第4話

 西川が岩尾を眼前に迎えた時は青ざめていた。まさかという感情が顔にありありと出ている。

「西川玲子さんだね。君も不合格だ」

 唇を震わせて屈辱に耐える玲子はやっとの思いで声を出す。


「この無礼、父に言いつけますから」

「ああ。好きにしたまえ。君の父親が誰かはしらないが」

「綾南信金の副理事長よ」

「じゃあ、父上にこう言うがいい。私を不合格にした綾戸社長に抗議して、とね」


「綾戸社長……?」

「ああ。私は単なる使い走りさ。社長の意に従って不合格を告げているにすぎないんだよ。分かったかね?」

 塩の柱のようになった玲子は気にも留めず、岩尾はさらに数人の男女に告げて回る。


 リストの全員に線が入ると岩尾は大樹のところに戻ってくる。緊張する大樹に対しにこやかな笑みを浮かべた。

「小島くん。お待たせした。では会場に案内しよう」

 反応できないで固まっている大樹を困ったように見る。


「どうした?」

「ぼく、いえ。私が一番目なのですか?」

「ああ。もちろん。社長は時間の無駄がお嫌いでね。私も社長を待たせたくない。さあ、頼むよ」

 なんとか足を動かし大樹は岩尾の後ろについていく。後頭部に刺さる視線が痛い。


 途中警備員が2人で門番するドアを通り抜ける。噂に聞いたことがある貴賓室への通路だった。大きな樫の木のドアの前で立ち止まると岩尾は呼吸を整えてから力強くノックをする。中から若い女性の声がした。

「どうぞ」


 岩尾が恭しくドアを引き、大樹を通すと後ろで扉が閉まる。天井が高く広々とした部屋の向こう側に大きなデスクがあり、半白の頭をした初老の男性が椅子から立ち上がった。新聞で何度も見た顔だ。すぐ脇に若い華やかな女性が寄り添う。大樹の喉は干上がり混乱の極みに居た。どういうことだ?


「こ、小島大樹です。よろしくお願いします」

 なんとか声を出して頭を下げる。面接指導で習ったとおりにデスクと向かい合わせに置いてある椅子の側まで歩いて行った。足が萎えそうだった。

「失礼します」


 そう言って椅子に座ろうとした大樹に予想もしなかった声がかかる。

「今日は馬鹿に暑いじゃないか。何か飲むかね?」

 想定問答にはない質問に大樹はもう限界だった。

「は?」


 変な声を出してしまった大樹を見て若い女性が笑う。

「いきなりそんなこと言われて混乱してるわよ」

「いや。お客に飲み物を勧めないのも失礼だろう」

 なぞのやり取りに大樹の脳は停止したままだ。


「じゃあ、あっちで話をしようか」

 手で示す先はどっしりとした革張りのソファセットだった。夢遊病のように歩きクッションの効いたソファに腰を下ろすと腰が沈み込みそうになる。大樹はもう何がなんだから分からなくなり、目の前のグラスに注がれたミネラルウォーターを一気にあおった。


「さて、最初の1年はシャングリラで学んでもらう。本当は綾戸自動車の方がいいと思うのだが、君の希望らしいからな。できれば半年程度でシャングリラのことは全て吸収してもらいたい。私がいいと判断したらすぐに、東京に戻ってもらうぞ。あまり時間がないからな」


 必死になって理解しようと思うが、玄造の話すことが全く分からない。口を挟むべき内容が思い浮かばず、黙っていると横から声がかかった。

「ダイ。鳩豆な顔してるけど、頭がフリーズしてない?」

 大樹は目を見開く。


「ああ。やっぱり分かって無かったんだ。4年ぶりだっけ? まあ、私も随分変わったからねえ」

「あああ。サナなのか?」

 顎が落ちた間抜けな面をみて玄造が笑う。


「彼は大丈夫なのかね?」

「今は混乱してるだけだから。私を信用してよ。パパ」

 甘い声を出して玄造にしなだれかかる沙苗を見て、大樹にも理解ができた。ああ、なるほど。そういうことなのか。


 急にどんよりした表情をする大樹を見て、玄造は再び疑念を呈す。

「まあプライベートな場ではあるとはいえ、ここまで感情が表に出るのはビジネスには向かんと思うんだがな」

「パパあ?」


 沙苗の声が尖る。

「また、クソおやじ呼びに戻してほしいの?」

「あ、いや。そんなことはないよ沙苗。ああ、お前の判断はもちろん信頼しているとも」


「それじゃあ、ちょっとだけ2人きりにして」

「あと10分ちょっとでグループ会社の社長たちと昼食会なんだぞ」

「すぐに行くから。ね?」

 玄造は腕にちらりと視線を落とすと5分だけだぞ、と言って外へ出ていった。


 沙苗はすぐに大樹の横にやってくる。彫像のように固まっている大樹のあごにかるく拳を当てた。

「ねえ。もうあまり時間がないからさ。聞いてたでしょ。昼食会に参加しなきゃいけないの」


「ああ」

「ねえ。しっかりしてよ。まあ、座ってにこにこしながら適当に相槌うっとけばいいからさ。ダイの左隣は自動車の大沢社長だし、あの人は如才ないから大丈夫よ」

「もう、何がなんだか分からないよ」


「じゃあ、要約するね。実は私は玄造の娘なの。母の意向で籍は入れてないんだけどさ。認知はされてたわけ。で、父には他に子供がいないから、会社を継がせる相手はこの私しか居ないってことなの。つまり、ジョーカーを手にした私が最強。分かった?」

「やっぱり分からない」


 沙苗は仕方ないという顔をする。

「ま、いいわよ。詳しいことは昼食会の後でしましょ。主役が遅れる訳にはいかないから」

「主役?」


「そう。今日の昼食会で初めて後継人事が発表されるわけ。口が堅くて忠誠心がはっきりしている人は知ってるけどね。今まで私のことを愛人だと思ってた奴らが泡を吹く顔が楽しみ」

 にんまりと猫のような笑みを浮かべる沙苗は大樹を覗き込む。


「ダイもちょっと勘違いしてたでしょ?」

「あ。いや。その。うん……」

「まあ。今日のは私も演技してたしノーカンにしといてあげる。そうそう、これ覚えてるでしょ。じゃ、そろそろ行こうか?」


 沙苗はソファから立ち上がって歩き出しながら、色あせたノートをハンドバッグから取り出す。懐かしの絶許ノートだった。パラパラとめくって該当のページを探し出すと大樹に示す。

「99ポイント獲得者への制裁は……じゃん。生涯奴隷よ」


「え?」

 思わず立ち止まった大樹の手を引っ張りながら沙苗は嬉しそうに言う。

「もう、昼も夜もこきつかってやるから覚悟なさいね。ダイに拒否権はないから。そうそう、今日人事に言われてハンコ持ってきてるでしょ。あとで紙1枚に押してもらうからよろしくね」


 ドアの前で振り返った沙苗は背伸びをしてちゅっと大樹にキスをする。

「あ、口紅ついちゃった。まあ、問題ないわね。どんなに鈍感な人でも誤解しようがないでしょうし。それじゃ、革命の始まりよ。今までのツケまとめて払わせてやりましょう」


 ***


 1年後、大樹は故郷を離れることになった。義父が早く本社に戻って来いとうるさい。周囲の目が鬱陶しいというのもあった。どこへ行ってもお偉いさんが揉み手ですり寄ってくる。今まで大樹にひどいことをしていた連中も卑屈な笑みを浮かべて首を垂れた。


 今日は大樹の両親の店で身内の壮行会を開く。両親から足りない材料の買い出しを命じられて大樹はいそいそと出かけた。以前と変わらずに自分と接する両親はありがたい。買い物に出かけたニコニコマートの裏手で太田が段ボールの片づけをしているの見つけた。


 入店したとたん店長がすっ飛んでやってくる。

「綾戸さま。お電話頂ければお届けに上がりますのに。あ、かごは私が」

「自分で買い物をしたいんだ。意味は分かるよね?」

「あ、はい。お邪魔をして申し訳ありません」


 頭を下げて引き下がる。店長は商品の陳列を直すふりをしながら、大樹の様子をうかがっていた。そっとため息をついて、大樹は母親に渡されたメモの商品を買いそろえる。外に出ると太田が緊張した面持ちで立っていた。


「も、もう。いいだろ。勘弁してくれよ。な。頼む」

 大樹は無言で通り過ぎた。追いすがろうとする太田を店長が怒鳴りつける声を背中で聞く。太田は新卒で就職できずアルバイトをしている。西川は家に引きこもっていた。過食で見る影もなく太っているらしい。誰がそう仕向けたかを大樹は知っている。少々哀れな気もしたが、大樹は何も言わなかった。


 人が誰かを許すかどうかは本人にしか決められない。その程度のことはわきまえていた。大樹自身も、あのときのことは沙苗に対して許しを請うことしかできないという意味では立場は同じだ。家に帰ると父親の横で沙苗が中華鍋を振っていた。

「おかえり~」


 大樹の表情を見て沙苗は眉を上げるが何も言わなかった。父親と沙苗の用意した料理で楽しい夜を過ごす。大樹の両親と沙苗の祖父母。気を使わなければいけない相手は居なかった。


 翌日迎えに来たアルフォートに乗り込む。通りがかったガソリンスタンドで佐藤が大声を上げキャップを脱いで頭を下げていた。

「ありやとやした~」

 沙苗が読んでいる新聞にちらりと視線を走らせると、県立高校教師に収賄で有罪判決の文字が見える。


 大樹は新聞をたたんだ沙苗の手をそっと握った。沙苗にしてはあいまいな笑みを浮かべる。

「意外と心が晴れないもんだね」

「気が付いてたんだ」


「当り前よ。わざわざノートに記した恨みなんだから。その相手のことは忘れないわ」

 そうつぶやく沙苗になんと返していいのか分からない大樹だった。そのノートの大部分の名前は赤線が引かれている。


「仕返しをしたことは後悔してないし当然だと思ってる。なぜかあまりいい気分にはならないけどね。でも、一つだけ、あのノートに書いたことを実行してよかったと思ってるよ。この先も長いけど、せいぜい頑張ってね」

 指を絡める沙苗の手の熱を大樹は強く感じていた。


「あ、そうそう」

 沙苗は運転席との仕切り板を確認する。ぴたりと閉じられており会話が聞こえる心配はない。

「東京についたらやってもらうことがあるの」


 大樹は沙苗の様子をうかがう。また何か思いついたらしい。自分に上手くできることだといいんだがと不安になった。宣言通り沙苗はなかなかに人使いが荒い。沙苗は体を伸ばして大樹の耳元に口を寄せる。

「赤ちゃんが欲しいの。今夜に向けて体力を温存しといてね」

 大樹は了解と答えると目をつむってシートに体を預けた。

 

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絶許ポイント99点の君 新巻へもん @shakesama

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