ルポ・多様婚社会のミサンドリー

三色だんご

■序

■序

 ●通勤ラッシュのよくある風景

 ●多様婚社会の幕開けと「余り者」たち

 ●「男尊女卑の会」・性犯罪・そして男性迫害

 ●本書の目的


●通勤ラッシュのよくある風景

 通勤ラッシュ時間帯の電車は、現代の性別問題のアンバランスをよく表している。

 十両編成の列車のうち、先頭の二両は女性専用車両、後尾の二両は男性専用車両で、間の六両が男女共用車両になっている。この編成は、女性が一両目から八両目まで、男性が三両目から十両目まで、均等にばらけて乗車することを想定した編成だったはずだ。ところが、実際の利用状況を見ると、一両目から七両目まで、ほとんど女性乗客だけしか乗っていない。男性乗客のほとんどは、九両目と十両目の男性専用車両に集中して、ぎゅうぎゅう詰めで通勤をしている。対照的に、七両目から先は、ゆったりと余裕があって、女性乗客はほぼ全員座席を利用している。間にチラホラと、社会的地位や収入の高そうな男性乗客が立って乗っている。

 八両目はいつも騒がしい。毎日のように、粗暴で声の大きい男たちが、警備員たちと押し問答を繰り広げているからだ。野蛮な男たちは、丈の長い学ランのようなものを羽織り、「古き良き日本を取り戻す会」(通称・「男尊女卑の会」)の腕章をつけている。男たちは、文字に起こすのも憚られるような汚い言葉を用いて、大声で怒鳴りながら、概略、次のような趣旨の主張をしている:そっちまで男女共用車両なのだから女ばかり乗っているのはおかしい、男も乗っていいはずだろう、元来劣った性である女がこんなにのさばっているのはおかしいだろう、なぜ女どもがゆうゆうと座っているのに、男はこんなにぎゅうぎゅう詰めで我慢していなければならないのか、というような内容である。男たちはこのような内容のことを、あたう限り汚い言葉遣いで、あたう限り威圧的な大声で、怒鳴り散らしている。警備員たちは、まあまあ、他の人に迷惑だからと男たちを宥めつつ、彼らが女性乗客側のエリアに近づいて乱暴を働くことがないように、隊列を組んで粗暴な男たちの前に立ちはだかっている。

 筆者は男であり、電車を利用するときは、九両目に乗る。騒動が起こっている八両目のほうを眺めながら、迷惑な男たちだ、と心の中で毒づいたことも一度や二度ではない。筆者にだって、確かに、こんな端っこに押し込められて窮屈な思いをするのは理不尽だ、という思いはある。しかし、それを口に出して言うと、あの粗暴な男たちと同類のように思われてしまうのではないかという恐れから、おいそれと口に出して言うことはできない。他の大多数の男性乗客たちも思いは同じなのではないかと思うほどに、皆一様に、おとなしく黙って、狭い男性専用車両の中に押し込められて、我慢して乗っている。

 女性側の車両から見ると、男性には大きく二つのグループがあるように見える。一つは、共用車両を利用しているごく少数の男性:社会的地位や収入が高く、整った身なりをしていて、たいていは妻帯者であり、女性に危害を加えることのない、安心できる男性である。そして、残りの男性たちは、警備員が立ちはだかる向こう側にいる、粗暴で、声が大きく、女性を威嚇し、時には実際に女性に危害を加える、恐ろしい男たちである。女性側の車両からは、そのような野蛮な男たちの向こう側にいる、おとなしい沈黙の大多数は見えない。女性側の車両から見えるのは、恐ろしい、声の大きい、ごく少数の猛獣のような野蛮な男たちである。それが残りの大多数の男性を代表しているように、女性側の車両からは見える。

 ここには、現代の男性の息苦しさの本質がこれでもかというほど凝縮されて詰まっている。序章では、このような男性と女性の間に生じているひずみに関係する近年の社会の動きを概観して整理することにしよう。


●多様婚社会の幕開けと「余り者」たち

 「婚姻」の定義が変わってから四半世紀が経った。旧来、「婚姻」と言えば、社会的に承認されて一対の男女が一緒になることを意味してきた。その目的は、子を成し家庭を築くことであったり、家と家の絆を結ぶことであったり、様々な要素を含むのは間違いないが、少なくとも、「一対の男女が一緒になる」というところだけは、婚姻多様化運動までは変わらずに保持されてきた婚姻の中心的概念であった。

 東京都渋谷区の条例に始まり、全国的な広がりを見せた婚姻多様化運動は、明成元年、ついに憲法・民法・その他関係法令の一部改正という形で実を結んだ。もはや「婚姻」は、「一対の男女が一緒になる」を意味しなくなった。男女の他に、男性同士、女性同士の婚姻にも法的根拠づけがしっかりと整備されたのである。多様婚社会の幕開けである。

 多様婚制度は、施行当初、マイノリティが暮らしやすい社会の実現への大きな一歩として、高い評価を受けた。筆者も、その評価それ自体に異を唱えるつもりはない。しかし一方、多様婚に救われた人々の陰で、救われなかった人々がいることも指摘しておかなければならない。結婚したくてもできない人たち、メディアで俗に言われるところの「余り者」の人々である。

 図一は、多様婚法制施行直後の明成元年と、直近の明成二十五年の、婚姻の形態ごとの成立件数の割合を示している。明成元年は、男女ペアが九割以上を占めていたが、明成二十五年には四割程度まで押されている。明成二十五年に成立した婚姻のうち、実に過半数が女性同士であり、残る一割弱が男性同士の婚姻である。

 なぜこんな極端なことになっているのか。三色大学社会学研究科の串田と田中は、需要のアンバランスを指摘している(明成二十年)。串田と田中が全国の結婚相談所の協力を得て行った調査では、結婚相談所やマッチングサービス・婚活パーティなどを利用している、つまり結婚の意思のある男女二千人を対象に、望む結婚相手の性別・年齢・収入について質問をした。その結果を図二に引用する。

 結婚を希望する男性の多くは、結婚相手として二十代の女性を希望している。一方、女性側は、約半数が女性との結婚を希望している。また女性側の希望に特徴的なのは、相手の若さへのこだわりが男性ほど顕著でない点、そして、結婚相手として男性を希望する場合、男性側にかなり高い収入を求めがちである点、この二つである。

 こうして結婚市場の需要を概観すると、ほとんど誰からも需要がない層が浮かび上がってくる。収入が中程度以下の男性である。男性も女性も、その多くが結婚相手として女性を希望し、男性を希望する女性は相手に高い収入を期待するという需要のアンバランスによって、結婚市場で売れ残る「余り者」の男性が大量に生み出されることになってしまったのである。

 かつて、女性をクリスマスのケーキになぞらえて、二十五を過ぎたら誰も見向きもしないと嘲笑する風潮がこの国にはあった。かつて需要がなかった一定年齢以上の女性は、女性同士の婚姻という変革の中で結婚相手を得た。お互いが何歳だろうと、気が合って助け合っていけるなら女性同士結婚しましょう、という層が厚かったのである。一方で、男性側には、厳しい現実が付きつけられることになった。確かに、いつの時代も男女関係にはヒエラルキーが存在したし、その中で一定のライン以下の人は市場からあぶれる、という原理はいつの時代も働いてきたが、その足切りラインが男性にとってだけここまで上がったのはこれが初めてなのではないだろうか。調査の仕方によって差異はあるだろうが、結婚したくてもできない男性の数は、結婚したくてもできない女性の数の二十倍近くに達するという調査データもある(中串、明成二十二年)。

 余った男性同士で結婚すればいいのに、と言う人があるかもしれない。串田と田中の調査によれば、「余り者」の男性が男性同士の結婚をしようとしないのには、大きく二つの理由がある。一つは男社会における男性同士の同性婚・同性愛に対する差別意識や嫌悪感、もう一つは子供ができないことである。男社会の中では、男性同性愛者に対する偏見や差別の意識が未だ根強く、たとえ性愛の絡まない相互利益のための同性婚であっても、男社会の中でゲイだと思われたくないという意識が働くため、男性同士の同性婚に対して大きな抵抗感があるのではないかと串田は指摘している。また、女性同士の婚姻と違って、男性同士の婚姻では子供を得ることが難しいことも、男性婚の数字の伸びを妨げている。女性同士の婚姻では、精子バンクを利用した人工受精によって、妻のうちのどちらかが体を張って妊娠・出産することが可能であるのに対し、男性同士の婚姻において子供を得るためには第三者の母体を借りて代理出産の協力を得なければならない。妊娠・出産のコストやリスクの面から、そういった協力者を得ることは大変難しく、また仲介ビジネスも成立しにくいのが現状である。こういった要因が重なり合って、男性は男性同士での婚姻をするメリットがほとんどないというのが現状なのである。


●「男尊女卑の会」・性犯罪・そして男性迫害

 多様婚制度が始まるのと時を同じくして社会に起こった変化がある。「男尊女卑の会」の興隆、性犯罪の激化、そして男性全体を性犯罪者予備軍であるかのように迫害する風潮である。

 「男尊女卑の会」(本書ではこちらの通称を用いることにするが、彼らが自称する正式名称は「古き良き日本を取り戻す会」)は、仙台・東京・名古屋・大阪・福岡に事務所を構える全国的な組織である。現今のフェミニズム運動に真っ向から反対する「男が働き女が支える」といった戦前の家父長制を理想として掲げている。しかしながらその実態は社会活動団体というよりほとんどテロリスト集団である。彼らの活動は、駅前や繁華街での威嚇的なヘイトスピーチや、冒頭に述べたような通勤電車での威嚇活動がメインである。その他、女性の権利を拡張し男性の権利を制限しようとするあらゆる場面において、攻撃的な主張を繰り返している。彼らは、強力なアンプとスピーカーを用い、なるべく周囲に迷惑な形で自分たちの主張を声高にがなり立てる。彼らの構成員は、暴力団や半グレの構成員と大部分重なり合っているという報道もある。また、彼らの構成員のほとんどは独身男性であり、社会に不満を持つ「余り者」の男性を新規構成員として取り込もうとしているという指摘もある(三串・明成十八年)。

 時を同じくして、性犯罪の件数が急増し、また凶悪化してきている。図三は警察庁がまとめている犯罪件数の推移である。多様婚法制が始まってから、性犯罪の件数が増加の一途をたどっていることが見て取れる。種類別割合の推移を見ると、明成五年頃から強制わいせつの割合が増え始め、明成十年頃からは強姦、暴行、傷害といった被害者の生命をも脅かすような凶悪な性犯罪の割合が増え続けていることが見て取れるだろう。これらの件数のうち、どれほどの割合が「男尊女卑の会」の構成員によるものかを示すデータを入手することはできていない。しかし、明成十三年に世間を騒がせた世田谷区連続通り魔暴行事件の中串武被告や明成十六年の前橋市女子児童連続誘拐殺人事件の中田三郎被告が「男尊女卑の会」の熱狂的な活動家だったことはあまりにも有名である。「男尊女卑の会」の増長と性犯罪の増加・凶悪化が時を同じくしていることからも、無関係とは考えにくい。

 とはいえ、全ての性犯罪が「男尊女卑の会」構成員の仕業というわけでもない。かくして、女性は、性犯罪に怯えながら暮らすことになった。道行く男性、すれ違う男性、学校や職場で会う男性、その誰もが性犯罪者予備軍かもしれないと警戒しながら暮らさざるを得なくなったのだ。

 あらゆる男性が性犯罪者予備軍に見えるようになってくると、男性の権利を多少制限してでも、女性の安全を確保する措置が求められるようになった。冒頭に描写した満員電車の惨状がまさにいい例である。他には、例えば、多目的トイレがほとんど女性専用になった例が挙げられる。かつて多目的トイレが男女共用だったのをいいことに女性を連れ込んでわいせつ行為を行ったり、隠しカメラを設置して盗撮したりといった行為が多発してから、ほとんどの多目的トイレは女性専用になった。辛うじて、大きな公共施設の多目的トイレは一か所に二つ設置され、一方が女性専用、他方が男女共用として分けられている場所もある。しかしたいていの施設は、ただでさえ広いスペースを取る多目的トイレを二つも設置するような余裕がない。身体的な理由から通常のトイレを利用することが難しい男性にとっては、非常な不便を強いられることになる措置である。

 夜の街の治安を守るために、警察だけでは人手が足りない分を民間の警備会社に委託している自治体も少なくない。民間の警備会社とはいえ、夜間警邏部門の警備員は凶悪事件に備えて私人逮捕の線引きや手続きなども含めた訓練を受け、手錠の携帯も承認されている。

 また、特殊インクの防犯スプレーも、性犯罪の増加に呼応する形で女性の間に普及した。このスプレーはペン程度の小型サイズで、透明な特殊インクを少量噴射する。吹き付けられてもほとんど感触がないため気づきにくく、催涙スプレーと違って犯罪者を刺激・興奮させることなく犯人に特殊インクを付着させることができる。特殊インクは一旦付着すると洗剤等で洗っても落ちず、特定の波長の紫外線に反応して光るため、犯人特定に役立つとして開発されたものである。実際、このスプレーのおかげで犯人逮捕にこぎつけた凶悪性犯罪の事例も数多くあり、特殊インクの功績は大きい。一方、女性がこのスプレーを無実の男性に密かに噴射し、わいせつ行為を受けたなどと虚偽の訴えを起こすようなことも可能になったわけで、男性からは「いつ自分が冤罪の標的になるか」といった不安の声も上がっている。

 このように、一部の凶悪な犯罪者のせいで、大多数の善良な男性たちが息苦しい思いをしている。尤も、大多数の善良な男性たちとしては、黙って息苦しい思いをしているよりほかに道はない。なぜなら、不当な男性差別に怒りの声を上げるような真似は、「男尊女卑の会」のお家芸だからである。「男尊女卑の会」は、男性全体を代弁するような口ぶりで、女性優遇・男性迫害の現状を口汚く非難する。善良な男性たちは、自分が性犯罪者の側に賛同していると思われたくないがために、「男尊女卑の会」の主張に同調することだけは何としても避けなければならないのである。

 右下大学の三串貫一は、「男尊女卑の会」・性犯罪・その対策としての男性蔑視に対する男性の反応を、大きく三つの類型に分類している(三串・明成十八年)。寄り添い型、沈黙型、反発型の三つである。寄り添い型は、女性側の不安に寄り添い、自分は無害な男性であることをアピールしようとする反応で、学歴や社会的地位が高い男性に多い。一方、大多数の男性は、自分たちを迫害する女性側に寄り添うことを潔しとせず、かといって「男尊女卑の会」に同調するわけでもなく、ひたすらに沈黙して息苦しさに耐える。これが沈黙型である。最後に、迫害に耐え切れずに反発し、ミソジニーに走る類型がある。最後の反発型は、「男尊女卑の会」に同調し、ヘイトスピーチや攻撃的な言動を行う傾向がある。


●本書の目的

 多様婚・「余り者」・「男尊女卑の会」・性犯罪という共時的な社会現象について、ごく雑駁ではあるが経緯や背景も含めて振り返ってみた。しかしながら、筆者は社会学の専門家ではないし、本書は学術的な分析や議論をする本ではない。これまでのまとめは、あくまでも前準備である。

 本書は、ミソジニーとミサンドリーが社会を大きく分断している現代において、生きづらい思いをしている人々の生きづらさをなるべくありのままに描写したルポルタージュである。本書には、何か具体的または理想的な政治的提言があるわけではない。ただ、現状、これだけの人々がこのような息苦しい思いをしているということを、ありのままに広く伝えることが、本書の目的である。本書が、読者にとって、この生きづらさについて考える一つのきっかけとなれば、この上ない幸いである。

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