だいたい七月末から八月初めがうちの大学の試験期間だ。さすがに単位をわざと落とすことは気が引けるので、努力しているふりだけでもしようと、僕は試験期間の一週間、バイトの深夜シフトに入ることを遠慮した。そのため、鴨川デルタに行くことはなかった。深夜にふらっと部屋から向かってもよかったが、あいにくレポートと試験勉強に追われ、それどころではなかった。

 たまに鴨川デルタのことが頭を過ぎった。いや、鴨川デルタというより、彼女のことが。彼女は別れることはできたのだろうか、と。気にはなった。しかし、僕が試験期間ということは彼女もまた試験期間なのではないか、試験で彼氏や鴨川デルタどころではないのではないか、と勝手に解釈することで、僕は試験に集中した。

 実際に試験を受けて、語学試験は何とかなったような気がした。それ以外の専門科目はそのほとんどが通年科目なので、後期に試験結果が出る。今回の試験でどうこうと判断はできなかった。なので、前期の取得単位はおそらくデータ上は一桁になるだろう。

 レポートをすべて出し終えたその日、僕は久しぶりに深夜のシフトに入った。その日は深夜帯のくせに客が非常に多く、働いている最中にバイトが終わったあとのことなど考えていられなかった。ようやく閉店の深夜一時になり、閉店業務を終えるも、やはりいつものように店長に捕まった。結局帰路についたときには、午前二時を回っていた。そこでやっと夏休みが始まったという実感がわいてきた。

 夏休みが始まったからには何かしたい、と思った。しかし最近は学部の友人とはどうにもつき合いが悪かった。それが僕のせいなのか、友人側に問題があるのかはわからなかった。というわけで、何かするにしても僕一人ですることになる。

 鴨川デルタに行こう。北山通を自転車で走りながら、僕はそう考え、川端通で右折して南へ向かった。途中、ふと思い立って、川端通沿いのローソンに寄った。

 彼女は鴨川デルタにいるだろうか。まだ試験期間中だったりしたらデルタにいない可能性のほうが高い。そのときはそのときだ。初めて足を運んだとき、元々彼女は僕の中に存在しなかったのだ。いなくてもさほど問題はあるまい。僕は僕のしたいことをするだけだ。

 出町柳の駐輪場に自転車を停める。川端通側から鴨川デルタに降りる。飛び石にスマホの灯りが見えた。鴨川デルタ野郎は今日もまたそこにいる。僕は飛び石を渡らずに北へ向かい、一度河川敷から川端通へ上がって、出町橋から鴨川デルタへ向かった。

 いつもの場所に人影があった。今までこの深夜の鴨川デルタで、例の彼女以外の人間と会ったことはない。十中八九、あの人影は彼女だろう。

 彼女は僕の足音に気づいたようで、振り返って僕の姿を確認した。表情は見えなかったが、彼女はこれといった反応も示さず、また川へ向き合った。

 その反応に、いつもと違う何かを覚えた。

 僕はゆっくりと彼女に近づく。彼女の隣の席は空いていた。

「座っていい?」

「座れよ。勝手に」

 彼女の声にどこかとげがあるように感じた。

 彼女の隣に座る。いつもならこの段階で彼女が僕にビール缶を渡してくるのだが、今日の彼女は僕に何も渡してこなかった。

 よくよく見れば、彼女は缶も持っていなかったし、火のついた煙草も持っていない。

「なんで来なかったの」

 ――なぜ来なかったのか。この鴨川デルタに。

 たしかにここに足を運んだのは一週間以上ぶりである。試験があったからバイトの深夜シフトに入ることはなかった、ということを説明した。彼女は相槌すら打たなかった。

 暗いせいで彼女の表情はよくわからない。そもそも彼女はこちらを見ていない。

「ごめん」

 僕は謝った。

「なんで君が謝るんだよ」

 彼女は変わらない語気でそう言った。

 僕もまた、自分がどうして謝ったのかわからなかった。

「怒ってるのかな、って」

 ――怒ってるのかな、って? なぜそれを口にするんだ。どう見ても怒っているじゃないか。

「……ここ三日、ずっとここで君を待ってた」

 彼女はぽつりとそう言った。

「僕を?」

「それ以外にここで何するんだよ」

「一人酒盛りとか」

「酒なんて飲んでないよ、もう、しばらく」

「じゃあ何を」

「だから君を待ってたって言ってる」

「どうして」

 僕は問う。彼女は答えない。

 鴨川デルタに静寂が訪れる。虫の声も、鳥の声もない。あるのは鴨川――賀茂川、高野川がゆっくりと流れる音だけ。

 ときたま視界の隅で小さな灯りがちらちらと揺れる。鴨川デルタ野郎のスマホの画面だ。彼はあの場所で、スマホを使って何をしているのだろう。

「あいつがさ」

 沈黙を破ったのは彼女のほうだったが、元より僕から言葉を発するつもりはなかった。彼女は僕を待っていたのだ。だったら今度は僕が待つ番ではないか。

 しかし彼女はそれ以上言葉を紡がなかった。

 また静かな空気が鴨川デルタに流れる。

「……あたしの話なんて聞きたいか?」

 それは僕に言っているのかどうかわからないほど小さな声だったが、雑音がないおかげではっきりと聞き取れた。

「僕が聞きたいかどうかじゃなく、君が話したいかどうかじゃない?」

「聞いてくれよって言ったのはあたしのほうだからさ」

 少し声の調子が戻ってきた。

 彼女から最初に感じた怒りはあいつ――彼女の彼氏に対するものだと考えてよさそうだ。だが、もちろんしばらく顔を見せなかった僕へのいらつきもあったかもしれない。

「いや、あたしも人のことは言えないのはわかってるんだよ。ここでさ、こうやって君といる時点で、あたしは心のどこかであいつを裏切ってる――裏切り続けているんだ。でも――」

「でも?」

「あいつだってあたしじゃない女の子と遊びに行く。それを平気であたしに話す。あたしがそれに切れても『つき合いだからしょうがないだろ』って逆切れする。それなのに、あたしがどこかに遊びに行くと、男が混じる何かしらに行くと、ぶち切れるんだよ、自分のことは棚に上げといて」

 男としては、妙な独占欲が顕現する彼氏の気持ちもわからなくもなかった。だから僕は何も言わなかった。彼女の次の言葉を待った。

 彼女は石製のベンチをまたぐように座り直し、僕に向き合った。暗闇にすでに目が慣れており、彼女の顔がよく見えた。

「あいつがさ」

「うん」

「風俗行ったって」

「なんでまた」

「ボート部のコンパの三次会で先輩に誘われて仕方なく、って弁明してた」

「それを彼氏は君に話したんだ」

「どう思うよ」

 彼女の語気がまた少し強くなった。

「そりゃあ――」

「言うのがけじめだと思った? 言えば清算されるとでも? それなら黙っててくれたほうがよかったよ、知らないほうがよかった、あいつのことはもうずっと嫌いだったけど、あいつにここまで裏切られたと思ったことはなかった。だからこそ君とここで会うことにもある種の罪悪感があったんだ。それなのに」

 彼女の言葉が途切れるまで待った。「それなのに」以降続かなかったが、何か言いそうだったので、僕はまだ何も言わなかった。

 彼女は僕の肩に手を乗せてくる。そして僕の身体へ頭を預けてきた。僕はそれをはねのけなかった。

「……あたし、間違ってるか?」

 僕は少し間を空けてから、「ねえ」と彼女に声をかけた。

 彼女は顔を上げて僕を見る。

「花火やらない?」

「は?」

「花火だよ、花火。買ってきたんだ」

 僕は脇に置いていたコンビニの袋を彼女に見えるように掲げる。

「なんで?」

「いや、一番の理由は僕がやりたいからってのだけど。テストも終わったし、その記念に。だけど、何か楽しいことやったら君の気も晴れるかな、ってふと思っただけ」

 彼女は何も言わずに僕を見ている。

「……花火嫌いだった?」

「いや」

 彼女は首を振った。

 ライターを貸して、と言うと、彼女はポケットからライターを取り出して渡してきた。

 鴨川デルタの下段に降り、付属のろうそくに火をつけて地面に立てる。彼女はその様子をただ眺めている。

 最初の一本は彼女に譲ろうと思い、手持ち花火を彼女に渡した。

「花火って大人数でもっとわいわいやるもんだと思ってたけどな」

「そう? 僕は毎年一人でやるけど。こっちでじゃなくて、実家でだけどね」

「君、まさか、友達いないのか?」

「悪かったね」

 彼女はふっと噴き出した。ふふっと笑った。釣られて僕も笑ってしまった。

「あたしは友達じゃないのか?」

「君次第じゃないかな」

 彼女はそれを聞くと、僕の腕を引っ張り、僕の持つ手持ち花火と一緒に自分の花火に火をつけた。黄色と紫色の火花が噴き出した。ふたつの灯りが鴨川デルタを――僕と彼女を照らし出した。

「一緒に花火をやるってのに友達じゃないわけないだろ」

「そうなの?」

「そうだよ。あたしが言うんだから」

「じゃあ、君を笑顔にできたってのは友達冥利に尽きるね」

「あ?」

 ふっと花火が消え、鴨川デルタが暗闇に包まれる。足元の小さなろうそくの火だけがわずかに僕らを照らしている。

「僕は君の彼氏を叩けないよ」

 彼女は眉をひそめた。僕は彼女に二本目の花火を渡し、自分の分に火をつけた。再び彼女の顔がはっきりと見えるようになる。

「明日は我が身だからね」

「君も?」

「風俗じゃないよ。誰かと寝たわけでもない。でも後ろめたいことは経験がある……いや、別れた原因じゃないよ、この話、誰にも話したことないし。詳しく話す気もないけど」

 また花火の火が消えた。

「ってかさ、そういう彼氏彼女に関しては君のほうが経験豊富だろうから、僕から言えることなんて何もないに等しいんだけどさ。僕なんかが別れろよなんて言っても何も中身を伴ってないし」

 ろうそくにわずかに照らされた彼女の顔が見える。その表情は、僕の次の言葉を待っているように見えた。実際に待っていたのだろう。

「僕はつらいことから逃げることをよしとしない」

「……別れようとしているあたしを糾弾してるのか?」

「そんな。最後まで聞いてよ。血反吐を吐きながら受験を勝ち抜いた人間の戯れ言だとでも思って聞いてよ。つらいけれども成し遂げなければならないことから逃げちゃ駄目だってことだよ。逆に、その先に待ち受けるものが空虚でしかないと道中に気づいたなら、さっさと尻尾を巻いて逃げ出すべきなのさ。そこにいても何も得られないし、何も生まれないだろうから」

 僕は彼女に花火を渡した。

「……だからしばらくここに来なかったんだな」

「どういうこと?」

「単位からは逃げなかったんだろ」

「ああ、いや、そういう姿勢を見せとかないと多方面から怒られるからさ」

「そりゃあ、そうだな」

 彼女は声を上げて笑った。そして僕から受け取った花火に火をつける。僕もそれに続いて火をつけた。

「鴨川デルタはいいな」

 彼女は言う。僕がそれに頷くと、彼女は違うと言ったように首を振った。

「君は絶対に共感できないよ」

「なんで?」

「あたしがここに来てよかったって思うのは、君に会えたからだ」

 花火が消え、また暗くなる。日の出まではまだ時間がありそうだった。

 視界の端で何かが動く。そちらへ視線を移すと、ちょうど鴨川デルタ野郎が帰ろうとしているところだった。

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