3
「次に君に会うまでに、絶対に別れてやる」
ひとしきり愚痴を聞いたあと、彼女の口から飛び出した言葉は、以前も聞いたことのある台詞だった。
あれから再度、別れ話を切り出しはしたらしい。しかし今度はストレートにではなく、婉曲的に。すると彼氏に察されてしまったのか、また同じように泣かれたという話だった。どうしていいかわからず、いつものようにそのまま彼氏の部屋を飛び出して、いったん宝ヶ池の実家を介してからここに来たようだ。僕がバイトを上がってここに来たときに、すでに彼女はここに座っていた。
「別れる別れる詐欺ね」
「何だよ」
「久しぶりにそういうの見たからさ」
「詐欺じゃないわ。絶対に別れてやるから」
彼女はすでに二本目を空にしようとしていた。酔っている様子はない。さすがに缶ビール二本程度で酔うことはないようだ。
ずっと彼女の奢りだった。彼女曰く、話し相手になってもらっている報酬だということらしい。ホストか何かかよ、と言うと、君はホストには見えない、と返ってくる。それでも払おうとすると「あたしんち金持ちだから気にするな」と笑われる。
「――鴨川デルタ野郎」
会話が途切れたとき、僕はそう呟いた。
今日も飛び石のところに例の男はいた。
「急にどうした?」
「考えてみたんだよ、彼がここで何をしているのか。さっきバイトしてるときにさ」
「仕事しろよ」
「客少なかったからいいでしょ、別に。四六時中仕事のことなんて考えてられないし」
「ふむ。聞いてやろうじゃないか」
彼女は今日も火をつけていただけの煙草の火を消し、僕に向き合った。暗くても顔が近いことがわかる。耳を澄ませば彼女の呼吸の音も聞こえてきそうだった。
「君の彼氏説」
「はあ?」
彼女はあからさまに眉間にしわを寄せる。
「君を見守ってるんだよ、あそこで。こんな夜中に女の子一人だと危ないでしょ? だからさ」
「ストーカーじゃん」
「まあ、言いようによっちゃそうだけど」
「ないない。あたしも一度だけ近くで見たけど、いやたしかにあいつみたいに鴨川デルタ野郎は華奢だけど、でもあんなに髪は長くないね。部活のせいでほぼ坊主だから」
「ふうん。顔知らないからそうかもなあって思ったけど。明け方近くに帰るのは、明るくなったら別に女の子一人でも大丈夫だろうと踏んでるのかなあ、って」
「ってかここに来るならあたしのとこまで来いよ。なんであんな離れたところで見守ってんだよ。そういうところが嫌なんだよ」
「いや、鴨川デルタ野郎が彼氏じゃなかったらそう切れることないんじゃ――」
「どこでもあたしのヘイトを溜めることができるのがあいつなんだ。ほんとムカつく」
なんかごめんなさい、と僕は会ったこともない彼氏に向かって謝った。あずかり知らぬところでヘイトを溜められているとなったら、僕だったらたまったものじゃない。
「なあ、他には何かないのか?」
思っていたよりも彼女は食いついてきた。そんなに気になるのか、鴨川デルタ野郎。
「訊きに言ったりしないの? 直接」
「何言ってんだよ、人見知りのあたしがそんなことできるわけないじゃん」
じゃあなんで僕には話しかけたんだ。無害な人間にでも見えたのだろうか。同じにおいがしたとか。まあ、もはやどうでもいいことではある。
「そうだね、この鴨川で恋人を亡くした男とか」
「何それロマンチック」
「そう?」
「悲劇。引き裂かれた恋人……っていやいやいや、この鴨川でどうやって恋人を失うんだよ」
「そりゃあ、台風の日にこのデルタに立ってて、濁流に流されたとか」
「馬鹿なの?」
「そうしなきゃいけない理由でもあったんだよ、きっと。知らないけど」
「まだ若そうなのに壮絶な人生送ってるのな。そんなのと比べたらあたしの喧嘩なんてたぶんちっぽけなもんなんだろうよ。もっともあたしはあいつがここで死んでも、ここでああやって日々を過ごすことはないだろうけど」
「意外と死んじゃったら――ってかいなくなっちゃったら悲しいのかもよ」
「そんなことないね、絶対ない。だいたい、今のあたしはあいつを自分の生活から排除しようとしているわけだし」
「そういうもん?」
「そういうもん」
彼女は空き缶をコンビニ袋に放り込んだ。今日のつまみはファミマのうずら燻製だったが、とうの昔になくなっていた。
「あ、あたしも思いついた。ここで身投げして死のうとしてる。自殺志願者」
「水深浅すぎてこんな場所で死ねそうにないけど」
「さっき君がいったような状況が来るのを待ってんじゃない? 雨が降って濁流が起きて流されるとか」
「死ぬんだったら橋の上から飛び降りたほうが死ねそう」
「あー、ってかリスカみたいなもんじゃね。ほんとに死ぬ気はない的な。死ねたらいいなって思ってるかわいそうなやつ」
「うーん、なんか僕が言ったやつよりもそれっぽい気がする」
「……本当にそう思ってるか?」
「ごめん、実はそうでもない」
「何だよ」
彼女がひじで小突いてきた。
「もうなんか普通にホームレスか何かじゃないの。ここで夜を過ごしてるさ」
彼女はぶっきらぼうにそう言った。
「ホームレスってもっと大荷物で徘徊しているイメージがあるけど。それにいつもスマホ使ってるけど、スマホの使用料と電源はどうしてるの、って話」
「じゃあ何だ、あの鴨川デルタ野郎はあそこで理由もなく、ただ何もせずぼーっとしてるってこと? 一晩中?」
「それだったら僕も君も人のこと言えないよ。こうして会っているから楽しくお喋りしてるけど、会わなかったら僕はただここで缶コーヒー飲んでただけだし、君は君で一人で酒飲んで煙草ふかしてたわけだろ? 違いなんてあるのかな、鴨川デルタ野郎と」
「あたしはここで酒を飲むって明確な目的があってここに来てるんだ。あんなやつとは違うに決まってる」
「彼にも明確な目的があるかもしれないじゃないか」
「わからないうちはないのと一緒だ」
空がまだ濃い群青色のうちに、鴨川デルタ野郎は不意に立ち上がり、いつものように鴨川デルタから去っていった。
「僕は鴨川デルタ野郎?」
「あ?」
「男で、ここにふらっと来て、こうやって過ごしてる」
「君は君だろ。鴨川デルタ野郎はあいつ」
彼女は先ほどまで鴨川デルタ野郎が座っていた飛び石を顎で示した。もちろんそこには誰もいない。
そうだ、と彼女は立ち上がり、僕の手を取って無理矢理立たせた。
「遊ぼう」
「遊ぶ?」
「飛び石で遊んでみたかったんだよ、誰かと。一人じゃなくて」
「酔ってんの?」
「酔ってるように見えるか?」
キャンパスはずっと遠くなのでこっちに来ない。鴨川デルタに誰かと来ることはない。飛び石は一人で飛んでも何も楽しくない。
彼女はそんなことを一気にまくし立てた。
誰もいない鴨川デルタから、河川敷へ向かって彼女は飛び石をひょいひょいと飛んでいく。亀の形をした飛び石を踏みつけるときに「亀さんごめんなさい」などと口にしている。僕はその姿をデルタから眺めていた。
「――来なよ。こんなんじゃあたし一人だけが馬鹿みたいだろ」
彼女が薄暗い中でもはっきりとわかるほどに笑い、僕へ向かって手を差し伸べてきた。
僕は彼女へ向かって飛び石を一つ飛び越える。
今この瞬間、おそらくこの鴨川デルタは、完全に僕と彼女だけのものだった。
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