第6話 She
翌週、事前に連絡を取って梨花ちゃんの家を訪ねた。当たり前だけれどおじさんもおばさんも年を取っていた。清潔にしている分目立つシミや白髪が時の経過を際立たせていた。
客間に通されて近況を訊かれた後、おばさんが止まってしまった時間について話し始めた。梨花ちゃんがいなくなってからの、時の不在。今、二十八よね?と訊かれた。頷くと、おばさんは微笑み、うちの子も化粧したのかしらね、と、私を通してその像を見るように目を細めた。
「それで、受け取って欲しい物があるんだけど」
おじさんが卓の隅に置いていた、焦げ茶のカバーがついた四角に手を付けた。
「これは梨花の……日記なんだ。梨花の、十九年の記録。これを、受け取ってもらえないかな。その……ここには梨花の全てが詰まっている、というか……」
「……そんな大事な物を私が貰っていいんでしょうか」
私は正直に尋ねた。おじさんは一度目を瞑った。顔の中央に皺を寄せ、それから眉に険しさを残しつつも目を開いた。
「梨花の思い出として手元に置いておきたい気持ちは、当然私たちにもある。けど、梨花がこの日記……いや、ノート……ノートに書いたことは、乃々ちゃんに読まれないと意味を為さないんだ」
分かりづらい言い方だった。ノートと言い換えたからには、日記以外のことが書かれている、ということ。もしかすると、私へのメッセージ。
「見せていただけないでしょうか」
嫌な予感がしていた。なぜ、梨花ちゃんの葬式の情報が回って来なかったのか。なぜ、有希ちゃんがその説明を梨花ちゃんの両親に預けたのか。なぜ、梨花ちゃんの両親が死因への言及を巧みに避けているのか。
おじさんに手渡された日記を開いた。拙い文字の拙い日記が続いていた。絵が描いてあるだけの日もあった。幼稚園の頃見た、字や絵にそっくり。
生まれたての小鹿のような書はページを繰るほどに整い、枠線をはみ出ていた文章に秩序が宿っていく。梨花ちゃんの成長そのものだった。
おじさんが緊張した面持ちで私を窺っている。そのまま読み進めて欲しい、という顔。本題はまだ、という含意。
やがて日付が書き加わり、途中で日付では一周すると気づいて年数が付記されるようになった。計算すると小学六年生からだ。既に梨花ちゃんの書いていた文字が確立されている。
日記は乱杭歯のように長短様々で時に二月を飛び越えて続き、そして中学校卒業を迎える。私はその日の記述を読んだ。ただ卒業した事実が淡々と記されていた。ほっとする自分がいた。
高校生活も特別の熱意なく描写され、やがて大学生活に入った。恋人ができた。別れた。という文が何度も出て、文量も増えた。二行を跨ぐことで強調された記述が出てくるなど、情緒が激しく揺らいでいるのが読み取れた。
そして。
ついに日記という体裁を無視して、「遺書」と記された文が始まった。
私は顔を上げた。
おじさんは指と指を組み合わせては解いている。
「その……最後は、その……遺書で、終わるんだ」
おじさんは髪を素早く掻き上げた。おばさんはどこか一点を見ている。
「梨花は……梨花は……その……自殺したんだ……高い所から飛び降りて……」
遺書。人生の終わりが見えている人が書くもの。流し読みだけれど日記には命に係わる病気の記述はなかった。
「理由は、ちゃんと書いてある。から、読んで欲しい。もしかしたら乃々ちゃんに無用の重荷を背負わせることになってしまうかもしれない、でも! あの子の想いを、どうか、受け取っていただけませんか?」
渡しといて言い訳するなんて狡いけど、だけど、とおじさんは後頭部を暴力的に掻いた。
「他の人は、当然読んでないですよね?」
「ああ。いろいろ問題だから、乃々ちゃんに読んでもらうのも正直躊躇いがある。それが正しい判断なのか分からない。けど、私の我儘だろうと、私は梨花の想いを、せめて乃々ちゃんに知っててもらいたいんだ」
脂汗が滲むほどのおじさんの苦悶。
いろいろ問題。
私に知って欲しい梨花ちゃんの想い。
ということは、ご両親も知っている、あるいは知ってしまった、ということ。
不意に、私に突き飛ばされて尻もちをついた梨花ちゃんの、訴えるような眼差しを思い出した。
「読みますね」
私はノートに顔を戻した。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。
ただただ耐えられなくなりました。
先立つ不孝をお許しください。
なぜ、への答えを書いておきます。
私は乃々ちゃんが好き。女の子が好きな自分に戸惑ったけれど、それは覆し難い事実です。それは受け入れられたのだけれど、彼女と一緒にいられないことに絶望して、死ぬことにしました。
始まりは、怒りでした。
乃々ちゃんは気弱で、いつもいじめられていました。幼稚園で悪い子に捕まって、毎日何かしら意地悪を受けていました。私には、ずっとやられっぱなしの乃々ちゃんが理解できませんでした。やり返させばいいのに、どうせ大した奴らじゃないのに、と口を尖らせる思いでした。
ある日の昼休み。乃々ちゃんが校舎裏に向かい、それを見かけた悪い奴らが顔を見合わせているのを見ました。たぶんまたいじめられるんだろうなと思い、そのままにしました。
けれど、なんだかムカムカして。結局私は校舎裏に助けに向かってしまいました。
いざいじめの現場に立ち会った瞬間、自分に湧き上がったのは、いじめっ子たちよりも乃々ちゃんに対する怒りでした。ここまでされてなんで立ち上がらないのか。戦いなよ。そう思いました。
私は乃々ちゃんに、いつもやられてばっかりだけど、それでいいのと訊きました。今思えば酷な質問でした。でもその時は乃々ちゃんの性格をよく知らなかったから。
彼女は目を逸らしました。
もういいよ、とその時の私は思いました。「私、ずっと乃々ちゃんのこと、見てるから」と宣言しました。怒りと、呆れも混じっていました。
その頃は血の気も多く、倫理を真っ向から信じてもいたので、いじめっ子たちの好きなようにさせるわけにはいかないという思いが強かったんだと思います。本当にこの時は乃々ちゃんに対する好意はまるでありませんでした。ただ義務として守ると決めました。
その義務感が、次第に好意に置き変わり、私たちは親友になりました。乃々ちゃんもそう思ってくれていたと思います。友達として好きで、彼女の生活がより良いものとなるよう、見守りました。いじめっ子の匂いがする子を徹底して追い返しました。
好意の意味が変質していることに初めて気づいたのが、小学三年生の時、運動会の応援合戦の練習で衣装を着せた時でした。
お父さんお母さんも見たと思いますが、応援合戦の衣装で胴にスズランテープを巻きます。それを乃々ちゃんに巻く時、巻く位置に当たる胴とその下の骨盤のでっぱりを見た時私は、胸がざわざわとするような、変な感じを感じました。今ならそれを欲情と説明できますがその時は分かりませんでした。
その正体不明のざわめきに吸い寄せられるようにして、私は乃々ちゃんの腰骨と下腹部に触れました。支配欲、性的欲求をぶつけていたのだと今なら分かりますが、その時は肉の柔らかさと乃々ちゃんの戸惑いにふわっとした満足を得た、という感覚でした。
有希になんかヤラシイと言われて初めて私は、自分がそういう行為に及んでいるのだと知りました。このざわめきを表立ってぶつければ乃々ちゃんが私を拒絶するかもしれない。そう思うと、全く何も感じていないふりをして誤魔化すしかありませんでした。
私は色情としての好意に悩みそれをひた隠しながらも、完全には抑えられませんでした。乃々ちゃんに機会があれば触れました。さすがに胸や腰に触れるほど大胆ではありません、そんなことはできません、バレるから。けれど、肩や手にさり気なく触れました。乃々ちゃんがどう思っていたのか、彼女の側に立つと胸が苦しくなります。申し訳なかったと思います。でもそれ以上に、嫌だと思われていたことが私には辛いのです。
既に性に目覚めていた私は、学校の性教育を受けて自分がそこに該当しないことに狼狽えながら、でもこの好意は本物だと確信していました。家で、女の子同士、キス、でネット検索してレズビアンという言葉にたどり着いた時、私は故郷というか、居場所を見つけた思いがしました。自分が存在していいのだと安堵しました。同時に、私たちをレズと呼んで異物と見做す人がいることも知りました。
乃々ちゃんにレズと言われないように。それだけは気を付けたいと思いました。隠す努力はしてきました。けれど。
ごくつまらない理由で同級生と喧嘩した時。中学三年生の頃の話です。
乃々ちゃんのいる前で黒板に「レズ」と書かれてしまいました。
私の背筋はさっと冷えて、すぐにかっと熱が込み上げました。怒りです。
私はその子に馬乗りになり、平手打ちしました。何度か平手打ちした記憶があります。
その子がレズと叫んで、私の怒りに更なる熱量が注がれました。
何発でも叩いてやろうと息巻いていたら、背中越しに乃々ちゃんの声がしました。
「梨花ちゃんはレズじゃない! 失礼なこと言うな!」
あの時は興奮していて細かい記憶の整合性は怪しいけれど、乃々ちゃんのその台詞だけははっきりと記憶に残っています。乃々ちゃんはレズを否定しました。侮蔑語だから。同時に彼女は、レズという性的嗜好も否定しました。レズと呼ぶのは失礼、と言いながら、私がレズビアンである可能性を、大人が子供からおもちゃを取り上げるような強引さで取り払ってしまいました。
アイデンティティが否定された怒りを、そのアイデンティティを形作った人から真っ向否定された苦みを、私は事の発端となった子に叩きつけるべく拳を握りました。本気で振り下ろそうとしました。けれど、砂時計の砂のように私から原動力がどんどん流出して、殴る気力も失せてしまい、私は静かに教室を後にしました。世に謂うアイデンティティ・クライシスだったと思います。
梨花ちゃんはレズじゃない。失礼なこと言うな。
たった一度のその言葉が、頭の中で永遠に反響していました。今も聞こえます。
私が乃々ちゃんに向けている好意は、友情からさらにその先として抱いた色情は、絶対に受け入れられない望みなのだ。明示されて私は、バランスを崩しました。乃々ちゃんとの接し方が分からなくなりました。
ハッピーエンドは有り得ない。だからと言っていきなり関係を断つのも変だ。けれど、乃々ちゃんと何もなかったように交友するのは身を炎で炙る痛苦でした。私の異変に勘付いて一生懸命関係を繕おうとする乃々ちゃんを見るのは嬉しくて、そしてその十倍苦しいことでした。
ついに卒業式を迎えてしまいました。
進学先も分かれ、それだけで私と乃々ちゃんの生活が切り離される予感に満ちていました。ならば。たとえ勝算がないとしても。
思い切って告白しようと思いました。
有希に、乃々ちゃんと二人きりになるチャンスを設けてもらうようお願いすると、少し複雑そうな表情を見せたものの、了承してくれました。有希には小学生の頃から悩みを聞いてもらっていたので、お父さんお母さんからお礼を言ってあげて欲しいです。
告白した結果は、嫌と拒絶され突き飛ばされるという散々なものでした。
乃々ちゃんは走り去ってしまいました。泣いているように見えました。無理やりにキスしてしまったので、たぶんショックだったんだと思います。彼女を泣かせたいじめっ子たちと同じことを私もしてしまったのだと、私もショックでした。
とにかく説明を、釈明をしなければならないと思いました。有希と一緒に乃々ちゃんの家を訪ねました。しかし乃々ちゃんは会ってくれませんでした。粘ってもなしのつぶてでした。
それは明確な拒絶で、ずっと見てきた乃々ちゃんの人生は、宇宙に飛び出すスペースシャトルのように私を切り離して遠くへ行ってしまったのだと理解しました。私たちの関係は完全に壊れてしまった。切り離された部品でしかない私にできることは、有希に後を託すことぐらいでした。有希は絶対に見守るから、と両手で私の手を握ってくれました。
高校は、喪失感と共に過ごしました。部活に入って、友達もできて、文化祭後夜祭では男の先輩とフォークダンスを踊って。ごくごく普通の学生生活でした。心がふわふわと根無し草のように定まらないこと以外は。
それで禁欲の受験勉強を乗り切ったのだから凄いと、自分を褒めてあげたくなります。
漠然とした将来を描き、とりあえず興味のある学部に入って、理由薄弱のまま始まった大学生活で、私はすぐにおかしくなりました。心の空白を埋めるように他者を求めました。
初めて付き合った子は女性でした。お互い大きな齟齬もなく、やはり私は女性が好きなのだなと裏付けを得ました。結局彼女とは別れ、心機一転で男性と付き合ってみましたが、所作から何まで嫌悪しかありませんでした。男性嫌悪があって、その上で女性が好きなのだと思いました。
だから女性と付き合いました。とっかえひっかえ付き合いました。嫌な人もいたし、良い人もいました。同棲するに至った人もいました。けれど。
けれど、何かが決定的に欠けていたのです。それが何かは分かりません。私には言語化できません。同棲した彼女は完璧でした、けれどたった一つ、乃々ちゃんが持っている何かを持っていませんでした。お互い好き合ってセックスもしたのに、それでも越えられない絶望の溝を感じました。
別れる時、彼女に言われました。純愛でも気取りたいの? その子とは、一回腰に縋りついて、時にはぺたぺた触ったけど結局キス程度の話でしょう? 私の何が不足なわけ?
私はただ心に思いついたことを誠実に答えました。
たぶん、乃々ちゃんじゃなきゃ、だめなんだよ。
頬を張られるかと思いましたが、彼女はやはりそんな野蛮になれない子でした。彼女は泣いていて、私も泣いていました。どうしようもなさがひたすらに降り積もりました。
彼女と別れ、なぜ彼女ではだめだったのかという罪悪感に圧し潰され、私はどんどん精神的に不安定になり、それが初めてのことではないものの、死にたいと執拗に考えるようになりました。酒や薬や川の流れを見る度、死ぬ方法ばかり思い浮かべました。
そして、高い所を選択して、今この遺書を書いています。ただただ乃々ちゃんの声が聞きたくて彼女の家の電話に無言電話を掛けました。耳慣れたおばさんの声が聞こえました。乃々ちゃんとは、やはり声音が違いました。
ずっと見ていることができなかった。乃々ちゃんはどこかへ行ってしまった。私は乃々ちゃんを必要としているけど、乃々ちゃんと私の人生が再び重なることはない。あの日私が壊してしまった。けれど、他にどんな道があったというの?
なるべくしてこうなった、としか言いようがありません。我儘な娘でごめんなさい。
最後に。
この日記帳は燃やして捨ててください。
さよなら。
日付が記され、時折横線で訂正の入った彼女の最後の想いは、語られ尽くした。
私は、思いの外冷静だった。同窓会があった日、家で有希ちゃんと話したことで最悪への心の準備が無意識に整っていたのかもしれなかった。私は日記帳を閉じて机に置いた。
おじさんが不安そうに私を見つめる。
「娘の想いを受け入れて欲しいとか、そういうんじゃなくて……ただ、なんだろう、私たち両親としては、乃々ちゃんに娘の想いを知ってもらうことで、梨花の人生が無意味じゃなかったと思い込みたいんだと思う」
乃々ちゃんにとっては、重荷でしかないとしても。
おじさんは視線を脇に逃がした。
両手に持ち直した日記帳の質量は、私と梨花ちゃんとで等価だろうか。
それは分からなかった。
けれど。
「これを、私が貰っていいんですよね?」
「ああ」
「ありがとうございます」
私に分かったのは、梨花ちゃんの願い。この日記帳を燃やして捨てて欲しいという、生前の依頼。
謂わば、火葬。梨花ちゃんの悔いを私の手で終わらせるのだ。
梨花ちゃんの遺影に手を合わせ、場を辞そうとしてふと気づいた。
私は梨花ちゃんのお父さんとお母さんの名前を知らない。二人は「おじさん」と「おばさん」でしかない。私たちはそれくらい儚い関係で、梨花ちゃんという接点を失った今、この別れが永久の別れとなりかねない。
それでいいのかもしれない。皆の悲しみを穏便に終わらせるにはそれが正解とも言える。
玄関先の挨拶で、私は言葉に迷った。
「有希ちゃんは、弔いに上がったんですか?」
慎重に言葉を選んだつもりが、おじさんおばさん両者の眉が下がった。
「実は、何度か電話をいただいて。ただ……その時は私たちに勇気がなかった。死因が死因だったから。詳しく話せる相手は乃々ちゃんだけだって、お断りしてしまって、ね」
「私……失礼を言うつもりはなかったんです」
おじさんは手をかざし、小さく振った。いいんだいいんだ、と言うように。
いずれ二人で伺います。
接ごうとしていた文句を告げられないまま、私は中途半端なお辞儀をしてその場を去った。
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