七月蝉い

上斗春

1

 毒々しい橙色の蝶は優雅に舞い、校長の顔にべたりと張り付いた。厚化粧の女校長は弛んだ二重顎を震わせながら、夏休み中の生活について喋り続けている。


 多くの生徒は顔を挙げず、黄ばんだシャツに汗を滲ませ、ただ膝を抱えていた。真由子はそれを、列の後ろの方からぼんやりと眺めていた。


 薄黄色の丸まった背中達はクラスごとに整列していて、巣で眠ったままの蜂の子に見えた。


 アーチ状の高い天井ではライトが白く光る。淀んだ空気は皆の熱を吸い込み蒸している。さしずめ昆虫館の放蝶温室であると、全校集会の度に真由子は思う。


 事実、真由子の目には、生徒の頭の上をゆったりと舞う極彩色の蝶々が映っていた。


 それだけでは無い。ぽってりと腫れたタラコ唇の上で眠る青虫や、瞼の二重に入り込んで隠れる小さな羽蟻。ナナホシテントウが汗ばんだ項を登る所や、ムカデが頬を伝って顎の下へ降りていくところ。




 皆、虫を飼っている。




 道端で出会ったら「気持ち悪い」と悲鳴をあげるような、名前も分からない大きな蛾、紫色の甲虫、産毛のような足が沢山着いた多足類。


 ひとりひとり、種類の違う虫を顔にへばりつけていた。茹だるような暑さで真由子の脳味噌が溶けた訳では無い。生まれた時から、は確実に存在していた。


 200人かける3学年、それに教師を足して合計600強の虫が蠢く体育館で、誰一人として発狂して声をあげる者は居なかった。


 真由子はぼんやりと空を見つめる。時折、視界の端を羽虫が飛び交う。虫に対する嫌悪感など、とうに擦り切れて無くなっていた。


 満員電車では何度も虫を押し付けられた。真由子と相手の腕の間で小蝿が死んだ事もある。制服に着いた体液や、千切れた翅の欠片は、電車から降りた途端に消えた。


「いいですか。宿題は計画的に、お家の人の手伝いも——」

「小学生かよ」


 揶揄するように呟いたのは、真由子の前に座った女子——町田だった。男子バスケ部のマネージャーをしていて、入学して4ヶ月で2つ上の先輩と付き合いだした、らしい。


 町田は、バスケットボールみたいな焦茶色の蛾を鼻の上に止めていた。半身で後ろを振り返った彼女は、同調を求めるように続けた。


「そう思わん?」

「……ぁ」

「それなぁ」


 真由子の掠れた声をかき消して応えたのは、真由子の隣に座る木崎。町田と同じように、いやらしい笑いを含んだ声だった。


「え、?」


 木崎は目を丸くして、真由子を見つめる。真由子はその視線を無視して、外界を拒絶するように、抱えた膝に額を押し付けた。何事も無かったかのように、騒がず、ただ事を流して。


「あー……っと」


 面白がるような町田の声。丸めた背中の上で交わされる視線。真由子は目を強く瞑り、声を発するために吸い込んだ息を、細く吐き出す。


「……ね」

「うん」


 主語のない会話は、笑いを堪えるように短く途切れる。真由子の胸は、料理酢を飲み干したかのように熱く焼けた。喉を伝い、苦々しい唾液がせりあがってくる。


「……あー、そうだ。奏美、髪切った?」


 仕切り直すように再開した話は、町田の隣に座る奏美に振られた。真由子は顔を伏せたまま耳をそばだてる。


 瑞々しい奏美の声は、嬉しそうに跳ねた。


「気づくっ? 毛先だけだけど」

「当たり前じゃん。めっちゃ可愛い」

「ほんとに可愛い。いっそ今度はショートにすれば?」

「えぇ、どうしよっかなぁ」

「した事ないの?」

「無いかも」



 あるよ。



 あるよ。小学四年生の夏、それまで伸ばしていた髪を切り落として、ショートカットにしていたよ。


 声は上げなかった。真由子は頭を少しだけ動かして——また、膝の皿に押し当てた。


 当然奏美たちが気づくはずもなく、「はじめてのショートカット」については、夏休み中に挑戦するということで話がまとまった。


 校長の話をよそに、3人の声は少しずつボリュームを増していく。けらけら、と屈託のない奏美の笑い声が体育館に響く。木崎の首筋からバニラの香水を付けたカナブンが飛び立ち、真由子の耳を掠めていった。


「絶対可愛いって」

「そんなことないから、ほんとに!」


 意味の無い私語は周りの生徒にも伝染し、ついには誰一人として校長の話を聞く者は居なくなった。教師達は諦めて話を早めに切り上げ、司会から教室に帰るように指示が出される。


 皆が一斉に立ち上がり、各々の虫を引き連れて出口へとなだれこむ。真由子もいち早く列から離れた。


「あ、まって!」




 爽やかな声が真由子を呼び止めた。肩を叩かれ、真由子はのそりと振り返る。


 頭1つ分身長の高い奏美は、まだ新しい緑色の靴入れを持って、ニコニコと笑っていた。


「はい、これ。忘れてたよ」


 切ったばかりの栗毛色の髪は緩く巻かれ、天井から降り注ぐ光で天使の輪が出来ている。肌はひとつの吹き出物もなく、形の良い唇には薄いピンクのグロスリップ。


 ガラス玉のように輝く瞳から直ぐに目を逸らし、真由子は手渡された靴入れを受け取った。


「……ぁ、」

「奏美ーっ! こっちから出よ」

「あ、うん!」


 礼を言う前に奏美は踵を返し、町田と木崎の元へ駆けていく。


「……」


 真由子は口をつぐみ、サイズの合わないマスクに手をかけた。一回り大きいそれは目から下を完全に覆い隠し、顎の所で余っていた。


 毛羽立った紙越しに唇に触れた。乾いて罅のはいった薄紫の皮膚の上で、八本足が指を避けるように踊る。


 靴箱のある後ろの出口では、未だ沢山の生徒が立ち往生している。横口の方が圧倒的に空いているのに、誰もこちらから出ようとはしなかった。


 みぃん、みぃん、と、寿命幾許も無い蝉が懸命に唸っている。


 真由子は靴入れからローファーを取り出し、脱いだ体育館履きを仕舞った。体育館から1歩外へ出ると、容赦なく太陽が照らしつけた。


「……蝉の鳴き声が、うるさいね」


 誰も答えない。代わりに、鼓膜を突き刺す奇声のような笑い声が、壁の向こうから上がる。きっと、その中に奏美も入っている。


 話は盛り上がっているようで、蝉の鳴き声は止まない。真由子は舌打ちし、足早に校舎の中へと逃げた。

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