夏休みが始まったというのに、遊ばずにバイトのシフトを連続で入れるのはいかがなものか……、などと自問しても、もう入ってしまっているから仕方ない。テスト終わりに深夜シフトに入り、二日空けてからの深夜シフト五連勤を僕は初日から後悔していた。しかも初日から店長と一緒というのが、僕のうんざりを加速させていた。

 バイトを終え、店長をかわし、僕は無意識に鴨川デルタへ向かっていた。出町橋から鴨川デルタに降りても、彼女はいなかった。早すぎたかな、と思い、一度ファミマへ向かって缶コーヒーを買って、いつもの石製のベンチに座って彼女を待った。

 鴨川デルタ野郎が帰っても彼女は現れなかった。日の出の時間を迎え、トンビやカラスやスズメが鳴き始めて、周囲が騒がしくなっても、彼女の声は僕の耳に入ってこなかった。

 午前七時前に諦めて鴨川デルタをあとにした。

 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も彼女はやってこなかった。

 五連勤最後の日、僕は店長を無視してさっさとタイムカードを切ってバイト先を出た。

 自転車で北山通を走り抜ける。

 鴨川デルタに辿り着き、いつもの石製のベンチに腰を下ろす。

 彼女は僕を待っていたのだから、今度は僕が待たなければならない。彼女を待たせるわけにはいかないのだ。

 しかし、僕の中にある一つの答えみたいなものはあった。なぜ彼女とここで出会わなくなったのか。三日に一回の頻度で鴨川デルタを訪れるという彼女に会わなくなったのはなぜか。

 彼女が鴨川デルタにやってくるのは、彼氏と喧嘩をして、彼氏の部屋を飛び出したときだ。彼氏というトリガーがなければ、彼女はここに来ることは本来ならないはずなのだ。

 彼女がここに来なくなった理由は、つまり二通り考えられる。彼女は――

「ちょいとお兄さん」

 ふと、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには彼女が立っていた。

「そこ、あたしの席なんだけど」

 自分の隣を見ると、無意識のうちに自分の荷物を置いていたようだった。「ごめん」と謝り、僕は荷物をどけた。

 彼女の手にはコンビニの袋ではなく、缶ビールが二本握られているだけだった。

 彼女は僕の隣に座り、缶ビールを一本渡してきた。渡したあと、自分の分を開け、「ん」と言って僕に向けて掲げてきた。僕は慌ててそれを開け、「乾杯」と言って彼女の缶に軽く当てた。

「待った?」

「別に」

「何日くらい待った?」

「今日久しぶりに来たよ」

「嘘つき」と彼女は言い、自分のビールを小さく一口飲んだ。

「決着つけてきた」

 彼女はごく自然に、まるで誰もがその結果を知っているかのように、そう言った。

「そう」

「まだ服とか――荷物を置いてるから、あと二、三回は行かなきゃなんないんだけどね」

「よかったね」

「あと何回か部屋に行くことがか?」

「決着つけたほうさ」

「ふうん」

 彼女は大きく息を吐いた。

 僕は彼女を見た。暗闇に慣れた目は彼女の横顔をはっきりと捉えた。

「でさ」

「うん?」

「親から一人暮らしする許可をもらったんだよ。そのあたりのぐだぐだで、ここに来るのが遅くなった。その、君に報告するためにここに来るのがさ」

「一人暮らしか。京田辺のほうで?」

「そう。だから――」

 彼女の言葉が途切れた。しかし、そのあとに続く言葉はおおよそ予想できた。

「まあ、四回生に向けて授業も忙しくなるし、ちょうどよかったのかな、って」

「そっか」

「だから、これは卒業の酒盛りさ。この鴨川デルタからの。いや、違う、卒業って言うとあれだな、休学だ、休学」

「休学?」

「そうだ。もしもよ、あたしにまた彼氏ができて、そいつがまたしょうもないやつだったら、またいらいらを抱えながらここに来るだろうよ。そのときが復学だ」

 僕のほうを見た彼女と目が合った。

「実を言うと、君が彼氏だったら、って思ったこともある」

「奇遇だね、実を言うと僕も君が彼女だったらって思ったことあるよ。普通っしょ。男と女がこうやって過ごしてたら」

「そうか、普通か」

「でも」

「でも?」

「僕と君とじゃ釣り合わないよ。僕は彼女にご飯を作ってほしい、君は彼氏にご飯を作ってほしい。全然ウィンウィンじゃない。それに、僕は君の理想とするくろいうさぎみたいにストレートに感情を表現できないだろうからね。その、何ていうか」

「照れ臭い?」

「たぶん、そういうこと」

 彼女はふんと鼻を鳴らした。その直後、「あーあ、振られた」と彼女は声を上げて笑った。

「まあ、そうだよな。君にはあたしなんかよりいいやつが絶対いる。第一、あたしに京大生の彼氏は分不相応すぎる」

 彼女は缶の中身をすべて飲み干した。僕もそれに合わせて缶を空にした。

 彼女は缶を握り潰し、すっと立ち上がる。

「また会えるといいな、この場所で」

「君にしょうもない彼氏ができて、僕がまたバイト終わりにその気持ちになったらね」

 彼女は出町橋のほうへ歩き始めた。まだまだ暗いので、彼女の姿はすぐにぼんやりとした輪郭しか見えなくなった。

 僕は彼女の背を黙って見送る。出町橋の中途で、彼女は僕へ向けて大きく手を振った。僕が手を振り返すと、彼女は満足そうに笑ったように見えた。もちろん、この暗さで見えるわけがない。でも、僕にはそう見えたのだ。

 彼女はその姿が消えるまで――影も形も見えなくなるまで、二度と僕のほうを振り返ることはなかった。

 彼女の姿が視界から消えてしばらくしてから、鴨川デルタの下流方向へ視線を戻すと、鴨川デルタ野郎の黒い影がかすかに見えた。

 明け方が近くなるまで、そこでずっとその影を眺めていた。少し明るくなってきたように感じたとき、ふと思い立ち、僕は鴨川デルタの階段を降り、飛び石へと向かった。

「すみません」と鴨川デルタ野郎に呼びかけた。彼は一瞬間を置いたあと、ゆっくりと僕のほうへ顔を向けた。僕は初めて彼の顔を拝んだ。鴨川デルタ野郎の正体は二十歳くらい――僕と同い年くらいの青年だった。

「あなたはそこで、いったい何をしているんですか?」

 僕のその問いかけに、鴨川デルタ野郎は「何も」と小さな声で答えた。

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鴨川デルタ野郎 Kamogawa Delta Actors 江戸川雷兎 @lightningrabbit

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