炎天

菊川嘉見

炎天

〝人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ〟

                      芥川龍之介『侏儒の言葉』「瑣事」


 夏は、死と腐敗の匂いがする。灼ける空気を吸い込めば、肺腑までが熱で機能を失うような、匂い。毎年この匂いを感じ取る度、僕は死を夢想している。

 ――ここは、どこだったろう?

 意識がふらふらとして、暑さに絡め取られそうになっている。足の裏は、靴越しにアスファルトの地面を確かに踏みしめていた。歩いている。それだけは、確かだった。見上げた先には、夕方の空が、雲を交えて強い赤に紫を滲ませている。落ちていく色だ、そう思った。そのまま地面に落ちていって、僕ごと焼き尽くしてくれればいい。

 延々と靄のかかったような気分だった。理由など知らない。全てがぼんやりとしている。歩き続けなければならないこと以外、はっきりとしていることは何もなかった。

 灼熱の空を映して、赤く染まる道を歩いて行く。血の池地獄は、これに似ているだろうか。それならば、きっと終わりはないのだろう。ふつふつとしたこの甘く香しい中で――

「おや、これは、お久し振りです」

 微笑を浮かべた青年が立っていた。唐突である。見知らぬ青年だ。この地獄の釜の空気で、おかしくなってしまったのだろうか。

「僕は君なんか知らないよ」

「そんなことはありません」

 青年は笑顔のまま否定した。彼の声には確固たる自信のようなものが見えていて、僕の方が間違っているような気分になってくる。いや、実際におかしいのは僕の方かも知れない。軽く右足を上げて、下ろした。固い地面は相変わらずそこに鎮座していた。

「貴方も、見に来たのでしょう?」

 意味が分からない。僕はただ歩いてきただけだった。

「見に来たって、何を?」

 青年は少しもその微笑を崩すことなく、空を指さした。

「空です。見に来たのでしょう」

 焼け落ちるのを。

 脳味噌がくらくらとした。空が焼け落ちる。そんなことが、あるわけがない。そんなことがあり得るならば、僕はきっとこんな匂いを嗅がずに済むのだ。

「君は、空が焼け落ちるなんてことを、本当に信じているのかい」

 少しばかり苛立ちの混じった声が出た。青年は不思議そうな顔を見せて、言った。

「何を言うんです。貴方が教えてくださったのでしょう」

「そんなの、知らないよ。人違いじゃないのかな」

「いいえ、いいえ。確かに貴方が言ったのです。貴方はここが何処なのか、そもそもご存じですか」

 知らない。

 知らない。

 僕は何も。

 この青年さえも。

 もしかすると、僕が覚えていないだけで、彼とは一度会っていて、空なんて焼け落ちればいいのに、なんて世迷い言を、僕が言ったのかも知れない。彼はそれを信じているわけだ。なんて哀しいことだろう。彼も僕と同じように、この灼熱を彷徨っているのだ。

 そう考えると、なんだかこの青年が愛らしく思えてきて、もう少し話してやろうという気になった。

「君はこれから何処か行くのかい」

 青年は瞬きをして、僕を見た。ゆるゆると頭を振る。

「実を言うと、空が見えるなら、何処でもいいのです。しかし、折角ですから、貴方と一緒に行きましょう」

「しかし、僕は行く当てがない」

「それでも、歩いて行くのでしょう。大丈夫、何処へでも行けます。貴方が望む場所へ。何処へでも」

 青年は何もかも知っているような、そんな口ぶりである。何処へでも、何処へでも。では何処へ行けば良いというのか。

 青年は僕の斜め後ろにまわって、ついてくる素振りを見せた。彼が何も言わないので、仕方なく僕は再び歩き始める。沈みゆく陽に向かって。

 只管に歩き続けたが、周囲の景色が変わることはなかった。延々と、熱の色をした靄が、僕と青年の周りを取り巻いて、汗ばむ皮膚を撫で、掴み、

「貴方はこんな場所が望みなのですか」

 耳元で声がした。不機嫌そうな青年の声が、僕の首を伝い、するすると降りていく。

 そんな訳がない、そんな訳がないじゃあないか。僕はあの落日に向かうより道を知らない。どうしろと言うのか。

 苛立ちで余計に汗が流れていく。靄が深くなる。

 太陽までもが覆い隠されようという時、またもや耳元で彼が囁いた。

「ほら、よく見てご覧なさい。貴方は何処へでも行ける」

 青年の指さす方には、赤い実をつけた小さな木があった。それは僕の生まれ育った家の、玄関先に植えられていた木であった。難を転ずる木。歳神様が休憩なされる。その小さな赤い実には、神聖な何かが詰まって、絶妙な均衡によってその赤みを保っているような気がしていた。

 歳神様が来られた家には、福が訪れる。母が毎年お供えをしている。歳神様がいらっしゃった、今年もこの家は幸福だ……

「確かに、靄しか見ないのであれば、安心ですね」

 その代わり、他には何もありませんけど。

 赤い実が枝からこぼれ落ちる。こぼれ落ちて、僕の掌の上に転がり、掌は赤い実で埋め尽くされ、それでも赤い実は湧き出で、こぼれ落ち、無残に地面に散らばっていく。 僕は慌ててその神聖な塊を拾い上げた。その赤い実は、黄色の混じった赤に変じて、少し大きくなっている。

桜桃。さくらんぼ。この実がいっぱいに飾り付けられた墓石を思い出した。自殺した作家。彼の作品は僕も割かし読むが、墓参りまではしたことがない。

 何処へでも行けるというのなら、行ってみようか。

 南天の木に背を向けて、僕は歩き出した。青年もついてきているのが気配で分かる。影のようについてきている。相も変わらず空には今にも沈まんとする太陽が、炎に包まれているかのような太陽が、同じ位置でこちらをじっと見ている。靄はやや薄くなり、心なしか呼吸も楽になった気がする。ただ、靄の奥を見ることはできない。景色は遠くなるにつれて、薄橙の奥に消えていっているようだった。

 どれほど歩いたのか分からない。日は沈まず、靄も晴れず、一切が停滞しているような。

「そろそろですね」

 後ろから青年の声がかかる。全てを承知しているような声音である。その声に呼ばれるように、前方の靄が薄れていき、墓石の輪郭が形を持つ。彼には靄の奥が見えているのだろうか。見えているのだとしても、そもそも僕は彼に目的地を言っていない。彼はいったい誰なのか。青年が歩いているのが隣でなくて良かった、と思った。

 墓石には、既に幾つものさくらんぼが嵌め込まれている。幸い、まだ一つくらいなら大丈夫そうだ。僕はさくらんぼを持った右の手を、隙間へと伸ばした。

 瑞々しい実が、隙間にするりと入り込む。

 しかし、それは瞬きのうちに元の赤い小さな実へと戻り、落下し、すぐ下に嵌まっていたさくらんぼに触れ、それもまた赤い実に変じ、やがて全ての実が南天の実となりながら落下していった。

 ばらばら、ばらばらと。

 残された墓石に刻まれた名前が、僕を見ている。その溝の奥から、僕を見ている。溝は急激に深くなり、そこに蹲る闇が、両手を広げ、僕の左右を塞ぎ、膨張し――

 背後で、深く深く、青年が溜息をついた。襟の後ろが掴まれ、引き出される。既に墓も、南天の実も消え失せていた。

「貴方はどうしていつも、そうなんです」

 青年は心底失望したという様子である。彼はその一言しか言わなかったが、毎度落としてしまう南天の実のことであると、確信めいたものがあった。

「僕の不信心のことを言っているのかい」

「そうですけれど、そうではありません。貴方のそれは不信心ではない」

 先へ進みましょう、と彼は僕を促す。彼は何処でもいいと言っていたはずだが、あれは嘘だったのではないかと思えてくる。

「君は僕を何処に向かわせたいんだい」

「言ったじゃありませんか。何処でもいいんです。空が見えるなら」

「なら、君一人で好きなところへ行けばいいじゃないか」

「いいえ、僕は貴方について行きます」

 もう訳が分からなかった。僕が何を言おうと、彼の意思は変わらないらしい。最初に感じた愛らしさは既に失せ、代わりに鬱陶しさが頭をもたげ始めている。

 行き先も決まらないまま、僕は足を動かす。青年はやはり僕の後ろにぴったりとくっついている。墓石が過ぎ去ってから、視界は再び靄に包まれていた。湿気た空気が僕の首を絞めて、息苦しい。この鬱々とした場所から逃れられるのならば、何処でもいい。澄んだ空気、涼やかな風、たとえば、たとえば。何年も前に見た屏風絵か何かを思い出す。昔の人々が夢見た極楽浄土の絵だ。あんな場所に行けたなら、僕は今度こそ逃げ出せるんじゃなかろうか。

 良い考えだ。僕は希望を見たような気分で歩を進める。体が軽くなったようだ。そうと決まれば早く辿り着かねば。青年もきっと、今度はあんな溜息をつかずに済むだろう。僕も嫌な気分にならずに済む。空が焼け落ちる必要もない。

 南天や墓石のことなどが、すっかり思考から追い出された頃、ひんやりとした風が、のんびりと後ろへと流れていった。靄はいつの間にかどこかへいっている。水と、木の匂い。僕はどうも橋を渡っているところらしかった。欄干へ寄り、下を覗くと、澄んだ深い青の水面がゆらゆらと揺れている。川だろうか、池だろうか、それとも湖だろうか。もっと先が見たかったが、靄が晴れても何故か視界は広がらず、水面の全容は分からない。こういう景色も、僕の思うままなのだろうか。僕の見たいものが、見られるのだろうか。だとしたら、あそこがいい。九段下の駅から目と鼻の先。蓮に覆われた牛ヶ淵。季節外れの午後、濃い緑の葉がびっしりと水面を隠している景色は、いつも僕に恐ろしさを植え付ける。僕はまだ蓮の花が咲いたのを見たことがなかった。蓮は午前中に咲くと聞く。明るい空の下ならば、あの恐ろしさが却って美しく映えるのではないか。僕はそれが見たい。この赤い空の下でも、叶うだろうか。

 牛ヶ淵の記憶を掘り起こしていると、欄干の下の水面が風もないのに波打ち始めた。それは徐々に激しさを増し、その波の間にあの深い緑が浮き上がる。ひたひたと緑は面積を広げ、気がつけば水面は一切が見えなくなっていた。花らしきものは、何処にも見えない。

「壮観ですね」

 青年も、僕の隣に立って蓮の群れを眺めている。ひょっとすると、陰鬱さをその懐に隠しているようにも見える、濃く重なる緑がどうにも苦手で、僕は欄干から手を離した。

「おや、花が開きますよ」

「本当かい」

 青年の一言によって僕は舞い戻った。緑の間には先ほどまではなかった桃色の蕾が大勢、するすると伸びている。青年は、蕾が出現するところも余さず眺めていたのだろう。欄干から離れてしまったことを、僕は今更後悔した。

 柔らかい花弁同士が擦れて鳴る、あの特徴的な音がそこかしこから聞こえる。蓮同士が囁き合うように、そのひとつひとつはそっと音を立てる。囁きは集まり、うねり、巨大な渦となった。

 花が開く。

 話に聞くような、弾けるような音は鳴らない。こっそりと窮屈さから逃げ出すような、そんな音であった。解放された逃亡者は光を辿って逃げていくのだろう。果たして彼らは逃げ切れるだろうか。僕はその逃亡者のうちの一人に、自分の横顔を見た気がした。

 落日の赤い光を受けて、本来白い中に咲くはずの蓮がぼんぼりのように見える。ふわりとした無数の明かりが集まって、水面で揺れている――まるで、それは、灯籠流しのような。盆に帰ってきた死者を、あるべき場所に戻す。

 ――やはり、彼らは逃げられなかったのだ。

 ――ならば僕も逃げられないに違いない。

 ――いったい何から?

「ああ、貴方はまた」

 綺麗だったのに、と青年の声が聞こえる。蓮の花は灯籠に変わり、抵抗もなく流されていく。きっと青年はまた失望した顔で僕を見ている。

 もう嫌だ。

「あ、」

 僕は水面を右手にして駆け出した。驚いた声がかすかに聞こえた気がしたが、彼は追ってくるのだろうか。太陽は後ろへと遠ざかる。前方が薄暗い。これまで歩いてきた道を駆け戻っているらしいと気付いた。

 途中で水面を後ろに。まっすぐ。見慣れた場所に出るはずだという確信があった。自分がいる場所が夢か現かなど、気にしている余裕はなかった。

 戻らねばならない。こんな、空が焼け落ちるなんて、巫山戯た場所ではなく、いつもの、見慣れた、

 ――僕は何処へ行こうというんだ?

 大通りに出たところで足が止まった。戻ると言っても、僕は何処から来たんだったか。何処へ行こうとしていたのだったか。そもそも、ここは何処なんだろう?

 逡巡している暇はない。逃げねば。追いつかれる前に。

 ――何に?

「逃げられない、と貴方が言ったんじゃないですか」

 やはり、声はすぐ後ろから聞こえた。あの青年だ。息も上がっていない、落ち着いた声。そういえば、最初に声を掛けられた時以外、まともに彼の顔を見ていない。

「ここは、いったい何処なんだ」

 思っていたよりうわずった声が出た。振り向くことはできない。汗だくだ。背後で青年がかすかに笑った気がする。

「何処って、貴方のよく知っている場所ですよ。ほら、景色だって――」

「僕のよく知っている場所ならば、空は焼け落ちない。夕日は時間に従って沈む。行きたい場所なら何処へでもというわけにはいかないし、蓮の花は夕方の光の中で咲いたりしない」

 一気に言い切った。青年の気配が一歩、後ろへ下がる。どうして今頃になって、こんなにも言葉が出てくるのだろう。きりきりと喉の奥が痛む。首を切り裂いて、無理矢理声を出しているようだ。

「貴方は否定ばかりだ」

 青年の不機嫌な声が耳の後ろで響く。

「南天も、蓮の花も、望んでおきながら拒絶する」

「質問に答えてくれ。ここは何処なんだ」

 話が噛み合わない。淡々とした声音に苛立って、僕は考える間もなく振り向いた。

「貴方は知っているはずです」

 暗く、強い視線だった。知っている。僕は彼を知っている。見慣れているはずの彼の顔は、靄に隠れて見えない。

「本当はね、何処に行ったって同じなんですよ。僕も、貴方も」

 靄をかぶったまま、彼は話し続ける。平坦で、安定した調子で。

「空は、焼け落ちます。貴方が望んだことですから。貴方にそれを拒絶する権利は、ない」

 青年はズボンのポケットを探って、何かを取り出した。それを掌の上に乗せ、僕に差し出す。赤い、小さな、南天の実。

「難を転じる――貴方のものですよ。心配なさる必要はありません。何にせよ、貴方はなるようにしかならない」

「それはつまり――それこそが僕の不信心だと、君はそう言いたいのかい」

「さあ、どうでしょう」

 水の匂いがする。青年の後ろに、赤く照らされた蓮の花が覗く。先ほど逃げてきたはずの牛ヶ淵だった。だが水面を見失うほどの蓮ではない。これこそ現であると思ったのもつかの間、目を凝らすと緑の中にぽつぽつと花が咲いていた。

「どうやら僕はまだ、帰れないらしいね」

「帰りたいのですか」

「それは」

「いったい何処へ?」

「さあ……何処だろうね」

 僕は差し出された南天を受け取った。小さな実は、するりと僕の手になじむ。

「何処へだって行くよ。なるようになるさ」

 福がいただけるというなら、有り難くいただこう。何処に行ってもいいというなら、気の赴く方へ。

 空が焼け落ちるのを、青年と一緒に見物するのもいい。

「そうですか」

 青年の後ろで巨大な陽が燃える。空がじわじわと橙の炎に侵食されていく。

 ぱちぱち、ぱちぱち。

 映画か何かでいつか見た、写真が端から燃えていく様子に、よく似ている。

「では、」

 青年は燃える空を背にして、にこやかに笑っている。あんなに楽しみにしていたのに、見なくていいのだろうか。

 ああ、そういえば、いつのまにやら彼の顔の靄が晴れている。

 空が、焼け落ちていく。

「またお会いしましょう」

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炎天 菊川嘉見 @yoshimi_k

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