バイトの僕は寝てるだけ。
榎木
第1話
一話
僕が似鳥探偵事務所を発見したのは全くの偶然である。たまたま事務所の前を通り、たまたま貼り紙を見つけ、たまたま面接に受かったから、たまたま働いているに過ぎない。つまり、もしあの時僕がその張り紙に気づくことがなければ、物語は始まってはいなかっただろう。偶然、僕があの貼り紙に気づいたために、物語が始まったのだ。その物語が面白いかつまらないかは別として、とにかくそこがスタート地点だったというわけである。
その時、僕はバイトを探していた。文字通り、バイト探しに明け暮れていた。大抵の人間は、バイト先というものをそれほど重要視せず、きちんと情報を集めずに決めてしまうが、僕は違う。僕はまずバイトを探すために、一日大学を休んだ。これにより元々出席の足りていなかったフランス語初級の単位はかなり危うくなったが、なりふり構っていられない。そしてネット、口コミ、紙媒体、ありとあらゆる求人情報の中から最も作業が単純かつ少量な、有り体に言うと1番楽して稼げそうなバイトを、3時間かけて探し回った。この世にはバイト先は山と言うほど存在するが、楽して稼げるバイトとなると、なかなか見つからない。夜十時には寝たいため、夜勤が出来ないと言うのも大きなネックとなり、捜索は困難を極めた。しかし、見つからないまま日は暮れて、もう何処でもいいかと心も折れて、とりあえず、近所の定食屋へ赴こうとしたところで、その貼り紙の存在に気づいたのだ。人間諦めなければ必ず運が巡ってくると言うがどうやらそれは本当だったのである。
その貼り紙は駅の向かいの、交番の裏の6階建ての雑居ビルの2階に貼られていた。その場にはられてから一体何年経ったのか、炭素原子によって測定しなければ分からないようなレベルで薄汚れているポスターではあったが、確かに、求人と書いてあった。僕はこんな所に探偵事務所があることはおろか、雑居ビルがあったことにもほとんど気づいていなかった。カクテルパーティー現象と言うやつで、人間は自分が興味を持たないものは視界に入らないのである。探偵事務所の他に、税理士事務所に雀荘に不動産屋の入ったそのビルはまるまる半年間僕の興味の外にいた事が納得できる、薄汚れた見た目をしていた。しかしバイトの対象となると、その価値は大きく変わる。そのビルからは中で働く人達の、暇と睡魔と退屈が溢れんばかりに漂っていた。これは期待が持てそうである。僕は綺麗に錆び切って、塩化銅を電気分解したみたいな色になった外側階段を登り、2回へ上がった。裏手にエレベーターがあったのだが、その時はまだ気づいていなかった。ドアの前までやってきて、近くでまじまじと貼り紙を見ると、それはますます魅力的な文字列だった。時給1000円、週一日から、交通費ありと来て、仕事内容は雑用としか書いていない。今日みたどんな求人よりも、暇そうな香りがぷんぷんしていた。僕はしばらく考えて、それから勇気を振り絞り、歯茎のすりへったおばあちゃんの入れ歯のように立て付けの悪い、入口のドアをノックした。
結論から言うと、やっぱり仕事はほとんど存在しなかった。事務所の中には部屋が二つあって、1つ目の部屋にはソファーとテーブルと、偽物の観葉植物と、僕がいる。奥の小部屋には似鳥さんという年齢不詳の女性がおり、いつも回転椅子に座っている。僕の仕事は主に座ることである。あとは奥の小部屋から、コーヒーという声がかかった時に、コーヒーを淹れて持っていくだけだ。似鳥さんはコーヒーには少しうるさく、しばらく薄い、ぬるいと文句を言われたが、作業に慣れればそれもなくなった。コツはフィルターに入れる粉の量なのだ。ごく稀に、お客さん、ではなく依頼人が来ることもあったが、その対応も大した手間ではなかった。机の上の見積り申請書と調査依頼書を書き込んでもらい、珈琲を1杯淹れれば用は済む。お代わりどうですかと僕が言うと時々、じゃあ貰おうかなという人がいて、そういう時は2杯入れなければならないが、それ以上入れた事はない。今日の依頼人のおじさんも、1杯の途中で申請書を書き切ると、慌ただしく帰っていった。
似鳥さんは今日も、奥の部屋の回転椅子に座っていた。奥の部屋は、ソファーのある僕の部屋と違い、三面に本棚を配置した見るからに探偵事務所のような部屋である。初めて入った時、僕はこれが探偵の部屋かと感動したが、本棚の本は全てミステリー小説だった。僕の期待していたような、犯罪心理学だとかストーカー被害実録だとか、そういったものはまるでなかった。似鳥さんはミステリーマニアなのだ。今も僕がドアを開けると、ちょうど単行本を読んでいるところだった。よく見えなかったが、あの禍々しい表紙は恐らく江戸川乱歩だろう。
「申請書、持ってきました」
僕がコーヒーと共に机の上に先程の書類を並べると、似鳥さんが顔をあげた。「ん、これ片付けといて」
「はい」
僕も暇だが、似鳥さんも暇なのである。机の上にはエンゼルパイの包装紙が散らばっていた。どうやら鶴でも折っていたらしい。包装紙にはくっきりとした折り目の跡がついていた。僕は飲み終わったマグカップの中に未完成の鶴を入れてゴミ箱へと運ぶ。
「あれ、大事件起きてるよ」
「へ?」
部屋を出ようとしたところで、似鳥さんに声をかけられた。大事件と言われて僕は思わずドキッとする。コーヒーを入れる手順を間違えただろうか。頭の中で手順を思い描いていると、似鳥さんは依頼書を僕に差し出してきた。
「ほら、ここ」
「あ、ほんとだ」
先程のおじさんの書いた依頼書には几帳面な字で、窃盗と書いてあった。
「300万の絵画を窃盗されたなんて、これはテンション上がってきたね」
「人の不幸でテンションをあげるのはどうなのでしょうか?」
僕の冷静な発言に、それもそうねと似鳥さんは言ったが大して反省の色は見えなかった。仕方がない。似鳥さんはミステリーマニアなのだ。
西園寺さんの家は駅の裏手の小高い丘の上にあった。駅からだいぶ遠いので、僕が車を運転することになった。似鳥さんは免許を持っていないのだ。
「悪いね、こんな事までさせて」
「いえ、雑用をする分には構わないのですが」
僕は運転くらいいいですよといった過去の自分を呪った。駐車場に置いてあった車は、一体最後に動かしたのがいつなのかまるで分からない旧型のビートルだったのだ。見た目でこれはヤバそうだと感じていた僕は、乗ってさらに大変なことに気づいた。ビートルは左ハンドルな上、マニュアル車なのだ。おまけに似鳥さんがあれこれ話しかけてくるので運転に集中できない。
「絵が盗まれたなんて久しぶりにミステリーみたいだね」
「はぁ」
僕は半クラッチに全神経を集中させていたので相槌は適当になった。そんなことは気にせず似鳥さんは話しかけてくる。
「絵が盗まれる事件って言うと1番有名なのは、やっぱりモナリザ盗難よね」
「はぁ」
「ねぇ、もっと驚いてよ。モナリザって盗まれたことあるんだよ?知らなかったでしょ」
「はぁ」
「はぁ。って。もういいよ君は私がひとりで喋るから」
「喋らないという選択肢はないのでしょうか?」
ようやく信号に引っかかったので僕がまともな対応をすると、今度は似鳥さんが僕のセリフをまともに取り合わなくなった。
「ない。犯人のヴィンセン・ペルージャは夜のルーブル美術館に入り、1人でモナリザを盗んだのね」
「スモッグの中に隠したんですよね」
「あれ、知ってたの?」
「はぁ」
そこで信号は青になり、僕は坂道発進を強いられた。相槌は適当になる。
「ペルージャは祖国イタリアにモナリザを帰還させる事が動機だったという説がよく言われているけれど、真偽の程は怪しいのよね」
「はぁ」
「ペルージャはモナリザを盗んでから2年も自宅のアパートで保管していたし、最後にはギャラリーのオーナーに売りさばいているわ」
「はぁ」
「それに、第1モナリザはレオナルドダ・ヴィンチがフランソワ一世にプレゼントした絵なのだから、もともとフランスのものだしね」
「はぁ」
「さて、山崎くんはこれどう推理する」
「はぁ」
「はあ。って!私は聞いてるのに」
「ほんとにいっぱいいっぱいなんですよ!っていうかなんで運転できないのにこんなマニュアル車持ってるんですか?」
僕が思わずそういうと、似鳥さんは呆れた顔をした。
「なんでって、そんなの探偵っぽいからに決まってるでしょ」
僕は思わずため息をついた。似鳥さんはミステリーマニアなのだ。
300万の絵画を所有するだけあって西園寺さんの家はなかなかの豪邸であった。コンクリート打ちっぱなしのガレージがあり、言われた通りに、ガレージの横の階段を上ると立派な玄関が現れた。
「遠いところをわざわざすみません」
「いえ、お構いなく」
玄関で出迎えてくれた西園寺さんに似鳥さんは大人な対応をする。遠いところをわざわざ運転してきたのは僕の方なのだが、そんなことは言うべきでは無いので文句は頭の中で言うに留める。
「それでは早速、中へ入っていただいて」
西園寺さんはそう言って僕達を家の中へと通してくれた。
家の中も豪邸にふさわしく、広々としていて豪華だった。ソファーは大きくてやわらかそうで、リビングには大きな暖炉があった。僕達は、西園寺さんについて行くままに、僕のアパートがまるまるすっぽり入りそうな廊下を通って1番奥の不思議な部屋までやって来た。部屋の中は机や椅子などの家具がなく、部屋の壁には油絵や水彩画、風景画や静物画が、所狭しと並んでいた。一体なんのために作られた部屋なのか僕にはさっぱり検討がつかない。
「ここは絵画を鑑賞するために作った部屋でして、いわばアートギャラリーですな」
僕が質問するまでもなく、西園寺さんが答えを言ってくれた。なんと、金持ちの家ともなると、家の中にアートギャラリーが存在しているのである。勉強になる。
「知人が来た時にはここで鑑賞会をしたりもするんです」
「なるほど。それで、盗まれた絵はどこに飾られていたのでしょうか」
似鳥さんは西園寺さんに質問しながらポッケからメモ帳を出した。似鳥さんがまるで探偵みたいなことをすると、まるで探偵ごっこのように見える。
「その、一番奥に飾られてたやつでしてね、私が最近手に入れた、お気に入りの1枚だったんだが」
それから、西園寺さんの発言を似鳥さんはこと細かくメモ帳に書いていった。その間、僕はNikonの一眼レフカメラで、周りの写真を撮ることにした。似鳥さんから写真を撮るようにと、行きの車の中で、カメラを渡されていたのだ。何を取るべきかよく分からなかったので、とりあえず部屋の中にある全てのものを撮ることにした。これで暫く時間は潰せそうである。
シャッタースピードを上げて庭のみかんの木に群がるメジロの姿を克明に記録していたところで、ニトリさんの質問は終わった。これで、現場検証は終了である。長々と一体何を聞いていたのかは知らないが、家を出る頃にはもう4時半になっていた。全くこれでいつもと同じ給料しかし払われないというのは、どうにも納得の行かない話である。
水曜日、事務所のソファーでせいせと昼寝を楽しんでいると、入口のドアがガチャりと空いた。僕は体勢を元に戻しながら不思議に思った。今日は聞き込みに行くと言って、似鳥さんは出かけに行ったはずである。聞き込みから五分で探偵が帰ってくるとはさすがに思えなかった。かと言って、依頼人であればノックや声をかけてからドアを開けるはずである。一体誰なのだろうと、乱れた髪を整えて、ドアの向こうに目を向けると、そこには中学生らしき、女の子が立っていた。
「こんにちは、探偵の依頼でしょうか?」
僕は訝しみながらもとりあえずマニュアル通りに対応すると、中学生は明らかに不機嫌という顔をした。
「あなたは私が探偵に依頼をするように見えるわけ?」
「見えないです」
僕がそう言うと、ふんと鼻を鳴らして中学生は僕の向かいのソファーに座った。じゃあ一体誰なのだと僕は頭を抱える。コーヒーを入れるべきかどうかとしばらく逡巡し、ソファーを立ち上がったところで、コーヒー入らないと冷たく言われた。
「ねぇ、私の事おばさんから聞いてない?」
僕が元の位置に座ると、全く喋りたくないが、仕方がないから口を動かしていると言ったような仕草で、中学生は口を開いた。
「おばさんって?」
「似鳥さん」
「ああ、いや、聞いてないな」
正直にそう言うと、中学生は深いため息をついた。
「私はおばさんの姪、家に帰るまでの間ここにいる。1時間で帰るから私がいいと言うまで話しかけないで」
キッパリとそう言って、中学生はカバンから本を出し、無言でそれ読み始めた。僕はぽかんと口を開けたまま、しばらくそのまま固まった。マニュアル外にも程がある。
結局、僕は彼女を無視して、昼寝の続きを楽しむことにした。話しかけないでと言われているんだから、特に何かする必要は無いだろう。そう思っていたのだが、幸福な時間はすぐに引き裂かれてしまった。
「ねぇ、あんたってここのバイト?」
「ん、なん、うむ」
「ねぇ、あんたってここのバイト?」
「あー、、んむっ」
「ねぇ!あんた!って!ここの!バイト!」
その辺で僕の目が冷めてきた。一体どこで寝ていたっけと頭が混乱しているところに丸めたティシュが飛んできて、そこで完全に思い出す。僕は事務所で昼寝をしていて、向かいには似鳥さんの姪がいたのだ。
「ねぇ、聞いてるんだけど」
「うむ。いかにも僕はここのバイトだ」
僕はきちっと体を垂直に戻して、返事をした。テーブルの向かいには先ほどと同じ風景がみえる。
「じゃあバイトさんに聞くんだけど、今日似鳥さんは居ないの?」
「似鳥さんは西園寺さんの件で聞きこみ調査を行っている」
僕がそう言うと中学生はキョトンとした顔をした。僕は説明を続ける。
「そう。僕も驚いたのだけど、公望以外にも西園寺という苗字の人がこの世には存在するらしい」
「西園寺さんって西園寺重之?」
今度は僕がキョトンとする番だった。僕は中学生に質問する。
「なんで知ってるの?」
「この間そんな名前の東大かなんかの大学教授がテレビに出てたわ。つまらないからすぐ消したけど」
それを聞いて僕は妙に納得した。やはり西園寺さんは有名人であったのだ。でなければあんな大豪邸に住んだりしない。1人で納得してると、中学生が口を開いた。
「ねぇ、1人で納得してるところ悪いんだけど、私お腹がすいたの。何か作ってくれない?」
「あー。ん。なにか?」
「お腹が空いたの。何遍も言わせないで」
それだけ言うと中学生は本の続きを読み始めた。一体この子はどういう教育をされて育ってきたのだろうか?僕ならば初対面の大人に対して、しかも、気持ちよく昼寝をしていた大人に対してわざわざ起こして料理を要求することはしない。しかしどういう性格であるにしろ、似鳥さんの姪ということであれば、彼女は恐らく僕の上司である。バイトは上司の言うことには逆らえない。
「わかった」
僕はそう言うと奥のキッチンへと向かった。
事務所には狭いながらもキッチンがある。部屋と小部屋を繋ぐ廊下のつきあたりがそれで、簡単な軽食ぐらいなら作ることができるようになっていた。しかし簡単な軽食と言っても、それは材料あっての話である。材料もないのに料理はできない。僕は一体何をすれば良いのだと途方に暮れて、とりあえず冷蔵庫を開けてみた。案の定中身はほぼほぼ空である。申し訳程度にドリンクホルダーに醤油のボトルが入っていたが、これではどうにも出来ないだろう。続いて戸棚の中を開けてみると今度はギリギリどうにかなりそうなものが出てきた。ツナ缶とサトウのごはんのパックである。賞味期限を確認すると、四捨五入すればまだ食べられそうだ。さて、腕の見せどころである。
料理は、昼寝を除けば、僕の唯一と言っていいほどの趣味であった。頭を空っぽにして、無心に作業が出来るので、その点が僕に向いているのだ。たったこれだけの材料であっても、工夫さえすればどうにかなるはずだ。サトウのごはんご飯はとりあえずどうすることも出来ないので、電子レンジでチンをして、あとは醤油とツナだ。フライパンに引く油もないので僕はツナ缶を油ごとフライパンに入れた。強火で炒めればぱちぱちとツナが音を立て始める。ツナ缶を料理する時のコツはよく炒めることである。しっかり炒めないと生臭い仕上がりになるのだ。軽く表面が茶色味を帯びるぐらいまで炒めたらそこに醤油をひと回しし、最後にサトウのごはんも入れた。あとは無心にフライパンを振る。ネギも卵もないのは痛いが、しばらく炒め続けていると、とりあえずチャーハンらしき見た目になった。
皿も茶碗しか見当たらないので、そのままフライパンごと持って行って中学生の前に置くと、中学生はあからさまに嫌そうな顔をした。これで食えと?と言いたそうにこちらを見てくる。
「残念ながら材料も食器もこれしかなかったんだ」
僕が仕方なくそういうと、ふうんと言って中学生は、割合素直にチャーハンを口に入れた。お腹がすいていたのだろう。3口くらいいっぺんに頬張ると、噛んでしっかり飲み込んだ。
「美味しい」
「それはどうも」
「あなたこんな所でバイトしてないで、どっかレストランに行った方がいいんじゃない」
「そんな、チャーハンだけで大袈裟な」
僕がそういう間にもパクパクと食べ進め、ものの5分ですっかり完食した。
「美味しかったわありがとう」
中学生はそう言って、ティシュで口の周りをふいた。僕としても、食べっぷりが良いと作ったかいがあるというものだ。僕は機嫌よくフライパンを流しに片付けた。
「メイは腹が減ると不機嫌になるんだ」
似鳥さんが帰ってきたあとで、中学生のことを報告すると、似鳥さんはそう言った。
「なるほど」
そういえば中学生はチャーハンを食べたあとやけに機嫌が良くなっていた。
「メイは私に懐いていてね、ここが好きみたいだからこれからもちょくちょく来るかもしれない」
「…メイ?」
なんとなくイントネーションがおかしかったので僕が不思議に思ってそう言うと似鳥さんが説明をしてくれた。
「あぁ、姪の芽衣と言うんだ」
「なるほど、覚えやすい」
僕がそう言うと、似鳥さんは笑う。
「覚えやすいと思っているのは私だけだろう」
「確かに、僕から見たら他人ですからね」
「そう。さて、山崎くん、コーヒーを入れてくれないか」
そう言って似鳥さんは珍しく僕の向かいのソファーに座った。なんだか疲れているようにも見える。
「聞き込み、大変だったのですか?」
僕がそう聞くと、似鳥さんは大きなため息をついた。
「聞き込んできたが、有力な情報は全く得られなかった」
「推理が間違っていたんですかね?」
「いい線まで言ってると思ったんだが、まぁ、私はただのマニアだからな」
似鳥さんは自分でそう言って、今度大きな伸びをした。犯人は西園寺さんと同じく、美術品のコレクターだと似鳥さんは推理していた。確かに西園寺さんはあの絵以外はひとつも盗まれていないと言っていたし、そうなると金目のものを手当り次第に盗もうとする、素人の犯行ではなさそうである。そのような推理の元、似鳥さんは今日西園寺さんが絵を買ったアートギャラリーのオーナーの下へ聞き込み調査を行っていたのだが、結果は乏しかったみたいだ。
「ギャラリーのオーナーはなんて言ていたんですか?」
奥でコーヒーを2杯入れ、似鳥さんの手元へ持っていく。似鳥さんはミルクと砂糖を一杯ずつ入れてスプーンでよく混ぜた。
「西園寺さんが購入する以外に、あの絵に興味を持っていた人は、覚えている限りでは一人もいないってさ」
「それじゃあ迷宮入りですね」
「やっぱりミステリーは誰かに解いてもらうに限るよ」
似鳥さんはそう言ってコーヒーを1口啜った。探偵が言ったとは思えない酷いセリフだ。よっぽど僕はもう解けましたよと言おうとかとも思ったが、やめておいた。この世には解かなくていい問題というのも存在するのだ。
「申し訳ないですがここで捜査は打ち切りということに」
似鳥さんは本当に申し訳なさそうにそう言った。何の成果も得られずに前金の5万円だけ貰ってしまったわけだから、実際、本当に申し訳ない。
「いえ、こちらこそ、尽力して頂いてありがとうございました」
西園寺さんは特に気にしている風でもなくそう言った。実際おそらく気にしていないのだろう。
「それでは」
そう言って立ち上がり、西園寺さんはハンガーラックからコートをとって羽織った。丁度いいので、僕はドアの外まで見送る事にした。ドアを開け、にこやかな笑顔を崩さぬままに西園寺さんは事務所を出ていく。僕も一緒に外へ出る。にこやかだった西園寺さんがこいつはどこまで着いてくるのかと、少し不思議な顔になった。
「すみません。確認したいことがあって」
「なんだね」
不思議な顔をした西園寺さんがまたにこやかな顔に戻る。にこやかな顔をよく見れば確かに見た事のある顔であった。普段いる場所と違うところで出会うと、知っていても案外分からないものである。僕は西園寺さんの目を見ながらゆっくりと口を開いた。
「盗まれた絵はみかんの木の下ですね?」
「みかんの木?」
「そう。あなたの家の庭にあるみかんの木です」
「…やはり君たちはわかっていたのか」
そこで西園寺さんは諦めたようだ。作り物じみた笑顔が苦笑いになった。少し誤解をしているようなので僕は訂正を1つする。
「いえ、知っているの多分僕だけです。似鳥さんは気づいてないと思います」
「そうか、どこで気づいた?」
「最初からです」
西園寺さんの問いに僕はキッパリとそう言った。そう、最初から西園寺教授は不自然だった。似鳥さんは気づかないかもしれないが、事務所について客観視できるバイトの僕なら不自然に気づく。
「普通、大切なものが盗まれた時にこんなにみすぼらしい探偵事務所に依頼はしません」
僕がそう言うと西園寺さんは笑った。
「自分で言っちゃうのか、そういうことを」
「バイトなんで、あんま思い入れがないんですよ」
そう言って、僕はそのまま説明を続けた。
「でもこんな事務所にも良いところが一つだけある。それは解決される可能性が極めて低いというところです」
「自分で言っちゃうのか、そういうことを」
「バイトなんで、思ってることは全部言います」
「遠慮なくそのまま全部言ってくれ」
西園寺さんがそう言ってくれたので、僕は思っていることを全部言うことにした。
「解決される可能性が極めて低そうな事務所に来たということは、考えられることは一つ、あなたは事件を解決されて欲しくないということです。なんで解決したくないのかまでは、想像することしかできません。僕の予想だと、買った絵画が贋作だったとか、きっとそんなところでしょう。合ってますか?」
「まぁ、続きを聞こう」
僕の問いに西園寺さんがそう答えた。僕は続きを説明する。
「あなたはギャラリーのオーナーに贋作を掴まされた。普通の人であればしまったなぁで済むところだけど、あなたは著名な大学教授、それも専門は現代美術論だ。贋作を買ったとなればあなたの目を世間が疑うことになる。だからあなたは、どうにかしてその贋作を買ったことを無かったことにしたかった。そこで思いついたのが盗まれたことにしてしまうという方法なんでしょう。盗まれたということにして、絵画をどこかに隠してしまい、解決してくれそうにない探偵に調査を依頼する。そうすれば犯人は見つからないまま事件は迷宮入りし、絵画を誰にも見られることの無いまま闇に葬ることが出来る」
僕の説明が全て終わると、教授は大きなため息をついた。
「まぁ、だいたい正解だ」
「よかった」
それを聞いて僕はほっとする。これが間違っていたら、計画は台無しである。
「みかんの木の下にあるというのは何故わかった?」
「それは勘です。写真を撮っている時に最近掘り起こしたような後が見えたので」
「なんだ、そこは勘なのか」
そう言って教授は笑った。秘密がバレたと言う割に教授は慄くとか、震え上がるとか、そういうリアクションを取らなかった。確かにこの秘密が明らかになったからと言って、別に犯罪者になる訳ではない。
「まぁ、このことは内緒にしといてくれ」
呑気な顔でそんなことを言う。どうやら僕の真の目的をまだ理解していないようである。僕はそろそろ本題を切り出すことにした。
「わかりました。けれども、条件が1つ」
格好つけて人差し指を立てるとようやく教授が焦り始めた。僕のことを侮っていたことにどうやら気づいたようである。気づいたってもう遅い。
「なんだね、一体」
僕はきちんと伝わるようにゆっくりと一言一言区切って喋った。
「水曜二限の、現代美術論の単位を、どうにかして貰えないでしょうか?」
僕がそう言うと、西園寺さんもさすがに驚いた顔をした。
「…なんだ君、うちの生徒だったのか」
「ええ、あんまり真面目な方じゃないんですけど」
教授が覚えていないのも無理はなかった。僕はこの授業、トータルで2回しか出席していないのだ。
「全く、大の大人が2人居て、未解決なんて情けがないのね」
ソファーの向かいで、芽衣ちゃんがそんなことを言う。今日は文庫本ではなく、手元にあるのは単語帳だった。
「全く。僕もそう思う」
説明するのも面倒なので、僕はいい加減にそう言った。
「もっと勉強したらいいんじゃない?」
「確かに僕には少し勉強が足りていないような気がするね」
僕がそう言うと芽衣ちゃんは得意気な顔をする。
「そうよ。ずっと寝てないであなたも数学とか英語とかやったらいいのよ」
そう言って芽衣ちゃんは単語帳を閉じ、カバンから何やらファイルに挟まれたプリントを出してきた。
「なに?これは」
「あなたの頭の体操に丁度いいと思って。明日の昼までにやっておいてくれない?」
「宿題は自分でやらなきゃ意味が無いよ」
「学校の出す宿題に意味なんて無いわ」
僕がそう言うと、あなたはなんにもわかってないのね、みたいな顔で、芽衣ちゃんは言い返した。どうやら機嫌が悪そうである。
「…何か作るよ」
仕方がないから僕はそう言って、重い腰を上げると、キッチンへ向かった。
バイトの僕は寝てるだけ。 榎木 @19b5116
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