時何処旅行

みーら

老人

 旅を始めて数ヵ月、ついに怪我をした。北方の港町、テーヴェでのことだった。盗人に襲われたなどではない。テーヴェは治安もよく、そういう輩はいなかった。怪我の理由は、馬車の車輪に飛ばされて地面に勢いよく落ちたからだった。しかし、運と当たりどころがよかったのだろう、足を骨折したこと以外は大した怪我もなかった。大人しくしておけば二ヶ月か三ヶ月で町を出られる予定だった。しかし医者に、今後どういうことがあるか分からない、旅人らしいが一旦やめた方がいい、と言われたので、半年ほど入院することになった。

 入院する病院は特に広くもない古いところだった。ただ病室は広かった。患者は私のほかに老人が一人いた。七十くらいの男だった。

 私はこの時代に来てまだ3日しか経っていなかった。年号などは分かるが、文化などはてんで分からない。半年とは充分な長期滞在だ。この前の時代の滞在時間は一週間ほどだった。それでも一番長かった。しかし、今回は半年もいるのだ。文化などは分からなければ。柔和そうな感じだったら話そうかと思っていたが、老人はしかめっ面で前を見たまま動かなかった。鎧のようだった。

 私は鞄の中から前の時代に購入した小説を取り出した。シュガー・ドルツの「春の悲恋」という題名だった。千ページもある。

 前の時代の古本屋で購入した本だった。店主の娘が薦めてくれた本でもある。一日に細々と読んでいたが、あまりに分厚すぎて読む気が失せていた。

 このシュガー・ドルツという小説家は、ストーリーは面白くないものの、文章が読みやすかった。たまに書かれる評論もまたよかった。共感する部分がたくさんある。

 午前午後に一度ずつ検診がある。老人は震える足で、私は松葉杖なしでは歩けぬ足で、院長のもとまで向かう。この病院には院長以外の医者がいなかった。だから院長室へ向かうしかない。院長室まで遠いものだから、毎日大変だった。何せ松葉杖なんて歩きにくいこと。何故馬車に気づかずに大通りへ出てしまったのか、自分の油断を悔やむしかなかった。

 ある日、検診から帰ってくると、老人が私がベッドの上に置いていた本を勝手に手にとって読んでいた。

「あれ」

 私がそう言うと、老人の顔がほんの少し揺らいだ気がした。

「それは私の本なんですが」

「いや、知っているよ」

「興味、あるんですか?」

 すると老人は唇を少し歪ませて一言、「まあ」と言った。

「名前は知らないが。昔は小説を書いていたものだから」

「作家ですか」

「そんな大層なもんじゃない。自分に文才があると勝手に思い込んでいた阿呆だよ。将来はレオナルド・ベルデみたいになれると思っていたがね。志だけだよ、大きかったものは」

 レオナルド・ベルデという名前は聞いたことはないが、それは私が無知なだけで、恐らく、この時代では有名な作家なのだろう。

「作家を諦めても自分勝手にしてね。今では妻にも離縁され、息子夫婦にも病院に追い出された哀れな老人だよ」

 老人はそう言って、シュガー・ドルツの本を私に返した。


 それから後も老人はしかめっ面をしたまま私と会話しようとしなかった。私も本を早く読みたかったから、口をあまり開かなかった。言葉を発する機会は日に一度の検診だけだった。

 しかし永久に読み終えられないのではないかと思っていた本もついに最後のページが来てしまった。読み始めて数ヵ月が経っていた。

 最後のページを読み終えて本を閉じた時、老人がふいに尋ねてきた。

「どうだった?」

「どうって?」

「本の感想だよ」

「ああ・・・そうですね・・・流れるような感じがずっと続いていましたね。最後はなかなかよかったですよ」

 そう言うと、老人は頬を緩ませて、満足そうに頷いた。


 次の日の朝、目覚めると、老人の残り香だけがベッドの上を漂っていた。

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時何処旅行 みーら @kotarooooo

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