第9話

 夜が更けていく。屋敷に帰る気が孝子にはまったくなかった。孝子はのんびりと地面に腰かけ、一人空を見上げていた。悲しげな心とは裏腹に、夜空の星は綺麗に輝いている。孝子はため息をついた。孝子の中で勇作が春奈と二人で密会しているところなんて見たくはなかった、とくらい気持ちが渦巻いていた。

「もし、お嬢さん、夜歩きは危険ですよ」

 小柄な男が声をかけてきた。隣に華奢だが身長の高い大男が控えていた。孝子は声をかけてきた男たちを無視しようとした。小柄な男はしつこく声をかけてくる。

「最近、何かと物騒な世の中ですから。おうちまでおかえりなさい。私たちが送ってさしあげますから」

「今日は帰りたくないのです」

「おや、どうして」

 大柄な男は歌うように唇を開く。女性とも男性ともとれる中性的な声を彼はしていた。

「それは、無関係なあなた方に話すような内容ではありません」

「だって、大谷。でも、女の子の一人歩きを無視できるほど僕らは人でなしではないよ」

「そうだな。君、どこの家の者だい、私たちが呼びに行ってあげるから」

「いりません。結構です。いまは気持ちの整理がつかないので屋敷には帰りたくないのです」

 小柄な男と大柄な男は顔を見合わせた。孝子は少し涙ぐんでいる。小柄な男は狼狽し始めた。

「気持ちの整理ねえ。そういうときは無関係な僕らに話してみるのも一興だよ。僕らは君が誰かは知らないし、だれかに話すほど暇でもないし」

 孝子は涙をこぼしながら堰をきったように話し始めた。勇作との出会いのこと、今日のデエトのこと、春奈と勇作の密会とのこと、自分の恋心のこと。二人は口を挟まず、ただ黙って聞いていた。孝子の話が終わると大柄な男は孝子に格子柄のハンカチを渡した。孝子はこぼしていた涙をぬぐう。

「君、なかなか難儀な相手に恋をしたねえ。推測だけど『身分違いの恋』とは、相手は華族で君は女中さんかな。この近くの華族の邸宅というと、僕には青木伯爵家しか浮かばないんだけど、あっているかな」

「なぜわかったのです」

「うん、僕はちょっと青木伯爵に用事があるから。」

「藤堂、仕事の話はやめろ。で、お嬢さんその男が遊びというのは先輩女中とその男が密会していたのを根拠にしているのか」

 孝子はこくんと頷く。藤堂と大谷はまた二人で顔を見合わせた。

「それは難儀な話だな。いや、でも相手の行動を見ると君のことを好いているとしか思えない」

「それでも、私は見てしまったのです。勇作さまが春奈さまの髪に触っているところを」

「塵芥でもついていたのではないか」

「それにしては親密そうでした」

 そのとき、じゃりじゃりと足音が聞こえた。三人は身を固くする。孝子は震える声でつぶやいた。

「まさか、野犬とか」

 藤堂は小さな声でのんびりという。

「いや、これは人の足音だね」

 藤堂は大谷にこそりと呟いた。大谷は了解の意を込めて頷く。

「藤堂、この子、俺らの下宿に連れ帰ってしまおうか」

「そうだね、大谷。青木家の内情のことも聞きたいしね。君、僕らの宿で思いっきり話を聞くから。酒は飲めるかい」

「ええ、飲めますけど」

「じゃあ、今日は宴だ。お嬢さん、このまま俺たちについてきなさい」

 藤堂と大谷は立ち上がり、二人して孝子に手を差し出す。孝子がその手をとろうとしたその時であった。

「待て。孝子をどこに連れて行くんだ」

木陰から出てきたのは孝子が今一番会いたくない相手、勇作であった。藤堂はあきれたような顔をした。

「貴方が青木伯爵……ではないですね。伯爵の息子といったところですか」

「だったらどうした。その子に何をしようとしている」

「いやなに、お宅が女性の扱いを心得ていないようなので、男とはこういうものだと懇々とお話しようかと」

 勇作の顔色が変わった。孝子は藤堂の影に引っ込む。藤堂は孝子をそっと抱き寄せた。大谷と藤堂は白々しい雰囲気を出している。

「大谷。行こうか。遊びで女中に手を出すお坊ちゃまにはこんなに良い娘さんはもったいないからね」

「そうだな、お気に入りの女中が別にいるのに、他の女中で火遊びをする輩にこの娘は渡せないな」

 一拍間をおいて、勇作は大声を出した。

「遊びなんかじゃない。俺は本当に孝子を愛しているんだ。お気に入りの女中なんていないし、俺には君しかいない」

 孝子は藤堂のそばで勇作に問うた。

「では、今日庭で春奈さまとお会いしていたのは」

「それは……今日の孝子ちゃんが……かわいかったって……その……自慢してた」

 勇作はほほを赤らめていた。孝子は藤堂の腕をはらい、勇作の元へと駆け出した。藤堂は軽やかな笑みを浮かべ、大谷は鼻を鳴らす。孝子は勇作に抱きついた。

「嘘では、ないですか」

「嘘なわけないよ。こんなに僕の心臓が音を立てているんだもの」

 孝子は勇作のことを強く抱きしめる。勇作はそれに応えた。二人は心底幸福そうであった。大谷はつまらなそうにつぶやく。

「めでたし、めでたしってやつか」

 藤堂は相変わらず軽やかな笑みを浮かべている。

「ハッピーエンドで終わらせるなら、僕らはもう一仕事しないといけないね。さあ、ここにいるのは無粋だから、とっとと下宿に帰ろう」

 藤堂と大谷はそのまま歩いて二人の元から去っていく。孝子がそのことに気が付くと、歩いている藤堂が振り返ったのが見えた。藤堂はにっこりと微笑む。そして口元を「お幸せに」と動かした。孝子には藤堂の声は伝わらなかったが、その意図は十分に伝わっていた。

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野辺に咲く花 石燕 鴎 @sekien_kamome

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