百鬼夜行

 一度、人間を殺すと癖になる。

 そんな人種がこの世界には僅かだが存在すると謂う。

 そう、連続殺人者、或いは快楽殺人者と呼ばれる者たち。彼らは時代の変わり目に突如として出現し、終わりへと進む前時代を惜しむ様に、そして、新しい時代の産声を祝う様に、世界を、人々を戦慄させる。まるで、その為に生れてきたかのように。彼らは社会という輪っかの外側からその中を見つめている内に、移りゆく時代と、留まろうとする流れの衝突に巻き込まれ、底の見えない渦の中に呑み込まれて仕舞う。その中で孤独という病魔に溺れる彼らの精神は、深く深く沈んでゆく。恐らく、世界中の記憶に残る陰惨な出来事は彼らの悲鳴なのだろう。彼らを産み出したのは社会だというのに、いつまでも彼らは時代の異物扱いだ。彼らを救えなかったのは、その当時の時代を構成していた人々であるべきなのに。

 あの頃は良い時代だった、と昔を懐かしむ声の裏側には、そんな暗闇が蔓延っているものよ、と。

 未だ肌寒さの残る夜更け、月光に晒されたベッドサイドでシーツにくるまり、小さな盃に夜桜と望月を浮かべて、彼女は幽かに笑う。

「相変わらず、好きなんですね。そういうの」

「趣味が合うのよ、彼らとは。悪い趣味だけれど」

「貴女らしいです」

「恐い?」、と訊きながら彼女は後ろから私の躯を抱く。

 白いシーツが波打った。

「いえ。信じていますから」

「そう。ありがとう」

 でも――、と彼女が続けた言葉を私は忘れないだろう。

 懐かしさに、ふと、首筋の小さくなった傷をなぞる。この傷が消えたら、彼女の思い出も消えて仕舞いそうで、そんな空ろを憂いだ。いっそのこと、すっかり忘れて仕舞った方が楽なのかもしれない。けれど、彼女は私以上に、その小さな無数の傷を背負って生きてきたのだろう。幾星霜を超えて……。

 永遠とは、何とも残酷な言葉だ。

 芽吹く月に、花片を散らす桜は、その儚さ故に美しいと謂う。見頃の過ぎた葉桜を前に、私は彼女の面影を何処かへ求めている。

 春が、終わろうとしていた――


 月を燈した宵闇を見上げた。

 青空も好いけれど、白いレースのカーテンの額縁にはこの絵画が良く映える。そこから差し込む月明かりが、白い肌に冷たく染みて、艶やかに、蒼く、見せていた。白い腕が私の躯に絡み付く。月光の中で彼女は、ふわり、と私を抱きしめた。

 背中に彼女の体温を感じるくらいに。強く、けれど、あたたかく、やわらかく。

「月ばかり見てるわね。私のことは見ないのに」

「いえ、そういうわけでは……。申し訳ありません」

「やっぱり恐い?」

「そんなことはありません」

「嘘ね。震えてる」

「すみません。まだ少し……」

「仕方ないわ。私だって不思議に思っているもの」

 するり、と襟から抜け出た彼女の指先が、私の胸元へと伸びる。「あなたがこんな無防備な姿で、此処に座っている、なんて」

 その瞳は、吸い込まれそうなくらい、怖い。

「あの、今でも、その……」

「食べてるわよ、人間」

 その一言に、鼓動が早くなった。

 人間を捕食する怪物の伝承は、人の住まう場所の全てに分布している。ミノタウルス、スキュラ、サイクロプス、吸血鬼など……、神話や伝承の中の魔物たち。そのほとんどは私たちの恐怖心を煽るための御伽噺か、敵対する人々を野蛮な人種だと貶めるプロパガンダだ。だが、この人は違った。

 ――鬼。

 その伝承は、この国のどの地域でも耳にすることができる。酒呑み童子の逸話に見られる様に、元々は正体の見えない敵をそう呼んでいたらしい。その起源は大和朝廷に敵対する者たちに始まった。人々は彼らを鬼と呼び、彼らを退治する大義名分を賜ったのだ。安達ヶ原や宇治の橋姫の伝承のように、人が鬼と化す噺も多い。つまり、鬼とは人なのだ。人であるが故に、それを虐殺することの罪悪感は大きい。しかし、それが鬼ならば、何の咎めもなく退治できる。そう、どこにでもある噺だ。異教徒を虐殺するのが、当然の責務であった時代には。

 けれど、彼女はそんな言い換えの鬼ではなく、本物だった。

 そのしなやかな指先も、艶やかな黒髪も、麗雅な顔も、凶悪な人喰い鬼のイメージとは結び付かない。だが、確かに彼女はそう告げた。

 人を食べるのが好きだ、と。

 真っ黒な瞳を爛々と丸くして、鋭い牙を覗かせて、幽く、笑いながら。

「あの、私を愛してくれるなら……」

 でも、古臭い怪談噺にいつまでも怯えているなんて馬鹿げている。少なくとも今は鬼が猛威を奮っていた時代ではない。それに、超えられると思ったから。

「約束してくれませんか?」

「何かしら?」

「人間を喰らうの、やめません?」

「恋人が人喰い鬼なんて堪えられない?」

「いえ。そういうわけでは。でも……」

「そうね」

 シルクの縁から抜け出た彼女の手が私の頭を撫でた。

「わかったわ。もう流行らないわよね。そういうの」

 苦笑い。

 そんな顔をしていた。困ったような笑顔。それがどうしようもなく儚くて、悲しげで、消えて仕舞いそうなくらい、美しい。月という唯一の傍観者の傍らで、そっと彼女の赤い唇に口づけする。

 甘い薫りがした。

 薄紅色の、桜の、一片みたく――

「呉葉様。よろしいのですか? あの紫苑という方は……」

「構わないわ。私にも誰かを愛する権利が与えられたのかもしれない。でしょ?」

 それに……、と鬼は笑った。

「たとえ、彼女と私の運命が元来相容れないものだとしても、人間は可能性に溢れている」

「そうかもしれません。ですが」

「みずち、貴方も昔みたく、誰かを愛していいのよ」

「いえ。私はずっと呉葉様の傍におります故」

「頑固ね。でも、頼もしいわ」

 やさしく、微かに笑って、彼女の背中を見送った。その瞳に幾億の憂いを浮かべて。あの子の所為で夜の時間が退屈になって仕舞ったわ、とその鬼は嬉しそうに溜息をついた。

 そして、宵闇の中、暁の前に、眠る。また再び、百鬼夜行の幕が開くまでの僅かな時間。そう、彼女にとっては本当に僅かな時間。幾百の歳月を過ごしてきた彼女にとっては……。

 深淵に寝息が囁いた。


 雨が降る。

 庭先で眺める彼女の笑顔は季節外れの桜色。

 ぽたり、と屋根の縁から雫は落ちて、ぽたりぽたり、とアザレアの華片を踊らせていた。屋根を叩く雨音に合わせて揺れる。時に激しく、弾くように。その旋律に私は心を預けて、大きく伸びをする。雨に濡れる世界は、晴れの日よりも濃い色をしている。

 両手に雨粒を受けながら、彼女は五月雨だと喜ぶ。やっと春が終わりますね、と。それは桜を嫌う彼女にとって憂鬱の終わり。だから、今年、彼女と愉しむのは満開の葉桜。

 碧い、幾万の葉のドレスを纏う。見頃の過ぎた花。誰からも忘れられた、私みたいな桜を彼女は愛した。好きだ、と言ってくれた。

 長い間、この世界に存在して、様々な人間を見てきたが、彼女のような人間には初めて出逢う。だから、こんなにも惹かれてしまうのだろうか。もっと彼女を見つめていたい。できれば、彼女の命が尽きるまで。老いて、思考の悦びと虚無感を知った彼女は、そのしわがれた声で、どんな言葉を紡ぐのだろうか。

 考えれば考えるほど、彼女が愛おしくなってゆく。

「呉葉様、あまり雨にあたられては……」

「解っているわ。もうすぐ中へ入るから」

「畏まりました。では、何か温かいものでも用意しておきます」

「ありがとう」

「いえ。それと、次の贄の用意は……」

「みずち。下がりなさい」

「ですが、私は……」

 蛇の目を持った青年が何かを言おうとする前に、鬼は彼を一瞥した。しかし、青年は臆せずに口を開く。

「呉葉様。人を喰らうことをやめた鬼がどうなるかご存知ですよね」

「ええ。人の様に肉体が衰え、そして朽ちてゆく。人と同じように……。耐え難い苦痛と共に」

「それを知っていて貴女は……」

「私は、それでも好いの」

「過ぎたことを申しました。申し訳ありません。失礼します」

 ――紫苑。

 彼女の名を呼ぶ。ふわり、赤い傘が振り返って、黒い瞳が不思議そうに私を見た。葉桜を背景に凛と彼女は佇む。あの顔に見つめられたら、何でも言うことを聞いて仕舞いそうだ。反面、彼女が醜く顔を歪ませる姿を見たいという私も存在する。どこか屈折しているかもしれないが、それが純粋な恋心というものだろう。

 紫苑。

 名残惜しそうに桜を振り返る彼女の白く細い手を引いた。窓を開ければ其処からも見えるから、と言い聞かせて。

 彼女は小さく頷いた。

「雨の日の貴女は楽しそうね。私は憂鬱になっちゃう」

「どうしてですか?」

「私といる時より、楽しそうなんだもの」

「そんなことないですよ。呉葉さんと一緒の時間の方が幸せです」

「呉葉でいいわよ」

「え? でも……」

「いいの。恋人、でしょ?」

「そうですね。呉葉」

「ありがとう。紫苑」

 酷く、頭が痛んだ。最近、酷い頭痛が襲ってくるようになった。

 健やかに微笑む彼女の前で、割れるような頭の痛みに苛まれる。彼女と一緒にいると突然痛み出すのだ。彼女の一挙一動に自分が飲み込まれていく。そんな感触の眩暈。そして、その夢を引きはがすように、頭痛が着いてまわるのだ。

 紅茶を啜る。波打つ浅紅に移った私の顔は酷く歪んでいた。雨に酔ったのかもしれない。頭が割れる様に疼く。

 こんな雨の日は特に酷い。匂いが強いから。

 自分でも、何故そうなるのか。気付いている。だけど、私は彼女との約束を破りたくなかった。

 乗り越えられる差だと思ったから。

 人と、鬼と。

「あの、呉葉、気分でも悪いんですか? 辛そうな顔してますよ。大丈夫ですか?」

「大丈夫。ただの頭痛よ。心配ないわ。すぐに治まるから」

「そう……、ですか。最近、多いみたいですけど……」

「暗い顔しないで。代わりにキスして? ね?」

「あなたって、意外と甘えたがりなんですね」

 何度も逢瀬を重ねた真っ白なベッドの縁で、彼女と唇を重ねる。その時だけは痛みが和らいだ。

 ゆっくりと彼女のブラウスを剥がす。白く、滑らかな曲線を描いた綺麗な肩が覗く。

 まただ。また、頭が酷く痛んだ。疼くように。

 柔らかい唇、微かに甘い匂い、滑るような肌。吸い付くような指先の感触。彼女の全てが、私を苛んでいく。堪え難い衝動だった。逆らうことのできない本能。

 今にも、そう……。

 牙を突き立てて。

 引き裂いて。

 彼女を――

 喰らいたい。


「痛ッ!」

 鮮血が散る。

 左肩に牙を突き刺し、肉を喰らおうとする呉葉を、痛みにあえぎながらも紫苑が蹴り飛ばす。

「呉葉!」

 引き剥がされた鬼は、口元を血に染めて、床に座り込み、沈黙していた。しかし、その真っ赤な眼は見開かれ、呼吸は荒く、口元からは血に染まった牙が覗いている。それは人間を前にした鬼の姿だった。

 一筋。赤い血が紫苑の肩から流れ落ちる。

 真っ直ぐに。

 その漆黒の瞳で、彼女は人喰い鬼を睨んだ。

「……そういうことですか。楽しんだら食べて終わりですか」

「違……、私は」

「聞きたくない! もう顔も見たくない!」

「ごめんなさい。私……」

「もう帰ります。やっぱり、鬼は鬼なんですね」

 紫苑は自分の服を掴み、鬼の前を去った。

「紫苑……」

 さようなら、と。ドアを開けて出て行く彼女の背中を、ただ呆然と見つめていた。

 彼女は雨粒みたいに、私の手を流れていく。

 その空ろに、心を委ねた。

「呉葉様、どうされました?」

 白髪の青年がドアを開ける。

「フラれちゃったわ」

「禁斷症状、ですか」

「ダメね、私……。いつも……」

 蛇の目の青年には、鬼が泣いているように見えた。

「呉葉様……」

 彼女は指先で口元の血を拭い取って、少し舐めた。

 その味は、この上なく美味であったことだろう。そして、その罪悪感はこの上なく、彼女の心を締め付けたことだろう。

「……ねえ、アザレアの花言葉を知ってる?」

「いえ」

「そう。今度、調べておきなさい。今日はもう休むわ」

「はい。畏まりました」

 何を失っても、何度失っても、どれだけ心を凍らせても、それに触れた瞬間、すべてが融解する。

 愛されることの幸せは、決して私を鬼には変えなかった。


 季節は移っていく。

 雨宿り。藤の花の下、傘を置いて、ベンチの端に座った。

 一月、二月……。

 ひとしきり、梅雨空を眺める。あの人と出逢った、この教会の庭先で。あの桜の傍らに佇んでいた彼女の後ろ姿を思い浮かべた。

 葉桜を見に来た私を、彼女は不思議そうに眺めていた。どうしてこんな美しさを失った桜を見ているのですか、と私は彼女に尋ねた。桜の花が散って仕舞うのが悲しくて葉桜ばかり見ている、と彼女は答えて儚く笑っていた。これから、また再び花を咲かせる準備をする桜の方が好きだ、と。その横顔に私は惹かれたのかもしれない。たとえ、彼女が人を喰らう鬼だったとしても。何か、あたたかいものを感じたから。

 私はこの場所で彼女を待った。雨が上がらないことを祈りながら。

 来る日も。

 来る日も。

「紫苑?」

「呉葉……」

 その鬼は突然、そこに現れた。真っ赤な傘を差して。紫苑が立ち上がる。雨に濡れるのも構わずに駆け寄って、紫苑は呉葉を抱きしめて、口づけした。少し驚いて、そして、少し微笑んで呉葉は紫苑を抱きしめる。赤い傘が、ふわり、と落ちた。

 降りしきる雨の中。

 梅雨空の下。

 二人きりの庭で。

「私、考えました。あなたのいない世界と、私のいない世界。どっちがいいか」

「答えは?」

「私は、あなたのいない世界なんて堪えられない」

「我が儘な娘……」

「そうですね。あなたはいつもそうだったのでしょう? 愛した人は必ず自分より先に死んでいく。その悲しみは、人間である私には解らない」

「貴女も押し付けるの?」

「いいえ。呉葉。私は、その鎖を外してあげたい」

 どうして擦れ違って仕舞ったのだろう。それとも、最初から棲まう世界が違ったのだろうか。互いに出逢わなければ、互いに幸せだったのかもしれない。好きになった相手が鬼だった。ただそれだけのことなのに。

 人と鬼と。

 たったそれだけ。その境界を越えられない程、愛とは脆いものなのだろうか。こんなに悲しい鬼退治なんて、私の知っている、どの昔噺にも存在しなかった。鬼は鬼だと思っていた。そこに私たちと同じような感情があるなんて考えてもなかった。私は、彼女を殺めることができるだろうか。鬼と呼ばれる者たちを葬った大昔の先祖たちも、今の私と同じ葛藤の中にいたのだろうか。

 けれど、何故だろう。

 考えれば考える程、辺りは澄み切っていく。雨の一滴さえ、切り裂けそうなくらい。ゆっくり、と。腰に差していた小太刀を紫苑が抜いた。雨が刃を濡らす。

 鋭く。悲しく。紫陽花に寄り添う冷たい雨が、研ぎ澄ます。

 教会から響くベートーベンの“告別”に乗せて。

「私を殺して、運命を断ち切る。それが貴女の答えなのね」

「はい」

「それなら、私は貴女を喰うことを選ぶわ。鬼として」

「解りました」

 逆手に小太刀を右手に構え、紫苑は呉葉との間合いを取る。彼女の前に立つ鬼は静かに佇んで、紫苑の隙を窺っていた。二人の間にあるのは、断続的な雨音とピアノの旋律。鍵盤を爪弾くメロディー。

 次々と波紋を並べるその中で、水が大きく跳ねた。

 紫苑の刃が空を斬る。後ろへ一歩、鬼は刃を避けていた。

 左へと、小太刀を凪ぐ彼女の懐へ、鬼の爪が伸びた。ふわり、と右足を軸にして円を描くように躯を回転させ、その勢いを使って蹴り込んだ紫苑の左脚が、鬼の腕を弾く。

 再び、呉葉は紫苑と距離を取った。

「不思議な戦い方をするのね。見るのは二回目だわ」

「実際に使うのは初めてです」

「みずち。あれを」

「呉葉様。ここに」

 身の丈ほどの巨大な鉈を携えて、蛇の眼を持った従者が現れる。

「そんな小物じゃ、これは受け切れないでしょう?」

 軽々と大鉈を片腕に構え、呉葉は薄く笑った。

 鬼の様に。

 紫苑の二つの瞳は睨んでいた。

 鉈を振り上げる。幾度となく人間を刻んできたその銀色の刃は曇ることを知らない。血も、雨も、愛さえも、無惨に澄み切った殺意に纏わりつくことはできなかった。それらを振り払って、何もかも忘れ去れるように、一気に、刃は、大気を裂く。

 寸前で、躱した。二の太刀を放つため、鬼は大鉈を構え直そうとしている。その僅かな隙を見逃さなかった。一歩、右足を踏み込み。紫苑は小太刀の柄尻を左の掌で押しながら、鬼の脇腹へ、呉葉の胸の中へと、深く、深く、切っ先を突き立てる。だが、呉葉の左手が小太刀を払い落とした。体勢を崩した紫苑の眼前に、呉葉は刃を突き付ける。

 銀色の刃が紫苑の首筋で鈍く光っていた。 

「惜しかったわね」

「解っていました。私なんかが、あなたに勝てないことくらい。鬼や魔と戦いに明け暮れていた頃の私の先祖でも勝てなかったのですから」

 紫苑は昏く微笑んだ。「あなたが鬼でも、私はずっと愛しています」

「あの約束、守れそうにないわ」

「……いいんです。所詮は、鬼と人、ですから」

 儚く笑って、彼女は鬼の前に立った。

 呉葉の白い指が紫苑のブラウスのボタンを外してゆく。滑らかな曲線を描く肩が露わになった。濡れた髪から落ちる雫がその躯を濡らしていく。

 艶やかに。

 透き通るような白い肌の上を、流れてゆく。

「紫苑。ごめんなさい」

 そして、さようなら。

 私も愛してる。

 その鬼は、その牙で。

 深く。深く、引き裂いた――


 春を終えた空は、何だか嬉しそうに見える。そして、何だか私の気分も弾む。この庭の桜も、すっかり碧い葉で覆われていた。

 一年前。

 私の愛した自分勝手で我が儘な鬼は、私の首の肉を少しだけ喰らって、私の前から姿を消した。

 またいつか。貴女が人であるならば逢うこともあるでしょう、と降りしきる雨の中、そう言い残して。残酷な彼女の後姿を、あの時の私はただ茫然と眺めるしかなかった。

 もう何処にも彼女はいない。

 そして、彼女と出逢った春が過ぎようとしている。今も彼女はこの世界の何処かで、この葉桜を眺めているのだろうか。

 たった独り。

 この空の下で。



 百鬼夜行

 ――鬼と、人と。

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エキドナの匣庭 イオリミヤコ @wise13

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