第6話 それならば届く


田園地帯を抜け、だんだんと屋根の数が増えてきた。牛や羊が人に置き代わり、集まってこちらを見上げている。風の音に遮られて声は聞こえないが、手を振られている気もする。私は、注目を浴びていることに張り詰めた。まだ王都ではないのに、あんなに人がいる。不安を感じて視線を横に移すと、カイルが下に向かって手を振っていた。


(サービス精神ってやつだよね)


ぼそっとエアが語りかけてくる。


「義務だ」


風を圧して声が飛んできた。相当な声量のはずだ。カイルの横顔は地上にいた時よりも若々しい。彼はどんな少年だったのかな。ぼうっとそんなことを考えていると、ひときわ立派な街道の先に壁に囲まれた領域が見えてきた。壁の内と外とで明らかに世界が違う。土と緑の世界から、色とりどりの石で飾られた人工物の世界へ私たちは進んでいる。その中央に見える白い石の丘は無数の建物を生やしながら中心に向かって高さを増し、頂上にそびえる重厚な建物から飛び出した尖塔が天をつく。いくつかある塔から旗がたなびいている。見たことがある模様だ、本の右端によく刻まれていた。


「あれ?」


流れの速い雲で満たされた空を背景に、コウモリのような生き物の群れが、尖頭にたかっている。毎秒それは大きくなる。一体一体、ちょうど私たちが乗っているような、


「エア!!!」


カイルが切迫した声を上げる。


(先行っていいよ〜)


呑気なエアの語尾を背に、竜の腹を蹴り地上目がけて滑空する。私は茫然としながらも、彼らが時計回りに一回転したのを見逃さなかった。加速に次ぐ加速で、矢のように尖塔へ突っ込んでいく。


「どういうこと!?」


(ふふ、野生の竜種が集まってきてる)


目的地が大変なことになっているのに、この上機嫌。全くわからない。いや、それよりも。


「竜って北の山に篭ってるんじゃなかったの!?」


カイルから聞いた話だ。


(そんな簡単な話じゃない。あれだけ建物が密集してる、放置すれば人的損害が…ほら火を吐いた)


くすくすと笑う。派手に転んだ私に手を差し伸べる時のエアの柔和な喋り方。体力増強のためと、木登りを50セットやらされた時がこれだった。術式の覚えが悪かった時も。この笑いは、未熟な生き物への哀れみだ。エアは王都で何がしたいのだろう。ここを侵略すると言い出しても私は驚かない。


黒い影はみるみる増えていく。王都の上空を覆い尽くす勢いだ。人を乗せた竜がひと組につき野生種数頭と交戦し、何とか上空に止めているように見える。あの中にカイルも加わったのだろうか。王都の東側の壁の砲台から、一斉にキラキラした火柱が上がり群れを散らす。何頭かは貫いたようだが、焼石に水といった様子だ。中央の巨大な城の裏から竜騎兵が続々と舞い上がっていたものの、先ほどからそれも途絶えている。


ジリ貧という状況なのでは?近づくにつれ、より細かく状況が見えてきた。

野生の方には多様性が認められる。炎を吐くものもいれば、雷を纏う個体、毒の霧を出すタイプもいるようだ。砲台との連携がうまく取れていない。竜騎兵は威勢よく長い槍を振り回すが、鼻先を火柱がかすめ、慌てた様子で旋回をする。そんな光景ばかりだ。ちらほらと倒された野生種が地に向かっていくが、今、確実にひと組の竜騎兵が墜ちたのを見た。せっかく王都にたどり着けそうなのに、このままでは街や人が燃えてしまう。


「エア、笑ってないでさ」


彼に一番期待してはいけないのが同情や共感。でも、目の前の状況を打破するのであればこれ以上の適任はいない。エアは、一段飛ばしで魔法を使う。エネルギーを自身に集中する過程をスキップするのだ。私や、多くの常人が四苦八苦してかき集めるのを横目に、使いたいと思った分だけ魔力を差し出される立場らしい。

私たちが住んでいた森の奥に、この世界の魔力の源がある。王都の魔法の研究者達は、先祖代々その仮説を確かめようと頑張っているのだそうだ。加えて先生が言うには、エアは源に近しい生き物で、だから魔法が自在なのだと。私なんかの知ったことではないけれど。


(もうちょっと近づいたらね!)


こんなに張り切っているのは久しぶりだ。何か手を打つ気があるのだろう。エアがとびっきり楽しい方法で。そしてこういう時にはロクなことが起きない。肺活量を鍛える!などと、笑顔で川に沈められた日もあった。最終的に三分素潜りできるようになったが、あの苦痛は忘れられない。


「人…街への被害が出ないようにやるんでしょうね?」


私は無駄だと知りつつ念を押す。


(もちろん。途中で下ろすから、あとは流れに身を任せて)


「うん…?」


流れとは何だろう。全然イメージがつかない。ぐるりと一帯を囲う城壁に飾り立てられた門が一つ。立派に舗装された道に沿って、その門の前では馬車が渋滞を起こしている。カイルと別れてから徐々に高度を落としていた私たちは、馬車四つ分ほどの高さの城壁の上をエアの胴体すれすれで通過する。大きな弓を上へと射かける兵士と目が合った。カイルに比べると間の抜けた顔をしていた。それもそうか、大きなカラスに乗る少女なんて。


(じゃ、ここから動かないでね)


どすん。鈍い衝撃とともに、城門の内側すぐの建物の屋根に着地した。傾斜が抑えめなので滑り落ちる心配はなさそうだ。エアの首根っこから手を離し、慎重に足をつける。肩がけ鞄を背負い直す。


「何をするつもり…」


久々の地上に若干ふらつきながら問いかけるも、エアは飛び去った。この建物はいわゆるメインストリート沿いにあるらしい。彼の向かう方向には段々に箱を生やした石の丘があり、その頂上にそびえる立派な建物がこの王都の中心であることは直感的にわかる。目元の違和感に思い至り、ゴーグルを首にかけると、周囲の色彩に脳天を撃ち抜かれる。真っ黒なエアが、翼を広げて白い王城へと直進する光景。図と地が目まぐるしく入れ替わって情報量にめまいがする。思わず下を向くと、赤茶色のレンガの屋根に少しだけ安心した。馴染みのある色だ。


視界が落ち着くと、キシャアアアアと耳を貫くような竜の鳴き声と爆撃音の只中に立たされていることに気づく。と言っても、戦いの起こっている場所はここから距離がある。前方の城が、黒い霧で覆われたようになっている。

何をしているのだろう?よくよく考えると、人を捕食するのが目的なら、守りの硬そうな城に集まるのは不思議だ。ここに来るまでに、もっと襲いやすそうな場所はいくらでもあった。蛾が明かりに集まるように、高いところを目指す習性でもあるのだろうか?もっと知性のある生き物に見えるのだけれど、野生種はそうではないのかな。

銀の甲冑を着込んだ竜騎兵たち以外、人の姿は視界に入らない。皆安全なところに隠れているのだろう。


「そうだ、エアは?」


野生の竜から吐き出される赤やら紫やら、混ざり合って毒々しいブレスと槍の閃き、定期的に打ち出される火柱の合間を探すも、姿が見つからない。

血飛沫が炎で蒸発する。こんなに殺意に満ちた暴力のやり取りを見るのは初めて。それでも真っ直ぐ立っていられるのは、あの爪が私に届くことはないと分かっているからだ。竜たちが王城に釘付けである状況はいつ覆るとも知れないのだが、ここにエアがいる以上、あの人は私を助ける。


空を覆う厚い雲から雨が降り始めた。


彼は、私が生きていることに執着している。修行と称して私を水に潜らせた時も、横で注意深く頭を押さえていて、必ず意識の途切れる一拍手前で呼吸を許した。私の心拍ひとつ聞き逃さない意志が、喜と楽しかない虚ろな感情の隅っこに許された彼らしさなのだ。


雨が降る。これは慈雨と言えばいいのだろうか、しっかりした水量なのに頬に優しく当たる。濡れた頬からエアの歩いた後の風の香りがする。

屋根から身を乗り出すと、王城のそびえる丘を背に、大通りの突き当たりの広場で、独り立つ青年の姿が見えた。


「……!?」


私は混乱する。あれは絶対にエアなのだ。どうりで空を探しても見つからないわけだ。あの腹立たしいクソ美少年の姿しか取らないものだと思い込んでいた。悔しい。何より信じられないことに、布を何枚も重ねた上等そうな服を着て、身長よりも長い杖を掲げている。顔も確認できない距離なのに、杖の先にはめ込まれた大きな緑色の宝石が、光を吸収するように輝いているのがわかる。

私でも知っている。今時あれほど仰々しい魔術師なんていない。エアは典型的な…それも古い、物語の中の魔法使いのイメージを「着た」のだろう。

何のために?

青年が杖を上にかざした。雨粒の一滴一滴が淡いエメラルドの光を帯びる。温かい。辺り一体が雨の音に包まれた。

気づけば竜の咆哮も、砲撃の音も止んでいる。私は王城を仰ぐ。竜の群れが散っていく。人を乗せていない野生種がこちらとは真反対の方向に去っていくので、王城を取り巻いていた黒い霧が一気に晴れた。残された竜騎兵たちは、呆気に取られた風に野生種の尾を見送っている。


静かになったからか、そこらじゅうでバタバタとドアの開く音。大通り沿いの建物で息を潜めていた人々がこわごわ外に出て、広場の中心のエアを見つけたようだ。

物珍しいのか、エアに向けて駆けていく子供。追いかける大人。それに釣られて広場へと向かう人々。

エアが杖を掲げ、互いの顔が見えるほどの距離感で子供たちを制止する。大人が追いついた。人々は自発的に、秩序だって彼の前方に並ぶ。円形の広場の手前側、半分弱が様々な色の頭で埋め尽くされている。異様な雰囲気の正体を確かめようとしてか、どんどん人が増えていく。私の立つ屋根の下にも大勢が隠れていたのだろう、賑わいが足を伝ってくる。真下の大通りが人の頭で詰まっている。

エアが竜の群れを退けたことよりも、この活気に胸が浮き立った。


さて、あのふんぞりかえった青年エアは何をする気なんだろう。

一つ一つの声は拾えていないが、人々は彼によって事態が収拾されたのを感じ取っている。おそらくこの気配は期待感だ。王都の人にとっては得体の知れない奴なのに、これからエアが素敵なことを施してくれると信じている。ちらりと軽蔑の念が過ぎった。今まで自分にしか向けてこなかったものを、名前も知らない大勢に広く薄く抱いた。さわさわとした群衆の声に興奮する一方で、私は強く苛立っている。


その時、エアが杖の下側で石畳を突いた。しゃん、と薄い金属が緩く触れ合うような音が届いた。広場全体に、植物の紋様の陣が現れる。人々の足元をエメラルド色の光で染める。

彼が杖を高く掲げると、雲が割れて陽が王都を柔らかく照らした。雨に反射して、全体が煌めいている。美しい。美しいけれど。

歓声がうるさい。この光景を心底下らないと思う私がいる。俯いて、肩にかけた鞄の紐を握りしめる。私はこれからどうしよう、エアがよく分からないし、ここの人達のことはもっと分からない。途方に暮れそうだ。不意に頭上が暗くなった。


「上からすまない!」


聞き覚えのある声、羽音と風圧。太陽を背に現れた竜騎兵は、金属音を響かせて地に降りた。


「カイルさん!大丈夫だった?」


「ああ。最初から参加したかった、くらいだ」


冗談か本気か分からない。少し息が上がっている。いつ着替えたのか、銀の甲冑を纏っている。見た目だけならひらりと華麗に。ガシャンという音を伴って鞍から降り、カイルは私の隣に並んだ。


「あ、槍……」


ふたりとも目立った傷がないことに気が抜けて、つい口に出してしまった。遠目からも軌跡がやけに輝いていたので、よほど手の込んだ武器が支給されているのだと。


「気になるかい?」


声が弾んでいる。左手を下に添えて刀身を見せてくれた。細かな装飾部分に、雨の落とし損ねた血が赤黒くこびりついている。刃と柄の境目に巻かれた…青くて綺麗だった様が想像できる布も、雨と血に濡れて死臭がする。美しさと強さとを兼ね備えた造りではあるけれど、じっくりと眺めてはいけない気がした。


「…何頭くらい突いたんですか?」


「うーん…40前半かな。目を突いたり、翼の付け根を斬りつけたり」


「目を狙う余裕があったの」


「天職なんだよ。あんな数を相手にしたのは初めてだけど、五人分は活躍できたんじゃないかな」


安心したようにカイルは笑う。思っていたよりも歳が近いのかもしれない。頭を撫でる手のひらを待ちわびる子供のようだ。

鎧には傷一つなく、相棒の竜も同様に。これまたお揃いの兜を付けている。さすがに今ばかりはシャンとして、騎兵の横に控えている。


歓声、いや、悲鳴が上がった。

エアのいる方面からだ。


「ああ……」


カイルが心底嫌そうにため息をつく。私は何が起きているのかを確認しようとして、


「わあっ!」


「おっと」


バランスを崩して屋根から転げ落ちそうになった。カイルに上腕を掴まれる。


「失礼…ん?ラグノアさん、足元」


青々とした親指ほどのツタが、勢いよく屋根を這っていた。私の両足の裏からだ。支えなしでは立っているのもままならない。カイルに助けてもらいながら靴を脱ぐ。

上向いた靴底から、ツタの他にも見慣れた植物がワサワサと生えてくる。


「エアあ!!!」


反射的に抗議の声を上げるも、人々の騒ぎ声でかき消される。

王都のあちこちで同じ事態が起こっているらしい。靴底についていた草の種でこの有り様だ。この辺りの植物に強く働きかけたのだろう。


エアは、広場に敷いた魔法陣の光の中で、仰々しく杖を掲げる。人々はバタバタと膝をついた。祈るような姿勢をとる者も現れている。


「あいつ!指だけで!何でもするんだから!!ねえ!カイル!!」


必死で隣の竜騎兵に訴えかけた。自分が何に怒っているのか分からない。竜の58番は、そわそわと困惑の目を向けてきた。


「半年くらい前から、国中でめっきり植物が育たなくなった。気候は例年と変わらず。花を育てる趣味はないし、やや物価が上がった程度だったから、俺は関心が薄かったんだけど」


「……聞いてない」


「ラグノアさんは、俺がどうして探検隊なんてする羽目になったか、そこだけは聞かなかったもんな」


「ロクなことじゃない気がしたから」


「違いないよ。とにかく、ここの人たちにとって、あれは心から待ち望んだものなんだ……行き過ぎてるとしても」


いつの間にか雨はやんでいた。城の後ろに虹がかかる。城壁の焦げて崩れて血に塗れた部分が、ひとりでに真っ白く修復されている。竜の死体はどこかに消えていた。あらゆる建物のバルコニーから煌びやかな花がこぼれ落ちる。今の今まで存在すら感知できなかった街路樹が幹を肥大させながら瑞々しい葉をつけて、あちらこちらに様々な濃さの緑が茂る。異常に大きくなった野菜を手に騒ぐ人がいる。

むせ返る草と花の匂い。森に戻ったかのようだ。


「あの人たちもエアも嫌いだけど、俺って言うカイルは好き」


「はは、それは嬉しいなあ……」


彼は何か言葉を続けようとしていたが、けたたましい音にかき消されてしまった。

絶叫にしては明るくて耳馴染みが良い。音が細かく乱高下する。固く閉じられていた王城の門が開いて、黄金色の筒を両手で掲げた人々が隊列を組んで階段を降りてくる。よく見ると…筒を口でくわえている?この音はあそこから出ているのだろうか。

太くて重量感あるものを抱えるようにしていたり、やけに細いのを横に構えていたり。筒にも色々な形がある。高い音と程よく低い音とが何層にも重なり合って、私の耳へと束ねられていく感覚だ。筒を持つ人、尖塔にたなびくものと同じ旗を掲げる人…大きさの割に薄い円柱を首から提げて叩く人。道具によって装いが決まっているようだ。白を基調とした身体の線を隠す服なのは共通しているが。

奇妙な隊列は広場に差し掛かると、左右対称にエアの後ろへと控えた。

段々と音が大きくなっていく。始まった時よりも音の束が太くなった。全身がざわざわする。

すると、地面が震えた。人々が一斉に膝をついた衝撃だ。先ほどまで興奮した一つの生き物のようだった人々が、今度は一斉に頭を垂れている。

籠を持った小さな子供に左右を固められ、白い服、肩に重そうな布を乗せた…少年だろうか。しずしずと階段を降りてくる。赤毛に金の冠。ここは王都。であれば、あれが王?


ふと気になって横を見上げると、竜騎兵は姿勢を正し、兜を外して、体ごと赤毛に視線を向けていた。槍の刃先が天に向き、反対側は接地。私も釣られて荷物を下ろそうとするが、手で制される。私の目を見てわずかに首を振り、カイルは前に向き直る。頭の後ろ、小さく結った毛先がぴょんぴょんと反目しあっていた。


広場の中心に立っていたエアが半歩脇によけ、赤毛が隣に並ぶ。青年エアの方が頭ひとつ分大きい。二人が向かい合う。そこで音がひときわ盛り上がった後、次第に束が細くなり、静寂が訪れた。子供の一人が籠を差し出して、赤毛は白い箱のような物を受け取る。


「森の賢者よ。こうして相見えたこと嬉しく思う」


大人びた少年の声だ。スッ、と青年エアは杖を倒し、身体を低くした。赤毛より背の高いエアの頭が、今や赤毛の腰の位置にある。

張り上げた風でもないのにここまで聞こえるということは、拡声の術式をかけながら喋っているのかも。何だろう、聞いていると頭が痺れてくる。

どうしようもない気まぐれで、顔と魔法だけの男が森の賢者とは。私の動揺をよそに、赤毛は大衆に向けて続ける。


「長らく神秘であった南の大森林の最奥に、竜騎兵の一人が辿りついた。その勇気と誇りに、古き魔法使いがこうして助力を申し出てくれた」


「はあ?」


小さく声に出た。カイルが強張った顔でこちらを見てきた。どうせ誰にも聞こえない、構うものか。だって明らかにおかしい。この赤毛は今、私たちの足跡をごっそり塗り替えた。

確かにエアは物知りだし、賢者の素質くらいあるかもしれない。カイルも命を賭けて森まで飛んできた。けれど、たかが私たちの命ひとつだ。そんなことで感じ入るエアだったなら、私はどれほど楽だったか。

人々は、拝み倒してじっと言葉を待っている。


「彼の名前はエア。悠久の時を生きる麗しき隣人だ。私、オルドラピス・グレイス・アウレアハイトは、女神エテールのしもべ、魔術の叡智を束ねる者、アウレアハイト千年の歴史の頂点として、エアと手を取り合うことを選ぶ。彼は大地の兄弟で、あらゆる生を愛している。それゆえ、彼も『大地の沈黙』に心を痛めていた。同時に『北の厄災』の歪な在り方を哀れんでいる。彼を友に迎え、アウレアハイトの更なる繁栄を女神エテールから賜りし双眸に誓う。この輝かしい瞬間を見届けよ」


おもてを上げることを許された人々によって、空気が震える。この国には二つの問題があって、それらがエアの力を借りて解決できる見込み、と言いたいのか。エアを巻き込んでいなければ、好きになりそうな言葉選びだった。

アウレアハイト。王族…王都を中心とした、このあたりの長の姓。森を一歩出れば彼らの土地で、そこに住む人も彼らのもの。だから皆アウレアハイトに頭を下げる仕組みで、それが千年続いているのだと。以前珍しく真剣にエアが話していた。その時はピンとこなかったが、周りの反応を見ると本当にそうらしい。


「いい、ラグナ?王の祖先は、対立し合う大勢をまとめるために、空に女性の心を見出した。その心を皆で尊重しようとする枠組みを作った。どうしてアウレアハイトが他の大勢よりも偉いのか。それは、空が…女神エテールが指名してきたからだと言い張ったんだね。ちらほら、魔力が両眼に凝固してる…そういう身体で生まれてくる、魔法に秀でた個体も現れる血統だし。神話を編むためのエピソードには事欠かなかった」


エアの言葉を思い出す。大勢の人が、古い空想の中で一生を終えるのだと。善も悪もない、ただそういうものだと。

彼は魔術の訓練の合間に、教本にはないことを話してくれた。大体は思い出した順に漫然と。脱線に気付いてはふわふわと笑っていた。

だが王家がらみの話をする時だけは、言葉を選びつつも滑らかに語った。長い時間を費やして考えてきたようだった。彼は自由でありたいからこそ、特別に権力を思うのだろう。そう勝手に考えていたが、今、エアは人間の王に膝をついている。


赤毛の王は、手に持った箱をエアの頭に被せる。丸くて大きめの帽子だった。白い生地に金色の装飾が光っている。

エアが赤毛の手を取り、甲にキスしたように見えた。どよめきが上がる。友と言っているが、こんなの主従じゃないか。支配者が強くて珍しい臣下を得たから、皆盛り上がっているんだ。

自由でありたいとか、誰の支配も受けたくないとか、エアから聞いたことはない。全て私の推測だった。けれど、誰かに身を委ねるエアなんて見たくもなかったのだ。

王を憎いと思った。こんなに何かを憎いと感じたことはない。

王に侍っていたもう一人の子供が、籠から花を取り出してエアの胸元に挿す。頼むから皆、静かにしてくれないかな。


「もう一つ。あそこを」


信じられない。一瞬にして無数の目がこちらを向いた。顔が熱い。全身が沸騰しそうだ。ガシャン、とカイルが恭しく膝をつくも、私は直立で睨み返す。そうするべきだと思った。


「森の賢者の御息女。賢者に誇りを示した者。もっと近くに」


ゴソクジョ?私が?面食らう私をよそに、エアに誇りを示したらしい男は兜を素早く被り、槍を携え竜にまたがる。


「靴を……」


「ごめんよ時間がないんだ、手を。58番、疲れてるのに悪いな」


竜をなだめすかして、カイルは私を引っ張り上げる。


「手首をもう片方の手で掴むんだよ、いい?」


カイルの真後ろ、荷物が収まっていた場所にしっかり跨って、腰に手を回す。


「大丈夫、お願いします」


「舌の位置に気をつけて。噛むから…それと、」


「?」


「…俺はカイル・レスウィー。きっと出世する。何かあれば頼ってくれ」


竜は緩やかに滑空し始める。素晴らしい秩序で、エアと王の前にぽっかりと石畳が露出した。

鎧越しにカイルの緊張が伝わってくる。私は大勢の視線を感じながら、やけに背の高いエアだけを見ていた。段々と琥珀の目が近づいてくる。

竜は一度も羽ばたかず、ふわりと着地した。ほとんど衝撃を感じない。カイルの腰に回した手を解く。カイルは近づいてきた白い服の男性に槍を預け、華麗に竜を降りた。右手が差し出される。私はそれを両手で取り、足を捻りそうになりつつ石畳へと降り立った。足の裏がひんやりする。何か言いたげに近づいてきた白い服の女性に肩掛け鞄と首のゴーグルを預けた。

二人へと向き直る。


「賢者に誇りを示した者、カイル」


「はい」


年若い王に呼びかけられ、カイルは大柄な身体を折りたたみ片膝をつく。私はどうするべきか迷った末、降りた場所から動かずに立ったままカイルの背中とエアの顔とを交互に眺めることにした。


「大儀であった。そなたの勇気と高潔に、殉職者も確たる繁栄の礎となった。先ほどの防衛においても一騎当千の働きをしたと聞き及んでいる。他の模範となり、研鑽に励むとよい」


「過分なお言葉です」


カイルは凛と声を張っている。

そうだ、彼の仲間が死んだ音を私は聞いたじゃないか。

エアと目が合う。私が見上げる形になる。首を傾げて微笑まれた。読み取れる、雨上がりの蜘蛛の巣を指差した時の顔だ。丸みを帯びていた輪郭は直線が目立つ。鼻が高い。口が大きい。不思議と耳が尖っている。琥珀の瞳は灰色が混じって、不快な輝きが消え失せている。今のエアとなら目を合わせても大丈夫だけれど、何か物足りない。例えば髪。腰まで伸ばして一つに結んで、帽子まで被っているなんて違和感がある。空気を含んだ髪を風にそよがせる方が似合っていた。ああそうだ、声。余韻でいつも反論を封じてくる声は、


「仲が睦まじいのだな」


赤毛に呼びかけられた。気づくとカイルは下がっている。今度は私が人前で構われる番か。エアはお茶が上手く入った時の顔をして、私を促すようにちらっと王の方を見る。


「そうですね、子は親を選べませんから」


意地でも膝はつかない。代わりに背筋を伸ばす。笑顔。ここまでは良かったのに、あんまりなことを言われたから噛み付いてしまった。ひりひりする視線がそこらじゅうから投げかけられる。だが、正面からだけは違った。


「ははは。素敵なレディ、お名前を伺っても?」


あやすように、中腰の穏やかな笑顔を向けられる。私に向けられていた軽蔑と困惑の視線が、王の一言で反転した。石でも投げられるかと思った。助かったけれど、負けた。恥ずかしい。自分を奮い立たせるために、王の目を凝視する。


「ラグノアとお呼びください。エアに名付けられました」


もう遅いけれど、せめて笑顔で取り繕う。王が奇妙な目をしていることに気づいた。確か女神から賜ったとか言っていたやつ。エアいわく魔力が凝固したもの。なるほど、晴れた日の川の上澄みをすくい上げて、眼窩に詰め込んだような。昨日までのエアには及ばないけれど、透明の瞳とは美しくて珍しい。朝焼けのような赤い髪によく映える。


「朝焼けか」


重々しい王の言葉に、体が跳ねそうになるのを堪えた。


「ラグノアとは、古語で朝焼けを意味する。例えばフォルティス叙事詩第五篇。英雄フォルティスが蛮族の王クルーデを討ち取り、朝焼けに凱旋をする。私も好きな場面だ。古来より朝焼けは勝利を祝福するもの。そなたが今アウレアハイトを訪れたのは吉兆に違いない。存分に魔術を鍛錬せよ。父の名、そなた自身の名に恥じぬよう」


「はい」


精一杯真面目に見えるよう返事をした。怒りと恥ずかしさでどうにかなりそうだ。自分の名前の由来をエアに質問したことはあったが、「さあ」と首を傾げられてしまったのだ。

屈辱に押し流されているうちに、また白い服が筒から音を出し始めた。


「もう大丈夫だから。幸せに、ラグノア」


エアは私の顔を両手で挟んで微笑むと、すぐ踵を返してしまった。恐ろしく一方的なところがいつもの彼だった。長い杖を携えて王の後ろに控え、白い服の行列に飲み込まれていく。

一団がぞろぞろ階段を上っていく様をじっと見つめる。喧騒が気にならない。上り切ったら、エアは何になってしまうのだろう。半年、彼はこの日の準備をしていたのだろうか。

森の外の人がこんなにエアを必要としていたとは、考え付きもしなかったのだ。

話をしたいけれど、追いすがる気にはなれない。私が独り占めしてよい人ではなかった。それだけのように思える。


「あの!!通して!すみません!痛あっ!!!」


城に行列が飲み込まれ、集まった人々がばらばらの方向を向き始めた頃、背後から上ずった声が向かってきた。


「えっと!ラグノアちゃんですね?うわどしたぁ!?」


私と似た体格の女の人だ。赤茶色の長い髪をおさげにしているが、今にも結び目が解けそう。手には丈夫そうな箒。真っ黒な衣に首から下が覆われている。女性は私の顔を見るなり、慌てて懐を探り出す。


「これどうぞ、リラックスですよ!」


折り畳んだ白い布が差し出される。燻した草の良い匂いがする。女性はさらに続けた。


「あ、竜騎兵さんも生還おめでとうございます!諸々たいへんお疲れ様でした!それにしても竜の王都急襲!まるで狙ったようなタイミングでしたね!見張り台の人が言うには、北の鉱山から王城に向けてわき目もふらずバサーーッとらしいですよ。わけわかんないですよね、今ウチではその議論ばっかりです!エア氏の謎規格外パワーには皆さん触れたがらなくて!……え、わたしですか。照れるなあ。ご心配なさらず、魔術研究院薬学科グランハイムラボ所属のフローライトと申します。魔術師で下級研究員です、お兄さんと同じくらい堅実なキャリアですよ!ウチでラグノアちゃんを保護することになりましたので、温かいご飯と寝床と将来の明るい展望をですね」


私の死角に向かって朗々と話しかける。気づかなかった、カイルはずっと側に付いてくれていた。フローライトと名乗った女性の勢いに困り果てた様子だったが、安心した顔で私を一瞥すると、傾きかけた陽を背中に受けて飛び去った。長槍が光る。


「さて、ラグノアちゃん見たところ相当お疲れですね?でもごめんなさい、もうちょっとだけ頑張ってもらいます。荷物は斜め掛けにしてくださいね…あ、ハンカチは出会った記念によければお持ちください。何と、おろしたて。しかも確かな品質です」


「わ、分かりました。ありがとうございます」


本当によく喋る人だ。彼女のはつらつとした振る舞いのおかげで、エアのことを考える暇もない。言われた通り袋を肩にかける。

すると、急に女性が静かになった。箒を両手で持ち、目と口を大きく開けている。


「とっても残念なお知らせです……」


先ほどとは一転、消え入りそうな声だ。自信なさげに背中を丸め、私から目を逸らしている。


「この箒は一人乗り。うっかりしていました。ですので、空の旅はまた今度。東区のうちのラボまで、ゴキゲンなお散歩と洒落込みましょう」


「……お姉さん」


「あああごめんなさい!泣かないでね!?あとお姉さんはメアリージェーンっていいます!ぜひジェーンって呼んで!」


「ジェーンさん、ありがとうございます」


「いいってことよ。笑ったね、かわいいねぇ」


くすぐったい。何と返せば良いか分からずうろたえる私だったが、ジェーンはただニコニコと話を続ける。

オレンジ色に染まりつつある街。先ほどの興奮が冷めやらない様子で行き交う人々の中を、私は手を引かれて歩く。


「ジェーンさん、あの赤毛の人、じゃなくて、王、王様なんですけど」


一瞬会話が途切れたので、エアの友を名乗った男に関して尋ねてみる。呼び方に慣れない。


「チューニングする姿勢やよし、なあに?」


「百年後は生きてますか?」


「へ……?そんなことないと思うよ!?オルドちゃん殿下も人だからね、もちろん」


ジェーンは丸い目をさらに丸くする。ちゃん殿下。自由だ、こんな気軽でもいいのか。面食らいつつも、私は質問を続ける。


「じゃあ、欠伸しながらその日の気分に天気を変えたりは」


「しないしない!殿下は有数の魔術師には違いないけど、無理無理。なになに、エア氏はできてたの?できてたんだろうなあ!!え……まさかラグノアちゃんも?かわいー顔して」


ジェーンは興味津々といった様子で私の目を覗き込んでくる。


「いえ、まさか。勉強だ、って一緒にやらされたことはありますけど、魔力の流れの端っこを触っただけで頭が破裂するかと思いました。本来は十人以上の人手と最低ひと月の準備期間が要るそうですよね」


あの時も酷かった。困難な魔法が困難たるゆえんを体験させたがるエアの迷惑な癖。


「そうそう……え。嘘でしょ?教育っていうか……よく生きてたね」


ジェーンは声を潜める。初めて見る真顔だ。私の手を握る力が強まる。歩く速さが少し落ちた。私は笑ってみせる。


「鍛えられてきたので、丈夫さには自信がありますよ。それよりも私、よかったなと思っているんです」


そう、あの男が凡人でよかった。どれだけ友を騙っても、エアの孤高は揺らがない。それならば届く。真っ白い城のバルコニーでエアと並んで手を振る赤毛、その全身を鋭い雷が貫き、王冠がカシャンと音を立てて落ちるイメージが浮かんだ。


「ん?何が?」


「あ、ジェーンさんが愉快で優しそうな方で。面倒を見てくださる皆さんのためにも、魔法の勉強、頑張ろうと思います」

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