囚贖


 春の訪れを知らせたのは一枚の花弁だった。変わらない天井を見上げていた男の鼻先をかすめて落ちたそれは、桜のものだった。男は体を起こして窓の外を見た。コンクリートの、灰色の壁が見えるだけである。どこからここまで舞ってきたのだろうかと不思議におもった。近くに桜があるようにはおもえなかった。床に落ちていた花弁を利き手で丁寧に拾う。こうして手元にあるからには、どこかで咲いているということだ。男はその小さな便りを光にかざしたり、嗅いでみたりした。男は桜の匂いというものを知らなかったが、心の奥がほんのり暖かくなった気がした。花弁が一枚あったところで桜の匂いなどしないはずなのだが、男は春がきたのをそれで知った。冬のことはもう忘れていた。

 男は額、腕、足、体のあちこちにその花弁を置いてはくすぐるようにして感触を確かめていた。花弁が指に張り付いてくることが面白いのだろうか。柔らかいとも湿っぽいともいえる独特な肌触りであった。男は未だに信じていないのかもしれない。男には外のことを知る術がない。花弁が男の元まで風に吹かれて舞い降りたのは事実である。しかし男には信じがたい出来事なのだ。ベッドと毛布しかないこの部屋に、彩りがある状況というのは、男にとって願ってもない幸運なのだ。男はしばらく満ち足りた心持ちでベッドに横になりまどろんでいた。

 突然部屋の扉がノックされて、男の心臓は収縮した。強く脈打ち出した。見開いた目を閉じて深く息を吸う。扉の向こうから声がする。まぶたを開けて息を吐く。話の内容は聞き取れない。扉の厚みのせいである。それでも自分に向けて発言しているのはわかる。ここには自分しかいないのだから当たり前だ。男は見えもしない扉の向こうをじっと睨んでいた。しばらくすると扉の下の隙間からメモ用紙が差し込まれた。来訪者が誰だったのかは男には皆目見当もつかない。なんの用事があって自分のところまで訪ねてくるのか。男は足音を立てないよう、慎重に扉の前まで近づき、かの来訪者が残していった紙切れを右手の親指と人差し指で摘み上げる。何か文字が書いてある。扉は窓から一番離れた場所にあるので、薄暗くなんとかいてあるのかまではわからない。男は再び抜き足差し足で窓の下に位置するベッドまで戻り、腰掛けた。

 少し呼吸を整えてから読み始めた。といっても文章と呼べるほどのものはなかった。五センチ四方の用紙には二人の人物の名前が書いてある。名前の下にも何か書いてあり、一つは大学の、もう一つは企業の名前であると男が気付くのに時間はかからなかった。他に情報はなかったが、男の頭の中ではすでに予測は終わっていた。このメモ書きが自分に何を伝えにきたのかは明らかだった。同級生の名前と進学先、就職先が書いてあるのだ。それ以外の目的はない。男は紙を両手でくしゃくしゃに丸めて、窓の外に捨てた。桜の花びらは男の尻に敷かれていたらしく、ベッドの上で破れてしまっていた。襲われて落ちた蝶の羽のようだった。男は昔買っていた猫のことをおもい出していた。同時にその猫が死んだときのこともおもい出した。男はこみ上げてくる気持ちを抑えて、毛布にくるまり深い眠りに落ちていった。

 季節が変わった。男の夏は昼夜逆転している。気温の高い昼間に眠り、涼しい風が入り込む夕方あたりから活動を始めるのだ。理由は不明だが夏にはそういう暮らし向きになる。そうして男は春が終わったのを知る。

 夏といえば絵になる青空と入道雲が見ものなのだが、男の部屋からは何も見えない。景色にはただ灰色の壁があるのみである。そもそも男が起きた頃には必ず明星が瞬き始める。青い空など見えるはずがない。男は月の光の中で、思い出をあれこれ散らかしてはその時々の情動に任せて動く。怒りに似た力が背骨を下から上へと込み上げ突き抜けて、腹のあたりを無性に沸かし、男を動かすのだ。例えばベッドの上で飛び跳ねる、壁をやたらと殴る、はばかることなく叫ぶと言った行動をとらせる。夏の男がこのような醜態を演じているのは、男に過去があるゆえである。男のまぶたの裏にはちゃんとあの夏というものが存在している。これが男にとって最大の不幸だった。この過去の記憶ゆえ、現状の無為な様が際立ってしまうのだ。忘却こそ、今男が命にかえても手に入れたいものだった。思い出など作らなければよかった。夏が嫌いであればよかった。頭の中にいる潔白な少年に何を言っても無駄であった。もう男には忘れる他に手段はない。狂った長い夏が過ぎていく。皮肉なことに、忌々しい夏の暑さのことは忘れていた。日中寝ているのだから当然である。汗疹や虫刺されで痒いとおもうことはあった。その痒みも治り、蚊の羽音が聞こえなくなった頃には、急に空気が冷え込み始めた。

 二、三日で男は再び昼夜逆転して、今度は人間本来の生活リズムを取り戻した。久々の朝は冷たい風といつもよりも白い太陽光が気持ちよかった。男が部屋全体を一瞥すると、扉の下に、十枚はあるだろうか、紙がさしこまれていた。月明かりではよく見えなかったのだろう。今の今まで全く気づいていなかった。

 男は考えなしに一枚だけ抜き取ってみた。絵葉書だった。男にあてられた短い言葉を読み終え、それから全てまとめて破いてしまった。おさまっていた癇癪が戻ってしまったようだが、それは紙を細切れにしたことで解消されたのか、男は紙吹雪をつくって遊び始めた。元が絵はがきだから、意外と鮮やかな紙吹雪になった。緑と白が目立つ中、たまに赤や青など花をおもわせる色が舞い散る。そして男は静まった。男は部屋の隅に紙片を集め終えると、ベッドに横になった。光はまだ白く、陰陽をはっきりとわけていた。顔の左側に光を感じる。眩しいが悪い気はしなかった。部屋の中で唯一の暖かみを感じていると、眠気がぶり返してきて、男は逆らわず眠ってしまった。

 数日後に男は風邪をひいた。寒いのに体が燃えるように熱い。夏に戻ってしまったのかとおもった。しかし狂乱の夏は男の記憶にはない。それでもやはり暑いと言えば夏なのだ。記憶にしかないものなのに、どうしてこうも鮮明におもい描いてしまうのか。意識を記憶が支配する。現実を意識が侵食する。いや、意識があって初めて現実があるのならば、初めから現実なんてものは歪んでいるのか。しかし現実の中で男の意識が形成されているのだから、相互に干渉しあっているということだ。しかし本当はどちらが主体なのだろう。現実が先か、意識が先か。男はさらに熱を出した。寒い。もう熱さよりも寒さが勝っていた。体は熱く、しかし寒い。男は矛盾を抱えたまま毛布にくるまって体力を回復させるしかなかった。そうしてまた時間が過ぎていった。

 男の体調は一向に回復しなかった。環境が悪いのだから仕方ないといえばそうだ。しかしここで一つ言っておかなければならないのは、全て男の自業自得だということだ。男はいつだって外に出られたし、栄養価のある食料も、良い寝床だって手に入れることはできたのだ。それももう遅い話だが。まず足の小指から霜焼けになった。右足、左足、両手と進行し、確実に蝕んでいった。初めは痒みに苛立っていた男も、凍傷になっているのだと気づいた時には、背筋も心も凍っていた。男の体は、もう動かなくなっていた。

 男は最後に夢を見た。壁が崩れ、外から舞い込んできた蝶に誘われるがまま、部屋を置き去りにして旅立つ夢だった。

 男の死体が見つかるのは、雪が全て溶けた後である。

 

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