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 教室では朝から埃臭いエアコンが稼働し、帰りのSHRが終わったあとも、ポコポコと間抜けな音を鳴らし続けていた。


 机を後ろに寄せ、申し訳程度のゴミを集めた掃除係の女子たちは、チリトリを囲んで駄弁っている。


「んで、どうなの。先輩とは?」

「うーん、まだ全然って感じ? 好きだけどね」


 きゃあ、と黄色い声が上がる。会話の中心は町田や奏美。運動部で、話しかけやすく、男女共に慕われている人気者だった。


 真由子はマスクの中で顔を顰め、イヤホンの音量を上げた。後ろのロッカーに寄りかかり、いつものように人を待つ真由子には、誰も近寄ってこなかった。


「あーっ、今日もダルかった! そう思わね?」

「うるせぇよお前」

「暑いしよ! バイトもだりぃし、寝てねぇわ!」

「はいはい」


 生徒でごった返す廊下から、人一倍大きく張り上げた、わざとらしい大声が聞こえた。真由子はイヤホンを外し、リュックを背負う。


「真由子! 早く帰ろう」


 160cmを超えたばかりの小柄な男子——翔太は、声のボリュームを下げずに真由子を呼んだ。群れた女子達は一瞬にして静まり返り、翔太の方を一瞥する。


 翔太は教室の中央を探るように見てから、隅にいる真由子に笑いかけた。


「早く帰ろう! おれ、寝てねぇんだわ」


 真由子は小さく頷き、後ろのドアから廊下へ出る。翔太は「だりぃ」と叫び、それから青い迷彩柄の布リュックを右肩で背負って、真由子の隣へ並んだ。


 2人が教室から離れると、また町田たちが「ぎゃあ」と盛り上がった。「ヤバいわ」「素敵すぎ」と、興奮しきった声がドアを通り抜けて漏れ聞こえる。


 翔太は鼻を鳴らし、照れたように頭をかいて、茶化した。


「なんかウワサされてんぞ、俺ら」

「そうだね」


 真由子は驚かない。翔太が教室まで迎えに来るのは、入学式の次の日から毎日の事である。本当の意味でされていたのは、4月の初めの週だけだった。


「さっきも俺、なんか注目されてたわ。女子達と目合ったし」

「そうだね」


 確かに真由子たちが教室を後にする時は、クラス中から熱い視線を注がれる。ただし、羨まれている訳では無い。面白がられているのだ。


 除け者同士の同レベマッチ。何故か幸せそうに下校する日陰者のカップルは、皆の注目の的で、だ。


 校門を出た。等間隔に植えられている背の高い街路樹からは、みぃん、と唸る声がひっきりなしに降り注いでいた。


 寝癖のような畝りが取れない真由子の太い黒髪は、根元の方が汗に濡れ、生え際がペタンと萎んでいた。


 半歩前を歩く翔太を見つめる。項から伝った汗が、シャツの襟元に染みを作っていた。校舎の中では散々声を張り上げていた翔太だが、人が居なくなると喋ることを辞め、スマホを弄り始めた。いつもの事だった。


「あー……あつ」


 力のない、翔太の小さな呟き。真由子はそれを拾い、やはり「そうだね」とだけ返す。マスクの中で篭った声は、翔太には聞こえていないかもしれない。


 赤信号で立ち止まり、真由子はようやく翔太の隣に並んだ。気づかれぬようにそっと横顔を盗み見る。


 翔太の鼻はスっと高く、眠たげな瞼には深い線が1本刻まれている。彫刻のように彫りの深い顔は、小学生の頃から変わず、綺麗だ。


 出会った時から、今の今まで、


 真由子はそれに少し見とれ、視線に気づいた翔太と目が合うと、慌てて俯いた。


「何見てたの」


 翔太がニヤリと笑う。「そうだね」が使えない質問に、真由子は何と返答するべきか迷った。何と言えば翔太が喜ぶのか、茹だった脳味噌で必死に考える。


 大きすぎるマスクの中で、何度も浅く息を吸う。陸に出た魚のようにパクパクと口を開閉し、結局気の利いた答えは出てこなかった。


 青信号になると、翔太はまたスマホに視線を落とした。無言のまま歩いて、いつもと同じ電車に乗り込んだ。2つだけ空いた席に並んで座ったが、翔太はスマホの画面を見せないように体をひねり、何かのゲームに夢中になっていた。


 真由子はただ、ゲームに飽きた翔太が口を開くのを待って、空を見つめていた。


 向かいに座る老婆の枯葉虫がカサカサと動き、窓に映る真由子に覆い被さる。空調が効きすぎた車内は少し寒く、真由子は捲っていた長袖のボタンを止め直した。


 大量に汗をかいた翔太のベストからは、使い古した革張りの車のような、すえた臭いがする。


 頭痛がする。車内は、知らない人間と、名前も分からない虫で満ちている。




 真由子の見ているそれらは、真由子以外の誰にも見えない。




 真由子が生温い溜息を吐くと、短毛に覆われた八本の足は唇から逃げ、小鼻の横を上り、マスクのワイヤーに当たってポロリと顎の方へ落ちた。


 無意識に強く噛み締めた唇から、血が滲んだ。


 皆、虫を飼っている。ひとりひとり、種類の違う虫を顔にへばりつけて生きている。私でさえも、忌々しい小さな黒蜘蛛を取り払うことは出来ず、生まれた時から唇の上に住まわせている。




 例外は、世界でたった1人だけ。




 そう思っていたはずなのに、例外は今年の4月に、もう1人増えた。

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