第7話 There you are
勇雄くんと、冬のキャンプ場に向かった。
冬にキャンプ?!と勇雄くんは目を丸くしたけれど、私が場所と希望の日付を伝えるとあっさり頷いた。意味を感じたのかもしれない。
山奥のキャンプ場は氷を肌に当てられるような寒さで、防寒着を何重にも着込む必要があった。
当然、そんな不自由環境にわざわざお金を支払ってまで来る好事家もおらず、と思いきや、一組だけ子供連れが小屋を出入りしていた。
昼の間に軽登山を行い、午後三時頃に小屋に戻った。午後四時には早くもキャンプ場内が暗くなり始め、何もかも見えなくなる前に私たちは急いで火を起こした。
燃焼で温まった空気に当たると、血流が良くなったのか気分が解れた。炎を見るというセラピー効果もあるかもしれない。どこか恍惚の境地だった。
私は梨花ちゃんとの実体験による思い出と、読み込んだ日記と遺書とをややセンチメンタルに反芻していた。
「なんか、ぼーっとしてる?」
勇雄くんが心配そうに下から覗き込んでくる。
「あ、火が熱いのか。煤とか凄いから、近づき過ぎないほうがいいよ」
勇雄くんは私の返事を聞かずに喋る。マイペースだ。
しばらく二人で火を見つめながらよしなし事をお喋りした。
私は腕時計を見た。夜と同じ暗さなのにまだ午後五時半前だった。
「だいぶ早いけど、お肉焼こっか」
私はまだ彼女を火葬する覚悟ができていなかった。食べてからでもいっか、と気持ちが楽なほうへ流され始めていた。
勇雄くんは梅干しでも食べたように顔の中央に皺を寄せ、
「やっぱ、酔っぱらう前のほうがいいと思うんだわ」
しばらくそのままの姿勢を保持していたけれど不意に電源が入ったようにすっくと立ち上がって小屋に戻った。
勇雄くんは右手を防寒着のポケットに突っ込んで帰ってきた。未だ梅干しの顔つきからして、重要な話に違いなかった。
私は待った。
子供連れが飲み食いを始め、笑い声が小さく聞こえてくる。
「俺たちも、もういい年だからさ、そろそろ子供も欲しいっていうか、その前に、身を固める時期なんじゃないかなと思ってさ」
展開が読めた。
「ごめん」
私は南瓜を断つ包丁のように決然と話を遮った。
「なんとなく、勇雄くんが言おうとしてることは分かる。けど、間が悪いっていうか、今はだめっていうか」
「だめって、だめってこと?」
途端に勇雄くんは不安を顔に表す。まだ親に面倒を見てもらっている子供のような顔。
「そうじゃなくて、それはOKなんだけど」
それを断る意図はないと暗に告げると、なんだか途端に気恥ずかしくなった。
「OKなのね?」
目を輝かす勇雄くんは火の熱に追いやられて前のめりの上半身を引いた。
「OKだけど、そうじゃなくて」
息を整えてから、告げた。
「今日は私、火葬するためにここに来たの」
勇雄くんは分かりやすく分からんを顔に表す。
「とても大事な人が私に残した、ラブレター、のようなものを、燃やすためにキャンプ場に来たの。ライターや燃えるゴミで処理するんじゃなくて、星が綺麗なこの場所で、私の手で燃やしてあげたくて」
「好きってこと?」
勇雄くんが即座に訊いてきた。私は少し、考えた。私の、梨花ちゃんへの好きの形。
「友達として、恩人として、幼なじみとして、とても好き。とっても好きだった」
「好きなんじゃん」
勇雄くんが露骨に拗ねた。
「けど、私たちの好きはずれてしまって。私は仲の良い幼なじみで良かったんだけど」
彼女は、と口にしようとして、迷い、結局ぼかした。
「相手は、それ以上を求めて。私はそれに応えられなくて。そのまま別れて。悲恋、かな」
「それこの間の同窓会で絶対なんかあったやつじゃん! こんなロマンティックな舞台用意しないで燃えるゴミで焼却してよ!」
あからさまに対抗意識を燃やす勇雄くんは、ちょっと可愛かった。
「同窓会でいろいろあった結果、ラブレター、のようなものを、燃やして捨てるっていう話になったの」
勇雄くんは短く「なら燃やそ」と、言質を取った勇ましさで言った。
「うん」
私の覚悟もようやく決まった。
私は小屋に戻り、リュックサックから梨花ちゃんの日記帳を取り出した。さよならの文字をもう一度見返して、閉じた。火のそばに座ると、勇雄くんが目で「燃やして」と言った。私は有毒ガスの発生しそうなつるつるとした焦げ茶のカバーを取り外した。
露わになった日記帳の表紙を見て、手が止まった。
ずっと、見てるから。
整った字。
走馬灯とはこのようなものなのか、場面と共に梨花ちゃんの言葉が次々耳に蘇った。
「いいよもう。なら私がずっと乃々ちゃんのこと、見てるから」
いじめっ子に襲われたあの日、怒って口にした言葉。
「私、ずっと乃々ちゃんのこと、見てるからね」
その日、怖い顔で返した言葉。
「でも、私は乃々ちゃんのこと、ずっと見てなきゃだし」
中学に入り、私と同じ吹奏楽部を選んだ際に述べた言葉。
「ずっとは見ていられなくなっちゃうから、少し心配だなあ」
同じ高校に進学できないと諦めた時、寂しそうに頬を掻きながらの言葉。
「もう、ずっとは見ていられなくなっちゃうから、だから」
卒業式の校舎裏、思いをぶつけられて強張る私に哀切に迫った時の言葉。
ずっと見ていることができなかった。乃々ちゃんはどこかへ行ってしまった。
十九の遺書に吐露した言葉。
怒りで始まり、次第に友情へと移り変わり、そこに色情が加わった梨花ちゃんの私への想い。度々口にしていた「ずっと乃々ちゃんのこと、見てる」という言葉の、意味の変遷。
表紙の字は、どの段階で書かれたものなのだろう。
怒りの頃にしては字が整いすぎているし、色情の季節の入口はもっと字が雑だった。なら、落胆の中学なのか。もしかすると絶望の十九かもしれない。表紙にしたくて、想いを丁寧に刻みたくて、まだ字の下手な頃に綺麗に大事に清書した可能性だってある。
いつ書いたかは知れない。けれど。
ずっと、見てるから。
「ラブレター、手元に残しておきたいって言ったら、怒るよね」
「え?」
何を言い出すのかという勇雄くんの眉の寄り。
「それでも、私はこの日記帳を、燃やさない。この想いを無かったことにしたくないから。燃やして無くしてしまったら、昔の過ちの繰り返しになるから。だから大事に取っておくね」
「何? どういうこと? 分かるように説明してくれる?」
戸惑いと業腹の勇雄くんに、説く。
「私は、このラブレターの書き手の、彼女の想いを、勘付いていながらずっと見えないふりをしてしまったの。彼女の想いを、無かったことにしてしまった。同じ女の子に恋情を寄せられて、急に性を押し付けられるのが、怖かったし分からなかったの。私は彼女の期待に応えられなかった。だから、応えられないって、ちゃんと伝えてあげなきゃいけなかった。本当に彼女のためを思うなら。なのに、卒業式の日、一対一になった場面でも、彼女が家を訪ねて来た最後のチャンスでも、私は向き合えずに逃げてしまった。本当に申し訳なくて、それがずっと心に引っかかっていて、ようやく、あの頃の私の気持ちをちゃんと伝えられる機会が来たと思った、けど彼女はもう亡くなってて、伝えられなくて!」
淡々と事実を説明するはずが、昂ってしまい自分でも何を言っているのか分からなくなってしまった。とんと一押しすれば泣き崩れる際だった。
勇雄くんは炎を回り込んで、肩を抱いてくれた。ラグビーで鍛えた、がっしりとした抱擁。言葉でない温かかさ。
私は梨花ちゃんのことを、その人生と私との関係を順を追って勇雄くんに語って聞かせた。勇雄くんは私の横に座り、適度に相槌を打って傾聴してくれた。概略を話すつもりが話は膨張して長く、話し終える頃には子供連れの子供たちが食後の花火を始めていた。
「落ち着いた?」
「うん」
背中をさする勇雄くんに私は頷いた。感情を吐き出した分、冷静さが戻った。腕時計を確認すると、午後七時を過ぎていた。文字盤で空腹を認識した。
「ぱーっと、食べよっか。物事に整理がついたならさ、打ち上げが必要なんだよやっぱ。入学式とか卒業式みたいに」
今日はお祝いだ、と勇雄くんは歯を見せて笑う。「ねえ」と私は呼び掛けた。
「ん?」
「ポケットに隠してたのってアレだよね? 指輪」
急に『その話』に戻って不意を打たれたのか、勇雄くんは慌てて「う、うん、うん」と何度も首を縦に振った。
「それを今ここで私の指にはめて欲しいの。プロポーズも、お願い」
「ええ?!」
今でいいの?と下がった眉で勇雄くんは問う。
「今がいいの」
私は答えた。
何度か目を瞬いて、勇雄くんは覚悟を決めた。ポケットに隠したケースから指輪を引き抜き、すっと私の指に通す。いつ計ったのか、サイズはぴったりだった。
「誰にも恥じる必要のないよう、きっと幸せにしてみせます。結婚していただけますか」
していただけますかなのが勇雄くんだなと思った。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
私は微笑んだ。それから。
「ねえ、梨花ちゃん。今も見てるんでしょう?」
梢の間、吸い込まれるような星空を見上げる。
「私、この人と結婚する。同じ会社の、二つ下の武内勇雄くん。ごつい体形の割に、子供っぽいの。有希ちゃんには紹介したけど、梨花ちゃんにはまだだったから。……梨花ちゃんには辛い光景かもしれない、けど、ちゃんと見て欲しいの、私が選んだ人を。幼すぎるとか、茶々を入れてもいいけど、私の人生が行き着いた先を、見て欲しい。無かったことにしないで欲しい。そして、できれば祝福して欲しい。私も、梨花ちゃんの気持ちを無かったことにしない。燃やしてこの世から消したりしない。あの時は見えないふりをして、ごめん。……私は梨花ちゃんの想いをちゃんと受け止めて、ちゃんと見て、そして人生を生きていく。これが、私が伝えなければならない、あなたへの誠実さ。受け取って、ね?」
左手を宙にかざした。
梨花ちゃんの声は聞こえない。流れ星は流れないし、星は点滅しない。
夜の真冬のキャンプ場は死んでいる。
けれど。
薬指の指輪がほんの一瞬、ほんの少しだけ、光を宿したように見えた。
ずっと、見てるから。
そこに、あなたはいる。
There you are 大和なでしこ @KakuKaraYonde
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