3
誰かが中途半端に水を撒いたようで、最寄り駅を出てすぐの道では、生温くなった水がコンクリートの凸凹に溜まっていた。
「暑い」
翔太の小さな舌打ちは、電車の通過音で掻き消された。2人は無言で歩く。線路沿いの一本道は所々地割れしていて、車道と歩道を区切る白い線は消えかけていた。
低い柵の向こうには砂利の敷きつめられた線路があり、反対側には、人が住んでいるのかも分からない黄ばんだ一軒家が連なっている。真上から降り注ぐ光を遮るものは何も無く、側溝の穴から覗く雑草は萎れていた。
「夏祭り、楽しみだな」
2歩前を歩いていた翔太は、電柱に貼られたポスターの前で立ち止まった。真由子は、相槌を打つのを躊躇う。それに気づかず翔太は続けた。
「永瀬は来るって?」
「……分かんない」
「え、なんで?」
自分の声があまりにも平坦で、真由子は驚く。翔太は不満気な顔を隠そうともせず、少し語調を強めた。
「ちゃんと誘った?」
「……」
「もしかして、まだ言ってないのかよ」
言葉の端に滲んだ苛立ちに、真由子の鳩尾が冷えていく。青いビニール紐で電柱に縛り付けられたポスターの中で、中学生の書いたアニメ風の女の子がリンゴ飴を持ち、ニコニコと笑っている。
『町内こども夏祭り』
寂れた住宅街の、小高い山にある神社で行われる小規模な夏祭りは、ちょうど学校が夏季休暇に入った始めの土日に開催される予定だった。
屋台は「こども会」の親が分担して設営し、20時には撤収が始まる。集まるのは親に連れられた子供と、ませた中学生のカップルだけ。
翔太はそこに、真由子と「永瀬」——永瀬奏美を連れて遊びに行こうと計画していた。奏美と同じクラスの真由子に、誘うことを押し付けて。
「なんで言ってないんだよ、明後日から夏休みになっちゃうだろ!」
「……わたし、は」
マスクの中に、吐き出した二酸化炭素が充満する。唾液の臭いに、蜘蛛は暴れる。
「真由子は永瀬と仲良かっただろ。……だから誘うのも任せたのに」
「……なかよく、ない」
「何? ちゃんと喋れよ」
翔太は眉に皺を寄せる。真由子は目を強く瞑り、手のひらに爪を食い込ませる。
——なかよく、ない。
真由子は知っている。
奏美が小4の夏に髪をバッサリと切ったこと。それをクラスの派手な女子にからかわれ、トイレの個室で泣いていたこと。真由子が外から慰めると、奏美は泣き腫らした目を擦りながらドアを開けた。
誰よりも分かっている。
奏美は本が好きだった。特に、児童文庫のホラー小説がお気に入りで、虐められて自殺した女の子がいじめっ子達に復習する話を、何度も何度も読み返していた。
ずっと隣に居たから、理解している。
奏美も「復讐」を夢に見ていて、小学校のうちは叶えられそうもなかったこと。同じことを考えていた真由子と、傷を舐め合うように2人きりで過ごしたこと。
もちろん、覚えている。
クラスのリーダーであった女子が蝉を飼っていたから、群れる女子達をまとめて「蝉」と何気なく表現したら、奏美が手を叩いて喜んだこと。
——蝉の鳴き声がうるさいね?
自分達だけの暗号のように、教室の隅で囁きあったこと。洋画の台詞みたいに皮肉たっぷりで、洒落た喩えだと思っていたこと。口にする度に、優越感と少しのスリルに浸ることが出来たこと。
その度に、真由子の蜘蛛と奏美の黒子のようなダンゴムシが、共鳴するように揺れ動いたこと。
1日に何度も同じ嫌味を言っては、蝉の方をちらりと見た。いつか気づかれて喧嘩になったら、強気な態度で言い負かそうとさえ考えていたけれど、結局蝉は自分のお喋りに夢中で、真由子達の方なんて見ていなかった。
みぃん、と本物の蝉が唸る。翔太は真由子の返事を待ち、黙って立ち尽くしている。
真由子は目を閉じたまま、久しぶりに見てしまった奏美の顔を思い出す。
いつから巻き始めたのか、緩くウェーブした髪。
誰に教えてもらったのか、肌の色によく馴染む唇の人工塗料。
1度も姿を見なかった中学の3年間で、輝きを蓄えこんだ美しい瞳。
全部が綺麗で、真由子とは正反対だった。肌は吹出物ひとつなく、綺麗。何も付いていなくて、綺麗。
——ねえ、奏美。どうやって虫を手放したの?
どうしようもなく羨ましく、胸の内が焦げ付くように妬ましい。3年前は同じ席に座っていた筈なのに、久しぶりに再開した時には、手が届かないほど高い所へ飛んで行ってしまった。
「……LINEで、聞いておく」
やっと絞り出した言葉に、翔太は真剣な顔で頷いた。自分の計画が素晴らしいものだと、心の底から信じきっている顔だった。本当は奏美のアカウントなど持っていないかった。
3人は同じ小学校に通っていたけれど、奏美は翔太の顔など知らないだろう。
奏美にはどんな事でも打ち明けたけれど、皆が虫を飼っていることと、翔太のことだけは言えなかった。
翔太は足が早くて面白い人気者で、真由子とは3回隣の席になった。目が大きくて鼻が高く、綺麗な顔には何も付いていなかった。
秘めた思いを話すことは、すなわち「蝉」になりたいと宣言するのと同じ意味だった。
恋の話は「蝉」の大好物で、奏美が1番嫌っていた。
クラスの真ん中を鋭く睨んでいた奏美は今、翔太から熱い視線を注がれている。真由子は今でも、翔太の横顔を盗み見ることしか出来ない。
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