Ending


教師になろうと思ったのはいつだったっけ。

ステータスでもなく、給与でもなく、子供が好きなわけでもなく、たった一つ、やりたいことがあったからこの職業を選んだ。


真面目な勤務態度と、愛想が良いおかげで、この数年でクラスを受け持つようになれた。割と早い方らしい。

新しい学年のクラスになる度に、必ず出す宿題がある。

『あなたの名前の由来は何ですか? お家の人に聞いてみよう』

この宿題は好評だった。親も喜ぶし、子供も喜んで宿題をしてくる。発表する時はまた一層、嬉しそうに、誇らしげなところが可愛らしい。PTAでは子供に母子手帳を見せたり、当時の事を話して親子の仲が深まったという話も聞いた。生まれた時のビデオをずっと一緒に見ていて、他の宿題に手を付けられなかったと謝る文章を連絡帳に書く母親もいた。

キラキラネームだとかで、本当に色んな名前の子がいる。単純に意味が気になる名前もあれば、どの世代にもいる時代にとらわれない名前もある。またそれぞれの親がどんな雰囲気の人なのか、人の家庭を覗き見て楽しむようなつもりはないが、その宿題で全てわかるような気がした。

この宿題を出すと「先生の名前は〜?」と聞いてくる子が一人は必ずいる。みんなの前で言ったり、あとでこっそり聞いてきたり、連絡帳の日記欄に書いてくる子。そういう子には決まってこう答える。「母の憧れの女優さんと同じ名前なんだよ」

あの時の記憶がここまで人生を左右するとは思わなかった。


コンプレックスを背負って生きていくなんて真っ平なのに、私はこの悪趣味をする為に教師になり、今も続けている。

橋本美咲、あの子のあの目は忘れない。そしてあの子が軽い思いつきで紙に書いた数字。

「急いで回そうと思って閃いちゃった。美代子って、画数多いけど数字で書くと楽だわ」

それから私は数字で表されるようになった。もちろん彼女たちに悪気があるわけじゃないのはわかっていた。戯れなのはわかっている。

しかし、私にとっては屈辱だった。中学の友達には絶対に知られてはいけない。

どのグループにも気兼ねなく入っていける美咲の言葉には何となく影響力があったし、クラス内にはすぐ広まった。

美咲の、澄ました顔で私を小馬鹿にするあの目は、この先忘れる事はないだろう。

クラスの男子でも『345』と見れば、私の事だとわかってしまう。だから、恋愛もすることなく私の青春は終わった。家に帰ると、いつも入れ違いで姉が楽しそうに外出をする。羨ましかった。

そして、姉の部屋に飾ってあるバンドの写真。私も姉のように学生生活を楽しみたかった。姉のように恋をして、ラジオに思いを込めた曲をリクエストしたり、青春を謳歌したかった。

一度だけ、あの人とちゃんと話したことがある。学校の帰り道、家の近くで姉と話しているところに遭遇した。

「佳子ちゃん元気にしてますか? たまに連絡はとるけど」

と、挨拶がてらについ聞いてしまった。

「あぁ、知らん。適当に遊んでるんじゃない? 家で話さないから全然わかんないわ」

と興味なさそうに話す。少し安心した。きっと今日会ったことも話さないだろう。

「なんか伝言ある?」と聞かれたがすぐに「あぁ、別に携帯とかあるしいいか」と姉との話に戻る。

その後すぐに姉が駅前のCDショップに行くと言って、私たちは別れた。閉店間際だと走る後ろ姿を眺めながら、あぁわざとだな、と思う。少しでも一緒に話していたくて通り過ぎたのだろうという乙女心に気付いてしまう。

そんなことを考えながら数メートル進んだ時だった。

「ってかさ、佳子も445だから、気にすんな」

体が固まった。彼は、構わずに続ける。

「俺も10、4、ひ? 5……まぁ、そんな感じだし。佳子と百番違いで良いじゃん」

振り返ると、笑顔だった。本気で笑っているわけでもなく、バカにしているわけでもなく、とても軽い笑顔だった。この人の本気で笑う顔が見てみたいと少し思った。なんとなくだけど、姉が好きになる理由がわかった気がした。

その時姉が買いに走ったアルバムは、こっそりコピーして今も聴いている。


私は今とても充実している。

毎日が楽しい。

たまに消えてなくなりたい日もあるけど、今はとりあえず好きに生きている。

音楽なんて、カラオケで歌える流行りの可愛い曲しか自分では買わないけれど、姉がたまに口ずさんでいるのを聴くと思う。

姉の音楽センスはなかなか良い。



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nombre 緒方溪都 @yani82

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