きっと誰も知らないから
佐藤令都
きっと誰も知らないから
「千歳、……いい?」
ブラウスの裾を後ろから引かれる。
人気の無くなった教室。窓際によっても緑の生垣で下校中の生徒からは見えないだろう。
夏の生暖かい風が2人の頬を撫でる。
いつもよりも赤らんだ肌も、汗で張り付いた前髪も、少しだけ荒い呼吸も──全てが夏のせいだった。
罪悪感なんて無かったわけじゃない。
夏の暑さに浮かされて、風邪を引いた時の様な熱に浮かされた感じ。
お互いがお互いを慰め合うように、唇を合わせ、ザラザラとした舌を絡める。
「私が好きなのは千歳じゃないから」
知っている。隣のクラスの女の子でしょ。
頬に添えていた手に涙が伝う。
「私もまりあが好きなわけじゃないから」
彼の隣にいるのは私ではない女の子。
唇を一度離し、優しく一呼吸。
目の前の少女は潤んだ瞳をこちらに向けた。
5センチ下から見上げ、両頬を包み込む。
先程よりも熱を帯びた彼女のそれが唇に触れる。
虚しいと思わない訳がない。
後ろめたい気持ちが無い訳がない。
人目が気にならない訳がない。
お互いがお互いを求めているけれど、心の中ではお互いに別の人を想っている。
友達だけど、恋人ではない。この関係を人は何と呼ぶのだろう。
梅雨明け前の湿った教室は、硝子窓に雨が打ち付けていた。白と黒を丁度半分ずつ混ぜた空は、2人だけの部屋から零れた光を優しく包み込んでいた。
「まりあ、日誌書き終わったら一緒に帰ろ?」
「めずらしいね。千歳から誘ってくるなんて」
小柄な少女はペンを走らせることを止めずに会話に応じてくれる。
「ねぇ、何かあったんでしょ?」
「何も無いよ」
やっぱり
「そうじゃなきゃ千歳は私の事なんて待たずに帰っちゃうもん」
隣に座る少女は日誌を閉じてこちらを真っ直ぐに見つめる。
真っ黒な綺麗な目。二重の瞼と長い睫毛が2つの宝石を飾っているみたい。……吸い込まれそうってこういうことなのかもしれない。
言いたいけれど、言いたくない。
自分の口から伝えたら“本当にあったこと”と認めてしまいそうで嫌だった。
「野球部の久遠くん、彼女できたって」
何日も前から知っていた事実を吐露する。
「……そっか」
伏し目がちに少女は眉根を下げた。
まりあ、お願い。私以上に悲しい顔で笑わないで。
「千歳はずっと我慢してたんだね」
私なんかより、まりあの方が苦しい想いしてるじゃん。
「叶わない恋は辛いね」
目頭が熱い。この子の前だけは泣いちゃだめなのに。
「ろくでもない奴に引っかかっちゃったね、お互いに」
「恋人のいる男の子と片思い相手のいる女の子……か。笑えないね」
自嘲気味に言った言葉が胸を抉る。気付けば視界は滲んでいた。
「2人でだったら辛いのも半分こになるかな?」
「なるといいけど」
小さな白い指が頬を伝った涙を拭う。
「嫌だったら後できらいになって」
泣いたことにより熱を帯びた唇が塞がれる。
ファーストキスはレモンの味がしなかった。
華奢な彼女の呼吸がどうやって続くのかが不思議なくらい長かった。
時計の秒針の奏でる無機質な音と、状況を理解して早まる鼓動が雨音よりも強く聞こえた。
不思議と嫌な気分はしなかった。
離れた、赤く唾液で艶めいたそれを再び求める。
麻薬の様なものかもしれない。
息が続かなくて苦しい。それでも頭が真っ白になっていく、あの瞬間がたまらなく恋しい。
もう1回、もう1回。
心を罪悪感で満たしながら求めることを止められない。
この子に恋をしている……? そんな馬鹿な。
「現実はもっと醜いよ」
今日何度目か絡ませた舌を心地よいと感じる。
梅雨のあの日、彼女に奪われたその日からもう、私は満足の限度が壊れてしまった。
君と出来ないことを、やりたいと思う願望を私はこの子で埋め合わせている。
お互いの承認欲求の為。
友達と呼ぶには歪な関係。
相手は利用するための玩具で、自分もそれになることを望んでいる。
この関係は深いのだか、浅いのだか。
背伸びをする事を諦めた少女の吐息で胸が締め付けられる。
見上げた少女の汗ばんだ髪から香るシャンプーの匂いに胸が高鳴る。
ぐちゃぐちゃに
私が貴女を犯したい。
目の前の少女とは異なる相手への想いは日に日に増していくばかり。
日が暮れる前、赤く染る前の空を窓枠の内から横目に見る。
誰も知らない。私とこの子、2人だけの秘密。
唇から漏れ出た吐息も声も、頬を伝う汗も、潤んだ瞳も全部誰も知らない。私だけが知っている。
得たものは優越感か虚無感か……?
古びた校舎のコンクリの壁で鳴き叫ぶ蝉の声が、私とこの子を隠してくれる。
──そう、誰にも見えやしなから。
この子が欲しいのは私ではない隣のクラスのあの子の唇。
私が欲しいのはこの子ではないグラウンドを走るあの子の心。
届かないから、手を伸ばすことさえ許されないから──私もこの子もお互いが代用品。
どうしようもない想いをお互いにぶつけるだけ。
やるせない気持ちも、ありのままの欲望もただ捌け口がほしかっだけ。
諦めきれない恋心は心の内に鍵をかけて閉まっておく……そんな大層な事ができるほど私たちは賢くなかった。
お互いが叶わない恋をしてるのなら、想いが止められないのなら──
「2人で起こした罪なら、罰も半分こになるよね」
瞼の奥に目の前の彼女とは別の人を思い描けばいいじゃない。
想いはそのまま、目を閉じればいい。
好きだと言った囁きを、数オクターブ下げて聞けばいい。
彼も彼女も背が違うなら、2人で床に座ればいい。
唇はこれ程柔らかくないかもしれない。
両手に収まる小さな顔ではないかもしれない。
風に吹かれれば少女の甘酸っぱい香りはしないだろう。
──でも、止められないんだ。
罪に罪を重ねれば、欲望の拍車は止まらない。
罪に罪を重ねれば、想いはその分重く、深く、底無しの沼に沈んでいく。
「ここまで来たら引き返せないね」
いっそう激しく、お互いの唇を合わせる。
誰でもいい。
彼が私を見てくれないなら、
──まりあ、貴女が私を愛してよ。
貴方の隣に居たいよ。貴方と1番話がしたい。私と1番多く目を合わせて。私だけを見て欲しい。
いっその事、私を幻滅させてみせてよ。
私を、愛してやまない貴方を嫌いにさせて。
貴女も私も苦しいのはお互い様。
千歳、
──希望が無いなら共に狂おう。
──堕落しましょう。2人でなら怖くないわ。
大好きで仕方が無い。好きで好きで仕方が無い。
あの子の瞳に私が映るなんて幻想よ。声を掛けても、隣を歩いても、彼女は彼を目で追っている。
そもそも期待なんて持っていなかった。だって私は
ひた隠しに生きていても好きなものは変わらない。
想われる彼が羨ましい。あの子を愛する権利が欲しい。
──純白な存在はもう捨てたじゃない。
もう、元の関係には戻れない。
彼女がただの友達であるなんて間違っている。
愛のない関係に満足してしまっている。
癒えない傷を舐め合う相手を失う事は、お互いに不可能だろう。
これが2人の罰なのだ。
小さな興味から飛び火した火傷は、目も当てられない大火傷に発展している。
慰めあえば癒えるはずの傷は、過ごした時間が長いほど痛みが酷くなる。
2人が流す涙ではもう、犯した罪を
元には戻れない。
離れることはできない。
忘れることはできない。
「きっとこの関係を“共依存”って言うんだろうね」
「こんな関係も悪くないよ」
もうお互いを失うことができないのだから。
校舎の外の蝉が、カラッとした夏の空に言葉を溶かした。
きっと誰も知らないから 佐藤令都 @soosoo
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