いているような、そうして世界というものを感受し微笑んでいるような、そういう二次創作が見たくなる。
ただそれが、「誰も知らないAの本当の姿を自分だけが知りたい」という、窃視症的欲望でないとは限らない。あるいは、「人間関係が煩わしいから旅の恥はかき捨てで歩き回りたい」という、自己の欲望の勝手な代入でないとは限らない。
(*)なお、「AとBの恋愛という関係は、束縛として機能しAのかけがえのなさを毀損しうるのではないか」という問いについて美しい思慮を示した作品として、仲谷鳰による漫画『やがて君になる』をあげたい。
娯楽としての二者関係について 大鳥居平凡 @Alto_Lazy
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