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バイトのシフトはだいたい週三か週四で入っている。そして体感で八割は深夜、締めのシフトで入っている。バイトに向かうとき、「今日のシフトの社員さんは店長であってくれるな」などと願いながら自転車をこぐのだが、店の駐輪場に店長のバイクが停まっているのを見ると、心底うんざりする。心底うんざりして、やる気が完全に失せる。
今日も停まっていた。自分でもはっきりとわかるほどに肩を落とした。
苦痛な四時間を乗り切り、そしてこの世界でもっとも無駄なオーバータイムを嫌々ながら乗り切った。バイクで走り去る店長の背中に向かって、妄想の中でマシンガンをぶっ放し蜂の巣にしてやった。
時刻はとうの昔に午前二時を過ぎている。
ふと脳裏に鴨川デルタがよぎった。
――彼女は今日も来ているだろうか?
今度は歩かずに、自転車に飛び乗り、北山通を走り抜けた。川端通も一気に下った。
鴨川デルタ。二度目の訪問だ。
出町柳の駐輪場に自転車を止め、河川敷へと下りる。飛び石にまた黒い影があった。この前見た人物と同一人物かどうかはわからなかった。
その飛び石の彼を除けばあいかわらず人気はなく、灯りもなかったが、前回の訪問と一つだけ相違点があった。
僕がそこに着いたとき、彼女はすでにそこに座っていた。火のついた煙草を手に、ただぼうっとしていた。煙草を口にする様子はなかった。
「バイト終わり?」
薄暗く、顔の判断も難しいであろうに、彼女はすぐに僕を僕と判断したようだった。バイトの話は前回会ったときに――初対面のときに軽く話していた。
「うん」
「お疲れ。ここ空いてるよ」
彼女はさも当たり前のように自分の隣を示した。彼女がこちらを見て、目が合うのを確認してから、僕は彼女の隣に座った。彼女は煙草をすでに空いていた缶ビールに押しつけて火を消した。
「なんでまた来たの?」
「来てほしくなかった?」
「いや、実を言うと待ってた。また来ないかなってさ。君が来るってなったら待たせちゃ悪いと思って、君のバイトが終わるくらいの時間からここで待機してた。だからビールぬるいわ。しかももう一本飲んじゃった。ごめん」
彼女はそう言いながら、僕に缶ビールを渡してきた。触った感じはたしかにぬるかった。僕も彼女もさっと開け、軽く乾杯して一口飲んだ。
「別に無理しなくていいのに」
「あたしが飲みたいんだよ。来たからにはつき合ってくれよ。一人より二人のほうがいいって気づいちまったからさ」
「来なかったらどうしてたの? あれだよ、僕のバイトと、君の喧嘩が被らない可能性だってあるじゃないか。それにバイトがあったって僕がここに来るとは限らないし」
それは僕にも言えることだが、彼女と出会わなかったら出会わなかったで、ここでまた缶コーヒーでも何でも飲んで、それから部屋に帰って寝ていただけだ。
「そのときはそのとき。今日は運がよかった。そういうこと」
「つまり?」
「来なかったら泣いてたね」
彼女はふふんと笑う。
「君が泣き虫だったらギャップがあっていいと思うよ」
僕がそう言うと、「実際よく泣くよ?」と返ってきた。
「あいつのほうが泣くけど」
「彼氏のほうが?」
「そう。一回さ、先月かな。別れよう、って言ったんだ。もう無理、って。そしたらあいつどうしたと思う? 泣くの。別れたくないって。それで、結局あたしが折れて、別れなかった」
「いい彼女じゃん。この場合そう言っていいのかわからないけど」
「それ、どういうこと?」
「僕は泣き落としに失敗してね」
「何それ。面白い」
「絶対に別れようって強い意志があればいいんじゃないかな」
「あるんだけどなあ。ほら、最初の三ヶ月とかだとさ、もうラブラブなわけじゃん? この人と結婚したら……みたいな妄想もするだろ? それがずっと続くといいんだけど、もうあたしにはそんな妄想力ないわ。別れることしか考えてない」
「それなのに泣き落としにやられた、と」
「あー」
彼女は首を振り、空いた手で頭をかいた。かきむしった。
「なんていうか、あいつの泣き方は卑怯っていうか。ここであたしが捨てたらこいつ死ぬんじゃないか、って思わせるような泣き方をするんだよ。ああ、もううざい。ほんとうざい」
「いい人なんだよ、君が」
「いい人? 人がいいの間違いだよ。ああ、なんであたしあんなやつとつき合ってんだろ」
その問いかけは僕に、というより自分へ語りかけるようなものだった。だから僕は何も答えなかった。というよりも、答えられなかったというほうが正しいだろう。
「どうすれば別れられると思う?」
「それ、僕に訊く?」
「じゃあどういう風に彼氏に言えば別れられると思う?」
「いや、どういう風に言ってもそれじゃあ無理だろうね。君が絶対に折れないってことが一番重要だと思う」
「無理だって?」
「君の彼氏が君のことを好きなうちは」
「あんなこと言うのにか?」
「あんなこと言うのに、だよ。泣き落としかけてきたんでしょ? じゃあそうだよ、たぶん。同じ男として言うなら、だけど。何なら試しにもう一度別れを切り出してみなよ。それでまた泣いたらまだ君のことを好きなんだと思うよ」
「うーん、単純だけどそれがまた難しいんだよなあ」
「本当に別れたいんだったら心を鬼にするんだね。男の僕が言うのもなんだけど」
「君はまだ前の彼女のことが好きだったりする?」
「どうだろ、引きずってはいるけど。僕は泣き落としが失敗した側の人間だからね、正直君の彼氏がうらやましいと思わなくもない。ってか自分から振ってたらどうなんだろうね、それは経験ないからわからないわ」
「つき合うきっかけは君? それとも彼女のほう?」
「がんがん来るね」
「参考にしたいんだよ」
「今までつき合ってきた人の数は君のほうが圧倒的に多そうじゃないか」
「こんなに別れるのにてこずったことは今までないんだよ。年上はなんていうか、物わかりがいいっつうか、後腐れないっつうか。基本的にあたしから別れようって言ったらたいてい二つ返事で別れられてた」
「ふうん。別にたぶん普通だと思うよ。何回かデートして、そしたら祇園祭に一緒に行こうって誘われたから『えっ、だったら普通につき合わない?』みたいな感じで」
「それ向こうも狙ってたんじゃん。え? ってかそれ、実質彼女のほうからじゃん。それなのに冷めたって向こうから振ってきたの? ウケる」
「ウケるって」
「いや、そういうやつけっこう知ってるってか友だちにいたりするけど。自分からつき合おうって言ったくせにやっぱごめん無理って自分から振るやつ。男も悪いね、そういうやつだってのが見抜けないっての」
「あ、僕も悪いのね。いや、わかるけど」
「そうだよ」
「じゃあ君も最初からつき合わなきゃよかったんじゃない? 彼氏がそういう男なら」
「それは……そうなんだよなあ。うわあ」
「自然消滅は? って無理か、同じゼミなら」
「そうそう。さすがに清算しとかないといけないっしょ」
ふと視界の端で黒い影が動いた。飛び石の男が立ち上がったのだ。辺りはまだ暗い。日の出までまだまだ時間はある。飛び石の男はこの前と同じように、デルタを横切り、賀茂川側の飛び石を渡り、同志社大学の方角へと消えていった。
「――今日は早いな」
彼女のほうへ視線を移すと、どうやら彼女もあの飛び石の男を目で追っていたらしく、顔は同志社大学のほうを向いていた。
「今日は早い? やっぱりいつもいるの? いや、前ここに来たときも見たけどさ」
「ああ、いつもいる。どれだけ早くあたしがここに来てもいる。だいたい明け方までいることが多いけど、日の出までには絶対に帰る。あたしがここに来てあいつを見なかった日はないね。でもあいつに関してわかっていることは、男だってことだけ」
「男ってことはわかってるんだ」
「いつもは出町橋のほうから降りるんだけどさ。一度近づいたってか飛び石からこっちに来たことがあるんだ。男だった。ってか女がこの時間に、あんな場所に一人でいるなんて危なすぎるだろ、変なやつに襲われたりしたらどうするんだ」
「それもまたブーメランだよ。君も女の子じゃないか」
「まあ、そうだけど」
「僕が変なやつだったらどうするのさ」
「うーん、でも君は変なやつじゃなかったからなあ。いや、結果論だけど」
うんうんと彼女は大きく頷く。考えているように見えて、何も考えていないようだった。
「――でさ、あたしはあいつのことを鴨川デルタ野郎って呼んでる」
「鴨川……何て?」
「鴨川デルタ野郎。鴨川デルタに出没するやつ」
「デルタ野郎?」
「わかりやすいっしょ?」
「うん、わかりやすいけど。デルタ野郎って小説なかったっけ? 読んだことないけどさ、そこから取ってたり?」
「あ? 小説? 知らないな。あたし、小説読まない、ってか読めないんだよ。あんなに長々と文章を。教科書読むのがやっとだ」
「あ、そういうタイプの人なのね」
「何だよ、馬鹿にしてるのか?」
「いや、そういうわけじゃなく」
「小説だけじゃなくて漫画も無理なんだよ。漫画はもっと無理かもしれない。文字と一緒に絵も見なきゃいけないだろう? あたしの脳の処理能力の限界を超えてる。あ、でも絵本は好きだ。文章短いし、絵は単純だし、それでいて深い」
「絵本だって?」
「馬鹿にすんなって言ってんだろ」
「いや、一度たりとも馬鹿になんてしてない、ってかそんなこと思ってない。絵本が好き、いいじゃん。正直に言うと見た目に似合わずとかは思ったけど」
「馬鹿にしてんじゃん」
「いや馬鹿にしてないって。ギャップが発生してむしろいいってことだよ。こんな場所で煙草ふかしながら酒盛りしている美人さんが絵本が好きっていうの」
「なんだよそれ」
彼女は口を尖らせた。しかしその表情も言い方も、まんざらでもなさそうだった。
「僕が一番好きなのは『これはのみのぴこ』かな」
「のみのぴこ? ウケるな、それ」
「そんなに?」
「いや、いいチョイス。面白いし、あたし持ってるよ、実家にある。うーん、そうだなあ。あたしが好きなのは『しろいうさぎとくろいうさぎ』かな」
「愛の物語じゃん」
「そうだよ、愛の物語だよ。ああいう告白されたらあたしは簡単に堕ちる自信がある」
「胸を張って言うことかな」
「胸を張って言うことだよ。あんなドストレートに感情ぶつけられるやつなんて中々いないと思う」
「今の彼氏はストレートに気持ちをぶつけてくるやつじゃなくて?」
「いや……それはそれ、これはこれ……」
「泣くのはまあ、そうだよね」
「そういうのじゃないんだよ。もっとさ、泣き落としとかじゃなくて、ロマンチックな感じのやつ」
「わかるけどね。ネガティブなものじゃなくてポジティブな気持ちの表現がいいってことでしょ?」
「そう、それ。あれ? 何の話してたっけ?」
「デルタ野郎」
「いや違うよ。鴨川デルタ野郎だ」
「男ってことしかわからないってことは、知り合いじゃないんだよね」
「何してるのかとか全然知らない。あそこでずっと座ってて、たまにちらほらスマホの光が見える」
「何してんだろうね」
「知るかよ。あたしと一緒で酒でも飲んでんじゃないの?」
「僕が横切ったときは何もしてなかったよ。こっちを見もしなかったし」
「ふうん」
彼女はさほど興味がなさそうに言い、すでに空になっている缶を逆さにして最後の一滴まで飲み干そうとした。
空は白み始めている。彼女の姿がはっきりと見えるようになる。
「ん? 何か顔についてる?」
「いや、別に」
彼女は缶を握り潰し、コンビニの袋に突っ込んだ。
「次に君に会うまでに、絶対に別れてやる」
彼女は決意するように言った。どうやら僕にはまだ彼女に会う機会があるらしかった。
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