星餐酒

安良巻祐介

 土曜の晩に、季節外れの霊火が枯れた林檎の樹に灯るのを眺めながら、庭で星餐酒せいさんしゅを舐めていたら、天地がゆらゆらと蕩けて、前後が不覚となった。

 よろけてスツールから落ちそうになるのを何とか踏み止まり、ぼんやりした頭で、梢の上に広がる、青く透き通った炎の色を見上げる。

 夜に染まりつつある晩秋の空を背景に、音もなく柔らかく燃ゆる霊の火は、林檎の枝の痩せたシルエットを、否応なしにくっきりと浮かび上がらせていた。

 そもそも、妻が亡くなってからずっと、たまに水をやるくらいで、ろくに手入れもしていなかった樹なのだ。

 妻がいた頃はまだ、言われるがまま枝を切ったり、雑草を抜いたり、薬を撒いたり、何やかやと手を入れていたものだが、それも妻の言葉に従っていただけのことだ。

 私自身は植物のことなどよくわからないし、妻を介さない庭そのものにはさして思い入れもなかったから、彼女がいなくなってしまうと、庭はただ季節の移り変わりと自然の時間の移ろいを日毎まざまざと見せつけるだけの、数字も針もない、寂びた大時計のようなものになった。

 私は結局、仕事と食事と睡眠の、乾いた毎日を繰り返しながら、週末には縁側へ出て、かつて妻と二人で買い求めたスツールに座って、その大時計を無為に眺めるだけだった。

 妻は写真を嫌っていたから、思い出を見返すための品は、二人で買ったものや作ったものに頼る他なく、物持ちの悪い私は、いつの間にかそれらの大半の場所がわからなくなってしまって、結局、自分では手も出せなくなった庭だけを、写真代わりに眺めていたらしい。

 そのようにして、いつのまにか、六年。

 家の向かいにあるひだる辻からの風に晒され、今や雑草すらも生えなくなった庭の中で、林檎の樹だけが、何かの心残りの象徴のように、真ん中に生え残っている。

「七回忌に何をしようか」と考えつつ、坊さんも呼べない以上、結局他に何も思い付かなかった私は、いつものようにスツールを持ち出して、縁側へと出た。

 その時、林檎の樹に、霊火が灯っているのを見つけたのだ。

 盆の頃ならばさして珍しくもない、死者の往来を示す此の世ならざる灯火は、妻の倒れた日から六年間、一度も私の前に現れなかった。

 妻はこちらへ来たくないのだろう、そう思っていた。

 それが、七年目の忌を済ませた、秋も暮れるこの時になって。

 青い、美しい火の色を認め、呆然とスツールのそばに立っていた私は、ややあって、衝動的に家の中へと駆け込み、一本の壜を、埃だらけの棚から持ち出してきた。

 妻と出掛けた、妻と出会った港町で、思い出にと買い求めた、舶来の星餐酒。

 二度と開けることはあるまいと思っていたその酒を、自分でも理屈がわからないまま、青い火が残っているうちにと、栓を抜いて、妻の好きだった切子の杯に注いで、ぢろりと舐めた。

 薄荷と硝子を溶かしたようなアルコオルが脳髄へと染み入るのを感じながら、私は、記憶の奥に埋もれていた、妻と交わした言葉を思い出した。

「またどこかで会えるとしたら」

「思い出が影になりきる頃に、きっと」

 影。

 影の病。

 それを病んでいると、彼女は言っていたのだ。

 出会いから四十年、老いることのなかった、美しい横顔。

 あの、常に黄昏の中にあるような港町の波止場で、海を眺めていた、その顔。

 眠るように心臓を止めた後、楽の音色に合わせて楽器までもが絶えるように、骸も残さず消え失せてしまった彼女。

 写真に写らず、菩提寺の墓にも入れなかった彼女の存在を示すものは、この家と、私の頭の中にしかない。

 彼女のために何かが出来るでもなく、ただ無為な時を過ごし続けていた。

 だから、そんな私の記憶が掠れ始める、ちょうどその頃に、彼女は約束通り、会いに来てくれたのかもしれない。

 彼女の植えた樹の上に、ささやかな火を掲げて。

 一度も実をつけることのなかった林檎の樹を眺め、「私の罪よ」と呟いていた妻の背を思い出しながら、私は、アルコオルと涙とで滲む視界に、いつまでも杯を重ね続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星餐酒 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ