第7話 紅茶と菓子と六人の魔術師


規則正しく並ぶ太い柱に支えられた長い廊下、高い天井。複雑な模様の描かれた青緑色のタイルを踏みつけて進む。建物の中に入ったはずが、円柱の列の向こう側は屋外だ。中庭、というらしい。短く刈り揃えられた草が満遍なく、逞しく生えている。なんと木まで植わっていて、あらゆる木陰で人々が熱心に話し込んでいる。


「気になります?わたしもです。つい今朝まで茶けてさながら焼け野原でしたが、エア氏のトンデモ広域魔法でこの通り。竜の大群だの反則級の魔法使いだの、我々としても今日は情報量の多い日です。あれは何だったんだ!頭を冷やしたい!誰か!!って方で賑わってる模様ですね…おっと、すみません」


ジェーンはすらすらと語っていたが、一瞬注意が緩んだようだ。円柱の周りで立ち話をする集団のひとりに肩をぶつけた。衝撃が伝わってくる。手が解けたらはぐれてしまいそうだ。


「失礼しました、ここは風通しいいでしょ?何かあると分野とか関係なく皆ここに集まっちゃうんです。お祭りみたいで好きですけど……あらご機嫌ようマーズ氏!いいえ、彼女はわたしの叔母の隣人の仲人の従兄弟の娘さんなので、全くそんなことは。あ。そうです、昨晩の件ですが、今夜中、遅くとも明日の午前中には追ってご連絡いたしますので!お疲れ様です、では」


私に気を回しつつ、出くわした知人への対応も抜かりない。私を興味深そうに眺める視線は絶えないが、いざ接触されそうになるとジェーンが壁になってくれる。


「私、捕まってカエルみたいに解剖されちゃうんじゃないですか」


階段を上り、人気のない薄暗い廊下に差し掛かったところで、私は冗談めかした。解剖、と自分で言ってみると、本当にそんな気がしてくる。


「大丈夫、せいぜい自白剤飲まされて、エア氏の素性を洗いざらい喋らされる程度です。まあレシピはうちのラボが独占してるんですけど。あ、ええと……乱暴なことは一切しません!あなたはウチで守る!うーん説得力ないや、ごめんね!!」


ジェーンが慌てる。どこまで計算なのか分からないが、今はこの人に頼るしかない。

どんな仕組みだろう。この空間には光源がないのに、鼻先と足元の様子だけは辛うじて見え、少し遠くを確認しようとすれば視界が完全な闇に覆われる。灯りがないから暗いのではなく、見せないぞ、と言わんばかりの強い意志の気配がする。ここに一人で放り出されたら、間違いなく嫌な思い出が増えるだろう。エアであれば理由をつけて放置したかもしれないが、ジェーンはドアノブを掴むまで私の手を離さなかった。


「着きました。ラグノアちゃんは非認証なので、手続きにちょっと時間をば」


金縁の立派なドアだ。私たちの頭の高さに、拳大ほどの立体的な獣の顔の彫刻が付いていて、それが重厚な造りの輪をくわえている。彼女は輪を強く握り、十秒ほど沈黙した。暗いためか、やけに長く感じる。


「お待たせです!さ、行きま」


機嫌よく、ジェーンが再びドアノブに手を伸ばした時、強い光が差し込んできた。爽やかな空気の流れが生まれる。内側からドアが開いたようだ。


「ちょっと!かわい子ちゃんのエスコートが台無しでしょう!」


勢い余って前へと転びかけた彼女は、室内の誰かに憤慨している。


「フローライトじゃん。軽食を買いに行こうと思って。君の分も頼まれてあげるよ」


眠たげな男の声だ。影の形から、ジェーンよりもだいぶ背が高いのがわかる。


「じゃあサバトのベーコンサンド…じゃなくて!今買い出しは控えてください。そら引っ込め!ラグノアちゃんほら、どうぞどうぞ」


彼女は男を奥へと押しやった。箒を壁に立てかけ、重そうな戸を支えて私を招き入れる。

窓が広く、薄いカーテン越しの自然光で満たされた部屋だ。お茶の香り、動物の臭い、薬草を煮詰めた渋い匂いが混ざり合っている。部屋の真ん中で存在感を放つのは作業机。一人用の大きさのものが全体として長方形に向かい合うよう組み合わされている。綺麗に片付いている机、紙や本が積み上がっている机。小さな獣を乗せた一角もある。紙を下敷きに眠る黒い毛玉を撫で、頬杖をついていた短髪の女性。彼女は青い塗料に縁取られた目を細めると椅子にもたれ、優雅に手を振ってきた。やや戸惑いながら同じ仕草を返す。すると毛玉が起き上がり、しなやかな手足を伸ばして向かいの領域へと跳ねた。紙の山が崩れる。驚いた拍子にインク瓶をひっくり返した大柄な男性が悲痛な声を上げ、毛玉を捕まえようとする。


「皆さん、只今戻りました。マルコさん……お取り込み中のところ大変恐縮です。こちらが期待の新人、ラグノアちゃん!ちょっとお疲れなので、距離感を詰めるのは明日以降を推奨します。女史とテオはまだお戻りでない様ですが……まあ軽いアイスブレイクです。わたしの方から先だって彼女の魅力をば説明いたしましょう」


「いいえ!ジェーンさんまだ大丈夫です、自己紹介くらいは」


恥ずかしいことになる予感がしたので自分から来歴を語ろうとすると、


「そうだよ、僕も君のこと知りたーい。どうして裸足なの?」


先ほどの眠たげな声が口を挟んできた。重そうな目蓋、猫背、青白い顔。黄みがかった茶髪。しっかりした生地の前ボタンのシャツに、長い足を真っ直ぐに覆い隠す濃い灰色のズボン。脛まで届く薄汚れた白い上着を羽織っている。男は私たちの背後に回り、ジェーンの肩に手を置いた勢いで彼女の頭に顎を乗せ、爬虫類のような目を向けてくる。


「え、っとそれは……エアの魔法で靴が履けなくなってしまって、58番君に乗る時にそのまま。ジェーンさんに防護皮膜をかけてもらったので問題なく歩いてこられました…あ、58番っていうのは竜で…」


出鼻を挫かれたとはこういうことだ。緊張も加わり、言葉がうまく出てこない。

ここで重要なのは私が裸足である理由ではない。それなのに、つい引っ張られてそこを起点に話し始めてしまった。疲労で頭が回らず、軌道修正することが難しい。居心地が悪い。机の足元に目線を落として次の言葉を考える。こぼれたインクで青黒い水たまりができている。


「おいガミジン、あなたのせいで困ってるでしょ。それにくっつかないでください」


「メアリーちゃんの仰せのとおり、ラグノア嬢には指一本触ってないんだけど?」


「メアリー呼びはやめろと何度言ったら分かるんですか気色悪い、速やかにわたしから離れるんです、壁に手をついて静かにしてください」


先ほどまでとは打って変わって荒い口調だが、気軽なやり取りの積み重ねが伺えて、少し羨ましい気がする。明らかにジェーンは嫌がっているが……。

その時、ぼぐっ、と鈍い音がした。


「緊張感もってくださいよね、まったく」

 

ジェーンは男性を肘で小突いたようだ。ガミジンと呼ばれた痩せ型の男は腹部を押さえ、よろよろと短髪の女性の隣、整頓された席につく。その様子にジェーンは鼻を鳴らした。


「痛っっっったい……容赦ってものを…ツボってるでしょキャスさあん」


「ふふ…いいや?」


呻いて机に伏せたガミジンに、女はかすれ気味の落ち着いた声を返す。キャスと呼ばれているらしい。先ほどの小さな獣を両腕で抱いている。あれは確か猫と言ったか、変身魔法の図録で見たことがある。黒く長い前足で、女性の大きな耳飾りを揺らしている。金色の目が一瞬だけ私をじっと見たが、すぐに逸らされた。


「不慣れな子に変な絡みをするものじゃないだろ……ジェーンくん、フェリくん達はバリスタの後処理が長引いているようだ。お茶でも飲みながら一回落ち着かない?僕が淹れるよ、君はラグノアさんに…まず履物を。だって今日のフェリくんはご機嫌だと思う?」


先ほどインク瓶を倒していた…確かジェーンにマルコと呼ばれていた男性が、苦笑いをして席を立つ。いつの間にか机が元通りになっている。背も肩幅も大きく、二の腕なんて私の太ももと同じくらい。白い上着が小さく見える。だが、あの身体は暴力のためのものではないのだろう。鍛え上がったわりには所作が無防備だ。そんなことを考えながら、私は努めて笑顔を保つ。


「そうですね、お願いしますマルコさん。ラグノアちゃん、代えの靴って今持ってませんよね?あとお髪も整えていーい?」


身に纏っていた大判の布を素早くたたみながら、ジェーンが尋ねてきた。薄い身体に密着した染色の綺麗なセーター、上質そうな厚手の膝丈スカート、丸みを帯びた革製のブーツ。その上に他の三人と同じ長い上着を羽織っている。


「ああ、靴なら……」


多少の汚れやシワがあっても、みんな靴を履いていて髪も整っている。私の見た目は水準に届いていないらしい。飛ぶ前にエアの服一式を預かっていたはずだ。彼とは同じくらいの足の大きさだから、間に合わせにはなる。

その場で荷物を手探りすると、草や細い蔓の感触に当たった。例によって靴の裏についた種がエアの魔法で育ったのだろう。構わず、一揃いを取り出す。


「私のではないのですけど、これを履けば大丈夫ですか?ただ底に根が張ってるので、履く前に……取り除きたいのですが……あの」


「………」


ジェーンが、草まみれの靴を見て目を見開いている。呼びかけても微動だにしない。


「ちょっとぉ!!」


声のした方を見ると、ガミジンが机に両手をついて立ち上がっていた。ガタンと椅子が倒れる。気怠そうな気配はかき消え、蛇のような眼差しで私の手元を凝視している。


「声が大きいよ、森から来たのなら種くらい足にくっつけてくる。原始精霊の広域魔法で成長が促進されたんだろう」


装いきらびやかなキャスは一見冷静だが、しきりに髪をかき上げながら、瞬きをせずに膝の小動物と私とを見比べている。原始精霊という言い方が引っ掛かるものの、聞けるような状況ではない。


「み、皆落ち着こう、ラグノアくん?」


「はい!」


大男が、湯気の立つ人数分のティーカップを盆に乗せて運んできた。茶器が小刻みに震えている。一番手前のキャスの机の上に盆を置くと、私の前で中腰になり、柔らかく語り始める。


「えー……初めまして。僕はマルコ・ペンバートリー。魔術師。ここ…魔術研究院薬学科グランハイム研究室の副室長をしています。グランハイム所長と交流があったようだね。……我々は所長のもとで、薬の研究や調合を仕事としてる。もちろんご存知だとは思うが、薬の主たる原料の一つが植物で……彼らのことを知るのも仕事のうちなんだ。あなたの住んでいたところは、我々も、どんな植物が生えているか。未知なんだよ。だから……もし良ければ、分けてくれると非常に嬉しいんだ」


言葉を選びながらも、端々に興奮がにじみ出ている。


「先生……グランハイムさんというんですね」


「ええ?知らなかったのかい?」


「先生は先生だったので……いえ、そういうことでしたら全て差し上げます」


所長とはどのくらい偉い役職なのだろうか。魔術に関するやり取りを重ねるばかりで、先生の立場、名前すらも尋ねる発想がなかった。私は靴を差し出す。マルコは素早く懐から出した手袋をはめ、丁重に受け取る。


「……本当にありがとう、専用の器具で根を取り除いたら返すから」


「もし大変であれば底を切っても…ひゃっ!」


不意に、首筋を柔らかな何かでくすぐられた。嗅ぎ慣れない芳香が漂う。


「マルコ、女の子の靴を取り上げる趣味なんてあったの?」


後ろから氷のような声が降ってきた。


「フェリさん!!?いつお帰りで?」


ジェーンが久しぶりに声を上げる。


「今。入り口で何やってんのかと思えば。随分とまあはしゃいでるわね……ふうん」


長身の女性はマルコの横で足を止め、一人一人を睨みつける。エアの靴にも片眉を上げるのみ。最後に私と目を合わせると、ぱきっと口角を上げた。


「あなたがラグノアさんね?会えて嬉しい。私はフェリーチェ・オビウス。ここの室長です。そうね、早速あなたには」


フェリーチェは突然言葉を切り、真顔でため息をつく。

すっきりとした白い顔に意思の強そうな紫の瞳。ゆるくウェーブした亜麻色の長髪を飾り気なく後ろで束ねているが、やや乱れて面長な輪郭の両側に細い毛束が出ている。さっき私の首筋を撫でたのはこれだろうか。


「あの、フェリーチェ…さん?」


「ごめん、ダメ。一時間後にまた。術式の習得状況を話せるようにしておいて。今日は永い日だわ」


きびきびと各人に短く指示を出し、隅の長椅子にボスッと倒れ込む。かかとの高い靴を床に落としたきり、フェリーチェは静かになった。




「あ」


紅茶に口をつけると同時に、外して首にかけたきりのゴーグルのことを思い出した。


「どうしました?熱かったですか?」


ジェーンは分厚い本のページをめくる手を止め、首を傾げる。


「これ、竜騎兵のカイルさんのものなんです。返し忘れちゃってて」


「あー!落ち着いたら返しに行きましょ、ええ。わたしで良ければ付き添いますし。あの人可愛いですよね。ただ…軍部、レスウィー少佐の所属先に取り次ぎを頼むのは避けたいです。会うなら個人的に、友人に会うノリしかありえません。起きたらフェリさんに聞いてみましょう。ツテがあるはずです」


ジェーンは顔を曇らせる。


「何かまずいことが?」


「竜種と竜騎兵さんをもろとも撃ち落としてた火柱。ラグノアちゃんにも見えてましたよね?ええと、私たちの組織が管理する王都防衛用の武器が、軍部の高コストなユニット…竜騎兵をいくつかダメにしちゃったようなので。非常事態だったとはいえ、責任の所在でしばらく揉めそうなんです。矢面に立たされるのはウチの防衛科ですから?薬学科のわたしたちは気楽に仕事をいたしますが。このラボからは、特に適した二人を動力として供出させられたのみです。一人は叩き上げのフェリ女史。もう一人は超新星のテオ青年。そういえば彼、ずいぶん戻りが遅いですね。ここでは一番ラグノアちゃんに歳が近くて」


私はにこやかに相槌を打ちながら、これから身を置く王都の断片を拾い続ける。

竜騎兵の命は軽いのだろうか。魔術研究院に所属しているからといって、その外側の死に平然としているジェーンが分からない。同じ王都の人間のはずなのに。


ーーーいや。政治ってやつだよ、ラグノア。同情したければ獲るものを先に獲らなきゃ。


思考にエアの声が混ざる。彼の靴なんて履いているからだろうか。足元に温かみを感じたのも束の間、彼の不在を意識したとたん、泥のようなものが喉元にせりあがってきた。ティーカップを煽り口角を上げる。


「君さあ手より口が動いてない?……確かにテオ遅いなあ。もう夜だよ」


ガミジンがジェーンの語りに茶々を入れてきた。私は今、彼らの間に収まっている。具体的には、テオという人の席に座っているらしい。椅子の高さが私にもちょうどいい。ジェーンが言い返す前に、私は明るい声を出す。


「テオさんってどんな方なんですか?」


「あー……熱心でいい奴だね。ラグノア嬢が来るのを楽しみにしてたよ。あと……ほら、色々変わった趣味がある」


ガミジンは自分の机の端から、小さな木彫りの彫刻をつまみ上げた。羽ばたく蝶だ。翅の模様や眼まで丁寧に彫り込まれている。


「何かやってるな〜って気になってたら、完成したやつをくれたんだよねえ。飛び級してるくせに多趣味なんて、あ〜あ僕らもウカウカしてらんないよ」


彼はニヤッと腕組みをした。ジェーンは何か言いたげな気配を出しているが、黙ってペンを紙に走らせている。


「飛び級って……」


「あ、そうか。えーと、テオみたいな恐ろしくデキる奴だと、早く勉強が終わっちゃうもんだから、早めに学校を追い出されるの。ここの皆が魔術師の資格を得たのは22、3の時だけど、テオは何と18歳。ラグノア嬢は今17だっけ?」


「その辺りらしいです。王都の人だったらとっくに学校に通ってる歳ですよね?にぎやかに勉強するの羨ましいな」


「そういうもんかあ。まあ結局自分が何をしたいかだから……いや、学校に通わないで魔術やってる子に会うの初めてだったわ。今までどんな暮らしだったか想像もつかないけど、こうして王都に来たわけだし。やっぱり同年代でつるみたい?」


ガミジンは肘を曲げたまま両手のひらを天井に向けた。知らないことを知らないと言う人だ。

私は答えに困った。


「どうなんでしょう。歳って気にならなくて。人間?とつるんだのもここ半月ですし、お話しするだけでも目が回りそうで……使い方合ってます?」


「……なるほど。性別年齢あるいは立場、人の中で育った僕たちは相手そのものを見てるようで…………ん、そうだなあ。必要そうな時に使いどころを教えてあげる、面白いことがあったらすぐ聞かせて?ラグノア嬢」


目を見開いて独りごちていたかと思えば、眠たげな笑みを投げ掛けられた。人のペースを乱す振る舞いをする一方で、何を言わないか狙い定める意思が見え隠れする。ガミジンを最初ほど警戒していない自分に気づく。

若い女を嬢と呼ぶのは一般的なのかどうか聞こうとした時、入口の戸がぎいと音を立てた。


「ただいま戻りました、すみません遅くなって」


目の大きい黒髪の青年が後ろ手にドアを閉め、軽く頭を下げた。揃いの上着の裾がくるぶしにまで届き、茶色い紙袋を抱えている。


「あーー!!!」 


はす向かいでマルコが何か言おうとしていたが、その前に青年は私を指差し大声を出した。小走りで距離を詰めてくる。


「こ、こんにちは?」


私は椅子から立ち上がって両手を前で組む。


「こんにちは!テオっていいます。長旅で疲れてるかなって、これ」


底つきの紙の袋を手渡された。ずっしりとした重さが両手にかかる。温かく湿っていて、刺激の強い匂いがした。焼き上がったパンにも似ているが、嗅いでいるだけで食欲が満たされるような重たい匂いだ。

テオと名乗る青年は屈託のない笑顔を浮かべる。


「ありがとう、私は……」


「知ってる。ラグノアちゃん!今日が待ち遠しかった。ねえ精霊仕込みの魔術ってどんな?どういう暮らしをしてたの?君が来るって聞いて寝不足なんだオレ、気になってしかたが」


「テオ」


マルコの発した重低音がビリビリと鼓膜を震わせた。テオの顔がこわばる。


良くなかったのは「魔術」か「精霊」か。エアが精霊として認知されていることは分かってきた。

精霊。大地から無尽蔵に魔力を引き出し、奇跡をほしいままにする存在。召喚によってその力を求める試みが積み重なり魔術の基礎となったが、魔力制御の技術体系が生み出されてからは召喚術は廃れ、今では彼らの実在さえ確かめるすべもない、らしい。教本で読んだことだ。


エアは精霊なの?教本から目を上げて、かつて私は彼に問うたが、わかんない!と笑われたきりだ。お互い無口になって精霊の話は二度としなかった。

私が彼について知っていることはそう多くない。だが。


「エアは自分を精霊だとは言いたがりませんでした。そう呼ばれたら嫌がる…と思います。彼を表すさい、ほかに良さそうな言い方は見つからないのですが」


声が震える。さっき赤毛の王に食ってかかった時よりも怖い。エアが側にいない今、この人たちの機嫌を損ねたらどうなるんだろう。


「…わー…申し開きもできないです、オレ、突っ走っちゃって……無神経でした。お詫びってのは違うんですけど、その中に…口に合えばいいんですけど…」


テオの見開いた目に涙が溜まっている。そういえば拳二つほどしか目線が変わらない。むしろ私の反応が彼をへこませてしまったようだ。こんな場面は初めてだ。何て言葉をかけるべきか。


「その袋ノブレスヴィーテじゃん、今日やってたんだ?」


キャスが感心したような声を上げる。


「一昨日からおばあちゃんに注文してあったんす。事情を話したら焼き立てを持ってけって聞かなくて。何個かオマケもしてもらいました」


「変わった匂いですね、開けてもいいですか?」


貰ったものはその場で開いた方がいいとエアが言っていた。食べ物であればなおさらだろう。巻かれた袋の上部をまっすぐにしていく。覗くと、私の手のひらほどの大きさで狐色をした塊がたくさん入っている。重たい匂いに鼻が麻痺しそうになるが、穀物を練って焼いたものであるのは間違いない。


「ええと、私のためにパンをこんなに。ありがとうございます、テオさん」


「あ、これはね……」


私は正しく微笑んだはずだが、テオは困ったようにきょろきょろしている。


「うん。あたしがいこうか」


キャスが顔の前で両手の指先を合わせ、首だけこちらに向ける。


「パンの仲間だけど、クルストって呼ばれるものさ。あたしは朝食に食べたりするが嗜好品……菓子の扱いだな。小麦粉にバターと卵と砂糖を加えて、型に流しこんで焼くんだよ。それなりの焼き菓子を売る店は多いが、中でもここのクルストは特に配合と焼き加減が素晴らしくてね。味をまねようにも買うのが早い」


「小麦粉に……砂糖を?」


「そ、甘くて驚くなよ。その調子だとバターも馴染みがないね?食べるならゆっくりがいい。薬効専門の魔術師が六人もいるが、腹を下すのは嫌だろ」


一つ取り出して周りにも勧める。耕された土のように柔らかく、軽く握ると手に油分が染み出した。牛の子供が育つための脂がこんなところで使われるのか。慣れないが、不快な匂いではない。思い切ってかじりつく。


「……!」


熟れた果物を搾り、丸一日煮詰めてもここまで甘くはならないだろう。軽く噛んだだけで喉に落ちてしまうが、包み込むような香りと熱が舌に残る。川をはねる石、エアの眼差し、太陽、眼下の街並み、カイルの後ろ姿。次々と、今日見たものが浮かんだ。


「どうですか?」


頬張る合間に、ジェーンが尋ねてきた。私たちの食生活は、食べやすいか栄養があるか、そうでないかで構成されていた。私は焦り、


「きれいです」


思ったままを口走る。ジェーンが目を丸くした。


「よかった!いろいろ食べてもらわなきゃですね」


白衣の魔術師たちはさわさわと笑う。すっかり陽は落ち、閉じられたカーテンから夜の冷気が伝わってくるが、室内は昼ひなかのように明るく、肌になじむ温度だ。

私はこの人たちを知りたいと思った。

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