第2話 あと5分

 ――あと5分。




 新緑が、空に触ろうと身を揺する。それから甲高いざわめきと、少し古い木の匂い。

「…!」

 夢のくせに奇妙なほど行き渡る感覚に、よくできたものだとまず感心した。俺の想像力もあながち捨てたものじゃないようだ。

 俺は、懐かしさよりかはちょっぴり酸っぱい気持ちでこの教室を眺めた。もう十年も前になるのか、俺がここで小学生をやっていたのは。

 あれは担任の、何だっけ、名前は忘れた。その後ろ姿が扉の向こうへ見えなくなると、俺の視界いっぱいに、そいつがワッとやって来た。当時仲の良かった級友だ。

「なあ幸田!お前それ、どうしたんだよ?」

 にやり顔のそいつは、俺の手元を見て余計にそれを深くする。

「…?」

 右手に握っていたのはシャーペンだった。ああそうだ、当時すごく流行っていて、一本五百円以上はする小学生には高価な品だ。なんでもこれで書き物をしていたら肩が凝らないとかなんとか。ほとんど勉強もしないのに小遣いを貯めて、本当に無駄なことをしたものだ。

「相葉とおんなじじゃね?ちょっと貸せよ」

「は?…あ!」

「あー、やっぱり!女子みたいなシール貼ってら」

 日に翳してくりくり回す。グリップの内側に、チカリと四つ葉のクローバーが煌めいた。

「おぉい、賀川!残念だったな、相葉三奈は幸田一成とできてんぞー」

「はあ!?」

「…」

 物静かなそいつの顔は、今と然程変わらない。若干色素の薄い髪と瞳、小憎らしいくらいのいわゆる美形。その視線がどうこうではなく、俺は俺の意思でこう言った。

「んな訳ねぇだろ」

 ――ガラ。

「でもだって、お揃いだろ?」

 確かにこれは、三奈が言い出して一緒に買わされたものだった。勝手にシールまで貼って、いつの間にか筆箱の一番上に仕舞われていた。

「だからって…」

「こんなん、付き合ってねーとしねえって!」

「うっせーな、じゃあやるよ」

 ――ガラッ。

「え、マジで?」

「おまえじゃねーよ。おい賀川!」

「…?」

「ほら。やる」

 視界の隅で、三奈が目を、伏せていた。




 ――ガララ、ギャラッ、グラララジュランッ。




「バカーッ!」

 こめかみで、火花が散った。

「痛ッ…てーな」

 こいつは自分が可憐な妖精か何かと勘違いしていないか。ビー玉みたいにかったいのが、そんな速度で人間の頭に突進したらだめだろう。

「なんで彼にあげちゃうのよ!」

「…それで丸くおさまったろ」

「収まらないからやってんでしょー!もう!」




 ――調律師が言うには。

 俺は人生における様々な分岐点で、選択肢を間違え続けたらしい。それでこの弦のような、第何番目だったかの俺の世界は縮れ、歪み、反って、てんで違う方へ突っ走ってしまったのだと。

「第65535弦ね。全てを間違えた世界」

「最底辺とは言ってくれたな」

「や、まあ、それは言葉のあやだから…」

 多少罰が悪そうに思うのは、ヂンヂン疼くように点滅するから。俺の顔の周りをうろちょろ、ひゅるひょろ、心なしか慌てている。

「とにかくね、私がこれをひとつ鳴らせば、しばらく音は消えずに響く」

「またあの絶望的な音を聴かされるのか」

「…」

「…」

「…その5分間だけ、貴方は枝分かれ地点にいられる」

 茶々を入れる俺にカッと睨みをきかせると、調律師はそのままこの鼻先を小突いてきた。

「そこで!答えを選び直すのよ」

 眩しさに目を瞑り、ヒリついた鼻を手の甲で庇う。彼女のなんと自分勝手で五月蝿いことか。

「ひとつでも正解すればいいの。そうしたらこの弦も、」




 きっと貴方の望む未来に繋がっていく――。




 ――あと5分。


 カンと日射し。蝉の織り成す不協和音。

「…」

 汗で僅かに張り付いたシャツに、木漏れ日が寄りかかる。「Ⅱ-B」と刻まれたクラス章は、じきにまた光に隠れた。

「…っつ」

 良く通った狭い脇道。表の大通りを行くよりも、ここへ逸れてジグザグに折れたほうが速いと信じて疑わなかった、これはたぶん中学生の俺だ。

「聞いてんの、一成」

「何が…」

 斜め後ろを、振り返ったと言えるほどは見なかった。

「だから夏期講習。うちの塾の先生が、まだ一人なら入れるって」

 ぐいっと、彼女は無理やり隣につく。ここは人一人がほんの少しの余裕を感じながら通れるくらいの幅なのに、本当に強引なやつだった。

「あぁ、そう」

「ちょっと、真面目に聞いてよ」

 なびく猫っ毛。無数のはぐれ髪は、太陽に取られ金糸に変わる。その長い前髪を留めたピンの、根元の飾りがチカリ輝く。

「…」

 そういやこいつ、相当な四つ葉好きだったっけなぁ。

「いーよ俺は」

 ――ガラ。

「よくないよ。期末、欠点ばっかだったでしょ」

「なんで知ってんだよ、クラス違うのに」

「聞いたの」

「誰から」

「…誰でもいいでしょ」

「ふぅん」

「何よ」

 確かこの時俺は、それが誰だか分かってしまったんだ。どこかがチリチリして無性に腹が立って、この苛々はそう、猛烈な蒸し暑さのせいだった。

「俺が何点取ろうが三奈には関係ないだろ」

 ――ガラッ。

「なくないよ」

「ない」

「…あるよ、だって、」

「そういうのはやりたい同士でやっとけよ。賀川とかさ」

 隣の吸息、背後の吐息、彼女の顔は、見なかった。




 ――ガララ、ギャラッ、グラララジュランッ。




「こらーッ!!」

 今度は眉間にクリーンヒット。せっかくついた足が宙を蹴る。

「…ッ痛…だから、」

「だから!なんで!そうなるの!」

「…俺は勉強嫌いなんだよ」

「そんなことはどうでもいいの!貴方、やる気あんの!?」

「あるように見えるか」

「誰のためだと思ってんのよ!もう!」




 そんなこと、知らねーよ。

 ――あと5分。

 俺は付き合わされているだけだ。

 ――あと5分。

 お前こそ何様だ。

 ――あと5分。

 せっかく人が部屋をひとつ潰してまで、

 ――あと5分。

 ひとつ残らず投げ入れて、

 ――あと5分。

 埃を被せて見えないようにして、

 ――あと5分。

 その目隠しが散らばってしまわないように、

 ――あと5分。

 一度もドアを開けずに息を吸い続けて、

 ――あと5分。

 一瞬もここを離れずに耳を澄まし続けて、

 ――あと5分。

 一生忘れられないものを、探したってもう絶対に見つからないものを――




 っ、吸息音。




「なあ三奈ー。もう諦めろよー」

「いや!」

「ここにはないよ」

「あるもん!見つかるまで探せば、あるんだもん」

「ないってば。絶対」

「…」

「だってここ、光ってないから」

「…」

「三奈。おーい」




 俺は、諦めたかったのか――?




 ――あと5分。


 夕まぐれに、木偶の坊。それが俺の影だった。

 首より上が、電車に轢かれて木っ端となることを期待はしたが、そんな訳もなくひょいっと避けて車体を撫でる。ガタタンガタタン、均一な騒がしさの合間に耳障りな音屑。興を削いだ。

「…」

 夢は記憶を整理すると言う。整理整頓が勉強の次に嫌いな俺も、ついに必要に迫られ、はたまた潜在意識がそれを求めて、この時が来てしまったというわけだ。

「はぁ…」

 やけに軽い学生鞄、ブレザーを飛び出す崩したネクタイの深紺は、ほとんど夕陽に沈んでいる。だとしたら少なくとも高校2年の10月以降。だがきっと、その最初の日の、今は帰り道に決まっている。

「一成…」

 遮断機が、よぼよぼふらふら、道を開ける。行くか行かないか迷った。渡らなければ帰れない。でも向こう側には、

「一成!!」

 大声を寄越す、三奈がいる。

「本当に辞めちゃったの!?」

 彼女は電車通学で、最寄り駅はひとつ先のはずだった。なのにわざわざ待ち伏せてまで、俺にそんなことを尋ねてくる。

「野球!」

 汗もかいていない、

「辞めたのかって!」

 泥の匂いもしない、

「訊いてんの!」

 肩紐の綻んだスポーツバッグも掛けていない。

 そんな俺の姿を見る三奈の目が、咎めているように、思われて。

「…」

 カン、カン、カン、カン、カン、カン、

「っ…」

 カァン。

 走り出す。

 俺はまた、行かないことを選択した。

 ――ガラ。

 だって仕方がないだろう。最後は勝負すら放棄した俺は、こんなにも惨めで、卑怯で臆病で格好悪い、雑魚キャラにも劣る有象無象。

 あの試合。もし万が一、いや仮に、最後の打席で俺が打って抜けたとして、それが一体何になる?せいぜい仲間内での自慢の種が関の山。それならあいつに無傷の記録を残してやって、伝説か何かの一ページにでもなって、後世まで語り継いで貰ったほうが、全体の利益になるに決まっている。

 頭脳明晰、眉目秀麗、奪三振ショーはお手の物。速球派左腕のスタープレイヤー、賀川翔真の出来上がりだ。

「…は、はあっ…」

 それでおまえはそんな逸材の嫁になる、しあわせな未来が確定する。

「……は…」

 そうだろう?

「……」

 そうだったはずなんだ。おまえが俺を、探さなければ。

 ――ガラッ。

 音がする。取り返しのつかないような、音がする。

 ――ガララ。

 それは救いようのない音。

「…三奈…!」

 そして、

 ――ギャラッ。

 絶望的な、音。

「くっそ…!」

 馬鹿げている。だってこれは夢なのに。現実逃避で、ただの記憶の整理で、だから何かを変えられる訳はないのに。

 夢の中くらいしあわせにとか?どこまで俺は悲劇ぶっている。なんで夢なのに痛いんだ。なんで現実でもないのに今更俺は――。




「おいってば、三奈ー…」

「…」

「はー。…だったらさ、」

「…?」

「この一枚をこうして、」

「何やってんの?」

「で、三つ葉に乗せれば…」

「あっ…!」




 焼けた空を庇うように馬鹿でかい雲。もろとも黒に沈んで黒に還る。そこに光なんてない。何もない。

 星のない夜空に浮かんでいる感覚だった。

「…っ」

 飛ぶように走れている。だけど全然進まない。ここまで精巧だったこの世界が、急に幻想じみてくる。どこを見ても頑なに黒。上下左右はない。

 三奈がいない。

「…どこだよ…!?」

 夢ならなんだってできるよな。だから絶対に見つかるよな。俺が探し続ける限り。

 俺が諦めない限りは。

 絶対。

「…?」

 チカリ。

「なんだ…?」

 近いか遠いかも分からない、そこで何かが煌めいた。

「…」

 それは幼い頃にあった感覚と同じもの。クローバーの群生地、筆箱のシャーペン、長い前髪を留めた細いピン。

 そこに手を伸ばせば、必ず、「見つかる」。

「…!」

 そうしたら、その光にぐいぐい身体は吸い寄せられる。風を感じる。雨粒が車窓を滑っていくように、黒が流され消えていく。そして季節外れの木枯らしと車の排ガスの匂い、見慣れたコンビニの明かりが眩しくて、久しく足を踏み入れていない公園の、一面のクローバーが健気に青白く照っていて。

「三奈!!」

「…っ?」

 その向こうから、大きなトラックがふらふらとやってくるから。

「来い三奈!走れ!」

「一成、今までどこ…」

「いいから早く!走れ頼む!こっち来い!」

 信号は黄色へ、タイヤは鳴かない。

「三奈ッ!!」

 俺はその腕を必死に引いて、

「ちょっ、一…」

 後ろ頭を鷲掴んで、

「…っ」

 セーラー服の襟がはためく余地なんてないくらい。

「…」

 弾んで軋む音を溢しながら、俺たちの横を轟々と、そのトラックは走り去っていった。

「…ふ」

「…一成」

 その声が、俺の心臓に直に響いた。ようやくほっとできた俺はすぐさまはっとして、ぎゅいっと三奈をひっぺがす。

 上気した頬にブレザーの跡、その上でくるりと瞬く瞳は驚いたようで怒ったようで、

「…危機一髪…」

 少し心配そうに潤んでいた。

「何よそれ…」

 生きている。

「はー…」

「…」

「…えーと、じゃ、そういうことで」

 俺は綺麗に踵を返す。

「何がそういうことなのよ」

「いや、おまえも無事だったことだし」

「無事って何よ」

「とにかく、じゃあな」

「どうせ一緒になるのになんで先に行っちゃうのよ」

「…」

「嫁入り前の幼なじみ抱き締めといて!」

「!」

 思わず仰け反り振り返る。

「何事も無いじゃ済まないから!」

 コンビニ前でたむろする、ガキ共の好奇の視線が痛い痛い。

「…悪かったよ」

「なんで謝るのよ」

「賀川には黙っとけよ」

「なんで賀川くんなのよ」

 口調とは裏腹に、三奈の視線は詰問するつもりはないらしい。逆にそんな目で見られたら、俺は観念するしかなくなるというのに。

「…投げた試合は未だ無失点、古豪おれたち相手に完投完封18奪三振」

「…それで?」

「顔良し、それから性格良し。県内屈指の進学校、成績もどうせトップクラス」

「…だから?」

「だから。どう転んだって賀川だろ」

 せっかくの夜なのに。星のない夜なのに。

「…おまえが、しあわせになるためには」

 情緒も何もない人工の明かりが、俺のみっともない顔を吊し上げ、

「…なんで、そうなるのよ…」

「今説明したろ?だからー、」

「もういい聴きたくない」

 見たくない、三奈の涙を見せつける。

「…そろそろ返事、しろよな…」

 網膜に焼け付く前に、退散しないと。

「…一成っ!」

 本当に頑固だから、こいつは。

「おい…」

 一度甘い顔をしたら、きっと。

「これ、見て。一成」

 この腕を離さない。

「…!」




「…ほらな」

「わあ、すごい!」

「な?」

「四つ葉になっちゃった!」

「だからもういいだろ」

「ありがと一成!私、」




「私、賀川くんに明日、返事する」

「…」

「きっぱり、断ってくる」

「なんでだよ」

 俺の目の前に突きつけられたそれが、震えながら降りていく。

 そして真っ赤な頬に雫を乗せてはぽろぽろ、ぽろぽろ、薄い唇を噛みながら昔とちっとも変わらない、ちょっと不細工だけど締め付けられるほどにどうしようもなく守りたくなる、言い出したら聞かないその泣き顔を、

「だって私は三奈みつばだから…」

 ぎゅうと抱えたこの腕に、じわ、と、あたたかく埋めてくる。

「一成がいなきゃ、四つ葉にならない…っ」

 俺が三奈を、見つけられた理由。

「しあわせに、っ成れないよ…!」




 ――私、一生、大事にするから!




「本当、おまえってどんだけ…」

 三奈のこと、言えないか。

「…ふ、ぇ…っ」

 いつかの偽の四つ葉。

 赤みさす手が握り締める、その栞にそっと触れ、ふっと漏れたこの声は、頼む、苦笑いってことに、しといてくれ。

「好きなんだよ…」




 どこかで無限の和音が響く。少し渋くて心地よい、しあわせの音色が離れない。

 最後の弦も真っ直ぐに、今に束ねて縒ってひとつになる。この先の未来へ繋がっていく。




「…ふう。これでやっと私の舞台も整いそうね」

 いくら奏でても飽きない音色。我ながら完璧な調律、最上の仕事。でもいつまでもここにいる訳にはいかないの。この有終の美が響き渡っているうちに、私も旅支度、始めなきゃ。

「泣かせるのはもう、これっきりにしてあげてよね?」

 ――あと5分、あげるから。

「じゃ、またあとで。…パパ!」




「三奈」

「う…?」

 ――嬉しくって止まらないってくらいまで、これまでの分も全部乗せで、どうぞありったけのしあわせを。

「俺さ、」

 思う存分、囁いて。

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平行世界の調律師 美木 いち佳 @mikill

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