鴨川デルタ野郎 Kamogawa Delta Actors
江戸川雷兎
1
京都は左京区――あるいは上京区、今出川通の賀茂大橋から北側を向いて鴨川を見下ろすと、高野川と賀茂川の合流点である三角州が視界に飛び込んでくる。
その三角州は鴨川デルタと呼ばれている。
京都で青春と言えばこの場所らしい。そう言われるのは、鴨川を挟んで東に京都大学、西に同志社大学がそびえ立っており、その中間点であるこの三角州は学生の憩いの場としての側面が大きいためではないか。しかし詳しくは知らない。
というのも、僕は今まで見下ろしはすれど、足を踏み入れたことはなかったからだ。一浪して念願の京都大学文学部に入学し、二年目になるというのに、ただの一度も。興味がなかったわけではないが、あまりにも近すぎると逆に足を運ぶ気も失せるというか。下宿先から歩いて銀閣寺に行けるのに足を運ばないのとおおよそ同じ理由だ。所属している水泳サークルのアフアフ――活動後のアフターのさらにあとに行われるアフター――で鴨川デルタで飲んだりしているようだが、どうにもサークルのメンバーと馬が合わず、すでに幽霊会員になっているので、そういう機会もなかった。
鴨川デルタに行くチャンスを自ら捨てているような形だった。
そんな感じだったのに、鴨川デルタに足を運んでみようと思い立ったのは、バイト上がり、バイト先から外に出たときだった。思ったら行動に移す。自分で言うのも何だが、そういうしょうもない行動力だけはあるのだ。
僕は北山通にある書店でアルバイトをしている。基本的に深夜勤、閉店の午前一時までのシフトに入っている。閉店後、レジを閉めて、業務を終えて、タイムカードを押す。それで終わればいい。だがそのあと店長に捕まってしまうと、これがまた厄介で、したくもないゲームの話や漫画の話で無駄な時間を拘束されてしまう。気がつけば午前二時。ひどいときには午前三時を回ることもある。しかし店長だから無下にもできず、嫌だという表情を一切出さずにつき合わなければならない。僕は社会を学んでいる。
今日もまた解放されたのは午前二時を過ぎてからだった。店長が趣味の悪いネイキッド・バイクにまたがって走り去るのを眺めてから、「そうだ鴨川デルタに行こう」と思ったのだ。それ以上に理由なんてなかった。
夏の京都の夜は暑い――というより、じめっとしていて不快だ。七月になり、今年の梅雨明けは七月初旬と早く、雨が降らず晴天の日が続いていた。今日はいつもに比べると湿気を感じず、どちらかと言えば過ごしやすかった。
自転車に乗れば一瞬で目的地まで辿り着くことができる。しかしこれまた理由もなく、僕は自転車を押しながらゆっくりと歩いた。北山通を東へ。川端通で右折し、今度は南へ。北大路通を通り過ぎ、御陰通を通過し、今出川通へ。
京阪電車出町柳駅に辿り着いたのは午前三時半頃だった。鴨川沿いの駐輪場に自転車を停め、川端今出川のファミリーマートで缶コーヒーを買った。
川端通沿いから鴨川河川敷へ降りる階段を見つけ、そこから降りた。鴨川河川敷にちゃんと降りたのは、おそらくだが昨年の鴨川納涼祭以来だと思う。普段は川端通を自転車で爆走するから、わざわざ鴨川河川敷へ降りることはないのだ。
川が静かに流れる音が聞こえるばかりだった。それ以外はときたま川端通あるいは今出川通を走る自動車のエンジン音が耳に入るくらいだ。
鴨川デルタへ行くには、もう少し北の出町橋から降りるか、河川敷から飛び石を飛んでいくか、の二通りの方法がある。
鴨川デルタと言えば、飛び石のイメージがあった。
僕は暗闇の中、飛び石へ向けて飛んだ。想像していたよりも飛び石同士の間隔が開いていた。
二つめの飛び石に飛び乗ったあとに、飛び石に人影があることに気づいた。黒い服を着ていて、暗闇に紛れていたので、最初それが人であると気づかなかった。スマートフォンの光が急に目の前に現れたせいで「そこに人がいる」ということを認識したのだ。
女性には見えなかった。おそらく男性だと思う。彼も僕の気配に気づいてはいるのだろうが、こちらへ顔を向けることはなかった。はっきりと見えているわけではないが、ここは自分だけの場所、自分だけの時間だとその背は主張しているようだった。
彼――おそらく彼――を尻目に、飛び石を渡り切った。
鴨川デルタは二段で構成されており、川に近しい下段、森のある上段とにわかれている。今なら鴨川デルタをほぼ独り占めできそうだったが、飛び石に陣取る謎の人物とはなるべく離れたい、などという気持ちも起こり、僕は階段を昇って上段へ向かった。
初めて鴨川デルタに足を踏み入れるので、いったいここに何があるのかまったくわからない。大学生が何かしら馬鹿騒ぎをする場所という偏見的イメージしかなく、せっかく足を運んでみたはいいものの、ここで僕は何をすればいいのかわからなかった。
ふと、この場所から日の出を見ることができるかもしれない、と思った。東を見れば山が見える。京都で東に見える山と言えば大文字山だ。日の出はあちらの方角から。
階段を昇ってすぐの場所に石製の椅子――ベンチ?――がある。二人がけ。通常のベンチの三分の二ほどの大きさだろうか。二人で座ると必然的に距離が近くなるサイズ感。真ん中で色がわかれている。僕はそこへ腰かけた。荷物は自分の隣に置いた。
ファミマで買った缶コーヒーを開け、一口。
飛び石ではちらちらとスマートフォンの光が見える。彼はあそこで何をしているのだろうか。この鴨川デルタには、彼以外に誰もいない。たった一人で川を眺めたり、スマホを眺めたりしている――ようだ。
出町柳の灯りを眺めながらちびちびと缶コーヒーを飲んだが、缶が空になったときに腕時計が僕に示していた時間は午前四時だった。
まだ午前四時なのか。日の出まであと一時間ほどある。
さて、何をしよう。いや、何かしなきゃいけないわけではない。川の流れる音だけを聴きながら、静かに時間を過ごすのも悪くない。僕を邪魔するものは今のところいないのだ。
まだ七月なので、もちろん大学はある。授業もある。むしろ前期の試験前だから大事な時期だ。しかし授業に出るよりも、ここでこうやって過ごすほうが有意義に思えるのは、僕が京都大学という空気に脳髄まで犯されてしまったからだろうか。昔はもっと真面目な人間だったはずなのに。
鼻を鳴らす。笑わずにはいられない。
目を瞑って深呼吸する。不思議と眠くなかった。眠くはなかったが、部屋に戻ってシャワーを浴びて寝間着に着替えるとすぐに眠くなるのだろう。もう一度深呼吸をし、背伸びをしようとしたとき、ふと頭上から声が降ってきた。
「お兄さんお兄さん、ちょいと」
女性の声だった。僕は目を開け、声のしたほうを向いた。
「そこさ、あたしの席なんだけど」
「えっすみません」
僕は慌てて立ち上がった。まだ薄暗いのではっきりと顔は見えないが、身体のラインで女性だということはわかった。
謝りながら立ったはいいが、周囲を見回しても僕とその彼女以外に誰もいなかった。
石のベンチはここだけじゃなく、いくつも存在するはずなのに。どうしてここへ?
「別に立たなくていいよ。座ってたんでしょ? あたしが座る場所を空けてくれよ。いつもそこに座ってんだ」
「えっと」
僕は慌てて椅子に置いていた鞄を手に取る。彼女は僕が座っていたところに腰を下ろし、そして僕を見上げた。
「お兄さん、背高いね。ってかなんで立ってんの? 座りなよ」
「どこに、です?」
「ここに決まってんじゃん」
彼女は自分の座っている場所の隣――石の色の変わった部分をぽんぽんと叩いて僕にアピールした。
「あたしの席に座ってたんだから何かの縁でしょ。物事には何だって理由があるって話聞かない? だからあたしにつき合ってよ」
「つき合う?」
「酒盛り」
彼女は手に持っていたコンビニだかスーパーだかの袋から何かの缶を取り出した。
「いや? いやだったらいいや。引きとめてごめん」
「いや、唐突過ぎて何が何だか」
「あー、逆ナンとか思っとけばいいんだよ。え、彼女いる?」
何だこの女。
「……いたらここに一人でいないかな」
「何だそれ」
彼女は僕の腕を取り、強引に隣に座らせた。
「お兄さんっつってるけど、え、いくつ? 年下?」
ぐいぐい来るな、この女。
「大学二回」
「年下じゃん。あたし三回。二十一。同志社。ここにいるってことは同志社?」
「いや京大。それに浪人してるからたぶん同いだよ。誕生日まだだから二十歳だけど」
「京大! ヒュー、頭いいんだ。そりゃ浪人するわな。あたしは高校からエスカレーターだから何も苦労してないわ」
彼女は僕に何かしらの缶を無理矢理渡してきた。目を凝らして確認すると、渡されたのはスーパードライだとわかった。
「先客を追い出すなんてことはしないよ。あたし、よく怖がられるけどそこまで鬼じゃないつもりなんだが、見た目そんなに怖いか? ってか一人で酒飲むのに飽きてたんだ。ん? プレモル派だったか?」
「いや、アサヒ派だけど」
「ならよかった。あたしもスーパードライが好き」
彼女は袋から自分の分の缶ビールを取り出し、プルタブを起こした。プシュッといい音が聞こえた。
「かんぱ――って開けてないのかよ。開けろよ。あたしの奢りだから遠慮するな」
出会ってまだほんのわずかしか経っていないのにこの馴れ馴れしさ。これが同志社の大学生か、と思った。口には出さなかった。
自分でこういうことをするのは無理だが、人に合わせることは苦手ではない。僕は素直に缶ビールを開けて掲げた。
「はいかんぱーい」
アルミとアルミが軽くぶつかる――と思った次の瞬間には彼女は缶を思いっきり傾けてぐぐっと音を立てながら勢いよく飲んでいた。それを見て僕も一口飲んだ。麦臭いビールの味とともに、缶ビール特有の金属臭さが口の中に広がった。
「いつもここでこんなことを?」
僕はそう尋ねた。
「まあ、こんなことできるのなんて学生のうちだけだからなあ。働き始めたらこんな時間にこんな場所でこんなことできないだろうし」
彼女の答えは僕の質問の答えになっていなかった。しかし彼女は、そんなやりとりなんて知ったことかといった感じで、「今日のつまみー」と言いながらポリ袋からお菓子の袋と思しきものを取り出した。
「オニオンチップスでしたー。食べるっしょ?」
「さすがにつまみなしで缶ビールは飲めないよね」
「おっ、いいねその遠慮のなさ。あたしそういうの好き」
彼女はそれを普通に開け、僕と彼女の間に置いた。
思っていたより彼女との距離は近かった。
「君さ、いつもここにいるの? 初めて見たけど」
「いや、実は初めて来た」
「マジかよ。あたしが君の鴨川デルタ童貞を奪っちゃったのか」
「いや、奪ったのは君じゃなくて鴨川デルタじゃね」
「いいんだよあたしが奪ったってことで。奢ってやってんだから文句言うな」
彼女はそう言い、缶を地面に置いてポケットを探った。何をやっているのだろう、と横目に眺めていたら、何やら小さなケースを取り出した。ああ煙草か、と僕は頷いた。彼女は火をつけると、僕が見ていることに気づいたようで、「喫う?」と差し出してきた。
「煙草は喫わない」
僕は断った。
「あたしも喫ってないよ。ふかしてるだけ」
「ふかしてるだけ?」
「そ。なんかかっこいいじゃん、煙草喫う女って。煙草を喫う女って設定なんだ――この鴨川デルタでは」
「一人なのに?」
「ここにやってきた人に見られたときに『この人かっけえ』って思ってもらうために、だよ……ってひょっとしてダサい?」
「別に煙草自体は否定しないよ」
「ダサいかどうかって聞いてんの」
「似合ってたら別に。暗いからよくわからないけど」
「そっか」
彼女は煙草を口から離し、地面に置いていた缶を手に取って最後まで飲み干した。終わり、と思ったら空き缶を地面に置き直し、さらにもう一本取り出した。
「なんかいつもいるみたいな口ぶりだったけど、どれくらい前からここに?」
「去年の終わりくらいからかな。そこのファミマでおでん買って、ここでぬるいビールを飲みながら食べたのが最初」
「去年の終わりって……寒くない?」
「彼氏んちよりよっぽど暖かいわ」
別に何かを期待していたわけではないが、あ、彼氏いるのね、と内心頷いた。というより、同志社生だから当たり前か、と勝手な偏見が頭をよぎった。
「じゃあ今の時期だと彼氏の家のほうが涼しいんじゃないの? 夏だしクーラーくらいついてるでしょ」
「涼しいとかじゃなくてあんな息苦しいところにいられるかよ。ってかそうだ、せっかくだし聞いてくれよ、あたしの話」
「君の話を?」
「男の意見っつうか、部外者の意見が聞きたいんだよ。どうにもゼミには彼氏の味方が多いから、こういう話できないんだ。他に男友達いればいいんだけど、高校があいにく女子高だったからね」
「彼氏はゼミの人?」
「おう。ってか彼氏の部屋から逃げてきてここにいるからな、いつも。もち今日も」
「喧嘩でもしたの?」
「喧嘩っつうか、あいつが悪いっつうか」
「そんな逃げ出すような感じで、彼氏は追いかけてこないの?」
「くるかよ、あんな腰抜け。あいつが京田辺からあたしを追いかけてここまで来てくれるようなやつなら、もっと上手く彼氏彼女やってるっつうの」
京田辺ということは、彼女は――学部はわからないが――理系で、彼氏も理系ということだ。
「まさかここまで歩いて、とかじゃないよね? 自転車?」
「電車だよ、さすがに。いや、実家は宝ヶ池なんだけど、そこからはチャリだ。一度家に帰ってからここに来ようと思ったら寝ちゃっててさ。さっき起きてそれからここに来たんだよ。そしたら君がここに――ってそんな話じゃなくて。聞いてくれって言ってるでしょ」
「聞いてるよ。どうぞ」
「はいどうも。いやね、彼氏、ボート部なんだけど――ってか前提から話すか。さっきも言ったように実家が宝ヶ池なんだけど、毎日毎日そこから京田辺に通うのって面倒っしょ? だからさ、彼氏の家に週四とか週五で泊まるんだよ」
「半同棲ってやつね」
「七割同棲くらいかね」
「いつからつき合ってるの?」
「去年の九月とか?」
ということは、つき合い始めてから三ヶ月ほどで彼女はここに逃げてきたことになる。
「楽しいのは最初の三ヶ月だけ、ってやつか」
「そう、それ。逆に三ヶ月乗り切ればまあ一年は続くんじゃないの、ってあたしの統計が言ってる。君もそうでしょ?」
「残念ながら前カノは八ヶ月」
「続いてないじゃん。間違ってんじゃんあたし」
彼女はハハッと声を上げて笑った。それから「敗因は?」と尋ねてきた。
「知らないよ。彼女のほうから『なんか冷めたから別れて』っていきなり言ってきたのさ。もう半年以上前だけど」
「あー、それもうその時点ですでに次の彼氏いたね。残念ながら」
「風の噂じゃあ先月年下の彼氏ができたって聞いた」
「風の噂って、狭い世間を生きてるねえ」
「所詮大学という閉鎖空間だからね」
「ま、ゼミでつき合ってるあたしが言うことでもないけど。何の話だったっけ。そうそう三ヶ月だ三ヶ月。つき合ってくれって言ってきたのはあいつだよ。ゼミのコンパの席で猛アプローチしてきてさ。それで二人で遊ぶようになって。で、何回か遊ぶうちにつき合ってくれ、って。あたし、押しに弱いんだよなあ、そこでオーケーしちゃってさ」
「最初の三ヶ月は楽しい」
「そ。でもあたし、今までの人――前までの彼氏って二ヶ月続いたことすらなくてさ、年上ばっか。同いの彼氏は初めてで、そうだね、楽しかったっちゃあ楽しかったよ。いや楽しかったんだよ。同棲ごっこみたいなこともしてさあ。でもなんかさ、だんだん嫌なところが見えてきたっていうか」
「喧嘩が増えた、と」
「喧嘩っても今日のは些細なことだよ。ボート部の練習が遅くなるって連絡が来て、何か揚げ物が食べたいって連絡も来て、じゃあ唐揚げでも作っとくかー、って」
「家庭的だね」
「あ? 馬鹿にしてるのか?」
「いや、そんなまさか。いい彼女だと思うよ。僕もそんな彼女が欲しい」
「なんだそれ」
「前カノは料理とか一切できなくてさ。部屋に来たときとかは僕が作ってたから」
「え、作ってくれてたのかよ。そんなんならあたしもそういう彼氏が欲しい、美味しいご飯を作ってくれる」
「いや、うん。で、唐揚げ作ってどうしたのさ」
「んー、ボート部の部練から帰ってくる頃合いを見計らって作ったんだよ。でさ、ちょうど揚げ上がって、ご飯の準備をしてたら帰ってきて。あいつにご飯できてるよー的な感じのことを言ったら、疲れてるからいらんとか言いやがるの。あたしもキレたよ、お前が食べたいっつったんだろ、って。そしたらあいつ、食べたいとは言ったけど作れとは言ってない、とか言ってジャージのままベッドに飛び乗ってそのまま寝やがったのさ。な、ムカつくっしょ?」
「君の話で判断するなら、悪いのは彼氏だと思うけど」
「でしょ? やっぱあいつが悪いよな? それでムカついて、あいつに一発蹴り入れてから部屋飛び出してきたんだよ。全然終電まで時間あったから、もう昨日の話だな」
こういうことは基本的に自分のほうが正しいように語るものなので、彼女の話がはっきりと事実を示しているのかどうかはわからない。少なくとも彼女の話を聞く限りでは、彼氏の対応のほうが間違っているように思えた。
「ほら。『揚げ物食べたいな』って書いてあるだろ?」
彼女がそう言って見せてきたのはスマートフォンの画面――LINEのトーク画面だった。彼氏の名前は『あつしくん』と言うようだ。彼女の『晩ご飯どうする?』という問いかけに『揚げ物食べたいな』とハートマークつきで返事が来ている。そのあとに何かを懇願するようなゆるいパンダのスタンプ。物証を見せられては彼氏のほうを擁護できなくなった。
「擁護できないね」と実際に口にした。
「男の目線で見てもやっぱおかしいよな。な? ああよかった。こういう意見を聞きたかったんだよ」
「普通に友人とかには愚痴らないの?」
「彼氏も疲れてんだよ、みたいな返事が返ってくるのがオチ」
「まあ疲れてるんだろうけど、実際に君が言ったようなことを言ってるんなら、さすがに彼氏のほうが悪いと思う」
彼女は缶をぐっと傾け、二本目ももはや空けようとしている。僕もちびちびと飲んでいるつもりだったが、もう三分の一も残っていなかった。
いつの間にか空が白み始めている。飛び石にいた影が立ち上がったかと思うと、ひょいひょいと飛び石を飛んで西側、賀茂川のほうへ、同志社大学のほうへと渡った。そしてそのまま河川敷から上へと上がり、どこかへと消えていった。
「授業は? ないの?」
彼女がそう尋ねてきた。彼女のほうへ視線をやると、オニオンチップスのカスを口に注ぎ込んでいるところだった。
「あるよ」
こちらを見た彼女と目が合った。身体のラインがわかるノースリーブにデニムスキニー姿。茶髪のワンレングスヘアで、切れ長の目を持つ女性だということを知った。
「こんなとこでこんな時間までこんなことしてていいの?」
彼女は口角を上げてそう言う。
「大きなブーメランを放ったね」
「誰もいないから投げたところで危なくないっしょ。ここ鴨川デルタは自由の場所だから」
「僕に当たるよ。実際当たったよ。そのあと君にもね」
「あたしは授業に出たくないの。同じゼミだし、出たらあいつと顔を合わせなきゃいけないから。いや、どっちにしろ単位のために出なきゃいけないんだけどさ」
「謝罪のLINEはないの?」
「寝てるんだろうよ」
「仲直りは?」
「さあ。気分かな」
「そもそもどれくらいの頻度でここに?」
「最近は少なくても三日に一回はここでこうやってだらだらしてるかなあ」
「それこそ授業は大丈夫なの、って話じゃないの」
「授業が一番楽しいことだったら授業に行くよ。でも一番楽しいことはここでこうやって一人酒を飲むことだった。ついさっきまでは」
「だった?」
「お酒はやっぱ一人で飲むもんじゃないってことだよ」
彼女はふっと微笑んだ。
だいぶ明るくなってきて、車も多くなってきた。空を見上げると、トンビが飛び始めていた。鳴き声も聞こえてきた。そういえば鴨川と言えばトンビの話をよく聞くな、と思った。
「煙草」
僕はふとその言葉を口にしていた。
「煙草? やっぱ喫う?」
彼女は眉をひそめて僕を見る。
「煙草似合うよ、君なら」
「えっ、そう?」
「君みたいな顔の美人さんなら、煙草が映える」
「なんだよそれ。褒めても何も出ないぞ」
彼女はふんと鼻を鳴らした。
「缶ビールくらいしか出ないぞ」
「それで十分」と僕は頷いた。
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