そして、星は燃える

立華りり

そして、星は燃える――――本文

一、春樹

たとえるなら、星の終わりに似ている。ガスを噴き上げながら、火達磨のように燃え盛る巨大な星が、轟音と炎を上げて突き進む。内臓の奥の奥から突き上げるものが身体を覆う皮膚の裏側を焦がし、ひとかたならぬその熱にふるえ、僕は獣のような声を上げる。それはまるきり最後のように、空気を切り裂きながらばらばらに燃え崩れる。白、赤、黄、黄緑、橙──地球の色彩を超越した極彩色。隕石。めらめらと燃える星。柔らかく濡れた肌。時速を超越した速度で空気を切り裂く、音。轟音。喘ぎ。吐息。砕ける。崩れる。肩口に食い込む爪。赤々と燃える炎、白い火花、青い火花。ぬらぬらと光る唇。烈しい衝撃。散る。白く散る。

絶頂の瞬間は、まるで死のように僕を圧倒する。

射出した精液に、熱を奪われたみたいだった。宵闇の中でしぼみゆく花が冷えていくときのような速度で、静かに整う呼吸。ひりひりと火照った頬を預けた白い肌は、まだかすかな熱を孕んでいる。さっきまで切なく収縮していた膣は今は柔らかくほどけて、まるで海のように僕を抱いている。目を閉じる。肋骨の奥で、心臓が早鐘を打っている。手も、足も、胴体から離れてどこかへ漂い出してしまいそうだった――僕はすがりつくように志保さんの頭を胸に抱えた。ゆっくりと吐いたふるえる息は長く、途切れない。


「怖かった?」

背後で志保さんが問う声は、爽やかな笑いを含んでいた。初めてではないにしろ、僕にとって、経験は片手の指に収まるほどなのだ。避妊具を抜き取る扱い方は、幼子のそれのようにいまだおぼつかない。指先に踊っている光は、群青を孕んだ夕暮れのオレンジ。吐息を含んで密に濃さを増した部屋のなかで、自分のしでかしたことの重さに少なからずとも慄いている心のうちを、まるでその目で見ているかのように、彼女は的確に察している。

僕は向き直ると、ベッドの上に片膝を載せた。

「セックスに文学的な意味を持たせるのは人間ならではね。交尾ということだけ切り取れば、さして特別なことはない、ありふれた営みなのよ――そうね、たとえば、昆虫」

「昆虫なんだ。動物ではなくて」

「そう。昆虫は、身体の器官のつくりが少しだけヒトと異なっているでしょう。あたしはその距離感が好きなの」

志保さんの唇を見つめた。

「触れたら硬いところ、冷たいところ」

「力を込めすぎたら壊れてしまうところ、とか?」

志保さんは大人めいた薄い笑いを見せ、腕を絡めてきた。やわらかな腕が首に廻る。重力に負けた白いシーツからこぼれる、美しい乳房。

「あなたになら、僕は壊されたって構わないけどな」

「もう物騒な事を言って……」

志保さんは、くすくすと笑った。首筋に口づける。耳朶に染み込んだ彼女の吐息が甘い。

彼女との距離を少しでも詰めようとして、つい、背伸びを試みるのだ。爪先に全体重をかけ、少しでも自分を大きく熟して見せようとして、時折均衡を崩す。そういうすべての、甘さも、不安定さも、この白くて優しい手は全てを包み込む。温かくて穏やかなその両の腕に、もぐり込んで、目を閉じる。心に満ちる圧倒的な幸福。それでも、透明なプライドのふちは確実に欠けて、音もなく足元に落ちる。

「確かに物騒だったかもしれないけれど……志保さんとのこういう時間は、そういう殺伐としたことからは、とても遠いようで、でも近いんだよ」

目を閉じた暗がりに、恵里菜の姿がフラッシュバックした。地学の授業中に居眠りをしている、ブラジャーの浮き上がったシャツの背中。木製の椅子の下に組み合わさった右の上履きに「ヤリマン」。三年近く履き古した上履きとはいえ、そんな「終わっている」落書きのできる神経が僕には分からないでいる。幼なじみの女だが、彼女はクラスの半数の男子とは肉体関係があるという噂。無論、誰が裏をとったわけでもない、それはたんなる噂に過ぎない。けれど「教室」というところでは、みんなが信じたものこそが真実になる。そういう正しさの中で、みんな少しずつ、歪んでいく。制服から伸びる、すんなりした腕の直線。あどけなさの残る皮膚。「若さ」を筆につけて勢いよく一息に描いてできたようなそういう姿と、「肉体関係」という言葉が結びつかず、サテンの布の上を上滑りしていく露のようなその四文字を、僕はなんども当てはめようとした。やがて、「ニクタイカンケイ」は分解して、ばらばらに、粉々に、ひとつひとつ、それがもともとどんな音や意味を載せていたのかすら辿りきれなくなるほどになる──ああこういうのなんていうんだっけ。

訊ねてみたら、志保さんは笑った。

「ゲシュタルト崩壊」

崩壊? いや、むしろ、破滅。


志保さんが帰ってしばらくは、余韻を抱きしめるように布団を抱いていた。目を閉じて鼻から肺一杯に吸い込んだ部屋の空気も、蛍光灯の光も、どこか甘い気配を残していて、別れたばかりなのに彼女の姿を探して、心臓をかきむしりたくなる。

志保さんと初めて会ったのは、高校二年の秋だ。それまでの司書が辞め、新しく配属になったのだとあとで聞いた。全校集会などできちんと紹介されたわけでもない。枯葉が舞い落ちる秋の日、図書室のドアを開けて一歩なかへ踏み込んだそのわずか一秒後に、音も立てず、聖母は僕の人生に舞い降りたのだ。

初めて会った頃の彼女は、まだ今ほど長い髪をしてはいなかった。さらさらと音がしそうな、細くつややかな髪をかるくバレッタでまとめ、白のシャツに紺色のエプロンをつけて、「日本文学」の書棚の前に立っていた。

もともと本は好きだった。幼いころから、仕事の忙しい父や世代差の激しい祖母より、小説や図鑑を放課後の友達にしていた。それに加えて、高校に入って部活をしなくなったことで特定の友達を作りにくくなったこと、おまけに毎日の宿題を片付ける必要性もあいまって、学校の図書室に頻繁に通うようになった。だからその棚に足が向いたのも、本が好きだったからのはずなのだ──少なくとも、最初は。

おもむろに「源氏物語」を手に取った。彼女はちらりと僕の指先に目を向け、「渋いわね」と言った。

「丁度、やったんです。今日の授業で」

「そうなんだ。どのあたりを?」

印刷物の匂いにまじり、花のような香りがした。

「宇治十帖です」

と僕は答えた。

「頭中将にならって、良い香りをさせている匂宮の話を」

「そう」

「嘘ですけど」

「嘘?」

「そう。嘘……だって先生、いい匂い、するから」

形の良いアーモンドみたいな両目が、ものも言わずに僕を見つめた。淡い茶色に透けたガラス細工のような虹彩、奥で揺れる深い色の瞳。やがてそれらは、長く濃い睫毛がかぶさって見えなくなった。志保さんはにっこりと口角を引き上げ、

「大人をからかうんじゃないの」

困ったように片方の眉を下げて、白木の本棚に額を預けるように首をかしげた。つやつやの黒髪が、ひと筋、さらりと肩を滑った。それで、もっと、からかいたくなったのだ。彼女は手近なところにあった『伊勢物語』の表紙を指で撫でながら、

「本当に勉強したのはどこなの?」

「まだ、内緒です」

まだ、に強勢を置いた。彼女はまるで面白がるみたいに上目遣いで僕を見た。

本当に習った帖はどこなのか、彼女は僕に会うたびにたずねてきた。貸出カウンターの中から。本棚の前に並んで。ばったり出会って話が弾んだ、学校の近くのコンビニ、あるいは書店で。かぐわしい花にたわむれる蝶のように、あるときは『夕顔』と言ってみたり、またあるときは『明石』とうそぶいてみたりした。彼女は目を輝かせて、どうにかして僕の口から「正解」を引きだそうとした。『空蝉』『紅葉賀』――彼女が口にした中には本当に授業で読んだ帖もあった。けれど、それが正答かそうでないかはもはや重要ではなくなっていた。まるでそうやってたずねることが枕詞であるかのように、会話はいつでもそうやって始まった。

五十四帖すべてを言い終えるころには、一線すら踏み越えていた。

その左手に光る指輪の存在も、今のご時世、生徒との不適切な関係が露呈した教師がいかなる末路を辿るのかということも承知で、それでも、切望した。

彼女との関係を表すなら、破滅、という他はない。


志保さんを初めて家に招いたきっかけは、恣意的に超過した貸出期限だ。源氏物語の日から三ヶ月あまりが過ぎていた。彼女のことが欲しくてたまらなくなって、授業そっちのけで考え抜いた結果、「本を故意に返さずにいる」というあまりに簡単でありふれた最適解がひらめいたのだ。その足で借りたどうでも良い新書を、わざと返さずにいたら、一ヶ月ほどして志保さんは、思惑通り、「三年二組の田中くんね、本が延滞していますよ」と声をかけてきたのだ。僕は心から申し訳なさそうな顔をつくって「ごめんなさい、僕って忘れっぽくて。良かったら家に寄ってくれませんか? そしたらすぐ返せますから」と、ルーズリーフに書き付けた住所を手渡した。そんな何度目かのやりとりのあと、本当に家に来た彼女を、半ば強引に自分のものにした。自分があなたをどれだけ好きか、子どもっぽく訴えて訴えて、土下座までしてようやく引き摺り出せた「一回だけ」、という言葉。それを言い終える前に、彼女の唇を塞いでいた。

整った卵形の輪郭やふっくらとした乳房が、まるで罪のように魅力的だと思った。それ以上に、瞳や声が好きだった。濃い睫毛にふちどられた鳶色の虹彩や、優しいアルトで紡がれた美しい日本語。彼女にまつわるすべてに身を任せる。身体が芯からほどけ、輪郭を失う。

輝ける光源氏と藤壺。過去をたぐっても未来を描いても、いずれ待つのは破滅であったとしても、なお。


時計を見ると、アルバイトの時間が迫っていた。

着替えて一歩家の外へ出ると、甘くあたたかな春の空気が肌を包んだ。狭い路地を歩いていると、三毛猫が爪先を器用に使い、細やかな足取りで目の前を横切っていった。どこからか魚を焼くような匂いが漂ってくる。正しくて完璧な家庭の香りは、胸にじくじくと疼く痛みを残す。

大通りに出てしばらく歩くと、市営公園の前に恵里菜がいた。同じシフトの時間で、同じアルバイト先に向かうはずの彼女が、座り込んで何をしているのかと思った。えりな、と声をかける。こっちを振り向いた彼女は、僕に向かって「見て」とフェンスの根元あたりを指さした。銀のフェンスの向こうに根を張る、焦げたような樫の木。その地面にほど近いところに、黒い蝉が止まっていた。

繊細な模様に縁取られた翅は透き通り、角度を変えると輝き方を変える。つやつやした胴体。完璧な角度で曲げられた六本の足。潤んだ円い星のような、黒々としたふたつの目。宇宙を閉じ込めたみたいに、それは絶妙なバランスで形成されていた。

「この時期に蝉って珍しいな」

僕と恵里菜は、しばらくその蝉の佇まいに見入っていた。すぐ横を、イヤホンをした若い男が早足で追い抜いて行った。やがて恵里菜が沈黙を破った。

「綺麗な目、していると思わない?」

蝉をこんなにじっくりと観察したことなど久しぶりだ。彼女の時間の使い方に、僕は素直に感じ入った。

「確かに、言われるまで気づかなかった。普通だったら、『あ、蝉だ』で、終わっちゃいそうなのに……あんな上履き履いてるオンナに、『もののあはれ』がわかるとはなあ」

おんな、と言ったところで、恵里菜はわずかに目を大きくした。ぱっと花が咲いたように頬が一はけ朱で染まる。たたみかけるように僕は言った。

「なんだ、ヤリマンって」

恵里菜は目を伏せ、別にいいでしょ、と呟いた。

「みっともないの履いてないで、買えよ。新しいの」

「だってもう卒業だし」

「だからこそだろ。大事にしろよ、上履きもお前も」

幼稚園からの腐れ縁だ。僕と恵里菜の付き合いは、おそらく彼女の実の親以上に長い。したがって、この世のざらついた部分から彼女を守る義務ぐらいは、自分にあるような気がしていた。それなのに当の本人は、

「先に行ってるから」

といって鞄で僕の右腹を殴り、僕の鎖骨に頭突きをかまして、足早に立ち去った。小さい頃は見下ろされていたような気もするのに、今の彼女の身長ではどんなに頑張ってもその高さが精一杯だ。

遠ざかる恵里菜。制服の背中に、淡い木漏れ日が踊っている。


二、恵里菜

ハルについては、多くのことが鮮烈に印象に残っている。

例えば、泣き顔。アイスを落としてしまったといっては嘆き、おもちゃを取られたと言ってはぐずり、大きい子に虐められたと言っては泣き、そのたびに世話を焼いてやったものだ。放課後の土手にランドセルを並べて、川の水が金色に染まるまで話を聞いたり、家へ呼んで自分のおやつを少し、ハンカチにくるんであげたりした。たとえばラムネや、黒飴、ざらめたっぷりのミニドーナツなどを。同級生でありながら姉気取りだった当時の自分が、暴かれた黒歴史のようにこそばゆく暴力的に、心をくすぐる。けれども自分がいなくなったらハルはこの界隈では生きていけないはずだし、そうでなければならないと、まっすぐに信じる自分の心がぶれることはないのだ。

例えば、滑り台と雨。絹糸のような雨がまっすぐに降りる夕暮れ。十歳の夕暮れ。白い雨の降りしきる日、公園のまんなかに据えられた滑り台の上に座り込んで、うなだれているハルが見えたのだ。当時住んでいた家のベランダから、外を見るのが好きだったあたし。狭い道路を挟んで斜め向こうが小さな公園で、家のベランダからは公園のようすがよく見えた。仲のよい友達が居れば飛んでいって仲間に入ったし、逆に嫌な奴が居れば勢いよくカーテンを閉めて絶対に外へ出なかった。

ハルの姿を見るや、あたしは赤い傘とハローキティのハンカチを掴み、転げるように階段を下りた。道路に飛び出し急ブレーキをかけた車に怒鳴られ、濡れた路面に足を取られて転んで膝をすりむいて、それでも、駆け寄る足を止めなかった。

ハルは顔を伏せたきり、何を言っても反応しなかった。「ハルのママ、どこに行ったの」と聞いても「わからない」と繰り返した。のぞき見た顔は雨と涙でぐちゃぐちゃになっていた。だからあたしは言ったのだ。

「ああもうしょうがないな、じゃああたしがあんたのママになったげる」

ハルは、弾かれたように顔を上げた。きょとんと目を丸くして、まるで泣きかたを忘れてしまったみたいだった。あ、泣き止んだ、と思ったその次の瞬間、こわばっていた肩から力が抜けた。まるみを帯びた頬がふわっとほころび、眉じりが下がって目の横に皺がうまれ、潤んだ瞳は細かい水の粒子のなかで何重にも輝いた。涙の筋がいくつもついた顔をくしゃくしゃにして、ハルは泣いていた。その表情をひと目見ただけで、雨に濡れた足先も、冷え始めていた指先も、すりむいた傷も泥はねも、全部、なかったことになった。

「ほら。帰るよ」

差し出した手におずおずと触れたハルの指の冷たさ。早く元通りに温まるようにと、あたしはハルの手を強く握り、ゆっくりと滑り台を降りていった。

雨の名残りのように、足元には水溜まりができていた。足を滑らせたら共倒れになる。ハルの手に、ぎゅっと力がこもった。あたしもしっかりと握り返した。そうやってあたしたちは、今日まで生きてきたのだ。したがって、「大事にしろよ」なんて大人めいたフレーズを投げつけられた瞬間、あたしは脳味噌を丁寧にひっくり返されたみたいに、世界が転回するのを覚えた。


帰路についたのは夜の九時半だった。同じシフトのバイトで帰る方向が一緒なのはハルとあたしだけだ。店長は、いつもハルに一緒に帰ってやれと言いつけるのを忘れなかった。そういうとき、恵里菜は少し奇妙な感情が胸を撫でるのを感じた。ハルと自分が歩いているとしたら、守られるのは自分のほうな、それが世間の考えなのだと。

闇に沈んだ川べりを歩く。砂利を踏む軽い音が重なる。笛吹川は、音もなく静かに流れている。側道は車の通りもまばらで、ときおり走り抜けていくヘッドライトが、細やかに降る雨を浮かび上がらせている。雨だねえ、と言ったら、ハルが相槌を打つのが聞こえた。彼は幼かった頃のことを、覚えているんだろうか。お母さんを求めて泣いたことも。あたしがママになってあげると言ったことも。口を開いたら、先にお前さあ、と切り出されてしまった。

「やっぱ、恋愛とかしてんの?」

「何よ、急に」

蛍を探すみたいに視線は川べりを彷徨ったあと、空にのぼる打ち上げ花火を逆からなぞるみたいに蛇行して足元へと落ちた。見慣れたローファーの真横に、ひと回り大きなナイキのスニーカー。

「恵里菜、知っていたか。恋愛と破滅は違うんだぞ」

「言われなくたってわかってるわよ。急にどうしたの」

「言葉通り。お前の身を案じただけだよ。っていうか恵里菜、お前ってそういえば今は誰なんだよ。隣の委員長?」

「違う。あいつはバスケのことしか考えてないから。もっと大人のひとだよ」

そこであたしは、今の彼氏が社会人であることのみを明かす。ハルは「ほお」と、輪郭の曖昧な相槌をうった。

「そんなら、呼べばいいのに今日とか。わざわざ濡れて帰らなくたって、あるんだろ? 大人なら、クルマ」

「そりゃ、そうだけどさ」

そっと車の流れに目をやる。あたしが見ていてやらねばと思っている。ハルがちゃあんと、一人で帰れるのかどうか。道に迷ったとしても、たとえ雨に降られたとしても、道を間違わないかどうか。ある種の使命感なのだ──きっと恋愛と両立可能な類いの。

交差点で手を振って別れた。霧雨の中を遠ざかっていくハルの背中を追って、あたしは細やかに二度瞬きをした。彼の紡いだ「破滅」というふたもじが、妙な鮮明さで耳にこびりついている。


三、春樹

全国にある公立高校は三六〇〇余り。このうち、一年間に統廃合される高校の数は五十校ほどになるという。僕の通う甲斐工業高校の事実上の廃校が、県の定例議会で決定されたのは、三,四年ほど前になる。僕の学年より下は入学試験も行われておらず、この校舎にはもう三年生のひと学年しかいない。僕たちがこの学校を去った後は、近隣の全日制進学校である富士五湖高校と統合されて、普通科、工業科、新たに理数サイエンス科の三科を擁する県内最大級の高校に生まれ変わる見込みだ。

サイエンス。

住み慣れた地球のことならまだしも、月だとか火星だとか木星だとか、僕の身体も世界も空気も、すべて小さい原子のあつまりなんだとか、やっぱりどこかピンとこなくて、まるでなんだか遠い世界の話のようで圧倒されてしまう。母校が続こうがなくなろうが大半の連中にとっては別にどっちでもいいことなのだ。そんな果てしないスケールの物語よりも、誰も彼も、今日の帰り道に寄るゲーセンのこととか、好きな女に送るメッセージの文面のこととか、そういうことを思案して命を燃やしているのだ。偽善っぽい愛校心などが入り込む隙はとてもわずかだ。

英治が帰らない平日は、図書室の返却図書の間にルーズリーフの切れ端をはさむ。外で会うわけにはいかない僕たちが、共に過ごすのはたいてい僕の家だ。志保は電車で四つ向こうの繁華街にあるマンションに住んでいる。

午後六時を過ぎると、アパートの戸を叩く音がする。開ければ、買い物かごを提げた志保が立っている。抱き寄せて閉じた目を、そっと薄く開く。彼女の長くつややかな髪の向こうで、街を包む宵闇が濃さを増していく。吐息で会話しながら、ベッドに身を投げ、服を脱がしあう。かすれた息の音に、ヴァイオリンの弦を弾くみたいに、つややかに張り詰めた声がまざる。

「一日に生まれる星の数は」

志保さんは腕の中でときおり、途方もないことを訊ねてくる。すんなりと耳の底に落ちるアルトも、くるまった布団から立ちのぼる、清潔な柔軟剤の香りも、へその下を痺れさせるばかりで、まともに頭が働かない。わからない、と素直に告げれば、勝ち誇ったように濃桃の唇が上を向く。

「じゃあ……、一日に死ぬ星の数」

耳元に唇を寄せて、こうさん、と囁くと、彼女は甘ったるい吐息を漏らして笑った。

「太陽は、あと五〇億年したら命を終えてしまうんだって。核融合が起こせなくなって、ゆっくりと冷えていくの」

射精だ、と脳裏に浮かんだ。新たな命すら産み出す有機的かつ圧倒的なエネルギーと、そのあとすぐに訪れる無機質で冷たく緩やかな死。

「いつまでも永遠に、そこにあるものなんてないのよ」

その意味を問うなど野暮だというのが表向きだ。志保の身体の持つ甘美な熱で、とろとろにとろけた脳みそでは、哲学も科学も炉に入ったように形を失う。彼女の中でたゆたいながら、僕は目を閉じ、果てしない宇宙を見た。

「源氏物語は、千年前に書かれたんだ」

そうね、と、彼女は切れ切れに喘いだ。喉を反らせて切なげな声を漏らす彼女をなだめるように抱きしめて、僕は続けた。

「宇宙の大きな流れからしたら、人間の営みなんて、あっという間の、出来事に、過ぎないんだろうな、って思う。最古の長編小説だって、たかだか、千年前なんだ……でもそれより遙か昔から、人は確かに誰かを愛していた」

めちゃくちゃに突き上げながらしほ、しほと名前を呼ぶ。国語教師の言葉が脳裏によみがえる。「……遙か昔から、花を愛でる、人を愛する、いわゆる、『もののあはれ』に込められた人のこころは、変わらないのです……」

筋書きは、確かに習った。でも、その本当の意味を教えてくれたのは、あなただ。

律動を刻みながら、艶々の黒髪を指でからめとる。藤壺に迫った光源氏。最後の一ミリグラムまで与えられた燃料を燃やし尽くそうとする星。過去も、未来もない。後先なんて考えずに、今この手の中にある熱量だけを、ただただ抱きしめて燃え尽きる。切なげな吐息の波間で、志保さんが涙を流している。

彼女の頭を腕に載せて、大人びた痺れに酔いながら眠りにつく。意識の細い糸を手放す瞬間、浮かび上がる夢がある。

スーツ姿の女が目の前に現れる。懐かしさが急に込み上げる。突き上げられたようにママ、と叫ぶ。伸ばした手は指の先までみっちりと肉が詰まってみずみずしい。母の姿はどんどん小さくなっていく。駆け出す。全速力で走っても、小さすぎる歩幅がもどかしい。ああ今ならあなたを行かせずにすむのに。地面を揺らしながら横を通り過ぎていくトラックが砂塵を吹き上げる。僕は声のかぎりに泣き叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。


放課後、図書室のテーブルに、三年の図書委員が集まっていた。志保は教室の隅に立って、後ろで手を組んでいる。図書委員長の杉田がホワイトボードに大きく「学園祭」と書いた。

「学園祭での企画について、なにか意見のある人は」

女子が、口々に声を上げた。「甲斐工業最後の学園祭だし、記念に残ることをしたいよね」「最後ってことは、ここの本はどうなるの」「合併するのよ、富士五湖高校の蔵書と」

議論の流れは、誰からともなく、「図書室の本の装丁」に関わるものに絞られつつあった。ある男子が言った。「じゃあこうしねえ? 本のページ数、全部数えてみるとか」「面白そうだけど、手間ばっかりかかるじゃない、おかしなネット動画の企画じゃあるまいし」携帯を見ながら、ひとりの女子が言った。さらに機械科の女子が、「なんかさあ、結局みんな綺麗な写真撮ってSNSに載せたいだけなんだよね」

その一言をきっかけに、意見がまとまり始めた。

「今までで一番借りられた本を並べて、ランキングにするとか」「装丁が特に可愛い本をそろえて、展示してみたりとか。ラノベなら、イラストレーターごとに並べて、写真撮っていってもらうとか」「丸く並べて、SNS映えっぽい飾り枠を作って」

次々に噴き出すアイディアを、杉田がホワイトボードに書き留めていく。クラスごとに担当箇所を決め、その日は解散となった。


山中湖のほとりでラーメン店を営む父の田中英治は、週に一回の定休日に自宅のある笛吹市へ戻ってくる。彼は僕が産まれる前から、彼の母――つまりは祖母の実家をリフォームして、ラーメン屋を営んでいる。そのため英治は笛吹の自宅には週に一回戻ってくれば良いほうなのだった。物心ついたときからそれが普通だったから、僕は寂しいどころかありがたいと思いすらした。祖母のいる笛吹市内の老人施設は、山中湖からでは遠すぎる。僕だって笛吹で生まれ育っているのだから、今さら知らない学校へ転校するのはごめんだ。なにより、志保さんと心置きなく自分の部屋で会えるのは、同居家族がいない今の環境だからに他ならない。

一週間ぶりに帰ってきた英治が、大きな鍋に湯を沸かし、ほぐしながら麺を茹でている。彼は珍しいくらい機嫌がよく、山中湖から水まで持参して、鼻歌を歌いながらスープをこしらえている。郡内地域は富士山からの湧水に恵まれ、水が澄んでいておいしい。そのため、いったん峠を越えてしまっては、同じ味のスープは作れないというのが彼の談だ。出来上がったラーメンはおいしそうな湯気を上げていた――色鮮やかなナルトの赤。刻み葱のみずみずしい白、緑。醤油をまとった湯気。どんぶりからはみ出す脂ぎった厚切りのチャーシュー。「店のようにはいかないなあ」としきりに彼は言っていたが、それでもじゅうぶんに美味だった。

夕食を終え、英治は寝転んでテレビを見ていた。僕は洗いものをしていた。バラエティ番組だ。珍しいなあと思いながら鍋を片付けていると、なあ、と呼ばれた。

「春樹。お前に会って欲しい人が居るんだよ」

僕は蛇口をひねり、水を止めた。いろいろな可能性を考えた。ざわざわと心臓が毛羽立つ。

「会って欲しい人って?」

英治は日本酒をぐいと飲み干すと、赤ら顔のまま上機嫌に言った。

「ほら、父さん離婚しただろう。今度、新しい母さん、お前に紹介し」

「嫌だよ」

わああ、とテレビの音が盛り上がって、静まった。背中を向けたままの僕に、英治は笑いながら近寄ってきた。

「そんなこと言わないで一回、会ってくれ、な?」

酔っていることは差し引いたとしても、白々しいほど軽い口調だ。この男はいつもこうやって世間を舐めるのだ。この局面さえ乗り切れば、あとは「成り行き」や「なし崩し」と呼ばれる無責任な時の流れが自分の味方をしてくれるだろう、そうすれば自分の思い通りに行く、と。同じだ。母さんの時と。ばあちゃんと同居を決めたとき。

「春樹」

思わず舌打ちが出た。英治のそばをすりぬけて、リビングの真ん中に立つ。戸棚に置かれた、母の写真が目に入る。『もう無理』『三人で暮らしたい』狂ったように叫ぶ母の声。ふすまとふすまのわずかな隙間からのぞき見た、母の泣き顔。厳しい顔で母を睨む祖母。その間にあぐらをかいた父。雨。霧雨。耳にこびりついている声。泣き声。母の声。僕の声。すすり上げた鼻水のしょっぱさ。雨の味。

そっと手を伸ばして、写真立てを伏せた。視線を遮ってもまだ、僕のなかで涙を流す母さんは泣き止まない。彼女のすすり上げる声が、親父にはもう聞こえないのだろうか。

「なあ春樹。父さん、真剣に考えたんだ……この人なら人生もう一回やり直せるっていう人を見つけたんだよ」

頭の中で色んな事がめちゃくちゃに混線して、こんがらがって、何も言葉にできなかった。最後はほとんど口を利かなくなっていた母とばあちゃん。その確執がどういうものだったのか。どうして母は去ったのか。問うまでもなく、答えなんかすべてわかっていた。あの日、父の身体は母ではなく、祖母のほうを向いていた。

英治が白々しいほど明るく言った。

「なあに、大丈夫だって。あのばあさんはもう施設に行ってんだから。ここには居ないんだか、」

目の前を酒瓶が飛んだ。ごっ、という音。はりはりはりと窓のガラスがわななく音。耳の奥でごうんという唸りが聞こえて、次に静寂が耳を打ち、ふたたびテレビの音が膨れあがるように蘇ってきた。英治は目玉がこぼれ落ちるんじゃないかというほど大きく目を見開いていた。口すら開けたままだった。僕は眉間に目一杯力を込めて、目の前の男を睨んだ。少しでも気を抜いたら殴りかかってしまいそうな衝動を必死でこらえた。ごくん、と上下したのどは、力任せに怒鳴った名残でやけどのようにひりついていた。ひどく目が乾いて、やがて涙すらにじみ始めるのを感じた。怒りを封じ込めた腕が行き場を求めて震えて、握りしめた手のひらに食い込んだ爪が痛い。

「とにかく僕は、あの人以外を母さんなんて認めるつもりはないから」

ばあさんがいないからとかそういうことではない。問題なのはそこではない。とりあえず片付けば良い、問題が顕在化しなくなれば良い、物事の根本をちゃんとしようとしない親父のそういう不誠実さが、僕から母を奪ったんだ。それがどうしてわからないのか。

目を伏せた床の上で、酒瓶の口から静かにこぼれた透明な酒が、畳の目と目のすきまにゆっくりと染み込んでいく。


母が家を出た次の日から、小学校から帰った僕を出迎える人はいなくなった。七十代にさしかかっていた祖母は、テレビを見ながら何も言わずに座っているばかりになった。今考えればアルツハイマー病の始まりだったのかもしれないし、後先考えずに恣意的に嫁を蔑んだことを、彼女なりに懺悔しているのかもしれなかった。

見えないところで、母を執拗にいびっていたのだという。家事や料理に文句をつけるのはまだましなほうだ。あるときは自治会の時間をわざとずらして教えて恥をかかせたうえ、「ね、うちの嫁はだらしないでしょう。苦労してるのよ」と近所中に言ってまわった。さらには母が少し外出しただけで「嫁が遊び歩いている」「あたしは大事にされていない」と憤慨し、涙ぐんだりしたらしい。「らしい」というのは実際に見聞きしたわけではないからだ。

僕は恵里菜の家族から、祖母と母の客観的全貌を漏れ聞いて、パズルのピースを嵌めていくみたいに、すこしずつ、すこしずつ、母と祖母に関する全体の形状を知っていったのだ。幼なじみだった恵里菜とその伯母さん夫婦は、遊びに行くたび、僕を笑顔で迎え入れてくれた。いつも伯母さん夫婦だった。そういえば僕は恵里菜の母の顔を知らない。

成長すればするほど、ますます家が嫌いになった。それ以上に自分を信用できなくなった。自分の見ているものの「普通さ」なんてものは、結局うわべにすぎないのだと思うようになった。少なくとも僕の見ているところでは、祖母は普通に祖母で、母は普通に母だったのだ。

恵里菜の家族は、母のことを毛嫌いしてはいなかった。むしろ同情を寄せていたように、今振り返ってみて思う。それでも、たとえば僕の祖母に面と向かって立ち向かってくれるような、そういう正義はある様子ではなかった。そういうたたずまいは他の家族も同様で、界隈のそういう息苦しさのなかで、粘土細工の表面が少しずつ乾いてひび割れるみたいに、やがて母は壊れた。

離婚が正式に成立しているのか、籍は抜けずに別居の状態なのか。僕の養育費がどうなっているのか、というか専業主婦だった母さんに英治がちゃんと金を入れてやっているのか――僕には何もわからなかった。こっそり父の携帯を見ても、母のメールアドレスはおろか電話番号すら見つけられない。だから、高校では金の掛かる部活は諦めて、アルバイトと勉強に精を出した。第一志望は近場の国立。受かればどこでもいいけれど、偏差値のよい物理を使うなら理工学部。その先は真っ暗闇。


「つまり、切なくてしょうがないということなんだよ、君は」

本を片付けながら、志保さんは言った。紺色のエプロンをして、黒髪をきゅっとまとめている。

「そんな綺麗なもんじゃないですよ」

試験期間で半日の午後、学校はひどく静かだ。四階の端にある図書室は、館内整理日として立ち入り禁止にしている。

「でもわかるなあ。男の人はそうなんだよ。悪気はなくても、お嫁さんより、どうしてもお母さんが大事なの」

「志保さんでもそういうことがあるんですか」

志保さんは、うーん、とほんのかすかに首をかしげた。綺麗に塗られたベージュの唇が引き結ばれる。

「どの家庭も多かれ少なかれ、ね。立場と人間関係というのは悩ましいもの。家庭人も、ひいては社会人も職業人も。えもいわれぬものがあたしたちを縛る」

家のことを、彼女に話すのは初めてだった。それなりの重たさの話だったはずなのに、志保さんの声はいつも通りの綺麗な色をしていた。まるで澄んだ川底を転がって角が取れた石のように、円くてすべらかな言葉の粒が、耳にすんなりと入ってくる。彼女の深いところで受け止められた僕の家庭の事情が、まろやかで優しい物語に変えられていく。

「志保さんが言うと、どんなことでも美しく聞こえてくる……憧れるよ、やっぱり、あなたには」

ふと、地方紙が目に入った。

【甲斐工業高・富士五湖高統合 新高校名決まるも反対根強い】

両校のOBが、「母校がなくなるのはしのびない」という感情論から統合に反対しているという、いささか苦い論調の記事だった。その新聞を、不揃いであたたかな淡い木目の机に置き、覆い被さるように両手をついて睨んでいると、机のむこう側に彼女が立つ気配がした。

「生徒数が減少するなら、受け皿である高校を減らすのは当然であって、それが公立なら尚更よ。定員割れをおこして収支が赤字になったら、補填されるのは税金だし。歴史や伝統も大切だけれど、一番大事なのはこれからの日本。未来に、負担ばかり押し付けたらダメね」

現実を踏まえた甘えのない正論も、鈴が鳴るような声で歌うように言われれば、違和感なく染み込んでくる。

「教員という人的資源も限られているのだから、質の高い教育のためには、合理性をとるのは、やむをえないでしょうね。合理性と正しさは、常に等しくはないんだけれど」

「合理的なことでも、正しくないことって、ありますもんね」

志保さんは眩しげに目を細めただけだった。

開け放たれた窓から、クリーム色のカーテンを揺らして、すずやかな風が入ってくる。淡い茶色の机と本棚を、太陽の光が照らしている。まっすぐな黒髪が揺れる。いつもは深い茶色の瞳が、光に透けて亜麻色に溶けている。長く細い睫毛も、薄い唇も、とがった顎も、首筋も、肩も、指先も、蝉の翅のように繊細にできている。

はるくん、と志保さんが呼んだ。

「別れましょう」

「え」

「……って、言ったら?」

僕は腕を伸ばし、志保さんを抱きしめていた。何か言いたいのに変なことを言ってはいけない。せめぎ合う心の乱れが全部表面に現れて、しわくちゃになっているだろう顔を見られたくなかった。華奢な肩も肋も肩胛骨も、折れそうなくらい力を込めた。

壊れるまで抱いてやろうとした、でも、彼女は壊れなかった。ちゃんと、人間だった。

「嫌っすよ」

学校がなくなることも、このひとと別れることも。嫌で、嫌でたまらなくて、強く奥歯を噛みしめた。

「やあね、冗談よ」

温かい手を背中に感じる。何度諭されても、謝られても、喪失のまぼろしは、なかなか消え去ってくれなかった。


バスは、つづら折りの山道を登りきると、緩やかに下り始めた。河口湖駅で山中湖村行きのバスに乗り換える。普段自転車で移動しているだけにICカードは持ち慣れず、結局いつも運賃を硬貨で支払っている。帰りは英治の運転するプリウスである。車窓を過ぎてゆく景色の中、丈高な雑草の生い茂る国道沿いに、「甲斐工業高校をなくさないで」の横断幕が通り過ぎていった。

英治の店は、山中湖をぐるりと巡る遊歩道沿いにある。丸太の切り口が剥き出しに組まれたロッジ風の外観は、観光客でにぎわう河口湖や富士山のふもとから、すこし離れた静かな山中湖のたたずまいにしっくりと溶け込んでいる。深いグリーンに沈む湖や白樺ともよく調和していながら、店に一歩入るとごま油や背脂の香りが漂う洒落っ気のなさ。そのちぐはぐさはいかがなものなのかと僕は思うのだが、意外と客が入るのだと英治はかつて笑っていた。ドアをくぐると、英治がカウンターの中で煙草を吸っていた。

午後三時。客はほとんどなく、カウンターに座っているのは常連の佐藤さんがひとりだけだ。僕は挨拶をすると、カウンターに腰掛けた。すぐ横で低く唸る透明なウォーターサーバーから、つめたく澄んだ水を汲んだ。

「なくなって欲しくないもんだな」「そうだねぇ」

何の話だろうと思いながらスマホを確認する。何の通知もないそれを、尻ポケットにねじ込んだ。

「うちのせがれも、甲斐工業に行ってんだよ」

「ほうけ。そんじゃあ今、大変でしょ。統合で」

ああ統廃合の話かと察しながら、僕は適当な相槌とともに水を口に含んだ。淡い色をした思い出話は、頑固一徹な職人をも饒舌にする。木枠に寄りかかって、だみ声を張り上げるようにして英治が喋っている。

「昔はそりゃあ、やんちゃばっかりして怒られて、こんな学校なくなっちまえと思ったもんだけど」

うんうんと、佐藤さんが頷いた。英治と同窓であるという彼は機械関連の資格をたくさん持っていて、富士五湖地域随一の精密部品工場で働いている。

「けどさぁ英治さん、この辺の職人っち、みぃんなそこで勉強して、仲間作って、大人んなっていって。しまいにゃ日本の産業を支えてるときたもんだ。やっぱりそういう意味じゃ、あすこの学校は人材を作っただよ。潰れちまったらこの辺一帯、元気がなくなっちもうね」

峠を越えてゆうに一時間もかかるようなこの山中湖の地でも、専門的な技術を身につけるために、はるばる甲斐工業まで通う学生は少なくなかったのだという。遠くを見つめるような目で、英治は紫煙を吐き出し、ふと、僕のほうに視線を向けた。

ちょうどそのタイミングで、麺が茹で上がる音がした。ぐっと口を引き結んだ英治が、手元を見つめてしばらく無言になったかと思うと、やがて日焼けした腕で目の前にどんぶりを差し出した。熱い湯気で一瞬、何も見えなくなる。やがて霧が晴れて青白い霊峰が姿を現すように、うずたかく積まれた具材が目に飛び込んできた。もやしとキャベツをベースとしたたっぷりの具材とこんもりとした太麺が、丸い油できらめく透明な塩のスープに浸っている。割り箸を割って、小さく手を合わせてから、野菜の山に割り箸をつっこんだ。

「最近どうなの甲斐工業は?」

話の矛先が急に自分に向いてきたので、僕はあわてて中華麺の塊を口に押し込んだ。佐藤さんが眼鏡の奥の目を優しげに細めている。ああいうまなざしは腹の奥を半端にくすぐってくるから苦手だ。

「フツウっすけど、」

咀嚼しながら、僕は返事をした。

「でも、やっぱり思いますよ。統廃合とか、どうなのかなって。別に学校にそれほど思い入れなんかなかったとしても、やっぱりなくなってしまうのは、身体にぽっかり穴が開くような虚無感っていうか」

佐藤さんは笑って、酢醤油に浸した餃子をつまんだ。整然と並んだ餃子はそれぞれに美しい曲線を描き、完璧な焦げ目がまるでクレーターのようだ。月だ、と思った。佐藤さんが月を口に運ぶ。挽肉、キャベツ、生姜、刻み葱、ごま油。しっとりと重い皮につつまれた小宇宙。僕は続けた。

「ほら、たとえば、みんなで月に移り住んだとしたら。別に住む場所なんか関係ないって思っていたとしても、少したつと、ああ地球は良かったなって思うんですよ、きっと」

「月って住めんのけ」

洗い物をしていた英治がエプロンで手を拭いながら近づいてきた。佐藤さんが、住めねぇずらと笑って首を振る。

「月は空気がないから。ほらちょっと前にニュースになってた、どこだっけかなぁ……あ、火星。火星ならともかくなぁ。知ってた? 僕くん」

スープを啜りながら首肯した。英治が笑った。

「火星じゃなくて月って言うんだもんなあ。現実的なところを言わんところが、お前らしいよなあ」

確かに火星ではリアリティがありすぎるのかもしれなかった。本当に移住できてしまいそうで洒落にならない。浮き世離れしたたわいない会話に、ひと筋、恐怖が垂れた。

目を落とすと、丸いどんぶりのなかで、取り残された肉や野菜のかけらが、時計回りの渦を巻いていた。本当に地球を捨てて人類が火星へ移り住んだら、と想起する。砂漠のような広大な場所で、宇宙服を着た何十億人もの人類が列を成す。無機質な白いヘルメットをかぶった、表情の読めない群衆が、銀色に光る巨大な宇宙船に乗り込んでいく。ラグビーボールのような形の宇宙船からのびたタラップを、無機質な白い人類の群れが埋め尽くしている。僕もいつの間にか群衆に紛れ、じりじりと進む列に並んでいる。鉄製のドアをくぐる寸前、最後に一度だけ振り返る。宇宙服のヘルメットに涙がにじんで前が見えない。僕は泣いていた。涙と鼻水と、母なる星への未練を垂れ流しながら仰いだ眼前いっぱいに隕石が迫る。轟音。衝撃。爆風。圧倒的な熱。僕は背筋を激しく震わせ、射精しながら一瞬で肉体を焼かれる。


四、英治

客が去った後の店は、文字通り火が消えたように静かだ。俺は山と積まれた洗い物を見やり、ぱんぱん、と二発、両頬を手で挟むように叩いた。油でぬめる楕円の皿をスポンジで無心に擦る。忙しさで乱れていた頭の中がクリアになっていく。調理しながら洗ってしまえればいいのだが、幸か不幸か、独りで切り盛りしている店では腕は二本しかない。洗剤の泡にまみれた寸胴の奥底に手を突っ込む。忙しさが過ぎ去れば、浮かんでくるのは寂しさだった。

泡のなかに息子の顔が浮かんだ。顔が見られるのは多くても週に一回。いつの間にあんなに大きくなったのか。思えば春樹の安らいだ表情を見たことがなかった。いつもどこか怯えていた。わかりきっていたことだ――彼が何に飢えているのかは。

もう二〇年近くになる――ここと自宅をいったり来たり。一人息子の春樹が産まれたときにも俺はこっちで店を守っていた。そんな自分が、母親の代わりまでしてやれるような器用な男ではないとわかっていた。だから初美が家族に加われば、息子にとっても少しは良いのではないかと考えた――それが、あれほどの荒れようだ。

皿が手から滑って落ち、耳をつんざくような音を立てて割れた。じっと見つめていたら、漏れ出るようなため息が出た。春樹がああなったのは、家族がばらばらになったせい。それはまぎれもなく、自分が引責すべきことだ。ぱっくりとふたつに割れた楕円の餃子皿を、蛇口からまっすぐに落ちる水が打ち、四方に広がる。揺るぎなき断罪。

ふいに携帯電話がなった。

「大丈夫? 声が疲れてる」

初美のまろやかな声が耳を打つ。八王子に住まう彼女は、一年ほど前に富士五湖を旅行した際にここへ立ち寄った。それがきっかけだ。

「ああ……なに、少しくたびれただけさ」

なんてことはない電話。それだけでも、救いだった。

「今、どうしてる」

「出張で、長野の白馬村に来ているの。星がとても綺麗よ……」

ひとしきりして、電話を切った。俺は勢いよく伸びをして、洗い残していた大釜の端を掴んだ。

星が綺麗よ、と初美の声がよみがえる。生きとし生けるものは、みな、星だ。限りある命を燃やして、煌々と輝ける命。いつかは燃え尽きて冷えゆくさだめ。それならば、今を輝くのだ。力の限りに命を燃やして、最後の一秒まで光るのだ。


五、恵里菜

十枚ちょっとの万札。それを握りしめて、産婦人科のドアを叩いた。初診ですか、と問われて頷く。

「日帰りでできるって聞いて」

ちらりとカレンダーを確認する。三連休の初日の朝十時。すんなりと事が済めば、学校や周りにばれずになんとかなるはずだ。待合のソファに座ると、吐き気が込み上げた。ちょっと目を閉じただけで、検査薬の「+」の印があぶり出しみたいに脳裏によみがえる。

診察室でひととおりのリスクの説明をされ、自称「保護者自署」の同意書を渡すと、医師はじっとそれを見つめたあと、覚悟はいいかと念を押されて、気が変わらないうちにうなずいた。

下着を脱いだ状態で診察台へ上がった。涙があふれてきた。それは、すうすうする陰部が不快だったからでも、今さら脚を閉じたくても閉じられなかったからでも、「無責任なことはしないこと」などと自分と大して歳の変わらない看護師に冷たい声で言われたからでもない。

注射針が刺さる、ちくんという清潔な感覚があった。目を閉じる。愛だと信じた、この茶番の幕切れを噛みしめる。あの人は、人生で初めて欲しいと思った人だった。

セックスを覚えたのは、自分の失ったものを埋める鍵がそこに隠されているように信じたからだ。けれども、こうなってしまっては、鍵を掴むどころか「余計わかんなくなっちゃった」というのが実際のところだ。テヅカさんに出会う前から、たとえヤリモクだってわかっていても、先輩でも後輩でも関係なく、ありとあらゆる男と付き合った。姉御どころかヤリマンって呼ばれてるのも知っていた。なんなら上履きに書いたよね。ヤリマン、或いはそれに準ずる俗語。ヤリマンって書いてさびしいって読むんだ。

彼が最後の人だって、思っていたのに。

伯母さんは優しかったけど、ずっとずっと、ママのおかげで肩身が狭かった。少なくとも生理が始まる頃には、家事も炊事も洗濯も、自分のことは自分でやっていた。友達を頼りにしたこともなくて、誰かを甘えさせてやるばかりの子ども時代だ。クラスメイトはみんなあたしを勝手に「姉御肌」だとか都合の良いこと言って、面倒な相談ごとを持ってきた。そのわりに、女の子達はあたしをやっかんでいた。彼女たちは子どもながらにして女で、あたしの姉御めいた肌の下で息づく寂しさをとっくに見透かしていたのかもしれないのだ。その表出としてあたしは、ありとあらゆる男子たちと付き合い、常に誰かのものであり続けた。おっぱいにむしゃぶりついてくる子どもみたいなクラスの男子達を、なだめすかすみたいに抱いて、少なくない人数の何人かとは、それなりの仲になった。

かしゃ、かしゃ。金属がぶつかりあう無機質な音が聞こえる。カーテンで仕切られて何も見えないけど、きっとステンレスみたいによく光る器具だ。冷たくてぞっとするほど命の気配がない。

テヅカさんは唯一、あたしが欲しいと思った人だった。だから最初にセックスしたときは、満足感や達成感や恍惚感でどうにかなりそうだった。

初めて二人で越えた夜のことを、ホテルの壁面にはびこるツタのような壁紙の柄まではっきりと思い出す。社会人と付き合ったら、ひょっとしてプロポーズされたりもするのかな。急に部屋が明るくなって、テヅカさんはとても曖昧な目をして、「ごめんね」と言ったのだ。もう会うことが出来ないんだよ、エリちゃんとは。

奥さんも子どもも居る人だった。おまけに市会議員やるような旧家の娘の婿だって。家が窮屈で、とか、居場所がなくて、とか、さも自分が哀れみたいに言って。

それが何だっつの。

パパなんか生まれたときからいなかった。ママは伯母さんちにあたしを置いたきり石和の街のどこかで遊び呆けだった。ママはあたしを顧みるどころか生活費も入れず、炊事洗濯から学校の欠席連絡とかまでみいんな、やってくれたのは伯母さんで。最終的にぶち切れた伯母さんがママの荷物、全部捨てた。あたしは肩をすくめて、冗談みたいな狭さの畳の間で息をして永らえた。団地に移ってママとの二人暮らしが始まっても相変わらずで、特にお金には困って、進学費用どころか修学旅行の積み立てすら足りなくて、アルミ缶集めてお金にしようとしたら「ここはわしの縄張りや」ってホームレスのおっさんにぶたれた。おまけにテヅカさんもあたしのことを捨てようとしている。

あふれてくる怒りと理不尽と呪詛と悲しみと未練が一緒くたになった巨大な洪水をどうやって吐き出したらいいかわからずに最後は自分で自分の感情に溺れた。涙で前は見えないし、声は出ないしであっぷあっぷしてる間に、テヅカさんはお金のはいった封筒を静かにおいて曖昧に笑った。「部屋代は払ってあるから、チェックアウト前に出てね」あたしはまだ溺れながら、もがきながら、玄関で靴を履く背中に手を伸ばし泣き叫んで嗚咽しながら、悪魔に取り憑かれた人みたいに胃の中のものを全部吐いた。吐瀉物。世界の終わり。或いは生命の着床。あの時テヅカさんが置いていったお金は、一泊分にしてはあまりに額が大きすぎた。でも今ここでこうしていられるのは彼のお金のおかげだ。でも彼がもう少し綺麗な大人だったら、あたしはこんなところで人生を振り返ってなどいないのだろう。

何もかもがちゃちだった。ゆるやかな暗室でプラネタリウムを見ていたところを、急に野蛮な誰かさんによって明るくされたみたいだ。テントの骨組みも、映写機も、暗幕の端っこがほつれているところもまる見え。あたし、愛のかたちをしたものをお腹の中から引きずり出されたら、そのまま、死ぬのだ。目を閉じた。だからせめて今は愉快なことを考えよう。これまで寝た男の顔でも数えよう。けれども、浮かんでくるのは逆にセックスすらしたことのない、幼なじみの顔だった。ハル、ハル、って唇だけで呼んだ。あたしがこのまま死んだらハル、ちゃんと、生きていけるのかなあ。無理だよなあ、なん、つっ、

麻酔が意識の輪郭を溶かした。


六、春樹

相変わらず、同窓生たちは統廃合に反対している。しかしそんな声を無視して、計画は進んだ。この校舎は取り壊さずに、近くの大学が買い取って医療工学部のキャンパスにするらしい。

甲斐工業は、最後の学園祭を一週間後に控えている。学園祭準備期間は、授業もはやく切り上がるので、活気にあふれている。熱くゆらめく夏の空気は、恐れ知らずな若さのようでもあり、一夜で死にゆくという薄羽蜉蝣の命のようにも見えるのだった。

クラス企画ではお化け屋敷をすることになり、僕は大道具係に任命された。近所のスーパーから貰ってきた段ボールを黒や赤で塗りつぶしていく。やがてペンキが足りなくなって、駅前の百均へ買い出しに出ることにした。同じ係の数名と廊下を歩いていたら、校長らしき背広の男と、志保さんと、初老の見知らぬ男性が、会議室から出てくるところとすれ違った。ほっそりと長い足を見慣れぬパンツスーツに包んだ志保さんは、僕たちを見て露骨に顔をこわばらせた。何の集まりなのか全然分からなかったし、彼女以外のひとたちは和やかな表情だった。そのアンバランス感が、妙に頭に焼き付いてしまって離れないで、僕はしばらく来賓用玄関に向かって遠ざかるその一団を、目で追いかけてしまった。

放課後、図書委員で集合した際は、志保さんはいつも通りだった。さっきのは何なんだろうと思わないでもなかったが、大人は色々あるんだろうと僕は気にも留めなかった。志保さんの指示のもと、係みんなで展示の準備を進めた。女子達は、暖色系・寒色系・モノクロ・セピア・ネオンといった色の系統ごとに可愛い装丁の本を部屋中から集めては、ああでもないこうでもないと言いながら、丸やら菱形やらの形に並べている。男子は、工場や宇宙が表紙の本を集めることにした。こんなことをしている間にも、宇宙のどこかで星が生まれ、命を終えている。

僕たちが作業する様子を、志保さんはうっとりと口角をあげて眺めていた。やがて彼女は何かに気づいたようにエプロンのポケットから携帯を取り出し、一瞬顔を引きつらせて、図書準備室へ消えていった。僕は彼女のことばかり目で追っている。

「どうする?『甲斐工業最後の図書館展示!』とか、つける?」

「ああ、いいかも。でももう学祭全体が『最後の』推しだから、逆にいいんじゃね、うちらはスルーでも」

部屋を見渡した。八時半から夕方五時まで、いつ来ても、いつでも、僕を受け入れてくれた図書室。例えば太陽が出ない日はないし、星が光らない夜もない。たとえ雲に覆われていたって、いつかはまた会える、閉館していたって、卒業したって、いつでも学校へ来れば受け入れてくれる。それなのに、こんな夏はもう来ない。

ふいに、破壊のイメージが浮かんだ。橙と黒にそびえ立つクレーンが、三階建ての鉄筋コンクリートを、鉄骨を、窓ガラスを、木枠を、ぎらぎらと光る牙のような巨大なシャベルが突き破り、こそげ取っていく光景。



――まず、お子さんの所見ですが、おそらく「腎芽腫」という病気です。別名「ウィルムス腫瘍」と呼ばれたりもします。しっかり病理検査をしないとわからないんですけれども。ええ。それに少ないんですよ。日本で毎年、だいたい五十例。この画像を見て貰うと……真保ちゃんの場合は、腫瘍線ができていて……下大静脈まで入っちゃっていますね。それに、……ここ。CT画像だけですけれど、肺への転移も見られるようです。ええ……もちろんこれからMRIを撮って、しっかりと検査した上での判断にはなりますが……手術? そうですね。いずれは考えます。アメリカ式と欧州式の治療法があります。まだ先の話ですけれども。というのはこの下大静脈の部分。ここはとても切除が難しいんです。そうなるとまずは化学療法先行で、ある程度腫瘍を縮小させてから、手術したほうが、リスクは抑えられます。これが必ず「ウィルムス」だという、ある種の賭けではありますけれども。たまにね、ラブライド腫だとか、もっと悪いものもあるんです。ですが九割がた、ウィルムスだと思われますから、まずは化学療法で投薬治療を開始しましょう。……ええ、保育園もしばらくは、休んで貰うのが望ましいです、退院後も。これから冬に向かって、感染症が流行しますから……化学療法? いわゆる、抗がん剤のことですね、ええ。



学園祭当日は、よく晴れていた。各部の模擬店が色とりどりに立ち並ぶなか、図書委員会の展示もまずまず人を集めていた。

雅也に交代して貰って、僕は三年四組の店からラムネを買い、静かな場所を求めて歩いた。太陽がこのくらいの位置にあるときは、渡り廊下の片隅が丁度いい日陰になることを、部活に入っていない僕は知っていた。コンクリートの段差が丁度いい腰掛けになる。

足を開いて座り、少し身体を前傾させた。ラムネの分厚いガラスの口に、世界の果てのような色のビー玉を押し込む。まだ濡れて水滴を無数につけた半透明の瓶が、小気味よい音を立てて開いた。発泡する透明な青を日にかざす。青の中で、光が砕け散る。その向こうに志保がいる。今すぐ会いたかった。心臓をかきむしりたいほど、焦がれていた。

この学園祭が終わる前に、「卒業したら一緒に暮らそう」と、申し出ようと思っていた。


閉祭式は、終盤にさしかかっていた。蒸し暑さと喧騒を逃れて、志保さんとふたりでスポットライト席に潜り込んだ。開け放った窓からは、蝉の声が降り注いでいる。狂ったように啼いている。限りある命を振り絞るように、引き絞るように。

見下ろした下界では、激しく点滅を繰り返す光の中、有志のバンドがかき鳴らす爆音のギターや、響き渡るドラムや、ヴォーカルの地面から突き上げるような奇声だとかでごった返していた。煽られ焚き付けられた若い集団は、黒い波のようになってステージに突進し、乗り上がり、暴れ、飛びはね、喉の奥が涸れるまで叫んでいる。腹に響く低音、耳をつんざく高音、ハウリング。叫び。とどろき。涙。輝き。輝き。もう二度と戻らない輝き。星。燃える星。互いにぶつかり合い、融合し、今この時を煌めいて、次の瞬間には、永遠に消えてしまうエネルギー。

「ハルくん、話があるのよ」

生きるとは、一瞬のきらめき。今を精一杯、悔いなく生きること。悠然と回り続ける地球、火星、月、太陽。浮かんでは消えるうたかた。

隣で大きく啜り上げる声が聞こえた。隣を見やると、志保さんが泣いていた。悠久と刹那が入り交じり快哉を叫ぶこの世界で、この手に抱えられるだけの愛をあつめて、この人にあげたいと思った。僕は彼女の腰に手を置こうと、そっと腕を後ろに回した。

「癌なの。子どもが」

聞き返すこともできずに、彼女の横顔を凝視した。志保と僕の間に、泥で汚れた下足で、現実が踏み込んできた。

子どもが、志保さん、あなたには、いたのか。

「今、入院していて――手術を控えているの。来月になったら、東京の大きな病院に転院して、手術をするの……ずっとつきっきりになる。仕事との両立は、到底、できなくなる見通しで、だから、少しの間、学校を離れることになって……まだ、生徒には誰にも言えていないんだけれど」

「待ってくれよ、全然、理解が追いつかない」

「ごめんなさい。本当に。子どもに、家族に……今はしっかり向き合いたい」

「別にいいよ、学校で会えなくなるんなら、会いに行くよ、あなたのところへ」

志保さんは、首を振るばかりだった。

会っていることが周りに知れてはいけない。情交の痕跡を残してはいけない。そういう思いからやりとりは常に、本に挟んだ紙片で行っていた。その非日常な作業によって、彼女の現実の姿が、ともすれば見えなくなっていたのかもしれないと僕は薄ぼんやりとした頭で考えた。輝く月には裏側があるように、志保さんは司書の先生である前に、誰かの母親であり妻であったのだ。それにもかかわらず、「一緒に住もう」だなんて、僕はなんて子どもじみたことを望んでいたのか。僕は唇をかみしめ、自らの浅はかさを恥じた。

志保さんは、ごめんね、と繰り返した。あの綺麗な輪郭も、大好きだった瞳も声も、喧噪に、涙に、闇に、いろんなものに阻まれて何もわからない。

「謝るくらいなら、」

その先を口にすることができなかった。血の滲んだ唇は、鉄錆の味がした。


学園祭が終わると共に、夏も、志保さんも、姿を消した。新しい司書教諭が赴任したが、僕は図書館に寄りつかなくなっていた。好きだった現代文も古典も、もうどうでもよくなった。むしろ文学を想起させるようなものは見たくもなかった。視界を閉ざすみたいに居眠りを続け、授業態度を指導した国語教師に手すら上げそうになった。

志保さんに何度となく電話をした。それでも、一定回数の呼び出し音のあと、あの美しい声が聞けることはなかった。

一度だけ、彼女の最寄り駅で降りたことがある。

降りるべき自分の最寄り駅で開いたドアが静かに閉まり、やがて動き出すまでが、永遠のようだった。ひとつ、またひとつ、駅に近づいていく。心臓が高鳴り、まるで罪を犯しに行くようだった。けれども降りたったその駅で、結局僕は動けなくなってしまった。会ったところでどうなる。夫や病気の子どもといる彼女に何を話し、何を願い、何をどう主張する。その家族をおいて僕の元に戻ってきてくれとでも言うのか。それがどんなに非現実的なことであるか。両足が縫い付けられたように動かなくなったのだった。

蝉時雨のふりしきる、七月の終わりのことだった。鬱々とした気持ちで夏休みを消費していたら、「話がある」と英治が僕を畳に座らせた。傾いた赤い太陽に照らされた自分の身体が、不穏なくらい長く薄い影になって、毛羽だった畳の上に伸びている。その影を追っていくとやがてベージュの靴下が視界に入ってきた。薄汚れたその足先から順に目を上げていく。よれた杢グレーのTシャツ、日に灼けた首、そして、いつになく強張った英治の顔。

英治が向かい合う位置にあぐらをかいて座り込んだ。おとうさんな、と言い出した声がわずかに震えていた。

「色々考えたんだが、やっぱり結婚しようと思うんだよ」

頭を殴られたような衝撃が、まぶたの裏に走った。目の前を直視できずに僕はじっと畳の上で目を泳がせた。スラックスに包まれた英治の太ももが、畳の上で所在なげに動いた。

「だからな、今度お前も会って挨拶を、」

「会わない」

「僕、」

「冗談じゃねえよ」

路肩にガムを吐き捨てるような口調になった。

何を勝手に、先に話を進めてんだと思った。一度だってこの男の再婚話に首肯したおぼえはない。一度だけ、酒瓶を蹴飛ばして抵抗したあれは、少なくとも確かな意思表示だったはずだ。英治はみっともない顔をして食い下がってきた。

「春樹、こりゃあ俺の人生なんだよ。俺は結婚したい。今度こそ、この人なら、という人ができたんだ」

この人なら、なんなんだよ。この人ならあのばあさんを面倒見てくれて、自分の言うことをぜんぶ聞いてくれて、とても都合の良い女なんだってことかよ。

「じゃあ勝手にしろよ。僕が会う必要なんかないだろう」

「そんなこと言うなよ。当然のことだろう。お前にとってだって必要なことの筈だ。お前だって家族なんだから」

「かぞく」という名詞の白々しい響きで、煮えくり返っていた怒りが一気に頂点に達した。濁った激情が鋭い舌打ちに変わって僕は畳を蹴り飛ばして立ち上がっていた。英治も立ち上がった。その背後の写真立ては、あの日伏せられたままだ。大股で英治に歩み寄った。拳がむずむずした。目の前の薄汚れた男を張り倒してやりたい衝動をぎりぎりで抑え、それでも繰り出してしまった右ストレートの拳が、壁紙にめり込んだ。

「春樹、座りなさい、落ち着いて話を、」

ぼが、と空気が破裂したような音がした。下を見ると和室の砂壁に右の足がめり込んでいた。つま先が壁を突き破ってぼろぼろと中の繊維が見えていた。絶句した英治の気配がちりちりと右の首筋を焼く。

「変わってねえよ。親父は母さんを追い詰めたときと何も」

俯いた僕を、赤い影に染まった畳の目が見つめ返してくる。無数の物言わぬ目に、お前は醜い、と言い立てられているようだった。僕は外へ飛び出した。

自転車に跨がり、無心にこいだ。頭を垂れ始めた稲穂の揺れる田んぼのあぜ道を、まっすぐにあてもなく走る。わけもなく涙があふれて、どこへともなく広がる世界を滲ませる。まっすぐに続く道。どんどん速度を上げる。涙があふれてくる。このまま消えてしまいたかった。

ふいに携帯が震えた。ブレーキを握り、田んぼの真ん中で止まる。耳に当てた端末から、お腹の痛みを堪えているみたいな恵里菜の声。

『ハル。今日シフトだよ』

背筋に氷を入れられたようだった。

「ごめん……休むって、伝えてくれる?」

恵里菜は一瞬黙ったあとで、何も聞かずに短い言葉で了承してくれた。


七、恵里菜

物心ついたときから、闇は苦手だった。暗いところがとにかく怖くて、でも、ママと一緒にいれば安心だった。伯母さんよりおじさんよりママが好きだった。あたしは力いっぱい、泣いたり怒ったりママをつねったりした。そうすればママは少なくともあたしを構ってくれる。けれど、ママはそんなあたしを持てあまし、そっぽを向いてしまうことが多くなった。化粧をしてよそいきの服に着替え、犬猫に飽きた子どもがするみたいに「もう遅いから寝なさい」と、あたしを真っ暗な寝室に放り込み、ハイヒールを履いて出かけていった。高すぎるヒールにもてあそばれて、よろめく母の後ろ姿はまるで弱った鹿のような、或いは、生まれたての初めて歩き出した鹿のような、とても純粋で不埒な足取りなのだ。

墨を流したような闇の中で、月の光だけを頼りに母を待った。白くぼんやりとかすかに浮かび上がる窓枠にもたれて、じっと目をつぶる。ふすまのさらに向こうへ伸びる廊下の奥の奥には、絶望みたいな闇が口を開けて待ち構えていて、耳を澄ませば見たこともない異形が這いずりだしてきそうだった。

あたしは歩く足をはやめた。川べりの道は真っ暗で嫌いだ。黒々とした闇に沈んだ川の流れが、ごうごうと猛獣みたいに吠え、のたうっている。かつて室町時代、この川が氾濫したとき、流されて死んだ母親を探して笛を吹き続けたという少年の伝説が残っている川だ。そういういわくつきなのもあって、あたしはこの笛吹川があまり好きではない。

かたく目をつぶり、恐怖心を追い払うようにさらにあゆみを速めた。顔を撫でる風は太陽の残滓を帯びて生ぬるく、饐えたような水の匂いが鼻をくすぐる。何個目かの高架をくぐり抜けた時、真っ平らな川べりの道に腰かけて、闇の中でのたうつ水流を見つめる黒い背中を見つけた。

「ハル」

ハルが、のろりと振り返る。

「そんなところで何してんの」

彼はこっちをちらっと見ただけで、背中を丸めて両膝を抱いた。


団地の角部屋には、夏が吹き溜まる。未練がましい温度のしめった空気が立ちこめる部屋で、ハルは所在なげに辺りを見回したあと、薄ピンクの座椅子に腰を下ろした。

「今日、おじさん居ない日でしょ。座って、座って」

冷蔵庫にはビールのロング缶しかなかった。しかたなく差し出したそれを、ハルは意外にも躊躇なく受け取って、一口のんだ。あたしもハイボールの缶を傾ける。終わった恋のように往生際の悪い苦みが、喉に残る。隣に座って、目を伏せた。

「ママ、帰り遅いんだ。いつも明け方くらいなんだよ」

だから、バイトをサボってそんな顔してあの川を眺めているような女々しい風情の男が居ても全然迷惑じゃないっていう意味で言ったのだ。それをハルはどう捉えたのか、どうしてそんなこと俺に言うんだ、と露骨に訊ねてきた。あたしは答えずに上を向いて、苦いものをぐびりと飲みほした。テーブルに置いた缶底が、かるい音をたててつぶれる。

「べつに、暇なだけ」

こんな目をしたハルの前じゃ、あたしもつられて素直になれない。

「っていうか、ハルだってバイト無断欠勤。店長にめっちゃ怒られたよ。埋め合わせしてよ」

ああ前にもこんなことがあったな。宿題を見せてあげたときだ。こうやって迫ると決まってハルは、「ごめん」って謝ったあと、「どうすればいい?」と訊いてくるのだ。今回の反応も同じだった。心なしか目のふちを赤く染めているハルは、まんまとあたしに弱みを握られた。もしかしたらあたしはずっと前から、こういう隙を、狙っていたのかもしれない。そうだなあ、これで許してあげるよと、身体を伸ばした。

ハルの唇は思ったより、乾いていた。熱の塊が静かに込み上げてくる。ハルの手が胸に触れる。力がこもり、ゆるむ指。ハルの指。泣き虫だったハルの手。いつもつないでいた手。それが、いつの間に、こんなに大きく、骨っぽくなったんだろう。一瞬の逡巡のあと、あたしはその手を取り、だめ、とゆるく首を振った。

「だめ。まだ」

「まだ、って、」

「まだって言ったら、まだ」

ハルの薄くて広い身体を抱き寄せて、目を閉じた。息ができなくなるくらい、濃い密度で静寂が押し寄せてきた。ハルと自分とを囲む世界には吐息以外のいっさいの音が消え失せ、鼻も、鼓膜も、口も、まるで幕が下りたように塞がれて、まもなく息すら危うくなった。息が詰まり、次に心臓がしびれた。ハルを守って、あたしはこのまま死ぬだろう。どうせそういう定めなのなら、ひとつくらい、質問をしても許されるだろうか。

「ハル、変だよ。学祭明けから、変」

腕の中で身じろぐ気配がした。動脈が透けそうなぐらい頼りない首筋。

「こんなに細くなかったっしょ。正直に言え。何キロやせた」

「……四キロ」

「やば」

なるべく尻軽な色を出そうとしたのに、声が非条理に裏返った。

「どうやったらそんなに痩せられんのか教えてよ」

「……失恋、っていうか」

心臓が固まった。たっぷり一拍おいて、「あ、そう」とできるだけ静かに相槌を打つ。

ハルが口を開いた。ダムが決壊したみたいだった。次から次へとあふれだし、激しく渦を巻く気持ち、気持ち、気持ち。好きなオンナのヒトが居たこと。お父さんと喧嘩したこと。子どもみたいに喋って喋って息が尽きると、ハルはビールの缶を掴んであおった。薄らと赤くなった横顔は、なんだか知らない男みたいに見えた。やがて言葉が切れた。つぎにこぼれてきたのは嗚咽だった。いつだって涙をせき止めるのは言葉なのだ。

しゃくり上げる尖った顎。震える薄っぺらい肩。子どもをあやすみたいに、縦に抱いたピアノを奏でるみたいに、触れ、叩き、さする。いきり立った牡馬のようだったハルの心拍は、やがて穏やかなテンポに落ち着いた。あたしは子宮の中に抱いた子どもを揺らすみたいに、彼の刻む一拍一拍を受け止めた。

「ハル」

ん、と聞こえた声から、わずかに棘がなくなっていた。ハルが色々話してくれた、その代わりにあたしも自分の秘密を告げる行為。それが公平だからというよりむしろ、あたしの心がそうすることを望んだのかも知れない。

「あたし、子ども、堕ろしたんだよ」

テヅカさんのことを誰かにきちんと話したのは初めてだった。ハルの顔なんて見られなかった。だから彼が顔を上げることが出来ないように、胸に抱いたハルの顔を押さえつけた。

「うちのパパもママも、ふたりとも家族をほったらかして自分の恋愛をとったのに、あたしが求めた恋は実らなかった」

まろやかな太陽を抱いているみたいだった。

「あたしが言いたいことはね、もしあたしがハルだったら、家族を大事にするかもしれないってことなんだよ。苦しいけどね……お父さんに幸せになって貰う。ハル、彼女さんともしっかりお別れをするべきかも。お互い、家族があるのなら、それぞれの家族の形を壊してはいけないのかもしれない。あたしハルに幸せになってほしい。男の腕に抱かれながら、あたしはずっとずっと、そういう幸せを求めていたから」

ハルは、涙を流していた。涙ごと抱きしめたら、パーカーに涙のしみができた。いつの間にか、雨が降り出していた。水位を増した笛吹川が黒くうねるのが聞こえる。お母さんお母さん、と泣いている。

母というひとを、ハルはどれだけ求めただろう。一方的に別れを告げていたというその見知らぬ女性に、ハルは幾度追いすがっただろう。いつでもそうだ。ハルの愛した女性たちは、どんなに真摯に願ってもハルを幸せにしてくれない。遠ざかり、小さくなり、やがて消えていく。輝きを失った星が、やがて冷えて死んでいくみたいに。

『お母さんになってあげる』その気持ちはいまだに変わっていない。お腹の子ども一人守れないあたしでは、全然、だめなのかもしれないけれど。

結局、空が白むまであたしたちは語り合い、こたつ布団で幾ばくかの仮眠を取った。ママが帰ってきたかどうかは、どちらでもいいことだ。


八、春樹

なんと捜索願を出される一歩手前だった。帰宅したところを何人もの警官に取り囲まれて、目を真っ赤にした英治が大股に近寄ってきたかと思うと次の瞬間、ほっぺたに衝撃が来た。怒鳴り声でどこにいたんだと訊かれて、「女の所」と言ったら英治は顔を歪めて噛み潰すみたいな声で泣いた。隣の警察官も苦々しい顔をしていた。温かなあの身体に包まれて語り合ったあの光り輝くような時間は、それほど眉をしかめて咎められるべきものなのだろうか。面倒を恐れた俺は何も言わなかった。結局俺のしたことは「非行」として語られ、立ち去っていく警官たちに英治は、「夏休みの間中、息子は自分のラーメン店に住み込みで働かせて監督する」と、その場の勢いで宣言した。

二人きりになって、さらにもう一発ぶたれた。

「ばかやろう。はやく荷物をまとめやがれ」


かくして、山中湖で過ごす夏が始まった。

避暑地として人気が高い富士五湖地域は、富士山の世界遺産登録なども後押しして年々人気を高めている。いつの間にか韓国語や中国語のメニュー表記も加わって、親父の怪しげなラーメン屋は、そこそこ繁盛しているらしかった。数名のアルバイトに混ざり、忙しく働く日々の合間合間に、志保の顔がよぎると胸がちくりとした。

蛍が舞い遊ぶ夜、他の客は全て帰ってしまった店内で、佐藤さんが爪楊枝を使いながら英治と話し込んでいた。カウンターの隅で寸胴を洗っていたら、おおい、と英治が俺を呼んだ。

「春樹、お前、ボランティアやってみろ」

首をかしげた俺に、佐藤さんがにっこりと微笑んだ。

「いつも手伝ってくれている人が居るんだけれど、急に親戚で不幸があったって言うことで、急遽来られなくなってしまったんだ。一回だけでいい。往復は車を出すから、手伝って貰えると助かるんだ。どうしてもドタキャンってわけにはいかないんだよ」

彼はどういうわけか、ドタキャンを極度に恐れているようだった。別段断る理由もなかったので、俺はその翌週、佐藤さんの運転するステーションワゴンで、甲斐医大付属病院に向かった。

病院に到着すると、佐藤さんはワゴンのトランクから大きな黒い袋を引っ張り出した。病院の玄関前で小柄な女性ふたりと合流し、エレベーターへと乗り込む。エレベーターは、五階の小児病棟で止まった。くすんだ廊下が細長くのびている。その両側に、10部屋ほどの扉が並んでいる。奥へ進んでいくと、突き当たりに十畳ほどのプレイルームがあった。その中心に、佐藤さんがあの黒い荷物を広げた。中から鉄骨のような円い骨組みを取り出し、器用に組み立てていく。二メートルほどのそれは、天井をかすめるほどの高さだ。突っ立って見つめていた俺を、佐藤さんが呼んだ。

「春樹くん! ちょっと、上の方、結んでくれないか」

鉄骨の外側に暗幕をかぶせて、潜り込んだその中の八カ所ほどを、ひとつひとつ、縛っていく。みるみるうちに、大きな円い黒テントが出来上がった。中に潜った佐藤さんが機材を仕込み、入り口に「おほしさまルーム」というちいさな看板が掲げられた。

「準備完了。出張プラネタリウム、本日も無事、開店だ」

やがて、子ども達が集まってきた。多くは点滴を引きずり、前髪以外抜け落ちた落ち武者のような頭髪をしている。裾のよれたパジャマのお腹から太い管を垂らした子どももいる。後ろから点滴の管をたぐりながら小さな背中を追う疲れた顔の親たち。なんと言葉をかけるのが適切であるのかわからないまま、俺はひたすら、彼らを中へと促した。

予定の時刻を迎え、進行役の女性が身体を曲げてテントの中に入った。明るい声が、外まで漏れ聞こえてくる。「皆さんこんばんは、『おほしさまルーム』にようこそ!」女性の明るい声。さざ波のような子ども達の声。小さなヴォリュームのBGM。星が流れるような、きらきらした効果音。「うわー! みんな! 木星が落ちてこないように、支えて、支えて! 押し返すぞ、息を合わせて、せーの! いち、に、……」ぐわーん、という効果音。それを追いかける、狂ったように嬉しそうな歓声。

佐藤さんに「中に入ってごらん」と促され、俺は中を覗いて、息を呑んだ。

木星、土星、金星。携帯式のテントに投影されたものとはいえ、真っ暗ななかをぼんやりと幻想のように浮かび上がった惑星群。それらはまがいものと呼ぶにはあまりに細やかなリアリティをもって、遮光テントのなかを漂っていた。きらきらと輝く星々。時折天井を横切る流星に、きゃあ、と歓声を上げて手を伸ばす子ども達。一生懸命に伸ばされるふっくらと小さな手、手。

「この病院には、生まれてから一度も星を見たことがない子どももいるんだよ」

佐藤さんは静かに話し始めた。そっと目を動かした先には、鼻から管につながれた赤ちゃんが、母親に抱かれてじっと空を見つめている。

「うちの次男も、そうでね。生まれてすぐから、二年、いや、三年近く、いたのかな。細っこい腕にずうっと点滴が刺さってて。NICUだの、無菌室だの、行ったり来たりして……最後は亡くなった」

佐藤さんは鼻をすすり上げた。最低限の明るさに抑えられた照明で青く照らされた横顔は、俺が表情を読むにはあまりに暗すぎた。

だんだんと遠くなり、海の向こうへ消えていこうとしている船を、じっと見つめているような表情で、佐藤さんは静かに細めた。ドタキャンはできない、と言っていた理由が、わかったような気がした。佐藤さんは小さな声で続けた。

「同じような境遇の子ども達に何かしてやりたいと思うようになって、仕事の合間を縫って、この事業を始めたんだよ。子どものためになら、親は他のことなど、何も見えなくなるのさ」

込み上げてくるものを、俺は必死でこらえていた。うっかり涙がこぼれないようにと、上を向いた天井には、狂ったように赤く燃える太陽が映し出されていた。


帰り際、ナースステーションに次の上映会のことで打ち合わせがあるといい、佐藤さんに廊下で待つようにと言われた。畳んだテントを肩からかけて、廊下を行き交う人々をぼんやりと見つめていた。ナースシューズが床を擦れる足音。何かのモニターの音。子どものぐずる声。夜の病院なんて静まりかえっているものと思っていたのに、絶え間なく耳を揺らす音がある。

目の前の病室の、奥のベッドのカーテンが半分ほど開けっ放しになっていた。何気なく眺めていた俺の、息が止まった。

カーテンの影に志保さんがいた。

俺のいる方向に半分だけ身体を向けて、志保さんはじっと柵付きのベッドのなかを見つめていた。ベージュのブラウスの上には、少し伸びた黒髪がふんわりと広がっている。彼女の視線の先には、仰向けに転がった、白い服の天使のような子ども。かまぼこ板のような白い板と腕とを縛られて点滴に繋がれ、小さな円い頭には、ふわふわした産毛のような髪の毛。この数時間で子どもに慣れた俺の目には、それが何か強力な薬のために抜け落ちた結果なのだと容易に見て取れた。

志保さんが指を伸ばした。それを、白く丸々とした小さな指が掴み、しっかりと握り返した。

まばたきすらできなかった。一歩進みかけた足が、リノリウムの床に張り付いて動かせない。

美しかった。子どもを慈しむ彼女の白い指も、髪も、鎖骨の繊細なラインも、あたたかなまなざしも。完璧な黄金律で形づくられたそれらがあまりに正しくて、心がばらばらにひび割れた。

志保さん、俺です。

志保さん、俺が見えますか。

志保さん、俺、今でもあなたのことを、

志保さ

目の前を、背広の男性が足早に横切った。その人は慣れた手つきで入り口のアルコールジェルで手を湿らせると、志保さんのほうへ歩み寄った。まるで月が地球に寄り添うように、彼はごく当たり前に、志保さんの隣におさまった。男性はじっと子どもを見守っているようだった。その彼を、ゆっくりと志保さんが見上げた。あの淡く綺麗な色に輝く鳶色の虹彩が、今はただ静かに、温かい、信頼の色をしている。

背を向けた。薄汚れた壁に額を押しつけた。歯を食いしばる。喉が酷く震えている。手で口を覆い、しゃくり上げそうになるのをこらえる。あとからあとから、あふれ出してくる。それは涙であるのか叫びであるのか。激しくこみ上げてくるものを、俺は堰き止め、こらえ、飲み下そうとした。唇を噛みしめる。血が滲んで色を失うまで。

二人はいくらか言葉を交わしたきりで、決して多くを語らなかった。それが、何より俺を打ちのめした。彼女の語彙につりあうようにと、磨いては鍛え、輝きを放ってきた自分のなかのどんな言葉のかけらも、あの瞬間はまるで虚構のように、骨組みだけを残して息を止めていた。

「わっ、ねえ俺くん、俺くんったら、ああどうしたの、大丈夫け?」

背後で佐藤さんのあわてた声がした。小刻みに頷きながら噛みしめた唇は、澄みきった血の味がした。


九、英治

冬になった。春樹の顔色は、ずいぶんよくなった。家を飛び出すこともなく、人が変わったみたいに勉強にのめり込んだ。元々悪くはなかった成績はV字型に持ち直し、春樹はやがて、地元公立の理工学部への進学を決めた。一段落した彼は、しかしながら、羽を伸ばして遊び回るどころか、アルバイトを再開したのだ。既に新聞奨学生になることも決まっていた。それに理系とはいえ学費の抑えられる公立大学への進学で、一馬力とはいえそれほど経済的な心配はない。それなのに、彼はかたくなにアルバイトを減らそうとはしなかった。堅実な息子の行動を誇らしく思うことこそすれ、胸を伝ったのは一滴の寂しさであった。精神的、或いは肉体的な親離れのみならず経済的にも、彼は自立していこうとしている。喜びよりも、身を切るような切なさが先立った。やはり孤独は、思った以上に、自らの奥深くまで根を下ろしている。

薄い暖色基調のフロアを、痩せた老人が車いすに乗せられ、横をすれ違う。まるで置物のようにじっと一点を見つめている。

事務室へ挨拶を済ませ、奥から二つ目の部屋に入る。四人用の大部屋の、もっとも窓に近い、棺のように白いベッドに、半身を起こした母が静かに座っている。湖の上を揺れる波を見つめる時のような表情をしている。かあさん、と声をかけても、肩が揺れることはない。

母のアルツハイマー病は、悪化の一途だ。

時折訪れる親戚やいとこ達は、母のありようを目の当たりにして涙ぐむこともしばしばだ。それに対して、孫の春樹は、驚くほどあっさりとしているのだった。祖母の病に対して涙も流さない代わり、憎しみも見せることはない。心が涸れているのよ、と叔母などは言うが、仮に春樹の心が干上がってしまったのだとして、その責任の所在はあきらかだ。

「かあさん。春樹がね、大学、受かったんだよ」

声をかけながら、記憶の中の息子の横顔に、ふと、前妻のそれが重なった。どうしてあいつを、もっと大事にできなかったのか。母を優先し、母とあいつとの間に穏やかならぬものがあることを、わかっていながら見てみぬふりをした。「つらい」と訴えてきたあいつを相手にもしなかった。「うまくやってくれ、板挟みになっている俺だって同じようにつらいんだから」果たしてそれは、同等のつらさだったんだろうか。

「かあさん、元気かい。しんどくないかい」

返事はない。

「かあさん……ごめんな」

母は、日に日に小さくなっていく。


二月になり、自由登校となった春樹は、毎週水曜日の登校日の前後をのぞいて、店を手伝うようになった。雪が降れば率先して雪かきをする。他の従業員の誰よりも大きな声で挨拶をし、誰よりも細やかに動き回り、気を配る。客が去ったあとのテーブルに水が輪になって滲んでいれば、すぐに飛んでいって拭く。親の欲目を差し引いてもなかなかの働きぶりで、彼は常連客にもかわいがられるようになっていった。

ある日のこと。ホールから、「おいおい困るよ」という尖った声がした。もうほとんど食べちゃったんだよ、どうしてくれんのこれ。どうやら、スープの中に異物があったようだ。厨房の方から首を伸ばして見ると、ふんぞり返る客の近くに春樹が立っていた。一体どういう教育をしているんだぁこの店は。がやがやとさざ波のように騒がしい店内で、どんどん高くなる客の怒声。これはまずい、と思った。あの夏のことが頭をよぎる。あんな風に暴れられては店の評判にも関わるし、何より春樹に何かあっては――。厨房から出ていこうとしたとき、視界から春樹の姿が忽然と消えた。おやと思ってカウンターから乗り出して、俺は目を丸くした。

春樹が腰を九十度に曲げて、頭を下げていたのだった。

結局そのあと、店長である自分が対応し、作り直しを提示したが急いでいるからと断られ、料金を無料にすることで事なきを得た。ほぼ麺も具もない、小さな羽虫の浮いたどんぶりを下げながら、思わず舌打ちが出た。典型的な踏み倒しの手段だ。そっと目線をやると、息子はこっちを見ることすらせずに、ただ黙々とテーブルを拭いていた。


のれんを仕舞おうと外へ出て、それきり動けなくなってしまった。

黒い影を広げる木々の向こうに、山中湖が静かに水をたたえている。ゆるく美しいカーヴを描く稜線は深い群青に澄み、一点の曇りもない大空がぐるりと広がる。修正液を散らしたような満天の星が、無数に瞬きながら頭上に迫ってくる。背筋が震えるほどの静寂。この瞬間、確かに宇宙に抱かれていると感じる。

この絶景を見るたびに、どれほど雪がふっても、どれほど寒かろうとも、ここを絶対に離れたくないと思ってしまうのだった。たとえ母の施設が遠くても、月に数回しか子どもと一緒にいられなかったとしても、嫁に苦労をさせても。

浪漫、矜持、あるいは、あこがれ。

ネックウォーマー越しに吐いた息が白い。ポケットをまさぐり、煙草を咥えた。

春樹は明日の登校日に備え、夕方五時のバスで帰って行った。息子の成長には目を瞠るばかりだ――あの夏から、ひとまわりも、ふたまわりも。暖かくなれば大学生になって、どんどん学をつけて、手の届かないところへいくのだろう。晴れがましさ以上に、そうなるのが怖かった。人の親だってなんだって、ちっぽけな人間なのだ。孤独を感じないわけじゃない。

銀色に、金色に、それぞれの色にまたたきながら、星々が空に浮かんでいる。ちっぽけな光に見えても、ひとつひとつが摂氏何千度という熱で燃え盛っている。核融合、核融合。一度きりの命。

あの頃、母と嫁との間にしっかりと入り、双方の意見をしっかりと聞けば或いは。もっと誠意を見せていれば或いは。ある意味で仕事に逃げていた、あのころの自分がもっともっと世界に対して誠実であれば或いは。蟻地獄のような後悔ばかりだ。償いたくないわけではない。だがいちど十字架を背負ってしまった人間は、このさきずっと、孤独に暮らしていく以外許されないというのだろうか。初美と俺と俺、新しく集った家族三人で、またやり直したいというのは、わがままなんだろうか。

厨房に戻ると、スマホに通知が届いていた。


「来ちゃった」

暖簾をくぐって一度にっこりと微笑むと、初美はスツールに腰掛けた。丈の短いダウンジャケットを羽織った下は、濃い色のデニムと首の詰まった臙脂色のニット。背筋を伸ばす動作にあわせ、豊満な乳房がぴったりとしたニットを押し上げた。ウエストのあたりにはやわらかな贅肉がわずかに波打つものの、五十代なかばとは思えない若々しさだ。

「昨日急に連絡をもらって驚いたよ。車で?」

「いいえ、忍野に車を止めて、そこからは自転車で」

笑った赤い唇から、端正な歯並びがのぞいた。初美がここを訪ねるのは初めてのことだった。初美はきょろきょろと見回しながら、しきりに内装を褒めた。

「そういえば、話したいことがあるって言ってたわね」

俺は熱いほうじ茶を注ぎ、初美に差し出した。

「というか、俺の今後のために、聞いて欲しいことなんだ」

「何よ、それ」

俺は黙り込んでしまった。介護が必要な母が居ること。その母は、かつて前妻と確執を起こして、それがもとで離婚に至ったこと。いつかは、初美に話さなければならないとずっと覚悟していながら、切り出すことが出来なかったこと。結婚したい。まぎれもない本気だ。だから俺はきっぱりとここで誓う。何があってもお前を守る。お前に母の介護を手伝ってもらわなければならないだろうが、何があっても目を背けはしない。一度きりの人生なんだ。同じ過ちは、繰り返さん。絶対に。

だがそのいずれも、とうとう口に出すことが出来なかった。

こちらをじっと見つめていた初美は、やがて、うっとりと夢をみるような顔で静かに、

「待つわ」

と言った。


十、春樹

部屋の隅で卒業アルバムを眺めていたら、背後に親父が座る気配がした。続いて「親も行っても良いものなのか?」、と問う声。何にだよ。卒業式だよ。良いけど、別に来なくて良いよ、親父忙しいだろ。馬鹿野郎、お前じゃなくて甲斐工業の最後を見届けるんじゃ。

ちらりと見やった親父は、テレビで大相撲を見ながらカップ酒を傾けていた。いつもと変わらないようでありながら、「卒業式前日」はもうあと数時間で終わってしまう。たっぷり五秒は迷ってから、意を決して、おやじ、と呼びかけた。ん、と振り向いた瞬間を狙い、長方形の箱を差し出した。なんだこりゃあ、と彼が受け取った。日に灼け、皺の増えたその手を見た時、不覚なくらい動揺した。

「今まで世話になったから……買ってきた。バイト代入ったし」

この間の帰り道、遠回りをして、河口湖の雑貨屋で選んだものだ。それなりにしっかりとしたものを贈りたいと思ったら、バイトが減らせるわけもない。箱の中にあるのは、底の分厚い女の腰のようにくびれたグラス。七色に輝く透明な水晶を真ん中にあしらっている。赤みがかったグラスと、同じデザインの青いものがひとつずつ。

「ふたりぶんか」

親父は、じっと箱の中身に目を落としたまま言った。

「お前と俺か」

「いや、そうじゃなくって」

あとは察してくれと、顔を伏せながら頭のてっぺんで念じた。ちらりと見上げた視線の先で、親父が目を見開いていた。口を半開きにして、これ以上ないくらいに完璧な無防備さを見せる親父の目はみるみる潤んで、酒のせいでもともと赤かったところに、輪をかけて赤く縁取られていく。

「春樹、」

「大事にしろよな」

何か言い出そうと口を動かした親父を遮るように、

「一万二千円もしたんだから、それふたつ合わせて」


親父が寝たのを見計らって、起き出して、居間の電気をつけた。あれ以来、伏せたきりにしていた写真立てを起こした。繊細な模様に縁取られた額の中から笑いかけてくる女性の姿を、指先で撫でる。輝くような笑顔に思わず目を細めた。優しくて、温かくて、美しくて。目の前が滲んで、指先に落ちた熱い涙はあの日の雨だ。俺はまだ、滑り台の上にいる。一歩踏み出した身体のバランスを奪う傾斜に、しがみついた手すりを手放せないでいる。

写真を抜き取り、黒いリュックから、ICカードをおさめた真新しい定期入れを取り出して、その裏に母の笑顔を忍ばせた。

布団のなかで、夢を見た。

薄暗い砂漠の真ん中に立って、俺はごわごわとものものしい宇宙服を着ていた。人類が火星へ移り住む未来はやはり訪れて、銀色に光る巨大な宇宙船に乗り込もうと、金属製の光るタラップの上で、人々行列をつくっている。人々はぎっしりと地平線の向こうまで列は途切れない。宇宙服の群衆に紛れている人類の大行列を少し離れたところから見つめていた。船のドアをくぐる寸前、最後に一度だけ振り返る。考えているのは、やはり母なる星のことで、でも昔のように涙することはなかった。

そっと列を離れた。静かな森のなかに足を踏み入れる。膝をついて、身体を折り曲げ、湿り気を帯びた地球に口づけをした。


甲斐工業高等学校では、最後の卒業式が行われた。地元紙の取材や数台の黒いカメラが壇上を狙い、日の丸と校旗の下では例年の数より来賓席が一列増え、盛大なものとなった。胸に薄青のコサージュをつけて入場した俺は、職員席に志保を探した。だが彼女の姿はなく、渡り廊下に小さな祝電が掲示されただけだった。

教室へ戻ると、恵里菜がクラスメイトの女子と自撮りをしていた。高校で取った簿記の資格を生かして医療事務をするんだという彼女とは、あれ以来、込み入った話をしていない。恵里菜は俺を見つけると、人なつこい笑みを浮かべて、おめでと、と言った。

「泣いちゃだめだぞ、卒業だからといって」

「アホ。誰が」

アルバムの折れた部分を見せ合うような時間は、もう要らないのだ――俺にも、恵里菜にも。俺たちに必要なのは、まぎれもない未来だ。

「ハルって、どこ学部に行くんだっけ」

理工、と答えると、恵里菜は合点がいったというように手を叩いた。

「もう何回聞いても覚えらんない。プリンターみたいな名前だなってことしか。ハルは、そこで何すんの? 先生にでもなんの?」

「俺……宇宙飛行士にでもなろっかな。宇宙の勉強でもして」

恵里菜が目を丸くした。

「は? 宇宙?」

「それかざっくり医療系」

「ほお」

「ボランティアでもしようかなあ」

「ボランティア? 宇宙で?」

どうしてそうなるのか、と思わず苦笑いして下を向いたら、ほっそりとのびた足の先の、古びた上履きが目に入った。こいつはずっとこれを履いて生きていくんだろう。これを履いたこいつが好きだ。ハル、と肩を叩かれた。

「一枚、一緒に撮ろ。ボランティア第一号ってことでひとつ」


校門を出ると、親父が待っていた。細いストライプのシャツにプレスされたスラックス。精一杯しゃれ込んだ父の向こうに広がる空は、白の濃淡と薄青の、まだら模様に染まっていた。「花曇りね」とろけるようなアルトが耳によみがえる。空模様はそっくりそのまま、心の景色だ。まだ全然、切り替えなんか、できそうにないんだけれど。それでも今は、俺にとって向かうべき「果て」のようなものが、感じられるような気がしていた。

石和温泉駅でICカードをチャージした。改修が施されてぴかぴかに光る改札をくぐって、ホームへ。十二時五十五分発、東京方面八王子止まりの六両編成。親父のあとについて、階段をのぼる。一歩一歩踏みしめる親父の足取りが、そういえば前よりゆっくりになったような気がする。そっと後ろから手をだして、支えた。「悪いな」にっと親父がくすんだ銀歯を見せて笑った。

「親父、初美さんだっけ名前。中央線沿線に住んでる人?」

「いや、京王線なんだが、今日は改札を出てすぐのところで待っていれば会えるはずだ」

「それにしても、プロポーズに息子連れ……って親父、さすがに情けなさすぎ」

「そうじゃあないが、父さん言いそびれていることがあるんだよ。初美に、大事なことをね」

停車中の電車に乗り込み、臙脂色の座席に腰掛ける。尻ポケットから通知音がした。見ると、恵里菜からの写真が届いていた。写真のなかの恵里菜は綺麗な笑顔で笑っていた。眩しいものを見るように、あるいは待ち焦がれた恋人に微笑むように。まぶしさに思わず目を細めた。親父が窓を開けた。長方形の画角に、ひらりと舞い込む、まるい桜の花びら。

スマホから目を上げたら、すべての音がかき消えた。

反対側のホームに、志保さんが立っていた。

桜の薄い花びらが舞い散るなかで、彼女は子どもの手を握っていた。太もものあたりまでの背丈の子どもはニット帽を被ってよちよちと歩き、志保さんはすこし身をかがめて、その子に何かしきりに話しかけている。俺は目をそらすことが出来なかった。すこしでも油断をしたら、電車を飛び降りて駆け寄ってしまいそうだった。

「……親父」

あの日言えなかった目的語が、まだ胸のところでつかえている。志保さんの黒い髪を、まだ俺の目は追っている。背を向けていた志保が、こちらをゆっくりと振り向く。俺は定期入れを目の前にかざした。熱い涙がまぶたの裏に満ちる。星が燃える音が聞こえる。

「大事に、しろよな、俺のグラスも、人生も、初美さんのことも」

ぷしゅう、と空気の抜けるような音とともにドアが閉まる。

ゆっくりと動き出した電車の窓に、桜がひとひら、透き通って、消えた。 (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そして、星は燃える 立華りり @RiRi_pippi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る