くるくま

 地方への転勤が決まり、引継ぎ資料の作成や家探しに忙しくしていると、ある休日の朝同じ社員寮に住む飯田という男が突然部屋に入ってきた。


 部屋に上がり込むやいなや

「きみ、ぜひとも向こうの家では猫を飼いたまえ。いやあ、猫はいいもんだよ。」

 というではないか。

 飯田は常からおかしな言動で有名だったから格別驚きはしなかったが、それにしてもなぜいきなり猫なんだと聞くと、

「今朝おもしろい夢を見たんだ。今度から君一人暮らしだろう、君の新しい家に遊びに行く夢だったんだがね、君の家のソファでくつろいでいると灰色の細っこい猫がすり寄ってくるんだ。かわいい猫だと思って頭をなでてやると、こう、とても気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らすんだよ。それでそのまま僕の腕の中で饅頭みたいな顔して眠っちまうじゃないか。いやあ、可愛かったねえ、あの猫は。」

 などとぬかす。

 夢とはいえ人の新居に勝手に上がり込んできてソファでくつろぐとはまったく図々しい男である。せっかくの休日の朝である、のんびり過ごしたくて飯田を追い出そうとするが猫の魅力だの猫の生活上の有用性だのを力説し始めて面倒なことこの上ない。ついにその話が人類による猫の飼育の歴史にまで及んだとき、耐えられなくなって彼の話をさえぎってこう言った。

「だいたい猫なんて安くないだろう。育てるのにだって金がかかるじゃないか。君が全部出しくれるのかい。」

 そういうと彼はこれは心外、という顔をして、

「そんなわけがなかろう。僕はただたまに君の家に遊びに行って君の猫に癒されるんだよ。」

 彼のことだ、呼んでもないのに突然押しかけてくるに違いない。地方とはいえ関東圏内だし、やろうと思えば毎週来ることだって不可能ではない。こんな男に毎週でも押しかけられるなんてたまったもんじゃない。もっと本部から遠い、地の果てのような事務所に転属させてもらうよう頼んでおくべきだった。

「そもそも君が癒されたいだけなら君が飼えばいいじゃないか、君のお気に召すような猫を。」

「いや、この寮ペット禁止だろ?あいにく今の部署から転属させてもらえそうにもないし。」

 こんなに図々しいのになぜか上司には気に入られているのだ、この男は。


「だったらさっさとこの寮を引き払ってアパートにでも越したらどうだ。」

 となおも問い詰めると、分が悪いと思ったのか、

「まあ、とにかく君は猫を飼う運命にあるんだ。もし選ぶことになったら僕も手伝ってあげるからさ。」

 などと言い、僕が自分のために淹れておいた朝のコーヒーを飲み干して出ていった。


 さて、いざ引っ越してみると確かに一人ではなんだか淋しい。寮ではたまに男同士で遊びに行ったり酒を持ち寄って飲んだりしていたが、会社以外で誰も知り合いのいない地域で一人暮らしをしているとそんなことも起きない。今なら飯田の声が懐かしく感じられるかもしれないと思っていた矢先、当の飯田から電話がかかってきた。


「よう、元気か。どうだ、そっちの生活にも慣れたか。」

 思いのほか人を気遣ってくれるではないかと見直して、なんだか寂しいことを訴えると、

「そんな時はやはり猫に限るよ。猫というのはだな…」

 などとまた猫を勧めてくる。しつこい男である。しかし、たしかに飯田の話にも一理ある。飼育費も、地方赴任にあたって毎月支給される手当でなんとかできるかもしれない。よし、猫を飼おう。


 飯田は、自分もペットショップに連れて行けと騒いでいたのだが、どうも予定が合わず結局一人でいった。飯田からはしつこく「灰色の、饅頭みたいな顔の子猫」を選べとメッセージが送られてきた。あいつのいうことにほいほい乗るのも癪だったが、特に希望はなかったし、実際灰色の猫がかわいく見えたので、結果的に飯田の言うような猫の、オスになった。


 一週間ほどして、猫がうちへやってきた。その子猫はまんじゅうと名付けられた。初めての場所に怯えて騒いだり、ひっかきまわしたりしないかと心配していたが、いざケースを開けて見ると周りを一瞥してからすやすやと眠りこんでしまった。神経が図太いのだろうか。はじめのうちはあまり構わないほうがいいと店員さんに言われていたので、その通りに、かわいい饅頭のような寝顔を遠くから眺めていた。けっこう、癒された。


 さて、しばらくしてから気が付いたのだが、まんじゅうを飼い始めてからなんだか調子がいい。まず、まんじゅうを迎えてから最初の出勤日、そりが合わないと思っていた上司が異動になった。仕事もやたらとはかどる。うまくいかない時に、まんじゅうの頭をなでていると解決策がぱっと浮かぶ。毎年不合格だった資格試験に合格した。これまで苦手で食えなかった魚が食えるようになった。呑み屋でたまたま会った人と意気投合し、この地域で初めての飲み友ができた。


 もちろんうまくいかない時もある。しかし、全体的にいいことが増え、運がよくなったと感じる。はじめは左遷かと悲観していた地方勤務がなんだか楽しくなってきた。何と最近はずっとご無沙汰だった彼女までできてしまった。気立てのいい可愛い女の子で、とてもうまくいっている。


 あれもこれも、もしかしたらまんじゅうのおかげかもな、と思ってこれまでより少し高級な餌を与え、新しい遊び道具も買ってやった。今まんじゅうが登ったり降りたりしている、あの道具だ。


 そうそう、飯田の事も話しておかなくてはならない。彼は、まんじゅうがうちにやって来てから2週間後の週末に喜び勇んで癒されにきて、まんじゅうと感動の対面となったが、まんじゅうは初めて見る男の姿に警戒して牙をむいていた。それなのに飯田は「ほらほら、おいで。僕は君の恩人だよ」などと言いながら無理に触ろうとするもんだから、まんじゅうは飯田の手に噛みついて、顔中ひっかき傷だらけにしてしまった。しょんぼりと肩を落として帰っていく飯田の姿は、今でも昨日の事のように覚えている。






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くるくま @curcuma_roscoeana

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