22


 客が来た場合、フィーナは大抵祈りを捧げていると聞いていた。だからこの場に乱入してくるとは夢にも思わず、つい驚きを隠し切れないのだ。


「……フィーナ」

「ヴィーナったら、らしくない! もっとずけずけ言っていいの! それにそこの、えぇと……お客様も、変な嘘を吹き込もうとしないでくださいね! 修道女長様は議論すべきことがまだあるそうで、あと小一時間は必要ですって仰いました!」

「そう……そうなのね、フィーナ。……ありがとう、と言っても良いか分からないけれど」

「うん、どういたしまして。……怒ってない?」

「怒らないわ。ちょっと鈍いのよね」

「……ヴィーナにだけは言われたくないけど。──まあ、あとはお若いお二人でどうぞ」



 和やかに言葉を交わすと、そそくさとフィーナは出ていこうとした。去り際に漸く殿下を思い出したようで、「それでは失礼しました」とだけ言っていたけれど。


 ……静かになった室内だが、先程までのような息苦しさもなく、張り詰めた空気もなくなっている。今まで感じたことがない程の不安を誤魔化しながら、殿下の方を見やった。

 相変わらず私を見つめたまま、黙っている。当然のようだった沈黙も、慣れていた筈なのに気づけば違和感を感じてしまう。一度息を吸い込み、無表情のまま話しかけた。


「……フィーナ──妹が、非礼を致しました。どうか御寛恕くださいますよう」

「それは、良いのだが……」

「先程の問いに、答えさせてくださいますか。逃げずに、最後まで。わたくしの言葉を必ず信じると、約束してくださいませ」

「……ああ」


 躊躇いよりも驚きが大きいのか、返事が僅かに遅れていた。けれど、何方にせよ、認めたことに変わりない。






「──殿下がどれ程わたくしを嫌い、憎んでも……わたくしが貴方を恨むことなどありません。ずっと昔から、変わらず」

「無理に言わずとも……」

「約束通り、信じてくださいませんか? ……それとも、信ずる根拠がないのがご不満でして?」

「君を信じてははいるが……少し時間をくれ。受け止め切れそうにない」

「……ええ」


 嫌いも憎みも恨みもせず、ただ避けようという信念だけが私の中にあった。私がこの選択婚約破棄を受け入れる為に必要なことではあったけれど、間違いなく殿下を傷つけ続けたのだろう。四歳で婚約者として初めて会った、あの瞬間から、ずっと何年も。


 ……恋している訳ではないのだから、そういう感情はないのだけど。やはり打ち明けなければいけないと直感的に決めてしまった。罪悪感も心做しか軽くなった気もする。

 なくなるどころか、まだまだ重いのは……多分、許しを得られそうにないと思っているからだ。少なくとも私がいなければ、もっと幸せな人生を歩めた可能性だってあった。それを捻じ曲げてまでメレディスを守ろうとした私は、どれだけ憎まれてもおかしくはない。寧ろ、負の感情を向けられながら生きた方が、彼への贖罪ではないか。


 弁明の必要はない程、悪は見えている。この騒動の全ての悪を私が引き受けて、私がいないこと以外は当たり前のように過ごして欲しかった。少なくとも、彼だけは。

 勿論、メレディスには嘆かれていたいとも思うけれど。この浅ましさが諸悪の根源なのだ。



「──君は、許されるより、憎まれていたいのか?」

「左様でございますわ」

「咎は他者にも有って、君が負うべき罪はこれ程ではないとしても、なのか?」

「ええ、そうです」

「……本当に大事な者から遠ざかってまでか?」



 その言葉だけが、異様に心を揺さぶる。思わず息を呑み、目を見開いていた。

 「はい」と、肯定しようとした筈の口は、震えが止まらない。標所はないのに、顔色が急激に青ざめていくのが分かる。声を出そうにも、吸い込んだ息があまりにも少なかった。



「……っ……いえ、そんなことは……」


 心をぎゅっと握りしめられたかのようだ。メレディスから離れて、あの子の傍でいられない不安は誤魔化せそうにない。私がいるせいで酷い光景を見せて、苦しい思いをさせたのに、遠ざかってから二度と会えなくて、そのまま死んでしまうのが恐ろしいのだ。絶対的な信用もない男にあの子を任せている不安は、ずっと燻っていた。

 同じぐらい恐ろしいことに、殿下はそんな私の心まで見透かしている。どうしようもないぐらい弱い私を。


 メレディスには多少の悩みを見られこそすれ、庇護者たり得るように生きていた。あの忌々しくも私の味方と断じることのできるグレンも、病弱さを散々見られたが『帝国の継承者』としても不足ないと思われるような態度でいたのだ。

 そう。だからこの二人に心情を見破られても、弱い心を明かしたことはないし、悟られもしなかった。







「──殿下。わたくしは、とても弱い人間ですので、到底遠ざけられません」

「……ならば」

「けれど、あの子の為に強く在らねばなりませんわ。守りたくて愛おしい者が揺るぎないのなら、自分さえも駒にする。わたくしなりの誇りとして、弱い姿は隠し通そうと思っていましたので」



 そう言うと、心が晴れていった気がする。どうしようもない重苦しいこれは、今まで繰り返して来た自問自答だ。口にして、誰かに語って、初めて意味を持ち自覚したような。


 多分、理解していなければ私は今すぐ泣いていただろう。そして、私の性格からして絶対に、弱い人間である姿を見られた殿下に依存するのだろうと。言葉にするのと行動で示すのではまるっきり違うのだ。私にとって行動にするというのは、酷い重い意味を持つのだから。

 気づきたくないと思っていたけれど、でなければ心が壊れていた。……結局、傷が浅い内に自覚できたら良かったのだろうとも思うが、これまでの根強い価値観のせいで無意識に避けていたような。



「……そうだな。例え君がスカーレット=ローズだったとしても、ヴィクトーリヤだったとしても、強い人間であることに変わりはない。──耐え抜いて来たその気高い精神を、称賛する」

「……っそのような言葉をいただける程、優れた生き方はしておりませんわ」

「だが、俺はその生き方を尊敬している。……弱い人間であっても、何も悪いということはあるまい」

「守れないのなら意味は──」

「──同じ思いを何度もした。何年も、護りたかった人を、俺に力がないばかりに苦しい決断を強いていた。挙句、いつまで経っても苦しめ続けるだけだった。……同じ経験を繰り返しただけでは、信用できないか?」


 まるで予想もしなかった言葉が殿下の口から飛び出す。

 いつも感情を表にすることが少ない人だったから、苦しんでいたのだろうと思っても、私と似た境遇だとは知らなかった。その言葉からも、酷く悩み苦しみ、後悔に苛まれたことがよく分かる。同情する訳ではない。だけど、憎まれたい訳でもない。


 きっと殿下がそう感じるまでに想われた人は、薄幸というか、傍から見れば不幸せだったのだろう。私にその相手が誰かを知る権利も方法もないけれど、深く想われるのなら少しでも喜んでいたのではないだろうか。



「……わたくしは、殿下の思われることが全て分かる訳ではありません。けれど、絶対に憎み、嫌うことはないと、覚えてくださいませ。例えルウェリン公爵家、デュヴァリエ帝国が敵になっても、わたくし個人は貴方の味方であり続けると」


 これは、スカーレット=ローズの望みだ。義務感でも何でもなく、ただ心の底から共にいることだけを望んだスカーレット=ローズの本望。

 どうして彼女が嫉妬に狂ったのか、今になって分かったような気がする。生まれてからずっと敬愛し、欣慕し、心酔した相手。無意識に依存していた者が見知らぬ女にうつつを抜かし、漸く自分の気持ちを知ったのだろう。そのせいでますます燃え上がり、愛を渇望し、恋慕し、陶酔する程に依存を強めたのだ。愚かとも言える行動だが、その前兆らしき物が私にもあるのだから馬鹿にできない。


 スカーレット=ローズは、王妃になるべく生まれ育った。でも、もうそんな責任もない今だと言うのに、何故私は彼女未だになのか。

 知らなくて良いし、彼女以外になるつもりもないから。私はこのままの、とても強くてとても弱い人間で良いのだ。





「──憎まれていると思っていたからか、衝撃が大きいのだが……。俺も永遠に君の味方でいよう。誰にも預けられない弱さも、後悔も、全て引き受けさせて欲しい」

「……弱い姿だけ見せるのは、情けないのですけれど」

「失望するとしたら、弟を忘れるほど自暴自棄になる時だけだろう。最も、その心配はないな」

「ええ。世界が反転し、地獄に落ちたとしても有り得ませんので」



 絶対的な味方でいてくれる心強さは、多分、殿下も共有している。友人と言える程の近しさはなかったのに、元婚約者と言うべき不和もなく。不思議なこの距離感が、きっとちょうど良かったのだろう。

 ……想いを馳せることで起きる惨劇は、私だけが知っていればいいのだ。



「……セルゲイもここに来たがっている。また、訪れても良いだろうか?」

「非常識な頻度且つ改宗後に神への祈りを捧げてくだされば。それと、修道女長様のご機嫌を損ねたら出禁だと思いますわ」

「成程。意外にも狭い門なのだな」


 そう言って部屋から立ち去ろうとした。フィーナが聞き耳を立てている……ということはない筈だけど、少し聞きたいことがあったのだ。それに伴って私も静かに腰をあげる。










「──今更言っても遅いのだが」

「……?」


 ふと思い出したかのように殿下が立ち止まる。小さく呟いたかと思えば、此方に間を詰めてきたので思わず仰け反りそうになった。

 瞬きをすると、殿下がより小さな声で囁いた。




「──愛している」



「……は……っ!? お待ちくださいませ、それは──」

「あー……その、前より棘が抜けた。……気にしなくて良い」



 突然の意味が分からない言葉に続き、顔を赤くして誤魔化すような発言に、これまでのような感じがしない。慌てて立ち去る姿は以前なら全く見られなかった物で。



 いや、というか。どういう意味なのだろうか、本当に! 現在形だったのはつまり、味方でいる発言も……駄目だ、これ以上考えると既に容量不足で非常に危ない。


 深呼吸しても落ち着かない心臓は、あと何時間すれば元通りになるのか。不意打ちだったせいで煩いぐらいだ。





 ちょっと忘れかけそうな衝撃はあったが、フィーナに聞いておかなければならないのだった。廊下に出てちらりと見渡すと、誰もいない。殿下は祈りを捧げに行ったとか去り際に言っていたような気がするので、まずそこ以外にフィーナはいるのだろう。

 修道女長様とスラーヴァ国王陛下の『話し合い』はまだ続いているので、時間については問題なさそうだ。



 となれば、私達が寝泊まりしている部屋にいる筈。もつれそうになる脚を動かして、息切れを誤魔化しながら部屋に向かった。




「……お帰りなさい。結構早かったんだね?」

「ただいま、フィーナ。お互いに納得でき……いえ、あれは言い切れるのかしら。まあ、満足いく結果になったわ。とても感謝しているの、本当にありがとう」

「ううん、全然いいの。ところでヴィーナはどうして──?」

「──ずぅっと、不思議に思ってはいたけれど。わたくしが無知だったのかと思って触れなかったのよ。……どうしてフィーナは、わたくしのことをヴィーナ・・・・と呼ぶのかしら」



 私の名前はヴィクトーリヤだ。ヴィーナという略称は確かに存在するのだが、浅い知識から引っ張り出しても、ヴィクトーリヤの略称だった記憶はない。


 フィーナは驚きつつ困ったように眉を寄せて唸っていた。ヴィクトーリヤの略称として正しいのであれば、私の勘違いで終わらせて良いのだが、どうもそう言えそうにない。何か強烈な違和感と、結び付けられそうな出来事があったような気もする。



「……うん、多分、知ってると思うけど。ヴィクトーリヤの略称は違うの、ヴィーシャとかトーシャとかね。ヴィーナは……アルヴィナっていう名前の略称なんだけど。説明するには少し長引いちゃうけど、良い?」

「勿論よ、お願いしたいわ。……ところでフィーナ」

「なあに?」

「…………その、嫌でなければ、わたくしのことはヴィーシャと呼んでくれないかしら。スラーヴァ王国語に慣れていなせいで、少し疎外感を感じてしまいそうなの」


 他の名前で呼ばれ続けるのも違和感があるが、親しいのなら略称で呼び合いたいと思うのは我儘だろうか。

 心の中では子供っぽいことを頼む羞恥で死にそうになり、顔はそれをおくびにも出さない鉄面皮。婚約破棄された後から、度々メレディス以外のことでも、感情を動かされることが増えたような気がする。この調子で表情筋が動いてくれれば良いのだが、十六年分のリハビリはかなり時間がかかるのだ。日々、鍛えられるような努力をしていかねばなるまい。



 ……話がずれた。フィーナは私の願いを聞くと、目を輝かせて嬉しそうに答えてくれる。



「私もそう呼びたかったの! まだ愛称で呼べないけどね。ヴィーシャ!」

「……嬉しいわぁ。これからもまだまだお世話になるわね、フィーナ」



 にこにことした笑顔は非常に愛らしい。メレディスの天使の如きほんわか笑顔を彷彿とさせる可愛らしさだ。年不相応な幼さを本人は厭うけれど、私は成長はゆっくりであっても良いと思ってしまう。


 ……そう言えば、『そう呼びたかった』ということは。私のことを絶対にそう呼べなかった事情があったのだろうと推測されるのだが、やはり宗教関連なのだと思う。一度に問題が積み重なるので、殿下問題や修道女長様の『話し合い』等、諸々の悩みを対処できる容量が空くまでは忘れることにした。

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完璧人形の令嬢は、追放後に元婚約者から迫られています!? 音帆 @otoho-desu

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