薄明

山口瑠璃

地上への階段を上る。

刹那、奪われたのだ、私は、視覚に、ピンクの空に。


 初めて見る光景だった。もしかすると私は、電車を乗り間違えて地球でない遠い星に辿り着いてしまったのかもしれない。上を見ながらふらふらと歩いていると、柔らかくなったローファーにすっぽりと収まった私の足は、いつの間にかバスを待つ4、5人の列の最後尾で止まっていた。

 私の前に並んでいるスーツ姿の女性は振り返ると目が一つしかないかもしれない。もしくはそもそも顔の上下が逆さまで、本来口があるところには眉があるのかもしれない。やってくるバスなんて空を飛んでいるかもしれない。しかしどうも道路を走る車は宙に浮いておらず、つまりバスは空を飛ばない。それに通行人の顔だって変わった様子はない、ならばこの女性だって何の変哲もない普通の顔をしている。そんなことは分かっていた。だが私は期待せずにはいられなかった。


 この空は世界と世界とを繋ぐ扉かもしれない。この空の先には全く別の街が広がっていて、そう、そこは、煩わしい学校も何のためにするのか分からない勉強も毎日喧嘩する家族もない。ぬめりのある肌をきらりと光らせた大きな生き物が、鉄のように固く冷たい肌をした伸び縮みする生き物が、半透明の肌の無数の大きな穴で呼吸をする生き物が社会を作っている。私はそんな世界に突然現れた聖なるものとして君臨するかもしれないし、はたまた警戒され解剖され実験され閉じ込められるかもしれない。それでもいい。今よりずっと刺激的で楽しそうだ。


「お空がピンクだ、可愛いね」

声の方に目をやると、母親に連れられたちいさな女の子がはしゃいでいる。あの年の女の子はピンクが好きだろう。最近の小学生は赤よりピンクのランドセルを背負っているし、実際私もハンカチや水筒や手提げ袋など、小学生の頃に使っていた身近なものはおおよそピンクであった。だが18の私に言わせてみればこのピンク色はそう単純ではない。青く、赤く、黒く、白く、それでもって暗くて明るい。幾色もが重なり合って、より鮮やかに不気味に輝いているのだ。きっとあの子は気づいていない。あの子の見ているピンクと私の見ているピンクは全くの別物で、あの空がおいでと誘うのは私だけなのだと。


 あっという間にバスが来た。運がいい、空いている。私は椅子にどんっと座った。腰がじわりと暖かくなる。窓からもっと空を眺めていたかったがそのまま目を閉じてしまった。


 次に目を開けたとき、人々は下を向き画面を見つめ、バスは揺れ、空はすっかり暗くなっていた。

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薄明 山口瑠璃 @titityu

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