平行世界の調律師

美木 いち佳

第1話 第65535弦

 星のない夜空に浮かんでいる感覚だった。或いは、光の届かない水底をたゆたっているとか。

 瞼を上げても下げても見えるのは一貫して黒、風は感じないのに服が捲れて腹が出る。寒いや痒いはない。上下左右もない。

 たぶんこれもそうだろう。最近よく見るのだ、こんな風に足が地についていない夢を。なんだったか、ネットで調べたら現実逃避を意味するらしく、心当たりがあり過ぎて舌が乾くほど笑った。

 確かに思うのだ。こんなはずじゃなかったと。

 未来は明るいはずで、隣の電気は点いているはずで、なのに現実は何度醒めたってただの黒。いつもずっと真っ黒だ。

 どうしてここを動けない。いつまで息を吸い耳を澄ます。鬱陶しいくらいに俺を呼ぶ、

「…っさいな…」

 あの声はもう、聞けなくなってしまったのに。


 世界が波打った。回り始めた洗濯機みたく、否応なく身体は流されていく。そう、思い出した。いつもこうなのだ。耳を塞ぎ、後悔や愚痴をこぼし始めると、この暗闇は俺を吐き出そうとする。最後はプッと、梅干か西瓜の種みたいに。だったらそろそろ目覚めの時間だ。今日もあまり寝ていない気がする。でも、起きないと。

 考えただけで、身体が重い。

「…重い?」

 何かが変だ。少しずつ、沈んでいく気配。

 こんなことはこれまでなかった。ということはそうか、こちらが下か。だが下りというのはなんだか良くない。人はどうしたって、浮かび上がろうとするものだ。腕を掻いた。脚をばたつかせた。でもやっぱり、背中に重石を背負わされたみたいに、ただ緩慢に、底へ底へと落ちて――。

 ぷらん、と手足。

「……」

 そこが俺の人生の在り処。そう叩き付けられた気分だった。


「いた…!」

 不意に、視界をチカリ。何かが猛烈な速度で横切っていく。流れ星か、だったらここは空なのか。

 そう思ったところで、その星らしきものはふらりふらりと戻ってくる。

「やっと…見つけた…!」

 鼻先で無遠慮に輝かれ、俺は顔をしかめる。先程も声がしたとは思ったが、見回しても墨を塗り重ねたような闇には他に何も見えないし、

「…何だよ、お前…」

 まさかこの、光る物体が喋っているとでも言うのか。

「うわ、予想の上をいく最っ低の反応。『お前』はないでしょ、何様よ」

 なんと、俺の方こそ思った以上の猛烈な抗議を受け、只管に驚く。恐らく俺は今、相当には間抜けな顔を晒していることだろう。

「私はね、ずっと貴方を探してたんだから!」

「…あぁ、そう…」

「ええ、無関心?何よもう、淡白すぎない?分岐がひねくれるとこうも違うの…」

 何やらぶつぶつかましてくるが、どうせ夢だしそろそろ起きるし、興味なんて持ちようがない。そんな余力はどこにもない。

「ねぇ」

「何」

「君は誰ですかとか、そういう風には訊けないの?」

「『君は誰ですか』」

「完っ璧な棒読みのオウム返しね…腹は立つけどまぁいいわ」

 ツクツク光をたなびかせて、彼女――で合っていると思うが――は俺の周りを飄々と飛び始める。

「私はここで、調律をしているの」

「ふーん」

「ちょっとは食いつきなさいよ!あーもー、ほら、見えるでしょ?」

 そして俺の輪郭を沿うようにしていた軌道を逸れた。かと思えばいきなり、ぶあっと放射状に光の棘。

「!?」

 その先端から花火が咲くみたいにまた形を変えて、チロチロと微細な破片が散りゆくスローモーション。その硝子のようなひと粒ひと粒に分け与えられた明かりが、闇に仄かな視界を拓く。

「これは…」

 上は果てなく、下は底なし。びっしり、数え切れないほどの線が、ピンと平行に張り巡らされていた。

「この細く長い弦のひとつひとつに、世界が紡がれている」

 欠片はまた集まって、小さな光の塊に戻る。

「はあ…」

 なんだか途方もないストーリーの予感がひしひしとする。現実を見たくなさすぎて、とうとうこんなファンタジーを夢に見るようになってしまったのか俺は。

 勘弁してくれと言いたい表情は無視して、調律師は続ける。

「ここにある弦たちはどれも、ある未来に必ず収束するはずなの」

 言いながら、手近なそれを上から順繰り撫でるようにはじいていく。ジャラン、ジャランと、琴とか三味線みたいな渋い音色が、反響もせずゆっくり遠退いていく。

 それが不思議と心地よい。じんわりあたたかいから、瞳を閉じて聴き入ってしまう。

「でもね」

 次に彼女が爪弾くと、脳味噌の削られるような衝撃を受けた。もちろん悪い意味でだ。何と言うか、とっておきのでっかい三角の積み木を天辺に乗せようとして、はたからひとつ、またひとつと転げていって、終いには派手に全てを崩して壊して放り投げた、そんな救いようのない音がした。

 俺は肩を跳ねて目を開く。

「なっ!?」

 いつの間にか、足は着いていた。

「…ね?酷い音でしょ」

「おまえが調律してんだろ、早くなんとかしてやれよ」

「だから貴方を探してたんじゃない」

「?」

「これは最底辺の第65535弦」

 あらぬ方向へ伸びてしまった。

「貴方の、世界よ」

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