世界の色彩における変化について

ゆうき

出会い

恋をしてやろうと思った。それはもう突然に。

小春空の下、近所の公園に設置された青いベンチに座りながら私は一人唇を噛みしめた。

隣のベンチに座っている恋人たちの甘い会話を聞きながら。

今朝かかってきた”彼氏が家に来たから今日は遊べない”という身勝手な友人の電話を思い出しながら。

昨夜見た恋愛ドラマの”主人公が不治の病に倒れた恋人に献身的な愛を注ぐ”という内容を反芻させながら。


ふと、眼を閉じてみる。


きっと恋をしたらすごく素敵な毎日が送れるんだろうな。

誰かが確か、こんな風に歌っていた。”君といるだけで世界が色を変えるのだ”と。

それって本当なのだろうか?

だとしたらぜひ体験してみる価値があると思う。

17年間日々繰り返してきたこの平凡な生活を、劇的に変化させることができるというのならば。


そう、ただ”恋”をするだけで。


私はバッと顔を上げると、周囲の様子を観察し始めた。

遊具に群がる数多の子供たち、その傍で談笑する主婦の群れ。

手にホウキとちりとりを握り、公衆便所の清掃に勤しむ細身の中年男性。

鳩にパン屑を与えながら、優しい顔で互いに微笑んでいる老夫婦。


誰か、誰かいないだろうか?

この気持ちの矛先を向けられる都合のいい相手が。

出来ることなら、少しばかり顔が整っていて、同じ年ごろの長身痩躯な男の人がいい。

”初恋の相手”となるのだから、出来るだけ不足の無い方が嬉しいに決まってる――――。


そう思いながら頬杖をつき、暫くの間私はじっと公園の入口を睨んでいた。

けれどもこの晴れやかな休日に、たった一人で公園に入ってくる若い男性などそういるはずもなく。

大抵は暇を持て余した老人か、彼女の手を引きながら顔を緩ませて、幸せ絶頂とでも言いたげな男共ばかり。

いや、勿論。一人で公園に入ってきた男の人も数人いたんだけど。


でも何だかピンと来なかった。

じっとその人たちの姿を目で追いながら胸に手をあてて”ときめけ!ときめけ!”と繰り返し唱えていたのだけれども、私の心臓は残念ながら普段通りの規則正しい心拍数を維持し続けていた。


気がつくといつの間にか空は赤みを帯び、子供たちは家路へと向かい始めている。

本日6組目となるカップルが公園を去っていくのを見届けた後、私はハァと長いため息をついたのだった。


やっぱりこの方法じゃ駄目だったのかな…

こんな人間ウォッチングみたいなことやってても、”恋”なんて出来ないのかも。

だったらどうしたらいいの?


頭を捻って考えてみたものの、生まれてこの方”恋”とやらを一度も体験したことがない私には他に良い代替案の検討もつかなかった。


本当に自分が情けない。

恋の一つも出来やしないなんて…。

友達も兄弟も道行く人たちも皆きっと、自然に経験していることのはずなのに。

そういや、こんな言葉を以前聞いたことがある。


”恋”なんてしようと思ってするものじゃない、知らない間におちているものなんだって


昨日見た――――ドラマの主人公が。


そしたら「私も気づいたら貴方のことばかり考えていたの。」って答えてたっけ。

その相手役の女優さんが。

成程、それが本当だとしたらやはり私が今試みているこの”突発的一目惚れ大作戦”は間違っているのかもしれない。

ふんふんと一人頷きながら、私は一人納得する。

しかしすぐに眉を顰めて首を傾げた。


けれども数日前に、こんな台詞を聞いた記憶がある。

「あんたの場合は”恋”をしようって気持ちがないだけなのよ」って

常に恋の噂が絶えない女友達から

そしたら「確かにさ、恋愛なんて所詮気持ち一つで出来るもんだと思うよ。」って同意してた。

周囲のクラスメイト達が。


だとしたら一体どうすればいいってことになるのだろう?

しようと思ってするものじゃない。

でも気持ちが足りないままだと、自然とおちることすらできない。

そんな不可解な話があって、いいものだろうか?

否―――――いいはずがない。難しすぎる。


たかが ”恋”

されど ”恋”


やっぱりそれは未熟者の私にはまだまだ出来そうにない代物なのかもしれないな、と私は半日を終えた時点で諦めモード全開となってしまった。

それでも未練がましく、こうも思いつつ。

でも、見てみたかったのにな。

世界が色を変えるという瞬間を、ぜひこの目で。

そして、最後に大きなため息を吐いて半日中座っていたベンチからもおさらばしようと、大きく口を開きかけたその時。


ハァという大きなため息が聞こえた。すぐ真横から。


驚いて横を向いてみて、私は初めて気づいたのだ。

いつの間にか、すぐ隣に一人の男性が腰を下ろしていたことに。

その人はひどく物憂げな顔で、手に持った紙コップを凝視しながら、微動だにしていない。

それまで全くその存在に気づいていなかった私は瞬間、とても驚いてしまった。

思わず両手に持っていた紙コップを地面に落としてしまうほど。

カランと空しい音ともにそれは地面に転がり、まだ少しだけ中に残っていたコーヒーがゆっくりと足もとに広がる。


「ぎゃっ」


小さな悲鳴を上げながら、両足の位置をずらした後

私は地面を見つめると、さっきし損ねた大きなため息を口から吐いたのだった。


ふと、視線を感じた。

そっと横を見てみると、隣に座っていたその男の人が少しだけ苦笑を浮かべながら私を見ていた。

同情と憐れみに満ちた表情で。

そして、その手に持っていた紙コップをこちらに差し出して、彼は口を開いた。

「良かったらこれ、あげるよ」

不覚にもその言葉に、意地汚い私は顔を輝かせてしまった。

なんと嬉しいお言葉!と思ったものの、まだ温かい湯気が漂っている紙コップを確認すると

私はさすがに躊躇った。


「いいんです。私のコーヒー、もう冷めて飲めなかったから」

「でも、君さえ良かったらこれ、貰ってほしい」


そう言って彼はもう一度大きなため息を吐くと「買ってはみたものの、全然飲む気がしないんだ」と呟く。

そう言われたら断る理由がない。

私は一言お礼を言うと、彼の手から紙コップを受け取った。

その時少しだけ愛想の好さそうな笑みが彼の顔に浮かぶ。

しかし、すぐにまたひどく物憂げな表情で前に向きなおってしまった。

さっきの大きなため息といい、この沈みきった様子といい、何やらこの人はひどく思い悩んでいるようである。


就活中の大学生だろうか?

真新しいスーツに身を包む、きちんとした黒髪短髪姿を見ながら、私はそう感じた。

まだまだ社会人と呼ぶには若々しすぎる。

けれども普段周りにいる男の子たちとは明らかに違う、落ち付いた大人の雰囲気が感じられた。

長身痩躯。

割と整った顔だち。

さっき見せてくれた笑顔は、確かに少し魅力的だった。

ハッと思い、私はすぐに胸に手を当ててみる。


けれどもその結果は、今日一日繰り返し行っていたものと何一つ変わらなかった。

心拍数正常。

ときめき、ナシ。

やっぱり”恋”とはそんな単純に出来るものではなかったらしい。


今日一日を棒に振ってしまったなぁと思い、私はがっくりと頭を垂れた。

せめて何か一つ、この春休み最後の一日を象徴してくれる出来事がほしい。だってこのままじゃ、あまりにもつまらない休日になってしまう。そこで私はとりあえず、隣に座っている物憂げな彼に話しかけてみる事にした。

純粋に、彼の溜息の理由を知りたかったのである。


「何かお悩みなんですか?」


彼は私の問いかけに少し驚いたように顔を上げる。そして、こちらに向き直ると弱弱しく微笑んだ。


「顔に出てた、かな?」

「ええ、とても。この世の終わりのような表情をしていますよ」

「そんなに大した悩みじゃないんだけどね。本当に小さ過ぎて、人にも言えないぐらいに」

「じゃぁ、私なんかで良かったらお聞きしましょうか?」


そう言ってニッコリ微笑んだ後、私は手に持ったコーヒーを啜りながら続けた。

「先ほどの、お礼をさせて下さい」

その言葉にもう一度、彼は愛想良く微笑んでくれたのであった。


「―――――明日、初出勤なんだ。それで、もうすでに緊張している」


ぼそりとそう呟くと彼は私の顔を見て苦笑いを浮かべた。


「ごめん。期待はずれ、だよね?」

「いえ、全然。だから安心して続けてください」


私は素直にそう答えた。

人の悩みの大きさなんてその人自身にしかわかるはずがないのだ。

私が恋の方法について頭を抱えることに、貴重な休日を費やしてしまったことだって、他人から見たら相当馬鹿げた行為に違いないのだから。


だから出来れば、彼の悩みについてもっと詳しい話を聞きたいと思った。


「ずっと、憧れてた仕事なんだ。それこそ子供の頃からずっと」

ふっと表情を緩めると彼は何かを思い出すかのように一人微笑んだ。

「やっと夢が叶ったって思ってたんだ。ついこないだまで、すごく浮かれてもいた。心配事なんて何一つなかった。なのに、何でかな」


再び物憂げな表情で彼は、さっきより硬くて苦い笑みを浮かべながら続けた。


「職場近くのアパートに引っ越して、仕事に必要なもの揃えていくうちにさ、どんどんその気持ちが冷めていくんだよ。夢が現実に近づいていく程、ね。想像の中にしか存在しなかったものが急に具体的な色を帯び始めて迫って来た。それが、無性に空しくてそれでいて怖くて仕方なくなった。今日、その職場に挨拶に行って来たんだけど、これがもう決定的だったんだ」


私がずずっとコーヒーを啜る音を挟んだ後、彼はぼそりと呟いた。


「もう全然、嬉しいと思える余裕がなくなった。明日のことを考えるだけで震えが止まらない」


カァと一声遠くで烏が鳴いたのが聞こえた。

そう。

気づけば日はほとんど沈み、辺りはすっかり静まり返っていたのだ。

私はもう一度コーヒーを啜り直した後、向かいに座る彼の顔をじっと見て言った。


「大丈夫ですよ」


何の根拠もない無責任な慰めの言葉に聞こえたかもしれない。

でも口にする事に不思議と躊躇いがなかった。本当に、そう思ったから。


「だって夢が叶うかどうかは、これから次第じゃないですか。怖いのも、緊張するのも当然です」

「これから?」

「そうです。想像が現実通りになるのかが、わからないから怖いんです。夢が夢のまま現実と共存し始めたから不安なんです」


薄闇の中、彼の眼がじっと私を捉えた。

いつの間にか私たちは互いに少しだけ腰を屈めて、眉を顰めたまま向かい合っていた。


「貴方は明日から、夢を叶えに行くんです。その震えは、きっと武者震いに違いありません」


私はカップの底に残ったコーヒーを一気に飲み干した後、ニッコリと微笑んだ。

そして人差し指を立てて、もう一度彼に断言したのだった。


「だから、貴方は大丈夫です」


そう言いきったものの、表情を変えず何も言葉を発しない彼の顔を見ているうちに

次第に私は不安になり、顔を伏せた。

言い過ぎた、かもしれない…こんな年上の男の人を相手に。

所詮は17年しか生きていない小娘の戯言だ。もしかして不快な気持ちにさせてしまったかもしれない。

嗚呼―――――本当に私って、何て未熟者なんだろう。


「―――――そうか、そうだよな。まだ叶ってなんかないよな」


すぐ横で聞こえたその言葉に私は顔を上げた。

すると真横に座る彼は、初めて歯を見せて笑いながら、少し俯いてくくくと笑い声まであげていた。

そして上目づかいで私の顔を見ると、今日一番の笑顔を見せてこう言ってくれたのだった。


「有難う。おかげで何か、開けたって気がする、本当に」

「私の言葉……ちゃんと120円分の価値になってくれたでしょうか?」

「120円?」

「この、コーヒー代です。あっ!でも……」


「もしかしたら150円だったかもしれない」と小さく呟きながら私は空っぽの紙コップを見た。するともう一度、隣で笑い声が聞こえたのだった。「君は―――――何だか面白い人だなぁ」という呟きと共に。




***



「こんな暗くなるまで付き合わせて……本当に悪かったね」

「いいんです。おかげで”つまらない一日”で終わらずに済みましたから」

「…つまらない一日?」

「実は私も……今日一日悩んでいたんです。本当に、つまらないことで」

「人に言えないほど?」

「はい」

「よし。じゃぁ――――今度は俺が君の悩みを聞こう」


彼はニッコリほほ笑んで言った。

自分より明らかに大人で経験豊富、余裕のある微笑み。

きっと恋愛のご経験も豊富であるに違いない。

そう言ってもらえるならぜひアドバイスを、と思い私は至って真面目な顔で彼にこう尋ねた。


「――――恋をすると世界が色を変えるというのは本当ですか?」

「え?」


私も問いに、ひどく面を食らった顔をして彼は驚きの声をあげてしまった。

やはり言い方が悪かったかな…と私は反省すると補足説明をすぐに加えることにする。


「お恥ずかしい話なんですが私……これまで”恋”というものをした試しがないんです。生まれてこの方、たった一度も。だから今日一日試行錯誤してたんです。どうしたら”恋”が出来るのかって。けれど結局、わからないままで終わってしまったし……これからも到底出来る気もしなくて。でも―――」

「でも?」

「”恋”によって世界が色を変えるなんて、本当だったらすごく素敵だなって」


そう思う、本当に心から。私が”恋”する方法に半日を費やした理由は、ただそれだけだ。

ぱっと横を向くと、何故だろう?再び彼は物憂げな表情を浮かべていた。

そして申し訳なさそうな表情で私を見た。


「残念だけど……俺も世界が色を変えたとこなんて見たことないよ」

「え!?それは……」

「いや、勿論恋人がいたことも何度かあったし、それなりに恋愛と呼べるものはしてきたけどね。でも君が思っているような劇的な変化が起こったことは正直一度もない、かな」

「そう、ですか」

「でもそれは、俺が本当に夢中になれるような恋を経験していないから、かもしれない」


彼は肩を竦めて苦笑する。そして私の顔を見て言った。


「君が今まで恋をしていないんなら、これから先に素敵な恋が待ってるのかも。

それこそ世界が変わっちゃうような、大恋愛がさ」

「私に、そんなことが有り得るでしょうか?」

「君は十分可愛いし、魅力的な人だから。大丈夫、だよ」


例えお世辞だとしても嬉しいな、と素直に思った。

それに、すごくいい考え方を教えてもらえた。未来に待つ大恋愛、なんてドラマチックな響きだろうと思う。

私はそこで足を止めた。公園から歩きだして10分。この小道を右に曲がればもう家に到着である。

少し名残り惜しい気持ちを胸に、私は彼と向かい合うと、ペコリと会釈した。


「送って下さって有難うございました。あと―――素敵なお言葉も」

「君の言葉の方が数倍素敵だったけどね。こちらこそ、本当に有難う」

「お仕事、頑張ってください。私、明日祈ってます。きっと上手くいくようにって」


「では」ともう一度頭を下げると私は家の方へと歩きだした。

すっかり暗くなってしまい、夕飯の時間に間に合わないかもしれないと思いながら。

そういや、春休みの宿題……まだ残ってなかった?だとしたら、今からやっても間に合うかどうか……。


「あのさっ!」


後ろから聞こえた声に振りかえる。

さっきまで隣にいたスーツ姿の彼が、口に手を当てて叫んでいた。


「君、あの公園によく来るの?」

「よくって程でもないですけど……空いてる時間を潰しに散歩に出ることは多いです」

「わかった」


そして、彼はやはり魅力的といえる笑みを浮かべて手を振ると、最後に短くこう言ってくれたのだった。

「だったら……じゃぁ、また」と。


家に帰ってお風呂に入り寝床についた私は、少しだけ後悔してしまった。

あの時、別れる前に名前ぐらい聞けば良かったと。

やっぱり私にはイマイチ恋に対する意気込みというものが足りないのだろうな、と一人反省する。

それから少しだけ、数時間前に見たあの笑顔を思い出しながら、私はその晩眠りについたのだった。





私は祈っていた。ただひたすらに。

そして同時に驚いてもいた。言葉では到底言い表せないぐらいに。

今から丁度、15分程前ここに来てからずっとだ。


周りの雑音が何一つ耳に入ってこない。

心臓が飛び出してしまうのではないか、というほど心拍数が上昇している。

手にはビッショリと汗をかき、足まで震えだしていた。

緊張、しているのだろうか?


私が彼の代わりに―――――。


私はただ一点だけを見据えていた。

体育館の壇上に姿を現したその人の手にマイクが渡り、彼が口を開くその瞬間を。


「今日からこの学校に勤めることになりました。滝川好です。よろしくお願いします」


しっかりと落ち着いた、それでいて明瞭な挨拶。

少しだけ余裕を持っているかのようにも見える魅力的な微笑み。

絶対好印象間違いなしの完璧なスタートだ。


私は一人安堵の吐息をつくと、体育館の天井を見上げた。

いつもよりライトの光が眩しく色鮮やかに感じて、視界が刹那クラリと歪んだ気が、した。

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世界の色彩における変化について ゆうき @moto1818

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