エディ
ゆうき
エディ
降りしきる雨の音で私は目が覚めた。
その途端、まるでバケツをひっくり返した様な激しく勢いづいた雨音が私の耳を支配した。
薄暗い闇の中に視線を暫く泳がしていた私は、この部屋唯一の小窓に焦点を合わせると蒲団から飛び起きた。
エディが、落ちてしまう。
小窓の外側で、雨に打たれた鳥かごは左右に大きな弧を描きながら今にも落下しそうな状態だった。
その中には小さく震えながら雨風に耐えている小さな鳥が一匹。
いつもならちゃんと中に入れてあげてたのに、如何して今日に限って忘れてしまったのだろう?
激しい後悔に苛まれながら窓を開けた瞬間に、冷たい雨水が私の上半身を濡らした。
久しぶりに感じた雨の匂いに戸惑いながら、私は鳥かごを掴む。
暴風に舞い上げられた髪が一気に私の顔面を蔽い隠す。
それでも必死に両腕を伸ばして鳥かごを抱え終わると、私はほっと息を吐いた。
「ごめんね。寒かったでしょう?」
そう鳥かごに囁いた自分の声は、すぐに轟音にかき消されてしまった。
全身を冷たく濡らしたエディを私はそっとタオルで包む。
それから優しく胸に抱えると、私は目を伏せた。
――――エディは私の唯一無二の友達だ。
彼女は私が寂しい時いつも傍にいてくれる。
そっと掌に乗せて頬ずりしてやれば、可愛らしい声を聞かせてくれる。
綺麗なコバルトブルーの色をしたその体を眺めれば、私はいつも時間が経つ事を忘れてしまう。
それなのに今、私の手の中でエディは震えていた。
冷たくなったその体を温めてやる事しか出来ないなんて…全部私のせいなのに。
エディが死んでしまったら、明日から私は本当に一人ぼっちになってしまう。
水分を含みきった私の髪からポタポタと水滴が床に落ちた。
私の眼から流れた涙も、それらとゆっくり混合しながら私の頬をただ濡らしてゆくばかりだった。
これは、エディを自分の為に利用していた私への罰なのかもしれない。ぼんやりとそんな事を思いながら、私はそっと目を瞑った。
*
初めて彼を見かけたのは、丁度一年前の春だった。
その朝、窓から射す朝日の美しさに心惹かれた私は、久々に外の景色に目を向けた。
一面に広がる青空と新緑の鮮やかな若葉色が、重く沈んだ私の心を一気に軽くする。
「エディ、貴方にも見せてあげる」
私はエディの小さな頭を撫でた後、籠の中に彼女を入れるとそっと窓を開けた。
温かい春の日差しに目を細めながら、私は鳥かごを吊るすと外の景色にゆっくり目を向ける。
正面に位置する並木道に植えられたハナミズキの美しさに目を奪われて、思わず微笑んだ私はふと誰かの視線を感じた。
不思議に思いながら私は視線を下にずらす。
すると並木道沿いに設置された真正面のベンチに、一人の青年が座っているのが目に入った。
彼の足もとには1匹のゴールデンレトリバーが悠然と腰を下ろしている。
どうやら散歩の休憩中の様だ。
不思議なのは彼が頬杖をつきじっと前を見たまま微動だにしないという事だった。
その視線が真っ直ぐこちらの方に向いている気がして、私は一瞬戸惑った。
その時、ピィっとエディが普段よりも一際大きな声で鳴いた。
突然声をあげたエディに驚いて少し目を丸くした後、私はもう一度ベンチに座る青年を盗み見た。
彼は柔和な笑みを浮かべて確かにこちらを見ていた。
―――――――そうか、彼はエディを見ていたんだ。
彼のその表情に自分の体温が一気に上昇するのを感じながら、私は部屋の中に引っ込むと窓を思いっきり閉めた。
その翌朝、私はいつもより早く目覚めるとじっと窓辺に座って外に目を凝らしていた。闇が薄れて朝日が昇り、ちらほらと人影が見え始め、私の鼓動がどんどんと高まってゆく。
その時、並木道の左端から一匹のゴールデンレトリバーがやって来るのが見えた。
赤い手綱を引きながらその横を歩く彼の姿を見つけて、私は思わず顔を緩ませると傍らに置いてあった鳥かごを掴んだ。
いつもならこの時間、部屋で自由に飛び回っているエディは籠に閉じ込められて不満そうだ。
その頭をちょいちょいと優しく撫でて「ごめんね。」と謝った後、私は小窓を思いっきり開いた。
春の匂いと暖かい風を感じながら鳥かごを外に吊るすと、私はチラリとベンチの方を見た。
彼は昨日と同じようにそこに座っていた。頬杖をつきながら、じっとこちらを向いて。
密かに頬を赤らめながら踵を返すと、すぐに部屋の中に戻った。
自分の心臓はこんなにも大きな音をたてれたんだ、と小さく驚きながら私は息を吐く。
そして、その場にペタンとしゃがみ込んだのだった。
それから天気の良い日には毎朝、エディの入った鳥かごを外に吊るすのが私の日課になった。
同じ時刻に散歩に来る彼の姿を、窓越しに確認しながら―――。
籠の中にいる時間が長くなってしまったエディには本当に申し訳なかった。
けれど、彼女がいなければきっと彼はこちらを向いてはくれない筈だ。
私はエディを見ながら微笑んでいる筈の彼を、いつも横目で見る事しか出来なかった。
それからすぐに部屋に戻ってしまい、小さなため息をつく。
そして目を閉じては、初めて彼を見た時のあの笑顔を反芻するのだ。
それはどうやら世間一般に”恋”と呼ばれる現象らしかった。
しかもその中でも”一目ぼれ”といわれる、幾分軽薄な響きのする類のものらしい。
だとしても別に構わない。
何しろこれが私の初恋だったのだから。
それは、部屋の中で憂鬱に一人過ごしてきた私の生活に差し込んだ一筋の光のようだった。
この恋を実らせようなんてこれっぽっちも思わない。
私はただ彼の姿を毎日見てるだけでいい。
*
幸運な事に、その日一日中続けたエディへの介護が功を奏した。
彼女は次第に体温を取り戻し、私の手の中で小さな羽を動かし始めた。
それでもエディが心配で堪らない私は、眠りにつくことも忘れて一晩中ずっと彼女を見守っていた。
――――――――見ているだけでいい、そう思っていた筈だったのに。
いつからなんだろう、毎日彼の姿を見る度に胸が痛むようになったのは。
彼の声を聞いてみたいと願う様になったのは。
この部屋から飛び出す勇気が持てない自分に苛立ちを覚えたのは。
私はエディになりたかった。
そして、その鮮やかなコバルトブルーの羽を羽ばたかせて彼の元に舞い降りる。
何も知らない彼はきっと私に頬ずりをしてくれるだろう。
そしたら彼の耳元で可愛らしい声で鳴いてあげられるのに。
そんな馬鹿なことを夢見るだけの毎日を送るようになったのは。
ピィと小さくエディが鳴いた。
いつもと変わらない元気な泣き声を聞き私はようやく安堵すると、そっと彼女を鳥かごに戻してやった。
「エディ、有難う」
エディを失ってしまうかもしれない。
そう思った時初めて、私は今までどれだけ彼女の存在に依存していたか気づかされたのだ。
私の小さな小さな世界に存在するのはずっとエディだけだった。
そして私は今までずっとその事を逃げ道にしていた。
私はどうやら過ちを犯し始めていたらしい。
初恋の主体は、いつの間にか私ではなくエディになっていたのだ。
それはもはや私の恋と呼べるのだろうか?
朝日が部屋に差し込み、私は目を細めた。
そっと窓に近づいて外を見ると、いつもの様に彼がベンチに腰かけたのが見えた。
私はそれを確認するといつもの様にエディの入った鳥かごを左手に持って窓を開いた。
鳥かごを吊るそうと上を見れば、雨上がり特有の快晴が一面に広がっている。
そっと春の風が私の髪を撫でた。
その時、ピィっと小さくエディが鳴いた。
その声が私の背中を押す。
エディがいてくれさえすれば、他に失うものなんて私には無いのだから。
何も怖がる必要など、ない。
私は腕を下ろして小さく深呼吸した後、視線を下にずらした。
初めてしっかりと彼と目を合わす事が出来た。
頬杖をつきながらこちらを見ていたその目が、少しだけ見開いたのがわかった。
私は自分の顔が火照っているのに気づかないふりをしながら、その目を必死で見続けた。
何が言いたいかもわからないのに。
それなのに私は口をパクパクさせながら、一生懸命声を絞っていた。
「―――――――――あのっ」
やっと私の口から出た声は、ひどく細くて今にも消えてしまいそうなものだった。
しかし驚いた事に、しっかりと彼の耳に届いたらしい。
彼は驚いた顔をして腰を上げると、じっとこちらを見上げたまま近づいてきた。
予想外の展開に戸惑う私のに、彼は口に手をあてながら問いかけてきた。
「今、話しかけてくれたよね?」
せっかく聞けた彼の声が認識出来ないほど緊張した私は、ひたすらコクコクと頷くと窓の桟に手を掛けてしゃがみ込んでしまった。
「待って!」
そう叫んだ彼の声に少しだけ頭を覗かしながら下を向くと、彼はほっとした表情を浮かべながらこう言った。
「ずっと気になってたんだ―――――――――名前教えてもらってもいいかな?」
「エディ」
「え?」
「この子の名前は、エディっていうの」
私は視線を彼からエディに移した。
バタバタと羽根をばたつかせてこちらを見ている彼女の姿は、まるで私を応援してくれている様だ。
そう思うと自然に緊張がほぐれて、私は自然と微笑んだ。
本当に私はエディに助けられてばかりなのだ。
「――――――――やっと見れた」
彼の呟きが聞こえた気がして視線を下げると、そこには1年前に私の心を奪ったあの柔和な笑みを浮かべている彼の姿があった。
その瞳が真っ直ぐ私に向いている気がして、少し戸惑いながら瞬きを繰り返していると、彼はさっきよりも大きな声で叫んだ。
「ごめん!もう一度言い直すよ」
そして少し苦笑いを浮かべながら、確かに私に向ってこう言ったのだ。
「ずっと気になってたんだ――――――――君の名前を教えてもらってもいいかな?」
その声と共に、ピィというエディの鳴き声が早朝の春の空に響いたのだった。
エディ ゆうき @moto1818
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