名付けられたものたち〜ハインリヒ一行の間章〜

遠影此方

第1話 名付けられたものたち




 ある晴れた日のことだ。町で暮らしはじめて春のあの涼しい風はどこかに消えうせ、かわりにじとじとした風が加減を知らない太陽を連れてきた。通りを抜ける風は気持ちのいいものから鬱陶しいものへと変わり、日なたの石畳は熱せられて渡ろうとすれば足の裏が焼けてしまうだろう。町というものに興味がなかった僕はこの変化のせいでますます町の表通りへ行かなくなり、かといって一番近くの草原に出ようとしてもかなりの距離があり、そこまでも道のりには一面の砂地を越える必要があった。僕は観念して宿の部屋で日を過ごすことにしたが、することはない。短剣を眺めることくらいだ。部屋はちょうど建物の日陰に面していたので、暑さが少しは和らぐ。しかし、どうにも退屈であったので僕はハインリヒさんに早く町の外に出ようと打診を繰り返した。しかし、ハインリヒさんはその毛むくじゃらの風貌から滅多には外には出られないようで、適当な生返事を返すばかりで一向に実行に移す気配はない。ハインリヒさん自身も退屈している素振りを見せていたが、僕と違って、ハインリヒさんの退屈には意味があった。ハインリヒさんは白銀の竜が戻ってくることを待っているのだ。


 この街に着いた夜のことだ。町にそのまま着地するのは無謀だからと、ハインリヒさんは白銀の竜の背の上から町にほど近い砂地に降りるように言った。竜はそれに従って、町の門から少し離れたところへ、砂埃を上げて着地した。僕らを陸に降ろした後、竜とハインリヒさんは少しだけ言葉を交わしていたようだったが、何かまでは聞こえなかった。会話が終わると竜は頷いたように頭を振り、上空に舞い上がり、山の方角に向かって飛び去っていった。ハインリヒさんは、竜にある場所を探してくるように頼んだらしいが、僕はそのことよりもハインリヒさんが僕のそばに留まってくれたことが嬉しかった。


 部屋の戸が開く音がして、トリシャが帰ってきた。彼女の肌には汗がいくつも流れ、観ているこちらまでその熱量が伝わってきそうだ。トリシャは暑いのと寒いのとでは、暑いことが何よりも嫌いなようで、自分の体に溜まった熱にあからさまにイライラしている。テーブルの上にずかずかと歩いてゆき、水瓶に手を伸ばすその顔は無表情だ。水をコップに注ぐと、立ったまま飲み干す。コップをテーブルにようやく置くと同時に座り、それからしばらく天井を睨んだ。



 「何か涼しい話がほしい」



とトリシャは唐突に僕に言ってきた。

 

「涼しいって一体何さ。」

 

「何でもいいの。風とか、海とか、そういうここにはないものの話。」



 トリシャは最初の頃は初めて見る町並みに眼を輝かせていたが、数日もしてくると次第に慣れてきたのかその熱狂は急速に冷めていった。

この町は王国の辺境に位置しているらしく、他の地方都市と比べて栄えている部類のようだが、ここの店や町に映るものは、よくよく見れば彼女が元いた村にあったものとそこまで変わりがなかったらしい。それに、トリシャの村で起こった一連の騒動は、この町にも伝わっていたようで、新しく就任した村長について、町の人々は興味を示しトリシャにどんな男かと質問を投げかけてきた。最初の頃はボンザ村長のことが話題になっている嬉しさからか色々と答えていたらしく、それで分かったこととしては、この町の中では魔法使いや、魔物、竜が現れたことは知らされていないらしく、ボンザが我々のことが噂にならないように人々に何事か言っているのかもしれぬと、その日の夕食に嬉々として話すトリシャにハインリヒさんは言った。

 しかし、数日もするとそういうことにも飽きてくるらしく、いつのまにかトリシャはあまり町の人々との交流を控えることにしていた。

 「暑苦しくて、うっとうしくてしょうがない。町から出られるのならいいのだけれど、そういうわけにもいかないのでしょう。」



そう言って、トリシャはハインリヒさんの方を向く。ハインリヒさんは火の点いていない暖炉の近くで一人揺り椅子に座っていたが、トリシャの視線に気づくと、すまないな、とだけ言った。退屈にしていたトリシャはそれに興味をそそられたらしい。



「竜に何をお願いしたの」



 またしても唐突に問いを投げたが、ハインリヒさんは黙ってしまって答えない。トリシャはそれで諦めがついたのかそれ以上追求しようとはせずに今度は僕の方へ向き直る。

 

「そうだ、あの話をしてよ」



 そういうトリシャの眼は、薄暗い部屋の中でもうっすらと輝いていた。

 

「ヤヌアとハインリヒおじさまが出会った時は、確か冬だったんでしょう。」



 僕はその季節に記憶を遡ろうとしたとき、視界の隅で、ハインリヒさんも俯いて、何かを思い出そうとしているようだった。



 不意に涼しい風が、部屋の中に迷い込んでくる。そのはっとする冷たさに、冬の日の凍えた記憶の断片が、二人のうちににわかに色を帯び、鮮明に蘇った。




1
 

 その日がいつ頃だったかまでは、よく覚えていない。ただ頰を切るように過ぎてゆく風の冷たさと、辺りの不気味なほどの静寂がまだ耳に残っていたのだ。辺りは一面に白く、多分雪が積もっていたのだろう。吐く息だけが生暖かい。しかし、空気に溶けてしまえばひび割れるような寒さしか残されてはいない。狭い道を通っていた。建物に挟まれていたからだろう。足元は雪で埋まっていて、歩くたびに足の裏が痛んだ。多分皮が剥けていたのだろう。体の感覚は寒さのせいかほとんどなかった。ただ、全身が冷え切って、手足は自分のものという感触がなくなって、体に当てていてもぶよぶよとした冷たい感覚が伝わるだけだ。胸の中に残るわずかなぬくもりだけが、僕が生きているということを、まだ懸命に主張していた。足の痛みを堪えて、僕は歩き続けていた。理由はよくわからない。どこかに体を休められるあてがあったのかもしれない。ただ、歩いていれば、この町中に降り積もる死から、どうにか逃げられると思っていたのだ。ただ、自分の息が熱を持っているうちに、どこかへとゆこうとしていた。体に巻き付いた服は、寒さには全く意味がなく、服の中にも冷気は入ってきたこともあるだろうが、体感としては裸同然とかわりがなかった。歯の打ち合う音は小刻みになり、口から息を出すたびに舌先を何度か噛んでいた。


 歩いてゆくうちに、たびたび、つまずくことがあった。狭い通りだったからだろうか。足先に何かが当たることもあれば足首くらいまである大きなものもあった。岩かそれとも瓦礫かと思ったけれど、その時はただ歩いてゆくことだけを考えていたから、雪に埋まったそれらを確認することなんてしなかった。それらは大体家の戸口の前か、窓の近くにあったから、その近くを通る時はそれらがあるだろうと、注意して渡った。


 大通りに出ても人影は全くなかった。雪が街路に厚く降り積もっていた。そこはその町で一番広い通りだった。けれど、いくら耳をすましてみても物音ひとつしなかった。雪のしんしんと降り続く音が、町を一層静かにしていた。僕は大通りにさえ出れば、誰かに出くわすだろうと思っていたから、そのあまりの人気のなさにひどく戸惑った。しばらく呆然と立ち尽くしていたけれど、どうしても歩かなければいけない理由ができて、僕はまた歩き出した。単純にお腹が空いたのだ。鼻はもう効かなかったから、やっぱり歩いて誰かに出会わなければいけなかった。僕は孤独だった。だからこそ、誰かに出会って、安心を得たかった。


 広い通りの真ん中を僕は歩いた。端っこを歩くよりも周りの景色が見やすいし、加えて誰かに見つけてもらいやすそうだったからだ。でも、前方に広がる視界には人影どころか屋根の雪が重さでずれ落ちる音さえなかった。


 時折、頬に冷たい風が当たる。強いものではなかったけれど、確実に体力は奪われていった。
 降り積もる雪で、頭は次第に冷えてゆき、意識が急速に遠のくのを感じた。


 そのときには、むしろ足の裏から伝わる痛みが、かえって途切れようとする意識を繋ぎ止めていた。


 歩き続ける。両の足を、交互に、踏み出す。


 簡単なことだけれど、もうそれぐらいしか考えられなかった。




2
 

 その雨が降りはじめたのは、夜だった。俺は森の中でこのまま夜を過ごそうと思っていた。雨のおかげで薪が湿り焚き火はできない。しかしそれでも近くの町に迷い出るよりは雨に濡れることの方がましに思えたのだ。しかし思いのほか雨は冷たく、体を冷やすものであったから持っていた袋からパンのかけらを取り出し、それを咀嚼して、わずかでも体を温めようと思った。ひときわ大きいと目をつけた木の幹にもたれると俺は目を閉じ、そのまま眠ろうと努めた。しかし、けたたましい雨音が、まどろみに落ちてゆこうとする意識の邪魔をする。顔にかかる分には問題はないのだが、木の葉に打ち付ける音はそこかしこで響き合い、休まる暇がなかった。しかし、そんな騒音にも次第に慣れが生じ俺は冷たいまどろみに落ちていった。


 不意に騒がしい音が聞こえ、眼を開けると、未だ真っ暗な夜が森を包んでいた。騒音は雨音かと思ったが、森の中は不思議と静寂に包まれていた。体を起こすとずるりと冷たいものが頭から胸元へ落ちてきて、これは雪だろうと推測した。雨とは違い、雪が降ると途端に辺りは静かになる。しかし、夜のうちにその変化に気づいたのは初めてだった。雪はしんしんと天から森に注がれつつあり、大樹の葉からさらりと雪が落下する音がいくつも聞こえる。これはなるほど耳に騒がしい。そうして納得して眠りに入ろうと眼を閉じたとき、また別の騒音が、私の耳を脅かした。


 それは森に駆け入ってくる足音であった。男か、女か、歳などは分からなかったがどうやら急いでいるらしい。入り組んだ枝葉を掻き分けるまでもなく突進してへし折りながら、俺の前方を過ぎ去ろうとしている。町から抜け出してきたのだろうか。そう思ったときにその足音の持ち主は野太い声を発した。若者よりも幾分か歳の経った男の声。人間だった。男は助けを求めながら闇に閉ざされた森の中を彷徨い、ときおりその体が木の幹に当たるのか、振動が木々を伝わってこちらにも流れてくる。次いで雪の落ちる音が聞こえると、町の方から、何者かが森に忍び込んできた。その侵入は物音によって判明したのではない。実に、先ほどの男のように足音がしたわけでもなければ、森に立ち込める空気が揺らいだわけでもない。ただ、その存在は良くないものだという悪寒が俺の背中に走った。
 その存在に気づいたのは逃げ惑う男も同じようで、ひときわ大きな叫び声を上げると、森の奥へと一目散に分け入ってゆこうとし、木々がその動きを音として暗闇に響かせる。悪寒を覚えさせる気配は一つや二つではなかった。気配が俺のそばを通り過ぎるたびに俺の魂は恐ろしさに震えたので、その数を推し量ることができた。それらの数は八つだった。そのうちの一つは私の目の前を通り過ぎてゆくが、暗闇でも、その姿は私の眼に焼きついた。それは影のようにあやふやな幻のようであった。人の体のように見えたが顔はなく、闇とみまごうほどに暗い色をしたローブに全身を包んでいる。吹き出す汗が、はやる鼓動が、その魂がこの世のものでないことを告げている。それら八つの魂は悪霊と呼ぶに足るほど穢れ切ったものだった。俺は見るに堪えず眼を逸らしたが、悪霊はそのまま左に通り過ぎてゆく。あの男が逃げた先に向かったのだろう。
 あのような魂は、自然には決して現れることはない。森の向こうのあの町で誰かが霊を呼び寄せたのだ。俺は矢も盾もたまらず夜の暗闇の中へ歩を進める。降り積もる雪はまだ浅く、夜の森を駆けるのに支障にはならなかった。



 町は混乱そのものであった。表で逃げ惑う人々は何が起きているのかも分からず、ただ恐慌に突き動かされるようにして各々の恐れに任せて走る。悪霊に憑かれた者はその場で魂を喰われ倒れてゆく。常人では背中に悪寒を感じたそのときでしか悪霊の所在を知ることができない。暗闇の中で道理もわからず倒れてゆく人々を見て、町の秩序は完全に崩壊していた。凍える夜の空気の中で寒さと恐れにわななき、心が壊れかけた者は男と女の区別もない。自棄になり他人の家に押し入り、暴動を起こす者たちもいた。西の方で鍛治場らしき場所から火の手が上がれば、東の方では叫び声がこだまする。俺は逃げ延びた人が集まるならば鍛治場だと思い、逃げ惑う人々に鍛冶場へ行くように声をかけた。暗闇の中であれば俺の怪物じみた風体も見えなかったからである。しかし、呼びかけに振り向いた者のうち、理性を保っていたのはほんのわずかであった。俺は悪霊に対して何の手段も持ち合わせてはいなかった。狂気に惑う人々の上にも雪は白く平等に降り注ぎ、俺の肩にも雪は積もる。


 この町には数十数百の悪霊が集い、各々その飽くなき生への渇望を満たそうと、生きている者ならば男も女も子供も老人も、動物さえもその標的にした。俺は鍛治場に赴いた。西の鍛治場は炎に包まれ、そこから焼け出された人々や逃げ場所を求めた人々が周辺から集い、炎で暖をとっていた。彼らはこれから日の出を待たずにこの町を抜け出す準備をしていた。鍛治場に駆けてくる者が途絶えており、彼らの生き延びる術が脱出しか残されていなかったからである。悪霊は一度生み出されたが最後、人間の手では決して払うことはできない。悪霊を鎮めることができるのはそれを生み出したものただ一人であり、その災いはその者の命を悪霊が探し出し喰わなければ収束しない。俺はその元凶を探し出すために、町中を駆け回ったが、そのようなことをしているうちにも一人また一人と冷たい雪に埋もれてゆく。鍛治場に集った者たちがこの町を捨てて去ってゆき、空が白みはじめた頃になって、ようやく悪霊はその姿を消した。


 俺は辺りを見回したが、深く積もった雪と静寂だけが朝焼けの中に残っていた。

3
 俺はただこの場所に立ち寄っただけに過ぎない。あの現状に対し、何か出来ただろうかと後悔を感じることなど驕り以外の何物でもない。私は無力だったのだ。あの悪霊を払う力も持たず、逃げ惑う民を導く言葉もないに等しい。ただ、何とかしなければ、といういたずらな使命感に駆られて、混乱の嵐に飛び込んでみただけで、結局は何一つ成してはいない。傍観していたのと全く変わりない。いや、もしかすると俺はこの滅んでいった人々を眺めながら、悪霊の効かぬ我が身を誇ってはいなかったか。人々の叫びと狂気とを目の前で感じ取りながら、自分だけは安寧の中にまどろんでいたのか。これは悪い夢だと、そうしていつしか忘れ去ってしまうのか。それは、あまりにも酷く、愚かで罪深いことではないのか。あの惨劇の中、何の傷も負わず生き延びたことは、死んでいった人々に呪われるべき悪行ではないのか。


 雪は、日が昇った後も音もなく降り続く。その例えようもない白さは夜のうちに起こったこの町の滅びを静かに、ゆっくりと覆い隠してゆく。道端に倒れた男を見やり、その顔にかかった雪を払う。俺は町の人々の顔をつぶさに見てきたが、その中でも知らない顔であった。その顔は恐怖に歪んでもいない。ただ何も分からずに外に出てきたような当惑の表情でもない。仮面のような笑みが浮かべられている。担ぎ上げようとするが、人間の死んだ肉体は重く、成人した男であるから両手に一人を抱えるのがやっとであった。数歩歩くたびに、人型の白い彫像がいくつも眼に映る。ある者は戸口の前で仰向けに倒れ、ある者はレンガの壁にもたれるようにして事切れている。空を凝視して口を開けている者。塞ぎ込みうずくまったまま動かなくなったもの。大人も子供も、男と女も区別なく誰もが孤独で、等しく無力だった。


 俺も、この白い彫像の一つであったなら、どれだけ良かっただろう。同じ絶望を感じ、怯えながら命の終わりを待つのであれば、等しく訪れた滅びが忘れ去られるときに、同時にそして永遠に消え去ることができるのだ。誰にも語られることなく、誰も何も感じることもないままに、一つのよくある悲劇として雪のように溶けてゆけただろう。
 鍛治場の炎はいまだ音を立てて燃え盛っていた。家屋の破片の木切れを拾い、火の中に差し入れて松明を作る。男の死体に松明の火を当てると、それは衣服に燃え移り、ゆっくりとその体を焼き始める。俺は人間の体が焼けて欠けてゆく様など見たくはなかった。しかし、このような非道なことをしなければ、俺は死んでいったものたちの怨敵にもなれない。
 俺はこの町に溢れた死体を、片端から焼いてゆくことに決めた。その肉が腐乱する前に、その表情が分からなくなる前に、彼らが人間でなくなる前に、彼らを人間らしく殺してしまいたかったのだ。その中には悲しみはなく、許しを願う懇願もなく、ただこんなことをしても結局は一人なのだという虚しさがあった。


 今や俺そのものが空虚だった。高慢な目的もなければ渇望もなく、意地汚く獣に堕ちようと思える衝動もない。この死体たちを全て燃やしたら私も鍛治場の炎に焼かれようかとも思ったが、人間のように熱を持って生きることができない者の体が、どうして燃え盛ることが出来よう。炎は俺を包むことさえ拒絶するのではないか。
 私はせめて、誰かを救うことで、人間の皮を被りたいのだろう。人間のように、誰かを思い行動することを模倣することで、そのあり方に近づこうとしたのだ。人間に興味があるわけではない。ただ自らの空虚をかりそめの鎧で覆うことで、その真実から逃避したいだけなのだ。
 町に夥しく存在する死体を全て焼くという目的には、鍛治場がこの町の西端に位置していることが大きな障害となった。火を木切れに移すまでは良いが、死体にその炎を焚べに行く間に、音もなく降りしきる雪が火の勢いを削いでゆく。はじめは赤々と燃え盛ってはいても、冷たい世界にさらされて次第に弱弱しくなる火の勢いにどこかやるせない儚さを覚える。人間の命が松明に点けられた炎だとして、それがいつまでも燃え盛っている保証はなく、いつ消え去ってもおかしくはない。人間はこの儚い運命から目を背けるために、自らの手で文明を組み上げ、一方でこれを賛美し謳歌するが、一方でこれを破壊する。人間の含まれるたった一つの世界で、破壊と再生の一人遊びを繰り返す。そして、人間はたしかに世界の創造主になったかのような錯覚を手にした。しかしすべては夢と幻に過ぎない。砂の城を組み立てたところで、波風にさらされてしまえば各人に残るのは限られた時間だけだ。ただ流れてゆく時間に何の意味があろう。


 火事場で木切れに宿らせた炎は、通りに倒れた人々を燃やしながら、徐々にその終わりの時期を早めてゆく。それは炎がいくばくかの部分を死体に分け与えているようにも思えたが、いたずらに消耗しているだけのようにも見て取れた。炎は木切れをうっすらと包んでいるのみになり、強い風が吹かなくとも、降る雪の冷たさでたちまち消えてしまうだろう。始めから、この行為に意味などなかった。この町の死者は俺のことなど覚えてさえいないのだから、どれだけのことをしても無駄に終わるだけなのだ。


 鍛治場は遠く、気がつけば町の東側に着いていた。確かここでは町の狂乱に乗じた町人同士の略奪が行われていた地域だった。叫び声が夜の静寂を裂いて響いていた。悪霊に殺された者はほとんどおらず、辺りに降り積もった雪は白いはずであるのに、所々赤黒く汚れている。悪霊たちがよりついた痕跡は、探してみたが見つからなかった。悪霊といえども、赤黒く汚れた人間の魂など奪う気にはならなかったらしい。すでに地面は深い雪に埋もれており、人の形というものも見つからないからうかつに前に進むことができない。不用意に足を踏み出して埋もれた死骸を踏みつけることは、さすがに過ぎた悪行に思えたからだ。俺は街路の中央を歩き始める。街路の端よりは、踏みつける危険性は低いと考えたからだ。手に持った炎の勢いはさらに弱くなり、もはやそのゆらめきは木切れの中に赤くちらちらと見えるのみになった。この炎が消えても鍛治場に戻ろうとは思わなかった。俺もこの町で起こったことをいつか夢のように忘れ去ってしまうのならば、この町の全ての死体がいずれ朽ちて地に還ってしまうことを考えれば、これらが腐臭を放とうが醜悪な姿に堕ちようがもはやどうでも良く思えたのだ。そして何よりも、このような木切れを燃やし続けてゆくことに何一つ意味を見出せなくなったのだ。あの鍛治場の炎もいつまで燃え続けているのかも分からない。戻ったところで、俺の体をこの空虚ごと焼いてくれるのかも分からない。せめて雪のように、時が来て消え去って行けるのならば、私の命に赤い炎は灯るのだろうか。


 そのようなことを考えているうちに、とうとう、木切れの中の炎も見えなくなった。俺は自分の手から、木切れを放す。先端が黒く焦げた木切れは前に倒れ、地面の雪に落ちる。すると、かぼそく消え入るような音がした。

 

「まだ、火が残っていたのか」



 俺は驚いて声を発する。凍える大気は私の口から入り全身を巡り、吐き出された息は白く煙のようだ。衝動に押されて、俺は身を屈めて雪の上に落ちた木切れに手を伸ばす。手にとった木切れには、もはや熱は感じられない。当然だ。この中に宿っていた炎は私が消してしまったのだ。


 木切れを持って身を起こそうとしたそのとき、不意にかすかな血の匂いがした。雪の下に覆われた死体から発される匂いではない。目を凝らしてみると、前方の遠くに小さな赤い斑点が途切れながら直線のように伸びている。それに不思議だと思い近づくにつれ、足跡だとわかってきた。小さい子供の足跡が雪の上で、赤く残っており、そこから血の匂いがしたのだ。私ははじめ、ゆっくりと歩いていたが、次第に早足になり、とうとう足跡だと分かったときには駆け出していた。その足跡はまだ新しくつい先ほどまで増やされつつあったように思えた。俺の胸を突き動かしたのは単なる使命感だけではなかった。今さっき自分自身の生きる可能性を見放したときに、自らが生きているという純然たる事実に気付かされたのだ。あの炎が消える音を聞いたそのときに、俺はようやく、このままでは消えたくはないと、心のどこかで思ったのだ。


 この子供がどんな経緯でこの通りにいたのかは分からない。しかし、目の前で息絶えようとする一つの命に、俺は小さな賭けをした。
 もし、俺がこの小さな命を救えたのならば、私にもこれからを生きる価値はあるはずだと。




3

 ヤヌアは彼が知っている全てを話さなかった。ただ、雪の降る寒い日に倒れたところを拾ってもらったのだと、それが全てであるかのように言っていた。ただ、その雪の描写だけは克明に語ったために、トリシャは雪に思いを馳せ、涼むことが出来たようだった。ヤヌアは記憶をなくしている。ヤヌアという名前も借り物でしかない。けれども、彼はそのあり方に疑問を微塵も抱いてはいない。ただ彼がヤヌアとして築いたつながりで、彼の世界は廻っている。俺はそうではない。俺の中に巣食う空虚が絶えずその欠落を指差してくるために、俺は欠けた記憶に悩まされる。


 ヤヌアには、あの夜のことは話してはいない。あの悪霊との狂乱を告げたところで、彼は混乱するだけであろう。また、俺自身としても語りたくはないのだ。彼がヤヌアとして築きつつあるのは人と人とのつながりだけではない。そのつながりの中に内包されるのは、ヤヌアという人格をこの世界に留めるための楔であり、それは彼が彼として存在するためには欠かせない魂の一成分なのだ。


 俺にはかつて名前がなかった。忘れたのか、それとも始めからなかったのか分からない。その頃は名前など必要ではなかったからだ。俺が初めてヤヌアに小僧と言ったとき、ヤヌアはそのままその言葉を飲み込んだが、澄んだ眼で俺の名前を問うてきたのだ。


 俺は、名前はないと言った。


 すると、名前を持たなかった頃のヤヌアはそれでは納得せずに、終いには彼が俺の名前を決めることになった。


 月のない、星空が綺麗な夜に、ヤヌアは俺の名を決めた。


 私は、その名を受け入れた。そして、彼が俺の前からいなくなるその日まで、俺は彼のために生きようと決めた。


 そして、その日から俺の名前はハインリヒになった。




 ヤヌアが話を終えていた頃には、あの涼しい風は消え失せて、また暑い空気が部屋の中を満たし始める。


 しかし、名付けられたものたちの思い出の中には、あの白い雪はまだ克明に残っている。









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