空蝉
草森ゆき
からのせみ
家の付近にひとつだけ神社があり、夏休み中その場は近辺の子供の遊び場になる。自分も例に漏れず、朝のラジオ体操を済ませた直後、神社に駆け出し鬼ごっこやかくれんぼなどに興じた。同じ小学校に通う見慣れた子供たちだが、学年はばらついている。普段は教室や階層、上級生下級生という区分により交わることのない面々だ。それが夏場は崩れ去った。
二時間ほども遊べば、一人また一人と数は減っていき、自然と解散の形になる。気付けば一人きりになっていた。両親は共働きで祖父母はいない核家族であったため、帰ろうが一人、残留しようが一人だった。
境内は深い緑に囲まれており影が多い。涼を求めてすばやく木陰に入り、不規則に揺れ動く木漏れ日を見つめながら汗を拭う。根元に腰を下ろして膝を抱く。汗でぬるりと滑って、不快感を感じる暇もなく新しい汗が噴出してゆく。
黙っていると蝉の声が響き始めた。
先ずは一匹、確かめるような慎重さで唸り出す。それから二匹目と三匹目がコーラスを始めた。子供がいれば蝉は逃げる、或いは黙り込んで幹にじっとしがみついている。
擬態、という言葉を理科の時間に習った。虫や動物の中には、体の色を変えて身を守ったり、初めから自然に溶け込める見た目であったりするらしい。長い時間をかけてそこに到達するのだと、影で虫頭と呼ばれている理科教師は熱弁した。
蝉の鳴き声は合唱になっていた。ジーーーーと鳴くのはアブラゼミ、こいつは茶色で、木の色に同化している。子供がいるときは気配も出さず、自然の中に紛れ込む。
耳鳴りのような叫び声を聞いていると、視界の中にふと新しい影が差した。顔を上げ、目の前に立っていた同級生と視線を合わせる。
「よう、また一人か」
「そっちもやろ」
彼は朝のラジオ体操にも来ず、学校内でも浮いている。関東から引っ越してきたのは去年の冬頃だったが、一切馴染む気配を見せない。そして馴染まない雰囲気は、彼が持つ端正な横顔によく似合う。遠巻きにされているのは容姿が一因でもあった。加えて、一人だけ関西訛りではなかった。話せば一瞬で浮く彼に奇異の目が向けられるのは仕方のないことでもある、と、小学生の頃は思った。
一匹狼の浮き続ける転校生。彼が誰かとつるむことはない。
しかし夏場において我々の利害は一致していた。
二人とも両親が家におらず、暇の潰し方を探していたのだ。
「おい来てみろって、鳥居の足元に蟻の巣が出来てる」
「蟻くらい、何処にでもおるんやけど」
「蟻の巣ってのは掴んで引きずり出せないのかな、どんな形だと思う?」
「今度図鑑貸すわ」
「ありがとう、遠慮するよ」
彼は飲んでいたサイダーを下ろし、飲み口を地面へ向けてゆっくりと傾ける。透明な液体が蟻の巣へと零れ落ちて、その周辺に細かな泡を立たせた。
蟻が数匹驚いたように飛び出てくると、彼は面白くて仕方がない、と言いたげな笑い声を上げた。突き抜けるような青空と真っ白な雲を背にしながら笑う、笑う。その顔の腑に落ち方は異常だった。繊細で鮮やかな絵画が処刑の場面を描いているようなものだった。
蟻は何匹か、サイダーの海に溺れて死んだ。その頃に彼はもう蟻にも巣にも興味を失っており、あっちに行こうぜと言いながら、田んぼの連なる方面へ足を向ける最中だった。
彼との時間はいつも残酷だった。蟻の巣をはじめとし、イナゴを見つければライターで炙り、トンボを捕まえればカマキリに食わせ、そのカマキリは飽きたと言って餓死させる。彼はいつも持て余していた。夏場の間に知ったが、両親の不在は何も夏の話だけではないらしい。母親も父親も仕事が生き甲斐という人種で、彼は常日頃一人なのだという。
整っている横顔は家の話をする時だけは寂しげだった。だから残酷性に目を瞑って、共に過ごすことにしたのかもしれない。
「蝉が落ちてるな」
夏休みも終わりかけの頃、神社の境内はあらゆるところに蝉の死骸が転がっていた。彼は特別興味もなさそうにしていたが、偶々足元にあった死骸を蹴飛ばすのは暇潰しになったらしく、一匹ずつを入念に蹴り始めた。
蝉の声は何処かから聞こえ続けている。やめろと言っているように聞こえてきて、思わず見上げると大樹の幹に止まる一匹に目が留まった。蝉、と考えた直後に、違う、と思い出す。あれは蝉の抜け殻だった。真夜中に地中から這い出して、ゆっくりと孵化したあとの、名残だった。
抜け殻を取ろうと腕を伸ばした瞬間、彼の笑い声が響き渡った。
「なんやねん、どうしたん?」
振り返って問い掛けると、彼が死骸のひとつを摘み上げている場面が目に入った。
「うわ、なにしとるんや!」
「いやこいつさ、生きてたんだ」
生きてた、と鸚鵡返しをしながら近付いた。彼は左の掌に蝉を乗せる。ありえないほど丁寧な手付きで、羽をきちんと表にしながら。
「蹴ろうとした瞬間、鳴きながらぐるぐる回ったんだ。ひさしぶりに本気で驚いた、記念に持って帰るよ」
「飼うんか?」
「ああ、死ぬまではね」
彼はふと気付いたようにこちらの手元を覗き込む。
「そっちは抜け殻? いいんじゃないの、おまえは、そういうので」
「は? そういうのって、どういうのや」
「そういうのだよ。それって薬かなんかになるんだろ、親父が言ってた。おれはよくしらねえけど」
そうなのかと驚きつつ、自分の掌に抜け殻を乗せる。前足の先が尖っていて、僅かに皮膚へと食い込んだ。この中に蝉が入っていたのかと思えば奇妙な心地だった。
空っぽだ。裂けた背中から覗いても、中にはまるでなにもない。
「帰るけど、お前は?」
問い掛けられて首を振った。抜け殻は探せばたくさんあるように思えたからだ。薬になると聞けば、価値のようなものを見出して興味が湧いた。木の幹をくまなく調べる単調な作業は、一人遊びとしても良さそうだった。
彼はわかったと言い、また明日と付け加えた。明日の約束をされたのは初めてで驚いたが、左掌の蝉を見下ろす目つきに対する驚きはその比ではなかった。友人、それも親密な相手でも見るような双眸だった。
鬱屈した故の残忍さが少しは取り払われるのではないかと思った。彼の中で生きていた蝉がどのような変化を齎し、あの目をさせたのか定かではなかったが、いい方向に行く気がした。彼は恐らく空ろだった。周囲から浮き、両親は家におらず、抜け殻のような日々を過ごしていたのだろう。
生きていた蝉は彼が見つけた生々しいまでの命だったのかもしれない、そんなことを考えながら一時間ほど蝉の抜け殻を集め続けた。青かった空が橙色へ緩やかに変色し、鳴き声がカナカナカナ、とヒグラシのものに切り替わる。夏の終わりかけは、この時間帯になればほんの微かに涼しい。連なる山の頂上で卵黄のような太陽が溶けていた。
シャツの裾を延ばして抜け殻を生地の上にすべて乗せた。こぼさないように注意を払いながら家まで歩く。神社から離れて自宅に近付くに連れ、ざわざわと音が聞こえてきた。人の話し声だったが、どこか蝉時雨に似ていた。生活用水の流れる小さな川に行き当たると、そこがざわめきの中心だった。話し込む住人達はひとつの意思をもった集合体のように見えた。
その中の一人がふっと振り向いた。見知った顔だ、近所に住む四十代くらいの主婦だった。それを皮切りに一人ずつ振り向いていって視界が開ける。やがては隠れて見えなかった川の様子が露になった。底には神社でわかれた彼が沈んでいた。
あと少しで飛び込むところだったが、ぎりぎりで大人に捕まった。シャツから手を離した拍子にばらばらと抜け殻が散る。それは川の水に浸されている彼の上へと降り落ちたあと、流れに逆らわず消えていった。
川に柵が設けられていないせいだ。彼が遠巻きにされていたのは子供にだけではなかったのか。いつまで冷たい水の中に。どうして共に帰らなかったのか。なぜみんな引き上げないのか。様々なことを思い浮かべたが自明だった。彼は岩に引っ掛かる形で留まっており、飛び込むと水面が揺れて流されかねない。それに、抱きかかえたところで岸へ戻る術がない。警察と救急車が来るのを待っていると、腕を掴んでいる大人に説明をされた。彼がいつから、どうして沈んでいるのかは、誰も知らないそうだった。
そう時間が経たないうちに警察は到着し、彼は岸へと引き上げられた。どうしても確かめたくて、押さえようとしてくる大人をかわして傍に寄り、握り込まれている右手をさっととった。酷く冷たく、彼がこの世のものではないと温度が何より雄弁に語り掛けて来た。
すぐに警察に捕まって引き離される。叱られたあと、仕事帰りで鉢合わせたらしい母親が飛んできて、何度も頭を下げてから彼を一瞥した。しかしすぐにそらして、遠ざけるようにしながら歩き始めた。
彼とよく遊んでいることを両親は知っていた。それ故の配慮だったのだろう。しかし子供の目には冷たく映った。彼の遺体の傍にいてもいい人間は自分だけのような気がしていたのだ。子供故の傲慢さと素直さで。
彼が死んだことは夏休み明けの全校集会で説明がなされた。ショックを受ける人間は殆どいなかったように思う。
自分も含めてだったが、他の生徒とは少し意味合いが違った。しかし誰にも話さないまま日々を過ごし、小学校を卒業して、中学高校と進んだ。田舎を出て大学生になり、ビルが木々のように生え揃う都会で社会人になった。関西弁は強く聞こえると上司に叱られ、標準語を話すようになり、昔はまったく気にしていなかった見た目も浮かない程度には整えた。
都会の夏は木陰がなくて蒸し暑い。終電後の駅から這い出て住んでいるアパートを目指していると、都会の中でも偶に虫の声がする。
ああ、と思いながら辺りを見回す。ジージーと蝉が鳴いていた。電柱、ブロック塀、背の高い金網と視線を巡らせながら歩いて、やがて地面に転がる一匹の蝉を見つけ出す。膝を折って人差し指を差し出すと、六本の足が緩慢な速度で絡みついてきた。その瞬間、子供時代が当たり一帯にぶわりと広がった。
川から引き上げられた彼の右手には蝉がいた。でも別れ際は左手に持っていたはずだった。これは妄想に近い願望だったが、ともすると彼は、落ちかけた蝉を助けようと利き手の右手を伸ばし、掴んだと同時に落ちてしまったのではないだろうか。何度も何度もそう考えた。そうでなければなにもかもが救われなかった。
指に捕まった蝉をそっと持ち上げて掌に乗せ、アパートに向かってゆっくり歩いた。温い夜風は気持ちが悪いが、昔に馳せるには充分すぎた。
故郷を離れ、関西訛りを捨て去り、一人ぼっちで暮らし続けて。大人になってからの日々は自分を殺す擬態の連続で、時折どう生きてきたのか忘れそうになる。
その時は必ず蝉の声を思い出した。酷薄で孤独だった彼の、腑に落ちるくらいに綺麗だった笑顔と、川に浸された温度のない美しさを思った。
人間は何処かしら残酷で、なにかになりきりながら演じ続けて、磨り減り磨り減り生きるしかないのだろう。
蝉を連れて帰路を歩いた。多分あの子に惹かれてたんやなあ。思いのまま呟けば、掌の中でジジジ、と声がした。けれど私のヒールの音に紛れてすぐ消えた。
空蝉 草森ゆき @kusakuitai
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