後編
そう思った、少し、後だった。
眉間に一滴の水がぽたりと落ちてきた。
空気中に舞う塵埃に吸収されることなく一直線に。
ひどく冷たい水だった。
そしてそれは急速に、恐ろしいほどはっきりとした感覚を俺の体に呼び起こした。
「……あ………」
再び俺は覚醒した。しかし………。
おかしい。何かがおかしい。
先程とは決定的に何かが違っていた。
俺は焦る。
いけない。思い出しては。これは。だめだ。嫌だ。
しかし俺の脳みそは、俺の意志に反して目まぐるしく働いた。
脳みそが俺にとある記憶を思い出させる。
俺は拷問についてのある文献を読んでいた。そこに記されているのは、中世の水責め。一風変わったものだった。罪人を拘束し、その額などに冷水をゆっくりと滴らせる。罪人は次の一滴を待つ間に気が狂う。といういたって単純なもの。気が狂う理由は十分な睡眠がとれなくなるからではないかと言われているが、定かではない。肉体的苦痛でないだけ、想像しにくく分からないことが多い方法だ。
この拷問が今の俺の状況に合致していると気づくまで、どれだけの時間を要しただろう。ほんの一瞬だったかもしれないし、数十分かかったかもしれない。
俺は、気が狂って死ぬのだと。
そう確信した。
はじめの方はなんともなかった。しかし徐々に、なぶるようにゆっくりと、衝動が込み上げてきた。
気が狂うとは、一体どうなるのだろう。俺は一体、どうなってしまうのだろうか。
その衝動には恐怖と焦燥が不快に混ざり合っていた。混ざり合いながらみるみる膨れ上がっていく。動悸が激しくなり、呼吸が乱れ、指先がびりびりと痺れた。
また脳みそがぐるぐると働く。
そして一つの考えに行き着いた。
俺は今報いを受けているのだ。
自分を正当化し続けて、罪悪感に目を向けず、醜く生きてきた俺が受ける報いだ。報いとは本来復讐法であり、拷問官の俺が拷問にかけられて死ぬのは至極真っ当なことだ。
しかしひどく恐ろしかった。まだ声が出せたならきっと惨めな叫び声を上げただろうし、まだ体が動いたなら必死に身をよじって水滴から逃げただろう。
怖かった。発狂することが。
死ぬのは怖くないのに気が狂って死ぬのは怖い。なんと自分勝手な考えなのだろう。
まだ正気を保っていることが、より恐怖を煽った。
人をさんざん痛めつけておいて、何人も死に至らしめておいて、俺はまだ自分の身が可愛くてならない。
俺は結局自分のことが一番大事なのだ。
罰を受けねばならない。最後まで───俺の精神が壊れきるまで───俺は生きていなくてはならない。
しかし…………。
こんな感情を抱くことは許されないのに、俺は心の底から無念だった。
俺は自分の愚かさを嗤った。嗤うしかなかった。
しかし、むしろ誰かに嗤われたかった。
嗤いながら、涙が流れた。
涙を流しながら、俺は次の水滴が落ちるのをただ待ち続けることしか出来なかった。
拷問官の死 まえの @be-su417
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