本編 あの人はお隣さん ~追い越し顎の怪~

 

 近代でも例をみないほどの大寒波が襲来。

 あまり積もらないといわれる沿岸や平野、都市部も雪の被害を受けた。

 積雪による停電、交通機関の停止。

 都市機能は麻痺し、人々の生活にも多大な影響を及ぼした。


 そんな大寒波の猛威から数日が過ぎ、天候も都市機能も落ち着きを取り戻していた。

 溶け残った雪に、行き交う人々や散歩するペットたちが踏みしめたあしあとがいくつも残る。

 そこには確かな日常があった。

 

 シャーベット状になった雪に足跡を重ねながら、夜道をゆく人影ひとつ。

 地味な雰囲気をまとった妙齢の女性である。

 洒落っ気のない髪型に飾りのない化粧、おまけに眼鏡と、言っては何だがルックスの方も地味目だ。

 派手さのない装いだが、隠しきれずに豊満さを主張する肉体。

 そんなけしからん身体の持ち主が家路を進んでいた。

 夜とは言ってもそれほど遅くはなく、辺りの家々からは生活を営んでいる気配もする。

 LED街灯が道を明るく照らしていて、ひとりだがひとりではないといった安心感があった。

 ペシャペシャと音を立てる足元が、歩みを進めるよいリズムを作り出している。

 女――天海あまみあきら――は、数日前の大雪による混乱を思い返しながらも、軽やかに足を運ぶ。

 大雪当日の夜に、隣の市では何人かの未帰宅者が出たという。

 いまだに消息は不明だと聞いた。

 血痕を残して行方知れずになった人もいるとも。 

 不穏なニュースが気になるが、何事もなく帰れそうだ。

 少し先の角を曲がれば、自宅である賃貸マンションが見える。

 ホッと気が抜けたとき、それは聞こえた。


 後ろから、ペシャペシャと、溶け残った雪を踏む音。


 最寄り駅からの道中、何人もいた帰宅者は途中のコンビニを越えたあたりからまばらになり、この道を進んでいたのは自分だけのはず。

 突然降ってわいたような足音の存在。

 背中に走ったぞわっとした感じに、忘れていたを思い出しそうになる。

 

 ――そう、以前こんな風に帰り道を急いでいた時、とても怖い思いをしたような……。


 濡れた足音がやけに耳に入る。

 周りの家屋からの生活音が聞こえてこない。

 辺りの景色が色彩を失って見えてくる。

 寒気と自分の呼気の温度差で曇る、眼鏡のせいではないだろう。 

 怯えをこらえつつ、肩越しに背後へとそっと視線を向けるあきら。

 後ろに、人影はなかった。

 が、シャーベット状の残雪を踏む濡れ音は聞こえる。

 はつかないのに、音とともに水が跳ねる。

 見えない。けれどが居るのだ。

 後ろから、ゆっくりと追いかけて来ている。

 あきらの全身を恐怖が包み込んだ。

 早くここから離れなきゃ。

 気持ちは逸るのに、足が、足が動いてくれない。

 歩みが止まった。

 ペシャペシャと濡れ音が近づいてくる。

 身体がこわばり、ガチガチと歯が鳴る。

 タイツに包まれた脚の内側を、生温かいものが濡らしてゆく。   

 見えないけれどそこに居る何かがたてる足音が、すぐ後ろに迫ってきたその時。


「天海さーん、こんばんはー。今お帰りですか~?」


 場にそぐわぬ、軽い声が。

 前方の曲がり角から、ひょこっと出てきた声の主は中年の男。

 黒の短髪天然パーマでもみあげは長め。薄い眉に唇、切れ長の三白眼。

 強面こわもてだけど、腰が低くて、笑顔が優しい。

 あきらが、よく見知った顔。

 マンションの隣人、漫画家の財津原ざいつはらだ。

 財津原の顔を認めた途端、耳へと雑多な音が飛び込んでくる。

 失われていた世界の色彩も、いつの間にか戻っていた。

 全身のこわばりが抜け、膝から崩れそうになり、あきらは自然に足を前に出す。

 足が動かせることに気づき、そのまま近づいて来る財津原との距離を縮める。

「いや~、予定より早く原稿が上がりましてね、軽く祝杯をあげようって思ったら冷蔵庫に何もなくて。それで買い出しですよ~」

 ひと仕事終えた解放感からなのだろうか、妙にテンション高く話しかけてくる財津原。

 恐怖に捕らわれていたあきらには、その明るさがありがたい。

 こわばりの残る顔で、何とか笑みを浮かべる。

「――ン? 天海さん、顔青いですよ。寒い中歩いてきたからかな~?」

 挨拶を返そうとすれどまだ喉がひり付き、うまく声を出せないでいたあきらの顔をうかがうようにして財津原が、

「あー、呼び止めちゃってごめんなさい。ささっ、早く帰って、暖まってください」

 悪いことしちゃったという顔をして、言葉を続ける。

 それから、バタバタとあきらの後ろに回り肩に手をかけると、ぐいぐいと押し出していく。

 不思議なくらいに軽く足が出て、促されるままにを進めるあきら。

 財津原の手が離れた感触に少しだけ足を止め、振り向き加減で礼を返す。

 笑顔の財津原を見届けてから再び歩き出し、角を曲がり自宅である賃貸マンションの前へ。

 非日常な世界から戻ったことを確信し、ようやく緊張から解放されるあきら。

 張りつめていたものが解け、脚の内側の冷たさに粗相をしていたことを思い出す。

 財津原に悟られたりしていなかっただろうかと、惑う。

 途端、羞恥で顔が熱くなり、眼鏡が曇った。

 特別な感情は無い……はず。

 醜態を見られていたかも知れないことが、恥ずかしいだけ。

 ひと回りも年上の相手に、そんな。

 ――でも、少し、ホンの少しだけ……。

 のぼせかけている頭を軽く振り、両手のひらでほほを挟んではたく。

 気を取り直してマンションのエントランスに入る。

 エレベーターを待ちながら、思う。

 "あとでちゃんとお礼を言おう"

 なんと言うべきかはわからない。

 けれど、なんとなくだが、財津原はわかってくれる。

 そんな気がする、あきらだった。


 "すぐ近所でやばい気配がしたんで出てきたが、大正解だったね"

 天海あきらが角を曲がり、姿を消したのを確かめて、財津原は振り返り声を上げる。

「――悪いが、後は追わせないし、追い越させもしない」

 前方にいるだろうに対して、言葉を突き付ける。

「どうしてもというなら、俺を乗り越えてからにしてもらおうか?」

 宣言を終えた瞬間、何の変哲もない路地から色彩が無くなり、音が途絶えた。

「諦める気は無いってか? ――いいだろう」

 不敵に笑う顔に、先ほどまでの調子の軽さは見えない。

 無造作に歩き出す財津原。

 歩きながら右腕を突き出して空間に文字を書くように指先を動かし、低くつぶやく。


鬼身変化きしんへんげ」  


 色の無い世界を電光が照らし出し、財津原の身体を包み込む。

 目映い光が収まった後、そこに立つは深い緑色をした "鬼"。

雷光鬼らいこうき蔵王丸ざおうまる、推参」

 額に鉢金はちがねを付けた帷子かたぴらの頭巾を被り、頭頂部から額へのスリットから鈍い銀色をした一角が突き出ている。

 顔は面のようであり、目や鼻、口は見えないが隈取の紋様がそれらを表すかのように描かれていた。

 引き締まった筋肉質の体躯、体色に近いくすんだ緑色をした革の胸当てや肩当て、手甲に脚絆。

 猛々しくも凛とした、戦う者の姿がそこにあった。

 現れたのは鬼だけではない。

 何もいなかったはずの空間に浮かぶ、形容しがたき存在。

 あえて例えれば、肉塊のみで出来た二枚貝といったところか。

 その殻の大きさは、ゆうに二畳ほど。

 結合部からは肉片で編み上げた縄上のものが垂れ下がり、二股のそれは足のようにも見える。

 地面には届いていないが、透明な台の上にでも立っているようだった。

 対峙するふたつの異形。

「――確か "追い越しあぎと" だったか?」

 気負いなく間合いを詰めながら蔵王丸。

長老じーさん連中から話だけは聞いたことはあったが、遭うのは初めてだな」

 奇怪な存在――追い越し顎――を見据えながら記憶を手繰る蔵王丸。


 "べとべとさん" の亜種とも言われるが、実質は全くの別物。

 夜道を行く人間の後を足音を立てて付け回し、散々怖がらせてから、前に回って大きな口を開いて驚かす。

 その際に人から湧き出る、恐怖や怯えといったものを糧にする。

 追いまわし、追い越し、あごを開く。ゆえに "追い越し顎"

 驚かすだけのさして害のない存在だったが、人が死に際に放つ特別なを覚え、に捕食するように変化へんか

 本能だけの存在ゆえ、意思の疎通は不可能。

 

 "――ったく、肉の味なんかわかりゃしないくせに人を喰らうか。あ~嫌だ嫌だ"

 概要を思い出し、胸の内で毒つく蔵王丸。

 話し合いが叶わないのならば、害ある存在として討ち果たすまで。

 蔵王丸がパチパチと火花を上げるこぶしを構え、一撃を加えんと正面から踏み込む。

 同じタイミングで追い越し顎の口が開き、ぬめった粘膜の壁を見せつけたかと思うと瞬時に閉じられる。

 瞬間、なにかを感じて横っ飛びする蔵王丸。

 驚くべきことに、蔵王丸のいた空間が抉り取られていた。

 追い越し顎の口は、のだ。

「おっかねぇ~」

 驚きはあるが恐れのない軽い口調で蔵王丸。

 "なるほど。歯もない口に噛みつかれて、肉が断ち切られる理由はこれか"

 追い越し顎の犠牲者の遺体が、恐ろしく鋭利に切り裂かれていた事例を思い返す。

 確かに脅威だが、

「なんとかできない訳でもない」

 手はあると言い切る、緑の鬼。

 だが、蔵王丸が動き出すより早く、追い越し顎が口を開く。

「おおっと」

 空間捕食の射線から飛びのく蔵王丸。

 いかなる感覚器官を有するのか?

 尋常ではない速度で回避行動をとる蔵王丸を、的確に追尾する追い越し顎。

「――ふぅ。思ったより厄介だね、こりゃ」

 度重なる空間斬撃に、さしもの蔵王丸も音を上げる。

 肉体そのものは無事だが、防具の一部は損傷していた。

「出ていこうにも出れないしなぁ……」

 食い散らかされた空間だが、もとよりここは追い越し顎の捕獲結界。

 削り取られたところは、新しい空間で埋められていく。

 空間の穴から抜け出すこともできない。

 この追いかけっこ、不利なのは蔵王丸。

 それをわかっているのか、じりじりと追いつめてくる追い越し顎。

 感情があるのならば、楽しんでいるといったところか。 

「けど、遊びはここまでだ」

 低いトーンでそう言い捨て、蔵王丸はゆらりと追い越し顎の前に立つ。

 諦めたと見たか、口を開く追い越し顎。

 同時に蔵王丸が神速の踏み込みで互いの間合いを無くす。

 低い体勢で、宙に浮く追い越し顎の下へと飛び込み、

「ハァッ!」

 裂帛の気合とともに、こぶしを突き上げ、下あごを打ち抜いた。

 全身のバネを使ったアッパーカット!

 強制的に口を閉じさせられる追い越し顎。

「まーだまだぁっ」

 生じた好機を逃さず、畳みかける蔵王丸。

 打ち上げられたことで、正面にさらされた下あごに、

雷光拳らいこうけん雷迅撃破らいじんげきはぁ、二連っ!」

 雷をまとったこぶしのワンツー・パンチ!

 叩き込まれた電撃が体内へと飛び込み、追い越し顎の肉を内側からく。

 打撃によって吹っ飛ぶ追い越し顎。

 閉じられた口の隙間から、淡い光とともに煙が洩れていた。

 バランスを取り戻し、改めて空間斬撃を喰らわせんと蔵王丸へと口を向ける。が、

電躁術でんそうじゅつ地雷閃じらいせん!」

 それよりも早く、蔵王丸が拳を地面へと打ち付けた。

 拳から発せられた電撃が地表を走り、追い越し顎の真下で吹き上がる。

 大地からの昇雷に撃たれ、焼け焦げる追い越し顎。

 続けざまのダメージに宙空に留まれなくなったか、地に足もどきと顎を着ける。

「とどめと行こうか」

 蔵王丸が軽い助走から強靭な脚力で踏み切り、空中前方回転。

 そのまま二分の一捻り、右足を蹴りの形に突き出す。

電撃脚でんげききゃく雷電蹴倒らいでんしゅうとうっ!」

 すでに迎え撃つ力も残っていない追い越し顎へと、雷をまとった飛び蹴りが炸裂した。

 閃光に包まれ、消滅する追い越し顎。

 蹴り抜いた態勢からゆっくりと立ち上がり、振り返って追い越し顎の最期を確認し、

「滅っ!」

 見得を切る蔵王丸。

 知れずに多くの犠牲を出していた、見えないあしあと "追い越し顎" の脅威はここに去った。


 怪異が倒されてから数日後の夜。

 辛子色のスウェットの上下にまだら模様の半纏はんてんを着込んだ中年男・財津原が、膨らんだエコバッグ片手に自宅である賃貸マンションでエレベーター待ちをしていると、

「財津原さん、こんばんは」

 後ろから、控えめだか柔らかい声がかけられた。

 財津原が振り返ると、仕事帰りの隣人・天海あきらが。

「天海さん、こんばんは。今、お帰りですか」

 軽く会釈をして言葉を返す財津原。声のトーンは軽い。

 同じように軽く会釈するあきらだったが、どこか落ち着きがない。

 暖房の効いているマンションロビーだが、あきらの顔は赤いままだ。

 そわそわと体を揺らすあきらに、財津原も怪訝な顔を向ける。

「……天海、さん?」

 不審な動きをするあきらに対して、財津原が口を開くと、

「あ、あの!」

 それを制するようにあきらが声を上げた。

 隣人の発した珍しい大きな声に、言葉をつづけられなかった財津原へと、

「あ、明日のにょる、にゃ、にゃにかご予定とかはありまするか?」

 盛大に噛みまくったあきらの問いかけ。

「……あー、いや。原稿も上がったので、特に予定とかは」

 あきらの圧に、たじろぎながらも答える財津原。

 その返事に、

「で、でしたりゃ、わ、わらしの部屋で、ば、晩御飯はいかがれしょうか?」

 再び噛みまくりながら伝えるあきら。

 突然のお誘いに、財津原の目が点になる。

「あ、あの、これまで、何かとお世話になってますし、そのお礼と言うかなんと言うか……」

 直前までの勢いはどこへ行ったか、下を向き、指を組んでもじもじさせながら、あきらが言う。

 少しずつ小さくなっていった声は、言い終わる際は聞き取れないほどに。

 そんなあきらを見て、財津原は笑顔を浮かべる。

 いっぱいいっぱいの彼女の態度に好ましいものを感じていた。

「――ご相伴にあずかります」

 頭を下げ、いつになく優しい声音で答える財津原。

 その言葉に顔を上げるあきら。

 隠しきれない嬉しさが表情に溢れている。

「あ、あの、それじゃあ、明日の夜、六時に、うちで」

 赤く染まったほほのまま、約束を交わすあきら。

「はい。伺わせて、いただきます」

 財津原も目を細めてそれに応える。

 あきらの顔が咲き誇る花のように輝いた。

 いいタイミングで到着したエレベーターのドアが開く。

 同じ階のふたりはそろって乗り込む。

 明らかに上機嫌なあきらに、財津原の顔も緩む。

 目的の階につき、角部屋の財津原が先に立ち通路を進む。

 互いの部屋の前にたどり着き、解錠してドアを開ける。

「じゃあ、明日。お呼ばれします」

 部屋に入り込む前に、あきらへと呼びかける財津原。

 満面の笑顔で頷くあきら。

 財津原がドアを閉めようとする寸前、

「あ、財津原さんっ」 

 声をかけるあきら。

 閉じかけていたドアの陰から顔を出す財津原へ、

「あの、メリー、クリスマス、です」

 恥ずかしそうにそう告げる。

 その言葉を聞いて、今日が師走の何日かを思い出した財津原は、

「メリークリスマス。良い夢を」

 笑顔のまま甘い低音で答え、静かにドアを閉じる。


 プレゼントをもらった子供のように、嬉し気にあきらは笑った。

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白い闇・緑の雷 ~鬼さんこちら弐~ シンカー・ワン @sinker

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