4

 降水確率100%。連日振り続ける雨が都合良く降り止むわけもなく、夏祭り当日は予報通りに土砂降りだった。


「やっぱり中止かぁ」


 緑色の折り畳み傘を握りしめ、翔太は残念そうに呟く。大粒の雨は2人の傘を叩き、地面に垂れて飛び散っていく。


 時刻は17時。太陽も月も分厚い雨雲に覆われて、町は生温い空気に沈んでいる。


「見てみないとわからない」と電話で呼び出され、真由子は翔太の後ろを着いて小高い山を上った。結局、神社の境内に続く石畳に屋台の姿はひとつも無く、人の気配もない。


 2匹の狛犬は前足を濡らし、鼻先から雫を垂らしている。灯りのない境内は暗く不気味だった。


 真由子は傘を持つ手を左に変え、汗ばんだ右手をジーンズで吹く。咄嗟に持って出てきたビニール傘はどうやら古かったようで、骨の根元あたりが赤く錆びていた。


「あーあ」


 翔太は拗ねた子供のように地面を蹴る。泥水が真由子の足元に跳ねた。


「まあ、晴れたとしても、永瀬は来なかったもんな。……誰かさんのせいで」


 やり場のない翔太の苛立ちは、結局奏美を誘えなかった真由子に向かう。高校生とは思えない幼稚な嫌味が、真由子の腹の辺りを抉った。


「……ごめん」


 マスクの中で小さく発された言葉は、雨に負けて消えた。


「あー、俺だって色々考えてたのに、台無しだな」


 一陣の冷たい風が、空気を割って通り過ぎた。揺れた木の葉から水滴が滑り落ち、嫌がらせのように2人の頭上へ落ちる。


 翔太はこれみよがしな溜息を吐く。真由子はそっとその横顔を見て、すぐに石畳に視線を戻した。



 綺麗じゃ、なかった。



 薄暗い道端で、翔太の顔はこれまでよりもずっと正確に見えた。加工のフィルターを外したように、現実的に。鼻の下の産毛や、赤く残ったニキビ跡。腫れぼったい二重の目と、分厚い唇の端についた唾液の白い泡。


 真由子がそれを凝視していると、丁度翔太の頬に蚊が止まった。翔太はすぐに気づき、忌々しそうに己の頬を強く叩いた。


「チッ」


 掌にへばりついた死骸を確認し、思い切り大きく鳴らされた舌打ちは、雨音を潜り抜けて真由子の鼓膜を震わせる。


 長い間見てきた、心地良い夢の終わり。


 何と謝れば翔太が機嫌を直すのか、ついさっきまで真由子は必死に考えていた。脳味噌を回して回して、擦り切れてしまったように、突然思考の回転が止まる。


 代わりに、心の中だけで呟いてきた泥のような言葉達が、とどめなく溢れた。


「……奏美は翔太の事なんて覚えてないよ」

「……はぁ?」


 翔太は怪訝な目をした。真由子は石畳に向かって吐き出す。


「小学校が一緒だったことも、気づかれてないと思うよ。奏美、視野狭いから。自分の興味がない人の顔なんて覚えないよ」

「……は? 何語ってんだよ」


 真由子の唇は、マスクの中で歪な弧を描いた。舌は回る。


 それを伴奏に、居ないはずの蜘蛛が皮膚の上で踊る。八本の足が畝り、体毛がざらりと唇を撫でる感触に、身が固まる。


 粘ついた唾液は、蜘蛛の糸のように伸びて、歯の裏へ貼りつく。


「分かるんだよ、仲良かったから。奏美は自分勝手だし、好き嫌い激しいし、馬鹿にされるとすぐに怒り狂うし、それに」

「おまえ、急になんなんだよ……?」


 怯えるような翔太の声が、真由子の言葉を遮った。


「なに……お前って、本当は永瀬のこと嫌いだったの? あんなに仲良かったのに? うわ、女子って怖」


 本気で怖がって、引いている声だった。真由子は笑みを取り消し、深呼吸をする。握った拳が小刻みに震えた。



「いじめから助けてもらったんじゃねぇの、お前」



 また、体を突き刺すような鋭い風が吹いた。地に張り付いていた葉は飛ばされ、樹木から振り落とされた水滴が2人の傘へ注がれる。


 真由子の手は冷えきって痺れ、遂にビニール傘から離れた。音もなく地面へ倒れた傘を見て翔太は何を思ったのか、追い打ちをかけるように鋭く真由子を睨みつけた。


「いじめ擦り付けて見捨てて、永瀬の方が可愛くなったら僻んでんのかよ」


 何もかもお門違いだった。ただ翔太は真剣な顔で、正義の裁きを執行するかのように、真由子の肩を強く押した。


 よろめいた真由子は後ろに倒れ、石畳に尻を打ち付ける。弾みでビニール傘は転がり、手の届かない場所まで離れた。


 真由子は翔太を見上げる。明らかに「やりすぎた」と狼狽している顔で、しかし手を差し伸べることはしなかった。


 翔太の緑色の傘にも赤い錆は付いていた。まるでクリスマスのようだと、真由子は思う。


「何とか言えよ」


 緑色の柄を強く握り、翔太は吐き捨てる。真由子は地面から手を離し、濡れて潰れた前髪を横に流した。指に着いていた砂利が額で擦れた。


「おい」


 答える気にはならなかった。見ないふりをしていた記憶が走馬灯のように脳を駆け巡り、それを確かめるので忙しかった。


 ——そうだ。確かに奏美は、いじめを辞めさせた。


 小学6年生の冬だった。いままで空気として扱われていた真由子は、理由もなくいじめの標的にされた。靴や筆箱が無くなるという、手本のような典型的な嫌がらせの数々。


 奏美はそれを、一瞬にして辞めさせた。——自分が標的になるという、あまりにも豪胆なやり方で。


 そして真由子は、奏美に行われるいじめを見過ごしてきた。中学で標的にされるのが怖いから、卒業式が終わったあとの写真さえ取らなかった。


 唇に季節外れの蝉を付けた女子と、ぎこちない笑顔でツーショットを撮った。



 瞼の裏で点滅する忘れられない光景。どうしたって取り除けないのに、躍起になって封じ込めていた記憶。


 あれは2月も終わる頃の、昼休みの教室。


 足を引っ掛けられて転んだ真由子を見て、「もう我慢できない」と蝉に立ち向かった奏美の後ろ姿。


 頬を叩く乾いた音が1つ響いて、群れをなしていた蝉達は走って教室を出ていった。


 恐る恐る奏美の方を見ると、振り返った奏美は真っ赤になった掌を握りしめて見せ、ほっとしたような、どこか自慢げな表情を——その顔は、標的になった翌日から徐々に薄れていくのだが——した。


 それは今の奏美とは程遠い、垢抜けない顔で、



 その日から、奏美の唇には何もついていない。










「おい、おい! なんなんだよ!」


 突然目を瞑って膝を抱え込んだ真由子に、動揺した翔太は大声で呼びかけ続けていた。


 暫く黙り込んだ後、真由子は電源を入れ直したように顔を上げた。


「なんなんだよ……」


 翔太は半分泣きかけていた。周囲をキョロキョロと見回し、人が居ないことをしきりに確認している。真由子に乱暴したことがバレるのを、過剰に恐れていた。


 真由子と目が合うと、翔太は怯えたように後ずさり、


「お、俺は悪くない! 同じクラスじゃなかったから、いじめだって助けられなかったけど、見捨てたわけじゃないし、それに俺、本当に永瀬のこと好きだし! 今なら何があっても守る!」


 好きだったら、何になるのだろうか。過去の事を謝らなくても、好きであれば許されるのだろうか?


 それならば、真由子が奏美に対して感じている罪悪感は、棄ててもいい物なのかもしれない。


 翔太はぶつぶつと言い訳を続けていた。声は掠れていて、よく聞き取れない。


 分厚い唇の間から、光るものが覗いた。翔太が言葉を吐き出すのに合わせて、舌と上顎の間から何かが這い出てくる。


 離れた2つの薄い翅と、銀色の腹。


 枯れ枝のような細い肢が翔太の赤い唇を掴み、頬を伝って上へと登っていく。


 真由子はそれを、じっと凝視していた。翔太の呂律は次第に回らなくなり、最後に振り絞った声で、叫んだ。


「くっそ……き、気持ちわりぃんだよ! 虫でも見るような目ぇ向けやがって!」


 一瞬の間に雨は止み、鈍色の雲は遠くに流れていた。月は中途半端な形で、薄らと辺りを照らしていた。


 ジィ、ジィ、と翔太の頬の上で蝉が鳴いた。


 痛む尻を気にしながら、真由子はマスクの中でもう一度わらう。


 3年前、一緒に写真を撮ったあの蝉とは、明らかに違う鳴き方だった。



 やはり、皆虫を飼っている。

 ひとりひとり、違う種類の虫を。




 「七月蝉い」  完

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七月蝉い 上斗春 @_Haru-urah_

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